G.W.パブストの”Abwege(1928)”:「気づかない」ということ

前回前々回に引き続き、G.W.パブストの”Abwege (1928)”について考えていきます。

無声映画を見間違える

以下のシーンは、トーマスとアイリーンのやりとりです。アイリーンは、夫のトーマスに愛想を尽かし、画家の男と駆け落ちしようと、駅で待ち合わせていたのですが、画家は現れません。代わりにトーマスが現れ、アイリーンを家に連れて帰ります。トーマスはすでに画家に会いに行き、アイリーンと分かれるように迫って、その旨の手紙を書かせていたのです。このシーンは、トーマスがアイリーンを家に連れて帰って、その画家の手紙をわたすところです。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ps4fyb2mHB4?rel=0]

夫を呼びにきた男性と、アイリーンが夜のベルリンにくりだしていくところで、この動画は終わります。夫は「クラブに行かなければならないことは、君も知っているだろう」とアイリーンに言ったものの、いざとなって妻との関係を悩んで、行くのを止めて、2階の自分の部屋に戻るのです。さて、アイリーンは、夫が外出しなかったことを知っていて、くりだしたのでしょうか?
実は、私は、はじめてみたときはそう見ていました。そう思った人も多いのではないでしょうか?アイリーンは、グジグジしている夫を家に残して、当てこすりのように遊びに行ったのだと。しかし、よく見てみると実はそうではないのかもしれないのです。下の動画は、上の動画を編集して、画面左に夫が映っているシーン、右に妻が映っているシーン、真ん中に両方が映っているシーンに分けたものです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=4yTiTOiUNes?rel=0]

夫と妻の間には仕切りがあり、お互いの行動を直接見ることはできません。ですから、お互いの物音がカギになります。夫が玄関のドアに手をかけるところまでは、アイリーンがその物音を聞いていることを、彼女の目の動きと表情から読み取ることができます。しかし、夫が戻って階段を上がっていく場面では、どうでしょうか。彼女のショットは、夫が階段を上がりきるまで出てきません。そしてその前後で彼女の表情は変わっていないのです。夫がクラブに行くのを止めたことは、彼女に届いていないのです。
ここで、つじつまの合わないことが起きていますね。夫が扉のところに行くまでは、アイリーンには物音が聞こえているのに、彼が引き返して仕切りの前を通り、階段を上がっていく足音は聞こえていないことになります。この差異は、アイリーンが目で追ったかどうかと言うところに集約します。無声映画の場合、画面に映っている人物が、周囲で起きていることを「音で聞いた」という場合には、視覚的に表すことが不可欠です。もし視覚的に表していない場合には、それは「聞こえていなかった」ということです。

敵の蒸気機関車なのに誰も気がつかない

 

バスター・キートンの”The General (1926)”[邦題:キートン将軍]では、このルールが効果的に使われています。舞台はアメリカ南北戦争、キートンは南軍の機関車を走らせて、北軍のスパイの機関車を追跡します。この追跡の最中に南軍は退却してしまって。キートンの機関車が爆走する周囲を北軍の部隊が進んでいきます。けれども、キートンは機関車の燃料の薪割りに忙しく気づかない。あれだけの部隊が周囲で移動しているのですから、その騒音や行進に気づかないわけがないのですが、サイレント映画だと、キートンにとっては無音の状態が維持できるのです。彼がようやく気づくのは、彼の視線が北軍の進む様子をとらえるときです。あくまで、視線の確認が画面で表現されて、はじめて存在が確認されるのです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=l2fdwFoHTwg?rel=0]
面白いのは、伴奏音楽はたいていの場合、キートンが気づいていない間も、北軍の行進曲のメロディを挿入するのです。観客は、北軍の進軍に気づいている。そして、キートンがそれに気づいていないことをおかしく思う。もっと興味深いのは、北軍が機関車の進行に全く反応していない、という点ですね。これは実際にはありえないことですが(進軍している方角から、機関車が来れば、部隊としてはそれを停止させますよね)、その疑問が観客に浮かばないように、視点が選ばれているんです。キートンのことを客観的に見ながらも、キートンに寄り添って、没頭している視点を、フィルムをつなげるだけで作っているんです。

