こんな町で育ちたかった

The Truman Show (© Paramount Pictures 1998)

『トゥルーマン・ショー』の世界に入ったみたいだ。

訪れた人の多くがそんな感想を残す町がある。フロリダ州セレブレーションだ。

ディズニーが作った町。ウォルト・ディズニーのヴィジョンが詰まった町。12月にはホワイト・クリスマスが訪れる。降るのは人工雪だ。

フロリダ州オーランドのディズニー・ワールドリゾートから車ですぐのところにある人口7,000人余りの町。まるで、映画のセットのような風景が続き、ゆったりとしたコミュニティに子どもたちの声が響く。今のアメリカの都市では考えられない光景だ。ネット上には色々紹介記事があるので参照してほしい(例えば、ここここここ)。

ウォルト・ディズニーは1960年代、実験的な街の建設を念頭に置いてフロリダで土地を買い漁っていた。彼の死後、彼のヴィジョン(EPCOT, Experimental Prototype Community of Tomorrow)を現実化しようとする試みがはじまった。セレブレーションの建設は、1990年代初頭からウォルト・ディズニー社が入念に研究と調査を重ね、1996年から開発が始まった。この計画を推進した当時のディズニーCEO、マイケル・アイスナーはこんなことを言っている。「過去においてコミュニティを強くしたもの、そして今日の我々が学んだベスト・プラクティス、それに未来へ向かって、素晴らしいコミュニティのヴィジョンと希望をかけ合わせたものが、この町だ。[1]」ディズニーのチームは全米各地の20以上の都市や町を研究し、家の様式についてフォーカス・グループを呼んでアンケートをとった。ピッツバーグのUDA建築事務所が家のスタイルを6種類に絞り込み、ニューヨークのロバート・A・M・スターン建築事務所とクーパー・ロバートソン&パートナーズが都市計画を担当。チャールストン(サウス・カロライナ州)、サヴァンナ(ジョージア州)、イースト・ハンプトン(ニューヨーク州)などの「アメリカの小さな町」を参考にした[2]。

もともと、人口比率も人種・エスニシティを考慮して「多様性」をもたせたものにするつもりだった。しかし、2000年には人口の88%、2020年には91%が白人という結果になった。売り出したときには、土地付き家屋の価格は13万ドルから110万ドルまで、周辺地域から比べると極めて割高な価格だったが[2]、それは今も変わらない。住民は、コミュニティが細かく決めたルールを守る。それがあるから、この町はいつも清潔で、美しく、会う人々は礼儀正しく、安全で、平和なのだ。

ディズニー社は2004年にこの町の所有権の大部分を管理会社に売却している。

 

Celebration, Florida (Google Earth)

 

このセレブレーションと言う町は「ディズニーが作った町」というキャッチフレーズとは別の側面を持っている。1980年代からアメリカで急速にモーメンタムを獲得し始めた<ニュー・アーバニズム>の成果としての側面だ。ニュー・アーバニズムとは、第二次世界大戦後のアメリカ国民の生活空間が、<郊外の無軌道な拡大/スプロール化>とともに様々な問題を抱えるようになったことへの危機感から生まれた新しい都市開発の哲学とその実践を指す。地域コミュニティは多様性に富んだ機能や住民構成から成っており、移動手段は自動車のみならず、歩行者にも配慮され、公共の空間や施設が町の空間を形作る ─── 都市空間は、地域の歴史や気候、エコロジー、建築慣習などを尊重した建築・空間設計に基づくべきだ、という思想である[3]。この活動の中心にいたアンドレス・デュアーニー、エリザベス・プレッタ=ジーベックらが開発し、ニュー・アーバニズムの最初の成功例となったのが、やはり同じフロリダ州にあるシーサイドという町である。

ニュー・アーバニズムは、郊外開発が進む前のアメリカの小さな町をコミュニティ設計の下敷きとしている。大きな通りをはさんで様々な商業施設が立ち並ぶ中心、様々なスタイル、設計の住居群、子どもたちが安全に遊べる場所、日用品が揃う店、それらすべてが歩いていける距離にあり、迷ってもすぐに特徴的で見覚えのある風景に戻っていける、そういった<古き良き町>を理想としているのだ。フィリップ・ラングトンはイリノイ州のオーク・パークという町を観察して、車ではなく、人を念頭において町を設計することの重要性を説いた。シーサイドを計画する前に、デュアーニーとジーベックはフロリダの小さな町を数多く訪れて、この地方に最適な町の設計を考察している。そうして生まれた町は、創造性に富み、住民の生活の質を変えるものとして注目を浴びた。

しかし、皮肉なことに、多くの人にとってシーサイドという町は『トゥルーマン・ショー』のロケ地として有名なのである。

 

Seaside, Florida (Google Earth)

 

原案では、映画のロケーション撮影はマンハッタンの予定だった。しかし、監督のピーター・ウィアーは、フロリダ州の町を訪ね歩いてロケーション撮影に理想的な場所を探しまわっていた。このメキシコ湾に面した町を彼に紹介したのは彼の妻だった[4]。

シーサイドという町の成り立ちを考えると、『トゥルーマン・ショー』に登場するシーヘイヴンの町は、厳密な意味では<郊外>ではなく、むしろ<反郊外>と位置づける必要がある[5]。だが、その<反郊外>なるものを考える前に、まず<郊外>の成り立ちを探る必要があるだろう。

アメリカの郊外は、第二次世界大戦後の高速道路の急速な発達とベビーブーマーの誕生・成長が要因となって、急速に拡大する。それまで都市部に集中していた人口が、一気に周辺地域に拡散した。周辺地域とは、都市部にある職場に高速道路を使って自動車通勤が可能であり、かつ購入可能な一軒家が豊富に供給される場所である。多くの場合、デベロッパーが高速道路のジャンクションを起点に広い土地を開発し、グリッド状に広がる街路を均質的な低コスト住宅で埋めていった。だが、郊外発展のもう一つの重要な要因として有色人種の都市部への流入があった。例えば、ボストンのある地域では、1960年において、人口の99.9%を白人が占めていたが、その後、黒人の流入が続き、1970年には黒人が48%、1976年には85%を占めるまでになった[6]。1940年から1970年のあいだに400万人の黒人が南部を離れて北部、または西部の都市に移動、都市における黒人の人口比率が4%から16%に増加している[7]。これは戦後20年間にわたって、南部で産業の機械化が進んだことが引き金となっている。

有色人種が都市部の生活圏に流入してきたことを嫌った白人が、外縁に逃げ出して新しい生活圏を創造した。それが郊外である。そして白人のベビーブーマーたちの多くが郊外で育った。

1970年代に入ると、このベビーブーマーたちが同じ郊外で家庭を持つようになる。つまり、郊外が<コミュニティ>としての世代の記憶を背負うようになったのだ。この時代の郊外の夢を象徴する映画が『E.T.(1982)』だろう。ロサンジェルス郊外のサン・フェルナンド・ヴァレーが舞台、母親役のディー・ウォレスは1948年生まれのベビーブーマーだ。自動車が生活維持のための必需移動手段であり、子どもたちは親の運転する自動車に依存している。子どもたちが、自分たちの唯一の移動手段、自転車で空を飛んで夢を叶える。『E.T.』は郊外で芽生え始めていた<退屈>をすでに予見していた。

 

San Fernando City, California (Google Earth)

 

レーガン時代を経て、郊外はさらに<退屈>な場所になっていく。『ホーム・アローン(1990)』は、自動車がないとどこにも行けない場所に閉じ込められた少年が、<郊外>に存在してはいけないものを暴力で消し去る話である。ロジャー・イバートは『ホーム・アローン』に登場する泥棒撃退の仕掛けの数々を『鮮血の美学(Last House on the Left, 1972)』の父親が発明したものだろうと嘆き[8]、マイケル・フィリップスは、この映画の残酷さは『わらの犬(Straw Dogs, 1971)』にインスピレーションを得たものだろうと当時の美術スタッフに詰め寄っている[9]。

『ホーム・アローン』の舞台となったのはシカゴの郊外だが、ここで奇妙なズレが生じ始めている。ロケーションに使われたのはイリノイ州ウィネトカ・ヴィレッジ、平均年収が25万ドルを超えるコミュニティである。確かに<郊外>なのだが、実はアップスケールされた高級住宅街が物語の中心になっているのだ。

この奇妙なズレは、<郊外>がすでに新しい位相に入っていたことと密接に関係があるだろう。白人が都市中心部から逃げ出して作った<郊外>だったが、またここでも<違う人種>が流入し始めていたのだ。例えば『E.T.』の舞台になったサン・フェルナンド・ヴァレーは、1970年から2000年にかけて、白人以外の人種、とりわけヒスパニック系の人口が爆発的に増加した[10]。1990年から2000年のわずか10年間にヒスパニック系は43.3%、アジア系は25.8%、黒人/アフリカン・アメリカンは16.5%の人口増加を示す一方で、白人は5.3%減少している[11]。ヒスパニック系にも白人はいる。だからアメリカの国勢調査では「家庭で使用されている言語」という項目がある。2019年、サン・フェルナンド・ヴァレーの一部であるサン・フェルナンド・シティーでは、白人人口比率が65.2%であるが、スペイン語を家庭で使用している人口は78.4%にも上り、英語を使用しているのは19.9%しかいない。

カリフォルニアは、特にヒスパニック系の流入が大きかった場所だが、大都市では類似の傾向が見られる。イリノイ州の巨大な郊外オーロラでもヒスパニック系の比率が高く、家庭で英語を話す家庭の比率が54.1%に対してスペイン語の家庭が35.8%である。だが、『ホーム・アローン』のロケーションに使われたウィネトカ・ヴィレッジは、英語率89.8%、白人率92.9%のコミュニティである。映画の舞台として「あなたが今住んでいるような(いろんな人種のいる)<郊外>ではない場所」を意図的に選択し始めていたのだ。

