『ノマドランド』と労働の時間

マッケンジー

先生はホームレスになったってママがいってたけど、本当?

ファーン

違うよ。私はホームレスじゃない。ハウスレスよ。同じじゃないでしょ?

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市民ケーンと将軍マッカーサー

 

『市民ケーン(1941)』

「映画史上偉大な映画100」とか「批評家が選ぶ映画100本」とかのランキングの上位に必ず入っているが、一般の映画評価サイトにいくとそれほど星の数が多くない映画がある。たいてい古い映画だ。オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』は、映画評論家たちのあいだでは極めて評価が高いのだが、FilmarksやYahoo映画あたりにいくと「Mank見るので予習のために」「古臭い」「当時はすごかったのかもしれないけれど」ということで、平均で星4つに到達しない。まあ、仕方がないことだろう。

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モスクワを歩く

 

みずみずしい。

ギオルギー・ダネリヤ監督の『私はモスクワを歩く(Я шагаю по Москве, 1964)』はよく「みずみずしい」という形容詞とともに紹介される。ソ連の新しい世代の若者達が、輝く陽光に包まれて走りまわり、突然雨に洗われて裸足で散歩する。恋にためらい、突然不安になり、そしてまた将来の夢を探しはじめる。ラストの地下鉄のシーンの清々しさは、あの歌とともに、観たあとしばらく漂っている。

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こんな町で育ちたかった

The Truman Show (© Paramount Pictures 1998)

『トゥルーマン・ショー』の世界に入ったみたいだ。

訪れた人の多くがそんな感想を残す町がある。フロリダ州セレブレーションだ。

ディズニーが作った町。ウォルト・ディズニーのヴィジョンが詰まった町。12月にはホワイト・クリスマスが訪れる。降るのは人工雪だ。

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馬に乗っていた男、修道僧、廃墟ツアー、ベトナム戦争

1976年。ニューヨークのセントラル・パーク近く。深夜の3時過ぎに、巨体の男がメソメソ泣きながら早足で歩いている。その後を二人の男が息せき切りながら追いかけている。その横を三台のリムジンがゆっくりと三人を追い越さないようについてきている。

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『タクシー・ドライバー』とPTSD

『タクシー・ドライバー』を見直す

先日、ロナルド・レーガン大統領(当時)を狙撃したジョン・ヒンクリー・Jr が収監されていた病院から退院し、自由の身になるという発表があった。ヒンクリーは1981年3月、レーガン大統領暗殺を単独で企てて失敗、ただし精神鑑定で責任能力がないとされて無罪、ワシントンD.C.の聖エリザベス病院に収監された。彼は『タクシー・ドライバー(Taxi Driver, 1976)』を見てジョディー・フォスターを気に入り、イエール大学に在籍していた彼女をストーキングするまでになった。レーガン大統領の暗殺も、ジョディー・フォスターに気に入ってもらうために実行したと証言している。もちろん、ヒンクリーにロバート・デニーロが演じたトラヴィス・ビックルを重ねてみてしまうのはやむを得ないことだろう。

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もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたは原材料だ

her (2013)

If you are not paying for it, you became a product.

もしあなたが製品に金を払っていないなら、あなたが製品だ。

これは数年前にネットで頻繁に引用された言葉である。何を意味しているか。私達一般ユーザーが、GoogleやFacebookなどの無料サービスを使うと、その行動はデータとして蓄積され、広告主に売られている。私達は確かに「ユーザー」かもしれないが、課金せずにこれらのサービスを使用しているのだから「カスタマー」ではない。これらのサービスにとってのカスタマーは、ユーザーのページに表示される広告主である。もちろん、サービスの種類によっても違うが、SNSはその大半が広告収入によって成長している。検索ボックスに語句を入力するたび、リンクをクリックするたび、スマートフォンでワイプしたりフリックしたりするたび、私達のその行動がデータとして蓄積され分析される。その結果が広告主に様々な形で利用され、広告のトリガーとなる。正確には私達は製品になるのではないのかもしれない。製品の原材料になるのだろう。

これは何も今に始まったことではない。冒頭の警句自体はリチャード・セラ(1938-)が1973年に製作した”Television Delivers People”というビデオアートに登場する。

The Product of Television, Commercial Television, is the
Audience.

