立体的に見るということ(3)

立体的に見るということ(2)の続きです
今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。
光と影を用いた立体感
物体の相対的な位置ではなく、物体そのものの立体感を表現する際に、陰影が大きな役割を果たします。陰影をつけることによって、2次元の円が球のように見え、凹凸が把握できるようになります。陰影を用いる立体表現は透視法よりも古く西洋絵画に導入されました。ローマ帝国時代の壁画には、陰影を使って表現された立体的な表現も見られ、また、時代を下ってジオット(1266 – 1377)の作品には、布のひだなどのやわらかい影を用いた、自然な立体表現が見られるようになります。
ボスコレアーレのフレスコ画 43 – 30 BC

ジオット ユダの接吻 c.1305

ジオット 聖フランシスの伝説 アレッツォでの悪魔追放 1297 – 1299
右下の壁の凸模様にも影による立体表現が見られる

影による立体造形に非常に積極的だった初期の映画監督は、レックス・イングラム(1893 – 1950)でしょう。彼は彫刻家だったこともあり(最終的には映画をやめて彫刻家になりました)、立体的な造形に非常に興味があったようです。「黙示録の四騎士(1921)」で、無名だったルドルフ・ヴァレンチノ(1895 – 1926)に深い陰影を与えて、それまでの顔の表情のとらえ方とは一線を隠した映像を試みました。

黙示録の四騎士(1921) レックス・イングラム監督

これとは別に、深い闇で遠近感を表現する場合があります。レンブラント(1606 – 1669)の絵画をみるとわかりますが、背景に暗く沈む闇は、何も描かれていないがゆえに、深い遠近感を生みます。

レンブラント・ファン・レイン キリストと姦淫の女 1644

薔薇の名前(1986) ジャン=ジャック・アノー監督

遠景を撮影すると光の散乱で青みがかって見えることは、映画や写真ではごく自然に起きます。しかし、絵画では意識的にそのような描き方をする必要があります。

トリュフォーの思春期(1976) フランソワ・トリュフォー監督
遠景は青くシフト
バニシング・ポイント(1971)リチャード・C・サラフィアン監督
ジョルジョ・ヴァッサーリ 十字架降架 c1430
暗闇と同じように、霧や煙を用いて距離感、深さを表現するのは、常套手段となりました。

ラスト・エンペラー(1987) ベルナンド・ベルトリッチ監督

立体的に見るということ (2)

(4)短縮法(Foreshortening)
これは(3)の「相対的なサイズ」の延長ですが、遠くのものが実際よりもより短く見えるということを利用したものです。この短縮法で描かれた最初期の絵画として、モンターニャの「死せるキリスト(c.1480)」が挙げられます。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂、特に「大地と水の分離(1511)」では、まさしく神がこちらに向かって飛び出してくるような印象を与えます。ルネサンスからロココ/バロックの画家たちは、この短縮法を様々な場面で応用しました。

モンターニャ 死せるキリスト(c.1480)
ミケランジェロ 大地と水の分離(1511)

カラヴァッジオ エマオの晩餐(1601)

映画でこの短縮法が最も使用されるのが銃です。エドウィン・ポーターの「大列車強盗(1903)」から、ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス(1999)」まで、ことあるごとに観客のほうに向けられ短縮法が強調された銃は、今にも弾丸がこちらに向かって飛び出してくる迫力を強調しています。

大列車強盗(1903) エドウィン・S・ポーター監督

お金持ちにつける薬(1940) アール・C・ケントン監督

 マトリックス(1999) ウォシャウスキー兄弟

(5)地平線からの位置
2次元で表現された空間では、地平線が参照の線となります。この地平線から離れれば離れるほど、近くにあるといえます。ルネサンス初期の絵画には、他の遠近感のキュー(鍵)とともに使われていることがあります。

ピエトロ・ペルジーノ ペトロへの鍵の授与(1481 – 1482)
西部劇、特に西部の荒野を舞台としたものでは、周囲に遠近を指示する対象となるものが少ないため、地平線を利用しながら、人物同士の距離や動きを表現するものが多く見られます。ジョン・フォード監督の「捜索者たち(1956)」では、人間の画面上での大きさ、土地の高低などを組み合わせながら、この遠近感を起伏のあるものにしています。

捜索者たち(1956) ジョン・フォード監督

「アラビアのロレンス(1962)」でも、やはり砂漠を舞台としているシーンでは、この遠近表現とクローズアップを交互に使いながらドラマの緊張を高めていきます。

アラビアのロレンス(1962) デヴィッド・リーン監督
(6)遮蔽(オクルージョン)
これは端的に言えば、近くにあるものは遠くのものをさえぎって見えなくするということです。ピエトロ・ペルジーニョの「降誕(1497 – 1500)」では、天使が雲に乗っているのですが、これがどこにいるのかと言うと、背景の山のほうの空ではなく、アーチから手前に浮かんでいるのです。これは天使の羽根が、アーチの一部を遮蔽していることから判るのですが、しかし、どれくらいこちらに近いのかは正直なところわかりませんね。

ピエトロ・ペルジーニョ 降誕(1497 – 1500)

