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| 「大暴風」 |
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| 「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1914)」 左がアルウィン・ノイシュ |
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| F・W・ムルナウの「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf, 1920)」 中央がコンラート・ファイト、 右は(ハリウッドでドラキュラになる前の)ベラ・ルゴジ |
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| 「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」 |
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| ピーター・ローレ監督・主演「失われた男(Der Verlorene, 1951)」 美術:フランツ・シュレーター |
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| 「大暴風」 |
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| 「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1914)」 左がアルウィン・ノイシュ |
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| F・W・ムルナウの「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf, 1920)」 中央がコンラート・ファイト、 右は(ハリウッドでドラキュラになる前の)ベラ・ルゴジ |
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| 「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」 |
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| ピーター・ローレ監督・主演「失われた男(Der Verlorene, 1951)」 美術:フランツ・シュレーター |
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| 「大暴風」 |
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| 「他の男とは違った男(1919)」 ラインホルト・シュンツェルとコンラート・ファイト |
| 「この世の天国(1927)」 女装をしているのがシュンツェル |
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| ヒッチコックの「汚名(1946)」 アンダーソン博士を演じるラインホルト・シュンツェル |
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| 「沈黙の塔」 |
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| 「沈黙の塔」ゼニア・デズニ |
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| 「スピオーネ」公開時のウーファ・パラスト劇場装飾デザイン |
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| フリッツ・ラング監督「月世界の女」公開時の ウーファ・パラスト劇場内の装飾 (ルディ・フェルド) |
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| パラマウント映画「つばさ」公開時のウーファ・パラスト劇場 (ルディ・フェルド) |
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| ウーファ・パラスト劇場での 「サム・ウディングとチョコレート・キディズ・オーケストラ」のショー 舞台装飾はルディ・フェルド(1928) |
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| ルディ・フェルドがプロダクション・デザインで関わった フィルム・ノワールの傑作「ビッグ・コンボ(1955)」 |
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| 「沈黙の塔」 |
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| 「支配者(1937)」 |
| 「フレデリック大帝」 |
また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。
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| フレデリック大帝(1921-22) |
アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy
オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena
ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber
アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge
クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH
UFA 配給
Universum Film (UFA)
これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。
第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)
第二部 父と息子 (Vater und Sohn)
第三部 サンスーシ (Sanssouci)
第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)
この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。
ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。
しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。
