銃に選ばれし人間

 

ジョセフ・H・ルイス監督の『拳銃魔(Gun Crazy, 1950)』について調べているときに、ハリウッドと銃の関係について、つい調べ始めてしまった。Hollywood Reporterにこんな動画があったのを見つけた。

ハリウッド、特に俳優や監督、プロデューサーはどちらかと言うと政治的にはリベラルなスタンスをとる人が多い。銃による暴力行為がニュースになると、銃規制に声を上げる映画関係者もいる。だが、セレブリティによるそういった活動にシニカルになる人達も少なくない。なぜなら、多くの映画でバイオレンスが重要な役割を果たしているし、ヒーロー達が数え切れない数の銃器を握って、困難を撃ち抜けるストーリーが語られているからだ。

この動画には「Independent Studio Services(ISS)」という映画の小道具、特に武器類を専門とする会社が紹介されている。この会社では16,000丁以上の銃器を保有し、映画撮影用の銃器のレンタルだけでなく、注文に合わせた銃器の製作、製作、撮影現場での教育、コンサルタントなども行なっている。さらには、アメリカ軍の戦闘員のトレーニングも行なっている。映画なんかでは、主人公が敵の武器を拾い上げてすぐに撃ちまくって窮地を脱するシーンなど散々製作されてきたが、実際の海兵隊員はAK-47だって触ったことがない場合がある。ISSで実際にトレーニングを受けた海兵隊員の二人が、2003年のイラク戦争の戦闘中に敵のAK-47を使って作戦を完遂した例があるという。現実はフィクションの想像力を必要としているのだ。

NRAの博物館の人が「映画で使われたもっとも有名な銃」として、『ダーティー・ハリー(Dirty Harry, 1971)』のキャラハン刑事が使用しているスミス&ウェッソンM29(”44マグナム”)を挙げている。私自身は「銃といえば44マグナム」みたいな安易な発想に少々うんざりしている。

今から30年ほど前、私はアメリカの西部のある都市で学生として住んでいた。私のアパートは大学の近くでそんな物騒なところではない。夜中の2時に80歳のおばあさんが3,000ドルの現金が入ったポーチを抱えてチワワを散歩させていても、ひったくりにさえ会わない。そんな平穏な場所だったが、ある夜の7時頃、アパートに帰ってくると、普段は誰もいない隣のアパートの駐車場に50人ほどの人が集まり、その人だかりの真ん中にパトカーが2台停まっていた。さっきまでピザを食べながら「ロザンヌ」を見ていましたという感じのスェット姿の女性に話しかけて何が起きたのと聞いてみた。このアパートに住んでいる若い女性がボーイフレンドと電話中に口論になり、激昂したボーイフレンドが、これから44マグナムを持ってお前のところに行く、と言ったらしい。若い女性はすぐに警察に連絡した。

「で、そのボーイフレンドは?」

「ほんとに来たんだよ、マグナム持って」

「え、マグナム持ってたの?」

「そ、持ってたの」

私達のそばにいた数人がほぼ同時に「Stupid」と言った。横にいた背のひょろっとした若い男がニヤニヤしながら、指で銃を作り「ゴーアヘッド、メイク・マイ・デイ!プシュー!」と撃つ真似をした。この国の男は全員馬鹿なんじゃないかと思った。だいたい、あのセリフのあとで、クリント・イーストウッドは銃を撃たない。

パトカーの後部座席に座っていたのは、ジョン・ボン・ジョヴィから全ての魅力を取り除いて、汚れたビールをぶっかけたような容姿の男だった。あの体つきでS&W M29なんか撃った日には、リコイルでひっくりこけて、上の階の人がとばっちりで怪我するという不幸な事態しか招かないだろう。

「世界で最もパワフルなハンドガンだ」みたいなスローガンは、こういう人物を引き寄せてしまう。そういう人間は、自分がその銃に選ばれていないのに、どこかでそれを手に入れてしまうのだ。フィクションの約束事を、現実の自分に委ねてしまう。

ジョン・バダムがTV映画を担当していた時代に監督した『ザ・ガン 運命の銃弾(The Gun, 1974)』という作品がある。38口径のリボルバーが<誕生>してから、様々な持ち主の手に渡ってゆく。その持ち主たちの銃との関わりを、持ち主たちに肩入れすることなく描いてゆく映画だ。ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品に『運命の饗宴(Tales of Manhattan, 1942)』という、これは燕尾服が様々な人の手に渡ってゆくさまを描く映画があるが、趣向は似ているけれど、こちらのほうは銃という、いつ悲劇を生むかわからないオブジェが主体なだけに、遥かに緊張感にみなぎっている。銃、特にハンティング用ではないハンドガンやライフルは、それが<殺傷する>という目的を果たすとき、悲劇しか生まない。その端的な事実を、大げさな演出や演技を介さずに、効果的に描き出している。この物語でも、銃に選ばれていない人間が、その銃を手に入れてしまう。あるいは、銃は死をもたらすもの、この世に属していないのだから、この世には選ぶ相手などいないのかもしれない。脚本はリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンク、撮影はスティーヴン・ラーナー。

この作品については、めとろんさんが詳しく論じられているので、ぜひそちらを参考にしていただきたい。

『市民ケーン』と空間の音響 (Part IV)

Part Iはこちら

Part IIはこちら

Part IIIはこちら

演説の時代

『市民ケーン』のマジソン・スクエア・ガーデンのシーンとオペラのシーンにはある共通項がある。いずれも、広い空間で、マイク/アンプ/PAを使わずに声を発するという演技をしている点だ。

この映画では、ケーンが州知事に立候補したのは1916年の設定になっている。PAシステムが普及する前のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの選挙演説のシーンでは、チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)はマイクを使わずに自らの<肉声>を大ホールに響かせている。1916年といえば、スタンフォード・ホワイトが設計した第2期(1890 – 1924)のマジソン・スクエア・ガーデンにあたる。舞台となったアンフィシアターは床面積6000平方メートルを超える巨大なホールだった。

PAシステムを使わずに演説をするというのは、どんな感じだったのだろうか?

米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、20世紀初頭、演説家として名を馳せていた政治家の一人だ。彼の演説シーンはサイレントのニュース映像として残されている。多くの場合、戸外で、おそらく多いときには数百人から千人以上の聴衆を相手に声を張り上げている。特に米国国会図書館所蔵のこのフィルムクリップの1:08~1:20の演説の様子をみていただきたい。手前で演説をしているのがルーズベルトだが、その奥、壇上で聴衆に向かって指示をしているように見える男性がいる。何が起きているのだろうか。

セオドア・ルーズベルトのフィルムクリップ(米国国会図書館

セオドア・ルーズベルトの選挙活動を報じる新聞記事を読むと、当時の演説がいかに混沌としていたかがわかる。支持者たちはいつまでたっても拍手をやめないし、中には壇上に上がって煽り始める者もいる。聴衆はすぐに声を合わせてスローガンを繰り返す。ようやくおさまって演説が始まっても常に野次が飛ぶ。おそらくフィルムクリップの男性は、騒がしく声を上げたり演説を妨害している者に注意しているのだろう。当時の新聞記事はルーズベルトの演説内容とともに、それに返された野次も記録している。

セオドア・ルーズベルトの演説の様子を伝える記事[1]。緑下線は聴衆からの発言。

つまり、PAシステムが導入される以前は、いくら演説者の声が大きくても聴衆の野次と大して変わるわけではなく、<やりとり>が必然的に存在する仕組みだったのだ。これは、アメリカの二大政党、民主党と共和党の全国大会(National Convention)についての報道を読むとそれがより鮮明に表れている。1904年、PAシステムが登場するはるか以前の共和党全国大会はシカゴ・コロシアムで開催されているが、始まる前から議長がギャベルで叩き続けても一向に静かにならない、各州から選挙人が登場する度に大騒ぎになる、意見が一致せずに割れると収集がつかない、といった具合である[2]

また、上記のフィルムクリップで2:00~2:08あたりの映像を見てほしい。これは屋外での演説だが、ルーズベルトの声がいくら大きく通る声でも、後ろのほうの聴衆まで聞こえたとは考えにくい。演説者の直ぐそばで野次を飛ばす人たちもいれば、遠くの方から演説の内容はともあれ<イベントに参加した>という人もいたのだろう。当時は翌日の新聞に演説の全文が掲載されることも多く、多くのひとは演説の内容を遅れて知ったのではないか。

だが、PAシステムとラジオの登場によって、その様相が少しずつ変わっていく。

アメリカの政治家でPAシステムを最も有効に使用した最初の人物は、第29代大統領ウォレン・ハーディングである。彼は1921年の大統領宣誓式、第一次世界大戦終戦記念日の演説をPAシステムとラジオを駆使しておこない、好評を博している[3], [4], [5]。これらはどちらも屋外で行われる式典で、PAシステムの効果は絶大だったに違いない。

屋内で開催される大規模な政治集会といえば、前述の共和党、民主党の全国大会である。1920年代の両党の全国大会はベルシステムズが新技術を披露する格好の場所となっていた。まず、前述のハーディングの大統領宣誓式の前年1920年に、共和党全国大会でベル・テレフォン・システムズが大規模政治集会としては初めてPAシステムを設置した[6]。1924年にはやはりベルシステムズが全国大会のラジオ中継の技術を提供、アメリカ全土で両党の全国大会の進行を生放送で聞くことができるようになった。これは今で言う「パブリック・ビューイング」のように、大型の施設を開放、PAシステムを設置してラジオ放送を流すという仕組みだった。

1930年代に入ると、<拡声>技術と政治はより深く結びついていく。トーキー映画の登場はそのひとつだ。また政党がラジオ放送のスポンサーとなり、自分たちの政策や主張をラジオ番組として流すようになったことも挙げられる。1932年のアメリカ大統領選では、ハーバート・フーヴァーとフランクリン・D・ルーズベルトが、PA装置、トーキーのニュース映画、ラジオといったさまざまな<声の拡大装置>を用いて戦った。民主党全国大会のラジオ放送は、NBC、CBSそれぞれがのべ50時間を超える放送を行ない、政情変化をリアルタイムでつたえる一大イベントとなった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-mqWhDwAFmk&w=560&h=315]
民主党全国大会(1932年6月)

このフィルムクリップに写っているNBCのロゴの入ったパラボラは新型のマイクである。また、パラボラの横に天井から吊り下げられたコードがうっすらと見えるが、これはCBSが準備した<ラペルマイク>のケーブルだと思われる。どちらも<フロアにいる人々の声をとらえる>ために準備された。

NBCのパラボラマイク(左)とCBSのラペルマイク(右)。ラペルマイクは右から二人目のベルボーイの襟の下についている円盤状のもの。このマイクのケーブルは会場の天井に架けられていて、ベルボーイはフロアをマイクをつけたまま自由に移動できる。各州の選挙人代表などがこのラペルマイクに向かって話し、その声がコンソールからラジオ放送に送出される[7]

この<会場の声をひろう>マイクは、PAシステムの強力な増幅能力と対になっている。パラボラマイクはフロア(にいる聴衆)の<ノイズ>をとらえるために設置され[8]、ラペルマイクはフロアにいる<重要人物の意見>を集めるために準備された。セオドア・ルーズベルトの時代には、無名の聴衆からあがる<声>は大統領候補の演説とともに記録されるものだったが、PAシステムは、壇上の人物の声を圧倒的に増幅し、フロアにいる人々の声をかき消して<ノイズ>にしてしまったのだ。また、1920年代には演説に使用される技術開発はベルシステムズが担っていたが、1930年代になって、NBC、CBSといったメディアが担うようになっている点も示唆的だ。メディア企業は広告料によって経営がなりたっている。お金を払っている人の声が最大限に増幅され、それを享受している側の声はノイズとして処理されるようになった。

マイクの前に立つ者の声を何万倍にも増幅し、聴衆の発言をかき消す。このような特質を持つPAシステムとファシズムの台頭が軌を一にしているのは偶然ではないのかもしれない1)。ヒトラーの、演説を静かに始め、だんだんと声を張り上げていくという演出が効果を奏したのも、PAシステムのおかげである。

戦前ハリウッド映画に見る演説

フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年、MGMは『獨裁大統領(Gabriel over the White House, 1933)』を公開した。このなかで、架空のハモンド大統領がPAを使わずに演説するシーンが登場する。

『獨裁大統領』よりハモンド大統領(ウォルター・ヒューストン)の演説

この演説のシーンは2つの点で興味深い。まず、ミディアム・ショットからロング・ショットに切り替わると、声の音響特性が変化する点だ。ミディアム・ショットでは声はダイレクトで反響音が少ないが、ロング・ショットでは声が<遠く>なり、反響音が言葉を聞き取りにくくしている。これはPart Iで紹介した『アギー・アップルビー』の例と同じく、撮影のセットアップ(ミディアム/ロング)に合わせてマイクのセットアップが変わったからだろう。このシーンは、Part IIIで引用したフランクリン・L・ハントの「ショットによっては反響音を加えたほうが自然に聞こえる」という見解を実証的に見ることができる例だ。確かに、各々のショットだけを取り出すと、カメラの位置と音響の性質が合致していて、あたかもそれぞれの場で聞いているかのような錯覚を生み出す。ところが、このショットが編集によって繋げられると、その唐突な変化が目立ってしまう。

もう一つの興味深い点は、前述のPAシステムを使わなかった時代の演説の例のとおり、聴衆が言葉で反応する点だ。聴衆の音は<ノイズ>ではなく、<声>であり、演説の一部なのである。

『獨裁大統領』の公開の2年後、エドワード・スモールが製作、ユナイテッド・アーチスツが配給した『近代脱線娘(Red Salute, 1935)』にも同様にPAシステムを使わない演説のシーンが登場する。ここでもミディアム・ショットとロング・ショットが繋げられているのだが、『獨裁大統領』のような顕著な音響の変化は起きていない。これはリレコーディングのおかげだ。音響の質が撮影のセットアップに制限されず、編集によってなめらかにつながるようになった。

