ブラックアウトとハリウッド

『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』の爆撃シーン

前回、真珠湾攻撃とその後に続く伊号潜水艦の攻撃が、アメリカ西海岸に<消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制 (ディムアウト)>をもたらした経緯をみてみた。

では、それらがどのようにハリウッドの映画製作に影響を及ぼしただろうか。

これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない

ハリウッドが最初の<消灯令(ブラックアウト)>を経験したのは1941年12月10日の夜だった。

7:45 p.m. 丘の上の窓から見ていると、町はクリスマスツリーが横たわっているみたいだった。RKOスタジオの貯水タンクの三角のネオンから、ラ・ブレア・アベニューのナイトクラブ街の電気まで、赤、白、緑、青のカーペットがチカチカしていた。サイレンが鳴り響き、電気会社は損失を出しはじめた。15分以内に、何マイルにもわたって街燈が暗くなった。赤い電光表示もほとんど消えてしまった。30分もすると、まったく何も見えなくなった。真っ暗になったが、白熱電球の列が1マイルほど伸びている。あれはハリウッド大通りのサンタクローズ・レーン、マツダ・ランプで飾られたクリスマスツリーの列だ。だが、そのスイッチもようやく見つかったようだ。

フレデリック・C・オスマン[1]

このサンタクローズ・レーンのクリスマスツリーも次の日には撤去されてしまったようだ。

開戦の影響を最初に受けた映画の一つが、サム・ウッド監督の『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』だった。この作品は、正式な製作開始が1942年夏ということになっているが(よって、イングリッド・バーグマンにとっては『カサブランカ(Casablanca, 1942)』の撮影と重なっていた)、背景のシーンなどの撮影は、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの配役が決定するはるか前の1941年11月に始まっていた。サム・ウッドと撮影クルーは、12月前半にハイ・シエラで爆撃機による攻撃のシーンを、陸軍の爆撃機を使用して撮影する予定だった。ところが、真珠湾攻撃の後、アメリカ全土で航空規制が敷かれ、軍用機の使用はもちろん禁止、民間機の飛行も制限された。パラマウントは軍から特別な許可を得て、近隣住民に「これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない」とあらかじめ通達を出して撮影に臨んだ[2]。撮影にはボーイングの民間機を軍用にカモフラージュした。ところが、飛行の許可が下りたのは、撮影のあいだだけだったようで、撮影後は現地で飛行機を解体し、貨物車で運搬してハリウッドに戻ったという[3]

この爆撃のシーンのために、パラマウントは構造力学のエンジニア、ハロルド・オムステッドをコンサルタントとして呼んでいた。彼はノルウェイでナチスによる爆撃を実際に経験していたからである。オムステッドは爆撃シーンの協力だけでなく、パラマウント・スタジオに近代的な防空壕を作るように助言もした[4]

他の映画の製作も、戦時下の体制に強く左右されていく。

まず、<消灯令(ブラックアウト)>によって、従業員が帰宅できなくなる可能性を考えて、多くのスタジオは標準稼働時間を1時間繰り上げた。それまで午前9時から午後6時までだった勤務を、午前8時から午後5時にした[5]。こうして、大部分の映画撮影がセット内で、昼間に行われることになった。特にオープンセット(バックロット)での夜間撮影は、消灯令のために難しくなり始めていた。突然、サイレンが鳴り始めると撮影を中止しなければならないからだ。

ハリウッドの映画館は「Show Must Go On」を合言葉に、「外の明かりは消していても、中では映画をやっているよ」と強調して、業界が今までと変わらず、安定してエンターテインメントを供給しているとアピールした。

時流に乗るのが早いハリウッド業界人たちは、すぐに戦争をモチーフにした映画の製作(あるいはタイトルだけ)を発表した。それまで製作していた映画でも、敵をナチスから日本に切り替えたり、真珠湾攻撃によって主人公たちが主体的に日本軍をやっつけるという物語に書き換えたり、といったことが行われるものもあった。例えば、MGMの『A Yank on the Burma Road (1942)』では、当初の脚本が真珠湾攻撃後に書き換えられ、主人公のアメリカ人ジョー・トレーシー(バリー・ネルソン)が日本軍と派手に銃撃戦を交わす、高揚的なエンディングになった。

『A Yank on the Burma Road (1942)』のエンディング
日本兵をマシンガンで倒すバリー・ネルソン

カリフォルニアに居住していた日系アメリカ人が戦時中に強制的に収容所に入れられたが、それは当時の白人を主体とするアメリカ社会が彼らを<アメリカ人>と考えずに<ジャップ>と考えていたからにほかならない。ハリウッドのように移民が多い社会でもそれは変わらない。多くのハリウッド映画人が、日系人が追放されると「腕の良い庭師がいなくなる(彼らの大邸宅の庭師の多くが日系人だった)」くらいにしか考えていなかったのもその表れである。

戦争協力への道のり

戦争が始まる2週間ほど前の11月24日、20世紀フォックスはフリッツ・ラング監督を擁して『夜霧の港(Moontide, 1942)』の撮影を開始した。ジャン・ギャバンのハリウッド第一作であり、アイダ・ルピノにとっても重要な作品になるはずだった。だが、撮影に入る前からすでにヨーロッパの戦争が製作を思わしくない方向へ引きずっていた。ロケーション撮影を予定していたサン・ペドロの港は海軍の要塞化が始まり、ラングたちは仕方なくフォックスの敷地内に大型のプールを$45,000で作って、海辺のセットを構えることになった。ラングはこの妥協がきっかけになってやる気をなくしたと言われている(その他、ジャン・ギャバンとの不仲、脚本の変更も原因として挙げられている)。真珠湾攻撃の直後、12月12日を最後にラングは監督を降板し、アーチー・メイヨが残りの監督を引き受ける[6, p. 6463/13753]

開戦後の撮影はすべてフォックスのセットでおこなわれたが、決して順調だったわけではない。アーチー・メイヨは撮影中に上空を通過する陸軍の爆撃機の騒音に悩まされている[7]。この『夜霧の港』は、幻のような霧に包まれた海辺のセット撮影やサルバトール・ダリ原案の酩酊のシーンなど魔術的な映像とともに、前述の大型プールのセットを使った海岸のシーンの、とてもセットとは思えないリアリズムが印象的な作品だ。近年、<プロト・ノワール>として再評価もされている[8], [9]

『夜霧の港(Moontide, 1942)』

ハリウッドの映画人たちも、それぞれの形で戦争に参加しはじめる。応召する者、志願する者、さまざまだ。ハリウッドの監督のなかでいち早く軍に志願したのは、フランク・キャプラとウィリアム・ワイラーだった。こういった環境の変化は、不思議な人間関係も生み出す。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice, 1946)』の原作者のジェームズ・M・ケインは、ハリウッドの消灯指導員に志願した。彼とチームを組んだ消灯指導隊員は映画監督のセシル・B・デミルだった。ケインとデミルは、ヘルメットをかぶり、毎晩ハリウッドの坂道を車で行ったり来たりした。二人は窓から灯りが漏れている家を見つけてはドアを叩いて注意するという仕事を極めて真面目にやっていた[10, p. 320]

ハリウッドは、政府との関係を急速に深めていった。生産管理局(The Office of Production Management)や軍需生産委員会(War Production Board)などの組織が、ハリウッドが有する才能や技術、影響力を駆使して、戦時下における民衆の社会、経済活動を<統制>しようと試みた。そして、その多くは成功したといってよいだろう。『ダンボ(Dumbo, 1941)』を公開したばかりのウォルト・ディズニーは、政府が製作するプロパガンダ映画やトレーニング用映画のアニメーションを受託しはじめた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WC5BAp2xvDc&w=560&h=315]
『Four Methods of Flush Riveting (1942)』
ディズニー・スタジオがロッキード社のために製作したアニメーション
フラッシュリベットの方法を説明している

ハリウッド映画がもつファッションへの影響力は、政府にとって好都合だった。ワシントンは、ハリウッドのファッション・デザイナーたちに戦時下の新しいデザインを依頼したのである。ハッティー・カーネギーは、それまでのプリーツ、バルーン・スリーブといった<余分な布>を必要とするデザインを廃し、布地の使用量を最小限にするスタイルを作り出した。男性用のサスペンダーに使われていたゴム、ベルトに使われていた革も貴重な軍需物資だ。デザイナーのドリー・ツリーは、ジーン・ティアニーの衣装をシルクではなく、コットンで作成した[11]。こういった衣装デザインの変化は戦時中を通じて、より顕著になってゆくが、その原動力はハリウッドのスタジオ・デザイナーたちだった。

だが、戦争開始当初のハリウッドの全体的な状況を俯瞰してみると、戦時体制への協力はごく一部にとどまり、少なくとも数ヶ月のあいだは<エンターテイメントの提供者>として振る舞おうとしているのが分かる。当初は消灯令(ブラックアウト)で従業員が帰宅できなくなることを心配していたスタジオの重役たちも、すぐに従業員のことを忘れ、夜間の撮影を再開した。20世紀フォックスは、真珠湾攻撃の3週間後には『Sundown Jim (1942)』と『To the Shores of Tripoli (1942)』の夜間撮影を再開している[12]。年が明けて、1月にはハリウッド全体で40本もの映画が撮影に入っており、その大半は戦争という現実からの逃避(エスケーピスト)を大衆に提供していた。そればかりではない。「映画を見に来る観客は、戦争を忘れようとしているのだ」と主張して、戦争に関するニュース映画の数さえ減らそうとしていた[13]

ハリウッドは、自分たちはアメリカの基幹産業で特別だ、という奢りがあったようだ。

誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)

監督・製作:サム・ウッド
製作総指揮:B・G・デシルヴァ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ
脚本:ダドリー・ニコルズ
撮影:レイ・レナハン
編集:シャーマン・トッド、ジョン・F・リンク
音楽:ヴィクター・ヤング
出演:イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパー
製作:パラマウント
1943

A Yank on the Burma Road

監督:ジョージ・B・サイツ
製作:サミュエル・マルクス
脚本:ヒューゴ・バトラー、デヴィッド・ラング、ゴードン・カーン
撮影:レスター・ホワイト
編集:ジーン・ルジエロ
音楽:レニー・ヘイトン
出演:ロレイン・デイ、バリー・ネルソン
製作:MGM
1942

夜霧の港(Moontide)

監督:アーチー・メイヨ、フリッツ・ラング
製作:マーク・ヘリンジャー
原作:ウィラード・ロバートソン
脚本:ジョン・オハラ
撮影:チャールズ・G・クラーク
編集:ウィリアム・レイノルズ
音楽:デヴィッド・ブトルフ、シリル・J・モックリッジ
出演:ジャン・ギャバン、アイダ・ルピノ
製作:20世紀フォックス
1942

参考文献

[1]^ Frederick C. Othman, “Hollywood Turns ’em Off,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Dec. 11, 1941.

[2]^ Frederick C. Othman, “Behind the Scenes Hollywood,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 16, Dec. 11, 1941.

[3]^ Harrison Carrol, “Behind the Scenes Hollywood,” The Times, San Mateo, p. 6, Dec. 24, 1941.

[4]^ Virginia Wright, “Virginia Wright,” Daily News, Los Angeles, p. 27, Dec. 10, 1941.

[5]^ James Francis Crow, “Theaters Map Plans To Fight Drop in Box Office Business,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 6, Dec. 12, 1941.

[6]^ P. McGilligan, Fritz Lang: The Nature of the Beast. U of Minnesota Press, 2013.

[7]^ E. Johnson, “Desert Sandstorm High Spot in Tour of Hollywood Film Sets,” Daily News, Los Angeles, p. 19, Jan. 14, 1942.

[8]^ M. Bamber, “Moontide (Archie Mayo & Fritz Lang, 1942) – Senses of Cinema.” (Link).

[9]^ “The Making of Moontide — a Noir Fairy Tale,” Let Yourself Go … To Old Hollywood. (Link).

[10]^ R. Hoopes, Cain: The Biography of James M. Cain. Carbondale : Southern Illinois University Press, 1987.

[11]^ Sara Hamilton, “Films to Aid War Clothes Style Drive,” San Francisco Examiner, San Francisco, p. 25, Apr. 05, 1942.

[12]^ James Francis Crow, “Jane Wyman Teamed With Kay Kyser In RKO-Radio Film,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 4, Dec. 29, 1941.

[13]^ Sidney Skolsky, “The Week in Review,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Jan. 10, 1942.

