広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (後篇)

「沈黙の塔」

撮影のギュンター・リッタウ(1893 – 1971)は、もちろん、フリッツ・ラングの「メトロポリス(1927)」をカール・フロインドと担当した有名なカメラマンです。特に「特殊撮影の」リッタウとして有名でした。ドイツ国内でのはじめてのトーキー「心のメロディ(Melodie des Herzens, 1929)」(Youtube, 部分)やジョセフ・フォン・スタンバーグがドイツで監督した「青い天使(Der Blaue Engel, 1930)」(YouTube)の撮影を担当し、1930年代からは自ら監督もこなしました。1940年の「潜水艦よ、西へ!(U-Boote westwärts!, 1941)」(YouTube)は彼が監督した国策映画のヒット作です。戦後は50年代から撮影監督にもどっています。
「沈黙の塔」ゼニア・デズニ
ルディ・フェルド(1897 – 1994)は、ベルリン出身の舞台美術家です。1910年代後半からナイトクラブのポスターなどを手がけ、映画の美術は1920年代から担当しました。1926年にはウーファの宣伝PR担当部長になり、主にウーファ・パラスト劇場の舞台や看板美術を担当します。ウーファ・パラスト・アム・ズー(Ufa Palast am Zoo)はベルリンのブライトシャイトプラッツにあった、ウーファのフラッグシップの劇場です。20世紀のはじめに隣接する動物園のホールから映画館に転換され、1926年に改修されて2000人以上を収容できる最大規模の映画館となりました。
「スピオーネ」公開時のウーファ・パラスト劇場装飾デザイン
フリッツ・ラング監督「月世界の女」公開時の
ウーファ・パラスト劇場内の装飾
(ルディ・フェルド)
パラマウント映画「つばさ」公開時のウーファ・パラスト劇場
(ルディ・フェルド)
ルディ・フェルドは、この映画館で新しい映画がプレミア上映されるたびに、劇場の内外に独創的な装飾美術や仕掛けを創り出していきました。1928年のフリッツ・ラングの「スピオーネ(Spione)」(YouTube, 部分)の公開の際には、入り口のファサードに大きな眼を据えつけて、そこからサーチライトが劇場前を照らす仕掛けで話題になりました。「アスファルト(Asphalt, 1929)」(YouTube)の公開の時には都会の通りが写された透明なシートが貼り出され、その前を点滅する自動車の仕掛けが動いていたと言われています。また映画のプレミア公開の前にライブショーを催すのも、この劇場の特徴だったのですが、この舞台芸術もルディ・フェルドが担当しました。しかし、1933年、ナチスが政権を掌握すると、ユダヤ人である彼はウーファ経営陣から「長い間は雇えないから」と言い渡され、国外へ脱出します。パレスチナでナイトクラブでも経営しようかとしているところへ、弟で俳優のフリッツ・フェルドからの誘いがあり、ハリウッドへ。ハリウッドで主にプログラム・ピクチャーの美術を担当しました。
 
ウーファ・パラスト劇場での
「サム・ウディングとチョコレート・キディズ・オーケストラ」のショー
舞台装飾はルディ・フェルド(1928)
ルディ・フェルドがプロダクション・デザインで関わった
フィルム・ノワールの傑作「ビッグ・コンボ(1955)」

広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (前篇)