『近代脱線娘』より演説のシーン

日常的な政治の場に、PAシステムとラジオが平行に介在するようになると、当然それは映画にも登場するようになる。

<拡声の力>を表す2本の映画が1940年と1941年に公開された。

チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』に登場するヒンケルの演説のシーンは、音響が実に緻密に設計されている。当初、ヒンケルの演説を聞いている私達は、この音声が何の(・・)音声なのか判然としないまま聞かされている。PAシステムのスピーカーからの音なのか、あるいは演壇上のマイクからの入力なのか、音響からは判断する材料がないまま、演説はすすんでいく。ただ、ヒンケルがわめくデタラメ語はきわめて聞き取りやすく、屋外のPAシステム独特のこだまのような反響音で濁るようなことがない。そして、しばらく経ってから英語による同時通訳の声が入ってくる。だが、なぜ同時通訳の声が入ってくるのかは説明されない。演説が終わったあと、はじめて私達はこれがラジオの音声だったと知らされる。ヒンケルの演説はステージ上で得られるであろう反響音が聞こえているのに対し(つまり、壇上のマイクからの入力である)、ラジオの同時通訳の声には全く反響音がない(デッドな音響のスタジオのマイクの入力である)。「独裁者お抱えの同時通訳者が演説内容を都合よく取捨選択して聴衆に伝えている」というマスメディアの特性に対する揶揄を、一度に見せてしまうのではなく、反響音の微妙な差を使いながら少しずつ種明かししている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=isLNLpxpndA?start=63&w=560&h=315]
『独裁者』よりヒンケルの演説(YouTube

フランク・キャプラ監督の『群衆(Meet John Doe, 1941)』の雨の中の政治集会のシーンは、まさしくPAシステムによる<拡声の力>をコントロールする者が政治的な力を持ちうるということを強烈に表現している。ノートン(エドワード・アーノルド)がジョン・ドー(ゲーリー・クーパー)の<嘘>をあばき、聴衆の信頼をあっという間に奪ってしまう。PAの音は集会の会場にこだまし、ノートンの大声の非難が響きわたる。ノートンはジョンを失墜させると同時に、PAシステムのケーブルを切断させる。ジョンは自らの弁明を<拡声>する術を失い、セオドア・ルーズベルトの時代に戻されてしまう。彼は聴衆からの野次や怒号に音量で押し黙らされてしまう。ジョンの戸惑う声の音量は、映画のシーンの音量として決して小さいわけではない。映画を見ている(・・・・・・・)観客はジョンの声を普通に聞くことができる。だが、それは映画のなかの(・・・・・・)群衆には聞こえない。このPAと肉声の音量差は、反響音の有無で表現されているのだ。『群衆』の製作にワーナー・ブラザーズの設備やスタッフが関わっているが(『群衆』の音響エンジニアはワーナー・ブラザーズのC・A・リッグス)[9 p.430]、もちろん、ワーナーでもエコーチェンバーは使用されていた[10]。このエコー/リバーブ音の制御は、リレコーディングのプロセスでの音響編集が可能になったからこそできた。

『群衆』より 拡声機能を失うジョン・ドー

ここまで見てきた演説とPAの歴史をふまえると、『市民ケーン』の選挙演説のシーンは果たして1916年の状況を現実的(リアリスティック)に反映しているのだろうかという疑問も湧き上がってくる。PA登場以前の演説に見られたような、聴衆との<やりとり>は存在せず、ケーンは一方的に自分の声をはり上げている。マジソン・スクエア・ガーデンの音響が果たして、PAを使用しない演説であそこまでのリバーブ/エコーが生じたかは疑わしい2)。むしろこの場面でのオーソン・ウェルズの演説手法がPAシステムを使うことを前提にしているようにさえ見える。ここで追求されているのは歴史的事実や客観的観測に基づいた<実証性(デモンストレーション)>ではなく、PA装置による政治という声の不均衡の時代に生きる人々の現実(リアル)なのではないだろうか。ロング・ショットになったり、聴衆を映すと、リバーブの比率が高くなり、ウェルズを近景で映すとダイレクトな音声になる。だが、これは『獨裁大統領』のようなカメラとマイクのセットアップが呼応しているから起きている現象ではない。音を操作して、カメラの視点と観客の視点があたかも同期しているかのような没入感を作り出しているのだ。ファシズムとマスメディアの時代に生きていた当時の人たちにとって、<やりとり>が存在した演説はすでに風化して失われてしまい、反響音が響き渡るホールで一方的に主張を聞かされるのが政治の現実だったのだ。

『市民ケーン』の音響設計の<革新性>は、エコーを使って空間を表現したことではない。エコーチェンバーを使ってさまざまな空間の音響を表現するテクニックはすでに1930年代から存在し、各スタジオもエコーチェンバーを音響部門に設置してさまざまな場面で使用していた。映像に合わせてリバーブの度合いを変えるというアイディアも、トーキー導入当初から議論の争点だった。『市民ケーン』の音響設計が当時の状況から見て突出している点は、空間の特性についての映像と音響の表現が、単なる場所の描写にとどまらず、観る者をストーリーに引き込むための仕掛けとして機能していることだろう。奇術(マジック)で観客の注意を操るように、映像と音響にさらされた観客をストーリーに没入させ、その種に気づかせないような、そういったテクニックに事欠かない作品が『市民ケーン』だといえるだろう。

Notes

1)^ ヒトラーやゲッベルスは自分たちの声の圧倒的な支配力を誇示したが、ムッソリーニは必ずしも聴衆を一方的に威圧できていたわけではなかったように見える。いつまでたっても静まらない聴衆に手を焼いていたり(リンク)、聴衆からの言葉に思わず反応して笑ってしまったり(リンク)する様子が記録されている。

2)^ 第三期のマジソン・スクエア・ガーデンの音響、特に反響音特性を調査した研究には、もともとスポーツアリーナとして設計された大ホールがいかに音響的に劣っていたかが記されている[11]。話者の肉声ではほとんど聞き取ることができず、それを補うためにPAシステムを導入したが失敗、再度別のPAシステムを導入するものの、それでも結果は決して満足ゆくものでなかったという。『市民ケーン』が想定しているのは第二期のマジソン・スクエア・ガーデンだが、状況は似たようなものだったのではないだろうか。

References

[1]^ “Col Roosevelt Speaking From a Baggage Truck at the Railroad Station in Brockton,” The Boston Globe, Boston, p. 9, Apr. 28, 1912.

[2]^ “Roosevelt, Fairbanks, and a Long Whoop,” The Baltimore Sun, Baltimore, Maryland, p. 1, Jun. 24, 1904.

[3]^ “Inaugural to be Broadcast to All Parts of the Country,” The New York Times, New York, p. 186, Mar. 01, 1925.

[4]^ “Harding Used Loud Speaker,” New Castle Herald.

[5]^ “Big Amplifier Armistice Day,” Chehalis Bee Nugget, Chehalis, Washington, Nov. 11, 1921.

[6]^ “At the National Conventions,” The Manmouth Inquirer, Freehold, New Jersey, p. 4, Aug. 12, 1920.

[7]^ M. Codel, “Radio ‘Scoops’ World at Chicago Stadium,” Broadcasting, vol. 3, no. 2, p. 7, Jul. 1932.

[8]^ M. Codel, “Political Campaigns to Boom Broadcasting,” Broadcasting, vol. 2, no. 12, p. 13, Jun. 1932.

[9]^ J. McBride, Frank Capra: The Catastrophe of Success, Illustrated edition. Jackson: Univ Pr of Mississippi, 2011.

[10]^ L. T. Goldsmith, “Re-recording Sound Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 39, no. 11, pp. 277–283, 1942.

[11]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part III)

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戦前ハリウッドにおける<反響音>

ラジオ放送や映画製作で、エコーチェンバーの利用が拡大していく経緯を追っていると、リバーブがほしいときには空室に音を響かせてミックスしていた、という単純なシナリオのように見えてしまうかもしれない。だが、実際には極めて科学的な議論のもとに開発が進められていた。特にハリウッドにおける映画製作の場合、リバーブの問題は多くの要素が複雑に絡み合っていた。

トーキーが導入された直後に、ジェネラル・エレクトリックのエドワード・W・ケロッグが発表したリバーブに関する考察が、1930年代初頭のハリウッドが直面していた音響技術の問題をよくあらわしている[1]。ケロッグが問題にしたのは、撮影・録音がおこなわれる部屋の反響特性が、全体的な再生音量や言葉の聞き取りやすさに与える影響だった。

セリフの場合の好ましい反響音とは、音の増幅効果と音の重なり合いのあいだでどこに妥協点を見出すかという問題である。

エドワード・W・ケロッグ

ケロッグはセリフの録音においては、十分な音量をドライ(直接音)で確保して、ウェット(反響音)はできるだけ抑制するべきだと提案している。なぜなら、反響音はセリフの聞き取りにとって悪影響しか及ぼさないからだ。当時は撮影時に録音したセリフがそのまま完成フィルムのサウンドトラックに使用されていた。撮影セットは音響面において最適化されていないし、マイクはカメラに映り込まないように離して設置する必要がある。ラジオのように基本的にデッド(反響音に乏しい)なスタジオでマイクのそばで発話するのとは、状況が大きく異なるのだ。当時のマイクは指向性に乏しく、周囲のアンビエント音をピックアップしてしまう。セリフを聞き取りにくくする反響音が問題視されたのはそういう背景があった。

だが、ほぼ同時期に反響音の不在は不自然だという意見もあった。

トーキー映画の録音では、マイクロフォンを話している人物の数フィート以内に設置すると最も聞き取りやすいというのが一般的な意見だ。だが、このようにして得られた音声の質は、中程度からロングのショットで使われた時に何かが欠けているように思われている。この不自然さはセットの壁から反射された音が存在しないために起こるもので、話し手の声そのものにこの反射音を加えると、通常の聴衆条件下、普通の部屋で音質を模倣することができる。

フランクリン・L・ハント[2]

注目したいのは、シーンが話者とどのような距離関係にあるか(クローズアップ/ミドルショット/ロングショット)と反響音の程度に関連性を見出している点だ。ロングショットで反響音がないと<不自然>だと指摘している。

だが、<聞き取りやすさ>とか<不自然>という概念は曖昧としている。それを技術で解決するためには、少なくとも明確な、測定可能なものをお互いに共有する必要がある。当時、他国の映画産業と比べて、ハリウッドが特異だった点の一つに、技術の標準化に極めて熱心だったということが挙げられる。スタジオ間の競争は非常に熾烈だったにもかかわらず、エンジニアたちが同じ言語を話し、同じものさしを持てるようにアカデミーや学会が積極的に活動した。音響の分野も例外ではない。米国商務省規格基準局の研究者たちによる反響音の標準測定法の提案[3]、マジソン・スクエア・ガーデンの反響音の周波数特性の測定結果の報告[4]、材料の音吸収特性を測定するためのチェンバーの開発[5]、小型反響音測定装置[6]と1930年代から40年代を通じて技術開発の重心が<測定>や<標準化>におかれているのがよく分かる。

音吸収特性測定用チェンバー[5]

また、実践をとおして理論の検証が継続的におこなわれているのも特徴的だ。例えば、1938年に建設されたリパブリック・ピクチャーズのダビング/スコアリング・スタジオは、当時もっとも音響的に優れたスタジオとして有名になったが、この設計は当時の音響理論を積極的に取り入れ、検証しつつおこなわれている[7]。当時、すでにウォレス・セイビンの理論式が不十分であることが指摘されており、この設計検証には数年前にドイツで発表されたストラットの理論も応用されている。もともと、ウォレス・セイビンの理論が、原始的ではあったものの極めて入念で精微な実験を通して立てられたものであるだけに[8]、音響エンジニアリングの分野では理論と実験の両立が常に求められていたのかもしれない。

もう一点忘れてはいけないのが、映画館の音響特性である。サイレントからトーキーに移行した際、それまでの映画館が<無声映画上映時の音楽演奏>に照準を合わせて設計されていたことが、トーキーでの音設計をさらに複雑にした。すなわち、残響が意外に長い劇場が多いのである。だからこそ、もともとの録音に残響が含まれていると、より聞き取りにくくなる、と懸念された。また、スピーカーを設置する位置や、スピーカーそのものの特性、音量設定の標準化(録音フォーマットの混在、スタジオ間の録音レベルの差などに合わせて劇場側が音量を調節する必要があった)についても試行錯誤がくりかえされていく。

このような環境が、ハリウッド映画の音響の可能性をひろげるのに非常に貢献したのは間違いない。1930年には、話し言葉とオーケストラで反響音の扱いは違うべきか否かという論争を繰り広げていたのだが、わずか9年で30Hzから7KHzまでの広帯域にわたって残響をほぼフラットに抑制するスタジオを設計・建設し、それを測定して業界に共有するところまで進歩したのである。

しかし、これらの研究は学術的関心によるものではないし、進歩は人類の知の地平を広げるために推し進められたわけではない。ハリウッドの映画産業でのテクノロジーの存在理由は「物語を語る」ためにある。

その存在理由を非常によくあらわしているエピソードがある。<Part I>で紹介した『市民ケーン』のなかのマジソン・スクエア・ガーデンでの演説のシーンのリレコーディングのときの話だ。サウンド・エンジニアのジェームズ・G・スチュワートは、オーソン・ウェルズとの仕事の<自由さ>に感化され、このシーンでの残響音の設計に夢中になってしまった[9]。空間の大きさを強調しすぎてしまったのだ。このテストを聞いたオーソン・ウェルズはスチュワートの方を振り向いてこう冗談を言った。

君は僕より大根役者だね!

