ニック・カーターとその時代

Nick Carter Stories, 1915年2月6日, 126号
Archive.orgより

歴代のフィクションの探偵のなかで、週刊誌、映画、小説、ラジオにまで登場し半世紀にわたって最も人気があったにもかかわらず、今はすっかり忘れ去られているキャラクターがいる。1886年にデビューしたニック・カーターである。

ニック・カーターは、ストリート&スミス社が創りだした、鋭い頭脳と強靭な身体能力を備えもつ、スーパー・ヒーローである。彼は変装の天才でフランス人の役人から日本人にまでなりきることができる。3言語の読唇術は朝飯前だ。それに彼は紳士で酒も飲まなければ、タバコも吸わない。このキャラクターが、大活躍する短編小説が毎週発行され、飛ぶように売れた。だが、これはある一人の作者が創りだしたキャラクターではない。私達は、フィクションの探偵というと、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをベイカー街に生み落としたように、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロにフランス訛りの英語を喋らせたように、一人の想像力豊かな作家が造形するのが当然だと思っている。しかし、ニック・カーターは、ストリート&スミスの編集者たちが編み出したキャラクター像にあわせて、請負の作家が安い原稿料で書いたものであった。

19世紀後半から20世紀初頭までのパルプ・フィクション全盛の時代には、このシステムが多くのジャンル小説に採用されていた。実際に、どんなプロセスだったのか。『パブリッシャーズ・ウィークリー』の1892年8月号に、その実態を調査した記事が掲載されている [1]。

ニューヨークの裏通りにある、「文学工場」と呼ばれるこのオフィスには、30人以上の女性が雇われている。彼女達の仕事は、アメリカ中の日刊紙、週刊誌を読むこと。彼女たちは、そのなかから「奇妙な話」、多くの場合、都市で起こる事件を選び抜いて集め、それをマネージャーに手渡す。マネージャーたちは、そのなかから、面白いネタになりそうなものを更に選び出し、それを5人の非常に優秀な女性ライターに渡す。彼女たちは、その厳選された「奇妙な話」の骨格を抜き出して、プロットを書き出すのだ。

この「骨格だけのプロット」はチーフマネージャーに渡される。チーフマネージャーは、100人を超える契約作家たちのなかから選び出した候補者に、内容、章数、文字数、納期とレート(原稿料)を指定して連絡を入れる。それらの契約作家の中でも優秀な者はペンネームで作品を発表されるが、その優秀な作家だけでは、とても消費者の需要を満たすことができない。そこで、安いレートでゴーストライターたちに書かせていた。多くの場合、1語1セントかそれ以下であった。これらのゴーストライターは、昼間の仕事を持ちながら、夜や休日に小説を書く者達がほとんどであったという。

ニック・カーターのキャラクターで発行された小説は、1000冊を超えると言われている。1940年代のラジオ番組は、同じくドラマ『シャドウ(Shadow)』と共に、黄金期のラジオミステリードラマの代表番組である。そのニック・カーターが、今は本国のアメリカでさえほとんど忘れ去られてしまい、パルプ・マガジンの時代は1920年代から始まる、と誤解されている。たとえジャンル小説とはいえ、「作家」が見えないものは、「作家」の存在を強く望む世紀を通り過ぎていく間に、「作品」も見えなくなっていったようだ。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=foVJ38Q-1hM]
UNKNOWN HOLLYWOODのトークで流す予定だった動画。
この時代のニック・カーターは、マシンガンを撃ちまくっている。

References

[1] John Walton “The Legendary Detective: The Private Eye in Fact and Fiction”

なぜフォックス・ムービー・チャンネルは『チャーリー・チャン』映画シリーズの放映をとりやめたか

ワーナー・オーランド

 2003年、アメリカのフォックス・ムービー・チャンネル(FMC)は、1930~40年代のチャーリー・チャンが主役のシーリズの放映を発表しました。しかし、その後すぐにFMCはその放映をキャンセルすると発表したのです。

 フォックス・ムービー・チャンネルは、チャーリー・チャンのミステリー映画の放映を取りやめます。
 フォックス・ムービー・チャンネルは、ミステリーファンや古典映画ファンからのリクエストに応えるためにフィルムを修復し、これらの映画に見られる、複雑なストーリーや登場人物、そしてチャーリー・チャンの素晴らしい知性、といったポジティブな側面を描くことを意図してこれらの映画の放映を予定していました。また、フォックス・ムービー・チャンネルの多くの契約者、そして映画史研究者が、これらの映画の放映を長い間リクエストしていました。
 しかしながら、フォックス・ムービー・チャンネルはチャーリー・チャンの映画は、一部の視聴者に対して問題のある状況や表現が含まれることを知らされました。フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの歴史的な作品は、人種に関する感受性が今日とは相違する時代に製作されたことを認識しています。これらの映画を放映するにあたっての皆さんからの反応の結果として、フォックス・ムービー・チャンネルは、これらの映画を予定から外すことにしました。
 このアクションが私達のこの現代の多文化社会における進歩に関して、議論を呼び起こすものと期待しています。この件についてのあなたのご意見をこのWebフォームを使ってお送りください。

 3つのアジア系アメリカ人の団体 ーNAPALC (National Asian Pacific American Legal Consortium)、 NAATA (National Asian American Telecommunication Association)、 OCA (Organization of Chinese Americans)ー が抗議活動を行った結果だと言われています。OCAのチャーリー・チャン映画への反応は、「ハリウッドがマイノリティに与えるべき役を与えなかった差別的な時代」を思い起こさせるものであり、「白人が、アジア系民族のステレオタイプを不正確に演じたもの」というものでした。NAATAは、「アメリカの映像文化の歴史における、不愉快極まりないアジア人のカリカチュア」と呼んでいます。

 これに対し、多くの映画ファンが「政治的正しさ(political correctness)による弾圧」と反発し、彼らはチャーリー・チャンの映画が「人種差別的」だとする視点こそ、何も見ていないと強く抗議したのです。チャーリー・チャンの研究家で権威とも言われるケン・ハンケは「圧力団体には言いたい:大人になれ」とかなり強い口調で、このような放映の取りやめを要請するような政治的活動を非難しました。多くの映画ファンや歴史家は「これは、歴史的な作品であり、それを消し去ることは、修正主義的だ」とPC的なスタンスに疑問を呈しています。

 ファンの一人が、FMCのPR部副部長のジョン・ソルバーグにこの件について問い合わせたところ、プログラム編成の際に、歴史的な視点だけを考えてしまい、エスニック(人種的)な視点が抜け落ちていた、と語ったと伝えています。結局、FMCはプログラムの一部を戻し、チャーリー・チャンのシリーズから3作を選んで放映しました。

 この一連のやり取りを、「政治的正しさによる言論統制」「一部のファンのマイノリティへの鈍感さ」「歴史的文脈への無理解」などと一般化して片付けてしまうのは、私は少し乱暴のように思うのです。これに類似しているようにみえる議論は、今は毎日のように目にするのですが、どれもこれも同じパースペクティブで解釈するのは、少し怠惰だと思います。

