タグ: FILM TECHNOLOGY
立体的に見るということ (2)
![]() |
ピエトロ・ペルジーノ ペトロへの鍵の授与(1481 – 1482) |
![]() |
捜索者たち(1956) ジョン・フォード監督 |
立体的に見るということ (1)
[「疲労困憊の3D映画」シリーズの続きです]
静止した2Dイメージから奥行きを得る
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bkNMM8uiMww]
ロレンツォ・ディ・ニッコーロ 聖フィナの伝説(1402)[部分] |
![]() |
マサッチオ 聖三位一体(1425) |
![]() |
マサッチオ 聖三位一体 透視図法解釈 |
この間はわずか23年であり、驚くべきスピードでこの技法が吸収されていったのがわかります。1450年代には、多少の不正確さはあれ、多くのイタリアの画家が透視図法を導入しています。なかには、ロレンツォ・モナコのように当初は遠近感など微塵もなかった作品だったのが、20年ほどで極端な透視図法を取り入れようとして、M. C. エッシャーのようなシュールなものになっている場合もあります。
![]() |
ロレンツォ・モナコ 降誕(1390) |
![]() |
ロレンツォ・モナコ 三王礼拝(1422)[部分] |
第三の男(1949) キャロル・リード監督 |
ミステリー・ストリート(1950) ジョン・スタージェス監督 |
カナレット 修復中のウェストミンスター橋(1749) |
上の「第三の男」でも並木のパターンが遠近感を強調しています。映画「アパートの鍵貸します(1960)」に登場するオフィスは、その広大さ、従業員の数の多さ、そしてジャック・レモン扮するバクスターが一介のしがない従業員でしかない事実を、数限りなく並ぶデスクと、天井の照明のパターンで表現しています。特にこの天井照明は、実際には大きすぎるし多すぎる。当時の実際のオフィスの写真と比較してみると一目瞭然です。これは、わざとこのようなデザインにして、奥行きを強調したのでしょう。
![]() |
アパートの鍵貸します(1960) ビリー・ワイルダー監督 |
![]() |
|
1950年代のアメリカのオフィス (via. WSJ) |
![]() |
カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒ 雲海を見下ろす散策者(1818) |
アウグスト・マティウス・ハーゲンの「海岸(1835)」では、手前のボートと、その向こうの人間のサイズの関係だけで(他に距離をあらわす鍵になるものが描かれていない)奥行きを表現しています。
アウグスト・マティウス・ハーゲン 海岸(1835) |
1920年代の3D映画
もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
左目(青)だけで見ると棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。右目(赤)だけで見ると妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
疲労困憊の3D映画(3)
3D映画を観ると疲れる
![]() |
実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右) |
Mendiburuは
この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。
このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.
別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。
![]() |
|
被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き 左は両足を閉じて、右は開いて。 (Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析) Computer Technology and Application 3159-168 (2012) |
では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。
![]() |
ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ (Popular Mechanics, January 1955) |
問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。
「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。
(4)に続く
疲労困憊の3D映画(2)
![]() |
via. wonderfulengineering |
50年代とは違うシナリオ
(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。
実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。
![]() |
1860年頃の3Dステレオグラム |
ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。
Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]
(3)に続く
疲労困憊の3D映画(1)
3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック) |
