曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [1]

「映画とは何か」「フィルム・ノワールとは何か」といった、「○○○○とは何か」といったタイトルを映画批評ではよく見かけるのだが、風呂敷が大きいだけで、広げる場所が間違っているような印象をいつも受けている。だが、「フィルム・ノワールとは何か」については、さすがに困っている。その定義が極めて曖昧で、流動的で不定形で、どんな映画を《フィルム・ノワール》と呼ぶのかという点も絶えず変化しているからだ。1980年代には、1940年代から50年代の一握りのハリウッド娯楽作品を指すものだと主張されていたが、今ではIMDBで『獣人島(Island of Lost Souls, 1932)』に film noir のタグがつけられてしまうほど自由自在に解釈されているようだ。《濫用》されているといってもよいだろう。そんな調子だから、《フィルム・ノワール》についての様々な記述や批評を読んでいると、あまりにいろんな齟齬が目立ち、疑問が沸き起こり、全く疑わしい土台のうえに分析や解釈が堂々と展開されている様子に出くわしたりする。私は、そういう定義の食い違いや齟齬について議論したり、分析したりすることには、あまり興味がないのだが、一度は整理して見る必要を感じている。そこで、残念ながら今回ばかりは「フィルム・ノワールとは何か」という風呂敷を、間違った場所に広げてみることにした。

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忘れられたフェミニスト映画批評家

自分からの逃走

バーバラ・デミングという名前を聞いてピンとくる人は決して多くないだろう。1960年代後半のベトナム戦争と反戦市民運動について興味がある人であれば、1966年にハノイで非暴力を訴えてデモをした6人組のアメリカ人の一人だったことを覚えているかもしれない。あるいはロバート・スクラーの映画史の著作に、彼女の名前が数回登場するのをぼんやりと記憶している方もいるかもしれない。映画批評の歴史の中で極めて重要な位置を占める、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーへ From Caligari to Hitler(1947)」の「緒言 Preface」に、バーバラ・デミングへの謝辞が述べられているのを見て、いったい誰だろうと思った人もいるかもしれない。

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赤外線フィルムの時代

第二次世界大戦前後の映像技術や工学をながめていると、この頃から、《見えるもの》と《見えないもの》の境界を曖昧にするテクノロジーが徐々に社会に浸透し始めている様子が見えてくる。可視の外側の現象が、平然と可視の領域に滑り込んで、ヒトは自らの知覚が広がったかのような錯覚に囚われ始める。この錯覚は時としてとても危険なものになりうるのだが、視覚に不自由を感じないヒトはすべての感覚のなかで視覚を無防備に無批判に信望していて、その危なかっしさを見逃しがちである。

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エドワード・ホッパーと戦争

エドワード・ホッパー(1882 – 1967)の「ナイトホークス Nighthawks」は、彼の数ある作品のなかでも最も有名な作品だろう。蛍光灯に煌々と照らされた店内。寂しいような、落ち着くような、不思議な場所。しかし、この風景は、作品が製作されたとき、存在してはいけない風景だったというのはあまり知られていない。

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『深夜の告白』の3つのショット

以前紹介したアーヴィング・ピシェル監督『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』は、1943年7月にサンタ・ローザ近辺でロケーション撮影されたが、1943年の後半にロサンゼルスでロケーション撮影された作品がある。ビリ-・ワイルダー監督の『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』である。

今回は『深夜の告白』のオープニングの3つのショットだけを取りあげたい。

『深夜の告白』のオープニング

筆者が「50本のフィルム・ノワールを取り上げるプロジェクト」として取り組んだ「ランダム・ノワール」のほうでも『深夜の告白』は取りあげた。ここでは、この作品のオープニングについて、もう少し見ていきたい。

私はこのオープニングの映像がいつも気になっていた。1940年代のロサンゼルスの夜のダウンタウンを撮影した写真とくらべて、どこか陰鬱で、独特な闇に包まれている印象がある。

1940年代後半のハリウッド通りとヴァイン通りの交差点
Huntington Library Digital Collection
『深夜の告白』の最初のショット
場所は 5th ストリート と オリーヴ・ストリートの交差点