 まず、アジア系アメリカ人のコミュニティの一部は、この「チャーリー・チャンの映画がケーブルテレビで特集放映される」ことの何を問題にしたのでしょうか。「アジア系アメリカ人が差別的な状況下で当然の役柄を与えられなかった時代を思い起こさせること」であり、「白人によって不正確にアジア系人種が描かれ、演技されていること」だと主張しているのです。これは繰り返し、1970年代からアジア系アメリカ人コミュニティが発信してきたことで、チャーリー・チャンに限らず、アメリカのメインストリームのメディア、エンターテーメントが描いてきた、アジア系人種のステレオタイプが、「非アジア系人種によって不正確に描かれている(whitewashing)」ことを問題視しているのです。

 これに対し、チャーリー・チャン映画の放映取りやめに抗議した人たちの主張は何だったのでしょうか。多くは「チャーリー・チャンは探偵として優秀であり、過去も今も見る者に尊敬を念を抱かせる」「チャーリー・チャンはサム・スペードやフィリップ・マーロウと並ぶアメリカのアイコンである」というもので、「見ればわかるが、決して差別的ではない(だから、放映中止を呼びかけている人は見てもいないだろう)」「放映中止を呼びかけている連中は、ワーナー・オーランドが黄色いメークアップをしているなんて言っているが、そんなメークなんかしていない」という論を展開していました。

 これは当時様々なサイトに書き込まれたものなどから、おおまかにまとめた傾向ですが、どこを見ても、この2方向の議論のベクトルが交わっていないように見えるのです。誤解がない範囲でこの2つのベクトルをそれぞれ一言で言うと、一方は「(人種的なアイコンとして)不正確だ」と言い、もう一方は「(文化的なアイコンとして)立派だ」と言っているのでしょう。別な言い方をすると、「アジア系アメリカ人としてリアルではない」と「フィクションだ」というベクトルかもしれません。

 フィクションのキャラクターに対して「リアルではない」というのは、言いがかりと言われても仕方ないでしょう。「チャーリー・チャンが引用するいい加減な格言」について、「不正確極まりなく差別的だ」というのは、「フィクションなのだから、それは分かった上でのエンターテーメントだ」と返すのはファンの心情として理解できます。チャーリー・チャンの映画シリーズのファンは、チャーリー・チャンと言う現実とはかけ離れたキャラクターに魅力を感じ、それがアジア系なのかどうかさえも特に問題視せず、腕力も武器も使わずに、知性だけで犯人を追い詰めていく、その卓越した人物像に惹かれているのです。そして他の探偵は違い、家族思いで、子どもたちに対する責任感も強い一方で、妻への愛情も素直に表現する、何よりも一人の人間として尊敬に値するキャラクターなのです。それが「白人が演じた偽のアジア系アメリカ人」だからと放送キャンセルまで追い込むような政治活動は行き過ぎだ、と感じるのはファンであれば至極当然でしょう。

 では、フィクションのキャラクターに難癖をつけるアジア系アメリカ人たちは、政治的正しさに酔いしれた狭量な人たちなのか。『チャーリー・チャン』の著者、Yunte Huang氏が、そのイントロダクションで紹介している話が、象徴的だと思います。2002年にハーバード大学で彼が講演をすることになったとき(彼が『チャーリー・チャン』研究を始める前です)、その告知ポスターに、中国から北米大陸を睨んでいるチャーリー・チャンが描かれていました。そのポスターを作ったのは英文学科の秘書の女性で、お互い職場の仲間としてよく知っていたのですが、「50代後半の白人女性である彼女は、チャーリー・チャンの映画を見て」育ったのです。そして、いつも楽しそうに会話をするHuang氏のイメージを、(彼女の好きな)チャーリー・チャンのイメージに重ねてポスターを作ったらしいのです。Huang氏は「彼女に対しての好意もあるし、自分が感じる礼儀の問題としても、『こういった好戦的なチャンのイメージは多くの中国系アメリカ人にとっては不快ですよ』と伝えて、彼女の創作物に対して疑問を投げかけるようなことはあえて」しなかった、と述べています。

 多人種社会/多様化社会では、このようなことは日常茶飯事です。こういった些細なこと ーステレオタイプと目の前にいる実在の人物をカジュアルにつなげることー がとめどなく繰り返されるなかで、多くのマイノリティはそのことを「あえて指摘しないで」過ごしていきます。フィクションとリアリティを混同しているとか、レッテル貼りだとか、いちいち大上段に構えていたら、それこそやっていけない。けれども、多くのマイノリティは、そのようなステレオタイプにウンザリはしている。自分たちは、生まれた時から英語で生活し、発音だって、表現だって、ネイティブなのに、いつも「ピジン・イングリッシュ」で喋っていると思われていて、喋ると「英語上手いね」なんて言われる。なにかといえば、拳法やっているのか、とか、家ではお辞儀ばっかりするのか、と質問される。「おもしろいから」と無自覚なまま、そういったイメージが再生産され続けていることにウンザリしている。「フィクションで楽しんでいる分には実害なんかないじゃないか」といわれても、そうですか、でもウンザリはしているんですけどね、と心のなかでつぶやいている。そして、『チャーリー・チャン映画シリーズ大特集』と出てきたときには、これを見た新しい視聴者が、またウンザリを拡大再生産するのではないか、と危惧するのは当然でしょう。フォックスの担当部長が「人種的な視点が抜けていた」と言ったのは、そういう意味ですね。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ZAafI9w7CY8]

 ただ、この「ウンザリ」も、マイノリティ全員一様にウンザリしているわけではなくて、ひとそれぞれ、中には全く気にかけない人もいます。実際に、無自覚にカジュアルな不快な発言をする人のなかには、ウンザリしない人を知っているから「ウンザリするほうがおかしい」とさえ言い始める人もいるくらいです。

 特にチャーリー・チャンの映画シリーズの場合には、その製作において厳然と存在していた実害 ー中国系アメリカ人俳優の差別的な扱いー が、「白人俳優が演じる中国系アメリカ人」という形でフィルムに刻み込まれていることを意識することが重要です(1)。なぜなら、その屈辱が中国系アメリカ人のコミュニティには(そして似たようなことはあらゆるマイノリティのコミュニティにおいて)、今もさまざまな形で痕跡を残しているからです。

