ハンス・カスパリウスの「ヒデンゼー(1932)」

英国の映画雑誌「Close-Up」の1932年9月号に掲載されていたスチール写真に眼を惹かれた。

ドキュメンタリー映画「ヒデンゼー(Hiddensee, 1932)」からのもの。監督はハンス・カスパリウス(Hans Casparius)。ヒデンゼーはバルト海の孤島だ。そこを舞台としたドキュメンタリーだと思われる。思われる、というのも、この映画についての情報がほとんど見つかっていないからだ。

ハンス・カスパリウスの映画界における活動は、G.W.パブストの「三文オペラ(1931)」などにスチール写真家として参加していること、戦後「サイモン(Simon, 1954)」という短編映画をイギリスで製作したことくらいがIMDBに掲載されている程度である。この「ヒデンゼー」というドキュメンタリー映画についてはリストされていない。

カスパリウスは、写真家として1920年代からナチス台頭前のベルリン、そしてその後ロンドンで活躍しているようである。ジグスモンド・フロイトの肖像写真のひとつも彼のクレジットになっている。

彼のベルリン時代の写真は、街の何気ない風景をスナップした作品だ。対象を瞬時にとらえたようなものが多い。けれども、陽光に満ちた白とそれが落とす影とがしっかりと刻まれ、そのコントラストが魅力的だ。

ちなみに、短編映画「サイモン」はショーン・コネリーが映画出演した二作目らしい。また、カスパリウスが監督・製作した、スコットランドを舞台にしたドキュメンタリー映画「You Take the High Road (1950s)」は、ここで見ることができる。

立体的に見るということ(3)

立体的に見るということ(2)の続きです

今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。

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1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。

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疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み

今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。

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戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)

The Destination Moon (1950)のポスター

3部構成の第3部です。第1部はここ、第2部はここ

アンソニー・マンとジョン・オルトン

アンソニー・マンとジョン・オルトンはイーグル・ライオンで3作(「He Walked By
Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の
「T-Men」と「Raw
Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明
によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、
それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。

アーサー・クリム
しかし、いくら彼らが安上がりの評判の良い作品を作っても、実際の配給となると、イーグル・ライオンはメジャー・スタジオの配給独占に阻まれてしまいます。確かに「Raw
Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination
Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。
作品たちの復活

実は、これらの作品をもう一度救うのは、アーサー・クリムです。1950年初頭、彼はもはや大出血を起こして死亡寸前のユナイテッド・アーティスツの経営を任されます。UAは毎週10万ドルを溝に棄てている状態だったのです。クリムと彼のパートナー、ロバート・ベンジャミン(イーグル・ライオンでも一緒でした)は、UAに乗り込んでいったその日のうちに、20世紀フォックスのスパイロス・スクーラスから資金を調達して、とりあえず「輸血」します。そして、様々な手を打って経営の改善に乗り出しますが、そのうちのひとつが、イーグル・ライオンの後継会社を買収して、そのフィルム・ライブラリをUAの財産と
し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。

左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領

このようにして、TVに配給されたイーグル・ライオンの映画は、深夜枠などで放送されることが多くなり、さらにVHSの登場と共にアメリカ国内での再評価が始まります。1980年代には、フィルム・ノワール批評の文脈のなかで、ジョン・オルトンのコアなファンたちが映画雑誌などで彼の作品の分析を繰り広げ
るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of
Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、
今は全世界に彼のファンがいます。