パウル・フェヨスの数奇な人生(8/12)

パウル・フェヨス マダガスカル

マダガスカルは、この時代には、まだヨーロッパの文化人類学の研究がそれほど進んでいない土地でした。事前の調査や文献探索をしても得られるものは少ないまま、パウル・フェヨスは1936年にボルドーから貨物船に乗ってマダガスカルに向かいます。彼は「未開」と呼ばれたマダガスカル南部の、いまだ政府の管轄の届いていない地域に入っていきます。途中、フランス植民地軍の砦で、「あんなところに行ったら、首を刎ねられて食われるぞ」と脅かされましたが、かまわず進んでいきました。そこで、撮影隊一行はタノシ族とバラ族に遭遇し、彼らの生活をフィルムに収めます。パウルは、「生まれて初めて出会った原住民」に強い感銘を受けます。彼らは理路整然と考え、アメリカ人なんかよりもはるかに理にかなった生き方をしている。彼らは非常に理知に富んでいて、文明国の誰よりも賢い。ここで撮影されたドキュメンタリーには「エジラのダンスコンテスト」「ビロ」などがあります。

アンタンドロイ族のダンサー/治療者
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

当時の文化人類学あるいは文化人類学者は大半が差別的で、研究の対象とする民族に対して理解を深めるという態度で臨んでいるとはお世辞にもいえない時代でした。とくに文化人類学と啓蒙的な文化政策が交差する場合には、その醜い差別感情が露わになります。1931年にフランスで「植民地展覧会(L’exposition coloniale)」なるものが開催されますが、そこでニューカレドニアの住民がパリに連れてこられ、動物園の動物のように展示されていたのです。マダガスカルにも全く調査が入っていなかったわけではありません。事実、1910年代からフランスのパテ社がいくつかマダガスカルで撮影したフィルムを公開しています。ただ、「北極の怪異(1922、ロバート・J・フラーティー監督、原題:Nanook of the North)」に始まる、「西欧人でない民族に、ジャズを聞かせて反応を見る」といったことを繰り返しやっていたのです。

博士号をもった文化人類学者でも、(調査対象である)原住民の狩りに同行して、平気で獲物を撃ってしまう者がいるのだ。獲物は自分のものではないということ、銃を撃てば、住民の狩りの対象が一帯から姿を消してしまって、彼らの経済を破壊するということがわかっていないのだ。


Paul Fejos

私が調べた限り、「エジラのダンスコンテスト」と「ビロ」はニューヨークのMoMAがプリントを所有しているようです。ほとんど上映されることはないようですが、記録によると、「ビロ(The Bilo)」は族長の葬式の様子を収めた貴重な資料のようです。族長の息子によって催された音楽と踊り、そして埋葬時の儀式として、族長の牛800頭を生贄をささげる様子などが記録されているようです。

バラ族のダンサー
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

マダガスカルには1年近くいましたが、その後、ヨーロッパの帰途にセイシェル諸島に寄港し、そこでも撮影をします。デンマークに帰国したのち、撮影した作品をデンマーク王立地理学会で発表し、一躍デンマークの文化人類学界で注目の人物となります。マダガスカルの文化については詳細な調査がされていなかったこと、デンマークの王立博物館にもマダガスカルに関する資料がなく、パウルが持ち帰った様々な事物が、貴重なコレクションとなりました。この時点で、パウルは文化人類学に強い興味を抱くようになります。1937年、今度はスウェーデンの映画会社が彼に同様の映画を依頼します。

パウルは少し濁した話し方をしているのですが、彼はアメリカに戻りたいと思い始めていたようです。ヨーロッパに戦争が近づいていること、特にナチス・ドイツと各国の関係が不安定な状態が続いていたこと、スウェーデンの立場はその中でももっとも微妙だったこと、などから、彼は「アメリカに戻れなくなるのではないか」と、オファーを躊躇していたようですが、待遇があまりに良かった。そして、東インドに向けて長い旅に出ます。目的地はインドネシアでしたが、横浜、神戸にも立ち寄っています。

パウル・フェヨスの数奇な人生(7/12)

春の驟雨 撮影セットで
中央 パウル・フェヨス、右から二人目 アナベラ
(via filmkultura.hu

ヨーロッパに戻ったパウル・フェヨスは、フランスを訪れ、そこで「ファントマ(原題:Fantômas)」を監督します。例の「謎のファントマ」ものです。そして1932年にハンガリーに舞い戻って「春の驟雨(原題:Tavaszi zápor)」を監督します。これは、パウル・フェヨスの最高傑作とする人も多く、私もこの映画がもっとも好きです。若い女性が過ちを犯し、妊娠し、子供を生みますが、子供は取り上げられ、彼女は失意のうちに亡くなります。天国に上った彼女は、自分の娘が大きくなって、同じ過ちを犯そうとしているところを見て、雨を天から降らせて娘を守るというお話です。この映画では、主人公のマリー(アナベラ)が未婚で妊娠したために、村で、そして都会で疎外されていく過程が、実に辛辣に冷酷に描かれています。特に子供を取り上げられて、村に舞い戻り、道端で子供たちにまでさげすまれて、汚れ、朽ち果てた彼女が、世を恨み、神を恨むさまは、この時代の作品には類を見ない強烈な印象を残します。そのため、この映画はハンガリーで「共同体と神を冒涜した」とされて上映禁止になり、ニューヨークでも上映禁止になります。

美術監督 ハインツ・フェンチェルと。
「君と暮らせば」のセットで
(via davidkultur.at

1933年にはウィーンで「君と暮らせば(原題: Sonnenstrahl)」を監督します。これもシンプルなストーリーで、貧乏のどん底にいる若い二人が様々な苦難を乗り越えていく話です。結婚式の場面は、ムルナウの「サンライズ」そのままですし、随所に影響を見ることができます。私は、フランク・キャプラはこの映画から「素晴らしき哉、人生(1946, 原題:It’s a Wonderful Life)」のヒントを得たのではないかと思っています。貧乏に耐えかねた主人公が飛び込み自殺をしようとしているときに、別の人間が飛び込み自殺をして、それを助けてしまうというオープニング。そして、お金に困って、もうどうにもならない、と言うときに、みんなが少しずつ出し合って、窮地から救われるというエンディング。それにしても、パウル・フェヨスは貧乏のどん底で暮らす人々を描くことにかけては、実に真摯で、かつ容赦ありません。表面は砂糖でコーティングしているのですが、その奥底には、実際に経験した人間だからこそ表現できる、冷徹さがあると思います。

パウルは、1934年にコペンハーゲンのノルディスク・フィルムと契約します。ここで、3作品ほど監督するのですが、彼はこの前後から「フィクション」の映画を作り続けることに限界を感じ始めます。何も「新しいこと」が生まれてこない焦燥が日増しに強くなっていました。しかし、彼はヨーロッパでは「一流監督」として認められていて、ノルディスクは彼に様々な ーー興行的にも、芸術的にもーー 期待をかけています。ある日、焦燥の頂点に達したパウルは、ノルディスクの重役会議にひとり乗り込んでいきます。