「沈黙の塔」

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沈黙の塔
Der Turm des Schweigens
1925年
ヨハネス・グウター 監督
Johannes Guter
ゼニア・デズニ、ナイジェル・バリー、フリッツ・デリウス 出演
Xenia Desni, Nigel Barrie, Fritz Delius
クルト・J・ブラウン 脚本
Curt J. Braun
ギュンター・リッタウ 撮影
Gunter Rittau
ルディ・フェルト 美術
Rudi Feld
エーリッヒ・ポマー、デクラ・フィルム、ウーファ 製作
Erich Pommer. Decla-Film-Gesselleschaft Holz & Co., Universum Film (UFA)
デクラ・ライ、ウーファ 配給
Decla-Leih, Univerum Film (UFA)
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飛行機が砂漠で墜落し、二人の男が生死の境をさまよう。そのうちの一人はもう一人を欺いて、自分だけ逃げ、さらに大事な研究成果と恋人をさらってしまう。復讐を誓った男がたどり着いた恐ろしい塔に住んでいた、娘とその父親。その父親はマッド・サイエンティストだった…。
もう、上のスチール写真だけでわくわくするような映画ですね。マッド・サイエンティストが、塔の上であんな格好しているのですから、いい映画に間違いありません。
この映画は「忘れられた名作」として近年注目を浴びている作品です。2006年にプリントの修復が行われ、2007年にベルリン映画祭で記念上映されました(1)。1924年当時、ウーファのスタジオでは4本の作品が製作に入っていたと記録されています。F・W・ムルナウの「最後の人」、フリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」、アーサー・フォン・ガーラッハの「王城秘史(Zur Chronik von Grieshuus, 1925)」、そして「沈黙の塔」。なかでも、この「沈黙の塔」の不気味な塔のセットはひときわ目立っていたそうです(2)。
監督のヨハネス・グウター(1882 – 1967)は、ラトビア出身です。彼は、1905年の革命のときに警官を殺害し、ベルリンに逃亡してきました。はい、そうです。彼はいきなり殺人犯です。翌年、理由は定かではないのですが、ラトビアに舞い戻り、そこで逮捕され収監されます。一年間の収監の後、裁判所へ連行される際に再び逃亡、その後はヘルシンキ、コペンハーゲン、そしてウィーンと放浪します。舞台経験をつんだ後、1917年に映画界に転身、1919年には自身の映画会社、センタウア・フィルムを立ち上げます。彼は1920年代、同じラトビア出身の女優、ゼニア・デスニを主演にした作品を何本か監督しています。そのうちのひとつがこの「沈黙の塔」です。彼は、1922年にウーファがデクラを合併したときに移ってきた映画監督たちーフリッツ・ラングやF・W・ムルナウもいますーのひとりです。1930年代半ばまでは、軽い娯楽作品を監督していましたが、その後文化映画を何本か製作した後、公の場から姿を消します。
「支配者(1937)」
脚本のクルト・J・ブラウン(1903 - 1961)は人気の作家、脚本家でした。1920年代から30年代には、週刊誌などにたびたび寄稿し、小説も多く出版しています。ロマンスから何でも担当していましたが、ナチスの台頭後にはプロパガンダ映画の脚本も手がけています。悪名高い「突撃隊員ブラント(S.A.-Mann Brandt, 1933)」(YouTube)の脚本にも参加したようですが、クレジットは外されています。フリッツ・ラングの元妻、テア・フォン・ハルボウと共同で「支配者(Der Herrscher, 1937)」の脚本も担当しました(3)。これはかなりストレートなプロパガンダで、今でも上映制限がかかっています。戦後も特に支障なく書きつづました。
(1)Lathrios Film Festival Database
(2)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”
(3)映画「支配者」については、counter-correntの記事(英語)に詳しく書かれています。

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (後篇)

「フレデリック大帝」
 
「フレデリック大帝」の製作・監督・脚本をしたアルゼン・フォン・クセレピィはもともとハンガリー人です。母親はドイツ人ですが、父親はハンガリー人の画家でした。彼の一生を見ていると、ドイツ人になりたかったのに、ならせてもらえなかった、という印象を受けてしまいます。ブダペストで自動車のエンジニアをしていたのですが、その後ベルリンに移り住み、1912年ごろから映画の製作に関わり始めます。1914年に第一次世界大戦が始まるとオーストリア=ハンガリー軍にパイロットとして従軍します。1918年に「ファウスト」を製作しようとしますが、「非ドイツ人がドイツの古典を手がけるとは何事か」と強烈な反発に会い、あきらめます。そして、この「フレデリック大帝」を手がけた後も自分の製作会社で映画を作り続けるのですが結局うまくいかず、1924年、ウーファに会社を売却してしまいます。翌年にはアメリカに渡って、ハリウッドでの映画製作を試みます。パラマウントにH・G・ウェルズの「世界戦争」の映画化の話を持ちかけますが頓挫、「創生」「ラスプーチン」などの企画もすべて失敗します。1927年にはニューヨークで「クゼレピィ・ムービーズ」を設立するも行き詰ってしまい、翌年ベルリンに戻ります。さらにここでも11月革命の映画の製作で政治志向性の意見が合わず、監督を辞しています。
1930年に、彼はナチス党員になります。
1932年、ゲッベルスに映画「Deutschland über alles」の企画を持ち込みます。また、ベルリン滞在中のエイゼンシュタインについて記事を書いて、母親の旧姓(デーリンゲルというドイツ名)で出版して「ドイツ人になる」ことを誓っています。翌年に再び映画製作会社を設立するのですが、ゲーリングのドイツ空軍がすぐそばに飛行場を作り始めたために、スタジオの建設ができず、やっと作った映画もウーファとの間でいざこざが起き、会社は破産します。
1939年にブダペストに戻った後は、1941年まで数作を監督した後、引退したかのごとくぱったりと音沙汰が無くなり、1958年に亡くなります。
ワイマール期の早い時期に保守的な作品で成功を収めただけでなく、ナチス党員でもあったクセレピィが、ナチス政権下でかんばしい扱いを受けていないのは、彼自身の性格の問題か、それともナチス幹部や同調者たちの問題か、そこはよくわかりません。しかし、あれほどゲッベルスやヒトラーに気に入られ好待遇を受けたレニ・リーフェンシュタールやヴァイト・ハーランがナチス党員でなかったことを考えると、党員 -しかもわりと早い時期に入党していた- であった事実は、何の役にも立たないことがあるのだということですね。