はたして、なにが起きていたのだろうか。

『深夜の告白』の撮影は、1943年の9月27日から11月24日までのほぼ2ヶ月にわたっておこなわれた[1]消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)の記事の最後でも述べたが、灯火管制は1943年11月1日に解除され、その後は夜間の戸外でも照明に制限がなくなっている。つまり、『深夜の告白』の撮影期間のうち、9月27日から10月31日までは、ロケーション撮影は様々な制限を受けるが、管制が解除された11月1日からは、以前の通りの日常の(ノーマルな)夜の風景を、カーボン・アーク灯を何十台も使用して撮影できたはずだ。

だが、『深夜の告白』の最初のショットは、灯火管制下で撮影されたように見える。左に見えるビルはビルトモア・ホテル、その向かいのコカ・コーラの看板が見える店はヴィクトリー・スクエア・ドラッグストア、いずれも地上階の窓に照明があっておかしくないはずだが、暗い闇に沈んでいる。街燈はすべて点灯しているが、これは、灯火管制下でも許可されていた。『深夜の告白』の撮影ロケーションをまとめたジーン・ロートンによれば、この撮影は1943年8月に行われているという[2]

まず、最初のショットには、「Los Angeles Railway Corp. Maintainance Dept.」という標識を掲げた工事の業者が手前に写っている。

全米映画俳優組合は、パラマウント・ピクチャーズ Inc.が、ロサンゼルス市内の5thストリートとオリーヴ・ストリートにあるロサンゼルス・レールウェイ社の鉄道用地において、同社の溶接工とその助手が作業している様子を撮影することについて、(組合との協定事項の遵守する義務を)免除する。ビリー・ワイルダー監督、『深夜の告白』の製作において、1943年8月14日の1日限りである。
この2人が演技、役、スタント、会話などをせず、また、これが免除の前例とならない、ということを両者のあいだで合意している。

全米映画俳優組合からのメモ
Screen Actors Guild, August 14, 1943

すなわち、このショットは8月14日に撮影されたということになる。ここで、「ロサンゼルス・レールウェイの鉄道用地」というのは、具体的には3号線(Line 3)のことである(Wikipedia)。これは、戦時下のロケーション撮影で常に問題になった、エキストラの雇用規定について例外を認める、という全米映画俳優組合の覚書だ。この最初のショットは、ロサンゼルス市内での撮影であり、<300マイル・ルール>が適用される。このルールが適用される場合は、エキストラは全米映画俳優組合の組合員(クラスB)でなければならない。だが、ビリ-・ワイルダーは、実際に溶接工が作業している様子を撮影することにした。それを俳優組合に申し込んだのであろう。

さらに次の2つのショットは、次の製作レポートが鍵となる。

ロサンゼルス、6thストリートとオリーヴ・ストリートの交差点
集合 3:30 AM、カメラ 3AM
リハーサル 4AM- 5:40AM
最初のテイク 5:40 AM - 終了 6 AM
エキストラ8名、車とエキストラ8名
マクマレーのダブルはアラン・ポメロイ
トラック運転手はゴードン・カーヴァス
もしうまくいけば、この早朝の撮影が、完成時には夜のシーンとして使われる
ナイト・フィルター撮影

Paramount Production Memo, 1943/8/4

このメモが少なくとも3つ目のショットを表しているのは、このショットにトラックが登場することから明らかである。どのテイクが使用されたかは分からないが、早朝5時40分から6時のあいだに撮影されていることが分かる。撮影には「ナイト・フィルター」、すなわち赤いフィルターが使用されている。