オーソン・ウェルズ

これは、音の設計が<演技>をしているという意味だ。スチュワートは「音は演技の邪魔をするものであってはならない、よりよくするものであるべきだ」と語っている。

『市民ケーン』で、リバーブが重要な役割を果たしているシーンをもうひとつ挙げよう。ケーンの二人目の妻、スーザンが主役をつとめるオペラのオープニングだ。このシーンはリーランドの回想とスーザン本人による回想で2回登場する。リーランドの回想のほうは『市民ケーン』の批評で必ずとりあげられる有名な移動ショットである。上昇するカメラがとらえる舞台の上の空間は、実は美術と特殊プロセスのアマルガムによって見事に作り出されたものなのだ。音響設計においても、リレコーディングによって生み出された空間の錯覚が効果的である。スーザンが歌い始める瞬間にはほぼダイレクトなドライ音であるが、カメラが上昇するにつれてリバーブ音の比率が大きくなり、最後はほぼウェットなリバーブ音だけになっていく。あたかもカメラの位置で音を聞いているかのような錯覚が生み出される。スーザンの回想のほうもカメラの位置と音が深く関係している。幕が上がるとき、映像はスーザンをステージ後方からとらえているが、彼女の歌声はほぼウェットなリバーブ音だけだ。PAを使用しないステージに立った方はおわかりになると思うが、舞台から客席に向けて発せられた音(直接音)は舞台後方には届かない。カメラの位置では反響音だけが聞こえるだろう。作曲のバーナード・ハーマンは、このオペラのオープニングが、物語上非常に重要だったと強調している。ポーリーン・ケールの「オペラ『タイス』の使用料を払えなかった」という記述を一蹴しながら、このオペラは「ウェルズが求めたんじゃない、『ケーン』が求めたんだ」と述べている。スーザンのオペラ歌手としての決定的な実力不足をわずか1分足らずで見せなければならない。

このオペラのシークエンスはつぶさに見てほしい。なぜならこれは音楽が映画のために作曲されなければならなかったケースだからだ。私はこれ以外の方法でこの問題を解決できたとは思えない。例えば「サロメ」のラストをもってきても似たような効果が得られたかもしれないが、それではスーザンがオペラを歌い始める・・・・・)様子を描けない(「サロメ」のオープニングは誰でも歌える)。問題は「スーザンは出だしを切り抜けられるか?」だ。それが映画が私に仕掛けてきた問いだった。

バーナード・ハーマン[10]

この「スーザンの決定的な歌唱力不足」は、物語の流れにそって段階的に明らかになっていく1)。最初のリーランドの回想では、映画を見ている私達がスーザンの歌をじっくりと聞くことができる前にリバーブ音になってしまう。だが、上昇していったカメラがとらえるのは舞台の裏方が鼻をつまむ様子だ。次のスーザンの回想では、最初はやはりリバーブ音から始まるのだが、明らかに退屈したリーランドの様子や観客の嘲笑的な私語によって、スーザンの力のない歌声がかき消されていく。そしてフィナーレではカメラが正面からスーザンをとらえ、ダイレクトな音響によって、スーザンの細く共鳴の少ない声質がやはり・・・)<不適>だったことが露骨に晒される。リバーブがずっと答えを隠していたのだ。

『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(リーランドの回想)
『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(スーザンの回想)

このように反響音が物語を操作し、起伏を作ることに積極的に関わるように仕向けたのはオーソン・ウェルズであるのは間違いないだろう。ウォルター・マーチが「反響の要素を繊細に使いこなして、物語を語る」と述べたのはこういうことだったのである。

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Notes

1)^ このオペラ「Salaambo」で実際の歌声を提供したのは、カリフォルニア出身のジーン・フォーワードである。バーナード・ハーマンは「スーザンが苦労するのは、彼女が歌えないからではない・・)んだ、役が要求する力量があまりに大きすぎて、とても彼女の手に負えないからだ」といい、どういう効果を求めているかをフォワードに説明して歌ってもらったという。のちにこのアリアは、コンサート・ピースとしてソプラノ歌手に取り上げられるようになり、ハーマンは<非常に優れた>歌唱の例としてアイリーン・ファレルを挙げている。ファレルの録音はここで聞ける。その他にはキリテ・カナワヴェネラ・ギマディエヴァロザモンド・イリングなども取り上げている。

References

[1]^ E. W. Kellogg, “Some New Aspects of Reverberation,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 14, no. 1, p. 96, Jan. 1930.

[2]^ F. L. Hunt, “Sound Pictures: Fundamental Principles and Some Factors Which Affect Their Quality,” The Journal of the Acoustical Society of America, vol. 2, no. 4, pp. 476–484, 1931.

[3]^ V. L. Chrisler and W. F. Snyder, “Measurements with a Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 479–487, 1932.

[4]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

[5]^ V. O. Knudsen, “Recent Progress in Acoustics,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXIX, no. 3, p. 233, Sep. 1937.

[6]^ E. S. Seeley, “A Compact Direct-Reading Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 37, no. 12, pp. 557–568, 1941.

[7]^ C. L. Lootens, D. J. Bloomberg, and M. Rettinger, “A Motion Picture Dubbing and Scoring Stage,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 32, no. 4, pp. 357–380, Apr. 1939, doi: 10.5594/J16557.

[8]^ W. C. Sabine, Collected Papers on Acoustics. Cambridge: Harvard University Press, 1922.

[9]^ J. G. Stewart, “The Evolution of Cinematic Sound: A Personal Report,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

[10]^ B. Herrmann, “Bernard Herrmann, Composer,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part II)

Part Iはこちら

ラジオドラマの時代

オーソン・ウェルズが、デビュー当初、演劇とともにラジオドラマで注目を浴びるようになったのはよく知られている。特に1938年のハロウィンに放送された「宇宙戦争」の際のメディアの狂乱ぶりは有名だ。この「宇宙戦争」は、「マーキュリー放送劇場(Mercury Theatre on the Air, 1938)」というラジオドラマ番組枠で放送されたエピソードのひとつである。だが、この「宇宙戦争」は実際に聞いてみると、当時のラジオドラマの質と比較して特に秀でているとは言い難い。物語の導入部と終盤をモノローグで縁取るという構成はオーソン・ウェルズらしいアプローチだが、本編にあたる部分のインパクトをかなり弱めているのは否めない。ポール・スチュアートが効果音の制作(大砲の音や群衆の声など)を担当しているが、例えば当時人気だったホラードラマ番組「ライツ・アウト(Lights Out)」などと比べると独創性はあまり感じられない。「宇宙戦争」が極めて特殊なのは(そして、制作に関与していたジョン・ハウスマン、オーソン・ウェルズ、ポール・スチュアートらもリハーサルのあとで痛感していたことだが[1 p.393])<ニュース速報>というフォーマットで物語が駆動されるという点だ。それは、<ニュース速報>そのものだけでなく、<ニュース速報>が通常の番組に割り込むというダイナミクスや、<ニュース速報>のあとの空白の時間にショパンやドビュッシーのピアノ曲が流されるという不可抗力の不穏さも含む、駆動力である。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言明を先取りして実践していたと言ってもよいだろう。

オーソン・ウェルズは、自ら率いるマーキュリー劇団のこの番組をCBSで担当する前から、ラジオドラマの人気俳優だった。タイム誌が製作した「ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1936 – 1938の期間出演)」のナレーションや、ミステリー番組の「ザ・シャドウ(The Shadow, 1937 – 1938)」の主人公ラモント・クランストン役などCBSラジオの人気番組を受け持っていた。

そのCBSは1930年代初頭から、実験的なラジオ番組を手掛けており、30年近くにわたって音の可能性に挑戦する演出家、脚本家、俳優、作曲家などを数多く輩出してきた[2]

The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 1 1931
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 2 1932
Columbia Workshop 1936-1947
CBS Forecast 1940-1941
26 By Corwin 1941
An American In England 1942
Columbia Presents Corwin 1944-1944
Once Upon A Tune 1947
CBS Radio Workshop 1956-1957

このなかでも1936年からはじまった「コロンビア・ワークショップ(Columbia Workshop)」は、その革新的な実験性で最も成功したシリーズである。このシリーズを創り出したのは演出家のアーヴィング・ライス(1906 – 1953)だ。これ以前の「The Columbia Experimental Dramatic Laboratory」の録音は現存しないようだが、「コロンビア・ワークショップ」の録音は現存しているエピソードもあり、そのなかに1937年4月11日に放送された「都市の没落(The Fall of the City)」がある1)。アーチボルド・マクリーシュ原作の詩劇で、ハウス・ジェイムソン、オーソン・ウェルズ、バージェス・メレディスらが出演、アーヴィング・ライスが製作・主監督、バーナード・ハーマンが音楽を作曲、指揮している。この「都市の没落」がウェルズに多大な影響を与えたという指摘は多い[3][4 p.196][5 p.32]

「都市の没落」はマクリーシュによる民主主義喪失の寓話である。これは当時ヨーロッパを覆い始めていたファシズムに対する警鐘として書かれた作品だ。<どこにでもある都市>の広場からのラジオの実況中継(オーソン・ウェルズがアナウンサー)という形式をとっている。物語は、<死から蘇った女性>の言葉を聞こうと広場に1万人もの市民が集まっているところから始まる。<死から蘇った女性>が現れ、言葉を発する。

支配者のいない者たちの都市に支配者が現れるだろう!

この<死から蘇った女性>が消えたあとも、市民たちの混乱と熱狂は止まない。そこへ<メッセンジャー>が到着する。<メッセンジャー>は<征服者>がこの都市に襲来すると告げ、「征服者にすでに征服された人々は恐怖におののいている」と警告する。次に預言者が現れ「征服者を平和的に受け入れよ」と告げる。市民たちはこの<征服者>の到来を待ち望んでいる。2人目の<メッセンジャー>が到着し、「征服された者たちは征服者を歓迎している」と告げる。やがて<征服者>が都市に入城し、市民たちは顔を覆い屈み込む。ラジオのアナウンサーだけが<征服者>が覆面を上げるところを目撃し、「覆面と鎧の下には何もない」と報告する。だが、もうすでにこの都市は<征服者>の手に落ちたのである。

このラジオドラマの制作は、当時としてはかなり大掛かりなものだった[5 p.30]。200人以上の出演者を擁して広場に集まる市民たちの声を再現した。この出演者の大部分はニュージャージーの高校やニューヨーク州立大学の演劇部の学生たちやアマチュアの俳優たちで、学生はボランティア、俳優には最低限のギャラが支払われたという。市の広場に集まった群衆の<音>を作り出すために、演出のアーヴィング・ライスはマンハッタンにある第7連隊武器庫(現在のパーク・アベニュー・アーモリー)のドリル・ホール(5000平方メートル)を貸し切り、その巨大な空間の音響を利用した。さらに、この学生たちが作り出す<群衆の声>を4枚のアセテート盤に録音、それぞれを武器庫内で異なる場所に配置して、生放送実演時に少し遅らせて再生した。このようにして、巨大な広場に1万人が集まっているという音の効果を編み出した[6]

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「都市の没落」より 広場に集まった人々とラジオアナウンサー(オーソン・ウェルズ)

最初のメッセンジャーを演じたのはバージェス・メレディスだが、彼の声は武器庫のドリルホールによく響いていて、十分な残響がある。この残響のおかげでメレディスが広い広場の市民に向かって発言しているように聞こえる。この「都市の没落」にみられるように、ラジオドラマでは、反響音を人工的に操作して、場所の大きさを想像させる手法がすでに確立していた。

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「都市の没落」より メッセンジャー(バージェス・メレディス)
「都市の没落」第7連隊武器庫での収録の様子(Billy Rose Theatre Collection

「コロンビア・ワークショップ」を取材した「ポピュラー・メカニクス」誌の記事では、アーヴィング・ライスが<エコーチェンバー>を用いて他のエピソードも演出していることが記されている。エコーチェンバーは広い何もない部屋で、一方の端にスピーカー、もう一方の端にマイクを設置して、スピーカーから発せられた音が部屋の中で反射する様子をマイクで拾う仕組みである。元の音にこの反響音をミックスして、聴取者がセリフの内容を容易に判別しつつ、音の発生している場を容易に想像できるような音設計がなされていた。

「コロンビア・ワークショップ」で使用されていたエコーチェンバー[6]

エコーチェンバーとリバーブの歴史

多くの文献や記事で、リバーブを人工的に作り出した最初の例として挙げられるのが、1947年にリリースされたハーモニキャッツの「ペグ・オ・マイ・ハート(Peg ‘o My Heart)」という曲だ(YouTube)。これは、ビル・パットナムのユニバーサル・スタジオで録音された。スタジオのトイレにスピーカーとマイクを設置してリバーブの効果を作り出したと言われている。だが、この曲の場合、リバーブは<自然な音響>を模倣するためではなく、明らかに<人工的な音響>を作り出す目的で使用されている[7 p.143]。<自然な音響>を模倣するという目的が達せられたかどうかは別にしても、リバーブを人工的に作り出すことはすでに1930年代にはおこなわれていた。前述のようにラジオ業界では、1930年代にすでにエコーチェンバーを用いてリバーブの効果を得るのはすでに一般的になっており、楽曲の録音でさえ、リバーブを人工的に作り出した例は、1937年にさかのぼることができる。ジャズ・バンドのレイモンド・スコットがやはりスタジオのトイレを使ってリバーブ効果を作り出している[8]。レイモンド・スコット・クインテットの1937年発表作「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部と終盤のピアノはこの方法で録音されたものだろう2)

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レイモンド・スコット「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部

お気づきの方もいるだろうが、<リバーブ>と<エコー>は現代の音響工学においては違う現象を指している。だが、20世紀前半にはエンジニアのあいだでも<リバーブ(reverberation)>と<エコー(echo)>は相互互換的に使用されていて区別されていない。ここでは現在使用されている<エコー(音が反射によって遅延して戻ってくること)>の意味ではなく、<リバーブ(音が構造物などによって反射を繰り返し、連続的な遅延時間と減衰をともなって響くこと)>として記述していく。そのため、ドライ(原音)とウェット(効果音)という用語も、リバーブのそれを指していると思ってほしい。

では、空間をもちいて人工的にリバーブを作り出す方法、エコーチェンバーはいつ頃から登場したのだろうか。

私が調査した限り、ラジオ放送におけるエコーチェンバーの使用に関する最も古い記述は、1926年9月にロンドンのイブニング・スタンダード紙に掲載されたBBCに関する記事だ。

数ヶ月前、スタジオの音響実験の実施中にある発見があった。それまで不可能と思われていたことの多くが、新スタジオの隣に設置された「エコーチェンバー」によって可能になったのである。さらに、この<エコー>の具合はエコーチェンバーの大きさによって制御できる。場合によっては元の音よりも大きくすることもできるのだ。

イブニング・スタンダード紙 1926年9月21日[9]

この記事からおよそ4年後にマンチェスター・ガーディアン紙がより詳細に報じている[10]。この記事によれば、リアリズムを達成するために<エコー>の長さを音楽の種類によって調整しなければならないという。例えば、楽器独奏や室内楽の場合は1秒から1秒半ほどの<エコー>をかけて、大きな部屋で演奏しているような錯覚を作り出すことができる。交響楽の場合には、同様の効果を得るためには2秒から3秒が必要で、もし大聖堂で演奏しているような効果を必要とする場合には5秒から6秒が必要になるという。BBCでは放送時にエコーチェンバーを用いてこのようなリバーブを作り出していた。「もちろん大ホールの音響効果を複製することはできないが、この模倣は錯覚を作り出し聴取者をだますには十分だ」とくくっている。

このBBCの技術がアメリカに輸入されたのは1931年から32年のことである。

きっかけは、ラジオ番組の国際化だった。コロンビア・ネットワーク(CBS)のトップ、ウィリアム・S・パーレーが、大西洋を超えたラジオ番組放送網を準備するためにヨーロッパ各国のラジオ放送局を訪問した。イギリス、フランス、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、イタリアの各国から番組を輸入する一方で、アメリカのラジオ番組もヨーロッパで放送されるようになるとAPが報道している[11]。この段階では生放送ではなく、「再放送」が計画されていたようだ。この訪問のなかで、イギリスとドイツのエコーチェンバー技術が紹介されている。