また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。

「フレデリック大帝」の脚本に名を連ねているハンス・ベーレントは、ユダヤ人です。ナチスの台頭と共にドイツから脱出し、スペイン、オーストリアと転々としますが、ベルギーで拘束され、1940年にアウシュヴィッツ収容所に送られ、殺されます。同じく名を連ねている、ボビー・E・リュトケは、1928年ごろから反共作品の脚本などを手がけ、ナチスの初期のプロパガンダ映画「ヒトラー青年 クヴェックス」も彼の手によるものとされています(リュトケ自身は、戦時中は自身が書いたと主張、戦後は否定)。彼は戦前の映画出版で最もポピュラーだった「Film Kurier」の創刊にも携わっていました。彼は、戦後の「シュピーゲル」誌のインタビューで、いかに自分がこの「フレデリック大帝」の製作でイニシアチブをとったかを語っていますが、ベーレントの名前を口にすることはありませんでした。
撮影のギイド・ジーベルは、ドイツ映画の黎明期のもっとも重要なカメラマンです。彼が「プラーグの大学生(1913)」で2重写しを用いてドッペルゲンガーを表現したことが、ドイツの撮影技術の方向性に大きな影響を与えたことは間違いありません。カール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナー、カール・ホフマンらが師と仰いだカメラマンですが、トーキー以後は仕事が減り、後進のために撮影技術の本を書いたりしていました。
この「フレデリック大帝」4部作は、現在なかなか見ることのできない作品です。私も見ていません。35mmプリントは4部とも現存しているようです。第4部だけはDVD-Rでも流通しているようですが、クオリティはかなり悪いようです。

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (前篇)

フレデリック大帝(1921-22)
フレデリック大帝
Fridericus Rex

アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy

オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena

ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber

アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge

クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH

UFA 配給
Universum Film (UFA)

これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。

第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)

第二部 父と息子 (Vater und Sohn)

第三部 サンスーシ (Sanssouci)

第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)

この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。

ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。

しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。

この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。

「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、

この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。

Hans Feld

結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。

Reference

(1)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”

広告に載った九つの映画 (序)

これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。

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鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑

音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002))

2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。

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パウル・フェヨスの数奇な人生(12/12)

晩年のパウル・フェヨス

晩年のパウル・フェヨスは、ヴァイキング財団、のちのヴェナー=グレン財団の理事長として、考古学を主とする科学全般の研究支援をし続けました。1950年代には、考古学や文化人類学が活発になり、財団は以前にも増して創造性のある研究をサポートしています。

パウル・フェヨスは戦前にハンガリーに立ち寄ったのを最後に、祖国の土を踏むことはありませんでした。生涯を通して慕っていた母親にも会うことができず、母親の訃報を聞いて、非常に強いショックを受けたといわれています。彼は1963年4月23日に亡くなりました。