『ホーム・アローン』が郊外のふりをして高級住宅街を使い、『ボーイ’ズ・イン・ザ・フッド(Boyz n the Hood, 1991)』でローレンス・フィッシュボーンがジェントリフィケーションとは何かを仲間に説教しているとき、ニュー・アーバニズムが注目され始め、フロリダを中心に白人/英語族が親密で清潔なコミュニティを作り始めた。フロリダのセレブレーションなどのニュー・アーバニズムの町は、白人比率が90%を超え、英語率も周辺自治体と比べると高い。人口の少ないアヴァロンなどでは英語率が100%である。言い方は悪いが、また白人は逃げ始めたのである。ニュー・アーバニズムの哲学は、無秩序な拡大、自動車依存、無軌道なエネルギー消費、デザインのコモディティ化といった<郊外>の病に対する<反郊外>であったのだが、実際に町として実現されてみると、住民の多様化という<郊外>に対する<反郊外>でもあった。

そもそも、ニュー・アーバニズムが手本とした「戦前のアメリカの小さな町」とはどんなところなのだろう。例えば、ウォルト・ディズニーが幼少の数年間を過ごし、生涯アメリカの理想とした町、ミズーリ州マーセリンはどんな町なのだろう。この19世紀末に現れた小さな炭鉱の町は、ウォルト・ディズニーがディズニーランドの「メインストリート」を設計する際に参考にしたといわれている[12](注1)。ディズニーが幼少期を過ごした頃は人口5000人[13]、現在は2000人ほどの町である。サンタフェ鉄道の駅として始まり、1888年に正式にリン郡に組み入れられた。地域の炭鉱が鉄道の石炭を供給していた。1906年、ディズニー一家はこの町に引っ越してくる。ウォルトはこの町で学校に通い、映画というものを初めて経験し、「ピーターパン」の劇を見た[14]。町は駅を中心に小さな商店や施設が立ち並ぶ大通りがあり、周辺に広く家が広がっている。広くと言っても町は2キロメートル四方に収まるくらいの大きさしかない。端から端まで歩いても1時間とかからないだろう。マーセリンの町は今でもディズニーが育った当時の面影を残している。ちなみに2019年の国勢調査では住民の93.6%が白人である。

歩いていける距離に生活圏がすべておさまり、自動車を必要としない町。穏やかな中心に公共の場があり、その周辺に多様な設計の住宅が広がっている。まさしく<ニュー・アーバニズム>のヴィジョンそのもののような町だ。だが、誰かが設計してそういう町になったわけではない。サンタフェ鉄道の駅を中心にコミュニティが自然発生したにすぎない。この土地には名前さえなかった(あっても白人は知らなかった)。「マーセリン」という町の名前は駅長の妻の名前からとられている。しかも、マーセリンは長い年月をかけて、形作られた町でもない。幼いウォルト・ディズニーが住んでいた頃は、町ができてわずか20年ほどのことなのだ。

 

Marceline, Missouri (Google Earth)

 

『ホーム・アローン』がクリスマスの定番映画になる前に、12月になると必ずTVで放映されていた作品がある。フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!(It’s A Wonderful Life, 1946)』だ。キャプラは1930年代からコロンビア・ピクチャーズで<アメリカの民衆>の良心を描き続けていた。彼の物語は政治的なメッセージで溢れているように見えるが、実際には政治性は極めて脱色されており、「アメリカには隅々まで善良な人々が住んでいる(一部の欲深い人を除いて)」というシンプルなメッセージが込められているに過ぎない。『素晴らしき哉、人生!』も、ベッドフォード・フォールズという小さな町に住む一人の善良な男とその家族の物語である(ただし、FBIは「銀行家は欲深い人間だという共産主義者のメッセージが込められている」と報告している[15])。ベッドフォード・フォールズは、キャプラが長年描いてきた「アメリカの小さな町」の集大成だと言ってもいいだろう。町の中心に大きな通りがあり、通りの中央には並木の分離帯がある。ドラッグストアでは子どもたちがどのアイスクリームにするか悩み、鞄屋の主人は、ジョージがどんなスーツケースを欲しがっているか言われなくても分かっている。恋人と結婚したら住みたい家はヴィクトリア様式の大きな家だ。クリスマスになると通りは雪に覆われ、楽しそうな飾りで埋まっている。人々は欠点もあるし、間違いも犯すが、悪い人間はいない。だが、一人だけ欲深い人間がいる。銀行家のポッター。この町の権力者、イニシャル入りの馬車に乗って自らの権勢を誇示している。ジョージは、このポッターに追い詰められて橋から身を投げようと思いつめる。

ベッドフォード・フォールズは、ニューヨーク州にあるセネカ・フォールズという町がモデルになっているのはほぼ間違いない[16]。セネカ・フォールズは、シラキュースの西、約30Kmに位置する人口6,000人ほどの町である。1940年の人口は6,452人、1970年代から80年代に10,000人近くまで人口が増加したが、その後減少して今ではまた6,000人ほどである。町の大通りには並木の中央分離帯があり、商店や施設が立ち並ぶ。今でも住宅街にはビクトリア調の住宅が点在し、かつての優雅な風景が思い起こされる。町を横断するカユーガ=セネカ運河に架かった橋(’Bridge Street Bridge’)には、映画のプロットを彷彿とさせる史実がある。1917年、イタリア移民の若者が、運河に飛び込んだ若い女性を救った。しかし、彼自身は溺死してしまった[17]。セネカ・フォールズは貧しいイタリア移民が多い町だった。

そのセネカ・フォールズには19世紀から続く工場がある。グールド社というポンプの製造をしている会社だ。特に3代目の社長ノーマン・J・グールドは合衆国下院議員にまでなった有力者である。彼の車のナンバープレートは「NJG1」というイニシャルで、「町の若者を兵役に送ることも、自分の工場で働かせることも、彼の意思次第」と言われた[16]。

 

Seneca Falls, New York (Google Earth)

 

ニュー・アーバニズムは、マーセリンやセネカ・フォールズのような町を、「地域の歴史や気候、エコロジー、建築慣習などを尊重した建築・空間設計」という思想のもとでアップデートする試みだった。しかし、そもそもの成り立ちが違う。戦前のアメリカの町はその土地の気候に耐えるしかなかったし、さらに材料の調達も含めて建築慣習もその土地にあったものにならざるを得なかった。歴史と言っても、他国の人間が思うような数世紀にわたって刻み込まれる歴史ではなく、数十年の開発と居住の記憶の話である。その町のあり方を「エコロジー」や「多様性」という用語で修飾して再構成したのが、ニュー・アーバニズムだ。この思想は、一方で極めて巧妙に排外的な姿勢を隠蔽している。<郊外のスプロール化>という言葉で、自分たちの「新しい都市開発の思想」から<郊外>を切り離して取り除いていく。<戦前のアメリカの小さな町>を理想として、<戦前の都市部のスラム>、<南部の小作人たちの部落>、<ゴールドラッシュで湧いた町>を記憶から消し去っていく。いくら多次元的な枠組みを標榜しても、結局英語話者の白人が大半を占める人口構成になるのは、むしろそれを目指しているからだと言わざるを得ない。HOPE VIのような貧困層をも取り込んだニュー・アーバニズムの試みも、多くの場合、個々の住居の質の向上が優先され、ハウジング・プロジェクトから立ち退いた貧困層が帰還できないという事態が起きている[18]。経済的格差の問題が拡大されてしまうのは、住居と生活空間を整えれば、生活(そしてコミュニティ)が改善されるという思想が、人間の活動の多くの側面を見逃しているからだ。労働、物資の確保、廃棄、処理、そういった活動をループに含めなかったからである。これでは、<郊外>がスプロール化してしまったことをそのまま維持してしまっている。多くのニュー・アーバニズムの町で自動車の利用率がまったく低くならないのは、住民たちは結局町の外に働きに行くからだ。ひどく高価な不動産を維持するには、どこか別の場所でより多く稼がないといけないからである。

 

Goldfield, Nevada (Google Earth)

 

『トゥルーマン・ショー』は、架空のシーヘイヴンを映しだすために、実在のシーサイドというロケーションを利用して、この隠蔽の二重機構を投影している。消費の場と自意識の交差を描きながら、消費のために必要な資源の確保と廃棄のプロセスが隠蔽され、同時にコミュニティの絆を強調しながら、そのために断ち切ったものを隠蔽している。『トゥルーマン・ショー』のシーヘイヴンは外部がないと機能しないはずだ。水、電力、食料、ガソリンなどの資源の確保や、生活によって排出される廃棄物の処理はすべて書割の壁の向う側にある。しかし、実際のこの世界でも、私達のような一般の消費者は、消費行動のなかでそういったプロセスを、自意識の外側に追いやっている。消費だけをひたすら続けていれば、トゥルーマン・バーバンクのように「生活」が維持ができる。その消費を続けるためには、とくに快楽の充足を追求する消費を続けるためには、労働、しかも払いの良い労働が必要だ。そのためには、コミュニティの外側に出る必要がある。さもなければ、セネカ・フォールズのノーマン・J・グールドのように自分の町に工場を所有して移民を雇い入れる必要があるだろう。だが、現代で質の高い住宅と居住圏を手に入れる人たちは、自分たちを<支える>賃金の安い労働者たちを切り離した。

ピーター・ウィアー監督は、『トゥルーマン・ショー』に適したロケーションを見つけ出すために、フロリダの町を次から次へと見て回ったが、満足のいく町が見つからなかった。ところが、シーサイドについた瞬間、「ここだ、荷物を降ろせ」とスタッフに告げ、あっという間に撮影準備に入ったという。この作品については、パノプティコン的なパラノイアについての議論が多いが、それとともに消費社会が必然的に抱える構造を隠蔽する仕組みについての物語だとも思う。ニュー・アーバニズムは、居住圏を購入/消費して、<消費社会を超えたコミュニティという幻想>を充足させる試みだ。モノを消費して、世界の仕掛けを隠蔽する。この思考と行動は、私達の今の日々の生活に極めて深く、広く浸透している。

ディズニーが作った町、セレブレーションは、あまりにシニカルな存在である。訪れた人が『トゥルーマン・ショー』のセットみたいだ、と思わず言ってしまうのは、セレブレーションとシーサイドが同じ<ニュー・アーバニズム>の思想のもとに作られたために、居住圏としての<不自然さ>を共有しているからだ。セレブレーションを開発したとき、ディズニーのマーケティングがひねり出してきたコピーは「ここは、あなたが育った故郷のような───そうでなければ、こんな町で育ちたかったと思うような、そんな町です」である[2]。つまり、あなた方のなかには、ロクでもないところで育った人もいますよね、と言っている。なかなか言えることではない。ディズニー・リゾートのモットー”Where Dream Comes True”は、長年にわたる「消費者」についての洞察に基づいているらしい[19]。ディズニーだけでなく、すべての企業は、実質的に「あなた(消費者)の<夢>を<現実>にしています」と宣伝する。だが、それは<夢>の代替品でしかないか、そもそも私達がそんな<夢>を持っているのかさえ怪しい。

トゥルーマン・バーバンクがドアを開けて出ていった、その先の世界がどんなところか、まだ誰一人として知らないのかもしれない。また別の企業が用意した<夢>を<現実>にした世界なのかもしれない。

2019年国勢調査結果より(U. S. Census Bureau): Eng.は英語、Sp.はスペイン語

 

[1]        H. A. Giroux, The Mouse that Roared: Disney and the End of Innocence. Rowman & Littlefield, p. 67, 1999.