翌年の1932年、ニューヨーク・ワールド=テレグラムのラジオ制作編集担当、ジャック・フォスターがロンドンのBBCを訪問、BBCラジオの番組制作状況を報告している[12]。BBCでは、ラジオドラマ制作の際に、4つの別々のスタジオを用いて、俳優の演技、オーケストラの生演奏、効果音、アセテート盤による追加音再生がそれぞれ同時におこなわれ、エンジニアがその4つの音源をコンソールでミキシングして放送に送出していた。この際にエコーチェンバーも利用され、コンソールからリバーブ効果を制御できるようになっていたという。フォスターは、演技者、効果音、音楽の生演奏がすべて一つのスタジオでおこなわれているニューヨークの放送局との違いに驚いている。

1933年にニューヨークのラジオ・シティが完成するが、それに先立って、NBCのエンジニア達がエコーチェンバーを開発したことが報じられている[13]。これは1932年の新技術として、リボンマイク、パラボラマイクとともに紹介されている。このエコーチェンバーは、ラジオ・シティに移る前の旧スタジオに設置されたものだろう。ブロードキャスティング誌によれば、12平方フィートのエコーチェンバーにスピーカーとマイクが設置され、リバーブ効果を施すことができるようになっていたようだ[14]

このNBCの旧スタジオでのエコーチェンバーによるものと思われる録音が残っている。当時、NBCラジオの人気番組だった「ターザン(Tarzan of the Apes, 1932 – 1934)」の第52話である3)。「ターザン」は当時最も人気のある番組のひとつで、NBCのネットワークはアメリカ全土の提携局に生放送ではなく、アセテート盤による録音(electrical transcription)で配給していた。背景には、各地方で番組のスポンサーが異なり、そのスポンサーのニーズに合わせて放送時間帯を選択できるようにする、という事情があった[15]。問題の第52話は、ターザンたちが洞窟のなかに逃げ込んだシーンである(1932年11月22日放送)。洞窟の音響を再現するためにエコーチェンバーが使用された。現存する録音は針飛びが激しく、聞き取りにくいが、リバーブの効果はよく分かると思う。

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エコーチェンバーによるリバーブ(「ターザン」第52話から抜粋)

もちろん、新しいラジオ・シティにもエコーチェンバーが設置された。しかも3部屋も設置されたようだ。エコーチェンバーへの音の供給はマイクではなく、ダクトによっておこなわれていたと報道されているのは興味深い[16]

この後、ラジオの業界ではエコーチェンバーは必須の設備となっていく。1940年に出版された「Radio Directing」にはエコーチェンバーについての記述がある[17 p.17]

エコーチェンバーはトンネルのような構造をしており、90フィートの長さにわたって湾曲や捻りが加えられた迷路のような形状をしている。その一方にはスピーカー、もう一方にはマイクロフォンが設置されている。声はスタジオからエコーチェンバーのスピーカーに供給され、そこから迷路の湾曲や捻りを通過しながらだんだんとリバーブを強めていく。それがマイクロフォンに到達して、エンジニアのところに戻され、進行中の番組の音声にミックスされる。マイクロフォンの位置を変化させ(すなわち、スピーカーからの距離を近くしたり、遠くしたりして)、マイクとスピーカーのあいだの時間の遅延を変えてエコー効果の大小を調整することができる。

Radio Directing

1930年代から1940年代をとおして、エコーチェンバーは巨大化していく。クリーブランドのNBC系列放送局WTAMでは、スタジオがあるビル内の使われなくなった排気シャフトをエコーチェンバーに改造している[18]。6平方フィートの広さで16階分の高さ(200フィート、60メートル)のシャフトを使ったエコーチェンバーがどのように使用されたのか興味深い。

ラジオ放送でのエコーチェンバーのプロセス[19 p.64]

このエコーチェンバーの技術は、もちろんハリウッドにも到達している。MGMではリレコーディングで<エコーパイプ>を使ってリバーブを導入していたこともあるようだ[20]。これは90メートルもあるパイプで、一方の端にスピーカーを設置、パイプの途中いくつかの箇所にマイクを仕込んで、リバーブのレートを選べるようになっていたと報告されている。前述の1938年の「Motion Picture Sound Engineering」にもエコーチェンバーに関する記載がある[21 p.173]。ワーナー・ブラザーズのレオン・ベッカーは「物語にリアルに、劇的に語るためのもの」として音響係の<エコーチェンバー>を挙げている[22]。リパブリック・ピクチャーズはダビング/スコアリング/リレコーディングのためのスタジオに2つのエコーチェンバーを設けていた[23]。また『市民ケーン』の4年後に、おそらくRKOのものと思われるエコーチェンバーについてRCAのエンジニアが報告している4)[24]。ロバート・ミクリティッチの「Siren City」には、RKOのエコーチェンバーが『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1941)』などのフィルム・ノワールの音響効果に寄与したと記されており、当時の映画製作において広範に使用されていたと推測される[25 p.33]

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Notes

1)^ 現存している「コロンビア・ワークショップ」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)。

2)^ 全曲はarchive.orgで聞くことができる(link)

3)^ 現存している「ターザン」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link

4)^ これは1945年5月に開催された「Hollywood Technical Conference」で発表された論文だが、その際のプログラムではRKOのジェームズ・スチュワートとの共同発表となっている。

References

[1]^ J. Houseman, Run-Through: A Memoir. Simon and Schuster, 1972.

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[3]^ C. O’Dell, “‘The Fall of the City’ (‘Columbia Workshop’) (April 11, 1937); Essay [Added to National Registry: 2005],” Library of Congress, 2005.

[4]^ J. Naremore, Orson Welles’s Citizen Kane: A Casebook. Oxford University Press, 2010.

[5]^ P. Heyer, The Medium and the Magician: Orson Welles, the Radio Years, 1934-1952. Rowman & Littlefield Publishers, 2005.

[6]^ “Broadcast Gives ‘Sight’ to the Ears,” Popular Mechanics, vol. 69, no. 1, pp. 90–92, 128A, 1938.

[7]^ P. Doyle, Echo and Reverb: Fabricating Space in Popular Music Recording, 1900-1960. Middletown, Conn. : Wesleyan University Press, 2005.

[8]^ I. Chusid, Reckless Nights and Turkish Twilights (CD): Liner Notes. Columbia (CK65672), 1992.

[9]^ “Listening to a Fountain,” Evening Standard, London, p. 14, Sep. 21, 1926.

[10]^ “Inserting the Echo,” The Manchester Guardian, Manchester, p. 10, Aug. 09, 1930.

[11]^ “Radio’s Exchange of Programs to Link Continents,” AP, New York, Aug. 13, 1931.

[12]^ “Writer Marvels at B.B.C. Centre: Finest Broadcasting Headquarters in the World is His Opinion,” The Montreal Daily Star, Montreal, p. 26, Sep. 26, 1932.

[13]^ “Completion of Radio City Crowns Achievements of Microphone World in ’32,” Quad-City Times, Davenport, Iowa, p. 19, Jan. 01, 1933.

[14]^ “NBC Uses Echo Room to Make Voice Sound Hollow in Radio Drama,” Broadcasting, vol. 4, no. 1, p. 26, Jan. 01, 1933.

[15]^ B. A. Stebbins, “‘Tarzan’: A Modern Radio Success Story,” Broadcasting, vol. 4, no. 2, p. 7, Jan. 15, 1933.

[16]^ Z. Palmer, “ON THE AIR,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Sep. 06, 1934.

[17]^ E. McGill, Radio Directing. McGraw-Hill, 1940.

[18]^ “Echo Chamber 16 Stories High Utilized by WTAM,” NBC Transmitter, vol. 10, no. 1, p. 4, Oct. 1944.

[19]^ K. S. Tyler, Modern Radio. Harcourt, Brace, 1944.

[20]^ “Progress in the Motion Picture Industry: Report of the Progress Committee for the Year 1938,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 23, p. 119, Aug. 1939.

[21]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938. Accessed: Dec. 21, 2021.

[22]^ L. S. Becker, “Technology in the Art of Producing Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXIX, p. 109, Aug. 1942.

[23]^ D. J. Bloomberg, W. O. Watson, and M. Rettinger, “A Combination Scoring, Recording, and Preview Studio,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 49, no. 1, p. 3, Jul. 1947.

[24]^ M. Rettinger, “Reverberation Chambers for Rerecording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 45, no. 5, p. 350, Nov. 1945.

[25]^ R. Miklitsch, Siren City: Sound and Source Music in Classic American Noir. Rutgers University Press, 2011.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part I)

RCA設計のエコーチェンバー(Reverberation Chamber)

前回、「市民ケーンとマッカーサー」という記事で、『市民ケーン』の革新性について言われていることのうち、コートレンズの革新性について考えてみた。当時のアメリカの光学技術をめぐる状況を見渡してみると、見えてきたのは軍事研究の重要な一分野だったレンズコーティング技術が、スピンオフしてハリウッドに恩恵をもたらしていったという事実だった。そしてハリウッドのメジャースタジオの撮影部門は、おしなべてコーティングレンズの開発に積極的であり、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドもそのなかの一人だったということだ。

今回も『市民ケーン』の革新性について、分析してみたい。今回取り上げるのは<音>である。その中でも<音と空間>のテクニックについて考えてみたい。

マジソン・スクエア・ガーデンの演説シーン

映画の音響技術についてのドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ(Making Waves: The Art of Cinematic Sound, 2019)』で、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の音響設計がいかに当時画期的だったかという話が出てくる[1]。『地獄の黙示録』などの編集で知られるウォルター・マーチは「(ウェルズは)『市民ケーン』でラジオの技術を映画に転用した」と述べている。そしてそのラジオから転用された<技術>として、空間における音の残響・反響(リバーブ, reverberation)の設計を上げている。

『市民ケーン』において、オーソン・ウェルズは音についての技術をラジオから映画に持ち込みました。カメラの焦点深度の場合と同じように、音の空間性についても挑戦したのです。空間はそれぞれ異なった音の反響特性をもっており、反響(reverberation)の要素を繊細に使いこなして、物語を語ることができるということを示したのです。

ウォルター・マーチ[1]

このマーチの発言とともに、オーソン・ウェルズが演出、主演したラジオ・ドラマ「宇宙戦争」が引用され、『市民ケーン』のいくつかのシーンがさらに引用されている。『市民ケーン』で引用されているのは、いずれも広い空間で音が反響しているシーンだ。例えば、ケーンの巨大な邸宅ザナドゥで暇を持て余したスーザンとチャーリー・ケーンの会話、選挙演説会場でのチャーリー・ケーンの演説、それにサッチャー・ライブラリでの会話のシーンだ。

なぜ『市民ケーン』のこれらのシーンが<画期的>だったと言われているのだろうか。実はマーチの発言は要約されすぎている。広い空間を音が伝搬すれば、壁や天井、床で反射して、その空間特有の反響がもたらされる。広い大会堂で演説すれば、声が反響して聞こえるだろう。その様子を撮影し、同時に適切に録音すれば、広い空間であることはおのずとわかるはずだ。それはたいして驚くことではない。『市民ケーン』が<画期的>だと言われたのは、これらのシーンは特に広くないスタジオで撮影され、声の反響はあとから人工的に(・・・・)つくられたものだからだ。

『市民ケーン』より チャールズ・フォスター・ケーンの選挙演説のシーン

この点において、マジソン・スクエア・ガーデンでの演説シーンは特に注目に値する。実際に撮影に使われた空間よりもはるかに大きく、また聴衆で会場が埋まっている錯覚を作り出すために視覚的な効果が工夫された。

マジソン・スクエア・ガーデンのシーンの聴衆側から見たショットでは、演説者のステージだけがセットとして作られた。巨大なホールと観客はすべて書割である。書割に小さな穴が開けられており、そこから光がチラチラ見えるのは、観客が持っているプログラムがヒラヒラしている様子を模している。カメラの動きは、あたかも巨大なアリーナでカメラが高みから降りていくような印象を与える。観客をとらえるリバース・ショットは全体を捉えずに細かいディテールだけに限定している。来賓席のエミリーと息子、ホールの観客席のリーランドたちといった具合だ。

ロバート・L・キャリンガー[2 p.87]

これに対応して、音の設計が施されている。

音に関しては、特殊効果の問題と同じ問題を抱えていた。(演説会場のような)イベントの感覚と感触をいかに人工的に作り出すかということだ。・・・録音コンソールでは、ウェルズの声の反響速度(reverberation rate)を操作してエコー・チャンバー効果を作り出した。リアリズムをさらに加味するために、もとの録音のコピー、しかもそれぞれ音質が異なるものがいくつも作られ、無音部分にその様々な断片が挿入された。よく聞くと、演説の文句やフレーズのあいだに挿入された声がエコーのように聞こえるのが分かるだろう。エコー効果も極めて繊細に調整されている。話者にカメラが近いときにはエコーは短く目立たないが、聴衆が映し出されるショットでは、遅延が大きく、かつ反響音が大きくなっている。

ロバート・L・キャリンガー[2 p.105]

今の録音技術を知っている人からみれば、あまりに原始的で、いったい何が困難だったのか、とても理解できないかもしれない。だが、この時代の技術を用いて、現代の私達が聞いてもさほど違和感を覚えない音響効果を達成できていることじたいが驚きなのだ。

1940年のオーディオ技術

1940年当時のさまざまなメディア製作環境でのオーディオ技術(録音・再生)はどのようなものだったのだろうか。

当時のラジオ放送はほぼすべて生放送である。だが、番組制作においては、効果音や政治家の演説などの音源としてあらかじめ録音されたものが使用されることもあった。

このような場合の録音媒体の主流は、アセテート盤(ウィキペディア)であった。これはラジオの放送局や、映画スタジオなどでも、比較的手軽に録音・再生ができるため、頻繁に利用されていた。これをラジオ放送そのものに使用することもできるように思われるが、たいていの場合、敬遠された。音質がよくなかったのである。日本でも1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送はアセテート盤に録音されたものが放送されたが、音質は決して良くなかった。

一方、映画で使用されていた録音・再生技術はオプティカル・サウンド(ウィキペディア)である。これは、オーディオ信号をフィルムに記録する手法で、記録されたサウンドトラックに光を照射すると透過光量で音の強弱が読み取れる。1926年に導入されて以来、ノイズ低減とダイナミックレンジの向上に業界をあげて取り組み、音質に関しては優れていたが、フィルムの現像やプリントに手間がかかる。録音したその場で再生して確認するのが困難なのだ。

ドイツでは、これらに加えて磁気テープによる録音・再生がおこなわれていた。1935年にAEGがマグネトフォンを発表している1)。磁気記録では鋼線に録音するスチール・レコーディング(ウィキペディア)があるが、これはイギリスでBBCが番組制作や記録に利用していた。磁気記録は録音再生が比較的容易であるが、鋼線記録はノイズの問題を克服できなかった。