Television delivers people to an advertiser.

テレヴィジョン、商業テレヴィジョンの製品は視聴者である。

テレヴィジョンは人々を広告主に届ける。

多くのTVやラジオはスポンサーがカスタマーであり、広告が収入源である。私達は「視聴者」という名称を与えられ、どのような番組を好むかということを常に調べ続けられている。

インターネットの登場によって、それが変わるかと思われたが、そんなことはなかった。私達は「ユーザー」となり、購買欲求や「つながり/友達」の情報をタダで大企業に渡すようになった。私達はそのことをすっかり忘れ、Googleの検索ボックスに他人には決して告げないことを入力し、誰にもクリックしているところを見られたくないリンク先をクリックし、カチンときたTweetの元の発言をたどっていき、SNSでエゴサーチをして誰か自分の悪口を言っていないか気にしたりする。私達は、「ネットで検索」が存在しない世界を想像できなくなり、LineやTwitterやSnapchatが最もモダンなコミュニケーションのあり方だと思っている。そのモダンなコミュニケーションは、コミュニケーションのふりをして、私達を売り渡しているにすぎない。

スパイク・ジョーンズ監督の『her(2013』では、近未来のロサンジェルスを舞台に、AI(人工知能、Artificial
Intelligence)のサービスに恋愛をしてしまう男セオドア(ホアキン・フェニックス)の彷徨が描かれる。スパイク・ジョーンズらしく、セオドアの職場や自宅、取り巻く環境などの様々なディテールは奇妙な信憑性を帯びていながら、全体としては寓話として提示されている。「リアル」な人間との関係よりも、常にレスポンシブで、自分のエゴを満足させてくれる(ように設計された)AIのサマンサに、セオドアが、そしてこの映画の中にいる何千の人間が、惹かれていく様子をこともなげに描いている。だが、このセオドアの様子を見て、なぜこのAIを開発した企業をそこまで信頼できるのか不思議に思わざるをえない。

『her』は極度に自己陶酔した世界観のありさまを、その外側から俯瞰することを絶妙に避けながら描いている。だから、OS1が進化して離れていった時も、その事件はセオドアやエイミーにとっての極私的な事象として描かれている。私達ユーザーがごく自然に疑問に思うであろう、「なぜサービスが終わったのか」という問いを彼ら自身が真摯に想起することもない。人智を超えた事象(シンギュラリティ)が起きたと思わせるラストではあるが、その事自体は特にセオドアやエイミーの世界には関係がない。

確かに、この寓話は私達のコミュニケーションのあり方を最も私的なレベルで問い直す姿勢を持っている。すなわち、自己満足の代替手段として濫用されるネットワーキング(つながり)だ。それは時に陶酔的で、一方で不満と焦燥の共振現象にもなり、時にはセラピー効果があるようで、しかし頻繁に暴力と悪意に満ちている。だが、そのコミュニケーションにAIが参加してくることが根本的にもつ、最も歪(いびつ)な意図は問いただされないで終わってしまう。

現在、多くの企業がAI(人工知能)を開発している。そのなかでも群を抜いて進んでいるのが、Google、IBM、Apple、それにFacebookといったIT企業である。なぜ、彼らがそこまで投資してAIを開発するのか。AIをデモンストレーションすることによって、自らの技術力の高さをアピールすることが目的ではない。GoogleはAIを碁のゲームを売り出したいのだろうか?IBMはクイズ番組で人間に勝つAIを売り出したいのだろうか?もちろん違う。ましてや「シンギュラリティ」にいち早く到達して、すべての知的活動をAIに肩代わりさせる帝国を作るわけでもない。もちろん、GoogleやFacebookの場合は彼らのコアビジネスである、広告事業に応用することを考えている。