フィリッポ・リッピ(1406 – 1469)の「受胎告知(1445)」では、真ん中の一本の柱で、受胎告知の場面が「向こう」にあることを明確に示しています。

フィリッポ・リッピ 受胎告知(1445)
このように描かれている世界とこちらを明確に分離する手段の一つとして、「フレーム(枠)」があります。すなわち、構図内にもうひとつの枠 -窓、ドア、アーチなどー をもうけて、その向こうの世界、枠にさえぎられて見えない世界をつくりだす手法です。この方法でより広い世界を枠の向こうに想像させ、遠近感を強調することがあります。カナレットのサン・マルコ広場の2枚の絵を比べて見ると、フレームを用いて視点を低く構えフレームを設けた絵のほうが、見ている者に自らの位置を意識させる効果があることがわかると思います。

カナレット サン・マルコ広場(1730)
カナレット サン・マルコ広場(c.1760)

フレームのこちら側が向こう側に比べて暗い場合が多いですね。

カナレット ウェストミンスター・ブリッジから見たロンドンの眺め(1746 – 47)

ジョン・フォードの「捜索者たち」のラストシーンは、まさしくこの「フレーム」と「遮蔽」を組み合わせて、イーサン・エドワーズ(ジョン・ウェイン)の世界の儚さを見事に表現しています。イーサンに抱きかかえられて戻ってきたデビーを迎えるジョージェンセン夫妻、そしてマーティンとローレン、彼らはみんなイーサンを「遮蔽」し、フレーム(玄関)のこちらにやってきます。イーサンは、フレームをこえてこちらに来ることはありません。このフレームは実に重要な役割を果たしています。

捜索者たち(1956) ジョン・フォード監督

立体的に見るということ (1)

[「疲労困憊の3D映画」シリーズの続きです]

静止した2Dイメージから奥行きを得る

3D映画でなくとも、立体感、奥行きを感じることはできます。いや、むしろ大部分の3D情報は視差を用いていないのです。
(1)透視図法
いわゆる「2次元での奥行き表現」と言ったときに、西洋絵画で発達した、この「遠近法」「透視図法」は基礎になります。一般的には1410年代から20年代に、フィリッポ・ブルネレスキ(1377 – 1446)ロレンツォ・ギベルティ(c.1381 – 1455)が、「再発見」したとされています。ブルネレスキは古代ローマの建築の観察から、ギベルティは、10世紀のアラビアの学者、イブン・アル・ハイサム(965 – 1040)の著書「光学の書」を研究したのがきっかけです。古代ギリシア、あるいはローマに「遠近法」が法則として認知されていたかは定かではありませんが、ポンペイの壁画には、消失点をもつ構図のものも含まれています。それらの法則を「復活させた」のがこの二人だと言われています。「ブルネレスキの実験」と呼ばれる、透視図法描画の実験があります。彼はフィレンツェのサン・ジョバンニ礼拝堂の風景を透視図法で描き、その絵の裏側から消失点を通して覗いた風景と、鏡に反射させた絵が重なるかを試しました。これからもわかるように、「透視図法」は片目でみても遠近感が発生するシステムです。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bkNMM8uiMww]
この透視図法による描画法はイタリア国内では10年から20年でほぼ確立されたようです。たとえば14世紀の終わりから15世紀のはじめにフィレンツェで作品をのこしたロレンツォ・ディ・ニッコーロの「聖フィナの伝説(1402)」では、遠近法の基本的なシステムも導入されておらず、現在の我々の眼から見るとかなり破綻した造形が描かれています。ところが、同じフィレンツェのマサッチオ(1401 – 1428)の「聖三位一体(1425)」になると、かなり正確な透視図法が導入され、いわゆる「トロンプ・ルイユ(trompe l’oeil)」の効果をみることができます。

ロレンツォ・ディ・ニッコーロ 聖フィナの伝説(1402)[部分]
マサッチオ 聖三位一体(1425)

マサッチオ 聖三位一体 透視図法解釈

 
この間はわずか23年であり、驚くべきスピードでこの技法が吸収されていったのがわかります。1450年代には、多少の不正確さはあれ、多くのイタリアの画家が透視図法を導入しています。なかには、ロレンツォ・モナコのように当初は遠近感など微塵もなかった作品だったのが、20年ほどで極端な透視図法を取り入れようとして、M. C. エッシャーのようなシュールなものになっている場合もあります。

ロレンツォ・モナコ 降誕(1390)

ロレンツォ・モナコ 三王礼拝(1422)[部分]
このような透視図法にみられる、消失点に向かって伸びる直線を利用した構図は、たとえば「第三の男(The Third Man, 1949)」の最後のシーンなどに見られます。

第三の男(1949) キャロル・リード監督

ミステリー・ストリート(1950) ジョン・スタージェス監督
(2)繰り返しパターン
透視図法とともに現れてきたのが、床や天井などのデザインやパターンを用いて、遠近を表現する方法です。同じ模様や形状が繰り返されるため、そのパターンが遠くに行くほど小さくなることで奥行きを表現します。アーチ、柱、天井や壁のパネルなどがよい例です。遠近表現の正確さを追及し始めた15世紀前半では、透視図法と併用されて多く登場します。わざわざ、繰り返しのパターンをひねり出して使用している例も見られます。また、時代は下って、ベネチアやロンドンの風景を多く描いたイタリア・バロック期の画家、カナレット(1697 – 1768)は繰り返すアーチと柱を多用しながら、空間を表現しました。

カナレット 修復中のウェストミンスター橋(1749)