第一次世界大戦後にアメリカ国内で移民排斥の論調が高まり、特にアジア系に対する反感が強まっていました。そのなかでジョンソン・リード法(1924年移民法)が発動され、中国人、日本人の渡米が実質的に禁止されました(この法律を日本で「排日移民法」と呼ぶこともあるようですが、明らかにおかしいですね)。その直後の時代に、ハリウッドではフーマンチュウや『フラッシュ・ゴードン』のミンなどのキャラクターを作り出し、立場の弱いマイノリティを「面白おかしく」描いていたことは忘れてはいけません。1920年代からハリウッドに厳然と存在するステレオタイピング、人種差別、ホワイトウォシングに公然と反論したのは、女優のアンナ・メイ・ウォンでした。主役をもらえないばかりか、差別的な役を、白人よりも明らかに安い給料でやらされる、そのことにうんざりした彼女は、ハリウッドを捨てて、ヨーロッパに2度も渡っています。彼女の演技力と女優としての魅力はヨーロッパで高く評価され、多くの信奉者も現れました。しかし、MGMはパール・バック原作の『大地』の映画化に際して、アンナ・メイ・ウォンに主役をオファーせず、白人のルイーゼ・ライナーが阿藍の役を与えたのです。ウオンには、意地悪い性格の役がオファーされたのですが、彼女はそれを断りました。

非常に人気のあったアンナ・メイ・ウォンでさえ、このような扱いを受けていたのですから、マイノリティの俳優や映画関係者の大部分は、映画という新しいメディアが自分達とは似ても似つかないイメージを繰り返し生産していくさまを黙ってみているよりほかなかったのです。それはつい最近まで残り続けていたことを、マイノリティのコミュニティは覚えているのです。メインストリームの映画批評も、そのようなハリウッドの人種構造について、1980~90年代までは特に強い批判を行ってきませんでした。ポーリン・ケイルは、例えば『大地』について、ルイーゼ・ライナー演ずる阿藍が従順な女性であることが美徳して描かれているという、ジェンダーの問題には鋭い批評の矛先を向けますが、人種の問題については、白人が東洋人の役柄を演じた、と言及するに終わっています。アンドリュー・サリスに至っては、ライナーの演技がつまらない、くらいの表現に終止する程度です。

このような人種のステレオタイプの問題が表面化した例として、ディズニーの『アラジン(1993)』があります。ここでは、主人公のアラジンがアングロ・サクソン化されて訛りのない英語を話す一方、盗賊たちが典型的な「アラブ化」を施されていたことに 、公開当時から非難の声が上がっていました。ディズニーのその後の「PC化」を考える上で非常に重要な岐路となった出来事でした。

 では、2003年の「チャーリー・チャン放映」ときにはどうすればよかったのか。最終的にFMCは、チャーリー・チャンの映画から3作品を選び出して放映し、そのあと中国系アメリカ人が司会を務めるパネルディスカッションの番組を流したそうです。私はその番組を見ていないので、どうにも判断できませんが、抜けていた「人種的な視点」をもう一度テーブルに上げるという作業が必要だったのは間違いありません。

 なぜ、非白人の人種を白人が演じるのか。映画製作者側の人種的バイアスが顕在するのでしょうか?映画製作者は、興行成績を伸ばすため(あるいは不発にならないようにするため)に、選ぶのでしょうか?そして、ここにきてこの問題は、1930年代の過去の話ではなくなってきています。今、話題になっている映画の予告編が、いずれも「白人女性がアジア系人種を演じている」ということで、問題視されているのです。2017年に公開予定の『Ghost in the Shell』の草薙素子役にスカーレット・ヨハンソンが起用されたこと今年公開予定の『Doctor Strange』の Ancient One の役をティルダ・スウィントンが演じていること、がエンターテーメント関係のウェブサイトで取り上げられてから、議論が再燃しています。そのような配役は過去ずっと行われてきてはいたのですが、この数年間、それがやや増加する傾向にあると考えられています。なぜ、ここにきてこのような事態が顕在化してきたのか。これは「映画産業が白人に支配されているからだ」とか「観客側の無意識のバイアスが投影されているのだ」とかさまざまな意見を繰り広げることは可能ですが、問題はもっと根深く裾野の広いものでしょう。

 その議論を伝える記事のコメント欄に、また「大人の頭があれば、こんなこと(白人がアジア系人種として配役されること)を問題にしない」というのがありました。この問題が「大人に成長すれば」解決するのであれば、「大人になるために」向き合って話し合う必要があるでしょう。

(1) チャーリー・チャンの映画の場合、「中国系アメリカ人」という設定にも特に注意する必要があるでしょう。

『チャーリー・チャン オペラ劇場の殺人(1937)』

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=U-9FwNkUKzA]

第9回のUNKNOWN HOLLYWOODは、「名探偵、聖林に現わる」と題して、1930年代に黄金期を迎えた探偵映画にスポットを当てます。上映作品は『チャーリー・チャン オペラ劇場の殺人(Charlie Chan at the Opera, 1936)』、当時、最も人気のあった名探偵映画シリーズ、「チャーリー・チャン」の絶頂期の作品です。

チャーリー・チャンは日本ではあまり馴染みのない探偵です。もともと、原作者のE・D・ビガーズが、チャリー・チャンを主人公にした作品を6作しか発表していないうえに、邦訳の出版にも恵まれませんでした。近年、いくつか邦訳(『最後の事件』『鍵のない家』『黒い駱駝』いずれも論創社)が登場しており、再発見が進むのではないのでしょうか。

チャーリー・チャンの映画化はビガーズの『鍵のない家』が出版された翌年に同名の連続活劇としてパテ社からリリースされたのが始まりです。更には1927年に『支那の鸚鵡』がユニバーサルから公開されます。しかし、チャーリー・チャンのシリーズが爆発的な人気を得るのは、トーキーになってから。『チャーリー・チャンの活躍(Charlie Chan Carries On, 1931)』を皮切りに、第二次大戦後の『上空の殺人(Sky Dragon, 1949)』までほぼ毎年新作が公開され、サイレント期から含めると合計47作品が公開されています。その大部分は、ビガーズの原作のキャラクターを元に新しく作られた話で、設定もホノルル警察の刑事ではなく、私立探偵だったり、今で言うコンサルタントのようだったりと様々です。主人公のチャーリー・チャンを演じる俳優も、ワーナー・オーランドから、シドニー・トーラー、ローランド・ウィンタースと入れ替わっていき、製作会社も20世紀フォックスから最後はポヴァティ・ロウのモノグラム・ピクチャーズに移っていきます。そのなかでも、最も人気があったのはワーナー・オーランドが主演した1935年から37年頃までの作品です。

今回の上映作品『オペラ劇場の殺人』は、ロサンジェルスのオペラ劇場が舞台。カリフォルニアでの滞在を終えたチャーリー・チャンがホノルルに戻ろうとするその日に、オペラの人気プリマドンナが殺しの脅迫を受けるのです。その夜の公演のさなか、楽屋で殺人が発生、魔の手はさらに・・・。オペラ劇場という、迷路のような密室のなかで繰り広げられる事件を、落ち着いた観察と推察で解決していく、チャーリー・チャンの絶妙な推理術を楽しんでほしい作品です。