ハリウッドでは、ほぼすべての録音・再生はオプティカル・フィルムを使用しておこなわれ、補助的にアセテート盤を使用する、というのが一般的だった。例えば、PRCの西部劇『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(The Hawk of Powder River, 1948)』で主人公の<歌うカウボーイ>エディ・ディーンが馬に乗って歌うシーンをみてみよう。バスター・クラッベやエディ・ディーンの映画で録音技師の助手をしていたジャック・ソロモンによると、こういったシーンはあらかじめ曲が録音されたアセテート盤にあわせて俳優が歌う演技をするのをオプティカル・フィルムに録音していくのだそうだ[3 p.5]。ポータブル・プレーヤーがカメラのドリーに載せられているが、針が飛ばないように時速8キロくらいで進まないといけない。それでも地面に何かあると針が飛ぶ。<歌うカウボーイ>のジーン・オートリーやロイ・ロジャーズは全速力で悪人を追跡しているときに歌うわけにはいかず、なみあしの馬上でのんびり歌うしかないのである。

『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(1948)』

映画フィルムを用いた録音技術は、録音、ダビング、編集、ミキシングすべてを現像をともなうフィルムで行う、という気の遠くなるようなプロセスを必要とした。もちろん、アナログ信号技術であり、フィルムそのものがもつノイズや、真空管アンプ回路内のすべての歪みやノイズがダビングのたびに重ねられていく。1938年に映画芸術科学アカデミーから発行された「Motion Picture Sound Engineering」では、映画製作のプロセスについて以下のように記述されている。

現在の映画のための録音は、音としての状態は2つ、機械的状態としては6つ、電気的状態としては3つ、光学的状態としては6つ、化学的状態としては4つの状態を通過し、これらの状態同士、そして状態内での24回の変化のうち、少なくとも12回は機械的運動が重畳していることを忘れてはならない。

ケネス・ランバート[4 p.71]

そして、トータルとして2~3%程度の歪みが許容範囲だという。当時の装置やフィルムの性状について調べると分かるが、これは並大抵の技術力では達成できない。

リレコーディング

オーディオ・エフェクトとしての「リバーブ/反響(reverberation)」の議論に入るまえにもうひとつ取り上げておきたいことがある。映画のサウンドトラック製作におけるリレコーディング(rerecording)の工程だ。

トーキー映画が導入された当時、1927年頃から1930年代初頭までは、オーディオの記録再生のダイナミックレンジも帯域も限られており、さらにはフィルムのもつノイズや録音時のノイズが無視できないレベルだったため、撮影現場で録音されたトラックを音質劣化させずに手を加えるのは非常に困難だった。コピーを重ねるとノイズが無視できないほど大きくなってしまうのだ。1930年代初頭の映画を見ていると、ショットが変わるとバックグランドのノイズ(たとえばハム)が変わるのが露わになるケースに頻繁に遭遇する。例えば、この『アギー・アップルビー(Aggie Appleby, Maker of Men, 1932)』からのシーンでは、フィルムがカットされショットが切り返されるたびにバックグランドのノイズの特性が変わるのが分かるだろう。さらにザス・ピッツ(声の高い、チェックのブラウスを着た女優)のほうは、高い声で音が歪んでしまっているのが明らかだ。つまり、ザス・ピッツのセリフを撮影・録音したカメラ、マイクのセットアップ(A)と、もう一人の女優、ウィン・ギブソンのセリフを撮影したセットアップ(B)はそれぞれ異なっていたのだろうと推測できる。注意して聞くと、このビデオクリップで1分38秒から1分41秒あたりで、同じショット内でノイズが変わり、他のザス・ピッツのショットと同じノイズ特性になっている。1分38秒からのザス・ピッツのセリフはセットアップ(A)で録音されたものが挿入されたのであろう。

『アギー・アップルビー(1932)』 バックグランド・ノイズの例

初期のトーキー映画は、このようにショットごと、あるいはセットアップごとに音のダイナミックレンジ、歪み、ノイズ特性が変わるばかりか、ショットとショットをつなぐ部分に「ブリップ」と呼ばれる雑音が存在することも少なくなかった。これは、セリフ、効果音、音楽などの音の要素を映像とともにアドホックに編集していたからである。

1930年代には、映画サウンドトラックのノイズ低減のためにさまざまな手段が講じられた。粒状ノイズを低減したネガフィルム、音量に合わせて記録再生を最適化するプッシュプル方式などが登場し、ダイナミックレンジも広がった。そして上記のような「シーンごとに音の特性が変化する」問題を解決し、かつ、映画全体にわたって音響設計───セリフ、効果音、音楽などの音の要素をストーリーに合わせて操作すること───をおこなうために、<リレコーディング(Rerecording)>という工程が導入された。編集、ミックスダウン、マスタリングすべてを総合した工程といっても良いかもしれない。

前掲の「Motion Picture Sound Engineering」の「リレコーディング」の章を参照すると、1938年にはハリウッドのほぼすべての映画製作においてリレコーディングがおこなわれていたようだ[4 p.71]。『アギー・アップルビー』を1932年に製作したRKOは、1936年頃にダビング用コンソールを開発して全製作作品に用いている[5]。例えば、RKOがダビング・コンソールを用いてリレコーディングの工程を導入した後の作品、『美人は人殺しがお好き(The Mad Miss Manton, 1938)』を見てみると、リレコーディングの効果は明らかである。バックグランドのフィルムノイズは全くといっていいほど気にならないし、ショットが変わってもノイズの特性、レベルは変わらない。スタンリー・リッジスの殺人の告白の途中、非常に小さな音量で効果音楽が入ってくる。この音楽の表情は、リッジスのセリフの内容にあわせて変化しながら、次第に音量を上げてくる。このような繊細な制御を必要とするミキシングが可能になったのも、フィルムや撮影、編集時のノイズ混入が最小限に抑えられているからだ。だが、スタンリー・リッジスの囁くような声で話しているときには聞きやすいのだが、少し大きな声で話すと低域側が歪んでしまう。ダイナミックレンジの問題はまだ完全に解決できたわけではなかった2)

『美人は人殺しがお好き(1938)』 ノイズ低減とリレコーディングの効果

トーキー登場時の<セリフや音楽がシンクロしている映像>という物珍しさから、<映像と音で物語を語る>というシステムにわずか10年ほどで移行したのである。

では、このような技術環境のもとで、いかに<反響を使用した空間表現>が生まれたかを考えてみたい。

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Notes

1)^ 磁気テープによる録音・再生技術はナチスドイツの国家機密だったといわれることが多いが、フリードリッヒ・K・エンゲルによれば、戦時中でもドイツ国外でAEGの磁気テープ技術に関する情報を入手するのは比較的容易だったという。1937年にAEGはマグネトフォンをアメリカのGE社に送り、アメリカでの事業展開を打診している[6 p.60]

2)^ もちろん、現存しているプリントの状態、デュープ(コピー)作成時の問題、あるいはキネスコープやデジタル化でのマスタリングの問題などでサウンドトラックが歪んでしまう場合もある。RKOの場合はオプティカル・サウンドトラックに可変領域方式を採用していたため、プリント作成、デュープ作成での歪みは起きにくいと思われるが、デジタル化などの段階で発生するダイナミックレンジ圧縮や符号化による圧縮で音質が劣化することは頻繁に起きているようだ。

[追記 2022/8/8]1936~38年ごろまで、可変領域方式には独自の問題(ブラスティング blasting)があった。これは、セリフなどのごく一部(一単語、あるいは一音節のみ)が突然ひずんでしまう現象で、RKOとRCAのエンジニアたちを悩ませた。RKOの『美人は人殺しがお好き』のこの問題も、ブラスティングが完全に除去できていないのかもしれない。ブラスティングについてはこの記事で詳細に論じた。

References

[1]^ M. Costin, G. Rydstrom, S. Spielberg, and T. Eckton, Making Waves: The Art of Cinematic Sound, (Oct. 25, 2019).

[2]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Revised edition. 1996. 

[3]^ V. LoBrutto, Sound-on-film: Interviews with Creators of Film Sound. Greenwood Publishing Group, 1994. 

[4]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938.

[5]^ J. O. Aalberg and J. G. Stewart, “Application of Non-Linear Volume Characteristics to Dialog Recording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 31, no. 3, pp. 248–255, 1938.

[6]^ E. D. Daniel, C. D. Mee, and M. H. Clark, Eds., Magnetic Recording: The First 100 Years, 1st edition. New York: Wiley-IEEE Press, 1998.

『ノマドランド』と労働の時間

ネバダ州エンパイア(Google Map Street View)

マッケンジー

先生はホームレスになったってママがいってたけど、本当?

ファーン

違うよ。私はホームレスじゃない。ハウスレスよ。同じじゃないでしょ?

こんにちは、市長さん

1981年6月、アメリカのレーガン大統領は、ホワイトハウスで開かれた会合でサミュエル・R・ピアス・ジュニアと握手しながら「やあ、こんにちは、市長さん」と言った。ピアスはどこの市長でもなかった。彼は住宅都市開発省の長官だったのだが、レーガンは国民の住宅事情に興味などなかった。彼の政権は低所得者層のための住宅助成金を削減の対象にしてゆき[1]、任期中に3分の1以下に減らした[2]。後年、住宅都市開発省から共和党関係者に資金が流れていたというスキャンダルが発覚したが、ピアスはその中心人物として議会委員会や司法省の調査の対象となった[3], [4]

「ホームレス」という言葉は、1980年代初頭にアメリカ英語のボキャブラリーとして登場している。レーガノミクスが生んだ言葉だと言っても過言ではないだろう。レーガンはテレビのインタビューでホームレスについて「あの人達は好んで(by choice)ホームレスになったんでしょう」と言っている1)[5]

アメリカの新聞での”homeless”という言葉の出現推移(newspapers.com)

1998年、ネバダ州リノのエルドラド・ホテル&カジノの重役イアン・ヒルが3日間にわたってホームレスを装って路上生活を経験した。その経験のあと、彼はリノの地元紙に語っている。「ホームレスはこの地域の人間にとって選択肢であってはならない。」[6]

日本では『幸せの黄色いハンカチ』で知られるピート・ハミルは、ニューヨーク・マガジンに寄稿した文章のなかで、「ホームレスはもはや住居の問題ではなく、公衆衛生の問題だ」と断言し、使用しなくなった政府の施設にホームレスを収容して、一般市民から隔離することを提案している[7]

『ノマドランド(Nomadland, 2021)』の主人公ファーンはベビーブーマーだ。レーガン時代は、まだ20代、レーガンに反感をいだく若い世代として、ホームレスに同情していたかもしれない。だが、夫とネバダ州のエンパイアに住んでいた頃には、160キロ離れたリノの町がホームレスで悩まされているという新聞記事を読んでいただろう。ピート・ハミルが呪詛のごとく吐き出した文章も読んだかもしれない。多くの人は、ホームレスはアルコール中毒者、薬物中毒者、ベトナム戦争帰還兵、精神病院を追い出された者たちの集まりで、エイズや結核を撒き散らしていると思っていた。ホームレスの問題を共和党の責任にする民主党支持者たちも、いざとなると「Not in my backyard(NIMBY)」の仏頂面で態度を硬化させた。ファーンの「私はホームレスじゃない、ハウスレスだ」というセリフには、80年代から90年代を生きたベビーブーマーたちのホームレスに対する嫌悪感にも近い差別意識がにじみ出ているように感じる。

『ノマドランド』を現代の格差を描く映画としてとらえる批評も多く存在するが、私にはどうもしっくりこなかった。町山智浩は前述のファーンのセリフを「家(ハウス)はないが、ホーム(住む場所)はある。この広い大地すべてだ。」という意味に解している[8]。だが、マッケンジーの質問とセットで考えたとき、私には「ホームレスではない」という否定の響きのほうが耳に残ってしまった2)。あるいは現代のロードムービーとして、『イージーライダー』などと比較する論考も眼にした。だが私には、ファーンやその他の人物たちの世界がなぜ<アマゾン>と共存できるのかが、納得できなかったである。いろいろ調べているなかで、ある映画が『ノマドランド』の世界にある種の遠近法のきっかけを与えてくれた。マコーレー・カルキン主演の『リッチー・リッチ(Ri¢hie Ri¢h, 1994)』だ。

突飛なことを言っていると思われるかもしれないが、決してそうではない。ファーンが夫と長年暮らしたのは、ネバダ州のエンパイア、USジプサム社(United States Gypsum)の町だった。『リッチー・リッチ』でリッチ産業のビルのロビー、リッチーと彼の友達たちがローラースケートで走り抜ける場所は、USジプサム社の持株会社USGの本部、USGビルで撮影されている。このUSGビルは1992年に建てられたもので、『リッチー・リッチ』撮影時にはまだ新築に近い状態だった。つまり、荒唐無稽な富を描く映画の背景として、USGは選ばれていたのである。

『リッチー・リッチ(1994)』に登場するUSGビルのロビー(Warner Bros. Entertainment Inc.)