この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。
「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、
この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。
Hans Feld
結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。
(1)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”
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これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。
| 敷香の町並み(Wikipedia) |
敷香はシクカ、もしくはシスカと發音する。日本最北端の國境にちかい街で、例の岡田嘉子越境事件で有名な處です。
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| 音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002)) |
2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。
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| 晩年のパウル・フェヨス |
晩年のパウル・フェヨスは、ヴァイキング財団、のちのヴェナー゠グレン財団の理事長として、考古学を主とする科学全般の研究支援をし続けました。1950年代には、考古学や文化人類学が活発になり、財団は以前にも増して創造性のある研究をサポートしています。
パウル・フェヨスは戦前にハンガリーに立ち寄ったのを最後に、祖国の土を踏むことはありませんでした。生涯を通して慕っていた母親にも会うことができず、母親の訃報を聞いて、非常に強いショックを受けたといわれています。彼は1963年4月23日に亡くなりました。
パウル・フェヨスについて、ひとつ言えることは、彼はどこに行ってもそこで才能を開花させていますが、同時に常にアウトサイダーだったことです。ニューヨークにたどり着いたときには、まったく無知な外国人。ハリウッドで一流監督になったときも、いわゆるハリウッド映画監督とは、モチベーションも、目的も、感性もあまりに違う。人類学も、正規の教育を受けておらず、ドキュメンタリー映画と言うからめ手から入ってきた。そういう「亜流の眼」だからこそ、達成できたことも多かったと思います。彼はその分野の人たちが見落としていること、当たり前だと思っていること、をもう一度自分の目で見直すのです。学者としての成功とか、学会での評価などは、さして気にすることなく、むしろ自分のしていることが自分が理想としているレベルよりも低いことに、つねにフラストレーションを感じていたのです。特に彼が文化人類学の研究において、全くの素人にもかかわらず業績を残せたのは、研究の対象としている民族、原住民に対して、対等の人間として接しているからだと思います。これは彼がニューヨークやハリウッドで、底辺で暮らし、そこで人間としての威厳を失うことなく生き抜いてきたからでしょう。彼は決して西欧の科学や知が、優れているとは思っていませんでした。特に西欧人の無知を、自分が無知であることを知らない、その無知を嘆いていました。彼は自分を医者だとは思っていませんでしたが、常に最先端の医学について論文を読み、旅先で医師として治療にあたることもありましたが、こんなことを言っています。
ニューギニアから、パプア人がニューヨークにやってきたとしましょう。彼らは自分たちとさして違わない人々を見て驚くのではないでしょうか。特に科学と言う魔術によって支配されている人々を。医者に行って、レントゲンを撮ってもらう。患者はレントゲンの装置がどう動くのかも、X線についても何も知らない。レントゲン写真を見てもどう診ればいいのかわからない。けれど、呪術を使いこなす医者という人物のいうことを信じて治療を受けるのです。テレビで言っていることの90%は魔術でしょう。なんだか科学的な名称がついていれば、みんな効果があると信じてしまう。
Paul Fejos
インドネシアのスンバワ島で調査していたときのことです。ドドンゴの村の呪術師(医師、シャーマン)は、パウル・フェヨスにとって重要な情報源でもあり、同じ医師同士という友人でした。パウルは、彼の治療法や薬草について教えてもらい、彼が医術についてたずねてきたときには助言をしたりしていました。時にはパウルが持っている薬、-ドイツのバイエル社のものですーを分けてあげることもありました。バイエル社の薬には、トレードマークの円に囲まれた大文字のBが印刷されています。呪術師の彼は、パウルの魔術の力とそのトレードマークが深い関係にあるのだと信じるようになりました(その通りですが)。数ヶ月たった後、その呪術師は、パウルに正式に申し入れをしてきました。彼らは非常に厳しく自分たちを律しています。そのルールに従って、正式に「そのマークを使わせてもらいたい」と申し入れてきたのです。パウルは「バイエル社の承諾なく、倫理的には問題がある行動だったが」、そのトレードマークを使うことを了承します。呪術師は大きな円に囲まれた「B」のトレードマークを胸に刺青し、彼の治癒能力はいっそう高まったのです。
このことは、私たちにもそのまま当てはまります。医学の研究者たちでさえ、効能のメカニズムを完全に把握できていないけれど効果のある薬や治療法を、ましてや一般人の我々は、「有名な医者が言うから」「話題になっているから」「テレビで言っていたから」信じて受け入れています。医術だけではありません。リンゴのマークがついているアップル社の製品だから、品質がいいと思い、旅行先で偽物だってつかまされかねない。東京大学の教授の言うことに間違いはなく、成功したビジネスマンの言っていることは、ためになると思っている。そのことをパウルは見抜いていたし、だからといってそれを愚かなことだとは思っていない。むしろ人間とはそういうものだと思っていたのでしょう。彼は自分たちの文明はそういう迷信や迷妄から解放されていると勘違いすることを諌めていたのだと思います。
そういう眼でもう一度彼の映画を見直すと、今までとはもっと違うことを感じるかもしれません。
The Several Lives of Paul Fejos, John W. Dodds, The Wenner-Gren Foundation, 1973
”Image” On the Art and Evolution of the Film, Ed. Marshall Deutelbaum, Dover, 1979
Hollywood Destinies, Graham Petrie, Routledge & Kegan Paul, 1985
Lonesome, Bluray, The Criterion Collection, 2012