パウル・フェヨスについて、ひとつ言えることは、彼はどこに行ってもそこで才能を開花させていますが、同時に常にアウトサイダーだったことです。ニューヨークにたどり着いたときには、まったく無知な外国人。ハリウッドで一流監督になったときも、いわゆるハリウッド映画監督とは、モチベーションも、目的も、感性もあまりに違う。人類学も、正規の教育を受けておらず、ドキュメンタリー映画と言うからめ手から入ってきた。そういう「亜流の眼」だからこそ、達成できたことも多かったと思います。彼はその分野の人たちが見落としていること、当たり前だと思っていること、をもう一度自分の目で見直すのです。学者としての成功とか、学会での評価などは、さして気にすることなく、むしろ自分のしていることが自分が理想としているレベルよりも低いことに、つねにフラストレーションを感じていたのです。特に彼が文化人類学の研究において、全くの素人にもかかわらず業績を残せたのは、研究の対象としている民族、原住民に対して、対等の人間として接しているからだと思います。これは彼がニューヨークやハリウッドで、底辺で暮らし、そこで人間としての威厳を失うことなく生き抜いてきたからでしょう。彼は決して西欧の科学や知が、優れているとは思っていませんでした。特に西欧人の無知を、自分が無知であることを知らない、その無知を嘆いていました。彼は自分を医者だとは思っていませんでしたが、常に最先端の医学について論文を読み、旅先で医師として治療にあたることもありましたが、こんなことを言っています。

ニューギニアから、パプア人がニューヨークにやってきたとしましょう。彼らは自分たちとさして違わない人々を見て驚くのではないでしょうか。特に科学と言う魔術によって支配されている人々を。医者に行って、レントゲンを撮ってもらう。患者はレントゲンの装置がどう動くのかも、X線についても何も知らない。レントゲン写真を見てもどう診ればいいのかわからない。けれど、呪術を使いこなす医者という人物のいうことを信じて治療を受けるのです。テレビで言っていることの90%は魔術でしょう。なんだか科学的な名称がついていれば、みんな効果があると信じてしまう。

Paul Fejos

インドネシアのスンバワ島で調査していたときのことです。ドドンゴの村の呪術師(医師、シャーマン)は、パウル・フェヨスにとって重要な情報源でもあり、同じ医師同士という友人でした。パウルは、彼の治療法や薬草について教えてもらい、彼が医術についてたずねてきたときには助言をしたりしていました。時にはパウルが持っている薬、-ドイツのバイエル社のものですーを分けてあげることもありました。バイエル社の薬には、トレードマークの円に囲まれた大文字のBが印刷されています。呪術師の彼は、パウルの魔術の力とそのトレードマークが深い関係にあるのだと信じるようになりました(その通りですが)。数ヶ月たった後、その呪術師は、パウルに正式に申し入れをしてきました。彼らは非常に厳しく自分たちを律しています。そのルールに従って、正式に「そのマークを使わせてもらいたい」と申し入れてきたのです。パウルは「バイエル社の承諾なく、倫理的には問題がある行動だったが」、そのトレードマークを使うことを了承します。呪術師は大きな円に囲まれた「B」のトレードマークを胸に刺青し、彼の治癒能力はいっそう高まったのです。

このことは、私たちにもそのまま当てはまります。医学の研究者たちでさえ、効能のメカニズムを完全に把握できていないけれど効果のある薬や治療法を、ましてや一般人の我々は、「有名な医者が言うから」「話題になっているから」「テレビで言っていたから」信じて受け入れています。医術だけではありません。リンゴのマークがついているアップル社の製品だから、品質がいいと思い、旅行先で偽物だってつかまされかねない。東京大学の教授の言うことに間違いはなく、成功したビジネスマンの言っていることは、ためになると思っている。そのことをパウルは見抜いていたし、だからといってそれを愚かなことだとは思っていない。むしろ人間とはそういうものだと思っていたのでしょう。彼は自分たちの文明はそういう迷信や迷妄から解放されていると勘違いすることを諌めていたのだと思います。

そういう眼でもう一度彼の映画を見直すと、今までとはもっと違うことを感じるかもしれません。

References

The Several Lives of Paul Fejos, John W. Dodds, The Wenner-Gren Foundation, 1973

”Image” On the Art and Evolution of the Film, Ed. Marshall Deutelbaum, Dover, 1979

Hollywood Destinies, Graham Petrie, Routledge & Kegan Paul, 1985

Lonesome, Bluray, The Criterion Collection, 2012

パウル・フェヨスの数奇な人生(11/12)

ペルーのインカトレイルにある、ウィニャイワイナの遺跡
1940年にパウル・フェヨスの調査隊が発見した。

パールハーバーの攻撃を期にアメリカは正式に第二次世界大戦に参戦します。太平洋、東アジアの地理、民族に明るいパウル・フェヨスは、スタンフォード大学で海軍の兵士を相手に、文化人類学の講義をするよう、要請されます。彼の講義は非常にユニークで、非常に実践的だったようです。彼は若く、まだ何も知らない兵士たちを相手に「シミュレーションによる訓練」をします。