『リッチー・リッチ』のストーリーの軸になっているのが<合理化>である。リッチ家はまるで慈善事業のように会社を運営していて「誰もクビにしない」がモットーである。そこに唯一<正気の>資本主義者ヴァン・ドーが立ちはだかろうとする。ヴァン・ドーがリッチ家に提案する計画は、合理化(工場閉鎖、人員削減)して利益を追求しようというものにすぎない。ゴードン・ゲッコーなら鼻で笑うだろう。むしろ、リッチ夫妻の提案する「工場を労働者にタダで手渡そう」というアイディアのほうが共産主義の亡霊のようで薄気味悪くさえある3)。ヴァン・ドーは会社乗っ取りを画策し、様々な暴力沙汰を起こして、みごと悪役として昇華する。

ヴァン・ドーがおとぎ話のUSGビルで会社の乗っ取りを画策していたとき、実際のUSGの重役たちは敵対的買収から立ち直ろうとしていた[9]。そのために従業員を解雇するなど<合理化>を進め、この映画の数年後には、イリノイ、アラバマなど各地に主力商品である石膏ボードの工場を建設して市場の拡大をはかっている[10]。この合理化は成功し、さらに住宅バブルの追い風を受けて、会社は好調だった。USGのCEO、ウィリアム・C・フットは2006年に1660万ドルの報酬を受け取っている[11]。これこそ、おとぎ話のヴァン・ドーがやりたかったことに違いない。

石膏ボードは、現代の住宅には欠かせない建材だ。だからこそ、2000年代にUSGは急激な成長、そして没落を経験する。2000年にドットコム・バブルが弾けたあと、前述の住宅都市開発省がフレディー・マックとファニー・メイに低所得者層への住宅資金融資の比率を上げるように要請する。これがサブプライムローン問題の始まりである。2000年代前半、住宅開発はバブル状態になっていく。それにともなって石膏ボードの生産量も2005年に史上最高を記録した。だが、2007年にサブプライムローンの貸付会社が次々と倒産し始め、連鎖的に金融危機が引き起こされてしまった。日本では<リーマン・ショック>と呼ばれているが、リーマン・ブラザーズの崩壊は結果でしかない。

ネバダ州のエンパイアにはUSジプサム社の採掘場と工場があったわけだが、2000年代前半は住宅バブルのおかげで実に好調で、エンパイアの住人の悩み事といえば、近くで毎年行われるバーニング・マンくらいだった。それがサブプライムローンの夢が弾けたあと、急激に業績が落ち込み、2011年には事業所・工場の閉鎖にともなって、住民は町から出ていかなければならなくなっていた。ファーンもそのうちの一人という設定だ。

アメリカの石膏ボードの生産量推移[12]

ファーンは姉の家を訪問したときに、不動産業を営む姉の友人たちに言い放つ。「人々になけなしの貯金をはたかせ、借金をさせ、買えるわけのない家を買わすなんて変だと思う。」もちろん、これはサブプライムローンのことを指している。だが、彼女と彼女の夫のボーの生活を支えてきたのは、まさしくこの「買えるわけのない家」がアメリカじゅうで建設されて、石膏ボードが飛ぶように売れたからではなかったか。景気の良いときには当然のように享受し、悪くなると途端に批判の矛先を探し始める。私達の多くはみなこの無自覚のサイクルを繰り返しているのだろう。むしろこの無自覚が、資本主義社会に生きる人間らしい振る舞いだとも言えるかもしれない。

『ノマドランド』の遠景には、ベビーブーマーが生きてきた時代の舞台装置の残骸がならんでいる。この映画では近景しか映っていないが、その向こうに霞んでいる景色を目を凝らして見ていくと、その近景も違う色を帯びてくる。『リッチー・リッチ』に登場するUSG本部の豪奢なロビーはこの舞台装置の残骸のひとつだ。

路上の労働

(ベビーブーマーは)アメリカ人のなかでも最もよく働く、責任感の強い世代です。だからああいった季節労働者として、雇う方からしても人気があるんです。若い世代、ミレニアルは平気で次の日来なかったりするけれど、スワンキー、リンダ・メイ、ボブ・ウェルズやファーンはすごく責任感が強いんです。

クロエ・ジャオ[13]

ベビーブーマーがハードワークをもろともしない、強い労働倫理をもっているのは、「努力は成功につながる」時代を生きたからであって、その後のジェネレーションXやミレニアルのように違う時代環境で育った者たちは異なった労働観念をもっていると言われる[14]。もちろん、ジェネレーション間の相違をことさらに強調する視点は、ものごとをあまりにも一般化しすぎるきらいがあるが、ファーンの「私は仕事が好きだ」という発言はこの世代の特徴をストレートに表していると言ってよい。この映画では、若者たちはラスタファリアンのような労働からかけ離れた存在として描かれているのも特異だ。

『ノマドランド』に描かれているようなベビーブーマーたちが、サブプライムローン危機を迎える直前、どのように老後を考えていたか(あるいは、考えていると言われていたか)を知ることのできるドキュメンタリーがある。『オープン・ロード(The Open Road: America Looks At Aging, 2005)』は、アメリカ各地に住む<老後>を目の前に控えたベビーブーマーたちの様子を追っている[15]。ここで登場するのは「引退してゴルフ三昧なんて冗談じゃない、働き続けたい」という意志を見せる人たちだ。あるいは、年金があまりに少なくてとても暮らしていけないから、身体が動く限りは働き続ける、という人たちもいる。なかでもコロラド州オーロラのホームセンターで働いているジュディ・ネフは、ファーンを彷彿とさせる発言をしている。

私は引退する気はありません。私は働きたいのです。色んな人と一緒にいて、生産的であり続けたいのです。

ジュディ・ネフ(コロラド州オーロラ在住)

『オープン・ロード(2005)』

この態度は、多くのベビーブーマーに共通していると言われている。オーストラリアでの調査ではあるが、ベビーブーマーたちは「自分の資金で引退している人と比較して、年金暮らしをしている人は社会から二級市民とみなされる」と考えているという調査結果もある[16]。つまり、もともと退職の年齢を過ぎても働きたいと考えていただけでなく、年金はあてにならないし、あてにするような人間はろくでもないとさえ思っていた世代なのである。レーガンの<生活保護の女王(Welfare Queen)>4)に端を発し、1992年の大統領選とニュート・ギングリッチの「アメリカとの契約」を経由してクリントン政権の「個人責任および就労機会調整法」に結晶化していく<個人責任(自己責任)>の概念は、1960年代の公民権運動がもたらした<構造的差別>や<構造的貧困>の議論を根こそぎ無効にした。ベビーブーマーというと1960~70年代の公民権運動や平和運動の原動力と思われがちだが、実際にそれらを政治的な俎上に載せて実現していったのは前の世代である。ベビーブーマーの大統領といえば、ビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュ、バラク・オバマ、そしてドナルド・トランプだ。低所得者が政府の福祉に頼る状況から就労へ向かわせようという時代の流れの底辺には、<福祉=依存・無責任><労働=独立・個人責任>という図式の倫理観が流れている。

アマゾンがキャンパーフォース(Camperforce)プログラムを始めたのは2008年である[17]。サブプライムローンの金融危機で老後の蓄えを失い、キャンピングカー暮らしになった高齢者の高い労働意欲と雇用税額控除の制度(高齢者などを雇うと雇用主が税額控除を受けられる制度)を活用したシステムである。この雇用税額控除の制度もビル・クリントン政権時代に<福祉から就労へ>の理念のもとに登場したものだ。つまり、アメリカのベビーブーマー世代の多くが長年にわたって支持してきた<個人責任>の思想が広く浸透し、大企業が利益を生む構造として結実したのがキャンパーフォースである。ここで働くノマドワーカーたちはもちろんそのことに気づいている。「アマゾンが(高齢者のような)鈍くて非効率な労働力を雇うのは、税金が節約できるから[18]」からだとわかっている。

だが、前述の『オープン・ロード』に登場するジュディ・ネフは、もう一つの残骸の風景を思い起こさせてくれる。彼女はあるチェーン店の店員募集の面接で落ちてしまう。採用されたのは若い男性で、時給も2ドルも彼のほうが高かった。高齢者、女性だからと就労機会に偏りがあったり、賃金に差があったりする。2005年はそんな時代だった。少なくともアマゾンのキャンパーフォースはその点において全員平等である。

『オープン・ロード』では、ベビーブーマーよりも前の世代に人気の引退生活として、キャンピング・カーで全米を旅する人たちを紹介している。キャンピング・カー(RV)でアメリカの各地を訪れ、大自然を楽しむというライフスタイルは多くのベビーブーマーにとっても夢であった。ただ、前の世代の高齢者たちは、自宅をもちつつもキャンピング・カーで繰り出し、また自宅に舞い戻って次の旅を計画する、というサイクルを楽しんでいた。『ノマドランド』に登場するベビーブーマーたちは、その<自宅>がないのである。前の世代の高齢者たちは、みずから進んで(by choice)キャンピング・カーでの長い旅に出た。ファーンはどうだろう。確かにエンパイアの家から追い出されて(エンパイアではUSジプサムの社員とその家族は会社の借り上げ住宅に住んでいた)路上に出たが、一方で彼女に「うちに住まないか」という姉や友人の提案も断っている。状況によって仕方なく路上に出た側面と、家族や友人との煩わしい関係よりも自立の精神を選んだ(by choice)側面とあるだろう。

この「キャンピング・カーでアメリカ中を旅する」というアイディアはどこから来たのだろうか。ファーンの姉の言うように<馬車に乗って大陸を開拓したアメリカ人たちの記憶>まで遡ることも可能だが、ベビーブーマーにもっと直接的に影響を与えたTV番組がある。チャールズ・クラルトの「オン・ザ・ロード(On the Road with Charles Kuralt)」だ。1967年に始まり20年近く続いたこの番組では、CBSの顔だったチャールズ・クラルトが、キャンピング・カーに乗って全米の<裏道>を走り回り、小さな町や村で出会う<普通だがちょっと変わった人々>を取材した。いまでも日本のTVを占領している<旅先で出会う人々>の番組の先駆けのような番組である。クラルトは、ベトナム戦争の取材で疲弊しきっているニュースとその視聴者を、アメリカのなかにある小さな幸福に向けさせるという仕事をした。イリノイ州の養豚農家ビル・パッチが自分のクルマを改造してトウモロコシの芯を燃料にして走るようにした話、ノースカロライナ州ベルモントの自転車店のジェスロ・マンが自転車を買えない子どもたちのために古くなった自転車を改造してレンタルしている話、モンタナ州バイアナで53年間小学校の教師を勤めたアイラ・パーキンスが退職する日などを取材して、親しみやすい声のナレーションで紹介していく。<ロードムービー>と言うと、『俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)』や『イージー・ライダー(Easy Rider, 1969)』に端緒をみるカウンター・カルチャーの表象として思い起こされることが多いかもしれないが、それよりも早い時期に、よりシンプルに、そしてより幅広い層に受け入れられるようにパッケージ化されて登場した映像がチャールズ・クラルトの番組だった。ジャック・ケルアックの「路上(On the Road, 1957)」を意識した番組タイトルは、カウンター・カルチャーから<路上>を取り戻そうとする意志の表れだったのかもしれない。

『オン・ザ・ロード・ウィズ・チャールズ・クラルト』

アメリカの<路上>で出会う人は、素朴で良い人たちだ、この人達がアメリカの偉大さの基盤なのだ、という神話は、こういった番組で視聴者の記憶の中に幾重にも強化されていった。クラルトの番組を見てみると、その構成力の巧みさに驚かされる5)。1971年9月7日に放映された回はセント・ルイスで出会ったモリー・ガイスラーの歌から番組は始まる[19]。そして、一つ一つのエピソードのブリッジに彼女の歌が使われ、その歌詞とまるで合わせたかのような風景が映し出されていく。クラルトの柔らかく温かい声は、この旅は工業化や商業化で失われたアメリカの原風景を探す旅だと語る。かつて牧草に覆われ、いちごを摘んだ野に、今はハンバーガー店が立ち並んでいる。この原風景を探す旅は、多くのアメリカ人にとって魅力のあるものなのだろう。そしてキャンピング・カーで探しに行けば、<汚れなき土地>と<良い人々>に会えるという幻想をもう一度刷り直したのが『ノマドランド』だ。ただ、<良い人々>は裏街道の小さな町に何十年も住んだウィリアムやシャーロットではない。<良い人々>も<路上>をキャンピング・カーでさまよっている。

そして『ノマドランド』では、<汚れなき土地>を映し出す美しい映像が注目され、称賛が集まった。

マジックアワーの美学

マジックアワーの光は神が与えてくれた最高の光だ。この時にすべての精霊が出現する。この時に人々の顔は本来の相貌になり、あなたの真のすがたを見ることができる。

ジョシュア・ジェームズ・リチャーズ[20]

『ノマドランド』のアメリカ西部の広闊な原野をとらえた映像、特に<マジックアワー>と呼ばれる時間帯に立ち現れる自然光の魔術をとらえた瞬間は多くの批評で高く称賛された。

この映像の議論に入る前に、マジックアワーについて整理しておきたい。ジョン・デヴィッド・ヴィエラによれば、マジックアワーには定義が2つあるという[21]。狭義のマジックアワーは、日没から始まり、空が明るさを失うまでのあいだ、およそ20~30分の時間をさす(もちろん、緯度と季節によってその長さは変わる)。空に明るさが残るなか、一方で太陽は地平線の向こうに沈んで、直射の日光がなくなる。地上の人物の影は空からの光で埋められて、神秘的な光景が生まれる[22]。一般的には夕暮れの時間を指すことが多いが、日が昇る時間にも同じくマジックアワーは存在する。もう一方の定義は、午後遅くのあたたかい日光の時間帯から、暗闇になるまでのあいだをさす。『天国の日々(Days of Heaven, 1979)』は、この広義のマジックアワーにあてはまるという。

一部では<マジックアワー>のことを<ゴールデンアワー>と呼ぶ習慣があるようだが、これについては後述する。

さて、マジックアワーはあくまで時間帯として定義されているのだが、一般的には、地平線に近い方角から届く、オレンジ色の柔らかくあたたかい太陽光にすべてが浸かったような情景のことを指すと思われている。どんな写真でも、コントラストと露出を少し下げ、ハイライトとサチュレーションをかなり上げればマジックアワーで撮影したように見える、といったチュートリアルもあちこちで見られる。ブログやインスタグラムの今の時代には、そういった写真が氾濫している。

家を離れて、キャンピング・カー、RV、ヴァンで路上に出て暮らすライフスタイルはヴァン・ライフ(Van Life)などと呼ばれ、日本でも注目を浴びつつあるが、アメリカでは多くの人が自ら選んで(by choice)、あるいは必要に迫られて、ヴァン・ライフを始めている。このヴァン・ライフを紹介したり、あるいはヴァン・ライフを選んだ人たちに向けてビジネスをしているウェブサイトでは、このライフスタイルを魅力的に見せる写真が数多く掲載されている。それらを見ていると、かなりの数が広大な荒野、自然をマジックアワーに撮影したものだということに気づく。これは映画『ノマドランド』の影響ではなく、それ以前からそうだった。むしろ『ノマドランド』はその美学を受け継いでいると考えたほうがよいかもしれない。

たとえば、<go-van.com>の2019年の記事では『ノマドランド』でも登場したラバー・トランプ・ランデブーが紹介されているが、掲載されている写真の大部分がマジックアワーに撮影されているものだ。人気のアプリ<vanlife app>のサイトでも、たとえば2019年、2020年の記事の大部分で、マジックアワーに撮影されたか、あるいは不自然なまでにハイライトとサチュレーションをあげてそれっぽく見せている写真がいくつも掲載されている。

“#vanlife”の無料画像素材(pexels.com)