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています
多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。
[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。
フィルムに写った空は曇っていた
(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)
透明で無形な媒介
彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない
フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、
映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。
– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992
撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。
吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20
他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。
ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。
高感度フィルム
1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。
当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。
グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。
ハイスピード・レンズ
1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。
特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。
反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。
![]() |
上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影 コントラスト、細い線の再現性に差が現れている |
![]() |
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。 光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている |
![]() |
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。 |
フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。
強力な照明
スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。
科学、技術そして標準化
上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。
ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。
現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。
書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。
フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。
近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。
1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。
鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑
![]() |
音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002)) |
2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=uuH-85lCwrs]
|
YouTubeのなかではこの人の鞭のクラック音がいちばんいいかも。 |
あの音は鞭で何かを叩いている音ではありません。あれは、もともと空気中で鳴っているもので、牛追いのときに牛を驚かせたり、遠くにいる仲間に合図を送る目的で鳴らすものです。ゴリエリーは、自分でもクラックを鳴らしてみたいと思い、ネット・オークションで鞭を購入し、アリゾナの自宅の裏庭で練習をはじめました。鞭の扱い方にはいろいろスタイルがあるようですが、鞭そのものにも「鳴る鞭」と「鳴らない鞭」があるのです。「鳴る鞭」は、その鞭が先に行くほど細くなる形状(テーパー)に鍵があるのではないかと、ゴリエリーは考えました。
![]() |
エルンスト・マッハによって撮影された弾丸の衝撃波 (二本の縦線のうち、右の線はカメラのシャッターを切るためのトリップワイヤー) |