『深夜の告白』の3番目のショット
場所は 6th Street と Olive Street の交差点

この前日の8月3日のロサンゼルス・タイムズによると、灯火管制は3日の日没時刻(午後7時52分)から翌4日の日の出時刻(午前6時6分)までだ。

ロサンゼルス・タイムズ 1943年8月3日

この撮影は、朝の午前5時40分から6時のあいだまでに行われているから、灯火管制下での撮影である。だが、この時間帯は日の出の6:06直前の<マジック・アワー>と推測される。ワイルダーとサイツは、この時間 ─── 日の出直前で、かつ灯火管制中 ─── は街燈はまだ灯っているが、空は明るくなっていて、照明を利用しなくても「夜のシーンとして」撮影できるともくろんだのではないか。最初のショットとこのショットをよく見ると、背景のビルと空の境界に不自然な輪郭が現れているのが分かる。これはオプティカル・プロセスを施したあとだろう。このオープニングは前述のように日をわたって撮影されているため、空の明暗がショットごとにばらついていた可能性がある。それをオプティカル・プロセスで統一したのではないだろうか。

最初のショットで、フレーム内に配置された多様な光源が作り出す早朝の街の風景は、新鮮なドキュメンタリー性に満ちていて、この後、ハリウッド映画に起きる変化を予言しているようだ。奥行きのある配置の街燈、こちらに向かってくる車のヘッドライト、それを反射する鉄道のレール、手前の溶接作業の光、道に無造作に置かれた迂回路用のオイルランプの炎、どれもが映画のために準備されたものではなく、その風景に最初から存在していたかのようだ。

この最初のショットの街燈に注目したい。

『深夜の告白』のオープニング・シーンに登場する街燈

街燈の上半分が円錐のような形状をしているのが分かるだろうか。1930~1940年代のビルトモア・ホテルの近くの写真を見てみると、これが灯火管制下、街灯の光が上向きに逃げないように施された遮蔽であることが分かる。

ビルトモア・ホテル 1930~40年頃
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが1930~1940年代のビルトモア・ホテルの写真である。写真右奥の坂の上からウォルター・ネフが運転する車が暴走してくる。この電車通りは5thストリートである。

街燈(上の写真の拡大 1930~1940年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが、ビルトモア・ホテル付近の街燈の元の姿である。

次に1943年、灯火規制下のビルトモア・ホテル付近を見てみる。

ビルトモア・ホテル 1943年
University of Southern California Libraries Digital Collection

画面左奥から右に向かって伸びているのが、オリーヴ・ストリート、右から左の道は5thストリートである。この街燈には黒い布のようなものが被せられているのが分かる。

街燈(上の写真の拡大 1943年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

この黒い布のようなものは、翌年になってもまだ被せられたままだった。これは5th ストリートを坂の上から見下ろした写真である(ウォルター・ネフはこの道を奥に向かって暴走した)が、ここでも街燈に黒いものが被せられているのが分かる。

5thストリートをグラント通りからオリーヴ通りに向かって
Los Angeles Public Library Digital Collections
街燈(上の写真の拡大 1944年)
Los Angeles Public Library Digital Collections

これが、戦争の終わる1945年になると、元の姿に戻る。下の写真は、画面奥から手前にオリーヴ・ストリート、左右に6th ストリートが交差する交差点である。『深夜の告白』の3ショットめで、ウォルターの車とトラックが事故を起こしそうになるのはこの交差点だ。

6th ストリートとオリーヴ・ストリート
Los Angeles Public Library Digital Collections

上の空間に光が届かない戦時下独特の街燈、闇に沈むビルの窓、ストリートは車のヘッドライトだけが見える ─── 『深夜の告白』のオープニングの独特の<暗さ>は、ワイルダーとサイツが、灯火管制が作り出した都市部の闇を、照明を使わずにいかに撮影するかと苦心した末に生み出したものである。この<暗さ>は、戦争が民衆に植え付けた、恐怖、愛国心、パラノイア、非日常の興奮、憎悪の念といった闇の成分が凝集したものだと言ってもよいのではないか。そして、それは灯火管制が解除されてしまうと、二度と都市部に現れることはなかった。フィルム・ノワールの作品が数多くあるとは言え、この<暗さ>をとらえた映像は、この作品のこのオープニングだけではないだろうか。

References

[1]^ E. Robson, “Double Indemnity,” in Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir, Dutch Tilt Publishing, 2016.