ブラックアウトとディムアウト

「バトル・オブ・ロサンゼルス」(1942年2月26日未明)で、ブラックアウト発令下、敵機を探すサーチライト(Los Angeles Public Library Photo Collection

第二次世界大戦期のハリウッド映画製作について調べていると、<blackouts and dimouts>という表現に頻繁に遭遇する。どちらも<灯火管制>のことだろうと思い、最初は余り気にしていなかったのだが、どうもはっきりしないことが積み上がっていった。調べていくと、<blackouts>と<dimouts>は、それぞれ違う規制を意味していて、それらがハリウッドに与えた影響も異なっていた。ここでは、その成り立ちの違いを見てみる。

ブラックアウト

ハワイのオアフ島現地時間で1941年12月7日午前8時前、日本軍がアメリカの太平洋艦隊に対して攻撃をおこなった。真珠湾攻撃である。この日を境に、アメリカ国民は戦場において血を流し、命を失う覚悟を決めなければならなくなった。国民の生活も、それまで想像もしなかった方向へ大きく変化する。ハワイは本土から遠く離れた太平洋の島とはいえ、アメリカの国土である。その自分たちの土地に地球の裏側に住んでいる民族が攻めてきたのである。

アメリカ国民はその日のうちに反応した。

真珠湾が攻撃された夜、ハリウッド北方のバーバンクにあるロッキード空港(現ボブ・ホープ空港)が完全に闇に沈んだ [1]全部の灯火を消灯 (ブラックアウト)したのである。なぜ消灯したのか尋ねても空港側は回答しなかったが、噂では敵機が来襲したと判断したからだという。翌日8日の深夜、シアトルでは3,000人もの人たちが街の中心部に繰り出し暴徒と化した。前日に軍が発令した<消灯令(ブラックアウト)>に従わず、明かりをともしている店舗のショーウィンドウやネオンサインを破壊し続けたのだ [2]。警察は暴徒のリーダーの1人、19歳のエセル・チェルスヴィグを勾留した。海軍兵士の妻であるチェルスヴィグは「消灯しないのは裏切り、戦争が始まったんだ」と堂々と答えた [3]

こうやって、アメリカ本土でも、戦争がはじまった。カリフォルニア州からオレゴン、ワシントン州にかけての西海岸では、ほぼ毎晩消灯令(ブラックアウト)が発令されていた。変調のかかったサイレンが2分間鳴り響く。これが消灯を命ずる警報である。消灯令が発令されると、屋外の照明をすべて消し、屋内の光が外部に漏れないように窓を遮蔽する必要がある。車の運転中であれば、すべてのライトを消して停車しなければならない。行動は制限され、外出は極力してはならない [4]。街のなかを<消灯指導員>が巡回している。光が漏れている家があれば、ただちに注意を受けてしまう。場合によっては違反者は逮捕される。

1941年12月12日のシアトルの夜の写真がある。一枚の写真は<消灯令>に定められた消灯時間前のシアトル市内の様子、そしてもう一枚の写真は消灯した後の様子である。

消灯令発令直前のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI
消灯令発令直後のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI

ネオンサインやビルボードだけでなく、室内灯や街燈も消されている。誰も住んでいない街のように街路が漆黒に包まれ、数時間前の夜の喧騒が嘘のように消え去っている。

スティーブン・スピルバーグ監督の『1941』に登場するロサンゼルスは、ビルボードやネオンサインが煌々と輝いていたが、戦時下のロサンゼルスの夜はひたすら暗く、一度屋外に出てしまうと極めて危険な状況になることさえあった。

伊号潜水艦の攻撃と灯火管制(ディムアウト)

真珠湾攻撃の影響もあったのだろう、アメリカ西海岸は当初、空爆に備えた防空体制をとっていた。消灯令もその一環だ。だが、すぐに別のかたちの脅威が襲ってきた。

真珠湾攻撃から2週間も経たない12月20日、日本の潜水艦伊17が、サンフランシスコから北200kmほどにあるメンドシノ岬沖でタンカーのエミディオ号を砲撃して破壊した [5]。12月23日には、潜水艦伊21がカリフォルニア州カンブリア沖でタンカーのモンテベロ号を撃沈、伊17がユーリカ沖でラリー・ドヘニー号を攻撃するなど西海岸付近での攻撃が続いた [6]

年が明けて1942年の2月23日、伊17がカリフォルニア州サンタ・バーバラにあるエルウッド精油所に向けて攻撃をおこなった [7]。第二次世界大戦に参戦したアメリカにとって、はじめての本土攻撃だった。断続的に太平洋からやってくる敵の影にカリフォルニアは怯え、パラノイアがロサンゼルスの街を覆った。翌24日の深夜から25日の未明にかけて、海軍情報局は<敵機襲来>の警報を発令して消灯令を敷く。上空に<敵機襲来>を見た第37沿岸砲撃隊が高射砲を撃ち始め、計1440発の対空射撃をおこなった [8]。この夜、消灯令下でロサンゼルス市民に5人の死者が出ている。うち3人は交通事故、2人は心臓発作だった。犠牲者の一人、ズーラ・クラインは夫の運転する車がトラックと衝突した事故で亡くなった。どちらの車も消灯令下、ヘッドライトを消して運転していた。その他にも暗闇で転倒した人などが病院に担ぎ込まれた。この「バトル・オブ・ロサンゼルス」は、気象気球を「日本かドイツの飛行船だ」と言い張った若い将校が砲撃を命令、その後はパラノイアが連鎖的に広がったと当時から報告されていた [9]

伊17がサンタ・バーバラの沿岸を攻撃したことを伝えるデイリー・ニュース紙(ロサンゼルス) 1942年2月24日

さらに同年の6月には潜水艦伊25がバンクーバー(エステヴァン・ポイント) [10]、オレゴン州のシーサイド(フォート・スティーヴンス) [11]を攻撃している。

伊号潜水艦による本土への攻撃は、確かにアメリカ国民への心理的な効果は大きかったが、物理的な被害そのものは大したものではなかった。一方で、潜水艦による船舶への攻撃の被害はあきらかに甚大だった。沿岸警備の考え方として、危険を察知して警報を鳴らして全てを完全に消灯する<消灯令(ブラックアウト)>に効果がどれだけあるのか疑問視する声が上がり始める [12]。ロサンゼルスを含む西海岸の都市部の灯りは、海上150マイル(約241キロメートル)からでも見ることができるという。これらの灯りは、夜間に海洋を航行する船舶そのものを照らさなくても、そのシルエットを浮き上がらせる。むしろ、この都市部の灯りを総合的に統制する仕組みのほうが効果的だとエンジニアたちが言いはじめた。この助言を受けて、まず5月に沿岸部に<灯火管制(ディムアウト)>が敷かれ [13]、その後、8月20日にメキシコからカナダまで、メキシコからカナダまでの太平洋岸全域に<灯火管制(ディムアウト)>の規則が適用された [14]。灯火管制下では、夜間のスポーツ試合の禁止、劇場などの広告照明の禁止、戸外の照明(例えばガソリンスタンド)は1フートキャンドル(約10ルクス)以下、信号や街燈は上向きの光を遮蔽すること、海上から視認できる窓はすべてカーテンなどで遮蔽すること、車のヘッドライトはわずか250ビーム・キャンドルパワーまで、と決められた。そしてこれが毎晩日没から日の出まで行われる。各新聞は毎日第一面にその日の<灯火管制>開始時間と終了時間を掲載していた。

消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制(ディムアウト)>の違いを説明する広告 Los Angeles Times 1942/5/23 II p.6

すなわち、伊号潜水艦の攻撃が引き金となって、アメリカの西海岸の人々は毎夜、灯火管制の独特の暗さのなかで過ごすことになったのである。

灯火管制(ディムアウト)>下のロサンゼルス(1943年)UCLA Library Digital Collections

この管制下では、毎日のように灯火管制規則違反で逮捕されたり拘束されたりした人々のニュースが報道されている。イースト・ロサンゼルスのハリー・トリガーは、経営するクリーニング屋の窓のカーテンをせずに屋内の光を漏らしていたという違反で逮捕された。ダウニーのカフェのオーナー、マニュエル・ガルシアは、ネオンサインを点けたままにしていたので、やはり逮捕された [15]。宝石店を営むナタリー・シェルドンは、やはり灯火管制の時間帯に店の灯りを煌々と点けていて警察に違反を指摘された。彼女は裁判で、灯火管制の開始時間を忘れないようにセットしていた時計のアラームが鳴らなかったからだと主張したが、判事は$15の罰金を課した [16]。交通事故も極めて多い。ヘッドライトを暗くしているために、間違ったレーンを走っていたり、対向車が見えなかったり、歩行者が見えないという事態が頻発し、正面衝突、ひき逃げ、ひき逃げされた後にさらに別の車に轢かれるというケースも多かった。マインズ・フィールドの部隊の軍警察官クリストファー・スピンドラーは、マンハッタン・ビーチのそばのセプルヴェダ大通りで、轢き逃げされたあと、さらに別の2台の車に轢かれて死亡した [17]。こういった事故は日常茶飯事だった。

消灯令(ブラックアウト)>下のロサンゼルス、カクテル・ラウンジの<トミーズ・ジョイント Tommy’s Joynt>
「中は消灯してないぜ!」とサインを出しているが、店の前で躊躇する客たち
(サンタ・クルーズ・センチネル紙、1942年1月3日)

消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)も、レストランやナイトクラブのビジネスにはうれしくないルールだった。西海岸は自動車が移動手段として定着していたため、ヘッドライトを点灯できなかったり、暗くしたりしなければならないのは、夜の外出には不自由極まりない。タイヤの消耗を防ぐためのガソリン価格の規制も手伝って、一般人は夜の移動を控えざるを得なかった。

消灯令(ブラックアウト)>で、信号の光が拡散しないように覆いをかぶせている。(1941年)UCLA Library Digital Collections

もちろん、それでも夜の町に繰り出したい人たちはいる。女性たちのための「ブラックアウト・ファッション」や「ディムアウト・ファッション」も登場した。ブラックアウト・バッグは、普通の女性用ハンドバッグにブラックアウトに便利な小物が入った少し大きめのバッグだ。非常用に懐中電灯、暗闇で怪我をしたときのファーストエイド・キットなどが入っている。懐中電灯が装備されて足元を照らす靴、帽子も蛍光塗料で処理してあって、暗闇で歩行者だと視認できるようになっている [18]。フレドリック・モセルがデザインしたブローチは、ハリウッドの街燈をかたどっているが、暗闇でも光る [19]

家の照明が外に漏れないように、黒くて分厚い布の<ブラックアウト・カーテン>や<ディムアウト・カーテン>はすぐに売り出された。だが、カリフォルニアの夏の気候では黒いカーテンで窓を覆うと過ごしにくい。そこでベネチアン・ブラインドが流行した。これならブラインドを開ける方向さえ気をつければ、窓を開けたまま灯火管制のルールに従うことができる。

ネオンサインや照明広告はご法度だが、自分で発光しなければ問題ないだろう、と考えた人たちがいた。これはニューヨークのブロードウェイだが、<フレックスグラス>という材料を使って、灯火管制下でも周囲の少しの光を反射して広告の文字が光る、という巨大看板が劇場に使われた。

ニューヨーク・ブロードウェイ、アスター劇場の<フレックスグラス>を使った巨大看板
Better Theaters 1942年9月19日号

こうやって、人々は<非常事態下>でも、生活を続け、商売を編み出し、楽しみを作り出していた。やがて、この灯火管制は、日本軍の前線の後退とともに不要になっていく。1943年10月12日にゾーンの見直しがあった後 [20]、同年11月1日に撤廃された [21]

References

[1]^ “City’s Airfields Blacked Out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. E, Dec. 08, 1941.

[2]^ “Rioters Smash in Pike St. Windows,” The Seattle Star, p. 1, Dec. 09, 1941.

[3]^ “Rioters Enforce Seattle Black-out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Dec. 10, 1941.

[4]^ “L. A. Blackout Regulations,” Daily News, Los Angeles, p. 2, Feb. 26, 1942.

[5]^ “Jap Subs Raid California Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 21, 1941.

[6]^ “Jap Sub Sinks L. A. Tanker,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 24, 1941.

[7]^ “Submarine Shells Southland Oil Field,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Feb. 24, 1942.

[8]^ “California in World War II: The Battle of Los Angeles.” http://www.militarymuseum.org/BattleofLA.html (accessed Apr. 23, 2022).

[9]^ Col. John G. Murphy, “Activities of the Ninth Army AAA,” Antiaircraft Journal, vol. LXXXXII, no. 3, p. 2, Jun. 1949.

[10]^ “Japanese Craft Shell B.C. And Oregon Coasts; Navy, RCAF Hunt Enemy,” Vancouver Sun, Vancouver, p. 1, Jun. 22, 1942.

[11]^ “Oregon Fort Undamaged in Sub Attack,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Jun. 23, 1942.

[12]^ “No Blackouts Till Necessary,” The Spokesman-Review, Spokane, p. 5, Jan. 27, 1942.

[13]^ “Move Designed to Protect Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, May 23, 1942.

[14]^ “Drastic Dimout Ordered for Coast, Inland Areas,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Aug. 05, 1942.

[15]^ “Dupities Seize Two on Dimout Charges,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Nov. 09, 1942.

[16]^ “Clock Blamed for Lights,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 5, Jan. 01, 1943.

[17]^ “Traffic Takes Lives of Two Adults and Baby,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Mar. 15, 1934.

[18]^ Dorothy Roe, “Blackout Styles,” Metropolitan Pasadena Star News, Pasadena, p. 10, Feb. 24, 1942.

[19]^ “Luminous Coat Doo-dads Very Chic,” San Fernando Valley Times, p. 10, Feb. 20, 1942.

[20]^ “Angelenos Study New Lighting Regulations,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 12, 1943.

[21]^ “Dimout Darkness Ends Tomorrow,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 31, 1943.

ハイパーノーマリゼーション

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

ソ連では、国家の重要人物が亡くなったときには、「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」されてきた。これは、1946年に亡くなった、元ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Z-89a-ASaZo]

これは1968年に亡くなった、宇宙飛行士ミハイル・ガガーリンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=8jW4vtjQ6Ig]

カリーニンの葬儀では棺が土中に埋葬されているが、ガガーリンの場合は遺灰を入れた骨壷が壁の中に収められているのが分かる。もともと、ソ連に重要な貢献をした人物はクレムリンの壁の下に埋葬されていたのだが、第二次世界大戦後から徐々にクレムリンの壁付近に場所が確保できなくなってきており、遂に1960年代には、火葬して灰の骨壷を壁の中に収めるようになった。にもかかわらず、この葬儀は公式に「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」と表現されていた。

1960年代に、ソ連科学アカデミーのロシア語研究所の15人の教授が「この表現は現実と合わない」と中央執行部に示唆した。すなわち、亡骸を「埋めていない」のだから「埋葬」ではないだろう、と正確な表現に変更するように申し入れたのだ。数週間後、共産党中央執行部から表現を変えるつもりはない、との連絡がロシア語研究所に入った。理由は明らかにされなかった。ソ連の国民は、ニュース映像で骨壷が壁に収められる様子を目の当たりにするにも関わらず、「埋葬される」という表現で表される状況に慣れていき、それが奇異な表現だとは思わなくなった。

これはアレクセイ・ユルチャックが<ハイパーノーマリゼーション>と呼ぶ状況の一例である[1]。ユルチャックの定義では、ハイパーノーマリゼーションは「単に言語的、テキスト的、及びナラティブの構造のすべてのレベルにおいて影響を及ぼすだけでなく、それ自体が目的化してしまった、(言説の)正規化(ノーマリゼーション)のプロセス」であり、「述定的な意味のレベルで(ほとんど)解釈ができない、凝り固まって厄介な言語の形態」のことを指す。ユルチャックは、ソ連の統治の時代の終盤では、このハイパーノーマリゼーションがあらゆるレベルで観察され、政府権力はその凝り固まった言説によって、実際に起きていること(骨壷の収容)に対する、何も変化せずに連続している虚構の世界(埋葬)を維持し続けた。ソ連の国民は、共産主義システムの機能不全を目の当たりにしながらも、政府権力が描く、変化していない連続している世界を「見続けた」という。

