[「疲労困憊の3D映画」シリーズの続きです]
1920年代の3D映画
3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。
疲労困憊の3D映画(3)
疲労困憊の3D映画(2)
疲労困憊の3D映画(1)
3D映画の伸び悩み
今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。
戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)
Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の
「T-Men」と「Raw
Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明
によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、
それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。
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| アーサー・クリム |
Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination
Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。
し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。
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| 左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領 |
るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of
Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、
今は全世界に彼のファンがいます。
戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)
最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と
言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。
「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He
Walked By
Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。
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| Vera Caspary 「ローラ殺人事件」の原作者 イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた |
ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア
にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・
マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon
City」、「He Walked By
Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]
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| ジョン・ロッセーリ |
By
Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ
ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。
Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。
(第3部に続く)
[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。
[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, “Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death”, Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。
戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(1)
1946年、イギリスの実業家で映画製作者、J・アーサー・ランクと、アメリカの鉄道王、ロバート・R・ヤングが、手を組んで事業に乗り出します。彼らはイーグル・ライオン・フィルムズという映画会社を設立します。そのトップに弁護士のアーサー・クリムをすえ、ワーナー・ブラザーズからブライアン・フォイをプロデューサーとして迎えました。この会社は、映画の未来を見すえようとしていました。しかし、あやふやな基盤と少し早すぎたヴィジョン、何よりも市場の動きを見誤って、4年目には消滅していました。
戦時中、この二人の実業家は、戦争が終わった後のことを考えていました。イギリスのランクは、戦争が終われば、兵士達が帰国し、さらに映画産業が拡大すると予想していました[1]。彼はその機会を逃さず、特に同じ英語圏であるアメリカでの市場を獲得するために、アメリカの映画会社と交渉を重ねます。彼が製作したイギリス映画をアメリカ国内で配給するためです [2]。しかし、MGMやパラマウントといったメジャーには相手にされず、独立系のユナイテッドと交渉を繰り返したものの、メアリー・ピックフォードやチャールズ・チャップリンとのやり取りはひどいありさまでした。結局、彼はさらにその下のランクの映画会社、Poverty Rowと呼ばれるB級映画会社をパートナーとして探すしかなかったのです。
一方でヤングは、戦争が終われば旅行産業がブームになるだろうと考えていました。戦時中はアメリカ国内での旅行が制限されていたため、観光産業は縮小していたのです。戦後の旅行ブームのときにぼやぼやしていると、市場を航空産業に取られてしまう。そう考えた彼は、長距離鉄道事業への投資を始めます。その事業展開のひとつに、長い旅行の間のアトラクションとして映画上映を考えていたようです。そして映画プリントを扱う会社 ーパテ現像所ー を買収します。ところが、取引先のある映画スタジオが現像代を払えなくなり、そのままスタジオごとヤングが買い上げることになります。他のPoverty Rowの会社からさえ「腐ったゴミ」と呼ばれたPoverty Rowの最下層、PRCです [3]。
ランクとヤングは、英国産映画をアメリカ国内で配給する会社としてイーグル・ライオン・フィルムズを興します。一方でPRCの設備を使って映画製作をすることにも乗り出したのです。
イーグル・ライオンのトップに就任したアーサー・クリムは、もともとは映画スタジオをクライアントに持つ有名な弁護士事務所のパートナーでした。彼は当時のハリウッドが独占禁止法に抵触したビジネスをしていることを、長い経験から知っていました。また、ハリウッドの金の流れにも通じており、ビジネスの側面については裏まで知り尽くしていた男です。独占禁止法違反として、1940年にメジャー5社に対して出された判決は、他の中小のスタジオが公平な配給を受けられるようになる道筋となるはずでした。しかし、メジャーはのらりくらりとして、判決に従いません。1945年に更なる独占禁止法違反でハリウッド映画会社8社が訴えられます。クリムはまさにこのタイミングで映画スタジオと配給の会社を任されるのです。彼は、国の判決でメジャー8社が映画館チェーンを切り離さざるを得なくなれば、独立系の製作会社にも有利な配給ができるようになると思っていました。
1946年から製作に着手したイーグル・ライオンでは、ヤングが準備した1200万ドルを元手に6作品を手がけます。そのどれも100万ドル以上の製作費をかけて、メジャーの配給チェーン、すなわち封切りの一番館に配給できるように狙っていました。映画のクオリティを引き上げれば、必ずチャンスはあると考えていたのです。
イーグル・ライオンが当てにしていた目論見は外れるばかりでした。戦後、アメリカ国内での映画の興行成績は無残な状態に陥ったのです。兵士達は帰還しました。しかし、彼らは家庭を持ち、子供が産まれ、夜に映画を行くよりも、家でラジオを聴くようになっていたのです。また、GIビルという制度で、多くの帰還兵は大学に入学、出費を抑えるためにも、映画館から足は遠のいてしまったのです。
映画の配給も、メジャー各社は心を入れ替えようとはしません。実質的なブロック・ブッキングは続き、「クオリティが低い」とPoverty Rowの作品は買い叩かれるか、2番館、3番館でしか興行できない状態が続きます。おまけにメジャー各社がBユニットで2本立て興行の添え物も製作する体制が出来上がり、ハリウッド全体が完全な供給過剰に陥っていたのです。1946-47年のシーズンは、イーグル・ライオンは大幅な赤字に転落、戦略の転換を余儀なくされます。自社での製作はやめ、独立プロデューサーに資金の一部を調達、その配給権を得るというビジネスにするのです。このシステムで、ブライアン・フォイ、エドワード・スモール、ウォルター・ワンガーといった、メジャーから独立したプロデューサーたちがイーグル・ライオンで映画製作をすることになります。そして、大幅に削減された予算のもとで、一連のフィルム・ノワールの作品が誕生します。
(第2部につづく)
《注》
[1]J・アーサー・ランクは1944年にイーグル・ライオン配給会社を設立し、世界中に配給網を拡大することに乗り出します。そして、戦時中にもかかわらず、デンマーク、 オランダ、フィンランド、スェーデン、チェコスロバキア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、シリア、パレスチナ、アビッシニア、インド、シンガポールなどに支社を設立しました。(Geoffry Macnab, “J. Arthur Rank and the British Film Industry”, p.80 [1993] )
[2] J・アーサー・ランクが製作した主要作品リスト
老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)
ヘンリー五世(Henry V, 1944)
天国への階段(The Matter of Life and Death, 1945)
黒水仙(Black Narcissus, 1947)
赤い靴(The Red Shoes, 1948)
[3] PRCが製作した主要作品リスト
The Devil Bat, 1940
コレヒドール(Cooregidor, 1943)
Nabonga, 1943
まわり道(Detour, 1945)
カメラが多すぎる
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| SRV Dominator ディスカバリーチャンネルの「Storm Chaser」にも登場した装甲車 (Wikipediaより) |
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Q7X3fyId2U0]
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJPGuMfnty4]
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WhQySxqSANU]
この映画はアメリカではすこぶる評判が悪い(Rotten TomatoのTomatometerは21%)。理解できる。彼らにとっては、トルネードの驚異/脅威はわざわざVFXで見直さないといけないものではない。ましてリアリティTVやYouTubeに氾濫する映像の「不完全さ」が、それを真似しきれないハリウッド映画をあざ笑っているように思える。
フィルムに写った空は曇っていた
(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)
透明で無形な媒介