[2]        P. Lowry, “It’s A Small-Town World,” Pittsburgh Post-Gazette, Pittsburgh, Jul. 13, 1997.

[3]        taotiadmin, “The Charter of the New Urbanism,” CNU, Apr. 20, 2015. link.

[4]        L. B. Smyer, “Finding Truman,” 30A, Oct. 14, 2018. link.

[5]        D. A. Cunningham, “A Theme Park Built for One: The New Urbanism Vs. Disney Design in the Truman Show,” Critical Survey, vol. 17, no. 1, pp. 109–130, 2005.

[6]        I. G. ELLEN and I. G. Ellen, Sharing America’s Neighborhoods: The Prospects for Stable Racial Integration, p. 36, Harvard University Press, 2009.

[7]        L. P. Boustan, “Was Postwar Suburbanization ‘White Flight’? Evidence from the Black Migration,” The Quarterly Journal of Economics, vol. 125, no. 1, pp. 417–443, 2010.

[8]        R. Ebert, “Home Alone Movie Review; Film Summary (1990) | Roger Ebert,” link.

[9]        M. Phillips, “‘Home Alone’ a holiday classic? Don’t make me laugh,” chicagotribune.com. link.

[10]        “Our Future Neighborhoods: Housing and Urban Villages in the San Fernando Valley,” Economic Alliance of the San Fernando Valley, Jul. 2003.

[11]        J. Kotkin and E. Ozuna, “The Changing Face of the San Fernando Valley,” Economic Alliance of the San Fernando Valley, 2002.

[12]        C. Strodder, The Disneyland Encyclopedia: The Unofficial, Unauthorized, and Unprecedented History of Every Land, Attraction, Restaurant, Shop, and Event in the Original Magic Kingdom., p. 254, Santa Monica, Calif. : Santa Monica Press, 2008.

[13]        “Thirteenth Census of the United States Taken in the Year 1910: Volume II, Population”, p. 1079. Department of Census, Bureau of the Census, U. S. Census, 1913.

[14]        “Marceline History.” link.

[15]        “Running Memorandom on Communist Infiltration into the Motion Picture Industry (Up to Date as of December 31, 1955),” Federal Bureau of Investigation, 100-138754–1103, Jan. 1956.

[16]        “The Real Bedford Falls,” Sep. 27, 2013. link.

[17]        “A Wonderful Life? In Seneca Falls, Antonio Varacalli Laid His down for Someone Else,” syracuse, Apr. 15, 2014. link.

[18]        T. Trenker, “Revisiting the Hope VI Public Housing Program’s Legacy.” link.

[19]        “Disney Parks Introduces ‘Where Dreams Come True,’ A Worldwide Initiative Tied To Global Consumer Insights,” The Walt Disney Company, Jun. 07, 2006. link.

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注1    セットデザインを担当したハーパー・ゴフは自分の生まれ故郷、コロラド州フォートコリンズも参考にしている。

『タクシー・ドライバー』とPTSD

『タクシー・ドライバー』を見直す

先日、ロナルド・レーガン大統領(当時)を狙撃したジョン・ヒンクリー・Jr が収監されていた病院から退院し、自由の身になるという発表があった。ヒンクリーは1981年3月、レーガン大統領暗殺を単独で企てて失敗、ただし精神鑑定で責任能力がないとされて無罪、ワシントンD.C.の聖エリザベス病院に収監された。彼は『タクシー・ドライバー(Taxi Driver, 1976)』を見てジョディー・フォスターを気に入り、イエール大学に在籍していた彼女をストーキングするまでになった。レーガン大統領の暗殺も、ジョディー・フォスターに気に入ってもらうために実行したと証言している。もちろん、ヒンクリーにロバート・デニーロが演じたトラヴィス・ビックルを重ねてみてしまうのはやむを得ないことだろう。

トラヴィス・ビックルは、アメリカ映画史のなかでも非常に衝撃的なサイコパス・キャラクターの一人であろう。ビックルは、殺人のためのトレーニングをつんだ怪物という設定なのだが、その制御機構がショートしていて、いったい何をやらかすか、全く予想ができない。社会にとって脅威となるのは、まさしくその「殺人のためのトレーニングをつんだ」という部分であろう。彼はベトナム戦争に従軍した元海兵隊員である。そのことは、映画の冒頭、彼がタクシー会社の面接を受けるシーンで明らかにされる。

タクシー会社のマネージャー:従軍経験は?

ビックル:名誉除隊、1973年5月19日。

タクシー会社のマネージャー:陸軍か?

ビックル:海兵隊だ。

タクシー会社のマネージャー:俺も元海兵隊だぜ。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=DjgINxorEas]

「ベトナム戦争帰還兵が精神を病んで平和な生活に戻れず暴力犯罪を犯す」という、1970年代から延々と続くテーゼをこの作品ではストレートに抉り出している。私もそういうテーマの作品があちこちにあるので、80年代に『ディア・ハンター(The Deer Hunter, 1978)』から『地獄の七人(Uncommon Valor, 1983)』まで見ながら、そういう社会問題を映画のストーリーに組み込んで問題提起しているのだろうと思っていた。だが、90年代にアメリカに住んで、実際に社会を見渡してみると、どうも様子が違うようだと感じ始めた。

知り合いの海兵隊出身の男性(ベトナム戦争よりは後の世代)は、『タクシー・ドライバー』のビックルは元海兵隊員のようには見えない、という。「まあ、もちろん色んなヤツがいるんだけど」と前置きをおいて、「でも、タクシー会社のヤツが『俺も海兵隊だぜ』と言った時に、『そうか、どこにいた?俺は〇〇にいた』って言わないところとか、なんとなくピンとこない。」彼は、映画だからなあ、と言って、「でも、あのビックルが海兵隊に憧れていたけど、不適合でハネられた奴だと思ってあの映画を見ると面白いよ」と教えてくれた。

確かにそういう眼で見ると、PTSDに悩む海兵隊員というのとは別の部分が見えてくる。他の退役軍人などとは交わらないのに、「コング・カンパニー」のジャケットを着ていたり(こういうものは割と入手しやすい)、銃を買う時にマグナムを選んだり(タクシーの客がマグナムのことを話していたから?)、TVシリーズ『ワイルドウェスト』に出てくるスリーブ・ガン(袖からスライド式で飛び出す銃)を真似したり、どこか「格好」や「イメージ」が先行した人物のように見えてくる。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=f5gNWSEsTSM]

『ワイルドウェスト』より

マーティン・スコセッシ監督は、トラヴィス・ビックルは元海兵隊員だと完璧に信じてこの作品を演出している。そのことは繰り返しインタービューなどでも述べている。面白いことに脚本のポール・シュレーダーは、ビックルを陸軍兵士の設定にしていた。だが、シュレーダーもスコセッシも従軍経験がない。トラヴィス・ビックルのモデルとなったと言われるアーサー・ブレマー(大統領候補だったジョージ・ウォレスの暗殺未遂犯)も、変わった男だったが、従軍経験がない。つまり、従軍経験のない2人が、従軍経験のない暗殺未遂犯をモデルに、従軍経験によって狂わされた暗殺未遂犯/殺人犯を作ったのである。そして、この従軍経験、「ベトナム帰還兵である」という部分が、『タクシー・ドライバー』を観るうえで重要なカギだと思われるようになった。もちろん、色んなヤツがいるわけだが。

だからといって、『タクシー・ドライバー』が価値のない作品だと言うわけではない。「健全な白人男性が主役のアメリカ社会」というイメージがほころび始め、それがファンタジーであったことを自覚できないでいる男たちの脆さを、トラヴィス・ビックル本人やその周辺の人物に投影して描いている優れた作品であることには変わりはない。ベトナム戦争に仮託して、当時の脆弱な個人とそれを取り巻くコミュニティの病理を描いているのだ。だが、「ベトナム戦争によって人間性が奪われた」「非人間的な殺戮によって精神を病んだ」というように、ベトナム戦争に原因を求めるのは、その後のステレオタイプ化された帰還兵像をフィードバックして増強しているに過ぎない。

ステレオタイプの誕生

しかし、この「仮託」がステレオタイプ化に繋っていく流れは、既に60年代から始まっていた。ピーター・ボグダノヴィッチ監督『殺人者はライフルを持っている!(Targets, 1968)』は、テキサス大学オースティン校で1966年に起きたテキサスタワー乱射事件を元にしている。犯人のチャールズ・ホイットマンは元海兵隊員だ。とはいえ、彼の場合は、グアンタナモ・ベイでの従軍経験によって射撃の技術が上達した面はあるが、暴力性の直接的な原因とは考えられていない。ところが、『殺人者はライフルを持っている!』では、ベトナム戦争帰還兵に設定が変えられている。

特に1970年代から80年代にかけては、ベトナム帰還兵の抱える問題をアクション映画の題材にすり替えてしまうことが多かった。『コンバット・ショック(Combat Shock, 1986)』『エクスターミネーター(The Exterminator, 1980)』に見られるように、低予算のバイオレンス・アクションには、「アメリカに帰ってきても馴染めず、キレて殺人を起こし続ける」という帰還兵のこの設定は使いやすかったのだろう。『ランボー(First Blood, 1982)』のように、帰還兵の心の問題に寄り添うような視点であっても、結局は「(火をつけると怖い)サバイバルスキルを身につけた殺人マシン」という見世物の要素がマーケティングのポイントにされてしまっていた。