BBCのiPlayerで公開された『ハイパーノーマリゼーション(HyperNormalisation, アダム・カーティス監督, 2016)』は、そのタイトルを直接ユルチャックの議論から借用している。アダム・カーティスはここで「社会システムが破綻して機能不全に陥っているにも関わらず、そして人々はそのことに気づいているにも関わらず、他の選択肢がないために、あたかも全て上手くいっているように振る舞っている」状態のことをハイパーノーマリゼーションと呼んでいる。ここで言うシステムの破綻とは、中東の国土が次々と瓦礫の山になり、過激派の凶悪な暴力が周辺国へさらに拡大し続け、一方でかつて先進国と呼ばれた国が急激な経済格差の進行に苛まれている事態であり、インターネットにより人々がよりセクト化し、憎悪と偏見がとめどなく増幅されていく凋落の様相を指している。

カーティスは、ハイパーノーマリゼーションの起源を1970年代中盤に起きた2つの政治の退廃的現象に求めている。一つは国家間の信頼という切り札を反故にした、アメリカのヘンリー・キッシンジャーの中東外交であり、もう一つはニューヨーク市の財政破綻と金融システムによる政治の乗っ取りである。

ヘンリー・キッシンジャーは<権力のバランス>による世界の支配を実践しようとする。イスラエルとの緊張が高まる中東では、特にデリケートな権力均衡を保つことによって、アメリカにとって都合のいい状態を作り出そうとしていた。パレスチナの独立こそアラブの平和に不可欠と考えるシリアのハーフィズ・アル=アサド大統領、そのアサドを、キッシンジャーは、独自の<建設的な曖昧さ(Constructive Ambiguity)>戦術によって欺き、エジプトとイスラエルの停戦協定を進めてしまう。この時のアサド大統領の失望が、その後の過激なイスラム原理主義とテロリズム、特に自爆テロの蔓延に結びついていく、とカーティスは語る。

さらに複雑に入り組んだ、そしてアメリカ政府自身にも非がある外交上の難題を、アメリカ政府とメディアは単純に善玉/悪玉のナラティブに落とし込み、そのサンドバッグとしてガダフィ大佐を30年にわたって容赦なく利用し続けてきた経緯を辿っていく。

一方で、リベラル/ラディカルのアーティストや運動家が政治運動から距離をおき、自分達の安全な繭のなかで、自分自身を表現する(express yourself)というモットーを掲げて自らの充足や幸福を追求する姿を映し出す。この繭の中の自己表現者達として、『キッチンの記号論(Semiotics of the Kitchen, 1975)』のマーサ・ロスラー、ニューヨークのアンダーグランド・シーンから登場したパティ・スミス、反戦運動からエクササイズ・ビデオに移行したジェーン・フォンダなどが挙げられる。

「繭の中のラディカリズム」の表現者たちとして、カーティスが主にフェミニスト達を挙げているのは興味深い。彼自身のミソジニーの無意識がそのような選択をさせたのか、それとも見る側の反応を秤にかけて、最も情動的な効果を得られるように選んだのだろうか。インタービューのなかでカーティスは、「パティ・スミスは、グループ運動に身を投じるのではなく、ラディカリズムを個人のアートで表現することを始めた、最初の人物だ」と言っている。そして「そのアートを通してラディカルな思考を広めようとしたのだが、成功したかどうか疑問だ」と言う。

「この自己表現者達を見て、現代の資本主義は『君たちの自己表現を手伝ってあげよう』と、様々な自己表現の手段を売り物にした」とカーティスは指摘する。「いかに自分がラディカルであるかを表現すること」は現代資本主義の最大の市場になった。

いま、最もラディカルな態度は、何も表現しないことだ

アダム・カーティス

カーティスはBBCの映像ライブラリの膨大なフッテージから、衝撃的で、オフビートで、時に残酷で、時に笑ってしまうような、極めて印象的な映像のマッシュアップを作ることを続けてきた。この作品も、その点において2時間40分という長さを全く感じさせない、壮大な映像の海を渡る作品だ。だが一方で、彼の作品はその巧妙な恣意性を指摘されることが多い。おそらく誰でも、彼の作品を見はじめて数分でいくつもの問題点を指摘できるだろうと思う。ある1つの事件からみえる問題を、20世紀終盤の歴史全体に敷衍して提起するようなロジックは大丈夫なのか。いま映っている映像は、カーティスが暗示しているような解釈をしてよいものなのか。「単純な話に落とし込んだ」政権側を批判しながらも、カーティス自身も単純な構図を提示しているのではないのか。そういう疑問はすぐに湧き上がってくる。そして、おそらく1時間も見た頃には、辟易する人も多いだろう。

カーティスの手法は、例えばフレデリック・ワイズマンのそれとは対極にある。カーティスの<ドキュメンタリー>には、彼自身が撮影した映像はひとつもない。過去に撮影された材料をコンテクストから剥ぎ取り、つなぎ合わせる。それに彼自身のナレーションを途切れることなくかぶせていく。鑑賞者はただカーティスの持論を延々と聞かされるだけだ。これでは、飲み屋で延々と<自分が考える東アジア地域の安全保障>について語っている初老の男性となんら変わらない。しかし、この<ドキュメンタリー>は、彼の持論に細かく反論したり、同意できないといって投げ出してしまうという真面目な見方をするものでもないだろう。まるでTwitterのタイムラインを見ているかのごとく、短いスニペットの映像が脈絡もなく流れていき、カーティスは様々な驚くべき出来事を滔々と喋っている。音楽はナイン・インチ・ネイルズが流れたかと思えば、ショスタコーヴィッチが襲ってくる。むしろ、見ている側が、自分が興味を抱いた事柄を取り出して、自らその周辺の事情を掘り出していけばよいのだ。そして、自分の持論を組み立てていけば良い。

カーティスの取りあげる事件は、奇矯だが決してデマや都市伝説の類ではない。例えば、「ブレア首相とブッシュ大統領がとにかくサダム・フセインを悪者にすることに躍起になってしまい、事実とフィクションの区別ができなくなった」出来事の例として、MI6が化学兵器の証拠を掴んだときの出来事を挙げている。カーティスは、マイケル・ベイ監督の映画『ザ・ロック(The Rock, 1996)』の映像を使いながら、こんな話をする。

(MI6がブレア首相に語ったところによれば)イラクが開発している神経ガスは、数珠つなぎになったガラスの球に収められているという。その話を聞いていた別のMI6のメンバーが、その詳細が1996年の映画『ザ・ロック』とそっくりであることに気がついた。

アダム・カーティス

カーティスは、ニコラス・ケイジが数珠つなぎになった緑のガラス球をケースから取り出すシーンの直後に、ブレア首相が「サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているということは疑いの余地がない」と宣言している記者会見の映像をつなげる。英国情報部は、イラクにいる情報源がハリウッド映画の場面をそのまま描写したものをトップ・シークレットして鵜呑みにしていたのである。このにわかには信じがたい話は、2016年に発表されたチルコット報告書[2]に記載されている事実が元になっている1)

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

カーティスは自己表現の繭の中を様々なかたちで批判しているが、彼自身がそのカルチャーのなかで育ってきたことに自覚的だ。さらにジョセフ・ヒースらの批判が資本主義の枠組みのなかにとどまっていたのとは対照的に、ソ連でも若者の間で「繭の中」が存在していた点も見逃していない。カーティスは「繭の中」が生まれてきた背景に冷戦後期の政治の退廃があると見ており、資本による自己表現の市場化はその結果だと考えている。

モスクワの感化院の少女たちが矯正官の質問に気怠く答える映像に、シベリア・パンクの中心的存在だったヤンカ(Yanka Dyagileva)の「My Sorrow is Luminous(Печаль моя светла)」がつながっていく。カーティスはその歌詞を字幕で見せる2)

I say it tem times over and once again

No one knows how fucking shitty I feel

And the TV hangs off the ceiling

And no one knows how fucking shitty I feel

This has got so fucking annoying

That I want start all over again

This verse is sad, such that I say again

How fucking shitty I feel

Yanka “My Sorrow is Luminous”

受話器のない公衆電話が映し出される。これほど示唆に富んだフッテージを膨大な映像アーカイブの中から見つけてくるという点で、アダム・カーティスのなかには映像への底知れない畏怖と唾棄が共存しているのかもしれない。

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

Notes

1)^ 報告書の第4巻第3章「Iraq’s WMD assessments, October 2002 to March 2003」に以下の記載がある。

SISのレポートによれば、VX、サリン、ソマンがアル=ヤルムクで製造されており、<数珠つなぎになった中空のガラス球>を含む、様々な<容器>に入れられているという。

チルコット報告書

そして、当時からそのSISのレポートは疑問視されていた。

化学兵器には通常ガラスの容器は使用されない。人気の映画(ザ・ロック)は神経ガスがガラスのビーズ又は容器に収納されている様子を描写しているが、それは正確ではない。

チルコット報告書

『ザ・ロック』の脚本を担当したデヴィッド・ワイスバーグによれば、映画に登場する緑のガラス球は「完全なでっち上げ」「見た目がぱっとしないテクノロジーだから、視覚的に(観客を)驚かせようとしたもの」に過ぎないという[3]。ワイスバーグは、義理の父親ジェフリー・ケンプ(ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュの政権で安全保障部門のアドバイザーをしていた)に頼んで、化学兵器の専門家に取材している。だが、その面白みのない武器を危険で魅力あるものにするために「数珠つなぎのガラス玉」を発案した。

2)^ アダム・カーティスはこの曲がかなり気に入っているようだ。彼がマッシヴ・アタックと企画したコンサートで、エリザベス・フレイザーがこの曲をカバーしている(YouTube)。

References

[1]^ A. Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation. Princeton University Press, 2013.

[2]^ “[ARCHIVED CONTENT] Iraq Inquiry – Home.” (Link)

[3]^ C. Shoard, “‘It was such obvious bullshit’: The Rock writer shocked film may have inspired false WMD intelligence,” The Guardian, Jul. 08, 2016. (Link).

プーチンの証言者たち

 

前回ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations』を紹介したが、今回は『Putin’s Witnesses (Свидетели Путина, 2018)』を紹介したい。この作品も、dafilmsのストリーミング・サービスで鑑賞可能だ(英語字幕のみ)。

時は1999年12月31日。ロシアの大統領ボリス・エリツィンが、突然退任を発表して後任の大統領代行にウラジーミル・プーチン首相(当時)を指名した。プーチンは3ヶ月後の選挙で正式に大統領に就任する。監督のマンスキーはロシア国営TVのドキュメンタリー部門に属しており、選挙までの3ヶ月間、プーチン大統領代行の選挙活動を取材していた。国営TVの番組とは実質的には政府のプロパガンダであり、マンスキーが関わっていたのはプーチンの応援番組の制作である。マンスキーは2015年にロシアから<亡命>したが、この作品は、この3ヶ月間に撮影したフッテージをもとに2018年に編集したものである。マンスキーの意図は、その後の政治的転回によって明らかになるプーチンの独裁的性格や強硬保守主義が、すでにこのフッテージの中に現れていることをあぶり出そうとする点にある。

2018年の今では、プーチンは存在しない。彼はもはや血肉でできた人間ではない。彼はドラゴンだ。プーチン自身でも倒せない。

ヴィタリー・マンスキー

この作品では、確かにカメラはまだ若々しい大統領代行のそばを離れることなく追跡している。だからといって「ウラジーミル・プーチンの素顔」のようなものを期待しても無駄だ。映像には常に<政治家>が記号的に映っているだけで、それは普段ニュースや報道番組で見ている<ウラジーミル・プーチン>と何ら変わらない。それは彼が幼い頃の学校の先生を訪問するシーンでもそうだ。私達はプーチンがなにか<人間的な>側面を見せるのではないかと期待するのだが、それは期待はずれに終わる。

プーチンはTVのコマーシャルや討論番組に出演することなく、選挙運動をすすめた。つまり「私の仕事を見ろ」というメッセージである。その彼の<仕事>のひとつがチェチェン勢力の弾圧であったが、なかでも高層アパート爆破事件[Wikipedia]はプーチン政権にとって大きな転換点であった。プーチンが事件の現場を訪れるシーンがある。彼自身の個人的な関与があったかどうかは不明だが、この事件をきっかけにチェチェン勢力への弾圧が理由を得たのは事実だ。その後の報道で、事件はFSBによる自作自演だったことや、内幕を暴露しようとしたリトビネンコの暗殺などの後知恵をもってしまった私達には、事件現場に立つ2000年のプーチンの姿を見るのはやはり奇異で諧謔的な感じが強く残る。

一方、映画は選挙の行方を見守るボリス・エリツィンのプライベートな姿も追いかけている。エリツィンは、後継のプーチンは最適な人物だと確信しており、そのプーチンを選んだ自分の鑑識眼を自画自賛している。だが、その彼自身の思惑とプーチンの政策がすでにずれ始めている様子もとらえられている。特にソ連国歌を、歌詞を変えてロシア国歌に制定したプーチンの決定については、エリツィンは時代を逆行していると感じたようだ。

その国歌を録音するシーンが挿入される。歌詞を任せられたセルゲイ・ミハルコフとその息子ニキータ・ミハルコフが録音に参加している。まさしくソ連時代と同じように、新しい体制に迎合した歌詞をつくって、国歌が制定される伝統が続いている。それにしてもこの録音時にミハルコフ親子が目を光らせているのはなんとも異様だ。

ここには、いまロシアがウクライナに侵略している事態の萌芽はこのときにすでにあるのだ。当時気づいていなかったが、ここに映っているプーチンの延長線上に今がある。

Links

Variety誌のGuy Lodgeによる評は、マンスキーのナレーションとその視座を「not sutble」としながらも、現在はファシズムに反対の声をあげるのに躊躇している場合ではない、という主張には説得力があると評価している。[Link]

Current Timeがヴィタリー・マンスキーへのインタビューを掲載している。[Link]

Putin’s Witnesses (原題:Свидетели Путина)

監督 Vitaly Mansky
編集 Gunta Ikere
音楽 Karlis Auzans
音響 Anrijs Krenbergs
製作 Golden Egg Production
2018 Latvia, Switzerland, Czech Republic

遠い親類と遠い物語

 

『Close Relations (2016)』[Studio Vertov]

引き続きdafilmsのウクライナ特集からの作品を紹介する。今回は、ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations (2016)』というドキュメンタリーをとりあげたい。原題は『Рідні』、ウクライナ語で「親類たち」という意味だ。

マンスキー監督というと、日本では、北朝鮮での<一般人の生活>を撮影した『太陽の下で ─真実の北朝鮮─(В лучах Солнца, 2015)』という作品をご存知の方も多いかもしれない。これは、撮影時に政府当局からの干渉が著しかったため、その様子を隠し撮りした作品だ。『Close Relations』は、『太陽の下で』の直後の作品に当たる。マンスキー監督は、今度も一国の政治のあり方を<一般人>の姿を描くことで立ち上がらせる手法をとっている。その国とはウクライナだが、この作品ではその<一般人>が、自分の家族、親類縁者である点が特異なのだ。