あの鞭のクラックについて興味を抱いたのはゴリエリーが最初ではありません。実は、19世紀の物理学者たちが、クラックは鞭の先端が音速の壁を破るときの音ではないかという仮説を議論していたのです。しかし、それを実験的に証明するにはどうすればいいのでしょうか。1880年代にエルンスト・マッハが、弾丸が音速を破る瞬間を写真に収めてから、高速の物体を写真を用いて解析することが実験的に行われるようになりました。鞭のクラックも1927年にフランスのトゥールーズ基督学院のカリエールが「高速度カメラ」を用いて、速度の測定を試みています。彼の仕掛けは高電圧のスパークを使った連続ストロボ撮影(最も短い時間間隔で0.1msまで到達)による、鞭の軌跡の写真です。鞭のクラックは音速を超えたときの音であることが実験的に証明されたのです。
![]() |
カリエールによる鞭の軌跡の高速度撮影(J. Phys. Radium., 8, 365-384 (1927)) |
ゴリエリーは「鳴る鞭」は、そのテーパーの設計に鍵があると考えて、数学モデルを立ててシミュレーションを行います。手首のスナップで与えられたエネルギーが、鞭の先端に伝播していく。と共にそれはエネルギー保存の法則から、速度に変わっていく。テーパーによって鞭の径が細くなっていくと、その速度上昇も大きくなり、鞭の先端に到達したときには音速に達する。これは2002年に論文として発表されますが、実はこの考え方(そして数学モデルを使うということ)は、彼よりも前に意外な分野で試みられていました。1997年にネイサン・ミルヴォルド(マイクロソフトの現CTO)とフィリップ・キュリーが化石学の学術誌に「超音速のサウロポッドか?ディプロドクスの尾の動態」という論文を発表し話題になります。これは草食系の巨大恐竜、特にディプロドクスなどが、長くて先が細くなる尾をもっていることに着目し、その尾を振り回して、鞭のクラックのような音を立てていた(先端が音速を超えていた)という説を唱えたものです。ミルヴォルドがコンピューターシミュレーションを用いて、尾の先端が音速を超えることが可能であると算出し、巨大なクラック音で周囲の恐竜を威嚇したに違いないといったのです。この「ディプロドクスの尾は音速を超えた」というのはよく聞きますが、もともと門外漢で目立ちたがりのミルヴォルドの説に、首をかしげる学者も多く、まあ誰も見たことがないからなあと黙っているしかなかったようです。最近では、尾の骨格の成り立ちから考えて、鞭と言うよりもヌンチャクのような機能を持っていて、戦いのときの武器として使っていたと考えるのが妥当ではないかといわれているようです。
![]() |
プロペラの回転を横から高速度カメラで撮影した例。 上のグラフは回転によるプロペラの変形(deflection)をプロットしたもの。 J. Appl. Phys., 8, 2 (1937) |
ゴリエリーの研究は2002年に発表された論文のあと、あまり進展がないようです。2003年ごろに、実際に音速を超えていることを高速度カメラでとらえる実験の準備をするのですが、公開されているデータだと、これがあまりうまく行かなかったようです。問題は、音速を超える瞬間をとらえることがかなり難しいのです。素人の二人組が「怪しい伝説」番組の真似事みたいなことをYouTubeでやっています。かれらが「鞭のクラックは音速を超えているか」をビデオカメラで撮影して証明しようとするのですが、カメラのフレームスピードが足りずに、その瞬間をとらえることができません。900fpsでは足りません。たとえば、鞭の先端が音速を超えるのは0.3ミリ秒の間だけだとしましょう。その間に鞭の先端は10cmほど動きます。0.3ミリ秒の事象をとらえようとすると、少なくとも10000fpsは必要ですね(音速を超えている間の像が2~3点撮れます)。デジタルカメラで1000fpsくらいのものは民生用でもあります。しかし、10000fps近くのものは工業用とか産業用で、いいお値段します。島津のHAP-Vシリーズなんかは最大で2000万fpsまで到達します。お値段も2000万くらい。ここまで高速にすると撮ったデータをメモリに移す時間が間に合わないので、CCDチップ上のレジスターに放り込んで、後で読み出します。だからレジスターの数だけのフレーム(256)しか撮れません。
もちろん、デジタルカメラが登場する前には、フィルムの高速度カメラがありました。1920年代からコダックは研究していたようですが、1930年代から様々な産業分野で使用されるようになりました。Wikipediaでは、ベル研究所のことしか書かれていませんが、実際には、弾道解析、ガラスの破砕解析、エンジンの燃焼解析、スプレーなどの噴霧状態の解析など、様々な分野で使用されています。くしゃみや咳の高速度撮影は、病気の感染にどのように関係しているのかを解析するために始められたのです。フィルムのカメラは現像するまで実験がうまくいったかどうかわかりません。ですから、試行錯誤の繰り返しですし、ようやく撮影できるようになっても、ちょっと条件を変えるとまたやりなおしということもしばしばです。(デジタル)ビデオカメラになってから、観測現場ですぐに再生して実験条件やカメラの設置条件の変更をフィードバックできるようになりました。私も、研究開発の現場で何度か使用しましたが、問題は(設備の取り回しの都合で)カメラの設置場所が限られてしまうことや、より高速で撮影しようとするとバッファがすぐにいっぱいになるので、撮りたい瞬間を追い込むようにしないといけないんですが、これが難しかったですね。結局、速度測定などの定量的な高速度撮影をしようとすると、その目的のためだけに設計しなおした実験セットアップが必要なことが多く、そこに労力と資金をかける計画が必要です。裏庭で撮影したり、簡単な実験設備だけでは行き詰ってしまうことが多々あります。