「私は、もう辞めたい。契約を破棄したい。」

実は契約はまだ2年残っていて、重役たちはそんな申し入れは当然拒否しました。

「拒否するならすればいい。私は病気だ。私は働けない。」

「君の好きにしていいから、映画を作り続けてくれないか。会社はどんなことでもしよう。」

「ここでは、映画は作れない。こんなところでは無理だ。」

「じゃあ、どこなら作れるのだ?パリか。ロンドンか?」

とにかく辞めたい一心で、彼は会議室の壁に貼ってあった世界地図の上で、自分の指の届くところにあったマダガスカルを指差して言ったのです。

「ここでなら。」

パウルは、マダガスカルのことなんかなんにも知りません。そんな島があることさえ。

「どうして、マダガスカル?」

「どうしてって、そこには原住民がいて、私は原住民と仕事をしたい。」

「マダガスカルか、よろしい。カメラマンは誰がいい?」

パウル・フェヨスのノルディスク時代の作品
「黄金の笑顔(原題:Det Gyldne Smil)」

彼が本当に「原住民と仕事をしたかった」のかどうか、あるいはこの重役会議の話が彼の「脚色」なのかは、定かではありません(この話は後年になって彼自身が口述したものから採られています)。ある側面では、この方向転換はそれほど異様なものではないと思います。1930年代に、とくにヨーロッパでは「文化映画」と呼ばれる、「学術性の高い」ドキュメンタリー映画の製作が盛んになるからです。この「学術性」に括弧がついてしまうのは、啓蒙的な側面が多分に強いのと、これらの映画のかなりの部分がプロパガンダ性の高いものも多かったからです。

パウル・フェヨスの数奇な人生(6/12)

ブロードウェイ 1929年

「ブロードウェイ(原題:Broadway)」はパウル・フェヨスが「自分の人生でもっとも惨めな作品」と呼び、撮影監督ハル・モーアが「もっとも楽しんだ作品」と呼んだ映画です。もともとのストーリーは大したものでもないのに、ユニバーサルは、映画化の権利だけで100万ドルも払ってしまっていました。そこで、さらに500万ドルをかけて、大作にしようと打って出たのです。パウル・フェヨスはどうすればいいのかわかりません。世界のどこにも存在しないような巨大で派手なステージで歌って踊っている主人公が、「こんなうらぶれたところを出て、いつかビッグになってやる」と言っている、というとんちんかんな話ですから、そりゃ厄介です。今、この映画を見るとすれば、まさしくそのカメラワークを楽しむのでしょう。この映画のために、巨大なカメラ・クレーンを建造しました。クレーン長50フィート(約15m)、重量28トン、6輪の自走式で、クレーンは360度回転、180度スイング(すなわち半球すべて)し、クレーンに搭載したカメラ用ステージはさらに360度回転するという代物です。作ったのはいいのですが、ユニバーサルのステージに入らないし、フロアも沈んでしまうので、ユニバーサルは新しくステージを建設、コンクリートで固めたフロアに、この代物がぐるぐる動いても大丈夫なスペースと天井で、「ブロードウェイ・ステージ」と呼ばれました。「ブロードウェイ」の中で、目の回るような映像を見ることができます。実はそんな大きなセットだし、ぐるぐる回るクレーンでは、十分な照明を得られないことが明らかになります。そこで、天井には絹を張って、その向こうに白熱灯をたくさん配置しました。これは「星のように」みえるはずです。これでも十分ではなく、ハル・モーアはコダックに頼んで、特別に感度の高いフィルム(タイプAのパンクロマチックに特別な処理をしてもらったもの)を準備してもらいます。これが、すぐに劣化してしまうので、毎日、ロチェスターから冷蔵空輸して送ってもらっていたそうです。

ブロードウェイ 1929年
頭の上に摩天楼をかぶった踊り子たち
「ブロードウェイ」の撮影に使われたクレーン
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-n02-HF8-R8]
『ブロードウェイ』

この頃から、パウル・フェヨスとユニバーサルの関係は悪化していきます。パウルは人気ジャズバンドのリーダー、ポール・ホワイトマンの映画を監督するように言われます。まず、ストーリーがない。そこでユニバーサルの脚本部30人全員で考えるのですが、ろくなアイディアは出てきません。カール・レムリ Jr.は「だったら、アメリカの有名作家全員に聞いてみよう」と言い出す。「ポール・ホワイトマンの映画を作ります。すばらしいストーリーを100語でお願いします。」とありとあらゆる有名作家に送ったんです。セオドア・ドライサーは「No、Never」と50回書いて送ってきた。できた映画は「キング・オブ・ジャズ(原題:King of Jazz)」ですが、パウル・フェヨスはクレジットされていません。今では、ニルヴァーナのカート・コベインのおじいさんが出演しているので有名な映画です。

左からカール・レムリ Jr.、ポール・ホワイトマン、カール・レムリ Sr.、パウル・フェヨス
MGM映画「ビッグ・ハウス」の外国語版撮影現場で。
アルバート・アインシュタイン(中央)、パウル・フェヨス(右端)

「西部戦線異状なし」の映画権を買ったと聞かされていたにもかかわらず、パウル・フェヨスはそれを作らせてもらえない。どれもこれもつまらないストーリーばかり。彼は一方的にユニバーサルを辞めてしまいます。それからしばらくして、MGMに雇われますが、ここはもっとつまらない。最後は脚本部で脚本を読んでいたのですが、あまりにアホらしく、馬鹿馬鹿しい。ある日、回ってきたメモを見たとたん、パウルは立ち上がってオフィスを出て行き、そのままシカゴ行きの「チーフ号」に乗って、ハリウッドを去りました。彼自身の言葉を借りれば、「ハリウッドとの恋愛が終わった」のです。1931年のことでした。

パウル・フェヨスの数奇な人生(5/12)

都会の哀愁 1928年

こうなると、ハリウッドのどのスタジオも大きな扉を開けて、パウル・フェヨスを迎え入れようとします。結局、彼はユニバーサルと契約を結びます。その頃のユニバーサルは、MGMとパラマウントに大きく水をあけられていたものの、
着実に作品の質を上げていました。1930年代には、後に「ユニバーサル・ホラー」と呼ばれる、ホラー映画のスタイルを確立していきます。ユニバーサル・
ホラーの原型となる、パウル・レニ監督の「猫とカナリア(原題:The Cat and the Canary)」「笑う男(原題:The Man Who Laughs
)」が、このころ製作されています。創業者の息子のカール・レムリ
Jr.がこのころ製作の指揮をとるようになり、方向性を変えていったのですね。パウル・フェヨスは「好きな題材で撮っていい」と言われたものの、ユニバーサルが映画権をもつものには、ろくなストーリーがなくて苦労します。彼がやっと見つけたのは、短編映画用の3ページほどの「Lonesome」という作品でした。ニューヨークの街。せっかくの日曜日なのに、友達もいない、恋人もいない、家族もいない。そんな若い男と女が、遊園地で偶然知り合い、恋に落ちます。二人ははじめての楽しい時間を過ごし、幼い子供のように他愛のない遊びに喜びます。しかし、ちょっとしたことで、遊園地の人ごみにお互いを見失ってしまいます。観覧車から、ジェットコースターへ、探し回りますが、見つかりません。お互い名前も知らないまま、ニューヨークの人の海に呑み込まれてしまって、もう二度と会うこともないだろう、つまらない孤独に逆戻り。それぞれ、みすぼらしいアパートの部屋に帰っていきます。気づいたら、二人はそのアパートで隣人同士だったのです。ハリウッドのサイレント末期には、数多く傑作が残されていますが、これはそのなかでも、もっとも素敵な作品でしょう。