ヴィタリー・マンスキーは、1963年ウクライナのリヴィウの生まれ。ソ連時代の1982年に有名な全ロシア映画大学(VGIK)に入学、1989年から通算30作以上の映画を監督している。この『Close Relations』までロシアを中心に活動していた。

『Close Relations』の冒頭で、マンスキーは「この映画を作るつもりはなかった」と宣言する。その真意は測りかねるが、映画を見終わった時、たしかにこの映画を作ったあとには、彼はもとの生活、もとの関係に戻ることは不可能だろう、と感じた。事実、マンスキーはこの映画発表ののち、ロシアを離れている。

映画は、生まれ故郷のリヴィウの町に住む、彼の母親を訪ねるところから始まる。2014年の大統領選挙の最中だ。母親はウクライナの現状を嘆き(「ドンバスでの戦いでどうして西ウクライナの人間が死ななければならないの」)、今回は選挙に行くと宣言する。彼女は自分の家系はウクライナ人だというのだが、息子のヴィタリーが「僕の曾祖母はリトアニア系ポーランド人じゃないか、僕の祖母はどうやってウクライナ人になったんだ?」と問い詰める。母親は「彼女のパスポートではウクライナ人だった」と言い、息子はもちろんそれでは納得しない。結局、母親と息子の会話は平行線をたどったままだ。

マンスキー監督は、この母親との会話を起点に、オデッサに住む妹一家、リヴィウに住む伯母のリュダとタマラ、ロシアに<併合>されたクリミアに住む伯母のナターシャ、分離独立派が戦闘を繰り広げるドネツクに住む祖父のミーシャ、とウクライナを横断してゆく。

キッチンやリビングルームといった近接した空間、親近さが約束された場所で撮影は行われ、伯母やその家族が、親戚同士の会話としてウクライナの現状と自分を語っている。リュダは、ソ連の崩壊後に共産政権の嘘と詐欺がだんだんと見えてきて、かつて好きだったソ連のTVドラマ(『春の十七の瞬間(Семнадцать мгновений весны, 1973)』)、そしてニキータ・ミハルコフが嫌いになったという。タマラは、リヴィウに「純血」などおらず、都市そのものがオーストリアやポーランド、ロシアなど様々な国に占領され建設されたのだと話す。タマラの義理の母は、戦後に現れたポーランド人たちがいかに貧しかったかを語る。

エスニシティの問題なんかじゃない。誰と一緒に暮らしたいかだよ。

タマラ

そういった、大文字の<政治>と一般人の感性の距離のようなものが、彼女らの言葉にはある。冒頭で、選挙に行くんだと息巻いていたマンスキーの母親は、投票所を間違えてしまって、バスに乗って停留所2つ先に行かないといけないとわかると、突然行く気をなくしてしまう。カメラを回しているマンスキーに「行かなきゃダメ?そこ撮りたい?」と聞く始末である。

だが、ウクライナを横断して東部に行くほど、その距離感がおかしくなっていく。ナターシャは、クリミアがロシアに併合されて幸せだと言い、プーチンの新年の挨拶をロシアの旗を振りながら喜んで見ている。年老いて自由が効かないミーシャはウクライナ人が野蛮な殺人鬼(バンデラ Banderivtsi)だと主張する1)。彼が見ているTVには、偶然なのか、マンスキーの仕業なのか、『春の十七の瞬間』が映っている。二人とも<ウクライナ>に対する憎悪をむき出しにしてはばからない。

マンスキーは、完全な観察者というわけでもないが、一貫した主張やステートメントを提示しているわけでもない。母親と話しているときには、ウクライナのアイデンティティについて懐疑的な質問を投げかけているが、後半のクリミアやドネツクのシーンでは、プーチン政権の影響力、ロシアメディアの存在などを、分析的な視点でとらえ、否定こそしないが、共感を拒否する姿勢がうかがえる。

『Close Relations』に対する批評を読むと、このマンスキーの<態度>が失敗とみなされたのがわかる。East European Film BulletinのKonstanty Kuzmaは、作品を通して維持されるべき客観性が失われ、マンスキーの主観が入り込むことに苛立ちを隠さない [Link]。Pat MullenがTIFFに寄せた文章では、マイルドには評価しているものの、「出てくる人物にカリスマがないこと」が欠点だとコメントしている [Link]。Daria Badyorは、マンスキーが、客観性の影に隠れて、政治的にも人道的にもポジションを明らかにしなかったことを非難している [Link]。

映画批評家が、作品になんらかの一貫性を求めるのは当然だろう。特にポリティカルなテーマをもった作品においては、監督の姿勢が定まらないのは問題かもしれない。私も『Close Relations』は、ひとつの映画作品としては失敗だろうと感じた。親戚たちが語る話は、文脈をつかみにくい部外者にとっては、大部分が意味が分からないまま流れていってしまう。特に、クリミアやドネツクのシーンは、表面だけをなぞっているような印象を受けてしまった。

だが、今現在、ウクライナがロシアに侵攻されている事態を踏まえると、この映像はまったく違う意味を持ち始めていると思う。私達は、紛争と言うと、鎌と槌のシンボルの旗を抱えたドンバスの分離独立派の兵士や、キエフでウクライナ国旗を振っているウクライナ予備役軍人たちの話ばかりを思い起こすが、<政治>というものは深く長いグラデーションでできている。投票所の場所を間違えただけですっかり投票する気がなくなってしまう女性や、クリミアのサッカー・クラブがどこの国にも所属しなくなって応援できないことを嘆いている男性や、パスポートが電子チップ式になってかっこいいと話している若い女性たちの<政治>も、そのグラデーションの中に存在する。この<政治>との様々な距離が国家の基盤を作っている。ウクライナとロシアの事態は、もはや後戻りができなくなってしまっているが、この映画はその以前の段階の、ウクライナのなかにあった様々なグラデーションを見事に切り取った映像だ。その点で、ドキュメントとして極めて貴重である。

ロシアのウクライナ侵略、それに対するウクライナの抵抗が報じられるなか、ユヴァル・ノア・ハラリは英ガーディアン紙に寄稿し、「国家は物語の上に築かれる」と述べた2)。その物語とは、ウクライナの勇敢な抵抗の物語であり、この物語には戦車でも勝てないという。だが、こういった<物語>は、西側諸国のインテリ達が気持ちよくなるだけで、こんなものばかりを紡いでいても仕方ないのではないか。インテリ達が<民主主義>と<自由>の表明という自己満足をただ漫然と繰り返してきたから、この事態になるまで放置していたのではないか。

ドネツクに住むミーシャは、年老いてしまい、風呂から出られなくなっても助けを呼ぶことができないほど弱っている。美しい桜が咲く下で猫とともに暮らしている。その彼は、ウクライナ人がきらいだ。第二次世界大戦中の1943年にウクライナ人(バンデラ)達がやってきて、人々を虐殺したという。人々を吊るして焼き殺した、女の目の前でその夫をのこぎりでバラバラにした、そんな都市伝説をあたかも自分が見た事実のように語る(ミーシャがソ連の貧しい町ヴォロネジからドンバスに送られてきたのは1948年である)。インテリたちは、この老人はメディア・リテラシーがないためにプロパガンダを信じてしまったのだ、というだろう。メディア・リテラシーも何も、老人はTVしか持っていないし、バンデラ達の伝説は何十年も囁かれてきたものだ。人はTVやネットで聞いたり見たりして、突然陰謀論を信じたり、荒唐無稽な話を信じるようになるのではない。メディアは、もともと個人の中にある偏見や差別を強化するだけだ。では、なぜミーシャはそんな偏見を持つようになったのか。娘たちの話では、かつてミーシャが若かった頃、ソ連時代には、ドンバスは重要な工業拠点で、食料や物資が豊富にあったという。つまり、ミーシャにとってモスクワは庇護者なのだ。かつて隣人たちを残酷に殺したウクライナ人はモスクワからの救世主によって追い払われ、ソ連崩壊後、ウクライナ人が領土を主張している今でもロシアが食料を届けてくれる。これがミーシャの<物語>なのだ。

私達は、このミーシャの<物語>について真剣に考える必要があるだろう。その歴史的正確さについてではなく、人間がいかにそのような<物語>を自分の中で育むかについて。

マンスキーは、リヴィウに住む甥の一人がウクライナ国軍に徴兵にとられる様子を撮影している。そのサウンドトラックに『春の十七の瞬間』のテーマ曲が使われている。オリジナルのドラマは、渡り鳥が編隊を組んで飛ぶ映像にこのテーマ曲が重なる、極めて印象的なオープニングで物語がはじまる。だが、果たしてこの選曲が『Close Relations』の締めくくりに相応しいかと言われると、少し首をかしげてしまう。『春の十七の瞬間』の作り出した神話的な世界とウクライナの青年の応召の場面とは、いかなる相似も、衝突も、意味の多層化もない。ミカエル・タリヴェルディエフの曲ならば、クリミアの少年たちが兵隊になる『グッド・バイ・ボーイズ(До свидания, мальчики!, 1966)』のオープニング曲のほうがあっていたかもしれないが、だが、それではあまりに不吉だ。『Close Relations』に描かれているそれぞれの話は、<映画的な>オマージュとか、引用をはねつけてしまうほど、物語的映像の世界とは相容れないものなのかもしれない。

Close Relations (原題:Рідні)

監督:Vitaly Mansky
脚本:Vitaly Mansky
撮影:Alexandra Ivanova
編集:Peteris Kimelis, Gunta Ikere
音楽:Music Harmo Kallaste, Mikael Tariverdiev
音響:Harmo Kallaste
製作:Studio Vertov
2016 ラトビア、ドイツ、エストニア、ウクライナ

1)^ 「バンデラ Banderivtsi」については、第二次世界大戦中のウクライナの極右政治活動としてのBanderivtsiと、そこから派生したウクライナ人の俗称としてのBanderivtsiがあるという [Link]。

2)^ 日本語翻訳はいくつかウェブ上に提供されているが、ここではWeb河出のページをリンクしておく[Link]。

ウクライナを映す、ウクライナを撮る

Like Dew in the Sun (2016) [Show and Tell Films]

ウクライナの領土内にロシア軍が侵攻してしまった。私達の多くは、この事態が訪れるのをまるで知らなかったかのように驚いているが、クリミアへのロシア侵攻以来、ロシアの強硬な姿勢は崩されていなかった。そして、ウクライナ国内では内戦状態がずっと続いていた。ドキュメンタリー映画のストリーミングサイト、dafilmsウクライナについての映画の特集が組まれている。少しづつ見ているのだが、この内戦状態について扱った2本の作品を紹介したい(追記:いずれも英語字幕)。

LIKE DEW IN THE SUN (2016)

監督のピーター・エンテル(Peter Entell)はニューヨーク生まれのユダヤ人で、現在はスイスに拠点を置きながら、ドキュメンタリー映画を製作している。エンテルの祖父母は、1914年にウクライナを離れてアメリカに渡った。祖父母がなぜ故郷を離れることになったのか、その故郷とはどんなところなのか、彼は祖父母の写真とわずかな手がかりだけをもって、彼らが住んでいた村を探し当てるためにウクライナを訪れる。エンテルが訪れたウクライナは、東部のロシア系分離独立派とウクライナ政府とのあいだで市民戦争状態に陥っていた。カメラは、彼の祖先を訪ねる旅を映しながらも、同時にウクライナ兵たち、そしてロシア系の分離独立軍の兵士たちを映し出す。また、一方でクリミアのバフチサライに住むタタール人の一家や、探し当てたエンテル監督の祖父母の故郷、モリカ・カリルカに住む人々の声も収めている。

このドキュメンタリーは、黒海を臨む土地をめぐって交差する、数多くの人種の争いの歴史が、時には遠景に、時には近景に現れてくるため、そのそれぞれの歴史の重みを直接感じることができない私達には、共感が横滑りして思考に詰まってしまう場面も多い。たとえば、モリカ・カリルカを訪れたエンテル監督は、住人に「もし、私の祖父母がここにとどまっていたなら、私達は隣人だったんですよ」と言ったその直後、「いや、そんなことはないか、わたしの祖父母は殺されて、私は生まれていませんね」と付け加える。ユダヤ人は激しいポグロムにさらされ、ほとんど全滅させられた。逃げた者だけが生き残ったのだ。事実、かつてユダヤ人が800人も住んでいたモリカ・カリルカには、ユダヤ人は一人もおらず、ユダヤ人の墓地も墓石がどこかに持ち去られて跡形もない。私達は、現在の村の住人たちが、その過去をおぞましいものとして語る様子を見るのだが、さて、そのユダヤ人を抹殺し、ユダヤ人の歴史を抹殺した者たちはどこへ行ったのか。その歴史を身近に経験していない私達には、その<見えない>部分が想像力の埒外に置かれてしまったままになる。また、クリミアのタタール人たちは、ロシアによる長い迫害の歴史について、「何百年も前のカーンのことをロシア人はまだ許さないのさ」という。そのクリミアは、また実質的にロシアの支配下に入り、タタール人達はマイノリティとして肩身の狭い思いをしている。このロシア人たちはどのようにしてタタール人を<許さない>のか、またウラル地方に追放しようとしているのか、私達には見えない。

そして、前景に現れるロシア分離独立派とウクライナのあいだの紛争の映像は、スマートフォンで撮影された生々しいビデオや、砲撃で殺された遺体に横たわって寄り添う女性や、ウクライナ人捕虜を虐待するロシア分離独立派兵士の映像や、大砲を撃って喜ぶ兵士たちの映像など、まったく理性を欠いた人間の行動とその結果を次々と直視させられる。電話でウクライナの指揮官と<やりあって>いるロシア分離独立派の将兵の様子は、まるで中学の不良が「やんのか、テメエ」と啖呵を切っているのを見せられているようだが、それは殺戮の宣言なのである。

随所に挿入される<像>の映像。特にバビ・ヤールのモニュメントは繰り返し登場する。ナチスに殺された子供たちのために作られたモニュメント、ソ連時代に作られた巨大なモニュメント、いずれも極めて扇情的なモチーフで、日本の広島や長崎に見られるモニュメントとは趣が違う。そこで残虐な方法で殺された人々の無念と悲しみを、可視化して絶対に後世に残すのだ、という強い執念を感じる。

そして、市井の人々が歌う歌も怨念がこもったものだ。クリミアの老婆が歌う。

Ural moutains, The horses here are no better

Crimean steppes and Crimean gardens, Live in my heart and give me joy

You who sent us away, Damn you!