上の「第三の男」でも並木のパターンが遠近感を強調しています。映画「アパートの鍵貸します(1960)」に登場するオフィスは、その広大さ、従業員の数の多さ、そしてジャック・レモン扮するバクスターが一介のしがない従業員でしかない事実を、数限りなく並ぶデスクと、天井の照明のパターンで表現しています。特にこの天井照明は、実際には大きすぎるし多すぎる。当時の実際のオフィスの写真と比較してみると一目瞭然です。これは、わざとこのようなデザインにして、奥行きを強調したのでしょう。

アパートの鍵貸します(1960) ビリー・ワイルダー監督
1950年代のアメリカのオフィス (via. WSJ)
(3)相対的なサイズ
これは我々があらかじめサイズを知っているものが、画面上でどのようなサイズ関係になっているかで遠近感を把握するということです。カナレットの「柱廊の遠近法(1765)」では、柱の大きさ、ひいては建築そのものの大きさが、随所に配置された人間のサイズで把握できます。

カナレット 柱廊の遠近法(1765)
風景の中に人物を配置して、その広大さを想像させるという手法は、ドイツのロマン派絵画によく見られるようです。広大な風景だけ描いてしまうと、それがどれだけ広大か判別しにくいのですが、そこに人間を配置することで、「人間」と「自然」の相対的なサイズ関係を表現するのです。有名なカスパー・ダーヴィッド・フリードリヒの「雲海を見下ろす散策者(1818)」のなかでは、こちらに背を向けた「散策者」が、この絵画に描かれている風景の広大さの鍵になります。

カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒ 雲海を見下ろす散策者(1818)

アウグスト・マティウス・ハーゲンの「海岸(1835)」では、手前のボートと、その向こうの人間のサイズの関係だけで(他に距離をあらわす鍵になるものが描かれていない)奥行きを表現しています。

アウグスト・マティウス・ハーゲン 海岸(1835)
これはF. W. ムルナウの「サンライズ(Sunrise, 1927)」の1シーンですが、手前のランプの大きさが人間に比べて異様に大きく映っていることで、非常に近距離にあることがわかります。

サンライズ(1927) F. W. ムルナウ監督
市民ケーン(Citizen Kane, 1941)」の1シーンですが、やはり、手前のビンとスプーンの大きさから、奥からやってくるオーソン・ウェルズの距離が把握できます。
市民ケーン(1941) オーソン・ウェルズ監督

1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。
1920年代に登場した3D映画は、基本的にアナグリフ型であるため、カラー映画の発達と並行していたともいえます。1922年に発表、公開されたウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリーの「プラスティコン(Plasticon)」は現存する最古の3D映画だと思われます。「未来の映画(The Movie of the Future)」というタイトルでニューヨークのリヴォリ・シアターで公開されました。この映画は90年後の2013年にWorld 3-D Film Expo IIIで特別上映もされています。

もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。

このケリーのプラズマ IIが基礎となって、2台のカメラでそれぞれ赤/オレンジ、緑/青を撮影することで3D映画のプロセスが生まれます。「未来の映画(The Movie of the Future)」はニューヨークで撮影され、ルナ・パーク(当時最も人気のあった遊園地)での動きのある映像が呼び物だったようです。
このほかにも、フレデリック・ユージン・アイヴスとヤコブ・リーヴェンタールが開発したステレオスコピクス(Streoscopiks)も1925年に同じくニューヨークで公開されます。「Lunacy」はやはりルナ・パークで撮影され、ローラーコースターや観覧車からみた映像が中心だったようです。異なる原理を利用した3D映画としては、1922年のテレヴュー(Teleview)があります。これは、観客席に双眼鏡のような装置がすえつけてあり、観客はスクリーンをこの装置を通して見ることになります。映画は1コマごとに右目用、左目用の像をスクリーン上に投射します。映画上映に同期して双眼鏡内のシャッターが左右のレンズを交互に開放する仕組みです。

ここで、私は「3D映画」と呼んでいますが、当時は「ステレオスコピック(Streoscopic)・ムービー」と呼び、3D効果のことも「レリーフ効果」と呼んでいました。