「都会の哀愁(原題:Lonesome)」は、長い間アメリカでも見る機会の少ない、「幻の名作」と呼ばれてきた作品です。時折、海外の映画祭で上映されることがあり、それを見た人たちが絶賛するのを読むことができるくらいでした。数年前にイタリアのテレビから録画されたDVD-Rが市場に出始め、私もそれを取り寄せてみたのが最初です。もとのプリントが何代も経たデュープで、輪郭も朧なものでしたが、それが唯一でした。去年になって、クライテリオンがついに
BluRayで、比較的状態のいいシネマテーク・フランセーズのプリントを修復したものを発売しました。この映画には、サウンドトラックがあり、一部トー
キーですが、トーキーの部分は付け足した感じがすごくします。あきらかにF.W.ムルナウの「サンライズ(1927、原題:Sunrise: A Song of Two Humans)」とキング・ヴィダーの「群集(原題:The Crowd)」の強い影響が見られます。特に「サンライズ」には深い感銘を受けたようで、パウル・フェヨスのヨーロッパでの作品にも強くその色を残しています。私は「都会の哀愁」の前半の部分が特に好きです。男性のほうは工場で、女性は電話交換台で働いているのですが、このそれぞれの職場のリズミカルなモンタージュは面白いですね。それから、街の風景がとても自然で、この「都市」の感覚は同時代のハリウッド映画にはあまり見られないと思います。パウル・フェヨス自身の言葉です。

On the reasons I selected the story was that it reminded me of New York. I wanted to put in a picture New York with its terrible pulsebeat, everybody rushing; where even when you have time, you run down the subway, get the express and then change over to a local, and all these
things; this terrific pressure which is on people, the multitude in which you are always moving but you are still alone, you don’t know who is your next neighbor.

Paul Fejos

続いて、コンラート・ファイト主演の「最後の演技(原題:The Last Performance)」を監督します。パウル自身によれば「ハリウッドに染まった」作品なのですが、ある意味それだけ、ストーリーの緊張・緩和といったメリハリがついたものにはなってはいます。カメラワーク・編集は独創的ですし、ちょっとした演出がはっとさせられるところもあって、面白い作品です。こ
の作品では、手品師であるコンラート・ファイトが嫉妬に駆られて、恋敵であるアシスタントを、ステージ上の演技の最中に殺す(箱の中にいるアシスタントを抜け出せなくして、そこに刀を刺す)シーンがあります。パウルは、その刀を差し込んでいる間は、ステージはるか遠く客席からロングショットで撮り、いざ箱を開ける瞬間に、客席のはるか遠くから一気にズームで箱の中のクロースアップになる、ということを考えました。撮影監督のハル・モーアと考えたのは、天井から4本のロープでつるした椅子に手持ちカメラを持ったモーアが乗り、それを後部客席の一番高いところから、一気に振り子のように落とすというものです。
実際には、モーアが宙吊りになってしまったりしてうまく行きませんでした。次に監督したのは「Captain of the
Guard」という作品ですが、撮影中に30フィートの高さのセットから落ちて怪我をしてしまい、降板してしまいます(その後、ジョン・ステュアート・ロ
バートソン監督が引き継ぎ、公開は1930年)。ここまでは、サイレント(サウンドトラック付)でしたが、次回作はトーキー、しかも流行のミュージカルでした。

最後の演技 1928年
左から コンラート・ファイト、メアリー・フィブリン、
ルース・マリア・ヤニングス(エミール・ヤニングスの娘)、パウル・フェヨス

パウル・フェヨスの数奇な人生(4/12)

ラスト・モーメント 1928年

では、彼はどうして他人のセットで映画を撮れると思ったのでしょうか?彼のアイディアはこうです。

人は死ぬ前に走馬灯のように自分の人生を思い出す。ほんの一瞬のうちに自分の人生のいろんな出来事がフラッシュのように想起される。その瞬間を映画にするのです。主人公は入水自殺を図ろうとする。その最後の一瞬に、彼の人生の様々な出来事がフラッシュバックで語られる。他人のセットでもいいのは、そのセットに合わせた「過去の物語」を作っていくことができるからです。だれかが、モンテ・カルロのセットを立てている。すると、主人公がモンテ・カルロで破産する話を作って、そのセットを借りて撮影する。他のプロダクションが病院のセットを建てている。すると、主人公は戦争で負傷して、病院で看護婦のジョージア・ヘールと出会うことになる。

ジョージア・ヘールの撮影も大変でした。彼女は出演することに同意したとはいえ、「空いている時間だけ」という約束です。ですから、ほとんど撮影に時間を割くことができません。ダブル(姿が似ている別の俳優)を使っても、できることは限られています。ここでもパウルのアイディアが活かされます。オーソン・ウェルズは「市民ケーン」で冷え行く夫婦関係をモンタージュで表現したと有名になりましたが、ここで彼は婚約から離婚までを全部モンタージュで表現します。公園のベンチのふたり、キス、指輪、教会の鐘、仲の良い二羽の鳩が、いがみあう二羽のカラスに変わり、ベッドで枕を取り上げる夫、キッチンの流しに積み重なった汚れた食器、といった具合に流れ、最後は判事の槌で終わります。

映画のタイトルは「ラスト・モーメント(原題:The Last Moment)」といいます。

3ヶ月ほどで作品は完成しましたが、今度はどうやって公開するか、という問題になります。そうです。誰一人として配給については約束していません。パウルは、ハリウッドでもっとも辛らつで厳しい映画批評家に電話をします。ウェルフォード・ビートン(フィルム・スペクテーター紙)とテーマー・レーン(フィルム・マーキュリー紙)の二人です。映画を作ったので、見て欲しい。「なぜ、私なんだ?」このあたりであなたが一番厳しい批評家で、本当に僕の映画がいいか悪いか知りたいんです。

ラスト・モーメント 1928年

レオン・シャムロイが映写技師となり、ファイン・アーツ・スタジオの映写室で試写が行われました。映画が終わった後、ビートンがパウル・フェヨスに聞きました。

「これは誰が監督したんだね?」

「私です。」

「これは、私が今まで見た映画の中で最高の作品です。」

パウルは、それが嫌味や皮肉ではなくて、本気なんだと気づくのに時間がかかったようです。

3日後、スペクテーター紙もマーキュリー紙も「ラスト・モーメント」を絶賛する記事を囲みで掲載しました。町中に彼らのことを絶賛する新聞があふれているのに、レオン・シャムロイもパウル・フェヨスも夕食のお金すら持っていなかったのです。ファイン・アーツ・スタジオのセットのベッドで寝泊りしていたパウル・フェヨスは、夜中にビートンからの電話でたたき起こされます。