探偵チャーリー・チャンを演じるのは、ワーナー・オーランド(1879-1938)。スウェーデン生まれの白人俳優です。13歳の時に渡米し、ブロードウェイの舞台などを経て、サイレント期から映画に出演し始めます。最も有名なのは、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『上海特急(The Shanghai Express, 1932)』での、反乱軍頭領、ヘンリー・チャン役でしょう。オーランドは、その出自にもかかわらず、東洋系の役どころを与えられることが多かったハリウッド俳優です。1929年の『フーマンチュウ博士の秘密(The Mysterious Dr. Fu Manchu, 1929)』以降、中国系の役柄を演じなかった作品は数作品しかありません。

ワーナー・オーランド

オーランド自身、「私が中国人のように見えるのは、モンゴル来襲のおかげだよ」と言っていた。彼のロシア系の母親からアジア系の血を引き継いだと考えていたようだ。

Yunte Huang (1)

オーランドは中国人を演じる際、特殊なメークアップをする必要がなく、「ゴーティーを生やし、ヒゲを少し下向きにし、眉毛を櫛で上に向ける」だけで済んだ、と共演のキイ・ルークが語っています。

「白人が他人種を演じる問題」は、ハリウッド映画史では未だに議論が続くテーマですが、象徴的な例として、しばしば「映画史上初のトーキー」として紹介される『ジャズ・シンガー(The Jazz Singer, 1927)』があります。ここでは、ワーナー・オーランドはユダヤ人司祭を演じ、その息子役のアル・ジョルソンがブラックフェイス/ミンストレルをして『マイ・マミー』を歌います。多人種社会のアメリカで白人であることを強調するメカニズムのひとつとして、ミンストレルが機能していた、(特にユダヤ人が支配的なハリウッドにおいて、この事は示唆的です)という見解があります(2)が、「チャーリー・チャン」になると事態はもっと複雑です。『オペラ劇場の殺人』を見ていただくとわかるように、この現象を単なる「黄禍(yellow peril)」の亜流と捉えるのは明らかに的外れですし、人種差別はむしろ愚か者の犯すこととして明確に描かれています。けれども、ステレオタイプや偏見がないわけではなく、さらに映画製作・興行のシステムとして、アジア系の俳優を主演にすることが実質的に不可能だった時代でもあるわけです。

チャーリー・チャンの息子「第1号」、そして彼の推理のパートナーとして登場するリー・チャンを演じるのは、ケイ・ルーク(1904-1991)、広東市生まれの中国系アメリカ人俳優です。幼いころにシアトルに移住、1930年代からハリウッド映画に出演し始めます。ルークはチャーリー・チャンの息子第1号役が当たり役で、その後もミステリー映画に数多く出演します。彼こそ、チャーリー・チャン映画シリーズの魅力の原動力ですね。後年は、『グレムリン(Gremlins, 1984)』で骨董屋の主人、そしてTVシリーズ『燃えよ!カンフー』でデヴィッド・キャラダインの盲目の師匠ポーを演じました。

ケイ・ルーク

ポー先生(左:ケイ・ルーク)とケイン(右:デヴィッド・キャラダイン)

さらに『オペラ劇場の殺人』には、謎の狂人役としてボリス・カーロフ(1887-1969)が登場します。1931年公開の名作『フランケンシュタイン(Frankenstein, 1931)』でフランケンシュタイン博士が創造した怪物の役を演じた、ハリウッドホラー映画の支柱とも言える俳優です。その彼がオペラ劇場の中で、まさしく「怪人」となってさまようなか、殺人が起きるのです。

ボリス・カーロフ

映画『フランケンシュタイン(1931)』よりフランケンシュタインの怪物

監督のH・ブルース・ハンバーストーン(1901-1984)は、1930~40年代を中心に活躍しました。代表作はダニー・ケイ主演の『天国と地獄(The Wonder Man, 1945)』でしょうか。フィルム・ノワール初期の佳作”I Wake Up Screaming (1941)”は、もっと見直されてもいい作品です。

劇中で使われるオペラは、この映画のために作曲されたもの。オスカー・レバント(1906-1972)が曲をウィリアム・ケンドールがリベレットを担当しました。レバントは、この映画のためにオペラを一曲まるごと作曲したのですが、使用されたのはごく一部です。 オスカー・レバントの言葉、「天才と狂気の間には細い線しかない。私はその線を消した。」というのは、『オペラ劇場の殺人』を見ると、ひときわ意味深いと思います。オスカー・レバントは『巴里のアメリカ人(An American in Paris, 1951)』で売れない音楽家の役で登場し、ジョージ・ガーシュインの『ピアノ協奏曲へ長調』を演奏しています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=wePBkW6WMM8]

撮影はルシアン・アンドリオ(1892-1979)。映画黎明期から活躍したカメラマンで、サイレント期フランスの大ヒットシリーズ『ジゴマ(1911)』から1960年代のTVまで、200以上のフィルモグラフィーを持つベテランです。我々には、ジャン・ルノワール監督の『南部の人(The Southerner, 1945)』で馴染み深いかもしれません。

References

(1) Yunte Huang, “Charlie Chan, The Untold Story of the Honorable Detective and His
Rendezvous with American History”, W. W. Norton, 2010

(2) Michael Rogin, “Blackface, White Noise: Jewish Immigrants in the Hollywood Melting Pot”, University of California Press, 1996

『マイホーム騒動記(1942)』


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=QgySr1lvYc0]

次回のUNKNOWN HOLLYWOOD上映作品は『マイホーム騒動記(1942)』。都会のアパート暮らしが気に入っている夫(ジャック・ベニー)と、とにかく由緒正しい歴史のあるものが好きな妻(アン・シェリダン)。その妻が、二百年前の崩壊寸前の田舎の一軒家を夫に黙って購入。初代大統領が泊まった家だと聞いて、すっかりのぼせ上がったのです。曲者の隣人プレスコット、曲者すぎて怖可笑しい地元民キンバー、移り気すぎる妹にどケチな叔父。ちょっと普通じゃない人たちが、皮肉屋ジャック・ベニーの皮肉を焼いて食う、そんな映画です。