[2]^ J. Laughton, “Double Indemnity: Self-Guided Movie Location Tour.” Los Angeles Conservancy. link

アメリカの朝

二期目の大統領選キャンペーン中のロナルド・レーガン(UCLA Library Digital Collections

このブログでは、今まで幾度か、ロナルド・レーガンが二期目の大統領選のときに繰り広げたキャンペーンで製作されたコマーシャル「Morning in America」について触れてきた。『ノマドランド』に見られる<マジック・アワー>の美学と労働倫理の結託について考える時の、その先駆的な映像としての位置付けや、ソノマ郡という場所がハリウッド映画で果たしてきた役割のなかでの例として言及した。この「Morning in America」について記しておきたい。

アメリカの朝

まず、その「Morning in America」(正式な名称は「Prouder, Stronger, Better」)とはどんな映像なのか。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pUMqic2IcWA]
Morning in America (1984)

ナレーションはレーガン政権の一期目の成果を総括している。

アメリカにまた朝が来た。今日、この国の歴史でも類を見ないほど多くの男性、女性が仕事に向かう。今の利率は、史上最高を記録した1980年の半分になり、今日も2,000の家族が家を購入する。これは過去4年間を通して最高の件数だ。

今日の午後には、6,500の若い男女が結婚する。インフレ率は4年前の半分以下。彼らは将来に確信をもって望むことができる。

アメリカにまた朝が来た。レーガン大統領のリーダシップのもと、私達の国は、より誇り高く、より強く、よりよいものになっている。誰が4年前に戻りたいだろうか?

なぜ、この映像が「アメリカの選挙キャンペーン史上に残る名作(マスターピース)」と呼ばれるのだろうか。New-York Historical Societyが過去の大統領選で製作されたキャンペーン映像のなかでも、最も影響力のあったものを年代順にショーケースしている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KY1QgFEnijg]
政治メッセージ映像:ベスト9

ここで取りあげられている映像は以下の9本である。

1952   ドワイト・D・アイゼンハワー   「I Like Ike」
1960   ジョン・F・ケネディ 「Kennedy For Me」
1964   リンドン・ジョンソン 「Daisy」
1968   リチャード・ニクソン 「Crime」
1984   ロナルド・レーガン 「Morning in America」
1988   ジョージ・H・W・ブッシュ 「Revolving Door」
1992   ビル・クリントン 「The Man From Hope」
2004   ジョージ・W・ブッシュ 「Windsurfing」
2008   バラク・オバマ 「Yes We Can」

特にレーガンの「Morning in America」以前と以後では、ブッシュ親子以外、まったくアプローチが変わったのが明らかだ。名前を連呼することに終始しているアイゼンハワーとケネディの時代から、ネガティブなイメージで感情を揺さぶろうとする冷戦の時代を経て、レーガンの楽観主義と希望に満ちたメッセージ/スタイルが登場している。もちろん、各候補者は、敵対候補者に対してネガティブ・キャンペーンも同時に行っているが、それらは人々の記憶に残らない。それぞれの大統領が発したメッセージとして、これらのインパクトの大きな映像が人々の記憶に係留しているのだ。この流れを見ると、「Morning in America」が極めて先駆的なゲームチェンジャーだったことがわかる。

いったい、どのような経緯で「Morning in America」の映像ができあがったのだろうか。

Tuesday Team Inc.

ここでは、レーガン政権の歴史については割愛したい。ただ、選挙の前年の1983年1月においては、レーガンの支持率は38%にまで下がっていた点を強調しておきたい[1]。その後、支持率は回復したものの、決して楽観視できる状態ではなかった。

レーガン陣営が選挙キャンペーンを開始してまもなく、ホワイトハウスの副主席補佐官だったマイケル・K・ディヴァーが、当時ニューヨークの広告業界で最も注目を集めていたジェリー・デラ・ファミナに接触する。ファミナには、「From Those Wonderful Folks Who Gave You Pearl Harbor: Front-Line Dispatches from the Advertising War」という広告業界の内情を描いた著作があるが、この本がテレビ・シリーズ「マッドメン(Mad Men, 2007 – 2015)」のインスピレーションになった。1960年代にニューヨークのマディソン・アヴェニューで起きた<広告業界の革命>の申し子と言ってもよいだろう。だが、ホワイトハウスとファミナはそりが合わなかった。