「すぐに、君のフィルムをチャップリン邸に持ってきてくれないか?チャーリー・チャップリンが見たいと言っているんだよ。」

「ラスト・モーメント」は、チャップリンが代表をつとめるユナイテッド・アーチスツから配給され、ロスアンジェルスで1927年11月、ニューヨークで1928年3月に公開されました。ニューヨーク批評家協会は「1928年の最も優れた10作品」に「ラスト・モーメント」を選びました。水底に沈みゆく主人公、気泡の映像が、突然、フラッシュのように連続する人の顔や様々なオブジェのカット(おそらく数コマずつのラピッド・カットでしょう)に変わり、そしてそのカットのスピードがゆっくりとなって、最初の話につながっていく。そして終盤にまたこのフラッシュのようなシークエンスが出てきて、水に沈んでいく主人公に戻っていく。「こんな映画はいままで存在したことがなかった」「映画という媒体が、はじめて映画として息づいた」「パウル・フェヨスは、たとえこの1作品しか残さなかったとしても、映画史に残るであろう。」

この映画のプリントは現存していません。

パウル・フェヨスの数奇な人生(3/12)

パウル・フェヨス 1929年

パウル・フェヨスという人物をあらわす、もうひとつ重要な形容詞があるとすれば、「飽きっぽい」という言葉かもしれません。そうでなければ、人生の中でこれほどいろんなことに手を出すこともないでしょう。事実、彼の映画作品を見ていると、作っている途中で飽きちゃったんじゃないかと感じることがあります。彼は1925年いっぱいまで、ロックフェラー研究所に在籍しますが、どうやら飽きてしまうようです。一方で、彼の「映画の虫」が収まらず、ハリウッドに行くしかない、そこで映画を作るんだ、と思いつめるようになります。彼は、フレクスナー博士に「家族の事情で」カリフォルニアに行くことになった、と伝えます。フレクスナー博士はカリフォルニア大学バークレー校での職を世話してくれます。パウルは「バークレーはサンフランシスコの郊外で、サンフランシスコはロスアンジェルスの郊外だから、映画を作りながら、仕事にも通えるだろう」と的外れなことを考えて安心して出発してしまいます。

ぼろぼろのクルマでの大陸横断の旅を終えたあと、パウルは、サンフランシスコはロスアンジェルスの郊外ではないと知ることになります。しかし、彼の映画への決心は固く、ロスアンジェルスに住んで、ハリウッドの映画スタジオに毎日通い、外の門をじっと見つめて、家に帰る日々が続きます。すぐに資金は底をついて、彼はハリウッドとパサデナの中間にある、オレンジ畑に住むようになります。オレンジの木の下で寝て、起きるとハイウェイに歩いていって、ヒッチハイクでハリウッドまで行くのです。そして、夜になると畑に戻ってきて、木の下で寝るのです。このころ、日銭を稼ぐために、ボクサーとしてリングに立っていたようです。とにかくノックアウトされるまで立っていればいいというやつで、1ラウンドごと5ドルもらえたようです。彼の耳がボクサー特有の「カリフラワー」になっているのは、そのせいです。

正直、ハリウッドに毎日行っても、映画監督どころか、エキストラの仕事さえ簡単にはもらえません。ジョセフ・フォン・スタンバーグの映画に「最後の命令(1928、原題:The Last Command)」というのがありますが、帝政ロシアで将軍だった男が、革命で追われ、ハリウッドでエキストラをやっているという話です。パウル・フェヨスは、それを地でいっているのですが、なぜか、エキストラで終わるのではなく、本当に映画監督になってしまいます。

ある日、彼をオレンジ畑で拾ったのは、エドワード・M・スピッツという男でした。彼のどでかいピアス・アローというクルマのなかで、彼らはお互いハリウッドで映画を作るという夢を語り合います。彼は、実はニュージャージーの事業家の息子なのですが、映画熱にうなされてしまい、どうしてもプロデューサーになるといってきかない。困った父親が「映画を作って来い」と、10000ドルという中途半端なお金を渡したのです。当時は最低でも30000ドルくらいは一本の映画を作るのに必要でしたから、父親は「世界を見せてあきらめさせる」つもりだったのでしょう。スピッツは、もうお金を半分くらい使ってしまっていました。

「僕はプロデューサーになりたい、君は?」

「僕は監督になりたいんだよ。」

「そうか!お金は5000ドルある。やってみないか?」

次の日、フェヨスは5000ドルの小切手を手にして(!)、映画製作に乗り出します。

まず、俳優探しです。彼は知り合いのエージェントに行って「金は払えないけど、それでもいいから映画に出たい役者」のリストをもらいます。それから、主演女優です。彼はチャップリンの「黄金狂時代」に出演していた、ジョージア・ヘールに前々から目をつけていました。映画を作るなら、彼女を主演女優にしたい。でも、彼女はいまやハリウッドのトップスターです。普通にエージェントなんて通したって、無理に決まっています。そこで、友人から彼女のスケジュールを聞きだし、西部劇のロケーション撮影の日(周りに誰もいない砂漠)に会いに行きます。ランチ休憩のときに、彼女に近づいていって、出演交渉をします。

「エージェントを通してもらえないかしら。」

「エージェントじゃダメなんです。私は貴方とお話がしたいのです。」

「なぜ?」

「タダで私の映画に出演してもらいたいからです。」

ひとしきり爆笑したあと、彼女は笑いながら「帰ってね。じゃないと警察呼ぶわよ。」といいます。

「ここには警察いませんよ。砂漠の中ですから。」

結局、彼女はパウルの話を聞き、面白いと思ったのか、タダで出演することに同意します。最終的には彼女のエージェントから、無名で当たり役を探しているオットー・マティセンも紹介され、主演男優となります。

それから、場所です。そのころ、ハリウッドには「ファイン・アーツ・スタジオ」という貸しスタジオがありました。いわゆる独立系やB級(Poverty Row)の製作者が、日割りで借りて、撮影するところです。パウルは、そこに行き、「時間割で貸してくれ」と交渉します。

「ありえないだろ。セットを立てるだけでも何日もかかるんだぞ。」

「いいんです。時間割でお願いしたいんです。誰かが撮影していないときにセットをそのまま拝借したいんです。」

「え?他人のセットでどうやって映画撮るのさ?」

ここが、彼の映画のミソでした。

それから、フィルムです。当時のハリウッドは、フィルムといえば、コダックが主流で、アグファが若干使われている程度でした。そこにデュポンが割り込もうとしていました。パウルはデュポンのセールスに会いに行き、