原題は “George Washington Slept Here”ージョージ・ワシントンがここで寝たーです。「ここで寝た」とは「この家に泊った」という意味。不動産業界では、歴史上の人物と関わりがある土地や家にプレミアがつく傾向にありますが、アメリカの不動産業界でもそれは同じ。「セオドア・ルーズベルトが泊まった家」「ジュディ・ガーランドが泊まった部屋」というのは、それだけで価値が高くなります。そんな中でも「ジョージ・ワシントン初代大統領が泊まった家」というのは、不動産業界の決まり文句のようになっているそうです。ティモシー・フットによれば、ジョージ・ワシントンは1750年代は「最初は地理調査のために、その後は植民地軍士官として」西部を彷徨し、ヴァージニア州のマウント・ヴァーノンにプランテーションを所有した後も、大陸議会に出席するためにフィラデルフィアに住み、独立戦争後に初代大統領になってからは「心許ない新しい合衆国の国民」たちに直接会うために、各地で遊説を行い、「数限りない旅館や宿」に泊まったといわれています。だからこそ、信憑性があり、また同時に真偽が確かめにくい「ブランド」として不動産売買で流通してしまったのでしょう。
バイオリンを弾くジャック・ベニーとハリー・トルーマン元大統領(1959)
Wikipedia
『マイホーム騒動記』の焦点は、なんと言ってもジャック・ベニーです。日本では、エルンスト・ルビッチ監督の『生きるべきか死ぬべきか(To Be Or Not To Be, 1941)』のハムレットを演じたがる役者ジョセフ・トゥーラの役が有名ですが、一方でそれ以外の活動はあまり知られていないのではないでしょうか。彼は1930~40年代にラジオ番組で人気を博し、その後1950年代にTVに移行していった、コメディアン、俳優です。1910年代にボードビル芸人としてデビュー、マルクス兄弟とも交流がありましたが、1932年にカナダ・ドライが提供するラジオ番組に主演して以来、彼の出演するラジオ番組は大成功を収め続けたのです。
ジャック・ベニーはボードビル出身だが、彼のユーモアのスタイルはラジオに適していた。彼のコメディは身体的な笑いには頼っていない。彼のコメディは、彼が何を言ったか、どういう風に言ったか、そして何よりも大事なのは何故言ったか、である。
ベニーはコメディの中で、彼が演ずるキャラクターが(視)聴者の心の中にしっかりと焼きつくような、そういうアプローチをとった。そのキャラクターとは、いつも安っぽくて、ケチで、見栄っ張りだ。

“Radio Live! Television Live!: Those Golden Days When Horses Were Coconuts” Robert L. Mott (2003)

「命か、金か」と強盗されても、「ちょっと考えているから待ってろ」と言ったり、高尚なオペラの話に加わろうとして「うるさい!」と言われる・・・・そういったキャラクターを作り上げて、30年にわたって、アメリカのマスコミを代表するエンターテーナーに君臨していました。当時のラジオ番組は「ラッキー・ストライク・プログラム、主演ジャック・ベニー」と言う風にスポンサーとなっている会社の製品が番組のタイトルだったのですが、1940年代に「ジェル-O・プログラム」を彼が担当した時には、あまりに人気が出てしまってジェル-O(インスタントのゼリー)が爆発的に売れて生産が間に合わなかったそうです。彼は番組のスポンサーと良好な関係を保つことを何よりも最優先させ、広告会社ともタイアップしてギャグやスキットを考える、といったビジネスマンでもあったのです。
監督のウィリアム・ケイリー(キーリーと発音するようです)もあまり馴染みのない映画監督かもしれません。しかし、1930年代にはワーナー・ブラザーズのギャング映画、1940年代にはコメディを監督して堅実にヒットを飛ばしています。意外にも『情無用の街(Street With No Name, 1948)』というギャングもののフィルム・ノワールの佳作も残していて、ギャング映画のジャンルではなかなか手堅い作風を見せています。この監督も映画界よりもラジオに軸足を移していきました。しかも番組の監督ではなく、英国アクセントでしゃべる司会者として40年代の後半は活躍していました。
原作はジョージ・S・カウフマンとモス・ハートの舞台脚本です。この戯曲家チームは『我が家の楽園(You Can’t Take It with You, 1936)』『晩餐に来た男(The Man Who Came to Dinner, 1939)』などのコメディをブロードウェイで大ヒットさせました。『我が家の楽園』はピュリツァー賞も受賞しています。『我が家の楽園』はフランク・キャプラが1938年に、『晩餐に来た男』はウィリアム・キーリーが1942年に映画化しました。コーエン兄弟の『バートン・フィンク(Burton Fink, 1991)』の主人公、バートン・フィンクは、ジョージ・S・カウフマンの風貌にインスパイアされています。
ジョージ・S・カウフマン
バートン・フィンク(ジョン・タトゥーロ)
『マイホーム騒動記』、実は原作のブロードウェイ戯曲では、夫と妻の役割が逆なのです。戯曲では、夢見がちな夫が勝手に「ジョージ・ワシントンが泊まった家」を購入してしまうのです。ではなぜ役割を逆転させたのか。ジャック・ベニーがラジオで作り上げてきたペルソナを、映画に生かすためなのです。この映画化の段階での役割の逆転は、当時の映画界とラジオ界との関係を考える上で非常に示唆的です。当時のハリウッド映画界は非常に強大で影響力のあるものでしたが、一方では舞台、ラジオ、そしてその後はTVの持っている影響力を推進力として利用していた部分もあったのです。とはいえ、ラジオ番組のジャック・ベニーをそのまま持ってきたわけではない。これは、ジャック・ベニーのペルソナを生かしながらも、ハリウッドの解釈を加えながら練り出したキャラクターです。
『生きるべきか死ぬべきか』
例えば、『生きるべきか死ぬべきか』のジャック・ベニーの役柄は、ラジオのペルソナからは更に距離があるけれども、決して無関係ではない。このことは映画の脚本にもしっかり現れていて、ジャック・ベニーが演じるキャラクターについて、「なぜ言ったか」を常に意識するような、そしてその「なぜ」が全部キャラクター自身に跳ね返ってくるような、そういう仕掛けが常に用意されている。ジャック・ベニーはそういう意味で、非常に典型的なアメリカのエンターテイナーだと言えるでしょう。
ハティ・マクダニエル
『マイホーム騒動記』で家政婦へスターの役を演じるハティ・マクダニエルは『風と共に去りぬ(Gone With The Wind, 1939)』でも家政婦を演じていたのでご存知の方も多いでしょう。彼女は『風と共に去りぬ』で、黒人で初めてアカデミー賞(助演女優賞)を受賞しました。また、彼女は自分が主演のラジオ番組を持った初めての黒人でもあります。『ベウラ(Beulah)』は1947年から始まり、50年代にはTVに移行して続いた長寿番組です。もともとは30年代に白人が演じていた黒人家政婦のキャラクターを独立させて番組とし、マクダニエルが1952年まで主演しました。ところが、その黒人、特に黒人男性の描き方が非常に差別的であると批判を受けてしまいます。今となってはその後のTV番組も含めて、「政治的に正しくない」番組として忘れ去られています。
『ウチの亭主と夢の宿』
『マイホーム騒動記』に非常に良く似たハリウッド作品として『ウチの亭主と夢の宿(Mr. Blandings Builds His Dream House、1947)』という、ケーリー・グラント、マーナ・ロイ主演のコメディがあります。ニューヨークのアパートに住んでいた夫婦がコネチカットの田舎に独立戦争時代からあるボロ家を買ってしまう、という話です。ケーリー・グラントもマーナ・ロイも生粋のハリウッド俳優ですから、ハリウッド映画のロジックでキャラクターが組まれています。だから、明快で「映画的な」笑いが多くありますが、ジャック・ベニーのぐるっと回って自分に飛んでくる皮肉のような後味はありません。見比べてみるのも面白いでしょう。

動くカメラ (8)