そのファミナが推薦したのが、彼の広告代理店のCEOであるジェームス・D・トラヴィスだった[2]。トラヴィスが中心となって、レーガン陣営のキャンペーンのメディア戦略を企画・実行するためだけに<Tuesday Team Inc.>という会社が設立される。選挙とともに解散するこの会社に、普段は競争相手同士で睨み合っている広告マンのエリートが集められた。B. B. D. O.のフィリップ・D・デューゼンベリーという当時のアメリカの広告業界の「巨人」もチームに参加にしている[3]。この<Tuesday Team Inc.>のメンバーの一人が オグルヴィ・アンド・メイザー社サンフランシスコ支店の名コピーライター、ハル・リニー(Hal Riney)だった。

ニューヨーク・タイムズに<センチメンタルの名人>と評されたハル・リニーは、独特のスタイルを持っていた[4]。いわゆる<アメリカーナ>のイメージを基盤にして、アメリカの一般人の皮膚感覚に訴えかけるアプローチが秀逸だった。彼が作り出した有名なキャンペーンには、ヘンリー・ワインハードのプライベート・リザーブ・ビールのシリーズガロの<バートルズ&ジェイムズ>ワインクーラーのシリーズ、後年になってGMのブランド、サターンの一連のコマーシャルなどがある。これらのコマーシャルでは、ハル・リニー自身がナレーションを担当していた。彼の優しく、まろやかな声が、極めて効果的なのだ。出世作となったサンフランシスコのクロッカー銀行のコマーシャル(1970)には、彼の<センチメンタリティ>が実によく現れている。これは、クロッカー銀行が、若い世代に向けたマーケティングを展開しようとしていた時に製作された。このCMを見たカーペンターズのリチャード・カーペンターがこの曲を気に入り、「愛のプレリュード」として録音してヒットさせた話は有名である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=97X9huy7pHQ]

このCMは大成功だった。若いカップルがクロッカー銀行を訪ねてくるようになったのだ。しかし、彼らは投資の資金も、ローンの抵当も何も持っていない。銀行にとってはキャンペーンは失敗だった。失敗に気づいたクロッカー銀行はキャンペーンを打ち切ったという。コマーシャルは成功し、ビジネスが失敗した好例とも言える。

この頃は反体制のピークだった。人々は体制と呼ばれるもの ─── 結婚、真摯な関係、労働 ─── に反抗していた。しかし、60年代の世代だって他の人たちと同じような望みを持っているはずだ。

Hal Riney

彼は、ベビー・ブーマーも結局は<ウェディング>や<二人の家>には弱いと信じていた。それが見事に当たったのだ。

TVコマーシャルを作る時に、ハル・リニーがよく組んでいたのが、監督のジョー・ピトカ(Joe Pytka)である。多くの映画ファンには、ほとんど誰もが凡作と罵しる『のるかそるか(Let It Ride, 1990)』の監督くらいのイメージしかないかもしれないが、ピトカは広告業界ではほとんど神と崇められるほどの存在だ。彼は数多くのTVコマーシャルを担当し、カンヌ・ライオンズでも数多く受賞している。また、ピトカはマイケル・ジャクソンの「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」「ダーティ・ダイアナ」、ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」のMVを担当したことでも知られる。彼のCMのなかでも最も有名なのが、ペプシの「考古学」であろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Kf1A8Ukk5Us]

ブリトニー・スピアーズを起用したペプシのCMも彼の監督作である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=3Yarv7_iFX4]

そんな彼らの<作品>のなかでも「Morning in America」は出色の出来である。もちろん、ナレーションもハル・リニーによるものである。

内容のないスタイルだけの映像

この映像の与えた衝撃(インパクト)とはどんなものだったのだろうか。

これらのコマーシャルは、それ以前のどの大統領選のものよりも遥かに強烈に、内容よりも情感や好感を強調したという点において、特筆すべきものである。

Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture [5]