May you burn and turn into ashes and be blinded for sending us away!

Don’t rejoice, you unfortunate people who live in the house we left behind

Because one day we will come back to Crimea and you will go instead to the Ural mountains

ちなみにこの映画のタイトルも、ウクライナの国歌からとられている。「敵は陽の光のなかの雫のように消えていく」という歌詞だ。

モリカ・カリルカの老婆が言う。「私にとってはみんな同じ人間、私達はみんな同じ太陽に照らされている」と。同じ太陽の光のもとでも、<敵>が雫のように消えていくことを願う歌もあれば、同じように照らされているという宣言もある。

怒りや憎悪、怨念や暴虐が、何らフィルターを介することなく表現され、そこからエスカレートした戦争も可視化されている。ロシア分離独立派がリクルートした新兵たちに宣誓をさせる様子のフッテージは、それがなんの統率もなく、およそ軍事組織とは思えない集団であることを映し出している。将兵はユダヤ人差別、同性愛差別を丸出しにして<想像のウクライナ>を敵視している。そこには、オブラートに包まれた<民族自立>といった概念は存在しない。機動力の高いデジタルカメラやスマートフォンのカメラは、そういった粗い現実の素地をすべて記録している。

そうやって、可視化されているにもかかわらず、いずれは忘れ去られていく。この映画もいずれは大量の映像の記録の山に埋もれてしまうのだろう。そして監督が訪れたモリカ・カリルカの村のユダヤ人墓地のようにわずかな痕跡しか残らないのだろう。

この作品は、その意図と語ろうとする物語は多くの人に受け入れられやすいものかもしれない。だが、決定的な瑕疵がある。それは次に紹介する映画「Show Me the War」が見せる、紛争地帯の映像の<とらえどころのなさ>について、あまりに無責任だという点だ。

SHOW ME THE WAR (2016)

Show Me the War (2016) [FAMU]

戦場にカメラを持って飛び込み、戦争の真実を伝える。だが、紛争地帯は世界中にあり、どこへ行けば<戦場>なのか、誰に会えば話を聞けるのか、すぐにはわからない。かつての従軍記者のように長期間部隊と行動を共にするような人たちは少ない。海外から来たジャーナリストやドキュメンタリー・クルーが、すぐに<戦場>を撮影できるように手配する者たちがいる。<フィクサー>と呼ばれている。

この映画では、そんなフィクサーの一人の仕事を追う。ロシア分離独立派兵士のなかにコロンビア人がいるので取材したいと、コロンビアからTV局の撮影クルーがやってきた。なぜ、こんな遠い土地で、コロンビア人が戦っているのか、インタビューしたいのだそうだ。フィクサーとして雇われたルスランは、クルーを連れてキエフから前線に向かって移動し、様々な<戦場>を見せてゆく。

ルスランとクルーは、ある町の集合住宅を訪れる。この建物は砲撃を受けた痛々しい傷跡や生存者が隠れた地下室などがあり、戦争の悲劇を見せるにはうってつけの場所なのだ。さらに、この地域では戦闘はおさまっており、安全地帯で戦争を取材できるというメリットもある。彼らが取材していると、偶然通りかかった住人の一人が言う。「私達はここに住んでいるんだよ、花も植えている、なのにどうしていつもぶっ壊れたところだけ撮影するんだろうね」と少々激昂している。ルスランは以前にも別のジャーナリストをこの場所に連れてきたようだった。一種の戦場観光のようになっているわけだ。

また別の日には、分離独立派に雇われている兵士が、誰もいない野原で射撃をしている様子を撮影する。だが、こんなものではとても遠く離れた国の視聴者が満足するわけがない。次の日、撮影クルーの女性ジャーナリストが言う。

私達が欲しいのは、軍の存在、戦車とか、そういったものなんです(中略)(昨日撮ったのは)3人の人が弾を撃っているところ。そんなのは、コロンビアでは普通なんです。

本人たちは笑いながら話していた。

近代の戦争で、映像が果たす役割は大きい。だが、実際の戦闘場面を撮るためには危険を侵さなければならないし、協力してくれる戦闘員たちがいなければ、視聴者が釘付けになるような映像は撮れない。フィクサーはそれを比較的簡単に手配してくれる。言い換えれば、いま今日の世界で戦闘の場面が映る際には、それを撮らせることを了承した人々の意図を考えなければならない。

なぜコロンビア人がウクライナで戦っているのか。傭兵だからに決まっている。実際、彼と同じ部隊にいるベトナム人は、ベトナム戦争を経験したベテランだ。現代の軍事行動では傭兵の存在は当然だし、それが多国籍にわたることも常識だ。そんな当たり前のことのために取材に来たのは、取りも直さず<戦車や大砲やミサイル>の映像が欲しかったからである。実際、クルーはフィクサーに紹介された分離独立派の将校に頼み込んで、極めて危険な撮影に出かける。彼らは帰ってきた時、非常に満足そうである。コロンビア人の取材よりも何かが爆発する映像のほうが重要なのだ。

前述の『Like Dew In The Sun』では、スマートフォンで撮影されたと思われる紛争の被害者たちの映像に「本作品のシーンの中には、インターネットからの映像もあります」という字幕が重ねられる。そのうち、どれが<インターネットからの映像>で、どれが<エンテル監督たちが撮影した映像>かが、判別し難くなっていく。<インターネットからの映像>を使用している際に、字幕で引用を明示していないからだ。明らかにアスペクト比が違うものや画質が違うもの、周囲をマスクしてサイズを小さくしたフッテージが、<インターネットからの映像>なのだろうが、見ている者にはわかりづらい。そうこうするうちに、それぞれの違う諸元の映像がエンテル監督の語りたい物語に編み込まれ、もはやそれがどこから来たかは重要でなくなってしまう。自らの物語を強化するために他の映像をこのような形で借りることは極めて危険な行為である。どこから引用されたか明らかでない、だがショッキングな数々の映像は、フィクサーによって手配され、分離独立派が、それらを世界に見せても良いと思って撮影させたものだ。分離独立派の兵士がウクライナ兵捕虜を虐待するシーン(これはインターネットから引用されたものだろう)でも、もともとは分離独立派にとって何らかの利益がある動画だったのだ。ロシアやその影響が及ぶ地域でウクライナ人や他の民族に反感を抱いている若い人間達の関心を引き、リクルートに役立つと考えていたのかもしれない。捕虜の肩章をナイフで切り取り、口に押し込んで食べさせると行った、あからさまで、映画的な演技をみるにつけ、そう思わざるを得ない。私達が<戦車や大砲やミサイル><戦場の現実><戦火に追われる人々の悲劇>を見たいと反応すればするほど、それを見せる仕掛けが現地で作動して、軍事行動をより正当化させてしまう側面もあるのではないか。

戦闘の映像を撮るための機会がこのようにして取引され、撮影されたフッテージは真実でありつつも用意周到に意味が付与されている。私達は<観る>だけではなく、実は知らぬ間に<参加>させられているとも言える。

Like Dew in the Sun

監督:Peter Entell
脚本:Peter Entell, Elizabeth Waelchli
撮影:Jón Björgvinsson
製作:Show and Tell Films
2016 スイス

Show Me the Invasion(原題:Ukažte mi válku)

監督:Zdeněk Chaloupka
撮影:Zdeněk Chaloupka
編集:Ilona Malá
音響:Miroslav Chaloupka
製作:FAMU、Smetanovo nábřeží 2、11000 Praha 1
2016 チェコ

銃に選ばれし人間

 

ジョセフ・H・ルイス監督の『拳銃魔(Gun Crazy, 1950)』について調べているときに、ハリウッドと銃の関係について、つい調べ始めてしまった。Hollywood Reporterにこんな動画があったのを見つけた。

ハリウッド、特に俳優や監督、プロデューサーはどちらかと言うと政治的にはリベラルなスタンスをとる人が多い。銃による暴力行為がニュースになると、銃規制に声を上げる映画関係者もいる。だが、セレブリティによるそういった活動にシニカルになる人達も少なくない。なぜなら、多くの映画でバイオレンスが重要な役割を果たしているし、ヒーロー達が数え切れない数の銃器を握って、困難を撃ち抜けるストーリーが語られているからだ。

この動画には「Independent Studio Services(ISS)」という映画の小道具、特に武器類を専門とする会社が紹介されている。この会社では16,000丁以上の銃器を保有し、映画撮影用の銃器のレンタルだけでなく、注文に合わせた銃器の製作、製作、撮影現場での教育、コンサルタントなども行なっている。さらには、アメリカ軍の戦闘員のトレーニングも行なっている。映画なんかでは、主人公が敵の武器を拾い上げてすぐに撃ちまくって窮地を脱するシーンなど散々製作されてきたが、実際の海兵隊員はAK-47だって触ったことがない場合がある。ISSで実際にトレーニングを受けた海兵隊員の二人が、2003年のイラク戦争の戦闘中に敵のAK-47を使って作戦を完遂した例があるという。現実はフィクションの想像力を必要としているのだ。

NRAの博物館の人が「映画で使われたもっとも有名な銃」として、『ダーティー・ハリー(Dirty Harry, 1971)』のキャラハン刑事が使用しているスミス&ウェッソンM29(”44マグナム”)を挙げている。私自身は「銃といえば44マグナム」みたいな安易な発想に少々うんざりしている。

今から30年ほど前、私はアメリカの西部のある都市で学生として住んでいた。私のアパートは大学の近くでそんな物騒なところではない。夜中の2時に80歳のおばあさんが3,000ドルの現金が入ったポーチを抱えてチワワを散歩させていても、ひったくりにさえ会わない。そんな平穏な場所だったが、ある夜の7時頃、アパートに帰ってくると、普段は誰もいない隣のアパートの駐車場に50人ほどの人が集まり、その人だかりの真ん中にパトカーが2台停まっていた。さっきまでピザを食べながら「ロザンヌ」を見ていましたという感じのスェット姿の女性に話しかけて何が起きたのと聞いてみた。このアパートに住んでいる若い女性がボーイフレンドと電話中に口論になり、激昂したボーイフレンドが、これから44マグナムを持ってお前のところに行く、と言ったらしい。若い女性はすぐに警察に連絡した。

「で、そのボーイフレンドは?」

「ほんとに来たんだよ、マグナム持って」

「え、マグナム持ってたの?」

「そ、持ってたの」

私達のそばにいた数人がほぼ同時に「Stupid」と言った。横にいた背のひょろっとした若い男がニヤニヤしながら、指で銃を作り「ゴーアヘッド、メイク・マイ・デイ!プシュー!」と撃つ真似をした。この国の男は全員馬鹿なんじゃないかと思った。だいたい、あのセリフのあとで、クリント・イーストウッドは銃を撃たない。

パトカーの後部座席に座っていたのは、ジョン・ボン・ジョヴィから全ての魅力を取り除いて、汚れたビールをぶっかけたような容姿の男だった。あの体つきでS&W M29なんか撃った日には、リコイルでひっくりこけて、上の階の人がとばっちりで怪我するという不幸な事態しか招かないだろう。

「世界で最もパワフルなハンドガンだ」みたいなスローガンは、こういう人物を引き寄せてしまう。そういう人間は、自分がその銃に選ばれていないのに、どこかでそれを手に入れてしまうのだ。フィクションの約束事を、現実の自分に委ねてしまう。

ジョン・バダムがTV映画を担当していた時代に監督した『ザ・ガン 運命の銃弾(The Gun, 1974)』という作品がある。38口径のリボルバーが<誕生>してから、様々な持ち主の手に渡ってゆく。その持ち主たちの銃との関わりを、持ち主たちに肩入れすることなく描いてゆく映画だ。ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品に『運命の饗宴(Tales of Manhattan, 1942)』という、これは燕尾服が様々な人の手に渡ってゆくさまを描く映画があるが、趣向は似ているけれど、こちらのほうは銃という、いつ悲劇を生むかわからないオブジェが主体なだけに、遥かに緊張感にみなぎっている。銃、特にハンティング用ではないハンドガンやライフルは、それが<殺傷する>という目的を果たすとき、悲劇しか生まない。その端的な事実を、大げさな演出や演技を介さずに、効果的に描き出している。この物語でも、銃に選ばれていない人間が、その銃を手に入れてしまう。あるいは、銃は死をもたらすもの、この世に属していないのだから、この世には選ぶ相手などいないのかもしれない。脚本はリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンク、撮影はスティーヴン・ラーナー。

この作品については、めとろんさんが詳しく論じられているので、ぜひそちらを参考にしていただきたい。

『市民ケーン』と空間の音響 (Part IV)

Part Iはこちら

Part IIはこちら

Part IIIはこちら

演説の時代

『市民ケーン』のマジソン・スクエア・ガーデンのシーンとオペラのシーンにはある共通項がある。いずれも、広い空間で、マイク/アンプ/PAを使わずに声を発するという演技をしている点だ。

この映画では、ケーンが州知事に立候補したのは1916年の設定になっている。PAシステムが普及する前のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの選挙演説のシーンでは、チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)はマイクを使わずに自らの<肉声>を大ホールに響かせている。1916年といえば、スタンフォード・ホワイトが設計した第2期(1890 – 1924)のマジソン・スクエア・ガーデンにあたる。舞台となったアンフィシアターは床面積6000平方メートルを超える巨大なホールだった。

PAシステムを使わずに演説をするというのは、どんな感じだったのだろうか?