この「アメリカの原野を写すときはマジックアワーに」というトレンドはどこから来たのだろうか。いわゆる<アウトドア>で過ごす余暇を紹介する雑誌などを追いかけてゆくと、1990年代にはこのトレンドが登場しているように見える。それがクルマの広告において特に顕著なのだ。例えば、トヨタの広告は1970年代はどちらかといえばテキスト中心で商品としての特徴をなんとか伝えようという意図が見える。それが(激しい日本車バッシングにさらされた1980年代は鳴りを潜め)1990年代にマジックアワーのグランド・キャニオンの写真に不自然にRV車の写真を埋め込んで、消費者の想像力に訴えかけようとしている。その傾向は2002年のプリウスの広告でも同じだ。1980年代のフォードのトラックの広告もテキスト中心で、クルマがよくわかるように撮影された写真が掲載されているが、1990年代のホンダシボレーの広告ではオレンジ色の空を背景にクルマが映し出されている。

トヨタの広告(Backpacker誌 1994年8月号
トヨタの広告(Backpacker誌 2002年8月号

その他にも、アリゾナなどの西部砂漠地帯の旅行ガイドブックなどで、表紙にマジックアワーの写真が使われるようになったのは1980年代から90年代くらいからである。『ノマドランド』の主演であり、プロデューサーでもあるフランシス・マクドーマンドの夫、ジョエル・コーエンが監督した『赤ちゃん泥棒(Raising Arizona, 1987)』には、ニコラス・ケージとホリー・ハンターがアリゾナの荒野に沈む夕日を二人で眺めるシーンがある。それとよく似たシーンが『ノマドランド』に登場していることに気づいた人も多いだろう。

アメリカの消費社会全体を見渡すと、1980年代から、ありとあらゆる映像にマジックアワー(あるいはマジックアワーに似せたもの)が染み込み始めていた。

1980年代、ミュージックビデオでもマジックアワーは多用されていたが(例えば、これこれこれ)、極めつけはカーリー・サイモンの「Live From “Martha’s Vineyard”(1987)」だろう。1時間ほどの戸外ライブは、マジックアワーに撮影されている。

カーリー・サイモン「ライブ・フロム・マーサズ・ヴァインヤード(1987)」(from YouTube Carly Simon Channel

同じころ、アメリカのTVコマーシャルでは、<マジックアワー効果>を狙った映像が氾濫し始めている。例えば、1989年頃のホールマーク(Hallmark)のコマーシャルではひたすら金色の光に包まれたホールマークの店内で、ひたすらニコニコと人生の喜びを噛みしめる人たちが、ひたすらホールマークの商品を買いまくる映像が繰り広げられる。マクドナルドのコマーシャルでは、金色の光に包まれて仕事をする人たちのために、金色の光に包まれたエッグマフィンが作られていく。これは明らかにレーガン政権の登場と同期している。ケロッグのシリアルのコマーシャルが良い例だ。1970年代のケロッグのコマーシャルは、ケロッグの商品がいかにビタミンやエネルギーが豊富かということをひたすら言葉で説明するものが多い。しかし、1980年代になると、朝の金色の光に包まれて、ニコニコとケロッグを食べて、ニコニコと労働に向かう人たちを映し出し始める。コーヒーのフォルジャーズも同じだ。1970年代のフォルジャーズはひたすら長所を喋りまくるか、他社製品との比較実験を町中で撮影するか、といったオールドスクールの広告だが、1980年代には、キャッチーなメロディとともに金色の朝の目覚めがフォルジャーズによって支配されていくさまを描いている。あまりに濫用されてしまい、マジックアワーの魅力を『天国の日々』で世界に知らしめた撮影監督ネストール・アルメンドロスが、マジックアワーを嫌いになってしまうほどだった。

ここ数年、あの金色の太陽光、だらだらとマジックアワーを引き伸ばして、いいように使っている映画が多すぎて、いまではTVコマーシャルの世界にまで浸透してしまうほどの流行になっている。だから嫌いになったんだ。

ネストール・アルメンドロス、1987年[23]

ホールマークのCM(ca. 1989)
マクドナルドのCM「レンド・ア・ハンド」(1986)

『ノマドランド』はもちろん、あからさまな黄金色を使うといったことはしない。大部分の撮影を自然光のみで行い、刻々と変わる恵みの光をとらえたその画面をアメリカン・シネマトグラファー誌が「ニュー・ナチュラリズム」と呼んだ[24]。ラバー・トランプ・ランデブーの集まりで、マジックアワーのなか、ファーンが一人で散歩するシーンがある。人物たちはゆるやかにコリオグラフされ、曠野の匂いが香るような透き通った散乱光のなか、カメラが浮遊しながらファーンの歩みをとらえている。

だが、これが新しいナチュラリズムだと宣言されると、さすがに少し首をかしげざるを得ない。汚れた服と雑草だらけの無印良品の広告というのは言いすぎかもしれないが、あちらこちらに<広大な世界とそれに対峙する私>の使い古されたコードが埋め込まれている。友人の家をそっと抜け出したあと、風雨吹きすさぶ海岸で両手両足を大きく広げて<解放されている私>を表現するシーン、アメリカ西部特有の風景にマクドーマンドを一人立たせて広角で撮る構図、深い森のなかで巨木を抱く(tree hugging)という動作、そういったクリシェの映像表現があまりにも無造作に使われている。大自然のなかでひとりたたずむ人間、あるいはマジックアワーに友人たちと大自然を満喫している、そういったイメージは、2000年以降、広告やウェブ媒体、特にアウトドア商品(例:エディ・バウアー、ティンバーランド、ノース・フェイスetc.)のマーケティングに溢れかえっている。おかれている境遇の近景があるためにそう見えにくいが、(監督やプロデューサーたちの意図はどうあれ)『ノマドランド』でファーンをとらえる映像は「消費社会に染まりきった現代人が旅先で自己満足に浸るさま」の変奏の一種だ。まさしく、インスタグラムなどで<自然の中に解放された私>を演出している多くのユーザーとパラレルの関係にあるといえる。だから、<ニュー・ナチュラリズム>というよりも<オルタナティブ・コンシューマリズム>と呼ぶほうがふさわしいのではないか。

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魔術的な時間が訪れて、世界を覆う光にひたすら浸る私、という構図が1980年代から90年代の消費活動とどこかでつながっており、それが今のヴァンライフとネット文化という、新たな消費活動の交点に姿を現している。『ノマドランド』は結局、ベビーブーマー ───<ミー・ジェネレーション(Me Generation)>─── の時代に新たな消費形態として現れた<大自然と私>、特にマジックアワーの映像がもたらす快楽を踏襲し、さらに増幅している。格差社会を描いているようでいて、実は消費活動の側にすっぽり収まってしまっている映像なのだ。

マジックアワーと労働

マジックアワーとアメリカの風景の関係をたどっていくと、必然的にテレンス・マリック監督の『天国の日々』に行き着く。この映画では、マジックアワーに撮影された麦の刈入れどきの労働のシーンが極めて印象深く、後の多くの映像作家にも大きな影響を与えている。クロエ・ジャオと撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズもテレンス・マリック、そして『天国の日々』から受けた影響を語っている。

『天国の日々』では、労働の様子がマジックアワーを中心に描かれる。すなわち、一日の労働が終わる時間、もう少しで日が沈んでしまう時間が延々と続くのだ。ここまで繰り返しマジックアワーに働く人達を見せつけられると、いつまでたっても終わらない仕事を見ているようでもある。

マジックアワーは労働と休息の境界を象徴しているとも言えるだろう。労働の一日が始まるときの朝の陽射し、労働が終わって夜の休息を告げる陽光、そのそれぞれが時間に特別な意味を与えている。マジックアワーの描写には、それを描く者の労働観を露わにする側面もある。

マジックアワーを劇映画用に撮影するという行為そのものが、映画製作におけるスタッフや演者の労働のあり方と密接に関係している。

『ランボー(First Blood, 1982)』で撮影監督をつとめたアンドリュー・ラズロは、マジックアワーの撮影について興味深い発言をしている[25]。まず、<マジックアワー>を<ゴールデンアワー>と呼ぶ向きもあるが、映画撮影では呼ばない。なぜなら、アメリカの映画業界では<ゴールデンアワー>は別の意味をもつからだ。IATSEなどの労働組合と映画スタジオのあいだの取り決めのなかで、時間外労働が一定の条件を超えると通常の時間外労働手当にさらに上乗せして支払われる、という仕組みがある。この上乗せして支払われる時間をゴールデンアワーと呼ぶ。ラズロによれば、『天国の日々』のようにマジックアワーに特化して撮影をするのは、商業的な映画では無理だという。撮影現場での労働時間の超過が著しくなり、それこそスタッフにゴールデンアワーが適用されて製作費用がかさむからだ。

実際、他の撮影監督たちも、マジックアワーでの撮影については、極めて慎重に考えているようだ。撮影可能時間が短いうえ、光の状態が日によって違うので、テレンス・マリック達のように映像にこだわるにも限界があるのだ。多くの撮影監督は、マジックアワーが始まるまでに用意周到に準備、リハーサルを重ね、マジックアワーでは広角レンズで引いたショットをできるだけカバーし、クローズアップなどのショットは日が暮れたあとに撮るという[26]。その際にマジックアワーに撮影できたショットとクローズアップのショットがズレないように照明は最新の注意を払って選ばないといけない。長くても30分というマジックアワーには複数台のカメラで撮影する撮影監督たちも多い。マイケル・D・マーガーリーズ(『ポリス・アカデミー(Police Academy, 1984)』の撮影監督)は、マジックアワーの最後の方では光量が足りないので、FPSを落とし、俳優たちにもゆっくり演技するように指導するとインタビューで語っている[27]。そこまでしてでも撮りたい時間帯ではあるが、熟練の撮影監督たちでも、できることが限られている。

撮影監督のドナルド・マカルパイン(『ロミオ+ジュリエット(Romeo+Juliet, 1996)』、『ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge!, 2001)』)は、マジックアワーに関わるスタッフたちの実際的な問題について述べている。朝の夜明けと夕方の日暮れ時では、マジックアワーの撮影は、夕暮れのほうがやりやすい。朝に比べて、夕方のほうが「これからマジックアワーになる」という心理的な準備に向いているうえ、スタッフの集合や機材の準備を考えたら朝よりは夕方のほうが簡単だからだ[28]。劇映画において、夕方のマジックアワーの映像のほうが圧倒的に多いのはおそらくこの理由によるのだろう。

つまり、映画を撮る人たちも労働者であり、撮影されている人々や景色とともに同じ時間を生きているのだ。まったく当たり前のことだが、夜に撮影された場面は、スタッフも夜に働いている。しかもスクリーンに映し出された時間よりもはるかに長い時間を働いている。マジックアワーはその時間が短く、かつ日によって見せる色相が違うために、準備やリハーサルを含めて、スタッフには多大のストレスがかかる撮影となる。

では、『ノマドランド』における撮影はどうだったのか。

『ノマドランド』の監督のジャオ、主演のマクドーマンドをはじめ、36人ほどの撮影スタッフは、実際のノマドワーカーのようにキャンプ生活をしながらこの作品を撮影したという。撮影はネブラスカ、ネバダ、カリフォルニア、アリゾナを訪れながら、6ヶ月に及んでいる[29]。マジックアワーに撮影された部分が映画の少なくない部分を占めることも、そういった撮影環境が可能にしている。

映画と労働

少人数のスタッフによるロードムービーでは、こういった製作形態になるのはやむを得ないことかもしれない。前述のチャールズ・クラルトのTV番組でも、4人ほどのスタッフがモーテルを渡り歩きながらロケーション撮影を続け、週末だけ編集のためにニューヨークに戻るというスケジュールを何年にもわたって続けていた。

私が気になったのは、このような映画撮影、長期にわたって映画撮影が実際の生活そのものになるような製作スタイルを称揚するような言説が目立ったことである[29], [30]。<映画をチームワークで作る喜び>とか、<自分の時間をすべて映画に捧げる真摯さ>、<長い時間を費やして美しい映像を撮る>といったことに対しては、一定の距離をおいて考える必要があるのではないだろうか。

監督や主演俳優は自分の名前が映画とともに残る。すべての時間を映画製作につぎ込んでも<自分のやりたいこと>、<自分のスキル>、<自分の人生の目標>という点において、とても満足のいくことができるのかもしれない。そこには自分の生活を犠牲にしたという感覚はないかもしれない。だが、メディアに紹介されることのないスタッフや出演者の多くについて考えてみたときに、はたして同じことが言えるかどうかはやはり考えて見る必要があるだろう。『ノマドランド』がそうだったというわけではなく(どうだったのかは知り得ないだろう)、製作姿勢そのものが、関わった多くの人の<やりがい>や<生活の時間>を自動的に要求するような、そういった手法を<新しい映画製作のスタイル>として称賛してしまってよいのだろうかと感じてしまうのだ。

もう一歩踏み込んでみると、この<仕事>と<人生の目標>を同一視するような労働観が一般人にもひろく広がったのが、ベビーブーマーの時代だということとも関わってくると思う。1980年代に成年から壮年に達したベビーブーマーたちは、世の中に役に立ちたい、生産的でありたいという姿勢で社会に臨んでいる。また<ジョブ(Job)>ではなく、<キャリア(Career)>として職業を捉えるようになり、仕事は自己実現であるという考え方が浸透した時期でもある。ベビーブーマーたちが就職に直面した1970年代以降、就職指南書として長年ベストセラーだった「あなたのパラシュートは何色?(What Color Is Your Parachute?)」には<人生の目標>と<自分のスキル>を考えて職探しに臨むべきだと書かれている[31]。仕事は自分の人生の目標の一部となったのだ。これはベビーブーマーの親の世代と比較してみるとその変化がわかりやすい。ベビーブーマーの親の世代が就職した時代、1940年代の就職の心得を説いた本では「いかに職場に溶け込むか」が最優先の教えだった[32]。親の世代は「食卓に食べ物をもってくる」ために仕事をしていたのだが、ベビーブーマーたちはやりがいや目標達成のために仕事をするようになった。

つまり、『ノマドランド』という作品は、ベビーブーマーの労働と経済を遠景に映した物語だというだけでなく、その製作のスタイルもベビーブーマー以降の労働観が結晶化したものだといえるかもしれない。特に映画界にベビーブーマーが登場してからは、巨大な予算のブロックバスターが映画館を賑わす一方で、作家主義の延長としてインディペンデント映画が隆盛し、低予算でもそれこそ命をかけて映画を愛する映画作家たちがつくる映画にファンの支持が集まるようになった。「監督が売血して製作費を捻出した」とか、「出演料はマリファナ1本だった」といった話が、映画愛をはかるバロメーターのように語られ、そうやって作られた作品だからこそ才能が輝いていると書き立てられてきた。それは1960年を前に崩壊したハリウッドのスタジオシステムが、契約を前提とし、よりよい条件をもとめた労働者たちの組合と経営者のあいだの交渉によって曲がりなりにも成り立っていたものだったことと対比できるかもしれない(もちろん、当時のハリウッドの労働組合については手放しに評価できるものではないが)。