『戦艦くろがね号』で使用された船上撮影用リグ

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『戦艦くろがね号(Old Ironsides, 1926)』は、19世紀の地中海で海賊船と戦う帆船を舞台とした歴史活劇です。この映画のアクションシーン撮影の大部分は実際の船の上で行われました。撮影監督のアルフレッド・ギルクスは、ここで特別な装置を開発します。油圧で調整されたリグで、この上に三脚で固定されたカメラを設置しています。

ギルクスは、船の甲板の上に普通に三脚を立ててカメラを置くと、船の揺れが表現できないと考えました。
『戦艦くろがね号』の大部分は航行中の船上で、しかも実際の嵐のなかで撮影されるため、船の実際の揺れを自然にスクリーン上で表現することが望まれていた。
デッキ上に三脚を「打ち付け」たり、そうでなくても船に固定したりしてしまうと、これは不可能だ。そのようなセットアップでは、カメラは船の一部となってしまう。カメラの動きは船の動きと同期してしまう[1]。
それまでも揺れている船で撮影するためのカメラ用アタッチメントはあったようですが、これはバネでカメラを支持するタイプのもので、慣性がつきすぎてしまうという問題がありました。そこで、甲板の外にぶら下げるリグを作り、その吊りを油圧で調節していたのです。こうすれば、リグは船とは独立しますが、慣性による過度な揺れも油圧の調整によって抑えることができます。
この映画では、パンクロマチック・フィルムが使用されています。1920年代前半まで使用されていたオルトクロマチック・フィルムでは、空は白く映ってしまうため、空と海の境の水平線がはっきりしないのですが、パンクロマチックではそれがはっきりと出るようになります。つまり、『戦艦くろがね号』では水平線が船の背景に映し出されるのです。ギルクスは、固定された前景(甲板上)に対して、水平線が乱暴に動くだけでは「船の揺れ」を表現できないだろう、と考えて、油圧リグを考案したのでした。
『つばさ(Wings, 1927)』でも、パンクロマチック・フィルムが使われています。
まず、空中戦のシーン -パンクロマチック・フィルムの使用とマグナ・スコープ(注:大型スクリーン)の使用でスリルが増しているー は、カメラ好きにはたまらない映像クオリティだ [2]。
パンクロマチック・フィルムのおかげで、スピード感のある空中戦が立体的になっています。『つばさ』では、飛行機上に固定されたカメラからの映像がありますが、これだと『戦艦くろがね号』で回避したこと -カメラの動きと飛行機の動きが同期してしまうー が起きていしまいます。けれども、むしろ雲がはっきり映っていることで、背景の動きが強調されて空中戦の臨場感が伝わってきます。やはり遠景で撮影した空中戦、雲の合間を縫って飛び交う飛行機の映像が、もっともエキサイティングでしょうか。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=I09r1oI7Wk8] 
[1] “”Sea-Going” Cameras for “Old Ironsides””, American Cinematographer, 6, p.7 (1926)
[2] “Wings”, Amateaur Movie Makers, p.306, May (1928)

動くカメラ (7)

カメラを動かすこと自体は映画の黎明期から行われていたのですが、ハリウッドでそれがより自由度を増すのは1920年代の後半になってからです。その最大の理由が「モーター」でした。今まで紹介してきた様々な動くカメラのシーンの撮影においても、大部分がモーターでカメラの駆動しています。
まず前提として、サイレント期においては、カメラは手でクランクして撮影をしていたということ、そして映写も映写技師が手でクランクして映写していた、ということを確認しておかなければいけません。これは手でクランクするのですから、常に速度が一定とは限らない、ということです。ということは、撮影時の物理的な(絶対的な)時間の進み具合に対して、撮影されたフィルムに写っているものは、カメラマンのクランクの具合によって伸び縮みするものだ、ということです。さらに、その写ったネガから起こされたプリントの映写では、映写技師のクランクの具合によって、また伸び縮みする、ということです。よく「サイレント映画の映写スピードは16fps(フレーム/秒)」という記述を見かけますが、これは決して絶対的な規範として当時の業界に流通していたわけではありません。むしろ、この伸び縮みを自由に利用して、例えば、アクションシーンでアンダークランクで(遅く回して)撮影する、ということは日常的に行われていました。映写時にそれを普通にクランクすれば、他のシーンに比べてアクションが加速されて映し出される、という仕組みです。1923年のTSMPE誌に掲載された「撮影時と映写時のスピードを同期させる重要性 [1]」という論文は当時のそういった慣習に対して疑問を投げかけたものですが、その論文に付記された「議論」でのM・W・パーマー(映画製作会社『フェーマス・プレイヤーズ・ラスキー』所属)の反論がすさまじいのです。
私はリチャードソン氏のこの問題に対する姿勢に同意しない。スクリーンで映し出されるものは、カメラの前で起きたことを複製しなくてもよい、と私は考えている。これは芸術的な上映であり、必ずしも機械的に正確である必要などない。撮影時のスピードについて言えば、監督が気にしていることは、そこで伝えようとしている思いに対して、動きが添っていればよいのだ。例えば、リチャードソン氏が挙げた死の床のシーンを考えてみよう。ここで監督は、映画館ではどうせ速いスピードでクランクされるであろうと予想して、カメラマンに速いスピードでクランクさせて撮影するだろう。そうすれば、上映時にはそのシーンだけは前のシーンに比べて遅く写るだろうし、それだけが監督の気にしていることだ。
一方で、リチャードソン氏はその論文の中で「カメラマンは自分のクランクの速度が一定であることを強硬に主張する」とも述べています。ややこしいですが、現実には撮影時のクランク速度はシーンに合わせて変化していたけれども、建前としては一定速度だったと主張していた、ということのように見えます(注)。

ベル&ハウエルのモーター駆動カメラ
左側の下に向かってコードが出ているのがモーター
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1923年