米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、20世紀初頭、演説家として名を馳せていた政治家の一人だ。彼の演説シーンはサイレントのニュース映像として残されている。多くの場合、戸外で、おそらく多いときには数百人から千人以上の聴衆を相手に声を張り上げている。特に米国国会図書館所蔵のこのフィルムクリップの1:08~1:20の演説の様子をみていただきたい。手前で演説をしているのがルーズベルトだが、その奥、壇上で聴衆に向かって指示をしているように見える男性がいる。何が起きているのだろうか。

セオドア・ルーズベルトのフィルムクリップ(米国国会図書館

セオドア・ルーズベルトの選挙活動を報じる新聞記事を読むと、当時の演説がいかに混沌としていたかがわかる。支持者たちはいつまでたっても拍手をやめないし、中には壇上に上がって煽り始める者もいる。聴衆はすぐに声を合わせてスローガンを繰り返す。ようやくおさまって演説が始まっても常に野次が飛ぶ。おそらくフィルムクリップの男性は、騒がしく声を上げたり演説を妨害している者に注意しているのだろう。当時の新聞記事はルーズベルトの演説内容とともに、それに返された野次も記録している。

セオドア・ルーズベルトの演説の様子を伝える記事[1]。緑下線は聴衆からの発言。

つまり、PAシステムが導入される以前は、いくら演説者の声が大きくても聴衆の野次と大して変わるわけではなく、<やりとり>が必然的に存在する仕組みだったのだ。これは、アメリカの二大政党、民主党と共和党の全国大会(National Convention)についての報道を読むとそれがより鮮明に表れている。1904年、PAシステムが登場するはるか以前の共和党全国大会はシカゴ・コロシアムで開催されているが、始まる前から議長がギャベルで叩き続けても一向に静かにならない、各州から選挙人が登場する度に大騒ぎになる、意見が一致せずに割れると収集がつかない、といった具合である[2]

また、上記のフィルムクリップで2:00~2:08あたりの映像を見てほしい。これは屋外での演説だが、ルーズベルトの声がいくら大きく通る声でも、後ろのほうの聴衆まで聞こえたとは考えにくい。演説者の直ぐそばで野次を飛ばす人たちもいれば、遠くの方から演説の内容はともあれ<イベントに参加した>という人もいたのだろう。当時は翌日の新聞に演説の全文が掲載されることも多く、多くのひとは演説の内容を遅れて知ったのではないか。

だが、PAシステムとラジオの登場によって、その様相が少しずつ変わっていく。

アメリカの政治家でPAシステムを最も有効に使用した最初の人物は、第29代大統領ウォレン・ハーディングである。彼は1921年の大統領宣誓式、第一次世界大戦終戦記念日の演説をPAシステムとラジオを駆使しておこない、好評を博している[3], [4], [5]。これらはどちらも屋外で行われる式典で、PAシステムの効果は絶大だったに違いない。

屋内で開催される大規模な政治集会といえば、前述の共和党、民主党の全国大会である。1920年代の両党の全国大会はベルシステムズが新技術を披露する格好の場所となっていた。まず、前述のハーディングの大統領宣誓式の前年1920年に、共和党全国大会でベル・テレフォン・システムズが大規模政治集会としては初めてPAシステムを設置した[6]。1924年にはやはりベルシステムズが全国大会のラジオ中継の技術を提供、アメリカ全土で両党の全国大会の進行を生放送で聞くことができるようになった。これは今で言う「パブリック・ビューイング」のように、大型の施設を開放、PAシステムを設置してラジオ放送を流すという仕組みだった。

1930年代に入ると、<拡声>技術と政治はより深く結びついていく。トーキー映画の登場はそのひとつだ。また政党がラジオ放送のスポンサーとなり、自分たちの政策や主張をラジオ番組として流すようになったことも挙げられる。1932年のアメリカ大統領選では、ハーバート・フーヴァーとフランクリン・D・ルーズベルトが、PA装置、トーキーのニュース映画、ラジオといったさまざまな<声の拡大装置>を用いて戦った。民主党全国大会のラジオ放送は、NBC、CBSそれぞれがのべ50時間を超える放送を行ない、政情変化をリアルタイムでつたえる一大イベントとなった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-mqWhDwAFmk&w=560&h=315]
民主党全国大会(1932年6月)

このフィルムクリップに写っているNBCのロゴの入ったパラボラは新型のマイクである。また、パラボラの横に天井から吊り下げられたコードがうっすらと見えるが、これはCBSが準備した<ラペルマイク>のケーブルだと思われる。どちらも<フロアにいる人々の声をとらえる>ために準備された。

NBCのパラボラマイク(左)とCBSのラペルマイク(右)。ラペルマイクは右から二人目のベルボーイの襟の下についている円盤状のもの。このマイクのケーブルは会場の天井に架けられていて、ベルボーイはフロアをマイクをつけたまま自由に移動できる。各州の選挙人代表などがこのラペルマイクに向かって話し、その声がコンソールからラジオ放送に送出される[7]

この<会場の声をひろう>マイクは、PAシステムの強力な増幅能力と対になっている。パラボラマイクはフロア(にいる聴衆)の<ノイズ>をとらえるために設置され[8]、ラペルマイクはフロアにいる<重要人物の意見>を集めるために準備された。セオドア・ルーズベルトの時代には、無名の聴衆からあがる<声>は大統領候補の演説とともに記録されるものだったが、PAシステムは、壇上の人物の声を圧倒的に増幅し、フロアにいる人々の声をかき消して<ノイズ>にしてしまったのだ。また、1920年代には演説に使用される技術開発はベルシステムズが担っていたが、1930年代になって、NBC、CBSといったメディアが担うようになっている点も示唆的だ。メディア企業は広告料によって経営がなりたっている。お金を払っている人の声が最大限に増幅され、それを享受している側の声はノイズとして処理されるようになった。

マイクの前に立つ者の声を何万倍にも増幅し、聴衆の発言をかき消す。このような特質を持つPAシステムとファシズムの台頭が軌を一にしているのは偶然ではないのかもしれない1)。ヒトラーの、演説を静かに始め、だんだんと声を張り上げていくという演出が効果を奏したのも、PAシステムのおかげである。

戦前ハリウッド映画に見る演説

フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年、MGMは『獨裁大統領(Gabriel over the White House, 1933)』を公開した。このなかで、架空のハモンド大統領がPAを使わずに演説するシーンが登場する。

『獨裁大統領』よりハモンド大統領(ウォルター・ヒューストン)の演説

この演説のシーンは2つの点で興味深い。まず、ミディアム・ショットからロング・ショットに切り替わると、声の音響特性が変化する点だ。ミディアム・ショットでは声はダイレクトで反響音が少ないが、ロング・ショットでは声が<遠く>なり、反響音が言葉を聞き取りにくくしている。これはPart Iで紹介した『アギー・アップルビー』の例と同じく、撮影のセットアップ(ミディアム/ロング)に合わせてマイクのセットアップが変わったからだろう。このシーンは、Part IIIで引用したフランクリン・L・ハントの「ショットによっては反響音を加えたほうが自然に聞こえる」という見解を実証的に見ることができる例だ。確かに、各々のショットだけを取り出すと、カメラの位置と音響の性質が合致していて、あたかもそれぞれの場で聞いているかのような錯覚を生み出す。ところが、このショットが編集によって繋げられると、その唐突な変化が目立ってしまう。

もう一つの興味深い点は、前述のPAシステムを使わなかった時代の演説の例のとおり、聴衆が言葉で反応する点だ。聴衆の音は<ノイズ>ではなく、<声>であり、演説の一部なのである。

『獨裁大統領』の公開の2年後、エドワード・スモールが製作、ユナイテッド・アーチスツが配給した『近代脱線娘(Red Salute, 1935)』にも同様にPAシステムを使わない演説のシーンが登場する。ここでもミディアム・ショットとロング・ショットが繋げられているのだが、『獨裁大統領』のような顕著な音響の変化は起きていない。これはリレコーディングのおかげだ。音響の質が撮影のセットアップに制限されず、編集によってなめらかにつながるようになった。

『近代脱線娘』より演説のシーン

日常的な政治の場に、PAシステムとラジオが平行に介在するようになると、当然それは映画にも登場するようになる。

<拡声の力>を表す2本の映画が1940年と1941年に公開された。

チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』に登場するヒンケルの演説のシーンは、音響が実に緻密に設計されている。当初、ヒンケルの演説を聞いている私達は、この音声が何の(・・)音声なのか判然としないまま聞かされている。PAシステムのスピーカーからの音なのか、あるいは演壇上のマイクからの入力なのか、音響からは判断する材料がないまま、演説はすすんでいく。ただ、ヒンケルがわめくデタラメ語はきわめて聞き取りやすく、屋外のPAシステム独特のこだまのような反響音で濁るようなことがない。そして、しばらく経ってから英語による同時通訳の声が入ってくる。だが、なぜ同時通訳の声が入ってくるのかは説明されない。演説が終わったあと、はじめて私達はこれがラジオの音声だったと知らされる。ヒンケルの演説はステージ上で得られるであろう反響音が聞こえているのに対し(つまり、壇上のマイクからの入力である)、ラジオの同時通訳の声には全く反響音がない(デッドな音響のスタジオのマイクの入力である)。「独裁者お抱えの同時通訳者が演説内容を都合よく取捨選択して聴衆に伝えている」というマスメディアの特性に対する揶揄を、一度に見せてしまうのではなく、反響音の微妙な差を使いながら少しずつ種明かししている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=isLNLpxpndA?start=63&w=560&h=315]
『独裁者』よりヒンケルの演説(YouTube

フランク・キャプラ監督の『群衆(Meet John Doe, 1941)』の雨の中の政治集会のシーンは、まさしくPAシステムによる<拡声の力>をコントロールする者が政治的な力を持ちうるということを強烈に表現している。ノートン(エドワード・アーノルド)がジョン・ドー(ゲーリー・クーパー)の<嘘>をあばき、聴衆の信頼をあっという間に奪ってしまう。PAの音は集会の会場にこだまし、ノートンの大声の非難が響きわたる。ノートンはジョンを失墜させると同時に、PAシステムのケーブルを切断させる。ジョンは自らの弁明を<拡声>する術を失い、セオドア・ルーズベルトの時代に戻されてしまう。彼は聴衆からの野次や怒号に音量で押し黙らされてしまう。ジョンの戸惑う声の音量は、映画のシーンの音量として決して小さいわけではない。映画を見ている(・・・・・・・)観客はジョンの声を普通に聞くことができる。だが、それは映画のなかの(・・・・・・)群衆には聞こえない。このPAと肉声の音量差は、反響音の有無で表現されているのだ。『群衆』の製作にワーナー・ブラザーズの設備やスタッフが関わっているが(『群衆』の音響エンジニアはワーナー・ブラザーズのC・A・リッグス)[9 p.430]、もちろん、ワーナーでもエコーチェンバーは使用されていた[10]。このエコー/リバーブ音の制御は、リレコーディングのプロセスでの音響編集が可能になったからこそできた。

『群衆』より 拡声機能を失うジョン・ドー

ここまで見てきた演説とPAの歴史をふまえると、『市民ケーン』の選挙演説のシーンは果たして1916年の状況を現実的(リアリスティック)に反映しているのだろうかという疑問も湧き上がってくる。PA登場以前の演説に見られたような、聴衆との<やりとり>は存在せず、ケーンは一方的に自分の声をはり上げている。マジソン・スクエア・ガーデンの音響が果たして、PAを使用しない演説であそこまでのリバーブ/エコーが生じたかは疑わしい2)。むしろこの場面でのオーソン・ウェルズの演説手法がPAシステムを使うことを前提にしているようにさえ見える。ここで追求されているのは歴史的事実や客観的観測に基づいた<実証性(デモンストレーション)>ではなく、PA装置による政治という声の不均衡の時代に生きる人々の現実(リアル)なのではないだろうか。ロング・ショットになったり、聴衆を映すと、リバーブの比率が高くなり、ウェルズを近景で映すとダイレクトな音声になる。だが、これは『獨裁大統領』のようなカメラとマイクのセットアップが呼応しているから起きている現象ではない。音を操作して、カメラの視点と観客の視点があたかも同期しているかのような没入感を作り出しているのだ。ファシズムとマスメディアの時代に生きていた当時の人たちにとって、<やりとり>が存在した演説はすでに風化して失われてしまい、反響音が響き渡るホールで一方的に主張を聞かされるのが政治の現実だったのだ。

『市民ケーン』の音響設計の<革新性>は、エコーを使って空間を表現したことではない。エコーチェンバーを使ってさまざまな空間の音響を表現するテクニックはすでに1930年代から存在し、各スタジオもエコーチェンバーを音響部門に設置してさまざまな場面で使用していた。映像に合わせてリバーブの度合いを変えるというアイディアも、トーキー導入当初から議論の争点だった。『市民ケーン』の音響設計が当時の状況から見て突出している点は、空間の特性についての映像と音響の表現が、単なる場所の描写にとどまらず、観る者をストーリーに引き込むための仕掛けとして機能していることだろう。奇術(マジック)で観客の注意を操るように、映像と音響にさらされた観客をストーリーに没入させ、その種に気づかせないような、そういったテクニックに事欠かない作品が『市民ケーン』だといえるだろう。

Notes

1)^ ヒトラーやゲッベルスは自分たちの声の圧倒的な支配力を誇示したが、ムッソリーニは必ずしも聴衆を一方的に威圧できていたわけではなかったように見える。いつまでたっても静まらない聴衆に手を焼いていたり(リンク)、聴衆からの言葉に思わず反応して笑ってしまったり(リンク)する様子が記録されている。

2)^ 第三期のマジソン・スクエア・ガーデンの音響、特に反響音特性を調査した研究には、もともとスポーツアリーナとして設計された大ホールがいかに音響的に劣っていたかが記されている[11]。話者の肉声ではほとんど聞き取ることができず、それを補うためにPAシステムを導入したが失敗、再度別のPAシステムを導入するものの、それでも結果は決して満足ゆくものでなかったという。『市民ケーン』が想定しているのは第二期のマジソン・スクエア・ガーデンだが、状況は似たようなものだったのではないだろうか。

References

[1]^ “Col Roosevelt Speaking From a Baggage Truck at the Railroad Station in Brockton,” The Boston Globe, Boston, p. 9, Apr. 28, 1912.

[2]^ “Roosevelt, Fairbanks, and a Long Whoop,” The Baltimore Sun, Baltimore, Maryland, p. 1, Jun. 24, 1904.

[3]^ “Inaugural to be Broadcast to All Parts of the Country,” The New York Times, New York, p. 186, Mar. 01, 1925.

[4]^ “Harding Used Loud Speaker,” New Castle Herald.

[5]^ “Big Amplifier Armistice Day,” Chehalis Bee Nugget, Chehalis, Washington, Nov. 11, 1921.

[6]^ “At the National Conventions,” The Manmouth Inquirer, Freehold, New Jersey, p. 4, Aug. 12, 1920.

[7]^ M. Codel, “Radio ‘Scoops’ World at Chicago Stadium,” Broadcasting, vol. 3, no. 2, p. 7, Jul. 1932.

[8]^ M. Codel, “Political Campaigns to Boom Broadcasting,” Broadcasting, vol. 2, no. 12, p. 13, Jun. 1932.

[9]^ J. McBride, Frank Capra: The Catastrophe of Success, Illustrated edition. Jackson: Univ Pr of Mississippi, 2011.

[10]^ L. T. Goldsmith, “Re-recording Sound Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 39, no. 11, pp. 277–283, 1942.