Plastigram Stereoscopic Film, 1921 と題されていますが、
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
これはGeorge Eastman Houseが保有するStereoscopiksのプリントのようです。左目が青、右目が赤のフィルターで見ると「レリーフ効果」が現れるはずなのですが、ちょっと難しいようですね。プロジェクターを使って大きく投影して見たりしたのですが、どうもしっくり来ません。これが当時の技術の限界だったのか、それともフィルムの保存に伴う問題なのか判別しません。こういう点が、この時代の技術の把握を難しくしている部分でもあるでしょう。しかし、これらの映画の技術的な発達が混迷してゆく様子を見ると、当時の観客にとっては望ましいものではなかった可能性が高いでしょう。
そのような背景からか、このあと、アナグリフ方式でスクリーンの2次元に新しい次元を加えるという試みは、まったく思わぬ方向に展開します。「プロット」の次元です。1927年に発表された「お気に召すまま(As You Like It)」は、ヤコブ・リーヴェンタールとウィリアム・クレスピネルが製作した短編映画です。普通の白黒映画として始まります。仕事場にいった夫の帰りが遅く、やきもきする妻。夫は木材処理場で働いているのですが、そこで悪人に襲われてしまいます。のこぎりのスイッチが入れられ、夫はいまにも真っ二つ。一方、心配のあまり妻は車で夫の仕事場へ。そこで画面に「メガネをかけてください」という字幕が出ます。ここで、
左目(青)だけで見ると
棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。
右目(赤)だけで見ると
妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
そう、見る眼によって、悲劇のエンディングか、ハッピーエンディングか選べるのです。
もちろん、現在ではゲームのストーリーテリングの基本的な手法として、複数のバージョンのエンディングというのはごく普通に存在します。しかし、映画では複数のエンディングが同時に公開されるというのは、数えるほどしかありません。「殺人ゲームへの招待(Clue, 1985)」と「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ(Hide and Seek, 2005)」はどちらも違う劇場で別々のエンディングが見られると言うものです。マレーシア映画「ハリクリシュナン(Harikrishnans, 1998)」は登場する2人の俳優のそれぞれのファンのために、2つのバージョンのエンディングを用意しました。ファンは自分の好きな俳優のハッピーエンディングが用意されている劇場に行けばよかったのです。しかし、「お気に召すまま」のようにひとつのスクリーン上で二つの違うプロットが同時に進行すると言うのは、後にも先にもこれだけではないでしょうか。残念ながらこの映画のプリントは現存していないようです。
この頃に、ハリウッドのステレオスコピック映画熱はいったん冷めてしまいます。これらの映画が公開されたのは、都市部、ほとんどニューヨーク市内に限られていたようですが、本当はどのくらい上映されていたのでしょうか。一方で、カラー映画は、テクニカラーが3ストリップ式を10年ほどかけて完成させます。1930年ごろには、一時期だけワイドスクリーンもブームになります。しかし、この時期の最も重要な技術競争と言えば、映画のサウンド化(トーキー化)であり、数多くの方式が特許を抱えて競い合っていました。そのような技術の嵐の中、ステレオスコピック映画はあっという間に忘れ去られてしまいました。

疲労困憊の3D映画(3)

3D映画を観ると疲れる

Bernard Mendiburuの”3D Movie Making: Stereoscopic Digital Cinema from Script to Screen”(2009 Elsevier)には詳細に3D映画の原理とプロセスが書かれています。そこにも「両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なること」についても、もちろん言及されています(p.20)。

実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右)

Mendiburuは

この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。
This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
と言っています。しかし、この根拠は示されていません。本当に「難なくしていること」なのでしょうか?
この本が出てから4年後に発表された、Angelo G. Soliminiの論文(“Are There Side Effects to Watching 3D Movies? A Prospective Crossover Observational Study on Visually Induced Motion Sickness “, PLOS, Published: February 13, 2013, DOI: 10.1371/journal.pone.0056160)には、とても「多くの人が難なくしていること」とは思えない状況が述べられています。
ヴァーチャル・システムや操縦シミュレーター、3Dディスプレイを見ることで、視覚疲労(visual fatigue)や「乗り物」酔い(motion sickness)が起きることが報告されています。特に動画を見ることで起きる酔いはVIMS(visually induced motion sickness)と呼ばれています。
視覚疲労の症状としては、眼の不快感、疲れ、痛み、乾き目、涙目、頭痛、さらには、視界がかすんだりや二重に見えたり、焦点を合わせるのが困難になったりします。まさしく、焦点/輻輳の非同期が、この視覚疲労を引き起こしていると主張の研究もあります。一方でそれは原因ではなく、関連がみられるというだけではないか、という意見もあります。もともと潜在的に両眼視に問題を持っている人も多く(本人も気づいていない)、その場合は視覚疲労が発生する率はさらに高いと考えられます。
VIMSは、視覚で得られている動きの情報と、実際に身体が知覚する動きの情報が矛盾していることで発生すると考えられています。たとえば、ジェットコースター上で撮影された映像をじっと座って見ている場合、観客の視覚は高速で激しい動きの情報を送っているのに、体はまったく静止したままであるため、その矛盾を解決できずに「酔い」という症状になってあらわれるようです。このとき、「身体が知覚する動きの情報」というのは、実に複雑で、三半規管からの情報だけではなく、関節にかかる力、肌に触れる空気の流れ、などありとあらゆる情報を総合しているといわれています。動きの方向、速度、加速度だけでなく、環境からの刺激や、その変化なども、動きの情報として加わっているのです。
 
VIMSについて産業技術総合研究所の渡邊洋氏らが研究した結果は非常に興味深いものです。観客に2D、3D、そして「不適切な」3D映像を見せ、視覚疲労や自律神経系の反応を調査しました。ここで「不適切な」3D映像とは、左目と右目が見る像を上下にずらしたり、入れ替えたり、色味を変えたりして、通常の3D画像として認識できなくしたものをいいます。結果的には、「不適切な」3D映像を見た場合に疲労やVIMSを感じる観客は多いのですが、実は交感神経系の反応は3D映像をみるだけで上昇し、適切であるか不適切であるかは関係がないという結果になりました。

しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。

このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.