 
そのような背景のなかで、カメラにモーターが搭載されたという経緯があるのです。

ハーバート・C・マッケイの『映画撮影ハンドブック(1927) [2]』には、手でクランクするカメラはプロフェッショナル用だが、「三脚で固定できること」が必須条件だと述べています。この状態でカメラを動かすためには三脚とカメラマンごとドリーや自動車に乗って動く必要があります。そして、それが長い間、カメラの動きを制約していました。
『つばさ』撮影時、ベル&ハウエルを飛行機に搭載
矢印はモーターを示している
ベル&ハウエルの広告から
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1927年
カール・ルイス・グレゴリーによる記事(1921年)[3]に、ベル&ハウエルの映画用カメラのモーターに関しての記載があります。110ボルトの電源で速度可変(4 fpsから24 fpsまで)、逆回しも可能のメカニズムでした。これらはケーブルでリモートコントロールが可能です。モーターによる駆動の理由の一つとして挙げられているのが、「危ない(hazardous)シーン」での撮影があります。ただし、この場合、110ボルトの電源ケーブルが届く範囲でしか動かすことができません。おのずとスタジオ内での撮影が主なものになり、これでは特に「危ないシーン」を撮影する機会はありません。カメラは電源ケーブルからも開放される必要があったのです。1923年の『アメリカン・シネマトグラファー』誌 [4]に、ゴールドウィン・ピクチャーズがカメラ会社と協力して「自動車上で安定した電源をカメラのモーターに供給できるシステムを考案した」とあります。さらに、コスモポリタン・ピクチャーズ製作の『Unseeing Eyes』の撮影では、飛行機にカメラマンなしでモーター駆動カメラが搭載され、飛行機に乗った俳優がその操作をした様子が記載されています。まさしく危ないシーンをカメラだけで自動駆動で撮影するようになったのです。
カメラをハンドクランクすること自体は撮影のメカニズムの一部だったわけですが、そのことを考えると、カメラをモーター駆動にしたのは人間のためではなくて、カメラのためだったのではないでしょうか。カメラを人間から解放して、人物を追跡させ、飛行機に載せ、人間が危なくて行けないところ、人間の目でファインダーを覗けないところへ送り込む。モーターのケーブルからも解放し、バッテリーで駆動するようにしていく。そうしないとカメラは動けなかったのです。
『サンライズ』撮影中の様子
一番右がF・W・ムルナウ、その左がカール・シュトラス
カメラにはモーターが搭載されているのが見える
[1] F. H. Richardson, “Importance of Synchronizing Taking and Camera Speeds”, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 17, p.117 (1923)

[2] Herbert C. McCay, “Handbook of Motion Picture Photography”, Falk Publishing Company, 1927

[3] Carl Louis Gregory, “Motion Picture Cameras”, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 12, p.73 (1921)

[4] “Motor-Driven Cameras Given Practical Usage”, American Cinematographer, 4, p.22 (1923)

追記注(2015.6.21)

(注)映写も1920年代に入ってからは多くがモーター駆動になっていきます。特に都市部の大型映画館は大部分がモーター駆動の映写機を使用するようになってきていました。

動くカメラ (6)

サイレント映画の長回しはなぜ短いのか

街の天使 Street Angel (1928) フランク・ボゼージ監督

ムルナウの『サンライズ(Sunrise, 1927)』が当時のハリウッドの関係者、特にフォックスにいた監督やカメラマンに与えた影響は非常に大きかったと言われています。特にフランク・ボゼージとジョン・フォードは、その影響が非常に如実に映像に表れています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=jSEUGn4YGpI]

このショットの撮影の様子
カメラが原始的なクレーンに載せられている

これは『街の天使』のオープニングのショットです。人物と一緒にトラッキングしていたカメラが突然浮き上がり、広場の全景をパンしながらとらえていきます。すると階段に現れた男女にフレームが固定され、今度はそこへ寄っていき・・・と様々に用意された演出にカメラが焦点を合わせながら浮遊し続け、最後にストーリーの焦点となる家の前に集まる人々を映し出します。この1分弱の長回しが、ストーリーの導入部となっています。

ジョン・フォードの『四人の息子(Four Sons, 1928)』では、『サンライズ』のセットを多く使っているだけでなく、カメラの動きも強い影響下にあることがうかがえます。たとえば、『サンライズ』の夜の沼のシーンの対ともいえる、霧の戦場のシーン。ここではカメラはムルナウの時ほど複雑な動きはしませんが、それでも霧の戦場を彷徨うカメラは、都会の女に会いに行く男を追跡するカメラを髣髴とさせます。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=xd2jJ3UPff8]

先ほど「1分弱の長回し」と書きましたが、今の私たちの感覚からすると、1分程度ではとても長回しとは言わないだろうと思います。サイレント映画では、基本的にショットは短く収めてきていました。トーキーのように、役者たちの長セリフをカットなしで撮影する、というようなことがサイレントにはできないからです。しかし、カメラが動くようになり、その動きがより複雑に浮遊するようになると、ショット長は長くなっていきました。
ところが、3分を超える長回しは存在していません。なぜでしょうか。理由はカメラネガの現像にありました。
当時、カメラネガの現像はフィルムをラックに架けて現像液のタンクに入れる方法がとられていました。このラックに架けることのできるフィルムの最大長が200フィートで、16フレーム/秒(サイレント期の平均的な撮影スピード)で換算するとおよそ3分です。いくらカメラのマガジンを大きくしようが、結局現像で200フィートに切られてしまうので、最長でも3分の長回ししかできないのです [1]。

映画初期の現像の様子(1899)[3]

現像用ラック(1935)[3]
このタンク&ラック式の現像方法は多くの問題を抱えていました。フィルムが現像液につかって収縮したり延伸したりすることで、フィルムがラックから外れたり、ラックに接触している部分の現像がムラになったり(プリントを上映すると、ラックの長さで周期的にムラが出てきたりする)と、生産性が決して高い方法ではなかったのです。それでもこのタンク&ラック式が使用され続けたのは、機械によって大事なカメラ・ネガに傷がついてしまうことを恐れたのと、撮影時の露出不足や過露出を現像で救える、とされていたからでした。ユニバーサルの写真部主任、C・ロイ・ハンターはこう述べています [2]。

 

 

映画フィルムのカメラネガを機械で現像するというのはここ数年検討されてきているが、カメラネガは非常に高価なものであり、その扱いには極度の慎重さが要求されるため実用化が敬遠されてきた。

また、(撮影上の)問題があるネガでも現像工程で救済できる、あるいは少なくとも改善できると言う間違った考えのために、機械による現像が困難になっていた。

「カメラネガが高価である」というのは、その撮影のために多くの資金(セット、役者、監督 etc.)が費やされ、たった1度きりの機会を撮影したものなので、傷めてしまうと取り返しがつかない、と言う意味です。そういう観点では、映写用のプリントの現像はもう既に何年も前から機械化されていたのです。またハンター氏は「現像によって下手な撮影を救済する」という考え方を間違っていると一蹴しています。
ユニバーサルでは、映写プリント用の自動現像機のSpoor-Thompsonに、カメラネガを傷つけないように様々な改良を加えてテストを開始します。そして、『笑う男(The Man Who Laughs, 1928)』ではじめて連続式現像装置を導入しました。『笑う男』は6ヶ月にわたる撮影でしたが、その長い撮影期間にもかかわらず現像してみるとバラツキがみられませんでした。従来のタンク&ラック式では、季節による温度変化のため、現像の出来が冬と夏では違う、といったことが起きていましたが、その心配がなくなったのです。

ユニバーサルが導入したSpoor-Thompson現像機 [3]

現像機の処理能力は1時間当たり4000フィート以上で、どんな長さのネガでも切らずに現像できる。これはタンク&ラック式の現像法では望めない。シーンを切ることはシーンの連続性(コンティニュイティ)にとって非常に有害だ。最近の映画製作では、一つのショットでロングショット、セミロングショット、クローズアップを途中止めることなく一続きで見せるようなアプローチショットが多い。機械式現像機のこの特徴は、最近の映画製作にとって、非常に大きな力になるに違いない。