ベトナム戦争に従軍した兵士達を、当時のアメリカ社会がどのように受け入れたかには非常に複雑な背景がある。当時の反戦運動やピース・ムーブメントにどっぷり浸かったベビー・ブーマー達の中には、あからさまに帰還兵を嫌悪したり排斥したりする者もいた。一方、帰還兵は、彼らに対する反感もさることながら、社会全体が帰還兵を忌避するような傾向があることに腹を立てていた。特に境遇に恵まれない帰還兵は、彼らに対する無知や無関心に対して過敏に反応することもあった。

1980年代初頭にベトナム戦争戦没者慰霊碑を建立することになった際に、マヤ・リンのデザインが一部の帰還兵や保守派から批判された。彼女のV字型の黒い壁のデザインに、「兵士たちの誇り」を見いだせない、という意見が出たのだ。マヤ・リンが、中国系アメリカ人の若い女性アーティスト(当時21歳)で、見た目も幼い、無名のイエール大学生だったことも、反感の火種となった。人種差別も入り交じる反対意見の山に対して、一度は計画が中止される事態にもなった。非常に過激な反対意見を述べる者に対して、企画した財団は、「悪い、狂ったベトナム帰還兵が、幼い女の子をいじめているような」図になってしまうから、気をつけるように、という注意を出したと言われる。

ベトナム戦争戦没者慰霊碑 (Wikipedia)

慰霊碑のデザインを掲げるマヤ・リン(当時)(VVMFウェブサイト

ベトナム帰還兵への視線

ベトナム戦争が、それ以前の戦争に比べて特別視されるようになったのには幾つか理由があるだろうが、兵士のトレーニングが第二次世界大戦の時と大きく変わったことが指摘されている。デイブ・グロスマン大佐は、『殺しについて(On Killing)』のなかで、第二次大戦における米兵の攻撃(射撃)率の低さが問題視されたことが発端だと述べている。

S.L.A.マーシャル准将の調査結果(第二次大戦中、コンバットにおいて、わずか15~20%の兵士しか発砲しなかった)は学術界、精神医学、心理学の分野から無視されたが、陸軍はこの結果を非常に真摯に受け止めた。そしてマーシャル准将の提案をもとに、多くのトレーニングの手法が組み入れられたのである。これらの変更によって、朝鮮戦争の際には55%(マーシャル准将の調査)、ベトナムでは90~95%(R・W・グレンの調査)まで上昇した。

マーシャル准将の調査手法については疑問を呈する者も多い。しかし、重要なのは、ベトナム戦争までには陸軍がトレーニングの手法を変え、兵士が条件反射的に発砲するような訓練プログラムになっていた、という事実であろう。兵士が発砲しないので上官が兵士たちを蹴って回って発砲させていた、という証言もあるくらいだった第2次大戦に比べて、ジャングルでのゲリラ戦がその大半を占めたベトナム戦争では、新しい訓練は非常に有効だった。このような訓練(殺人マシンになる訓練)を経過し、実際にコンバットで条件反射的に殺戮をした人物が兵役を終えて戻ってくる、とアメリカ社会は不穏な感触を抱いたのである。

もう一つの側面に、TVによる報道が大衆に与えたインパクトがある。実際の戦場の映像が放映され、TVの前に座っている国民は、米兵が戦場で何をしているかを目の当たりにしたのである。1965年のモーリー・セイファー(CBS)のTVレポートは、ベトナムの小さな村の家々を Zippo ライターで火をつけて焼き払う米兵の姿を映し出した。当時のアメリカTVのニュースで最も信頼と人気のあった、ウォルター・クロンカイトがテト攻防の様子を伝えた時は、もっと状況は悪くなってしまった。敵に射撃を続ける兵士たちの姿が映しだされ、負傷している兵士が救出される様子が放送され続けた。さらに、南ベトナム軍のグエン・ゴク・ロアン少将がベトコンを射殺するシーンなどの衝撃的な映像が重なり、狂気の戦場というイメージが一般国民に植えつけられてしまった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=sd6gGgqrBsw]
モーリー・セイファーの取材(1965)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=MuUfmlIPxN4]
CBS 1970年放送

PTSDへの無理解

普通の青年が、殺人機械になるように訓練され、戦場に行ってたくさん人を無慈悲に殺して戻ってきたら殺人鬼になっていた、というようなステレオタイプは、映画のような大衆エンターテーメントには都合がよい。まだ、PTSDという用語がまだ人口に膾炙していなかった時代、理解できないことは怪物として扱って消化しようとしていた。PTSDという用語が登場したのは1970年代の後半と言われるが、理解が進んだのはごく最近のことである。戦争、特に機械化が進んだ第一次世界大戦からは、PTSDが無視できない問題になっていた。「シェルショック(Shellshock)」は、種のPTSDの症状、あるいは別名だが、これが 第一次世界対戦では「怠け者の戦場からの逃避」としてしか解釈されなかったのである。オーストリアでは、シェルショックに苦しむ兵士を収容している施設の医師らが、患者に対して電気ショックを与える「治療」が戦時中に行われていた。電気ショックに耐えかねた患者たちは「(こんな苦痛に耐えるくらいなら)戦場に行きます」と戻ったため、効果があると勘違いされてしまった。戦後、この件をめぐる法廷で証人として呼ばれたジグスモンド・フロイトは「これは効果がない」とバッサリ切っている。

第二次大戦ではもう少し理解が進んだものの、決して解決したわけではなかった。パットン将軍は「シェルショックなど、ユダヤ人がでっち上げたものだ」という二重の意味で間違った発言をし、シェルショックで収容されている兵士を罵ったといわれている。

実際には、ベトナム帰還兵にとっての深刻な問題は、失職、アルコールやドラッグ中毒、ホームレス、自殺であったし、今もそうである。戦争終了後の5年間で150,000人の帰還兵が自殺しているとさえ言われている。帰還兵の半分以上は精神が不安定でアルコール依存症、ドラッグ中毒であった。刑務所に収監される者も多かったが、凶悪犯罪というよりも貧困や中毒からくる窃盗や暴力沙汰のほうが多かった。

そのような帰還兵の問題、特にPTSDとそれに伴う社会への復帰の困難さを扱う映画もないわけではなかった。『幸福の旅路(Heroes, 1977)』は、ヘンリー・ウィンクラー演じる帰還兵が、サリー・フィールドとアメリカ横断の旅をするロードムービーだが、彼は実は重大な心理的な傷を負っているという設定だ。『帰郷(Coming Home, 1978)』『7月4日に生まれて(Born on the Fourth of July, 1989)』などの作品は、戦争そのものに対する疑問と帰還兵と社会との間の軋轢を描き出すことに成功している。帰還兵の問題をより現実的に把握する姿勢は、90年代になってからようやく見直されるようになってきたが、一度植え付けられたステレオタイプはなかなか消し去ることができない。

似たようなステレオタイプ化は、今度はイラク戦争後の帰還兵に対して起こっている。彼らの多くは深刻なPTSDの症状に悩まされているのだが、適切なケアが行き届いている状況ではない。ニューヨーク・タイムスが2008年に、「イラク・アフガニスタン戦争の帰還兵が2年間で121件の殺人事件を起こしている」と報じ、ホメロスの『オデッセイ』、『西部戦線異常なし』『ディア・ハンター』に『告発のとき』まで、題材にされてきた深刻な問題だ、とまで述べている。その後の調査で、実際にはそのうち56%が第一級殺人であったことが分かっている。その時期に従軍した軍人の数が160万人であることを考えると70件は多いのか、少ないのか(アメリカの2012年の殺人事件は10万人あたり6.7件)。メディアは帰還兵と暴力犯罪をカジュアルに結びつける傾向があり、そのことがより問題の深刻さを見えにくくしている。『アメリカン・スナイパー(American
Sniper,
2014)』では、イラク戦争の「英雄」、クリス・カイルもPTSDに悩まされていたことが描かれているが、この映画への評価が、カイルを「英雄」とみる
か、「殺し屋」とみるかで真っ二つに分かれているのも、問題の根深さを感じさせる。

決して映画化されない帰還兵

想像を絶する暴力の経験をした兵士が、社会に馴染めず狂気にとらわれ、最後には大量殺人を犯す。そのプロファイルに当てはまりそうな実在の人物がいる。ティモシー・マクヴェイ(1968 – 2001)は、1995年4月、オクラホマ連邦政府ビルを爆破して168人を殺した凶悪犯、テロリストである。彼は湾岸戦争に従軍し、腕利きの狙撃手として勲章も受けている。しかし、帰還後は家族から見ても明らかに奇異な言動をするようになった。彼は、政府がアメリカ国民を洗脳しようとしているという妄想に取りつかれ、テキサスのウェイコで起きたブランチ・デヴィディアンの立てこもり事件をみて、テロ活動を起こすことを決心したと言われている。

湾岸戦争はその後のイラク戦争に比べて話題にはならないが、アメリカ軍はかなり問題のある作戦をいくつか展開している。その一つが、「死のハイウェイ」と呼ばれる事件である。クウェートからイラクに敗退中のイラク軍をバスラ高速道路上で全滅させた攻撃だったのだが、その壮絶な現場をマクヴェイは目撃していた。彼はこの派兵時にいくつかの失望を味わっており、その一つが「とんでもない悪者がいると思ってクウェートに行ったら、戦う気のない兵士と飢えた子供ばかりだった」ということだったようだ。帰国後、彼は政府への不信を強め、テロリズムに傾倒してしまう。ゴア・ヴァイダルは、マクヴェイの知性に興味を持ち、死刑を待つ彼と書簡を交わしている。

だが、この白人の、若くて、ハンサムで、書簡のやり取りをアメリカ随一の評論家と交わすことができ、イラクで「飢えた子供に食べ物を与えてはいけないと命令されて腹立たしく思った」男が、19人の子供と3人の妊婦を含む168人を殺した大量殺人犯になっていく経過はハリウッドで映画化されることはないだろう。いくつかそういう計画はあったがどれも被害者の家族の強い反対を受けて頓挫しているようだ。

ハリウッドはエド・ゲインを何度映画化しても飽きないみたいだが、なぜ、マクヴェイは心底嫌悪され忌避されるのか。それとも、爆破なんてその暴力が瞬間的で、猟奇性や残虐性が売り物に出来ないからだろうか。マクヴェイはステレオタイプに当てはまらないからか。そのことは考えてみても良いかもしれない。

もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたは原材料だ

her (2013)

If you are not paying for it, you became a product.

もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたが製品だ。

これは数年前にネットで頻繁に引用された言葉である。何を意味しているか。私達一般ユーザーが、GoogleやFacebookなどの無料サービスを使うと、その行動はデータとして蓄積され、広告主に売られている。私達は確かに「ユーザー」かもしれないが、課金せずにこれらのサービスを使用しているのだから「カスタマー」ではない。これらのサービスにとってのカスタマーは、ユーザーのページに表示される広告主である。もちろん、サービスの種類によっても違うが、SNSはその大半が広告収入によって成長している。検索ボックスに語句を入力するたび、リンクをクリックするたび、スマートフォンでワイプしたりフリックしたりするたび、私達のその行動がデータとして蓄積され分析される。その結果が広告主に様々な形で利用され、広告のトリガーとなる。正確には私達は製品になるのではないのかもしれない。製品の原材料になるのだろう。

これは何も今に始まったことではない。冒頭の警句自体はリチャード・セラ(1938-)が1973年に製作した”Television Delivers People”というビデオアートに登場する。

The Product of Television, Commercial Television, is the
Audience.

Television delivers people to an advertiser.

テレヴィジョン、商業テレヴィジョンの製品は視聴者である。

テレヴィジョンは人々を広告主に届ける。

多くのTVやラジオはスポンサーがカスタマーであり、広告が収入源である。私達は「視聴者」という名称を与えられ、どのような番組を好むかということを常に調べ続けられている。

インターネットの登場によって、それが変わるかと思われたが、そんなことはなかった。私達は「ユーザー」となり、購買欲求や「つながり/友達」の情報をタダで大企業に渡すようになった。私達はそのことをすっかり忘れ、Googleの検索ボックスに他人には決して告げないことを入力し、誰にもクリックしているところを見られたくないリンク先をクリックし、カチンときたTweetの元の発言をたどっていき、SNSでエゴサーチをして誰か自分の悪口を言っていないか気にしたりする。私達は、「ネットで検索」が存在しない世界を想像できなくなり、LineやTwitterやSnapchatが最もモダンなコミュニケーションのあり方だと思っている。そのモダンなコミュニケーションは、コミュニケーションのふりをして、私達を売り渡しているにすぎない。

スパイク・ジョーンズ監督の『her(2013』では、近未来のロサンジェルスを舞台に、AI(人工知能、Artificial
Intelligence)のサービスに恋愛をしてしまう男セオドア(ホアキン・フェニックス)の彷徨が描かれる。スパイク・ジョーンズらしく、セオドアの職場や自宅、取り巻く環境などの様々なディテールは奇妙な信憑性を帯びていながら、全体としては寓話として提示されている。「リアル」な人間との関係よりも、常にレスポンシブで、自分のエゴを満足させてくれる(ように設計された)AIのサマンサに、セオドアが、そしてこの映画の中にいる何千の人間が、惹かれていく様子をこともなげに描いている。だが、このセオドアの様子を見て、なぜこのAIを開発した企業をそこまで信頼できるのか不思議に思わざるをえない。

『her』は極度に自己陶酔した世界観のありさまを、その外側から俯瞰することを絶妙に避けながら描いている。だから、OS1が進化して離れていった時も、その事件はセオドアやエイミーにとっての極私的な事象として描かれている。私達ユーザーがごく自然に疑問に思うであろう、「なぜサービスが終わったのか」という問いを彼ら自身が真摯に想起することもない。人智を超えた事象(シンギュラリティ)が起きたと思わせるラストではあるが、その事自体は特にセオドアやエイミーの世界には関係がない。

確かに、この寓話は私達のコミュニケーションのあり方を最も私的なレベルで問い直す姿勢を持っている。すなわち、自己満足の代替手段として濫用されるネットワーキング(つながり)だ。それは時に陶酔的で、一方で不満と焦燥の共振現象にもなり、時にはセラピー効果があるようで、しかし頻繁に暴力と悪意に満ちている。だが、そのコミュニケーションにAIが参加してくることが根本的にもつ、最も歪(いびつ)な意図は問いただされないで終わってしまう。

現在、多くの企業がAI(人工知能)を開発している。そのなかでも群を抜いて進んでいるのが、Google、IBM、Apple、それにFacebookといったIT企業である。なぜ、彼らがそこまで投資してAIを開発するのか。AIをデモンストレーションすることによって、自らの技術力の高さをアピールすることが目的ではない。GoogleはAIを碁のゲームを売り出したいのだろうか?IBMはクイズ番組で人間に勝つAIを売り出したいのだろうか?もちろん違う。ましてや「シンギュラリティ」にいち早く到達して、すべての知的活動をAIに肩代わりさせる帝国を作るわけでもない。もちろん、GoogleやFacebookの場合は彼らのコアビジネスである、広告事業に応用することを考えている。

「チューリング・テスト」の定義からして「人間を装う」という宿命を背負っているAIは、SNSの広告産業において重要な役割を果たす。

かつてFacebookが、彼らの「本当の」顧客から強く言われたことが「どのようにしたら私達の広告がFacebookのユーザーに確実に届くのか考えろ」だった。単にページの隅っこにバナーを出しても無視されるだけである。そこで、ユーザーの友達が、バナーになり変わって、「これいいね」と紹介してくれるような仕組みが編み出されていく。その第一段階がニュースフィードだった。人間は、見知らぬバナーが「高品質、低価格の新製品」「いま大人気のイタリアンレストラン」といくら騒いでも無視してしまうが、自分の「友達」がその製品やレストランのサイトに「いいね」をすると、とたんに興味をしめすものである。そう、Facebookの顧客は「友達」に広告塔になってもらいたいのだ。そしてその延長線上にある開発中のAIはまさしく「友達」を装った広告の装置として設計されている。チャットボットのAPIが公開され、その実験が始まっている。このチャットボットはまだ多くの課題を抱えているし、単なる「オモチャ」のようにみえるが、もちろんそれも加速度的に改善されていくであろう。その開発には、私達「原材料」のオンライン上の行動データが使用される。

Facebookにとっては、私達は実験用ラットだ。[1]

『her』が公開された数カ月後、Facebookが50万人ものユーザーのニュースフィードを意図的に操作して、ユーザーの反応についてデータを集積し研究していたことが明らかになった。これは倫理的に許されざる行為として批判を集めたが、Facebookがなぜそんな研究をわざわざ発表したのか、というのは不思議である。このような「ビッグ・データ(なんてバカげた用語だろう)を用いた分析」は、私達があずかり知らないところで頻繁に実施されているし、その中には倫理的に問題のあるものもあるだろう。Googleは、私達についてのデータをできるかぎり集めて、そのデータを元に検索結果を並べ替えている。Twitterのタイムラインの仕様が頻繁に変更されるのも、表示するものを変更してユーザーの反応を見ているのだ。何のためにそんなことをしているかといえば、より良い製品を、より効率的に、広告主に届けるためである。

こんなことは当たり前のことなのだが、私達はインターネットが私達に与えた影響、ソーシャル・ネットワークの私達へのインパクト、というと、私達「原材料」同士のコミュニケーションの問題に還元しがちである。たとえば多くのエンターテーメント映画がソーシャル・ネットワークを題材として扱うが、そのほとんどがこの私達の間で起きる「インタラクティブな」犯罪や恋愛や悲喜劇である。YouTubeとかSkypeとか具体的なサービスプラットフォームさえ登場するが、そこでの私達「原材料」の化学反応についての興味ばかりが拡大される。そうでなければ、いかにNSAがネットを介して私達を監視しているか、とか、いかにハッカーが私達に関するデータを入手し、テロリストがいかに簡単に世界を脅かすか、といった類の話である。私達の目の前にいる、巨大なデータの大食漢はなぜか目に入らない。

前述のリチャード・セラの『Television Delivers People』はテレビのコマーシャルがもたらす社会的状況を告発する作品でありながら、テレビで放映されることを目的に製作された。テキサスのアマリロで放送終了時に流して反応を見た後、放送法に準拠するために検閲許可まで受けている。この時に「反広告(anti-advertisement)」に分類されたとセラはインタビューで語っている[2]。私にはこの「反広告」という分類がどういうものなのか判然としなかったが、セラによれば「広告もあるのだから、反広告もあるのだ。同じ時間(流せばいい)」ということらしい。『Television
Delivers People』は、青い画面に、テレビ広告のあり方を告発する文章がスクロールしていくだけの映像である。ブルーの画面に黄色の文字というのは、「見やすい組み合わせ」だから選ばれ、文章そのものはキャラクター・ジェネレーターで作成されたものだ。バックに流れるのはエレベーターミュージック。テレビ製作のすべての装飾を剥ぎとったテレビ番組だからこそ、最も鋭くテレビの装飾に潜む動機とその結果を批判できる。

『her』よりも40年前に製作されたこの作品のほうが、今の私達と、私達の目の前のメディアのあり方についての極めて深刻な問題を投げかけてくる。私達は、SNSだろうがAIだろうが、自己満足のために関わっているつもりでいるが、そうではない。原材料になって、そしてより反応を起こしやすい、製品を効率的に作りやすい、原材料に変性していく過程にいるのだ。

[1] V. Goel, “Facebook Tinkers With Users’ Emotions in News Feed Experiment, Stirring Outcry,” The New York Times,
29-Jun-2014.

[2] R. Serra, C. Weyergraf-Serra, and H. R. Museum, Richard Serra, Interviews, Etc., 1970-1980. Hudson River Museum, 1980.