窓に映った本当のこと

クラレンス・ブラウン監督の”Smoldering Fires (1925)”[邦題:燻ゆる情炎]のクライマックスのシーンは、さらに複雑な視線のやり取りで「気づく」ことがカギになります。ヒロインのジェーンは成功したビジネス・ウーマンで、年の離れた若い部下のボビーと結婚しています。ボビーは、ジェーンとどこか住む世界が違うことを感じ、ジェーンの妹のドロシーに魅かれ、ドロシーもボビーに魅かれていきます。これは、ディナーが終わった後の場面です。ボビーは庭でタバコを吸いながら物思いにふけっている。ドロシーは、ひとりベッドルームで泣いている。廊下を歩いているジェーンが、それを聞きつけるところから展開します。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6DZ4wxBOdqc?rel=0]
非常に見にくい動画ですが、もともと16mmの状態の悪いプリントから起こした素材です(コマの揺れはあまりにひどいので補正処理し、字幕も入れなおしました)ので、ちゃんとした修復が望まれる映画です。ジェーンが「ボビー」と、庭にいる夫に呼びかけたときに、ガバッと起きるドロシー。窓に映ったドロシーで気づくジェーン。ひとりひとりの「声」への反応が、しっかりと演技され、撮影され、編集されています。サウンドトラックの効果音も、呼吸の音もない世界です。無声映画にとって、編集のリズムがいかに重要か、よくわかる例です。

「気づかない」という表現

「気づく」というのは、反応を見せることで表現できるのですが、「気づかない」というのは「反応しない」という動作で表現するしかないのです。”Abwege”のアイリーンの例が厄介なのは、アイリーンが「画面の外で起きていること」に「気づかない」という、かなり表現しにくい状況だからです。キートンの場合は、「画面の中で起きていること」に「別のことをやっていて」「気づかない」という構造にしていますから、後景と前景でアクションを並行させて、表現しています。ジェーンとドロシーの場合は、ジェーンは「気づいた」が、ドロシーはジェーンが気づいたことに「気づいていない」、そしてさらに、ジェーンは、ジェーンが気づいたことにドロシーが気づいていないことに「気づいて」、ごまかし始める、という瞬間を、窓に映った像を介して表現するという、離れ業をやってのけていると思います。
アイリーンとトーマスの場合は、なるべく二人を同じフレームに入れないことが前提です。二人が一緒にフレームに入っているのはごく数ショットです。完全に二人は別の空間にいて、別の空気を吸っているのです。ハリウッドの監督だったら、もう少しショットを短くして、「気づかない」ための仕掛けを用意するでしょうね(手紙をもう一度読ませたり、電話をかけさせたり・・・)。そういう「動作」を使わず、ジリジリと押し切った。余韻というか、重い気体に包まれた空間を感じます。トーマスは、アイリーンが気づかなかったことに気づいていたのでしょうか?それは実は読み取るキューが画面には出ていないと思いますが、どうでしょう。

G.W.パブストの”Abwege(1928)”:交わらない視線

G.W.パブスト(Georg Wilhelm Pabst)は無声映画からトーキー初期の時代に数多くの画期的な作品を発表した、ドイツ・オーストリアの映画監督です。彼は当時のドイツの映画界が表現主義一色だったのに対して、新即物主義(Neue Sachlichkeit)と呼ばれるスタイルで”Die freudlose Gasse (1925)” [邦題:喜びなき街]、”Die Liebe der Jeanne Ney (1927)”[邦題:懐かしのパリ]などを監督しました。新即物主義とは、ドイツ表現主義や後期ロマン主義の極めて主観的な世界観を批判し、現実の世界に対峙し、告発する姿勢を持たねばならないとした芸術運動です。ある意味で、ワイマール文化の政情不安、社会的な頽廃を象徴した運動でした。画家のジョージ・グロスオットー・ディックスラウル・ハウスマン、戯曲家のブレヒト、作曲家のシェーンベルグなどが挙げられますが、ダダイストや表現主義から派生した部分もあり、必ずしも明確な定義があるわけではありません。絵画や演劇では新即物主義は大きな流れとなっていましたが、UFA社を中心とするドイツ映画界では、むしろ表現主義に属する潮流が主流を占めていました。G.W.パブストは、当時のドイツ映画界の中で、ヨーロッパの頽廃をリアリズムに基づいて描いた稀有な存在でした。