「フィルムをツケで売ってくれませんか。映画の最初に『フィルムはデュポン』、映画の最後に『フィルムはデュポン』って出しますから。」

喜んだセールスは、何千フィートものフィルムを送ってきました。

カメラマンとカメラ。無名だったレオン・シャムロイ(ええ、そうです、オスカーを4回受賞した、「猿の惑星」のレオン・シャムロイです)に声をかけ、のるかい?、のった、で組むことになります。カメラはシャムロイがツケでどこかから借りてきました。

パウル・フェヨスの数奇な人生(2/12)

ニューヨーク 1923年

1923年10月、パウル・フェヨスは、ニューヨークにレバイアサン号でたどり着きます。

1910年から1920年にかけて、ヨーロッパから多くの移民がアメリカに流入しています。多くの芸術家や科学者などもいますが、だいたい親戚を頼ってくる場合がほとんどです。しかし、パウルは全くの天涯孤独でした。誰も知らない。英語も話せない。アメリカのこと自体良く知らない(母親は、ニューヨークの外に出ると、インディアンに食われるから出ないでくれと懇願したそうです)。なぜか、パウルは自分は重要人物だからとニューヨークきっての高級ホテル、ウォルドーフ・アストリアに泊まっていたのですが、すぐに所持金は底をつき、自分の持ち物を質屋に入れようとして馬鹿にされる始末。安宿に移ったものの、仕事が見つからない。正確に言うと、どうやって仕事を見つけたらいいかわからなかったのです。毎朝、朝7時半にきっちり起きて、ニューヨークの街中を歩いて、帰ってくる。そんなことをしても、仕事など見つかる訳ないのですが。

ある日、疲れてしまったのでベンチで休んでいると、隣にみすぼらしい身なりをした男が座って話しかけてきました。英語がわからないパウルは、それでも「cigarette」だけはわかったので、彼にタバコをあげました。ほとんど会話はできなかったのですが、男は陽気に話しかけてきます。「ドイツ人か」とか、「いい天気だな」とか。パウルは不思議に思いました。アメリカ人は全員働くと聞いている、なのにこの男は昼の11時に何もせずにいる、どういうことだろう?つたない英語で聞くと、彼は午前中働いていたが、クビになったと言うのです。

「働いた分だけは手当てをもらったんでね、今日はもういいんだ。明日もまた働けるさ。」

明日、どうやって仕事を見つけるの?

「真夜中に街に出て行って、ニューヨーク・ワールド紙を買えばいい。そうして求人欄をみて、『腕っぷしのつよいヤツ求む』以外で、気に入った求人を見つけるのさ。朝一番にその住所に行けばいい。昨日は、俺は溶接工だったんだよ。溶接のことなんて、何も知りやしない。朝の8時に雇われて、10時半にクビになった。でも働いた分はもらえるんでね。」

これは夢の国だ。

パウルはその夜、早速ニューヨーク・ワールド紙を買い、次の朝、ニューヨークのウィンターガーデン劇場の通用口で、列の先頭で待っていました。それから2週間、彼はウィンターガーデン劇場の舞台の仕掛けの「太陽」の役をやります。円形の反射板をアスベストの手袋で持って、舞台の背景の後ろに立っているだけです。劇場は2週間で御用済みになり、その次は、葬儀屋。喪服を着て、参列者に「足元にお気をつけください」とだけ言うのですが、Watch Your Stepsの”W”がどうしても発音できない。それからピアノ工場。ここは自動演奏ピアノの工場ですが、最初は運搬、そして組立工程。週18ドル。

ようやく、食べていけるだけの収入が手に入るようになったパウル・フェヨスですが、遊ぶ金はありません。彼は「無料」で楽しく過ごすことを覚えます。その頃のニューヨークにはいろんな享楽があり、ぶらぶら見ているだけで十分面白いものもあったのです。彼は10セントストアに入り浸り、そこで庶民、というより資本社会の底辺の人たちの娯楽を吸収していきます。おそらく、このときの記憶が、「都会の哀愁」や「君と暮らせば」などの映画作品にずっと残っているのではないかと思います。

ウィンター・ガーデン劇場 1923年

ある日、彼は通りで「化学者クラブ」という看板を見つけます。「無料講演会」とあって、英語の勉強になるかと思って聴講するのですが、さっぱりわからない。隣は「化学者クラブ職業斡旋所」となっているので、早速入ってみると、若い女性がめんどくさそうに応対する。

「で、何?」

「仕事が欲しいんです。」

「あんた、化学者?」

「いいえ、医者です。検査ラボとかで使ってもらえないかと」(ちなみに彼は医者であることをこのときまで誰にもずっと言っていません。)

「この書類に書いて」

パウルがすっかり書き終えると、

「じゃ、5ドル」

お金が必要だったとは、このときまで知らなかったパウルは動転します。ここにきて相手の女性が大騒ぎ。

「え、何、お金ないの、何、いい加減にしてよ、この書類、通し番号振ってあんのよ、どうしてくれるのよ!」

「お金を払わないといっていません、後でもってきます。」

「冗談じゃないわよ、そうやって逃げるつもりでしょ、泥棒!」

騒ぎを聞きつけたマネージャーが現れ、パウルの申請書を見ます。

「君は医者なの?」

「そうです。」

「卒業証書(ディプロマ)は持っているかい?」

「ええ、家に。でもラテン語ですよ。」

「ああ、いいよ。持ってきてくれるかな?で、今何してるの?」

「ピアノ工場の日雇いです。」

2日後、ロックフェラー研究所からパウル・フェヨス宛に電報が届きます。水曜日の10時、フレクスナー博士のオフィスに来て欲しい、という内容でした。

サイモン・フレクスナー博士は、赤痢菌の研究や脳脊髄膜炎の研究で有名です。野口英世とも共同で研究したことがあります。もうこのときは白髪の老人でした。

「君が、医師で、ピアノ工場で働いているんだね。どうして医師の仕事をしないの?」

「英語ができないからです。」

「ほかにはどんなことができるの?」

「馬に乗れます。」

「どれくらい上手いの?」

「走る馬の鞍の上に立って、電線を切ることができます。」

「君はいったい何者なの?医師?ピアノ工?馬乗り?」

フレクスナー博士は侮辱ではなく、本当に不思議に思ったようです。

次の日から、ブロンフェンブレナー博士の研究室で働くことになりました。朝一番に行くと、ブロンフェンブレナー博士は、

「ここにボツリヌス菌がある。これをネズミに投与して、MLDを出して欲しい。」

と言っていきました。

パウルは、一人で実験室に座ったまま、何時間もフラスコをじっと見つめていました。ボツリヌス菌ってなんだ?MLDってなんだ?どうやってMLDって出すんだ?ああ、やっぱりダメだ。僕は偽者だ。今からブロンフェンブレナー博士のところに行って、告白しよう。私は何も知らない偽者です。クビにしてください。

「何だって?知らないんだったらどうして聞かないんだい?ほら図書室もあるんだよ。ここで調べられるし、わからなかったら聞けばいいんだよ。誰だって最初は何も知らないんだよ。」