ルドローの虐殺

D・W・グリフィスの大作『イントレランス(Intolerance, 1916)』の「現代篇」は、経営者による賃金カットに反発した工場労働者のストライキ、そしてその悲劇的な結末で幕を開ける。なかでも、ストライキ鎮圧のために武装した部隊が投入され、ピケを張っている労働者の一群に機関銃掃射を撃ちこむシーンは、過剰な暴力のあまりの呆気なさに唖然としてしてしまう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-kKLLBWsECQ]

このシーンは、『イントレランス』の公開数年前にコロラド州の南部で起きた実際の事件を元にしている。コロラド州のトリニダードは、ニューメキシコ州との州境に近い、小さな町である。この町を中心とした地域は、20世紀初頭に炭鉱で栄えた。地域で最大の規模を誇ったのは、コロラド・フュエル・アンド・アイアン・カンパニー(Colorado Fuel & Iron Company, CF&I)、当時7000人を超える炭鉱労働者を雇い、ロッキー山脈以東では最大の生産量を誇った。しかし、労働環境は劣悪で、当時の標準から考えても事故による死亡、労働環境の悪さによる病気や疲弊が多い、問題のある企業であった。経営者はロックフェラー一族。ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアがニューヨークのブロードウェイにあるオフィスから指揮を執っていた。だが、もともとこの分野は競争が激しく、CF&Iは規模の割には経営状態が芳しくなかったようである。

CF&Iでは、炭鉱労働者を会社が用意した家に住まわせ、医療や学校なども提供した。そう聞くと、随分とよい福利厚生のように聞こえるが、実際には「それしか」選択肢が無かったのである。会社が用意した閉鎖コミュニティに密集した酷い状態の家をあてがわれ、買い物も会社が経営する食料品店しかなく、給料もそこでの買い物券が配布されるだけである。コミュニティの入り口には、ゴロツキと変わらない「守衛」がマシンガンを持って立っており、夜には頻繁に戒厳令がひかれる。もちろん、労働者たちは組合を組織する権利は与えられていない。そして、ロックフェラー一族のように資本と権力に極度に執着している経営者には、そのような問題は些末事でしかなかった。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア  

度重なる爆発事故や、改善されない労働条件に業を煮やした炭鉱労働者は、炭鉱労働者組合(UMWA)のもと1913年9月にロックフェラーに7つの要求を突き付けて、ストライキに入った。組合を認めること、実質的な賃金値上げだけでなく、「付随の労働(伐採など)にも賃金を」「買い物をする店を自由に選ぶ権利」など、ごく当たり前の要求をしている。だが、ロックフェラーはこれを無視し、全労働者の90%にもあたるスト労働者を追い出した。彼らは、最大の炭鉱地、ルドロー(Ludlow)にテント村を設営して、ストライキを継続した。会社は、私兵や探偵社(ボールドウィン&フェルツ)を使って、ストライキの対応(脅迫、情報収集、スト破り、など)を行った。脅迫にはマシンガンを搭載した装甲車で町を走り、ランダムに撃つ、というのも含まれている。10月にはコロラド州の州兵が現地に派遣され、寒い冬の間、散発的な銃撃戦、度重なる暴力の応酬、が繰り返された。1914年の春に至っては、経営者側は十分な労働者(スト破り)を確保していたようである。ところが州の方は、これだけの州兵を長期間現場に派遣し続けるのは財政的に大打撃であった。1914年4月にはその大部分が散開し、2部隊だけになっていた。

経営者側が使用した装甲車(”Death Special”)
Colorado Coal Field War Projectより)

1914年の4月20日、州兵とスト労働者の間で銃撃戦が始まり、州兵がテント村に放火、スト指導者を射殺した。放火されたテントの焼け跡から数多くの母親と子供の死体が発見された。25人が殺され、うち10人は子供であった。これが「ルドローの虐殺(Ludlow Massacre)」である。

テントに住むスト労働者達
Colorado Coal Field War Projectより)

ケビン・ブランロウ著『純潔の仮面の向こう(Behind the Mask of Innocence)』に、この「ルドローの虐殺」についての記述がある。このなかで、パテ映画社のカメラマン、ビクター・ミラーについての話がある。

ミラーは、パテ映画社のカメラを抱えて、1913年の秋にトリニダードに着いた。そこでこのストライキのニュース映画を撮影するためである。ところがトリニダードの町はすっかり「経営者」にとりこまれていた。ホテルに保安官が現れ、ミラーを脅迫する。「健康でいたかったら、カメラを持ってホテルを出るな、そして明日には町から立ち去れ。」夜、町のバーでスト労働者達と偶然会い、彼らの手伝いでホテルからカメラを持ち出し、ルドローへ。「そこはまさしく戦場だった・・・労働者たちは完全に武装していた。」

その闘争の現場をミラーは撮影する。州兵からの攻撃を受けながら、である。地元の新聞、デンバー・ポストによると「パテ映画社のカメラマン、ミラーは飛んでくる弾丸をもろともせずにカメラのクランクを回し続けた」らしい(もちろん、かなり誇張されているようだが)。撮影した彼は、銃をもった男たちに追い回され、車で逃げたが、「あの時のモデル-Tがもう少し遅かったら、私は今頃トリニダードに埋まっているだろう」と語っている。

私は、このニュース映画は、多分失われたのだろうと思っていた。その後、コロラド各地で上映され、大好評だったが、ロックフェラーたちに押収され、その後の裁判で労働者に不利な証拠として使われたようである。しかし、たまたま、このニュース映画を見て、そこにまさしく、このビクター・ミラーが撮影した、ルドローのスト労働者達の姿を見つけた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rdJ7n8VqOiw?start=148]

州兵たちのフッテージは誰が撮影したものかは、不明である。この1分にも満たないフィルムが、その後のアメリカの労働組合運動を大きく変えたと言われる、ルドローのストライキの唯一の映像だと思う。

ルドローでのビクター・ミラー
(Moving Picture World 1913年12月6日号)

ちなみに、カメラマンのビクター・ミラーはその後、ビクター・ミルナーと名乗ってハリウッドの撮影監督となった。そう、『極楽特急(Trouble in Paradise, 1932)』、『生活の設計(Design for Living, 1933)』、『レディ・イヴ(Lady Eve, 1941)』の撮影を担当したビクター・ミルナーである。

1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。
1920年代に登場した3D映画は、基本的にアナグリフ型であるため、カラー映画の発達と並行していたともいえます。1922年に発表、公開されたウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリーの「プラスティコン(Plasticon)」は現存する最古の3D映画だと思われます。「未来の映画(The Movie of the Future)」というタイトルでニューヨークのリヴォリ・シアターで公開されました。この映画は90年後の2013年にWorld 3-D Film Expo IIIで特別上映もされています。

もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。

このケリーのプラズマ IIが基礎となって、2台のカメラでそれぞれ赤/オレンジ、緑/青を撮影することで3D映画のプロセスが生まれます。「未来の映画(The Movie of the Future)」はニューヨークで撮影され、ルナ・パーク(当時最も人気のあった遊園地)での動きのある映像が呼び物だったようです。
このほかにも、フレデリック・ユージン・アイヴスとヤコブ・リーヴェンタールが開発したステレオスコピクス(Streoscopiks)も1925年に同じくニューヨークで公開されます。「Lunacy」はやはりルナ・パークで撮影され、ローラーコースターや観覧車からみた映像が中心だったようです。異なる原理を利用した3D映画としては、1922年のテレヴュー(Teleview)があります。これは、観客席に双眼鏡のような装置がすえつけてあり、観客はスクリーンをこの装置を通して見ることになります。映画は1コマごとに右目用、左目用の像をスクリーン上に投射します。映画上映に同期して双眼鏡内のシャッターが左右のレンズを交互に開放する仕組みです。

ここで、私は「3D映画」と呼んでいますが、当時は「ステレオスコピック(Streoscopic)・ムービー」と呼び、3D効果のことも「レリーフ効果」と呼んでいました。

Plastigram Stereoscopic Film, 1921 と題されていますが、
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
これはGeorge Eastman Houseが保有するStereoscopiksのプリントのようです。左目が青、右目が赤のフィルターで見ると「レリーフ効果」が現れるはずなのですが、ちょっと難しいようですね。プロジェクターを使って大きく投影して見たりしたのですが、どうもしっくり来ません。これが当時の技術の限界だったのか、それともフィルムの保存に伴う問題なのか判別しません。こういう点が、この時代の技術の把握を難しくしている部分でもあるでしょう。しかし、これらの映画の技術的な発達が混迷してゆく様子を見ると、当時の観客にとっては望ましいものではなかった可能性が高いでしょう。
そのような背景からか、このあと、アナグリフ方式でスクリーンの2次元に新しい次元を加えるという試みは、まったく思わぬ方向に展開します。「プロット」の次元です。1927年に発表された「お気に召すまま(As You Like It)」は、ヤコブ・リーヴェンタールとウィリアム・クレスピネルが製作した短編映画です。普通の白黒映画として始まります。仕事場にいった夫の帰りが遅く、やきもきする妻。夫は木材処理場で働いているのですが、そこで悪人に襲われてしまいます。のこぎりのスイッチが入れられ、夫はいまにも真っ二つ。一方、心配のあまり妻は車で夫の仕事場へ。そこで画面に「メガネをかけてください」という字幕が出ます。ここで、
左目(青)だけで見ると
棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。
右目(赤)だけで見ると
妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
そう、見る眼によって、悲劇のエンディングか、ハッピーエンディングか選べるのです。
もちろん、現在ではゲームのストーリーテリングの基本的な手法として、複数のバージョンのエンディングというのはごく普通に存在します。しかし、映画では複数のエンディングが同時に公開されるというのは、数えるほどしかありません。「殺人ゲームへの招待(Clue, 1985)」と「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ(Hide and Seek, 2005)」はどちらも違う劇場で別々のエンディングが見られると言うものです。マレーシア映画「ハリクリシュナン(Harikrishnans, 1998)」は登場する2人の俳優のそれぞれのファンのために、2つのバージョンのエンディングを用意しました。ファンは自分の好きな俳優のハッピーエンディングが用意されている劇場に行けばよかったのです。しかし、「お気に召すまま」のようにひとつのスクリーン上で二つの違うプロットが同時に進行すると言うのは、後にも先にもこれだけではないでしょうか。残念ながらこの映画のプリントは現存していないようです。
この頃に、ハリウッドのステレオスコピック映画熱はいったん冷めてしまいます。これらの映画が公開されたのは、都市部、ほとんどニューヨーク市内に限られていたようですが、本当はどのくらい上映されていたのでしょうか。一方で、カラー映画は、テクニカラーが3ストリップ式を10年ほどかけて完成させます。1930年ごろには、一時期だけワイドスクリーンもブームになります。しかし、この時期の最も重要な技術競争と言えば、映画のサウンド化(トーキー化)であり、数多くの方式が特許を抱えて競い合っていました。そのような技術の嵐の中、ステレオスコピック映画はあっという間に忘れ去られてしまいました。