別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。

被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き
左は両足を閉じて、右は開いて。
(Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析)
Computer Technology and Application 3159-168 (2012)

では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。

ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ
Popular Mechanics, January 1955

3D映画を鑑賞することで身体に不快感を感じている人は明らかにいます。しかし、それがどのようなメカニズムで発生しているのかは、まだ研究段階で、安易な結論は避けなければなりません。ここ数年でも、VIMS専門の学会が2回、専門誌による特集号も何回も発行されています。3D映画のどのような部分が、視覚疲労につながるのか、VIMSにつながるのか、また疲労が出やすい人とそうでない人には相違があるのか、など科学的に解明されなければ、明らかな因果関係があるとは言い切れないでしょう。

問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。

「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。

(4)に続く

疲労困憊の3D映画(2)

via. wonderfulengineering

 
50年代とは違うシナリオ

2000年代後半から注目され始めたハリウッドの3D映画のビジネスモデル、あるいは普及のシナリオは1950年代とは違うのだとする意見もあります。Thomas Elsaesser の「The ”Return” of 3D」は、その相違として4点を論じています。

(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。

(2)3Dの視覚芸術は(ドルビー・サラウンドなどの)3Dの聴覚芸術を補完する性質のものである。
(3)3Dの視覚芸術は歴史的には2Dに先行していた技術でもあった。
(4)デジタルの3Dは、美学的な見地から「見えない」特殊効果を目指している。

実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
パーソナルな消費、小さなスクリーンでの3D映画、エンターテーメントの可能性、というのは、実際の3Dディバイスに対する市場の冷ややかな反応を見ると、その可能性は著しく萎んでしまっているとしか言えません。「ニンテンドー3DSは『3Dであるにもかかわらず』売れた」とされ、3Dのスマートフォンはほとんど注目されませんでした。そのような現状は、ディバイス、およびそれに対応したソフトウェアの開発への投資を一挙に鈍らせます。私自身、家庭用の3Dディスプレイに必要な材料の研究開発の現場の状況をわずかながら知っていましたが、結局R&Dや商品戦略を考える上で、「量が出ない」というのは大きなネックとなり、「技術的な差異化」「次世代のディバイス」といった切り口は殆ど意味をもちません。特に3Dディスプレイの場合、仮に商品化したとしても、そこから先に伸びていくマーケットが見えにくいのです。そういう、業界全体の投資が減速し始めると、加速度的に縮小し、おそらく現在では「パーソナルな消費」はほぼ壊滅したといってもいいと思います。

(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。

1860年頃の3Dステレオグラム

ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。


Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
著者の呆れ果てたスノビズムを度外視しても、本当に3D映画が物語り -Narrative- に新しい地平を開くのかどうか、考える必要があります。正確に言うと、3Dがもたらす新しい物語りが、3D によって失われる物語りよりもはるかに魅力的か、ということです。アナロジーで言うなら、サイレントからトーキーに移行したときに失われた物語りと得られた物語りで、トーキーによって得られたものが「美的可能性」の上においても十分魅力のあるものだったが、それと同じことが3Dにも言えるだろうか、という問いです。
私は、この問いに答えるためには、3D映画はまだ十分に可能性が探られていないと考えます。Elsaesserもあげている「Cave of Forgotten Dreams (2011)」などは、その可能性を探索する一歩だとは思いますが、多くの3D映画は、まだその文法を把握することで精一杯だといわざるを得ない。典型的な例が、マイケル・ベイの「Transformer: The Age of Extinction (2014)」でしょう。彼は非常に短いカットをつなぐことで、彼のファンが好むダイナミズムを生み出していたわけですが、3Dではあまりに短いカットでは観客がショットのパースペクティブに慣れることができない。そのため、この映画では彼は5秒以上のショットを重ねるように心がけていたわけです。すなわち、マイケル・ベイは2Dで「魅力的に」使いこなしていた物語りができなくなったのです。その代わりに得たものはどれくらいだったのでしょうか?

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]

ここで、マイケル・ベイを美学的な観点で語るのはおかしいだろうという意見もあるかもしれません。しかし、Elsaesserのいうところの「スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話」でさえ、語り方を模索しているときに、それ以上の語りを模索することをもって3Dの優位性を位置づけるのは、議論として説得力がないと思うのです。
私が強く感じるのは、「どうしたら3D映画は離陸できるのか」ということの筋道が見える前に、経済のダイナミックスで3D映画が消える、あるいは限られた役割しか与えられなくなるのではないかということです。Immersion -没入ー の側面に強く依存していた3D映画の市場開発のシナリオが、次の一手を打つ前に息切れしてしまっていると見えるのです。

(3)に続く

疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み
今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。
この夏はハリウッドにとって8年振りの低調な興行成績に終わってしまいましたが、その原因として、ワールドカップがあったことや、凡庸な結果に終わった話題作があったことなどの他に、3D映画の伸び悩みがあったことも指摘されています。「家族で映画を見に行って、ポップコーンとコーラを買ったら1日分の給料が飛んでいく」というコメントを読んだことがありますが、2時間ほどの体験として3D映画の特別料金を支払うだけの価値を見出せるか、というところに観客の関心が向き始めているようです。

数年前から3D映画は本当に「体験」「興奮」を提供するのだろうか、ということは疑問視されてきました。2011年のアメリカ心理学会の調査で、400人の学生を対象に「不思議の国のアリス」と「クラッシュ・オブ・タイタンズ」の2D版と3D版を見せてアンケートをとったところ、2Dと3Dに「興奮度」「心に残る体験」としての差はほとんど見られない、という結果がありました。
もともと、3D映画の仕組みが不自然であることは否めません。スクリーン上に映し出された像を、特殊なメガネで観賞することで3次元の幻影を見るのですが、両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なります[1]。この不自然さをもって、「3D映画は永遠に普及しない」とウォルター・マーチは豪語しました。この記事は2011年のRoger Ebertのサイトに掲載され、多くの反響を呼びました。コメント欄には、まだ3D映画に対して好意的なものが多く見受けられます。
David Bordwellはゴダールの新作についての評論の中で、近年の3D映画に共通して見られる問題として2つ挙げています。ひとつは「coulisse effect」と呼ばれる、(体積的な3次元ではなく)複数の平面が重なったように見える効果、もうひとつは映画が進むにつれ3D効果が薄れる「慣れ」の問題です。私もこの問題には覚えがありますし、多くの人が体験したことではないでしょうか?