ロックフェラー研究所といえば、世界でも有数の学術機関です。そこの博士ともなれば、威張り散らしていてもおかしくないでしょう。○○大学出身だとか、そういったことで人を見下す人は昔も今も変わらずいます。このときのパウル・フェヨスを侮蔑し、研究所から追い出した人がいても全くおかしくありません。しかし、このブロンフェンブレナー博士の言葉と態度こそ、その後のパウル・フェヨスという人物を作ったと思うのです。マダガスカルやアンデスの先住民と接するときにも、彼は謙虚で、「知らない」ということをはっきり言える人でした。自分が「文明人」だからと、見下すことはなかったのです。ブロンフェンブレナー博士のこの言葉に救われて、パウル・フェヨスは「自分の人生でもっとも幸福な年月」をロックフェラー研究所で過ごします。

パウル・フェヨスの数奇な人生(1/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで。1940年代初頭。

ある日、私はノルディスク・フィルム(デンマークの映画会社)の重役会議に乗り込んでいった。私はここでの映画監督の仕事をすぐに辞めたいといった。もうここでは映画を作れない、と。重役たちは、あと2年契約が残っている、と言う。・・・・私は、ここではもう新しい映画は作れない、と主張した。『じゃあ、どこなら作れるのだ?パリか。ロンドンか?』とにかく辞めたい一心で、私は会議室の壁に貼ってあった世界地図の上で、私の指の届くところにあったマダガスカルを指差した。『ここでなら。』マダガスカルのことなんかなんにも知らない。・・・・困ったことに、重役たちは『マダガスカルか、よろしい。カメラマンは誰がいい?』と聞いてきた。

Paul Fejos

パウル・フェヨスという人物は、まだ日本語圏内ではそれほど紹介されていません。彼の名前を検索すると、いくつかの映画のデータベースに行き着くくらいです。実際、彼が映画監督・文化人類学者として、もっとも名を馳せた英語圏でも、ごく最近になって見直されてきたに過ぎません。彼の名前の表記が、パウル・フェヨスがいいのか、ポール・フェヨスがいいのか、パル・フェヨスがいいのかも定かではありません。彼を映画監督と呼ぶのがいいのか、文化人類学者と呼ぶのがいいのか、考古学者と呼ぶのがいいのか、それもはっきりしません。いえ、彼はそれら全部であって、もっと他にもあるのです。医者、騎兵、ピアノ工員、生化学者、ボクサー・・・。そして、彼の人生は、ほら吹きでさえ言うのをためらわれるような、信じられないような出来事の連続なのです。しかし、その人生の物語を読む限り、彼が残したいくつかの映画が根底に持っている信念 ─── 誰でも幸せになることができるし、そして人生を思いっきり楽しむことができる ─── が、その中に息づいているのが伝わってきます。

一般的には、映画監督としてのパウル・フェヨスが有名です。とはいえ、彼がハリウッドで監督した「都会の哀愁 (Lonesome、1928)」「ブロードウェイ (Broadway, 1929)」が、ごく最近、現存するプリントが修復されてようやく日の目を見たところなのです。彼が1930年代にヨーロッパで監督した作品はまだまだ埋もれたままです。文化人類学の領域では、彼はマダガスカルや東南アジアの先住民の文化について最初に調査した研究者の一人であり、貴重な映像資料を残した人物として知られています。また、考古学調査の一環として、インカ帝国の16の遺跡都市を発掘し、アマゾン上流に居住していたヤグア族の文化を詳細に記録しました。後年はアメリカの科学財団の責任者として多くの研究を後押しし、放射性炭素年代測定法の確立に一役買ったりしました。なんだか、ひとりの人物とは思えませんね。これはそのパウル・フェヨスの話です。

パウル・フェヨスは1897年1月24日にハンガリーのブタペストで生まれました。彼の家系は15世紀にまで遡る古い由緒のあるもので、いわゆる土豪でした。父親を早く亡くし、母方の親戚の邸宅で恵まれた幼少期を過ごしたようです。しかし、その後、父方の厳格な叔父の世話になってからは、不自由な日々を送りました。後年まで、パウルは叔父の悪夢を見たそうです。

ハンガリーは、まだこの頃、オーストリア=ハンガリー帝国の一部で、ハプスブルグ家の支配下にありました。しかし、ハンガリー民族の独立運動はずっとくすぶっており、19世紀には様々な内戦や闘争が起きています。一方で、オーストリア=ハンガリー帝国の貴族は、支配階級として強いプライドと信念を持っていました。特にハンガリーの貴族は、その血の気の多さと誇りの高さ、そして少しばかりエキセントリックな行動で知られていました。もちろん、パウルにはこの血が流れています。

ジムナジウム(中学/高校)のころから演劇に興味を持っていたパウルは、演劇の道に進むことを望みましたが、叔父に反対され、結局、医学校に進みます。ところが医学校に入ってすぐ、第一次世界大戦が始まります。1917年に、パウルは騎兵隊に配属されます。騎馬民族の長い長い歴史をもつハンガリーでは、「馬に乗る」ことについてうるさい人が多く、騎兵隊となればなおさらです。しかし、世間知らずのパウルは入隊のときに、「お前は馬に乗れるか」と聞かれ、「はい、乗れます」と答えたために、「へぇ~、馬に乗れるってよ」と、隊でもっとも荒くれの雌馬、ウィルマをあてがわれます。騎兵隊の点呼のときには、馬を巧みに駆って隊長の前で止って、また隊列に戻る、というのが規則なのですが、パウルはウィルマを制止できず、毎朝全速力で隊長の横を通り過ぎてどこまでも行ってしまい、隊の笑いものになっていたようです。

とはいえ、騎兵隊はもうすでに時代遅れでした。実際の戦闘で前線に立つことはなく、もっぱら偵察の目的で使用されていました。その後、パウルは航空隊に配属されますが、そこでも偵察役でした。彼はここで飛行機の操縦を覚えます。

第一次世界大戦が終わり、パウルは医学校に復帰します。1921年に学位をとりますが、彼は医者になる気は全くありませんでした。もう在学中から何本も映画を撮っており、すっかり映画の虜になっていたのです。在学中に監督した映画は

Pan (1919)
Lord Arthur Seville’s Crime (Lidercnyomas) (1919)
The Black Captain (Fekete Kapitany) (1920)
Reincarnation (Ujraelok) (1920)
Arsene Lepin’s Last Adventure (Arsene Lepin Utolso Kalandja) (1921)
The Star of Eger (Egri Csillagok) (1921)

パウル自身によれば、これらはどれも1週間ほどで楽しみながら作ったに過ぎない、というものだったそうです。卒業後から1923年まで、彼は、ブダペストやパリの劇場で、オペラや舞台を手がけます。一度はパリのグラン・グリニョールでも演出したようです。この頃、ヨーロッパでは、マックス・ラインハルトのスタイルが、演劇界、映画界を席巻していました。パウルも強い影響を受けた一人で、実際ラインハルトの舞台で、技術スタッフとしてかかわったこともあります。ハンガリーの小さな村で受難劇を演出したこともありました。100人に上る村人たちが出演者ですが、ほとんどが文盲だったため、口述でセリフを覚えさせる必要がありました。