レーガンのキャンペーンの戦略は、最初から「問題を議論しない」だった。公職をめぐる選挙戦では、問題をいかにして解決するかを提示するのが、候補者の最低限の役割であろう。しかし、そのアプローチを最初から放棄したのである。

(マイケル・ディーヴァーと)大統領首席補佐官のジェームズ・ベーカーは、この春には(大統領選の戦略として)個々の問題よりも広いテーマを強調し、レーガンの政策の詳細について守りに入るよりも愛国心と豊かさのフィーリングを演出すると決めていた。

James Kelly [6]

しかも、この<演出>が最優先事項となり、テレビでレーガンの集会の様子が放映されても「キャンペーン・コマーシャルなのか、それともニュースの映像なのか」判断がつかない。レーガンが登場する場面は、どんな場合でも、コマーシャルと同じくらい細部にわたり演出されており、コーラやクッキーのコマーシャルにしか使われないようなテクニックが、あらゆる局面で使われていた[6]

「Morning in America」を見てみると、まさしく個々のアジェンダについて、これからの4年間どうするのかということはなにも(・・・)言っていない。4年前に比べると良くなった、という催眠術を有権者にかけているようなCMである。映像にいたっては、ナレーションの内容にかろうじて引っかかっているだけで、実質はホールマークのCMと大差ない。だが、つぶさに見ると、実は極めて精緻に計算されていることが分かる。例えば、ウェディングのシーンは、ハル・リニーがこの14年前に製作したクロッカー銀行のCMと瓜二つである。どちらも花嫁が焦点になっており、その花嫁が母親とハグするというところまでなぞっている。クロッカー銀行のCMが若い世代に「銀行に行けば、なにか良いことがあるかもしれない」と行動を起こさせるほどのインパクトがあったという経験をもとに、若い有権者にも行動を起こさせよう(選挙に行かせよう)としているのは明らかだ。

このハグしている花嫁と母親の白い影がそのままアメリカの国会議事堂の白いシルエットに重ねられる。極めて自然に「親子の慈しみ」から「国政」に移行する。実はこの名作(マスターピース)は、後半の3分の1にわたってアメリカの国旗しか登場しない。延々と国旗が掲揚されて、最後にレーガン大統領のポートレートと国旗につながって終わる。「レーガン大統領のリーダシップのもと」で国旗が掲揚され(音楽も少しトーンを変える)、「より誇り高く(Prouder)」で国旗を見上げる少年を、「より強く(Stronger)」で腕っぷしの強そうな男性を、「よりよい(Better)」で高齢者を映し出す。カーペンターズの感傷に浸ったまま、愛国が語られる。本当に有権者に対して効果があったのかどうかは不明だが、少なくともタカ派の軍備増強計画を綿あめに包んで映像にする方法が確立されたと言えよう。

このノーマン・ロックウェルの80年代版のような世界は、その後しばらくアメリカの映像の想像力を支配していたが、郊外の多様化や産業構造の変化によって、今となってはニューアーバニズムのようなかたちでしか想起できないのではないだろうか。

Prouder, Stronger, Better (Morning in America)

脚本:ハル・リニー
監督:ジョー・ピトカ
ナレーション:ハル・リニー
1984

References

[1]^ “Reagan Popularity Slips in Poll,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 2, Jan. 13, 1983.

[2]^ W. Grimes, “James D. Travis, Whose TV Ad Helped Re-elect Reagan, Dies at 83,” The New York Times, May 12, 2016.

[3]^ D. Clendinen, “Reagan Advertising Team Is Formed,” The New York Times, p. 7, Mar. 30, 1984.

[4]^ A. Kleiner, “Master of the Sentimental Sell,” The New York Times, Dec. 14, 1986.

[5]^ B. Cogan and T. Kelso, Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture. ABC-CLIO, 2009.

[6]^ J. Kelly, “Packaging the Presidency: How to coordinate campaigning and commercials,” Times, vol. 124, no. 20, p. 36, Nov. 12, 1984.