もともと、映画の始まりといわれているのは、有名なマイブリッジの「駆ける馬」の撮影です。やはりこの場合も、馬の動きが早すぎて人間の眼では見極められないために、運動を分解する目的で撮影されています。高速度カメラは、この「運動の分解」の最たるものです。映画/動画というのは、この「分解された運動」を再構築したものだともいえます。マイブリッジの例は「ぱらぱらアニメ」のように見えますが、「本物に近い動き」に再構築するためにはフレームレートを上げなければいけません。現在の映画はフィルム、デジタル共に24fps(fps=frames per second、毎秒24フレーム)で、上映時には、1フレームを止めて、2回あるいは3回映写します。これで多くの人はカタカタと動く感じはしないと思っています。しかし、ダグラス・トランブルは60fps、いや120fpsまで上げないと「滑らかな動き」にならないと主張しています。彼が提案した「ショースキャン」は70mmフィルムで60fpsで撮影・上映するのですが、結局普及しませんでした。上映館の設備導入のコストが高いことと、フィルムの消費量も多くなってしまうため製作・配給にもコストがかかってしまうからです。ピーター・ジャクソンの「ホビット」シリーズは3Dで48fpsで撮影されています。48fpsで上映可能なシアターでは撮影時のフレームレートで見ることができます(HFR上映と呼ばれています)。シリーズ第1作目の「ホビット・思いがけない冒険」が公開されたとき、このHFR上映に対する評価のなかにはかなり否定的なものもありました。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=NkWLZy7gbLg?si=ORZ81pVV-myFrMve]
|
ダグラス・トランブルの「デジタル・ショースキャン」 24fpsの映画の中に60fpsの映像をデジタルデータで埋め込んでいくもの |
イギリスのテレグラフ紙のロビー・コリンは「偽物の気持ち悪さ」があると言い、ハフィントン・ポストのマイク・ライアンは、クリアに見えすぎて、「イアン・マッケランのコンタクトレンズまで見える」ので、気になって仕方がないと主張しています。スレートのダナ・スティーブンス、ガーディアンのピーター・ブラッドショーらも「ハイビジョンテレビ(60fpsと同等)を見ているみたい」と言い、ヴィレッジ・ボイスのスコット・ファウンダスは「24fpsのほうが美しい」と断言しています。これらの否定的な見解を、映画監督のジェームス・カーウィンという人物が、「人間の知覚は毎秒40回であり、48fpsだと『不気味の谷』に入り込んでしまうからだ」と科学的に解明したと主張していますが、ちょっと怪しいです(彼の議論の元になっているスチュワート・ホメロフ博士の理論は、・・・読むに耐えないです)。ジョン・ノル(VFX監督)は、この「偽物に見えてしまう」理由を端的に説明しています。「感度の低いフィルム撮影で使われていた、メークアップ技術、照明技術、セットの技術(そしてVFXの技術そのもの)を、48fpsでも使っているので、その偽物さ加減が丸見えになってしまっている。たとえば、照明を多用している室内のシーンがあまりに「偽物」に見えるのに対し、戸外のシーンでは自然光を利用して撮影しているせいであまり違和感を感じない。だから、48fpsでの作品製作の経験を重ねれば、これらのアナクロニズムはなくなっていくだろう。」加えて、カリフォルニア大学バークリー校のマーティ・バンクスや、ヨーク大学のロブ・アリソンは、「そのような『すべてが見えてしまう状態』に観客がまだ慣れていないからだ」とも言っています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fnaojlfdUbs]
|
The Hobbit: The Desolation of Smaug Official Trailer |
面白いのは、「ホビット」を見て「ハイビジョンのテレビを見ているみたいだ」と言っている人は、確実に48fpsの効果を感じているのに、それをいいことだと思っていない、と言う点です。テレビ(60fpsと同等)を映像文化的に「陳腐なもの」としてとらえる一方で、映画館の映画(24fps)は「作品」としてとらえている。早い動きを撮ると「滲み(motion blur)」が起きてしまうような、エンジニアリング的には「不十分な」技術(24fps)のほうが「本当」だと思うこと、これは長年の条件付けによるものなのでしょうか。
私は、人間の知覚には個人差がかなりあると思っています。そして「気になるところ」が人それぞれ違うとも思います。「滑らかな動き」を気にしてしまう人(ダグラス・トランブルは明らかにそうですね)は、動きによる『滲み』のほうが気になって仕方がないのだと思います。一方で、24fpsと48fpsの差があまり判別できない人も、実はいるのではないでしょうか。1チップのDLPプロジェクターでは、カラーブレイキング(レインボー効果)というものがありますが、これを見ることが出来るのは10人に1人くらいしかいないそうです。いろんな人で見えているものが違う。けれども、技術の普及と共に全員が「同じもの」を見るように条件付けされていくのかもしれません。
武田信明氏が「三四郎の乗った汽車」で言及していたことで非常に印象的なことがあります。幕末、万延元年にアメリカに派遣された使節団は、おそらく日本人で初めて長距離の列車に乗った人たちでした。彼らが一様に日記に記しているのは、列車の窓からの風景が「ぼやけて見えない」ということだそうです。窓の外の風景が、速く過ぎ去ってしまって、眼でとらえることができない、という意味です。「世界の車窓から」なんて番組を見ている、今の私たちからは想像できません。それから60年ほど経った、1919年に芥川龍之介が発表した小説「蜜柑」。ここでは、走る汽車の窓から見えた、踏切に立っている子供たちを、そしてその子供たちに向かって投げられた蜜柑を、まるでスローモーションの映画のように描写しています。これは、動く列車の窓からの風景、しかもものすごく短い瞬間に起きることを視覚的にとらえる、ということを読者も共有しているからにほかありません。幕末の使節団から、「蜜柑」までの60年余りの間に、日本人は視覚的な認知能力に変化が起きた、ということなのかもしれません。