疲労困憊の3D映画(3)

3D映画を観ると疲れる

Bernard Mendiburuの”3D Movie Making: Stereoscopic Digital Cinema from Script to Screen”(2009 Elsevier)には詳細に3D映画の原理とプロセスが書かれています。そこにも「両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なること」についても、もちろん言及されています(p.20)。

実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右)

Mendiburuは

この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。
This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
と言っています。しかし、この根拠は示されていません。本当に「難なくしていること」なのでしょうか?
この本が出てから4年後に発表された、Angelo G. Soliminiの論文(“Are There Side Effects to Watching 3D Movies? A Prospective Crossover Observational Study on Visually Induced Motion Sickness “, PLOS, Published: February 13, 2013, DOI: 10.1371/journal.pone.0056160)には、とても「多くの人が難なくしていること」とは思えない状況が述べられています。
ヴァーチャル・システムや操縦シミュレーター、3Dディスプレイを見ることで、視覚疲労(visual fatigue)や「乗り物」酔い(motion sickness)が起きることが報告されています。特に動画を見ることで起きる酔いはVIMS(visually induced motion sickness)と呼ばれています。
視覚疲労の症状としては、眼の不快感、疲れ、痛み、乾き目、涙目、頭痛、さらには、視界がかすんだりや二重に見えたり、焦点を合わせるのが困難になったりします。まさしく、焦点/輻輳の非同期が、この視覚疲労を引き起こしていると主張の研究もあります。一方でそれは原因ではなく、関連がみられるというだけではないか、という意見もあります。もともと潜在的に両眼視に問題を持っている人も多く(本人も気づいていない)、その場合は視覚疲労が発生する率はさらに高いと考えられます。
VIMSは、視覚で得られている動きの情報と、実際に身体が知覚する動きの情報が矛盾していることで発生すると考えられています。たとえば、ジェットコースター上で撮影された映像をじっと座って見ている場合、観客の視覚は高速で激しい動きの情報を送っているのに、体はまったく静止したままであるため、その矛盾を解決できずに「酔い」という症状になってあらわれるようです。このとき、「身体が知覚する動きの情報」というのは、実に複雑で、三半規管からの情報だけではなく、関節にかかる力、肌に触れる空気の流れ、などありとあらゆる情報を総合しているといわれています。動きの方向、速度、加速度だけでなく、環境からの刺激や、その変化なども、動きの情報として加わっているのです。
 
VIMSについて産業技術総合研究所の渡邊洋氏らが研究した結果は非常に興味深いものです。観客に2D、3D、そして「不適切な」3D映像を見せ、視覚疲労や自律神経系の反応を調査しました。ここで「不適切な」3D映像とは、左目と右目が見る像を上下にずらしたり、入れ替えたり、色味を変えたりして、通常の3D画像として認識できなくしたものをいいます。結果的には、「不適切な」3D映像を見た場合に疲労やVIMSを感じる観客は多いのですが、実は交感神経系の反応は3D映像をみるだけで上昇し、適切であるか不適切であるかは関係がないという結果になりました。

しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。

このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.

別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。

被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き
左は両足を閉じて、右は開いて。
(Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析)
Computer Technology and Application 3159-168 (2012)

では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。

ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ
Popular Mechanics, January 1955

3D映画を鑑賞することで身体に不快感を感じている人は明らかにいます。しかし、それがどのようなメカニズムで発生しているのかは、まだ研究段階で、安易な結論は避けなければなりません。ここ数年でも、VIMS専門の学会が2回、専門誌による特集号も何回も発行されています。3D映画のどのような部分が、視覚疲労につながるのか、VIMSにつながるのか、また疲労が出やすい人とそうでない人には相違があるのか、など科学的に解明されなければ、明らかな因果関係があるとは言い切れないでしょう。

問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。

「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。

(4)に続く

疲労困憊の3D映画(2)

via. wonderfulengineering

 
50年代とは違うシナリオ

2000年代後半から注目され始めたハリウッドの3D映画のビジネスモデル、あるいは普及のシナリオは1950年代とは違うのだとする意見もあります。Thomas Elsaesser の「The ”Return” of 3D」は、その相違として4点を論じています。

(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。

(2)3Dの視覚芸術は(ドルビー・サラウンドなどの)3Dの聴覚芸術を補完する性質のものである。
(3)3Dの視覚芸術は歴史的には2Dに先行していた技術でもあった。
(4)デジタルの3Dは、美学的な見地から「見えない」特殊効果を目指している。

実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
パーソナルな消費、小さなスクリーンでの3D映画、エンターテーメントの可能性、というのは、実際の3Dディバイスに対する市場の冷ややかな反応を見ると、その可能性は著しく萎んでしまっているとしか言えません。「ニンテンドー3DSは『3Dであるにもかかわらず』売れた」とされ、3Dのスマートフォンはほとんど注目されませんでした。そのような現状は、ディバイス、およびそれに対応したソフトウェアの開発への投資を一挙に鈍らせます。私自身、家庭用の3Dディスプレイに必要な材料の研究開発の現場の状況をわずかながら知っていましたが、結局R&Dや商品戦略を考える上で、「量が出ない」というのは大きなネックとなり、「技術的な差異化」「次世代のディバイス」といった切り口は殆ど意味をもちません。特に3Dディスプレイの場合、仮に商品化したとしても、そこから先に伸びていくマーケットが見えにくいのです。そういう、業界全体の投資が減速し始めると、加速度的に縮小し、おそらく現在では「パーソナルな消費」はほぼ壊滅したといってもいいと思います。

(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。

1860年頃の3Dステレオグラム

ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。


Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
著者の呆れ果てたスノビズムを度外視しても、本当に3D映画が物語り -Narrative- に新しい地平を開くのかどうか、考える必要があります。正確に言うと、3Dがもたらす新しい物語りが、3D によって失われる物語りよりもはるかに魅力的か、ということです。アナロジーで言うなら、サイレントからトーキーに移行したときに失われた物語りと得られた物語りで、トーキーによって得られたものが「美的可能性」の上においても十分魅力のあるものだったが、それと同じことが3Dにも言えるだろうか、という問いです。
私は、この問いに答えるためには、3D映画はまだ十分に可能性が探られていないと考えます。Elsaesserもあげている「Cave of Forgotten Dreams (2011)」などは、その可能性を探索する一歩だとは思いますが、多くの3D映画は、まだその文法を把握することで精一杯だといわざるを得ない。典型的な例が、マイケル・ベイの「Transformer: The Age of Extinction (2014)」でしょう。彼は非常に短いカットをつなぐことで、彼のファンが好むダイナミズムを生み出していたわけですが、3Dではあまりに短いカットでは観客がショットのパースペクティブに慣れることができない。そのため、この映画では彼は5秒以上のショットを重ねるように心がけていたわけです。すなわち、マイケル・ベイは2Dで「魅力的に」使いこなしていた物語りができなくなったのです。その代わりに得たものはどれくらいだったのでしょうか?

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]

ここで、マイケル・ベイを美学的な観点で語るのはおかしいだろうという意見もあるかもしれません。しかし、Elsaesserのいうところの「スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話」でさえ、語り方を模索しているときに、それ以上の語りを模索することをもって3Dの優位性を位置づけるのは、議論として説得力がないと思うのです。
私が強く感じるのは、「どうしたら3D映画は離陸できるのか」ということの筋道が見える前に、経済のダイナミックスで3D映画が消える、あるいは限られた役割しか与えられなくなるのではないかということです。Immersion -没入ー の側面に強く依存していた3D映画の市場開発のシナリオが、次の一手を打つ前に息切れしてしまっていると見えるのです。

(3)に続く

疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み
今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。
この夏はハリウッドにとって8年振りの低調な興行成績に終わってしまいましたが、その原因として、ワールドカップがあったことや、凡庸な結果に終わった話題作があったことなどの他に、3D映画の伸び悩みがあったことも指摘されています。「家族で映画を見に行って、ポップコーンとコーラを買ったら1日分の給料が飛んでいく」というコメントを読んだことがありますが、2時間ほどの体験として3D映画の特別料金を支払うだけの価値を見出せるか、というところに観客の関心が向き始めているようです。

数年前から3D映画は本当に「体験」「興奮」を提供するのだろうか、ということは疑問視されてきました。2011年のアメリカ心理学会の調査で、400人の学生を対象に「不思議の国のアリス」と「クラッシュ・オブ・タイタンズ」の2D版と3D版を見せてアンケートをとったところ、2Dと3Dに「興奮度」「心に残る体験」としての差はほとんど見られない、という結果がありました。
もともと、3D映画の仕組みが不自然であることは否めません。スクリーン上に映し出された像を、特殊なメガネで観賞することで3次元の幻影を見るのですが、両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なります[1]。この不自然さをもって、「3D映画は永遠に普及しない」とウォルター・マーチは豪語しました。この記事は2011年のRoger Ebertのサイトに掲載され、多くの反響を呼びました。コメント欄には、まだ3D映画に対して好意的なものが多く見受けられます。
David Bordwellはゴダールの新作についての評論の中で、近年の3D映画に共通して見られる問題として2つ挙げています。ひとつは「coulisse effect」と呼ばれる、(体積的な3次元ではなく)複数の平面が重なったように見える効果、もうひとつは映画が進むにつれ3D効果が薄れる「慣れ」の問題です。私もこの問題には覚えがありますし、多くの人が体験したことではないでしょうか?