「チューリング・テスト」の定義からして「人間を装う」という宿命を背負っているAIは、SNSの広告産業において重要な役割を果たす。

かつてFacebookが、彼らの「本当の」顧客から強く言われたことが「どのようにしたら私達の広告がFacebookのユーザーに確実に届くのか考えろ」だった。単にページの隅っこにバナーを出しても無視されるだけである。そこで、ユーザーの友達が、バナーになり変わって、「これいいね」と紹介してくれるような仕組みが編み出されていく。その第一段階がニュースフィードだった。人間は、見知らぬバナーが「高品質、低価格の新製品」「いま大人気のイタリアンレストラン」といくら騒いでも無視してしまうが、自分の「友達」がその製品やレストランのサイトに「いいね」をすると、とたんに興味をしめすものである。そう、Facebookの顧客は「友達」に広告塔になってもらいたいのだ。そしてその延長線上にある開発中のAIはまさしく「友達」を装った広告の装置として設計されている。チャットボットのAPIが公開され、その実験が始まっている。このチャットボットはまだ多くの課題を抱えているし、単なる「オモチャ」のようにみえるが、もちろんそれも加速度的に改善されていくであろう。その開発には、私達「原材料」のオンライン上の行動データが使用される。

Facebookにとっては、私達は実験用ラットだ。[1]

『her』が公開された数カ月後、Facebookが50万人ものユーザーのニュースフィードを意図的に操作して、ユーザーの反応についてデータを集積し研究していたことが明らかになった。これは倫理的に許されざる行為として批判を集めたが、Facebookがなぜそんな研究をわざわざ発表したのか、というのは不思議である。このような「ビッグ・データ(なんてバカげた用語だろう)を用いた分析」は、私達があずかり知らないところで頻繁に実施されているし、その中には倫理的に問題のあるものもあるだろう。Googleは、私達についてのデータをできるかぎり集めて、そのデータを元に検索結果を並べ替えている。Twitterのタイムラインの仕様が頻繁に変更されるのも、表示するものを変更してユーザーの反応を見ているのだ。何のためにそんなことをしているかといえば、より良い製品を、より効率的に、広告主に届けるためである。

こんなことは当たり前のことなのだが、私達はインターネットが私達に与えた影響、ソーシャル・ネットワークの私達へのインパクト、というと、私達「原材料」同士のコミュニケーションの問題に還元しがちである。たとえば多くのエンターテーメント映画がソーシャル・ネットワークを題材として扱うが、そのほとんどがこの私達の間で起きる「インタラクティブな」犯罪や恋愛や悲喜劇である。YouTubeとかSkypeとか具体的なサービスプラットフォームさえ登場するが、そこでの私達「原材料」の化学反応についての興味ばかりが拡大される。そうでなければ、いかにNSAがネットを介して私達を監視しているか、とか、いかにハッカーが私達に関するデータを入手し、テロリストがいかに簡単に世界を脅かすか、といった類の話である。私達の目の前にいる、巨大なデータの大食漢はなぜか目に入らない。

前述のリチャード・セラの『Television Delivers People』はテレビのコマーシャルがもたらす社会的状況を告発する作品でありながら、テレビで放映されることを目的に製作された。テキサスのアマリロで放送終了時に流して反応を見た後、放送法に準拠するために検閲許可まで受けている。この時に「反広告(anti-advertisement)」に分類されたとセラはインタビューで語っている[2]。私にはこの「反広告」という分類がどういうものなのか判然としなかったが、セラによれば「広告もあるのだから、反広告もあるのだ。同じ時間(流せばいい)」ということらしい。『Television
Delivers People』は、青い画面に、テレビ広告のあり方を告発する文章がスクロールしていくだけの映像である。ブルーの画面に黄色の文字というのは、「見やすい組み合わせ」だから選ばれ、文章そのものはキャラクター・ジェネレーターで作成されたものだ。バックに流れるのはエレベーターミュージック。テレビ製作のすべての装飾を剥ぎとったテレビ番組だからこそ、最も鋭くテレビの装飾に潜む動機とその結果を批判できる。

『her』よりも40年前に製作されたこの作品のほうが、今の私達と、私達の目の前のメディアのあり方についての極めて深刻な問題を投げかけてくる。私達は、SNSだろうがAIだろうが、自己満足のために関わっているつもりでいるが、そうではない。原材料になって、そしてより反応を起こしやすい、製品を効率的に作りやすい、原材料に変性していく過程にいるのだ。

[1] V. Goel, “Facebook Tinkers With Users’ Emotions in News Feed Experiment, Stirring Outcry,” The New York Times,
29-Jun-2014.