3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=TPqxONS3DEg?start=84]
バロック・オペラの舞台装置の模型
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています

多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。

現在のハリウッドのビジネスモデルは、劇場でのチケット売上げよりも、フランチャイズやDVD、ブルーレイといった「副次的な」ビジネスでの利益確保が必須です。3D映画を家庭で観賞することを狙ったハードウェア(3DTV、プロジェクター)やソフトが一気に出ましたが、普及は減速しています。TV放送を3D化することで普及が可能かと思われましたが、BBCは3Dによる放送を棚上げし、ESPNは開発プログラム自体をキャンセルしました。ゲームの分野でも3Dへのシフトが期待されたものの、様々なところで開発が鈍化しているようです。

「アバター」が公開された当初は非常に期待された3D映画ですが、現状を見る限り、1950年代の3Dブームがたどった道を多くの人が思い出しているに違いありません。私は「Immersion(没頭、浸かること)」によって得られる「体験」に過度な期待をかけすぎたのではないか、と思います。ひとつには、そういう体験がどれくらい新鮮でありつづけることができるか、さらには、メガネをかけ続ける不自然さを正当化するだけの体験でありうるのか、ということを考えざるを得ません。もっと根本的な疑問として、2次元の次は3次元、そしてバーチャル・リアリティ、という当然のことのように考えられている「進化」が、技術としては進化しているのかもしれないけれど、エンターテーメントとして「進化」しているのか、ということをひたすら考えてしまいます。
(2)に続く

[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。

(左)実空間で物体(緑色の星)を視るとき、眼のレンズを使って焦点を合わせ、両眼の交差(コンバージェンス/輻輳)で距離を合わせますが、その焦点距離と輻輳の距離は一致します。
(右)3D映画で、物体(緑色の星)が手前に飛び出しているとき、コンバージェンスは飛び出してきている位置に距離を合わせますが、焦点はスクリーン上で結びます(映画の像が写っているのはスクリーン上だから)。この焦点距離と輻輳の距離の不一致が3D映画を見るときの特徴です。

フィルムに写った空は曇っていた

(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)

透明で無形な媒介

アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。
そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。
たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?
サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。
パンクロマティック・フィルムと南海映画
初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。
1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。
このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。
肌の色、髪の色
ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。
パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。
今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?

彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない

フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、

映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。

– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992

撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。

吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20

他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。

高感度フィルム

1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。

当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。

グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。

ハイスピード・レンズ

1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。

特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。

反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。

上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影
コントラスト、細い線の再現性に差が現れている
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。
光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。

フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。

強力な照明

スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。

科学、技術そして標準化

上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。

ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。

現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。

書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。

フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。

近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。

1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。

鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑

音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002))

2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=uuH-85lCwrs]
YouTubeのなかではこの人の鞭のクラック音がいちばんいいかも。

あの音は鞭で何かを叩いている音ではありません。あれは、もともと空気中で鳴っているもので、牛追いのときに牛を驚かせたり、遠くにいる仲間に合図を送る目的で鳴らすものです。ゴリエリーは、自分でもクラックを鳴らしてみたいと思い、ネット・オークションで鞭を購入し、アリゾナの自宅の裏庭で練習をはじめました。鞭の扱い方にはいろいろスタイルがあるようですが、鞭そのものにも「鳴る鞭」と「鳴らない鞭」があるのです。「鳴る鞭」は、その鞭が先に行くほど細くなる形状(テーパー)に鍵があるのではないかと、ゴリエリーは考えました。

エルンスト・マッハによって撮影された弾丸の衝撃波
(二本の縦線のうち、右の線はカメラのシャッターを切るためのトリップワイヤー)

あの鞭のクラックについて興味を抱いたのはゴリエリーが最初ではありません。実は、19世紀の物理学者たちが、クラックは鞭の先端が音速の壁を破るときの音ではないかという仮説を議論していたのです。しかし、それを実験的に証明するにはどうすればいいのでしょうか。1880年代にエルンスト・マッハが、弾丸が音速を破る瞬間を写真に収めてから、高速の物体を写真を用いて解析することが実験的に行われるようになりました。鞭のクラックも1927年にフランスのトゥールーズ基督学院のカリエールが「高速度カメラ」を用いて、速度の測定を試みています。彼の仕掛けは高電圧のスパークを使った連続ストロボ撮影(最も短い時間間隔で0.1msまで到達)による、鞭の軌跡の写真です。鞭のクラックは音速を超えたときの音であることが実験的に証明されたのです。