[11]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part III)

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戦前ハリウッドにおける<反響音>

ラジオ放送や映画製作で、エコーチェンバーの利用が拡大していく経緯を追っていると、リバーブがほしいときには空室に音を響かせてミックスしていた、という単純なシナリオのように見えてしまうかもしれない。だが、実際には極めて科学的な議論のもとに開発が進められていた。特にハリウッドにおける映画製作の場合、リバーブの問題は多くの要素が複雑に絡み合っていた。

トーキーが導入された直後に、ジェネラル・エレクトリックのエドワード・W・ケロッグが発表したリバーブに関する考察が、1930年代初頭のハリウッドが直面していた音響技術の問題をよくあらわしている[1]。ケロッグが問題にしたのは、撮影・録音がおこなわれる部屋の反響特性が、全体的な再生音量や言葉の聞き取りやすさに与える影響だった。

セリフの場合の好ましい反響音とは、音の増幅効果と音の重なり合いのあいだでどこに妥協点を見出すかという問題である。

エドワード・W・ケロッグ

ケロッグはセリフの録音においては、十分な音量をドライ(直接音)で確保して、ウェット(反響音)はできるだけ抑制するべきだと提案している。なぜなら、反響音はセリフの聞き取りにとって悪影響しか及ぼさないからだ。当時は撮影時に録音したセリフがそのまま完成フィルムのサウンドトラックに使用されていた。撮影セットは音響面において最適化されていないし、マイクはカメラに映り込まないように離して設置する必要がある。ラジオのように基本的にデッド(反響音に乏しい)なスタジオでマイクのそばで発話するのとは、状況が大きく異なるのだ。当時のマイクは指向性に乏しく、周囲のアンビエント音をピックアップしてしまう。セリフを聞き取りにくくする反響音が問題視されたのはそういう背景があった。

だが、ほぼ同時期に反響音の不在は不自然だという意見もあった。

トーキー映画の録音では、マイクロフォンを話している人物の数フィート以内に設置すると最も聞き取りやすいというのが一般的な意見だ。だが、このようにして得られた音声の質は、中程度からロングのショットで使われた時に何かが欠けているように思われている。この不自然さはセットの壁から反射された音が存在しないために起こるもので、話し手の声そのものにこの反射音を加えると、通常の聴衆条件下、普通の部屋で音質を模倣することができる。

フランクリン・L・ハント[2]

注目したいのは、シーンが話者とどのような距離関係にあるか(クローズアップ/ミドルショット/ロングショット)と反響音の程度に関連性を見出している点だ。ロングショットで反響音がないと<不自然>だと指摘している。

だが、<聞き取りやすさ>とか<不自然>という概念は曖昧としている。それを技術で解決するためには、少なくとも明確な、測定可能なものをお互いに共有する必要がある。当時、他国の映画産業と比べて、ハリウッドが特異だった点の一つに、技術の標準化に極めて熱心だったということが挙げられる。スタジオ間の競争は非常に熾烈だったにもかかわらず、エンジニアたちが同じ言語を話し、同じものさしを持てるようにアカデミーや学会が積極的に活動した。音響の分野も例外ではない。米国商務省規格基準局の研究者たちによる反響音の標準測定法の提案[3]、マジソン・スクエア・ガーデンの反響音の周波数特性の測定結果の報告[4]、材料の音吸収特性を測定するためのチェンバーの開発[5]、小型反響音測定装置[6]と1930年代から40年代を通じて技術開発の重心が<測定>や<標準化>におかれているのがよく分かる。

音吸収特性測定用チェンバー[5]

また、実践をとおして理論の検証が継続的におこなわれているのも特徴的だ。例えば、1938年に建設されたリパブリック・ピクチャーズのダビング/スコアリング・スタジオは、当時もっとも音響的に優れたスタジオとして有名になったが、この設計は当時の音響理論を積極的に取り入れ、検証しつつおこなわれている[7]。当時、すでにウォレス・セイビンの理論式が不十分であることが指摘されており、この設計検証には数年前にドイツで発表されたストラットの理論も応用されている。もともと、ウォレス・セイビンの理論が、原始的ではあったものの極めて入念で精微な実験を通して立てられたものであるだけに[8]、音響エンジニアリングの分野では理論と実験の両立が常に求められていたのかもしれない。

もう一点忘れてはいけないのが、映画館の音響特性である。サイレントからトーキーに移行した際、それまでの映画館が<無声映画上映時の音楽演奏>に照準を合わせて設計されていたことが、トーキーでの音設計をさらに複雑にした。すなわち、残響が意外に長い劇場が多いのである。だからこそ、もともとの録音に残響が含まれていると、より聞き取りにくくなる、と懸念された。また、スピーカーを設置する位置や、スピーカーそのものの特性、音量設定の標準化(録音フォーマットの混在、スタジオ間の録音レベルの差などに合わせて劇場側が音量を調節する必要があった)についても試行錯誤がくりかえされていく。

このような環境が、ハリウッド映画の音響の可能性をひろげるのに非常に貢献したのは間違いない。1930年には、話し言葉とオーケストラで反響音の扱いは違うべきか否かという論争を繰り広げていたのだが、わずか9年で30Hzから7KHzまでの広帯域にわたって残響をほぼフラットに抑制するスタジオを設計・建設し、それを測定して業界に共有するところまで進歩したのである。

しかし、これらの研究は学術的関心によるものではないし、進歩は人類の知の地平を広げるために推し進められたわけではない。ハリウッドの映画産業でのテクノロジーの存在理由は「物語を語る」ためにある。

その存在理由を非常によくあらわしているエピソードがある。<Part I>で紹介した『市民ケーン』のなかのマジソン・スクエア・ガーデンでの演説のシーンのリレコーディングのときの話だ。サウンド・エンジニアのジェームズ・G・スチュワートは、オーソン・ウェルズとの仕事の<自由さ>に感化され、このシーンでの残響音の設計に夢中になってしまった[9]。空間の大きさを強調しすぎてしまったのだ。このテストを聞いたオーソン・ウェルズはスチュワートの方を振り向いてこう冗談を言った。

君は僕より大根役者だね!

オーソン・ウェルズ

これは、音の設計が<演技>をしているという意味だ。スチュワートは「音は演技の邪魔をするものであってはならない、よりよくするものであるべきだ」と語っている。

『市民ケーン』で、リバーブが重要な役割を果たしているシーンをもうひとつ挙げよう。ケーンの二人目の妻、スーザンが主役をつとめるオペラのオープニングだ。このシーンはリーランドの回想とスーザン本人による回想で2回登場する。リーランドの回想のほうは『市民ケーン』の批評で必ずとりあげられる有名な移動ショットである。上昇するカメラがとらえる舞台の上の空間は、実は美術と特殊プロセスのアマルガムによって見事に作り出されたものなのだ。音響設計においても、リレコーディングによって生み出された空間の錯覚が効果的である。スーザンが歌い始める瞬間にはほぼダイレクトなドライ音であるが、カメラが上昇するにつれてリバーブ音の比率が大きくなり、最後はほぼウェットなリバーブ音だけになっていく。あたかもカメラの位置で音を聞いているかのような錯覚が生み出される。スーザンの回想のほうもカメラの位置と音が深く関係している。幕が上がるとき、映像はスーザンをステージ後方からとらえているが、彼女の歌声はほぼウェットなリバーブ音だけだ。PAを使用しないステージに立った方はおわかりになると思うが、舞台から客席に向けて発せられた音(直接音)は舞台後方には届かない。カメラの位置では反響音だけが聞こえるだろう。作曲のバーナード・ハーマンは、このオペラのオープニングが、物語上非常に重要だったと強調している。ポーリーン・ケールの「オペラ『タイス』の使用料を払えなかった」という記述を一蹴しながら、このオペラは「ウェルズが求めたんじゃない、『ケーン』が求めたんだ」と述べている。スーザンのオペラ歌手としての決定的な実力不足をわずか1分足らずで見せなければならない。

このオペラのシークエンスはつぶさに見てほしい。なぜならこれは音楽が映画のために作曲されなければならなかったケースだからだ。私はこれ以外の方法でこの問題を解決できたとは思えない。例えば「サロメ」のラストをもってきても似たような効果が得られたかもしれないが、それではスーザンがオペラを歌い始める・・・・・)様子を描けない(「サロメ」のオープニングは誰でも歌える)。問題は「スーザンは出だしを切り抜けられるか?」だ。それが映画が私に仕掛けてきた問いだった。

バーナード・ハーマン[10]

この「スーザンの決定的な歌唱力不足」は、物語の流れにそって段階的に明らかになっていく1)。最初のリーランドの回想では、映画を見ている私達がスーザンの歌をじっくりと聞くことができる前にリバーブ音になってしまう。だが、上昇していったカメラがとらえるのは舞台の裏方が鼻をつまむ様子だ。次のスーザンの回想では、最初はやはりリバーブ音から始まるのだが、明らかに退屈したリーランドの様子や観客の嘲笑的な私語によって、スーザンの力のない歌声がかき消されていく。そしてフィナーレではカメラが正面からスーザンをとらえ、ダイレクトな音響によって、スーザンの細く共鳴の少ない声質がやはり・・・)<不適>だったことが露骨に晒される。リバーブがずっと答えを隠していたのだ。

『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(リーランドの回想)
『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(スーザンの回想)

このように反響音が物語を操作し、起伏を作ることに積極的に関わるように仕向けたのはオーソン・ウェルズであるのは間違いないだろう。ウォルター・マーチが「反響の要素を繊細に使いこなして、物語を語る」と述べたのはこういうことだったのである。

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Notes

1)^ このオペラ「Salaambo」で実際の歌声を提供したのは、カリフォルニア出身のジーン・フォーワードである。バーナード・ハーマンは「スーザンが苦労するのは、彼女が歌えないからではない・・)んだ、役が要求する力量があまりに大きすぎて、とても彼女の手に負えないからだ」といい、どういう効果を求めているかをフォワードに説明して歌ってもらったという。のちにこのアリアは、コンサート・ピースとしてソプラノ歌手に取り上げられるようになり、ハーマンは<非常に優れた>歌唱の例としてアイリーン・ファレルを挙げている。ファレルの録音はここで聞ける。その他にはキリテ・カナワヴェネラ・ギマディエヴァロザモンド・イリングなども取り上げている。

References

[1]^ E. W. Kellogg, “Some New Aspects of Reverberation,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 14, no. 1, p. 96, Jan. 1930.

[2]^ F. L. Hunt, “Sound Pictures: Fundamental Principles and Some Factors Which Affect Their Quality,” The Journal of the Acoustical Society of America, vol. 2, no. 4, pp. 476–484, 1931.

[3]^ V. L. Chrisler and W. F. Snyder, “Measurements with a Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 479–487, 1932.

[4]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

[5]^ V. O. Knudsen, “Recent Progress in Acoustics,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXIX, no. 3, p. 233, Sep. 1937.

[6]^ E. S. Seeley, “A Compact Direct-Reading Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 37, no. 12, pp. 557–568, 1941.

[7]^ C. L. Lootens, D. J. Bloomberg, and M. Rettinger, “A Motion Picture Dubbing and Scoring Stage,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 32, no. 4, pp. 357–380, Apr. 1939, doi: 10.5594/J16557.

[8]^ W. C. Sabine, Collected Papers on Acoustics. Cambridge: Harvard University Press, 1922.

[9]^ J. G. Stewart, “The Evolution of Cinematic Sound: A Personal Report,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

[10]^ B. Herrmann, “Bernard Herrmann, Composer,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part II)

Part Iはこちら

ラジオドラマの時代

オーソン・ウェルズが、デビュー当初、演劇とともにラジオドラマで注目を浴びるようになったのはよく知られている。特に1938年のハロウィンに放送された「宇宙戦争」の際のメディアの狂乱ぶりは有名だ。この「宇宙戦争」は、「マーキュリー放送劇場(Mercury Theatre on the Air, 1938)」というラジオドラマ番組枠で放送されたエピソードのひとつである。だが、この「宇宙戦争」は実際に聞いてみると、当時のラジオドラマの質と比較して特に秀でているとは言い難い。物語の導入部と終盤をモノローグで縁取るという構成はオーソン・ウェルズらしいアプローチだが、本編にあたる部分のインパクトをかなり弱めているのは否めない。ポール・スチュアートが効果音の制作(大砲の音や群衆の声など)を担当しているが、例えば当時人気だったホラードラマ番組「ライツ・アウト(Lights Out)」などと比べると独創性はあまり感じられない。「宇宙戦争」が極めて特殊なのは(そして、制作に関与していたジョン・ハウスマン、オーソン・ウェルズ、ポール・スチュアートらもリハーサルのあとで痛感していたことだが[1 p.393])<ニュース速報>というフォーマットで物語が駆動されるという点だ。それは、<ニュース速報>そのものだけでなく、<ニュース速報>が通常の番組に割り込むというダイナミクスや、<ニュース速報>のあとの空白の時間にショパンやドビュッシーのピアノ曲が流されるという不可抗力の不穏さも含む、駆動力である。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言明を先取りして実践していたと言ってもよいだろう。

オーソン・ウェルズは、自ら率いるマーキュリー劇団のこの番組をCBSで担当する前から、ラジオドラマの人気俳優だった。タイム誌が製作した「ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1936 – 1938の期間出演)」のナレーションや、ミステリー番組の「ザ・シャドウ(The Shadow, 1937 – 1938)」の主人公ラモント・クランストン役などCBSラジオの人気番組を受け持っていた。

そのCBSは1930年代初頭から、実験的なラジオ番組を手掛けており、30年近くにわたって音の可能性に挑戦する演出家、脚本家、俳優、作曲家などを数多く輩出してきた[2]

The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 1 1931
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 2 1932
Columbia Workshop 1936-1947
CBS Forecast 1940-1941
26 By Corwin 1941
An American In England 1942
Columbia Presents Corwin 1944-1944
Once Upon A Tune 1947
CBS Radio Workshop 1956-1957

このなかでも1936年からはじまった「コロンビア・ワークショップ(Columbia Workshop)」は、その革新的な実験性で最も成功したシリーズである。このシリーズを創り出したのは演出家のアーヴィング・ライス(1906 – 1953)だ。これ以前の「The Columbia Experimental Dramatic Laboratory」の録音は現存しないようだが、「コロンビア・ワークショップ」の録音は現存しているエピソードもあり、そのなかに1937年4月11日に放送された「都市の没落(The Fall of the City)」がある1)。アーチボルド・マクリーシュ原作の詩劇で、ハウス・ジェイムソン、オーソン・ウェルズ、バージェス・メレディスらが出演、アーヴィング・ライスが製作・主監督、バーナード・ハーマンが音楽を作曲、指揮している。この「都市の没落」がウェルズに多大な影響を与えたという指摘は多い[3][4 p.196][5 p.32]

「都市の没落」はマクリーシュによる民主主義喪失の寓話である。これは当時ヨーロッパを覆い始めていたファシズムに対する警鐘として書かれた作品だ。<どこにでもある都市>の広場からのラジオの実況中継(オーソン・ウェルズがアナウンサー)という形式をとっている。物語は、<死から蘇った女性>の言葉を聞こうと広場に1万人もの市民が集まっているところから始まる。<死から蘇った女性>が現れ、言葉を発する。

支配者のいない者たちの都市に支配者が現れるだろう!