「君たちは、ある島に到着する。君たちは無線基地を設営しなければならない。上陸船は母船に引き返し、君たちは自分たちだけが頼りだ。さあ、どうする?」

生徒たちは、何も事前情報がないまま、その島について探索し、また住民と遭遇したときのコミュニケーションの方法を、手探りで考えていきます。生徒たちの言動をもとに、パウルは情報を与えたり、住民とのやり取りをシミュレーションしたりします。生徒が住民を警戒させるような言動をとれば、住民のふりをしているパウルはもう何も言わなくなってしまいます。こうやって、いかに現地の住民からいかに協力を得るか、そして必要な物資や情報をいかに確保するかを兵士たちに教えていきました。彼はこれをずっとインドネシアやタイで自ら経験してきているので、現地住民とのコミュニケーションの重要性を理解しているのです。兵士たちは、このトレーニングを通して、言語がいかに重要か痛感し、ランチの時間でも中国語やマレー語で会話をしていたそうです。

ヴァイキング財団は、文化人類学や考古学に研究資金を提供することを目的としていました。財団でのパウル・フェヨスの役割は、多くの学者たちとコミュニケーションをとり、学問の発展に寄与すると思われる研究を見極めていくことでした。1945年、第二次大戦が終結し、ようやく軍事から切り離されて研究ができるようになりました。「学際領域」 ーーすなわち専門的な学問同士の間をつなぐ領域ーー は、まだまだ未開拓の時代でしたが、パウルはまさしく専門家たちを引き合わせ、それぞれの領域の関心事をつないでいくことにかけては先駆者だったといえるかもしれません。彼は「自分は考古学について疎い」と常に発言していましたが、彼の「学際領域に敏感な感覚」のおかげで、考古学にとって非常に重要な研究がなされました。

アメリカ自然博物館のラルフ・フォン・ケーニヒヴァルトは、戦時中ジャワ島で日本軍の捕虜になって死んだと伝えられていました。しかし、彼は収容所を生き延び、ジャワ島各地に隠しておいた考古学的資料 ーージャワ島で発見した原始人の頭骸骨ーー を持って帰国したのです。1947年のことです。ケーニヒヴァルトは、避暑のため、コールドスプリングスの研究所で研究していましたが、そこの研究所はまさしく核物理、核化学のメッカでした。ある日、パウルにあった彼は、自分がいかにその研究所で浮いているかを話していました。核物理学者の群れにひとりだけ考古学者なんて!ランチで話しかけてくる研究者たちは、考古学なんて全く知らないのです。だから説明するのも苦労する。つい昨日も、ランチで食堂のテーブルの前に座った男が、話しかけてきたよ、とパウルにこぼします。

「『君は何を研究しているの?』って聞いてくるんだ。だから、僕が最近持ち帰った頭蓋骨と写っている写真を見せて『こういう原始人の研究をしているんですよ。』って答える。するとね、『へぇ。その頭蓋骨は何年位前のものなんだい?』なんて聞いてくる。『だいたい50万年前くらいですかね。』ってこっちが言うと、『そんなに古くなかったら、もっと正確に、何年前、って言えるんだがね。残念だ。』なんていうのさ。」

パウルが、それはどうやるんだって聞くと、「なんでも放射線がどうとかこうとか言っていたなあ」とはっきりしません。パウルはふと、今読んでいる岩石の年代決定法でヘリウム・インデックス(ヘリウムの同位体の比で年代を決定できる)について書かれていることを思い出しました。ひょっとしたら・・・。その男の名前は?ケーニヒヴァルトは、その男の名前も知らないので困ったことになってしまいました。

パウルはコールド・スプリングスの研究所に電話をかけ、食堂の従業員に「昨日、ケーニヒヴァルトとランチを食べていたのは誰かわかるかい?」と聞きました。ハロルド・ユーリーですよ。ノーベル賞学者の。