1921年に、彼はマラ・ヤンコウスキーという女優と結婚します。彼は生涯を通じて嫉妬深い性格で、こと女性になるとのぼせやすい性質でした。わずか2年の結婚生活の間に5回も「浮気相手」と決闘しています。ほとんどが、パウルの言いがかりのようなのですが。

その頃、フェヨス家は経済的に凋落してしまっていました。パウルの母親が、いわゆる戦争債を戦時中に買ったのですが、それが敗戦と共に紙くずになり、土地や財産はすべて消えてしまったのです。さらに不安定な政権や社会情勢がブタペストに押し寄せていました。1923年、離婚を契機に、最初の冒険に出ます。

西部戦線一九一八

また、G. W. パブストの映画について書こうと思います。

1930年には、第一次世界大戦のドイツ軍の悲惨な戦いを描いた映画が2本公開されました。有名なのは、ユニヴァーサルが製作した、ルイス・マイルストン監督の“All Quiet on the Western Front”[邦題:西部戦線異状なし]ですね。この作品は、アカデミー賞を受賞したことも手伝って、今でも「古くならない反戦映画」という評価もちらほら見ることがありますし、廉価版のDVDでどこに行っても売っています。しかし、もうひとつの映画、G. W. パブストの“Westfront 1918″[邦題:西部戦線一九一八]は公開当時こそ反響が大きかったのですが、今はあまり見る機会がありません。IMDBでも、ルイス・マイルストンの「西部戦線異常なし」は36000人以上が点数をつけているのに、パブストのほうは500人くらいしかつけていません。たいした映画ではなかったのかというと、そうではありません。公開後、この映画をナチス政権が否定したことで、ドイツ国内で忘れ去られてしまったことや、映画そのものの救いのなさが手伝って、いわゆる名作としては思い出されなかったのではないかと推測します。
ルイス・マイルストンの作品は「メインとなるプロットはほとんどないといってよく、ただ塹壕の中で戦うエピソードが次から次へと描かれるだけだ」とも言われますが、それでも主人公のポールの視点からみた戦争の世界という一貫性があります。パブストの映画はもう「視点の一貫性」さえもあやふやで、最初から最後まで継続した「物語」というものは放棄しています。前半は「学生」と呼ばれる青年兵と戦地の村の娘との恋に若干焦点が当たっているのですが、「学生」は戦死してしまい、後半は同じ部隊のカールに関心が移ります。「西部戦線異状なし」のような、ポールとそれを取り巻く戦友、というドラマやエピソードは、「一九一八」にはないのです。唯一ドラマらしくなりそうなポイントといえば、休暇をもらったカールが家に戻ってみると、妻が別の男と寝ているというエピソード。しかし、パブストはそれさえもドラマチックに描くことをせず、むしろ恐ろしいまでの無気力で画面を覆います。カールは怒りもしないし、悩みもしない、だからと言って許しもしない、もう、自分の妻が食料欲しさに誰と寝たということさえも、どうでもいい。また戦場に向かうカールと彼の妻が、階段で別れるシーンは、唖然とするくらい、見る者を拒むのです。これを見たときは、私は自分自身がいかにメロドラマ的な展開を期待してしまっているか、思い知らされました。
これは、戦闘シーンにも言えることです。マイルストンの「西部戦線異状なし」には、有名な機銃掃射のトラッキングショットがあります。突撃してくる敵兵がばたばたと斃れる様子を、機関銃の音と共に見せるのです。カメラが機関銃のように人を撃ち殺していく、そういう錯覚に襲われます。しかし、パブストの戦闘シーンは、固定されたカメラによる長まわしで、そのような編集技術を駆使したものにはなっていません。敵が攻めてくるのを塹壕からライフルでなんとか撃っている、そういう兵士の視点なのでしょうか。ここでも、ドラマチックな「闘い」の描写を徹底的に避け、なにか不気味に突き放した映像になっています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ciq9ts02ci4?rel=0]
「西部戦線異状なし」の戦闘シーン
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=1OcGTMyFJPE?rel=0]
「西部戦線1918」の戦闘シーン

パブストの「西部戦線一九一八」が衝撃的なもうひとつの要因は、映画のはじめとおわりに出てくる戦闘で、いずれも自軍の攻撃によって兵士が斃れていく様子を描いていることだと思います。映画のはじめのほうでは、味方の後方からの砲撃が距離が短く、最前線の塹壕に落ちてきて苦しめられる様子が描かれます。トンネルが崩れ、トンネルの下敷きになりそうな戦友たちのうえに、味方の砲弾が容赦なく着弾します。映画がはじまっていきなり全くやるせない話なのです。そして映画の終わりのほうのクライマックスでは、味方によって自分たちの塹壕に毒ガスが撒かれるのです。敵は戦車を従えて容赦なくカールたちの塹壕を襲ってきます。カールの部隊の多くは負傷し、敵が累々と積み重なる戦友の死体を踏みつけて前進していきます。このときに、塹壕の中で味方によって毒ガスが撒かれ、防毒マスクを装着したドイツ軍兵士たちが後方から現れて、敵を押し戻していくのです。
この映画は「国を防衛するとか皇帝のためにとかではなく、ただ目の前にいる愛する人を守る」という考えも、甘ったるいメロドラマだと静かに言い切っているのです。「家族を守る」「愛する人を守る」と言っても、家族は貧困にあえぎ、出征した夫のことなど忘れてしまっている。「友を守る」なんて言っても、上官は戦果をあげるためなら、自分の部隊の塹壕に毒ガスを撒くこともいとわない。「自分が誰かを守る」なんてすべてまやかしで、戦争に巻き込まれてしまえば、自分はただの肉片に過ぎず、なんの力も持ち合わせていないということを、淡々と描ききっているのです。この映画では、そういうことを誰一人演説をぶつわけではありません。ただ惨めな状況に黙って死んでいくだけです。
でも、本当に黙っているか言うと、そうではない。
「西部戦線一九一八」は、パブストの初めてのトーキーです。この映画の音で最も心に刻まれる「音」は、正気を失った大尉の絶叫でしょう。全編を通してこの大尉は非常に冷静な人物として描かれていますが、後半の戦闘の場面で、上官から毒ガスを自陣に撒くように命令され、その命令を遂行したものの、彼自身は正気を失うのです。聞く者の鼓膜を切り裂くような意味不明の叫びに続いて、野戦病院にこだまする数々の悲鳴が聞こえてきます。そのすべてが、自分の何かを失ったことへの叫びです。目を失った者、両足を失った者の、「あるべきものがない」ことへの慟哭です。その悲鳴とうめきの中で、カールがボソッと言うのは「仕方なかった、自分のせいではない、とみんな言ってきた。でも、これはみんなのせいなんだ。」こういうメッセージを、それまで淡々と撮っていたカメラが捉えるのは違和感を覚えるのですが、それ以上に、この映画の後にナチスが政権を掌握して戦争と虐殺を繰り返すことを考えると、このメッセージが、何かを予見していたようにも思われます。