この<死から蘇った女性>が消えたあとも、市民たちの混乱と熱狂は止まない。そこへ<メッセンジャー>が到着する。<メッセンジャー>は<征服者>がこの都市に襲来すると告げ、「征服者にすでに征服された人々は恐怖におののいている」と警告する。次に預言者が現れ「征服者を平和的に受け入れよ」と告げる。市民たちはこの<征服者>の到来を待ち望んでいる。2人目の<メッセンジャー>が到着し、「征服された者たちは征服者を歓迎している」と告げる。やがて<征服者>が都市に入城し、市民たちは顔を覆い屈み込む。ラジオのアナウンサーだけが<征服者>が覆面を上げるところを目撃し、「覆面と鎧の下には何もない」と報告する。だが、もうすでにこの都市は<征服者>の手に落ちたのである。

このラジオドラマの制作は、当時としてはかなり大掛かりなものだった[5 p.30]。200人以上の出演者を擁して広場に集まる市民たちの声を再現した。この出演者の大部分はニュージャージーの高校やニューヨーク州立大学の演劇部の学生たちやアマチュアの俳優たちで、学生はボランティア、俳優には最低限のギャラが支払われたという。市の広場に集まった群衆の<音>を作り出すために、演出のアーヴィング・ライスはマンハッタンにある第7連隊武器庫(現在のパーク・アベニュー・アーモリー)のドリル・ホール(5000平方メートル)を貸し切り、その巨大な空間の音響を利用した。さらに、この学生たちが作り出す<群衆の声>を4枚のアセテート盤に録音、それぞれを武器庫内で異なる場所に配置して、生放送実演時に少し遅らせて再生した。このようにして、巨大な広場に1万人が集まっているという音の効果を編み出した[6]

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「都市の没落」より 広場に集まった人々とラジオアナウンサー(オーソン・ウェルズ)

最初のメッセンジャーを演じたのはバージェス・メレディスだが、彼の声は武器庫のドリルホールによく響いていて、十分な残響がある。この残響のおかげでメレディスが広い広場の市民に向かって発言しているように聞こえる。この「都市の没落」にみられるように、ラジオドラマでは、反響音を人工的に操作して、場所の大きさを想像させる手法がすでに確立していた。

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「都市の没落」より メッセンジャー(バージェス・メレディス)
「都市の没落」第7連隊武器庫での収録の様子(Billy Rose Theatre Collection

「コロンビア・ワークショップ」を取材した「ポピュラー・メカニクス」誌の記事では、アーヴィング・ライスが<エコーチェンバー>を用いて他のエピソードも演出していることが記されている。エコーチェンバーは広い何もない部屋で、一方の端にスピーカー、もう一方の端にマイクを設置して、スピーカーから発せられた音が部屋の中で反射する様子をマイクで拾う仕組みである。元の音にこの反響音をミックスして、聴取者がセリフの内容を容易に判別しつつ、音の発生している場を容易に想像できるような音設計がなされていた。

「コロンビア・ワークショップ」で使用されていたエコーチェンバー[6]

エコーチェンバーとリバーブの歴史

多くの文献や記事で、リバーブを人工的に作り出した最初の例として挙げられるのが、1947年にリリースされたハーモニキャッツの「ペグ・オ・マイ・ハート(Peg ‘o My Heart)」という曲だ(YouTube)。これは、ビル・パットナムのユニバーサル・スタジオで録音された。スタジオのトイレにスピーカーとマイクを設置してリバーブの効果を作り出したと言われている。だが、この曲の場合、リバーブは<自然な音響>を模倣するためではなく、明らかに<人工的な音響>を作り出す目的で使用されている[7 p.143]。<自然な音響>を模倣するという目的が達せられたかどうかは別にしても、リバーブを人工的に作り出すことはすでに1930年代にはおこなわれていた。前述のようにラジオ業界では、1930年代にすでにエコーチェンバーを用いてリバーブの効果を得るのはすでに一般的になっており、楽曲の録音でさえ、リバーブを人工的に作り出した例は、1937年にさかのぼることができる。ジャズ・バンドのレイモンド・スコットがやはりスタジオのトイレを使ってリバーブ効果を作り出している[8]。レイモンド・スコット・クインテットの1937年発表作「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部と終盤のピアノはこの方法で録音されたものだろう2)

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レイモンド・スコット「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部

お気づきの方もいるだろうが、<リバーブ>と<エコー>は現代の音響工学においては違う現象を指している。だが、20世紀前半にはエンジニアのあいだでも<リバーブ(reverberation)>と<エコー(echo)>は相互互換的に使用されていて区別されていない。ここでは現在使用されている<エコー(音が反射によって遅延して戻ってくること)>の意味ではなく、<リバーブ(音が構造物などによって反射を繰り返し、連続的な遅延時間と減衰をともなって響くこと)>として記述していく。そのため、ドライ(原音)とウェット(効果音)という用語も、リバーブのそれを指していると思ってほしい。

では、空間をもちいて人工的にリバーブを作り出す方法、エコーチェンバーはいつ頃から登場したのだろうか。

私が調査した限り、ラジオ放送におけるエコーチェンバーの使用に関する最も古い記述は、1926年9月にロンドンのイブニング・スタンダード紙に掲載されたBBCに関する記事だ。

数ヶ月前、スタジオの音響実験の実施中にある発見があった。それまで不可能と思われていたことの多くが、新スタジオの隣に設置された「エコーチェンバー」によって可能になったのである。さらに、この<エコー>の具合はエコーチェンバーの大きさによって制御できる。場合によっては元の音よりも大きくすることもできるのだ。

イブニング・スタンダード紙 1926年9月21日[9]

この記事からおよそ4年後にマンチェスター・ガーディアン紙がより詳細に報じている[10]。この記事によれば、リアリズムを達成するために<エコー>の長さを音楽の種類によって調整しなければならないという。例えば、楽器独奏や室内楽の場合は1秒から1秒半ほどの<エコー>をかけて、大きな部屋で演奏しているような錯覚を作り出すことができる。交響楽の場合には、同様の効果を得るためには2秒から3秒が必要で、もし大聖堂で演奏しているような効果を必要とする場合には5秒から6秒が必要になるという。BBCでは放送時にエコーチェンバーを用いてこのようなリバーブを作り出していた。「もちろん大ホールの音響効果を複製することはできないが、この模倣は錯覚を作り出し聴取者をだますには十分だ」とくくっている。

このBBCの技術がアメリカに輸入されたのは1931年から32年のことである。

きっかけは、ラジオ番組の国際化だった。コロンビア・ネットワーク(CBS)のトップ、ウィリアム・S・パーレーが、大西洋を超えたラジオ番組放送網を準備するためにヨーロッパ各国のラジオ放送局を訪問した。イギリス、フランス、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、イタリアの各国から番組を輸入する一方で、アメリカのラジオ番組もヨーロッパで放送されるようになるとAPが報道している[11]。この段階では生放送ではなく、「再放送」が計画されていたようだ。この訪問のなかで、イギリスとドイツのエコーチェンバー技術が紹介されている。

翌年の1932年、ニューヨーク・ワールド=テレグラムのラジオ制作編集担当、ジャック・フォスターがロンドンのBBCを訪問、BBCラジオの番組制作状況を報告している[12]。BBCでは、ラジオドラマ制作の際に、4つの別々のスタジオを用いて、俳優の演技、オーケストラの生演奏、効果音、アセテート盤による追加音再生がそれぞれ同時におこなわれ、エンジニアがその4つの音源をコンソールでミキシングして放送に送出していた。この際にエコーチェンバーも利用され、コンソールからリバーブ効果を制御できるようになっていたという。フォスターは、演技者、効果音、音楽の生演奏がすべて一つのスタジオでおこなわれているニューヨークの放送局との違いに驚いている。

1933年にニューヨークのラジオ・シティが完成するが、それに先立って、NBCのエンジニア達がエコーチェンバーを開発したことが報じられている[13]。これは1932年の新技術として、リボンマイク、パラボラマイクとともに紹介されている。このエコーチェンバーは、ラジオ・シティに移る前の旧スタジオに設置されたものだろう。ブロードキャスティング誌によれば、12平方フィートのエコーチェンバーにスピーカーとマイクが設置され、リバーブ効果を施すことができるようになっていたようだ[14]

このNBCの旧スタジオでのエコーチェンバーによるものと思われる録音が残っている。当時、NBCラジオの人気番組だった「ターザン(Tarzan of the Apes, 1932 – 1934)」の第52話である3)。「ターザン」は当時最も人気のある番組のひとつで、NBCのネットワークはアメリカ全土の提携局に生放送ではなく、アセテート盤による録音(electrical transcription)で配給していた。背景には、各地方で番組のスポンサーが異なり、そのスポンサーのニーズに合わせて放送時間帯を選択できるようにする、という事情があった[15]。問題の第52話は、ターザンたちが洞窟のなかに逃げ込んだシーンである(1932年11月22日放送)。洞窟の音響を再現するためにエコーチェンバーが使用された。現存する録音は針飛びが激しく、聞き取りにくいが、リバーブの効果はよく分かると思う。

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エコーチェンバーによるリバーブ(「ターザン」第52話から抜粋)

もちろん、新しいラジオ・シティにもエコーチェンバーが設置された。しかも3部屋も設置されたようだ。エコーチェンバーへの音の供給はマイクではなく、ダクトによっておこなわれていたと報道されているのは興味深い[16]

この後、ラジオの業界ではエコーチェンバーは必須の設備となっていく。1940年に出版された「Radio Directing」にはエコーチェンバーについての記述がある[17 p.17]

エコーチェンバーはトンネルのような構造をしており、90フィートの長さにわたって湾曲や捻りが加えられた迷路のような形状をしている。その一方にはスピーカー、もう一方にはマイクロフォンが設置されている。声はスタジオからエコーチェンバーのスピーカーに供給され、そこから迷路の湾曲や捻りを通過しながらだんだんとリバーブを強めていく。それがマイクロフォンに到達して、エンジニアのところに戻され、進行中の番組の音声にミックスされる。マイクロフォンの位置を変化させ(すなわち、スピーカーからの距離を近くしたり、遠くしたりして)、マイクとスピーカーのあいだの時間の遅延を変えてエコー効果の大小を調整することができる。

Radio Directing

1930年代から1940年代をとおして、エコーチェンバーは巨大化していく。クリーブランドのNBC系列放送局WTAMでは、スタジオがあるビル内の使われなくなった排気シャフトをエコーチェンバーに改造している[18]。6平方フィートの広さで16階分の高さ(200フィート、60メートル)のシャフトを使ったエコーチェンバーがどのように使用されたのか興味深い。

ラジオ放送でのエコーチェンバーのプロセス[19 p.64]

このエコーチェンバーの技術は、もちろんハリウッドにも到達している。MGMではリレコーディングで<エコーパイプ>を使ってリバーブを導入していたこともあるようだ[20]。これは90メートルもあるパイプで、一方の端にスピーカーを設置、パイプの途中いくつかの箇所にマイクを仕込んで、リバーブのレートを選べるようになっていたと報告されている。前述の1938年の「Motion Picture Sound Engineering」にもエコーチェンバーに関する記載がある[21 p.173]。ワーナー・ブラザーズのレオン・ベッカーは「物語にリアルに、劇的に語るためのもの」として音響係の<エコーチェンバー>を挙げている[22]。リパブリック・ピクチャーズはダビング/スコアリング/リレコーディングのためのスタジオに2つのエコーチェンバーを設けていた[23]。また『市民ケーン』の4年後に、おそらくRKOのものと思われるエコーチェンバーについてRCAのエンジニアが報告している4)[24]。ロバート・ミクリティッチの「Siren City」には、RKOのエコーチェンバーが『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1941)』などのフィルム・ノワールの音響効果に寄与したと記されており、当時の映画製作において広範に使用されていたと推測される[25 p.33]

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Notes

1)^ 現存している「コロンビア・ワークショップ」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)。

2)^ 全曲はarchive.orgで聞くことができる(link)

3)^ 現存している「ターザン」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link

4)^ これは1945年5月に開催された「Hollywood Technical Conference」で発表された論文だが、その際のプログラムではRKOのジェームズ・スチュワートとの共同発表となっている。

References

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[2]^ “The DefinitiveThe Columbia Workshop Radio Log with Georgia Backus. William N. Robson and Norman Corwin,” The Digital Deli Too, Nov. 08, 2014. (link)

[3]^ C. O’Dell, “‘The Fall of the City’ (‘Columbia Workshop’) (April 11, 1937); Essay [Added to National Registry: 2005],” Library of Congress, 2005.

[4]^ J. Naremore, Orson Welles’s Citizen Kane: A Casebook. Oxford University Press, 2010.

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[10]^ “Inserting the Echo,” The Manchester Guardian, Manchester, p. 10, Aug. 09, 1930.

[11]^ “Radio’s Exchange of Programs to Link Continents,” AP, New York, Aug. 13, 1931.

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[15]^ B. A. Stebbins, “‘Tarzan’: A Modern Radio Success Story,” Broadcasting, vol. 4, no. 2, p. 7, Jan. 15, 1933.

[16]^ Z. Palmer, “ON THE AIR,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Sep. 06, 1934.

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[20]^ “Progress in the Motion Picture Industry: Report of the Progress Committee for the Year 1938,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 23, p. 119, Aug. 1939.

[21]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938. Accessed: Dec. 21, 2021.

[22]^ L. S. Becker, “Technology in the Art of Producing Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXIX, p. 109, Aug. 1942.

[23]^ D. J. Bloomberg, W. O. Watson, and M. Rettinger, “A Combination Scoring, Recording, and Preview Studio,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 49, no. 1, p. 3, Jul. 1947.

[24]^ M. Rettinger, “Reverberation Chambers for Rerecording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 45, no. 5, p. 350, Nov. 1945.

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