ウィラード・リビー

シカゴでハロルド・ユーリーに会ったパウル・フェヨスは、早速そのアイディアについて矢継ぎ早に質問します。「実はその研究をしているのは、私じゃなくて、ウィラード・リビーだよ。」同じくシカゴ大学で研究をしているウィラード・リビーはバルチモアの下水から炭素の同位体を検出し、それがどうやら大気を起源とするものらしいと考えていました。同位体の半減期は正確にわかっているので、炭素を含むものなら年代を決定できるのではないかと考えていたのです。それを是非とも考古学のために使いたい、とパウルが突っ走っているのですが、リビーは、まだ手法が確立されていないからと慎重です。パウル・フェヨスは、ヴァイキング財団が研究費を出すから、是非とも考古学に役立てるものにして欲しいと申し出ました。ウィラード・リビーは、放射性炭素年代測定法を開発し、後年ノーベル賞を受賞しました。(ウィラード・リビーによる話でも、パウル・フェヨスが考古学と放射性炭素年代測定を結び付けたことがわかります。)

パウル・フェヨスの数奇な人生(10/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで、飛行機不時着後。1940年

マシコ族という研究対象を失ったパウル・フェヨス一行は、リマまで引き返しました。パウルは、そこで山地奥深くにある古い都市の遺跡の話を耳にします。アメリカの探検家、ハイラム・ビンガムによって、1911年にマチュ・ピチュの遺跡が発見されたことは、パウルもよく知っていましたが、それとは別に「古い都市が存在する」という話は根も葉もない噂だろうくらいに思っていました。ある日、フランシスコ派の僧院の図書館で「クズコの輝かしき未来(1848)」という本を見つけます。この本には、ある俗僧が、アマゾンの密林で迷ってしまい、2年間行方不明になったことが記されていました。この男は帰還して数日で死んでしまいますが、ジャングルの奥地で見た古代の都市について話をしています。この話と、先ほどの噂が、地理的にも奇妙なほど符合したので、パウルは興味を持ち始めました。1940年9月、ヴェナー・グレンの了承と資金提供を受けたパウルは、その幻の古代都市の発見を目標にリマを出発します。

この探検に同行したのが、スタンフォード大学のポール・ハンナでした。彼は教育学の教授ですが、ネルソン・ロックフェラーによって、南米に派遣されていました。目的は、ペルー、エクアドル、ボリビアにおけるナチスの活動、特に教育におけるナチズムの浸透を調査することでした。実はこれらの南米の国々では、ナチズムは初等、中等教育の各場面で思ったよりも深く浸透していたのです(戦後、多くのナチス高官が南米に逃れたのも、こういう背景があったからだと推測されます)。ポール・ハンナは、リマの町で物資や助手を探しているヨーロッパの怪しい調査隊がいると聞いて、パウル・フェヨスのグループを監視していました。この調査隊は、ヴェナー・グレン(当時はナチス・ドイツに共感していると考えられていました)のバックアップがある。ますます怪しいと踏んだポール・ハンナは、考古学者のふりをして、パウル・フェヨスの調査隊に同行することを申し出ました。結局、パウルがヒトラーを嫌悪していることや、隊がアンデスの遺跡発掘の学術調査に本気で取り掛かっていることを知ると、ポール・ハンナは自分の正体を明かしたようです。

1940年と1941年に2回の調査を経て、チョケスイスイ、チャチャバンバ、サヤックマルカなどの遺跡を発見し、36平方キロメートルの地域を調査、詳細な地図を作成しました。100kmにも及ぶ補給路を維持し、数百人の経験の浅い人足を監督しながらの調査でした。この調査結果は1944年に出版されています。パウルは、自分には十分な考古学の知識がないとして、遺跡発掘は最小限にとどめ、あくまで遺跡の位置の確認、写真などによる現状記録、そして地理的情報の収集をメインとしました。

パウル・フェヨス ヤグア族と。

また、パウルはこの時期にペルー北部に住むヤグア族の調査もしています。ヤグア族はやはり外部との接触の少ない種族で、言語、文化についてほとんど知られていませんでした。調査隊はヤグア族と接触して、彼らの言語を学び、その生活、習慣を記録することに成功します。言語をフィルムに記録するために、同時録音のできるカメラで住民の話し言葉を撮影しました。さらに、非常に珍しい村落の引越しをフィルムに収めることができ、これはドキュメンタリー映画「ヤグア(1943)」として編集されました。ちなみに、この映画がパウル・フェヨスのフィルモグラフィでは最後の映画となります。

1941年、ヴェナー・グレンはヴァイキング財団を設立します。財団のもとで、パウル・フェヨスはアンデスでの遺跡調査、ヤグア族の人類学研究の成果を発表します。財団はニューヨークにオフィスを構え、パウルは研究部門の指揮を執りました。彼は、もうすっかり商業映画の世界とは決別し、文化人類学、考古学にすべてのエネルギーを注ぎ込んでいました。