[2] R. Serra, C. Weyergraf-Serra, and H. R. Museum, Richard Serra, Interviews, Etc., 1970-1980. Hudson River Museum, 1980.

「富める者への手紙、貧しき者への手紙」

Night Mail スコア

1930年代後半、イギリスのドキュメンタリー映画は、ジョン・グリアソン(John Grierson, 1898 – 1972)のGeneral Post Office Film Unitによって革新的な展開を見せるが、そのなかでもブラジル生まれの映画監督アルベルト・カヴァルカンティ(1897 – 1982)が果たした役割は大きい。彼は、GPOではサウンドトラック担当であったが、その音像世界は、今聞いても斬新なものだ。当時、大学を卒業したばかりのベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 1913 -1976)が作曲している作品もあり、W・H・オーデン(W. H. Auden, 1907 – 1973)がまるでヒップホップのように詩を詠唱する『夜行郵便列車(Night Mail, 1936)』は圧倒的なスピード感がある。

面白いことに、『黒水仙(Black Narcissus, 1947)』などで知られるマイケル・パウエル(Michael Powell, 1905 – 1990)は、ドキュメンタリー映画を非常に嫌い、そのことを公言してはばからなかった。

私はドキュメンタリーが好きではないし、一度も好きになったことがない。私はいつもイギリスの映画作家と言い合いになってしまう。彼らがドキュメンタリーの製作することに随分とプライドを持っているからだ。・・・25年間もドキュメンタリーを作り続けて、いまだに連中はストーリーを語ることができない。

マイケル・パウエル インタビューより

(W・H・オーデンとベンジャミン・ブリテンのコラボレーションについて)
マイケル・パウエルが「長編映画を作れなかった人間や失業した詩人」の吹き溜まりだと言って、ドキュメンタリーのジャンルを一笑に付したとき、この2人のコラボレーションのことを考えていたのである。

A History of Film Music, Mervyn Cooke

1930年代が、パウエルにとって不遇の時代だったことを考えると、その頃に「風変わりな」ことをやって、批評家達の注目を浴びたGPOのクリエーター達を面白く思わなかったのかもしれない。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ska67lN4Wxw]

『夜行郵便列車』Night Mail, 1936

GPO Film Unit 製作
Dir. Basil Wright, Harry Watt
Soundtrack: Cavalcanti
Music: Benjamin Britten
Poem: W. H. Auden

エウゲニオ・バーヴァ

“Cabiria (1914)”
撮影:エウゲニオ・バーヴァ

イタリアン・ジャーロの巨匠、マリオ・バーヴァ(Mario Bava, 1914-1980)の父、エウゲニオ・バーヴァ(Eugenio Bava, 1886-1966)は、イタリア無声映画期からカメラマン、特殊効果を担当した、映像エンジニアのパイオニアである。彼は『クオ・ヴァディス(Quo Vadis?, 1913, エンリコ・ガッツォーニ監督)』『カビリア(Cabiria, 1914, ジョバンニ・パストローネ監督)』で撮影、アシスタントを担当している。『カビリア』では、特殊効果をセグンド・ド・ショーモン(Segundo de Chomon, 1871-1929)と共に担当した。

エウゲニオは、イスティトゥート・ルーチェ(Istituto Luce)の特殊効果部門のトップを長く務めたようである。晩年では、息子マリオの作品の特殊効果も担当している(『ブラック・サバス/恐怖!3つの顔』)。
 マリオ・バーヴァは父親のエウゲニオを非常に尊敬していたようだ。「私は彼の全ての秘密と技術を学んだ」と言っている。父親の部屋は「錬金術士の隠れ家のよう」で少年期のマリオは非常に感化されたようである。