カリエールによる鞭の軌跡の高速度撮影(J. Phys. Radium., 8, 365-384 (1927))

ゴリエリーは「鳴る鞭」は、そのテーパーの設計に鍵があると考えて、数学モデルを立ててシミュレーションを行います。手首のスナップで与えられたエネルギーが、鞭の先端に伝播していく。と共にそれはエネルギー保存の法則から、速度に変わっていく。テーパーによって鞭の径が細くなっていくと、その速度上昇も大きくなり、鞭の先端に到達したときには音速に達する。これは2002年に論文として発表されますが、実はこの考え方(そして数学モデルを使うということ)は、彼よりも前に意外な分野で試みられていました。1997年にネイサン・ミルヴォルド(マイクロソフトの現CTO)とフィリップ・キュリーが化石学の学術誌に「超音速のサウロポッドか?ディプロドクスの尾の動態」という論文を発表し話題になります。これは草食系の巨大恐竜、特にディプロドクスなどが、長くて先が細くなる尾をもっていることに着目し、その尾を振り回して、鞭のクラックのような音を立てていた(先端が音速を超えていた)という説を唱えたものです。ミルヴォルドがコンピューターシミュレーションを用いて、尾の先端が音速を超えることが可能であると算出し、巨大なクラック音で周囲の恐竜を威嚇したに違いないといったのです。この「ディプロドクスの尾は音速を超えた」というのはよく聞きますが、もともと門外漢で目立ちたがりのミルヴォルドの説に、首をかしげる学者も多く、まあ誰も見たことがないからなあと黙っているしかなかったようです。最近では、尾の骨格の成り立ちから考えて、鞭と言うよりもヌンチャクのような機能を持っていて、戦いのときの武器として使っていたと考えるのが妥当ではないかといわれているようです

プロペラの回転を横から高速度カメラで撮影した例。
上のグラフは回転によるプロペラの変形(deflection)をプロットしたもの。
J. Appl. Phys., 8, 2 (1937)

ゴリエリーの研究は2002年に発表された論文のあと、あまり進展がないようです。2003年ごろに、実際に音速を超えていることを高速度カメラでとらえる実験の準備をするのですが、公開されているデータだと、これがあまりうまく行かなかったようです。問題は、音速を超える瞬間をとらえることがかなり難しいのです。素人の二人組が「怪しい伝説」番組の真似事みたいなことをYouTubeでやっています。かれらが「鞭のクラックは音速を超えているか」をビデオカメラで撮影して証明しようとするのですが、カメラのフレームスピードが足りずに、その瞬間をとらえることができません。900fpsでは足りません。たとえば、鞭の先端が音速を超えるのは0.3ミリ秒の間だけだとしましょう。その間に鞭の先端は10cmほど動きます。0.3ミリ秒の事象をとらえようとすると、少なくとも10000fpsは必要ですね(音速を超えている間の像が2~3点撮れます)。デジタルカメラで1000fpsくらいのものは民生用でもあります。しかし、10000fps近くのものは工業用とか産業用で、いいお値段します。島津のHAP-Vシリーズなんかは最大で2000万fpsまで到達します。お値段も2000万くらい。ここまで高速にすると撮ったデータをメモリに移す時間が間に合わないので、CCDチップ上のレジスターに放り込んで、後で読み出します。だからレジスターの数だけのフレーム(256)しか撮れません。

もちろん、デジタルカメラが登場する前には、フィルムの高速度カメラがありました。1920年代からコダックは研究していたようですが、1930年代から様々な産業分野で使用されるようになりました。Wikipediaでは、ベル研究所のことしか書かれていませんが、実際には、弾道解析、ガラスの破砕解析、エンジンの燃焼解析、スプレーなどの噴霧状態の解析など、様々な分野で使用されています。くしゃみや咳の高速度撮影は、病気の感染にどのように関係しているのかを解析するために始められたのです。フィルムのカメラは現像するまで実験がうまくいったかどうかわかりません。ですから、試行錯誤の繰り返しですし、ようやく撮影できるようになっても、ちょっと条件を変えるとまたやりなおしということもしばしばです。(デジタル)ビデオカメラになってから、観測現場ですぐに再生して実験条件やカメラの設置条件の変更をフィードバックできるようになりました。私も、研究開発の現場で何度か使用しましたが、問題は(設備の取り回しの都合で)カメラの設置場所が限られてしまうことや、より高速で撮影しようとするとバッファがすぐにいっぱいになるので、撮りたい瞬間を追い込むようにしないといけないんですが、これが難しかったですね。結局、速度測定などの定量的な高速度撮影をしようとすると、その目的のためだけに設計しなおした実験セットアップが必要なことが多く、そこに労力と資金をかける計画が必要です。裏庭で撮影したり、簡単な実験設備だけでは行き詰ってしまうことが多々あります。

