立体的に見るということ(3)

立体的に見るということ(2)の続きです

今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。

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1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。

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疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み

今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。

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フィルムに写った空は曇っていた

(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)

透明で無形な媒介

アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。
そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。
たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?
サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。
パンクロマティック・フィルムと南海映画
初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。
1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。
このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。
肌の色、髪の色
ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。
パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。
今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?

彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない

フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、

映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。

– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992

撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。

吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20

他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。

高感度フィルム

1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。

当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。

グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。

ハイスピード・レンズ

1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。

特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。

反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。

上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影
コントラスト、細い線の再現性に差が現れている
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。
光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。

フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。

強力な照明

スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。

科学、技術そして標準化

上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。

ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。

現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。

書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。

フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。

近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。

1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。