パープストの作品はまだ見ていないものも多いのですが、サイレント最後期の作品、”Abwege (1928)“[邦題:邪道]を最近見て非常に不思議に思うことがいくつかありました。それについて考えてみようと思います。

まず、このシーンを見てください。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=tss2PZOArUU?rel=0&w=480&h=360]
これは、この映画のヒロインであるアイリーンが頽廃きわまるベルリンのダンスホールに行ったときの様子です。見知らぬ男(その後のシーンでこの男の職業がボクサーと分かります)とその連れが、彼女をからかって紙テープを投げつけるのですが、この2人の座っている位置関係がどうなっているかわかりますか?
(アイリーンは、そうです、フリッツ・ラングの“Metropolis (1927)”のマリアを演じたブリジット・ヘルムが演じています。)

私は最初に見たときには、実はよくわかりませんでした。この動画で2つ目のショット(ヒロインを斜め後ろから撮ったショット)を、男のPOVショットと勘違いしたのです。つまり、男は手前にいてそこから彼女の背中に向かって紙テープを投げている、と思ったのです。ところが、紙テープが飛んでくる向きやダンスをしている人たちの位置関係から、男は右手奥に位置しているのが分かるのです。
なぜ、そんな勘違いをしたかといえば、いわゆるハリウッド古典映画の文法からすると、2つ目のショットはPOVショット、あるいは最初のショットに対するリバースショットとして配置されることが一般的だからです。ショット/リバースショットとは、映っている人物同士の視線が交わることで位置関係を表す方法です。人物を結ぶ軸(axis、日本ではイマジナリーラインと呼ばれています)を超えないで、常に同じ側から撮影することで、場面のコンティニュイティを維持する方法です。
たとえば、”Watch on the Rhine (1943)”[邦題:ラインの監視]のこのシーンを見てください。まず、2人をフレームに収めて全体の関係を撮ります。その後、右手の男性を左からアップで撮ったショット、そして左手の男性を右手からアップで撮ったリバースショットとつないでいきます。このときそれぞれの相手の後ろ肩をフレームに入れることで、より空間のゆとりと方向性を、自然に表現します。

「ラインの監視(1943)」より

この編集方法はすでにサイレント映画の時代に確立され、非常に複雑な空間関係もコンティニュイティを保ちながら表現されています。パブストの”Abwege”と同じ年に公開されたハリウッド映画、”Romance of the Underworld (1928)”[邦題:暗黒街のロマーンス]でも、ナイトクラブのテーブル間でのやり取りがありますが、視線の交わりを処理するだけでなく、指差しや、首をひねって人物を追っかけるなどして、空間の位置関係を明らかにしています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=tJ_XLDfBPXQ?rel=0&w=480&h=360]
この文法に従うと、”Abwege”の紙テープのくだりでは、2つめのショットは、右手を見ているヒロインをやや左正面から捉えるのが正当な方法なのです。これを上から見た配置図にしたのが下の図です。実際の作品に使用されているカメラアングル・位置が左ですが、右の図のようにハリウッドの文法に沿って撮影することで、位置関係を明確に伝えることができるはずです。ではなぜ、パープストはこのような変則的なカメラ配置にしたのでしょうか?

(左)”Abwege”のカメラ配置   (右)古典的なハリウッドのカメラ配置

いろんな解釈が成り立つとは思います。
・ 混沌としたダンスホールのなかで、ヒロインが感じている方向感覚の喪失を表現している。
・ ヒロイン(裕福な階級)は、労働者階級の男と視線を合わせることを拒んでいる。
パブストは、何を狙ったのでしょうか。

[つづく]