Muybridge horse gallop animated 2

もともと、映画の始まりといわれているのは、有名なマイブリッジの「駆ける馬」の撮影です。やはりこの場合も、馬の動きが早すぎて人間の眼では見極められないために、運動を分解する目的で撮影されています。高速度カメラは、この「運動の分解」の最たるものです。映画/動画というのは、この「分解された運動」を再構築したものだともいえます。マイブリッジの例は「ぱらぱらアニメ」のように見えますが、「本物に近い動き」に再構築するためにはフレームレートを上げなければいけません。現在の映画はフィルム、デジタル共に24fps(fps=frames per second、毎秒24フレーム)で、上映時には、1フレームを止めて、2回あるいは3回映写します。これで多くの人はカタカタと動く感じはしないと思っています。しかし、ダグラス・トランブルは60fps、いや120fpsまで上げないと「滑らかな動き」にならないと主張しています。彼が提案した「ショースキャン」は70mmフィルムで60fpsで撮影・上映するのですが、結局普及しませんでした。上映館の設備導入のコストが高いことと、フィルムの消費量も多くなってしまうため製作・配給にもコストがかかってしまうからです。ピーター・ジャクソンの「ホビット」シリーズは3Dで48fpsで撮影されています。48fpsで上映可能なシアターでは撮影時のフレームレートで見ることができます(HFR上映と呼ばれています)。シリーズ第1作目の「ホビット・思いがけない冒険」が公開されたとき、このHFR上映に対する評価のなかにはかなり否定的なものもありました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=NkWLZy7gbLg?si=ORZ81pVV-myFrMve]
ダグラス・トランブルの「デジタル・ショースキャン」
24fpsの映画の中に60fpsの映像をデジタルデータで埋め込んでいくもの

イギリスのテレグラフ紙のロビー・コリンは「偽物の気持ち悪さ」があると言い、ハフィントン・ポストのマイク・ライアンは、クリアに見えすぎて、「イアン・マッケランのコンタクトレンズまで見える」ので、気になって仕方がないと主張しています。スレートのダナ・スティーブンスガーディアンのピーター・ブラッドショーらも「ハイビジョンテレビ(60fpsと同等)を見ているみたい」と言い、ヴィレッジ・ボイスのスコット・ファウンダスは「24fpsのほうが美しい」と断言しています。これらの否定的な見解を、映画監督のジェームス・カーウィンという人物が、「人間の知覚は毎秒40回であり、48fpsだと『不気味の谷』に入り込んでしまうからだ」と科学的に解明したと主張していますが、ちょっと怪しいです(彼の議論の元になっているスチュワート・ホメロフ博士の理論は、・・・読むに耐えないです)。ジョン・ノル(VFX監督)は、この「偽物に見えてしまう」理由を端的に説明しています。「感度の低いフィルム撮影で使われていた、メークアップ技術、照明技術、セットの技術(そしてVFXの技術そのもの)を、48fpsでも使っているので、その偽物さ加減が丸見えになってしまっている。たとえば、照明を多用している室内のシーンがあまりに「偽物」に見えるのに対し、戸外のシーンでは自然光を利用して撮影しているせいであまり違和感を感じない。だから、48fpsでの作品製作の経験を重ねれば、これらのアナクロニズムはなくなっていくだろう。」加えて、カリフォルニア大学バークリー校のマーティ・バンクスや、ヨーク大学のロブ・アリソンは、「そのような『すべてが見えてしまう状態』に観客がまだ慣れていないからだ」とも言っています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fnaojlfdUbs]
The Hobbit: The Desolation of Smaug Official Trailer

面白いのは、「ホビット」を見て「ハイビジョンのテレビを見ているみたいだ」と言っている人は、確実に48fpsの効果を感じているのに、それをいいことだと思っていない、と言う点です。テレビ(60fpsと同等)を映像文化的に「陳腐なもの」としてとらえる一方で、映画館の映画(24fps)は「作品」としてとらえている。早い動きを撮ると「滲み(motion blur)」が起きてしまうような、エンジニアリング的には「不十分な」技術(24fps)のほうが「本当」だと思うこと、これは長年の条件付けによるものなのでしょうか。

私は、人間の知覚には個人差がかなりあると思っています。そして「気になるところ」が人それぞれ違うとも思います。「滑らかな動き」を気にしてしまう人(ダグラス・トランブルは明らかにそうですね)は、動きによる『滲み』のほうが気になって仕方がないのだと思います。一方で、24fpsと48fpsの差があまり判別できない人も、実はいるのではないでしょうか。1チップのDLPプロジェクターでは、カラーブレイキング(レインボー効果)というものがありますが、これを見ることが出来るのは10人に1人くらいしかいないそうです。いろんな人で見えているものが違う。けれども、技術の普及と共に全員が「同じもの」を見るように条件付けされていくのかもしれません。

武田信明氏が「三四郎の乗った汽車」で言及していたことで非常に印象的なことがあります。幕末、万延元年にアメリカに派遣された使節団は、おそらく日本人で初めて長距離の列車に乗った人たちでした。彼らが一様に日記に記しているのは、列車の窓からの風景が「ぼやけて見えない」ということだそうです。窓の外の風景が、速く過ぎ去ってしまって、眼でとらえることができない、という意味です。「世界の車窓から」なんて番組を見ている、今の私たちからは想像できません。それから60年ほど経った、1919年に芥川龍之介が発表した小説「蜜柑」。ここでは、走る汽車の窓から見えた、踏切に立っている子供たちを、そしてその子供たちに向かって投げられた蜜柑を、まるでスローモーションの映画のように描写しています。これは、動く列車の窓からの風景、しかもものすごく短い瞬間に起きることを視覚的にとらえる、ということを読者も共有しているからにほかありません。幕末の使節団から、「蜜柑」までの60年余りの間に、日本人は視覚的な認知能力に変化が起きた、ということなのかもしれません。