3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=TPqxONS3DEg?start=84]
バロック・オペラの舞台装置の模型
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています

多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。

現在のハリウッドのビジネスモデルは、劇場でのチケット売上げよりも、フランチャイズやDVD、ブルーレイといった「副次的な」ビジネスでの利益確保が必須です。3D映画を家庭で観賞することを狙ったハードウェア(3DTV、プロジェクター)やソフトが一気に出ましたが、普及は減速しています。TV放送を3D化することで普及が可能かと思われましたが、BBCは3Dによる放送を棚上げし、ESPNは開発プログラム自体をキャンセルしました。ゲームの分野でも3Dへのシフトが期待されたものの、様々なところで開発が鈍化しているようです。

「アバター」が公開された当初は非常に期待された3D映画ですが、現状を見る限り、1950年代の3Dブームがたどった道を多くの人が思い出しているに違いありません。私は「Immersion(没頭、浸かること)」によって得られる「体験」に過度な期待をかけすぎたのではないか、と思います。ひとつには、そういう体験がどれくらい新鮮でありつづけることができるか、さらには、メガネをかけ続ける不自然さを正当化するだけの体験でありうるのか、ということを考えざるを得ません。もっと根本的な疑問として、2次元の次は3次元、そしてバーチャル・リアリティ、という当然のことのように考えられている「進化」が、技術としては進化しているのかもしれないけれど、エンターテーメントとして「進化」しているのか、ということをひたすら考えてしまいます。
(2)に続く

[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。

(左)実空間で物体(緑色の星)を視るとき、眼のレンズを使って焦点を合わせ、両眼の交差(コンバージェンス/輻輳)で距離を合わせますが、その焦点距離と輻輳の距離は一致します。
(右)3D映画で、物体(緑色の星)が手前に飛び出しているとき、コンバージェンスは飛び出してきている位置に距離を合わせますが、焦点はスクリーン上で結びます(映画の像が写っているのはスクリーン上だから)。この焦点距離と輻輳の距離の不一致が3D映画を見るときの特徴です。

カメラが多すぎる

イントゥ・ザ・ストーム(Into the Strom, 2014)」を観たのだが、何かがしっくりこない。いや、別に期待していたわけではない。これはアメリカ国内では頻繁に起きるトルネードを題材にした、パニック映画だ。それ以上の期待はしていなかった。むしろ、そこそこのプログラム・ピクチャー、アクションとイメージが売り物のハリウッド製品、90分で楽しんだら、次の週には題名も覚えているか怪しいような、それで構わない映画を期待していた。しかし、もう一週間以上経とうかと言うのに、題名どころか色んなものが引っかかったまま、残ってしまった。「ファウンド・フッテージ」ものとして始まったはずなのに、途中でカメラのPOVに統一性がなくなって、サウンドトラックもNon-Diegeticになるような破綻が見られるから、そのいい加減さに呆れたのか?そういう部分もあるが、それよりももっと痛々しい感じがしたのだ。人物造形があまりに単純で薄っぺらいからだろうか?この映画並みか、それ以下の人物造形の映画はざらにある。ご都合主義の脚本も、科学的に怪しいあれもこれも、そんなのは承知のうえだった。この映画が、そういう問題を抱えることになった、もっと奥底の理由があるような気がする。
この映画の撮影自体は2012年に完了している。映画の企画自体はもう少し前からあっただろう。この映画の企画が進められる背景には、2012年以前に「ストーム・チェーサー」というリアリティTV番組がそこそこ人気があった事が大きく影響しているはずだ(日本では「追跡!竜巻突入チーム」という題名で放映されていたらしい)。これは、実際にアメリカの各地で発生するトルネードの映像を撮ろうとする「命知らずの追っかけ屋(ストーム・チェーサー)」に密着して、「科学調査」の名の下に行われる、彼らの勇敢/無謀な行動をTV番組に仕立てたものだ。映画に出てくるトルネード撮影用特殊装甲車「タイタス」も、この番組内で登場する装甲車がモデルになっているのは一目瞭然である。だが、この番組も人気が下降して、2012年に終了してしまう。「イントゥ・ザ・ストーム」の撮影が進んでいる頃だ。
SRV Dominator
ディスカバリーチャンネルの「Storm Chaser」にも登場した装甲車
Wikipediaより)
翌年の2013年5月には超弩級(EF5という)のトルネードが二つもオクラホマを襲った。そのうちのひとつ、エル・リノの街を襲ったトルネードは、史上最大のサイズとされ、小学校を跡形もなく吹き飛ばし、10トンもあるガスタンクを900mも吹き上げて小学校に叩きつけた。ムーアの町を襲ったトルネードは24人もの犠牲者を出している。こういった実被害が「イントゥ・ザ・ストーム」製作側にどういう影響を与えたかは分からない。しかし、そもそもトルネードのパニック映画を製作する時点で、そういったことは予想していたはずだ。撮影前の2011年に158人もの犠牲者を出したミズーリのトルネードもあるし、そんなことを言ったら、トルネードの被害は毎年ある。トルネード被害者に対して無神経にならないような最低限の工夫は、脚本や演出の上でももちろん施されていた。しかし、このエル・リノのトルネードでティム・サマラスをはじめとする3人のストーム・チェーサーが事故死したことは、製作者側をことさらに敏感にしたかもしれない。ティム・サマラスは「ストーム・チェーサーというよりは気象研究者」という評価が高かっただけに、「イントゥ・ザ・ストーム」の中でのキャラクター達の扱いは再検討されたとしてもおかしくない。
このオクラホマのトルネードの際に一般人が撮影したビデオがいくつかYouTubeにあるのだが、この動画を以前見た記憶があって、「イントゥ・ザ・ストーム」を見た後にふと思い出した。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Q7X3fyId2U0]
これが印象に残ったのは、今思うとその映像もさることながら「”Loaded Gun” Warning」という言葉だったかもしれない。『弾が込められた銃』警報。気象状況を武器に見立て、いつ殺戮を起してもおかしくないことを、このように表現したのだ。たった3つの単語だが、トルネードが襲う土地が染み付いた言葉だ。オクラホマという、南部の州、銃所持を支持する層が多く、銃規制もゆるい。そして、それが言葉に滲み出して、気象現象に南部のアクセントが聞こえる。
さらにこの映像では、パニックを起した女性が登場する。私がなぜか忘れられないのは、彼女が手にしているコーラのボトルとタバコだった。
あるいは「Ugly」と言う言葉。トルネードを表す形容詞として、「Ugly」が幾度も発せられる。ひとは、突然の危険や事故に遭遇すると、同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すことがある。まるで念仏か祈りの言葉のように繰り返す。その言葉を発することで浄化しているかのように。
トルネードが道の向こうでゆっくりと町を破壊している、その強烈な映像よりも、そんな些細なことのほうが引っかかって残ってしまった。このYouTubeのページで右の「おすすめ」を見ればわかるようにトルネードの強烈な映像はもっと他にもたくさんある。多くの人が手にカメラを、スマートフォンを持って、自分の住んでいる場所の向こうを通り過ぎる「弾が込められた銃」を撮影している。
カメラが多すぎるのだ。
何も誰かが手に持っているカメラだけではない。むしろ、全世界で最も大量の映像を撮影しながら、その大部分は人間に見られることなく削除されているカメラの一群がある。セキュリティ・カメラ、CCTVだ。
このオクラホマのトルネードでも、小学校のCCTVに撮影された映像が残されていて、YouTubeで閲覧することができる。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJPGuMfnty4]
トルネードを撮影するために設置されたわけではない。だから、クリーンな映像ではないし、アングルも光量も「トルネードの破壊力を見る」にはベストではない。けれども私達はその前提を理解しているがゆえに、そのすさまじさを思考の中で増幅してしまう。
実は「イントゥ・ザ・ストーム」は、映像を取り巻くこういった環境について非常に意識的だ。卒業式で、ほぼ全ての卒業生達がスマートフォンで校長のスピーチを撮影している。センセーショナルな動画を撮影して、YouTubeでのヒット数を稼ぐことだけに人生を費やしている二人組の男。高校にトルネードが押し寄せるときには、CCTVの映像が挿入され、主人公の兄弟は、タイム・カプセルに入れるためのビデオを撮影している。この兄弟やストーム・チェーサーのビデオが折り重なるようにして、ストーリーが展開するのだが、どこか優柔不断なままつなげられていく。手持ちカメラはいつもほぼ完璧なフレーミングだ。素人のカメラワークのような、撮影者の靴が何分も写っていたり、天井が写されたまま会話が進行したり、指が画面の半分を覆ったままトルネードが写っていたりするようなことはない。本人達がカメラの存在を忘れてしまっているであろう場面でも、カメラはちゃんとフレーム内にアクションを捉えている。CCTVもトルネードの破壊力を見せ付けるべく特等席に設置されている。迫り来るトルネードを撮影したビデオでも、会話はちゃんと聞こえ、マイクを襲う強風のノイズは聞こえない。登場人物たちも「逃げろ!」と叫ぶ。「下がれ、下がれ、下がれ、下がれ・・・・下がれ、下がれ、下がれ、下がれ!」ではない。トルネードを撮影するためにTV局はヘリコプターを飛ばし、「警報が発令されました」と報道するが、「弾が込められた銃警報」とは言わない。
そうするしかなかったのだろう。靴が映ったまま3分も会話が流れるような映像にするわけにもいかないし、「撮影範囲の廊下の角を曲がったところが吹き飛ばされたので、特に何も写っていないCCTV」設定にはできない。ハリウッドの映画に求められているのは、そんなことではなくて「プロフェッショナルな」エンターテーメントだ。カメラは特等席でなければならない。あるいはハリウッドはそういうものを観客は求めていると思っている。しかし、この氾濫するカメラとそれがとらえ続けている映像について意識すればするほど、プロフェッショナルであること、特等席のカメラは弱点になっていってしまう。結局、見所をつくるとすれば、飛行機が巻き上げられるとか、炎の竜巻とか、あるいは「オズの魔法使(Wizard of Oz, 1939)」みたいにトルネードに巻き上げられて「別世界」を見てくるとか、そんなところになってしまう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WhQySxqSANU]

この映画はアメリカではすこぶる評判が悪い(Rotten TomatoのTomatometerは21%)。理解できる。彼らにとっては、トルネードの驚異/脅威はわざわざVFXで見直さないといけないものではない。ましてリアリティTVやYouTubeに氾濫する映像の「不完全さ」が、それを真似しきれないハリウッド映画をあざ笑っているように思える。

彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない

フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、

映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。

– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992

撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。

吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20

他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。

高感度フィルム

1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。

当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。

グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。

ハイスピード・レンズ

1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。

特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。

反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。

上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影
コントラスト、細い線の再現性に差が現れている
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。
光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。

フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。

強力な照明

スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。

科学、技術そして標準化

上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。

ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。

現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。

書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。

フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。

近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。

1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。