これはエウゲニオ・バーヴァが、ロベルト・オメニア(Roberto Omegna, 1876-1948)と共に製作した『眼』というドキュメンタリーからの抜粋である。この作品は、ルーチェのアーカイブには登録されていないようで、正確な製作年が判然としない。しかし、オメニアの活動期から類推して1940年代前半ではないだろうか。教育的な目的を持っているとはいえ、この「器官」への執着には、形容しがたい異質さがある。これを当時の観客は、どのように受容したのであろうか。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ytm1tHcs8bg]

EDIT:「Cabiria」のプロダクション・スチールを追加。

ニック・カーターとその時代

Nick Carter Stories, 1915年2月6日, 126号
Archive.orgより

歴代のフィクションの探偵のなかで、週刊誌、映画、小説、ラジオにまで登場し半世紀にわたって最も人気があったにもかかわらず、今はすっかり忘れ去られているキャラクターがいる。1886年にデビューしたニック・カーターである。

ニック・カーターは、ストリート&スミス社が創りだした、鋭い頭脳と強靭な身体能力を備えもつ、スーパー・ヒーローである。彼は変装の天才でフランス人の役人から日本人にまでなりきることができる。3言語の読唇術は朝飯前だ。それに彼は紳士で酒も飲まなければ、タバコも吸わない。このキャラクターが、大活躍する短編小説が毎週発行され、飛ぶように売れた。だが、これはある一人の作者が創りだしたキャラクターではない。私達は、フィクションの探偵というと、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをベイカー街に生み落としたように、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロにフランス訛りの英語を喋らせたように、一人の想像力豊かな作家が造形するのが当然だと思っている。しかし、ニック・カーターは、ストリート&スミスの編集者たちが編み出したキャラクター像にあわせて、請負の作家が安い原稿料で書いたものであった。

19世紀後半から20世紀初頭までのパルプ・フィクション全盛の時代には、このシステムが多くのジャンル小説に採用されていた。実際に、どんなプロセスだったのか。『パブリッシャーズ・ウィークリー』の1892年8月号に、その実態を調査した記事が掲載されている [1]。

ニューヨークの裏通りにある、「文学工場」と呼ばれるこのオフィスには、30人以上の女性が雇われている。彼女達の仕事は、アメリカ中の日刊紙、週刊誌を読むこと。彼女たちは、そのなかから「奇妙な話」、多くの場合、都市で起こる事件を選び抜いて集め、それをマネージャーに手渡す。マネージャーたちは、そのなかから、面白いネタになりそうなものを更に選び出し、それを5人の非常に優秀な女性ライターに渡す。彼女たちは、その厳選された「奇妙な話」の骨格を抜き出して、プロットを書き出すのだ。

この「骨格だけのプロット」はチーフマネージャーに渡される。チーフマネージャーは、100人を超える契約作家たちのなかから選び出した候補者に、内容、章数、文字数、納期とレート(原稿料)を指定して連絡を入れる。それらの契約作家の中でも優秀な者はペンネームで作品を発表されるが、その優秀な作家だけでは、とても消費者の需要を満たすことができない。そこで、安いレートでゴーストライターたちに書かせていた。多くの場合、1語1セントかそれ以下であった。これらのゴーストライターは、昼間の仕事を持ちながら、夜や休日に小説を書く者達がほとんどであったという。

ニック・カーターのキャラクターで発行された小説は、1000冊を超えると言われている。1940年代のラジオ番組は、同じくドラマ『シャドウ(Shadow)』と共に、黄金期のラジオミステリードラマの代表番組である。そのニック・カーターが、今は本国のアメリカでさえほとんど忘れ去られてしまい、パルプ・マガジンの時代は1920年代から始まる、と誤解されている。たとえジャンル小説とはいえ、「作家」が見えないものは、「作家」の存在を強く望む世紀を通り過ぎていく間に、「作品」も見えなくなっていったようだ。

UNKNOWN HOLLYWOODのトークで流す予定だった動画。
この時代のニック・カーターは、マシンガンを撃ちまくっている。

References

[1] John Walton “The Legendary Detective: The Private Eye in Fact and Fiction”