ハンター氏は述べていないのですが、この後、トーキーの到来と共に、この機械は光学式のサウンドトラックの現像においては非常に重要な役割を担うことになります。サウンドトラックは、常に同じ条件で現像される必要があるからです。

[1] An Evening’s Entertainment: The Age of the Silent Feature Picture, 1915-1928, R. Koszarski, University of California Press, 1994, p.174

[2] “A Negative Developing Machine”, C. Roy Hunter, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers; April 1928; 12:(33) 195-204
[3] A Technological History of Motion Pictures and Television, R. Fielding, University of California Press, 1967

動くカメラ (5)

本当にカメラは解き放たれたのか

 

サンライズ Sunrise (1927) F・W・ムルナウ監督

“Fluid Camera”

F・
W・ムルナウはドイツで『最後の人(Der Letze Mann,
1924)』を監督しました。この作品で、カール・フロイント(撮影)とともに非常に独創的なカメラ・ムーブメントに挑戦し、それは “die
entfesselt Kamera(飛ぶカメラ)”と呼ばれていました。
ウィリアム・フォックスがドイツからムルナウを招聘し、白紙委任で監督させた作品が『サンライズ(Sunrise,
1927)』です。強調遠近法を利用したオープンセット、ディープ・フォーカスを使用した構図、少ない光源をうまく利用した夜のシーンなど、当時のハリ
ウッド映画の常識を大きく覆した演出を盛り込んだ作品です。そのなかでも、湖からゆっくりと街に走る「路面電車の移動」と、この「夜の沼での密会」は、その後のハリウッドの映像文法を考える上でも重要なシーンです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=EQvPVWkvpyY]

この沼でのシーンのようなカメラの動きを、ムルナウは好んで「解き放たれたカメラ(Unchained Camera)」と呼びました。これは、例えば『つばさ』のトラッキング・ショットのような直線的な動き、あるいは飛行機に固定されたカメラのように、運動する物体からみた景色の動き、さらには手持ちカメラといった、動くものにくくりつけられた(Chained)カメラの映像とは一線を画しています。カメラは自由に浮遊し、人物を追跡するだけでなく、柵を超え、葦の茂みを分け入って進み、カメラ自体に意思があるようにさえ感じられるのです。様々な動きの多重化、多層化を見事に捕捉して、「カメラが動く」ということ -フレームが動き、動くものがフレームに収められるということー をトラッキングや手持ちといった制約から解き放ったように見えます。
この「夜の沼」のシーンの撮影の様子は、スチル写真などで見たことがありません。ジョン・ベイリー(撮影監督。『恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day, 1994)』『キャット・ピープル(Cat People, 1982)』)によれば、カール・シュトラスが天井から吊るされたドリーに乗って、モーターで動くベル・ハウエルで撮影したようです。よく観察すると、ドリーはほぼ直線上を動いています(追記注)。にも関わらず、カメラがその直線から解き放たれたように見えるのは、ドリー上でカメラが左右にパンしつつ、カメラの向いている方向がドリーの進行方向と一致していないこと、ドリーの移動速度が変化すること、そして(おそらく)最初に出てくる月と最後に出てくる月は別のプロップ(道具)なので、観ている者の空間把握を狂わせるからだと思われます。
このショットのNGテイクのプリントも残っているのですが、そこでは、動きが突然速くなって、ドリーが上下に揺れてしまっているのが、画面の揺れとなって現れています。実は人物の動きとの同期がずれてしまって、ドリーが速く動かされたのです。そこから考えると、このカメラの動きは実は「解き放たれ」てはおらず、別のものにくくりつけられたのではないでしょうか。今度は何にくくりつけられたのか。それは「動きの同期」です。人物の動きの軌跡とカメラの軌跡はあらかじめ決められていて、その同期が図られることで初めてフレームの中に求められていた動きが現れる。そして、動かすメカニズムがばれてはいけない。ドリーの振動や移動速度の急激な変化など、カメラが設置されているメカニズムの特性がフレームに現出してはいけないのです。
この「動きの同期」と「メカニズムの透明化」が重要なのは、その後のクレーンの登場や長回しの演出という、ハリウッド映画において重要な位置を占める技法の基盤になるからです。

(追記注)  2015.6.20
カール・シュトラスは、これは天井からつるされた「パーアンビュレーター(乳母車、この場合はドリーのようなもの)」で逆S字の動きをした、と発言しています。(TSMPE, 12, p.318 (1928))

動くカメラ (4)

帝国ホテル Hotel Imperial (1927) モーリッツ・スティルレル監督

手持ちカメラ

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rsYpSR0DOiY]

これは「帝国ホテル」ではなく、「明眸罪あり(The Temptress, 1926)」の撮影現場
左はモーリッツ・スティルレル監督
右でタンゴを踊っているのがグレタ・ガルボとアントニオ・モレノ
カメラ(手持ちカメラのEyemo)を構えているのがトニー・ガウディオ
モーリッツ・スティルレルはこの映画の撮影に入って10日ほどで降ろされ、
代わりにフレッド・ニブロが監督をつとめる

「帝国ホテル」のダンスのショットも手持ちカメラ(Eyemo)で撮影されたものでしょう。Eyemoとは1925年から市場に導入されたベル&ハウエル社の手持ち35mmカメラ(Hand-held Camera)。1970年代まで使用されていました。ニュース用、あるいはドキュメンタリー用として主に活躍していましたが、このように劇映画でも多く使用されています。無声映画の当時は、撮影は手のクランクしていましたが、Eyemoはゼンマイ駆動なので、握っているだけで撮影できました。このおかげで機動性が格段によくなりました。

American Cinematographer誌に掲載されたEyemoの広告(1927)
Eyemoを握っているのはセシル・B・デミル
「キング・オブ・キングス(The King of Kings, 1927)」で使用
他にも、1920年代後半に手持ちカメラが市場に登場しています。1910年代からニュース映画用として使用されていたAkeleyよりも、より機動性のあるDeVry、Cine-Kodakなどが盛んに広告を出しています。
DeVryカメラの使い方の例
特別なクランプで様々な場所に固定できる
これを思い出しました
ニード・フォー・スピード(Need for Speed, 2014)の撮影現場
GoPro3を設置しています
(via. hurlburvisuals.com)
これはシドニー・フランクリン監督が「クオリティ街(Quality Street, 1927)」撮影中に、ローラースケートを履いてEyemoで撮影している様子です。
 
 このような撮影手法もサイレント後期の1926年以降にはかなり頻繁に現れるようになります。

動くカメラ (3)

クオリティ街 Quality Street (1927) シドニー・フランクリン監督

ダンスのショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=30n8GKVhgvU]

上のシーンの撮影の様子
右手に吊り下げられたカメラ
照明も一緒に回転するようになっている

群集 The Crowd (1928) キング・ヴィダー監督

滑り台のショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=s3puV5Q-zF0]
撮影はベル・ハウエルにモーターを搭載している
撮影はヘンリー・シャープ(のちに『我輩はカモである (1933)』や『恐怖省 (1944)』を担当)