G.W.パブストの”Abwege(1928)”:「気づかない」ということ

前回前々回に引き続き、G.W.パブストの”Abwege (1928)”について考えていきます。

無声映画を見間違える

以下のシーンは、トーマスとアイリーンのやりとりです。アイリーンは、夫のトーマスに愛想を尽かし、画家の男と駆け落ちしようと、駅で待ち合わせていたのですが、画家は現れません。代わりにトーマスが現れ、アイリーンを家に連れて帰ります。トーマスはすでに画家に会いに行き、アイリーンと分かれるように迫って、その旨の手紙を書かせていたのです。このシーンは、トーマスがアイリーンを家に連れて帰って、その画家の手紙をわたすところです。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ps4fyb2mHB4?rel=0]

夫を呼びにきた男性と、アイリーンが夜のベルリンにくりだしていくところで、この動画は終わります。夫は「クラブに行かなければならないことは、君も知っているだろう」とアイリーンに言ったものの、いざとなって妻との関係を悩んで、行くのを止めて、2階の自分の部屋に戻るのです。さて、アイリーンは、夫が外出しなかったことを知っていて、くりだしたのでしょうか?
実は、私は、はじめてみたときはそう見ていました。そう思った人も多いのではないでしょうか?アイリーンは、グジグジしている夫を家に残して、当てこすりのように遊びに行ったのだと。しかし、よく見てみると実はそうではないのかもしれないのです。下の動画は、上の動画を編集して、画面左に夫が映っているシーン、右に妻が映っているシーン、真ん中に両方が映っているシーンに分けたものです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=4yTiTOiUNes?rel=0]

夫と妻の間には仕切りがあり、お互いの行動を直接見ることはできません。ですから、お互いの物音がカギになります。夫が玄関のドアに手をかけるところまでは、アイリーンがその物音を聞いていることを、彼女の目の動きと表情から読み取ることができます。しかし、夫が戻って階段を上がっていく場面では、どうでしょうか。彼女のショットは、夫が階段を上がりきるまで出てきません。そしてその前後で彼女の表情は変わっていないのです。夫がクラブに行くのを止めたことは、彼女に届いていないのです。
ここで、つじつまの合わないことが起きていますね。夫が扉のところに行くまでは、アイリーンには物音が聞こえているのに、彼が引き返して仕切りの前を通り、階段を上がっていく足音は聞こえていないことになります。この差異は、アイリーンが目で追ったかどうかと言うところに集約します。無声映画の場合、画面に映っている人物が、周囲で起きていることを「音で聞いた」という場合には、視覚的に表すことが不可欠です。もし視覚的に表していない場合には、それは「聞こえていなかった」ということです。

敵の蒸気機関車なのに誰も気がつかない

 

バスター・キートンの”The General (1926)”[邦題:キートン将軍]では、このルールが効果的に使われています。舞台はアメリカ南北戦争、キートンは南軍の機関車を走らせて、北軍のスパイの機関車を追跡します。この追跡の最中に南軍は退却してしまって。キートンの機関車が爆走する周囲を北軍の部隊が進んでいきます。けれども、キートンは機関車の燃料の薪割りに忙しく気づかない。あれだけの部隊が周囲で移動しているのですから、その騒音や行進に気づかないわけがないのですが、サイレント映画だと、キートンにとっては無音の状態が維持できるのです。彼がようやく気づくのは、彼の視線が北軍の進む様子をとらえるときです。あくまで、視線の確認が画面で表現されて、はじめて存在が確認されるのです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=l2fdwFoHTwg?rel=0]
面白いのは、伴奏音楽はたいていの場合、キートンが気づいていない間も、北軍の行進曲のメロディを挿入するのです。観客は、北軍の進軍に気づいている。そして、キートンがそれに気づいていないことをおかしく思う。もっと興味深いのは、北軍が機関車の進行に全く反応していない、という点ですね。これは実際にはありえないことですが(進軍している方角から、機関車が来れば、部隊としてはそれを停止させますよね)、その疑問が観客に浮かばないように、視点が選ばれているんです。キートンのことを客観的に見ながらも、キートンに寄り添って、没頭している視点を、フィルムをつなげるだけで作っているんです。

窓に映った本当のこと

クラレンス・ブラウン監督の”Smoldering Fires (1925)”[邦題:燻ゆる情炎]のクライマックスのシーンは、さらに複雑な視線のやり取りで「気づく」ことがカギになります。ヒロインのジェーンは成功したビジネス・ウーマンで、年の離れた若い部下のボビーと結婚しています。ボビーは、ジェーンとどこか住む世界が違うことを感じ、ジェーンの妹のドロシーに魅かれ、ドロシーもボビーに魅かれていきます。これは、ディナーが終わった後の場面です。ボビーは庭でタバコを吸いながら物思いにふけっている。ドロシーは、ひとりベッドルームで泣いている。廊下を歩いているジェーンが、それを聞きつけるところから展開します。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6DZ4wxBOdqc?rel=0]
非常に見にくい動画ですが、もともと16mmの状態の悪いプリントから起こした素材です(コマの揺れはあまりにひどいので補正処理し、字幕も入れなおしました)ので、ちゃんとした修復が望まれる映画です。ジェーンが「ボビー」と、庭にいる夫に呼びかけたときに、ガバッと起きるドロシー。窓に映ったドロシーで気づくジェーン。ひとりひとりの「声」への反応が、しっかりと演技され、撮影され、編集されています。サウンドトラックの効果音も、呼吸の音もない世界です。無声映画にとって、編集のリズムがいかに重要か、よくわかる例です。

「気づかない」という表現

「気づく」というのは、反応を見せることで表現できるのですが、「気づかない」というのは「反応しない」という動作で表現するしかないのです。”Abwege”のアイリーンの例が厄介なのは、アイリーンが「画面の外で起きていること」に「気づかない」という、かなり表現しにくい状況だからです。キートンの場合は、「画面の中で起きていること」に「別のことをやっていて」「気づかない」という構造にしていますから、後景と前景でアクションを並行させて、表現しています。ジェーンとドロシーの場合は、ジェーンは「気づいた」が、ドロシーはジェーンが気づいたことに「気づいていない」、そしてさらに、ジェーンは、ジェーンが気づいたことにドロシーが気づいていないことに「気づいて」、ごまかし始める、という瞬間を、窓に映った像を介して表現するという、離れ業をやってのけていると思います。
アイリーンとトーマスの場合は、なるべく二人を同じフレームに入れないことが前提です。二人が一緒にフレームに入っているのはごく数ショットです。完全に二人は別の空間にいて、別の空気を吸っているのです。ハリウッドの監督だったら、もう少しショットを短くして、「気づかない」ための仕掛けを用意するでしょうね(手紙をもう一度読ませたり、電話をかけさせたり・・・)。そういう「動作」を使わず、ジリジリと押し切った。余韻というか、重い気体に包まれた空間を感じます。トーマスは、アイリーンが気づかなかったことに気づいていたのでしょうか?それは実は読み取るキューが画面には出ていないと思いますが、どうでしょう。