同様に『ノマドランド』が、プロの俳優ではなく、素人を起用したという点[8], [33], [34]についても、<演技とリアリティ>といった論点だけで語っていていいのだろうかと感じる。「素人の演技者たちの顔と物語が『ノマドランド』を高みに引き上げた」という賛辞をみると、ヴィットリオ・デ・シーカが、工場労働者のランベルト・マジョラーニの顔がいいからと『自転車泥棒(Ladri di biciclette, 1948)』に起用したことを思い起こさざるを得ない。マジョラーニは『自転車泥棒』のせいで工場をクビになったが、イタリア映画界は、マジョラーニの<顔>が使えるのは『自転車泥棒』だけで、それ以外の作品には使えないと彼を見放した[35]。素人の出演者は、SAGのような組合に守られておらず、映画製作の場では不利な立場に立たされやすい。

映画スタジオと素人の個人では交渉能力において圧倒的な差がある。場合によっては製作者側がその差を利用する場合もある。低予算のインディペンデント映画の場合、「ノン・ユニオン=シュート(non-union shoot)」と呼ばれる、俳優やスタッフに非組合員を使ったものが非常に多い。これらの映画では、労働時間管理や賃金の問題が起きやすい。実はハリウッドのメジャースタジオの大規模な予算の作品でも、この傾向は指摘されている。今年に入って「マーベルがCGIに依存するのは、組合員が関わる実写部分を減らして、非組合員のVFXアーティストたちにやらせたほうが安くできるからだ」という議論が散見されている。スパイダーマンのコスチュームを組合員が作成したり準備したりするよりも、あとから非組合員がCGでなんとかしたほうが安上がりだ、といった説である[36]。マーベルの場合は真偽は不明だが、少なくともポストプロダクションの視覚効果、コンピューター・グラフィックスのエンジニアやアーティストの大部分が非組合員で、ときには極めて劣悪な労働環境にさらされていることは間違いない[37]。ロンドンのILMは、作業を外注するときに残業代を払わないことを契約条件に入れているという[38]。『DUNE/デューン 砂の惑星(Dune, 2021)』のVFXを担当したDNEGが残業代を払うようにしたことがニュースになる[39]ことじたい、業界の感覚がいかにおかしいかが分かるだろう。

それでも、好きでやっているのだから、自分が選んだ職業なのだから、自己責任なのだから、と製作者は言うのだろうか。残業代を払うようにしたら、映画のチケット代やストリーミングの料金に転嫁せざるを得ませんと言われたら、私達消費者は嫌がるのだろうか。

繰り返すが、『ノマドランド』の撮影現場が問題だったというわけではない。あの製作形態を維持するために、プロデューサーたちは、労働時間管理や健康管理、安全管理といった側面をきめ細かく実施したのだろう。だが、いま現在、多くの映画製作の環境が問題含みのなかで、<映画が好きだからやっている><素人の方がリアリティがある>といった姿勢を手放しに評価することに疑問をいだいているのだ。

映画は生まれたときから、そういった曖昧な労働観をはらんでいた。「映画史上初めてスクリーンに投影された映画」として語り継がれてきたリュミエール兄弟の『工場の出口(La Sortie de l’usine Lumière à Lyon, 1895)』は、工場の労働から解放された労働者たちを活写していると言われてきた。実は『工場の出口』には、1895年に撮影された分だけでも少なくとも3バージョンあり、最初のバージョン以外は日曜日の昼過ぎに撮影されていると考えられている。この工場はリュミエール兄弟のもので、フィルムに写っている労働者はリュミエール兄弟が工場で雇っている人たちだ。兄弟は、従業員に日曜日のミサが終わったあとに工場に立ち寄るように言い、そこで<昼休みに工場から解放される様子>を演じさせた。女性たちの服装が華やかなのも、ミサの帰りだからだという6)[40], [41]。アマチュアを使ってカメラの前で演技をさせているのだが、フィルムに写っているのは本当に労働から解放された人達だと観客に思わせる。それから1世紀以上を経過した今でも映像にはそのような胡乱な側面がある。

この『工場の出口』が撮影されたときには、フランスには労働時間を制限する法律はなく、この10年前まで労働組合は違法だった。日曜日が休日として認められていたのは宗教的な理由からであり、それも雇用主が追加労働時間として日曜にも労働するように要求することは頻繁に行われていた[42]。リュミエールの工場の人々が『工場の出口』への出演のギャラを払ってもらったかどうかは定かではない。

『ノマドランド』に登場する高齢者たち、過酷な状況下に置かれつつも自分たちの力で生き抜く人たち、そしてその人たちを覆う自然の豊かさの映像を高く評価する批評が多い。その風景の力強さに対峙するファーンに尊厳を感じたと宣言するものも多い。だが、その感傷は、この40年ほどの自由市場経済が培ってきた<個人の責任と選択>の思想にもとづく労働観と、それに絡みつくように育ってきた消費のモードに支配されているのではないか。そこには「ひょっとしたら私もハウスレスではなくて、ホームレスになってしまうかもしれない」という想像力はない。ファーンのクルマが故障しても、お金を貸してくれる姉がいる。病気になっても病院にいくことができる。都合のよいセーフティネットが存在しないかもしれない、教会の施しを受けなければいけなくなるかもしれない、という想像力がないのだ。この想像力の欠如は、レーガンの時代から綿々と続く、社会の喪失と個人の幻想が生んだものだ。そして、その想像力の欠如を、映画が生まれたときからはらむ曖昧なロマンチシズムが支えているのだとしたら、それは手放しに称賛してはいけないたぐいのものではないだろうか。

しかし、『ノマドランド』の監督・脚本のクロエ・ジャオはベビーブーマーではないじゃないかと思われるかもしれない。彼女は世代的にはミレニアルに属するではないか、と。そのとおりだ。むしろ、ジャオが若い世代の映画作家にも関わらず、年老いたベビーブーマーたちを描くと、何十年も堆積した労働観や美学が自ずと浮き上がってくるということなのかもしれない。また、個人責任と自己追求の世界観が消費者社会と根深く結託しているために、若い世代もコミットメントの差はあれ、その世界観のなかに身を置かざるを得なくなっているのも事実だ。かくいう私もベビーブーマーとジェネレーションXの中間(カスプ)にあたる。ジェネレーションXのシニカルな部分もあるがゆえに、自分が育ってきたベビーブーマー的な時代の感覚を呪いつつも受け入れていかざるを得ない。問題は、そこに安住するわけにはいかないだろうということだ。

チャールズ・クラルトの「オン・ザ・ロード」がTVで大人気だった頃、アメリカの田舎の道をヴァンで走ったものの、立ち寄った家にいた人たちが<良い人々>ではなかった、という映画がある。『悪魔のいけにえ(The Texas Chain Saw Massacre, 1974)』はトビー・フーパーが作りたくて作った映画で、撮影が終わったときには怪我をしていない出演者はいなかったという劣悪な撮影現場の代表のような作品である。配給時の契約で足元を見られたために、当初は出演者やスタッフにろくなギャラもでなかった。オープニングのナレーションを担当したジョン・ラロケットはギャラが「マリファナ1本」だったと言われている7)[43]。ラロケットは売れない俳優で、おまけにドラッグ中毒で重度のアルコール中毒だった。彼はその後中毒を克服し、1980年代にNBCテレビのシトコム「ナイト・コート(Night Court, 1984 – 1992)」で、出世欲と性欲のかたまりの検事補ダン・フィールディングを演じる。「アメリカのベイジル・フォールティ」と呼ばれた見事なコメディアンとしての演技力から、彼はエミー賞を4年連続で受賞するという快挙を成し遂げる(5年目は選考段階で辞退した)。『リッチー・リッチ』のヴァン・ドーは、そういった彼の実績を見込んでの配役だが、コメディの脚本としては彼の良さを引き出せるものではなかったようだ。そのジョン・ラロケットはTV映画『ウォルターとヘンリー(Walter and Henry, 2001)』でニューヨークの<ホームレスのミュージシャン>を演じた。だが、彼の演じた<ホームレス>は動かないながらもトレーラーに住んでいたのである。2008年の経済危機の前はやはり住所がないことが<ホームレス>だったのだ。「ハウスはないがホームはある」というのは、今の時代の言い訳に過ぎない。それも、さらに下の階層とのあいだに線引きするたぐいの言い訳だ。それを「大自然がホームだ」というような最低賃金にも満たない安いロマンチシズムでくるんではいけない。

ロナルド・レーガンの陣営は、2期目の大統領選の際、「It’s Morning Again in America」というビデオを製作した。これは、朝のマジックアワーの映像と<労働の喜び=労働人口の増加>と<インフレ率の低下=中間層の住宅購入>というテーマを一挙に貫いた映像だ。『ノマドランド』はこのキャンペーン・ビデオと対をなしていると言っても良いかもしれない。また、このキャンペーン・ビデオが登場した頃に、ケロッグやフォルジャースのコマーシャルが、朝のマジックアワーと労働の喜びを結びつけ、その結託を支える要素として自社製品を消費者に訴えかけていたのは、極めて示唆的だろう。

Notes

1)^ 奇妙なことにレーガン・ライブラリが公開しているビデオでは、この発言が編集でカットされているようだ(link)。一般のYouTubeユーザーによるアップロードでこの発言を確認できる(例えば、link)。

2)^ ジェシカ・ブルーダーの原作に登場するノマドワーカーたちのなかには、よりはっきりと<ハウスレス>と<ホームレス>の線引をして、ホームレスと呼ばれることを嫌がる者も登場している。また家族からホームレスとみなされて敬遠される場合や、ホームレスとなることを違法にする立法を検討している自治体のケースなど、社会がホームレスを排除しようとする流れがあり、ノマドワーカーたちがよりホームレスという定義に敏感になっている側面もある[44]

3)^ このアイディアは薄気味悪く思えたのだが、決して単なる戯言というわけでもない。『リッチー・リッチ』が公開される3年前に、政治/社会哲学者のマイケル・アルバートと経済学者のロビン・ハーネルが提案した<参与型経済>という概念がある。ここでは、労働者たちの共議会による意思決定をもとにした経営の可能性が論じられていた[45]。この提案に対する批判の大部分が、労働者たちの「やる気」を保証できないというものであるのは興味深い[46]

4)^ 1975年に数十の偽名を使い、複数の州にわたって生活保護を150,000ドル以上だまし取っていたリンダ・テイラーが逮捕されたとアメリカの新聞が報道した[47]。新聞各社はテイラーを「生活保護の女王(Welfare Queen)」と呼び、キャデラックのリムジンに乗って豪遊していたと書き立てた。レーガンはこの報道を選挙戦のキャンペーンで度々持ち出し、生活保護を受けている人間はこうやって詐欺を働いていると主張、主に地方の中流階級に「あなたの税金が盗まれている」と信じさせた。実際にはリンダ・テイラーは4つの偽名しか使っておらず、詐取した金額も8000ドルと言われている。また、レーガンはスラムの低所得者層用の公共住宅が豪華な部屋と巨大なバルコニーがついていると批判したが、それも嘘だった[48], [49]

5)^ 番組の台本はチャールズ・クラルトが書いていた。撮影クルーは、カメラマンのイザドア・ブレックマン、録音のラリー・ギアネッシ・ジュニアを含めて数人だった。イザドア・ブレックマンはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の容疑者、リー・ハーヴィー・オズワルドがジャック・ルビーに射殺される瞬間を撮影したカメラマンである。

6)^ 『工場の出口』には3つのバージョンがあり、最初のバージョンは、1895年の3月19日火曜日に撮影されたと言われている。その後の2つのバージョンの撮影時期に関しては諸説あるようだが、従業員の服装と影の長さから日曜日のミサのあと、昼頃に撮影されたと考えられている。

7)^ ただし、この話の信憑性は不明である。ジョン・ラロケット自身は100ドルもらったと言っている[50]

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市民ケーンと将軍マッカーサー

 

『市民ケーン(1941)』

「映画史上偉大な映画100」とか「批評家が選ぶ映画100本」とかのランキングの上位に必ず入っているが、一般の映画評価サイトにいくとそれほど星の数が多くない映画がある。たいてい古い映画だ。オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』は、映画評論家たちのあいだでは極めて評価が高いのだが、FilmarksやYahoo映画あたりにいくと「Mank見るので予習のために」「古臭い」「当時はすごかったのかもしれないけれど」ということで、平均で星4つに到達しない。まあ、仕方がないことだろう。

誰かに「あの映画のどこがすごいんですか?」なんて聞かれようものなら、私達シネフィルくずれは、腕をまくって、フラッシュバックだの、ディープフォーカスだの、話したくなってしまうのだが、結局「当時はすごかったのかもしれないけれど」を抜け出すことができるわけではない。

実際のところ、あの映画は当時すごかったのだろうか?

ここでは、『市民ケーン』について言われている数多くの革新性のなかから、ある一つの革新的な技術について考えてみる。その結果『市民ケーン』が優れているとか、そんなことはない、とかいった結論には至らない。なぜなら、物事はそう単純ではないからだ。あくまで、曖昧に「革新的」と呼ばれている事柄のひとつをもう少し紐解いて見ようというそれだけである。

『市民ケーン』の革新性───レンズ・コーティング

ここで問題にするのは、レンズ・コーティングである。具体的には、反射防止コーティングである。

監督のオーソン・ウェルズと撮影監督のグレッグ・トーランドは『市民ケーン』で、感度の高いフィルムを使い、コート・レンズと広角レンズを使って様々な映像の革命を起こした。そう一般的に言われている。

なぜ、反射防止コーティングが画期的だったのか。それまではカメラのレンズの表面はなんの処理もされていなかった。そのためにレンズの表面(レンズと空気の界面)でレンズを透過する光の一部が反射してしまう。つまり、レンズを通すと光が減少してしまうのだ。必然的に被写体を明るくしないといけなくなる。暗いシーンや奥行きのあるシーンは撮りづらくなってしまう。さらにカメラのレンズは複数枚がセットになっているので、すべてのレンズの表面で反射が起きる。反射した光はレンズのあいだで散乱してしまう。結果的に写る像が全体的にぼんやりと白くなってしまう。

この問題を解決するためにレンズの表面に「反射防止コーティング」を施すのだ。どれほど効果があるのだろうか。

ウィリアム・C・ミラーの論文[1]にその効果が実例とともに紹介されている。これを見るとコーティングのもたらす効果が一目瞭然だろう。まず、設計図を撮影した写真を見てみよう。左がコーティングなし、右がコーティングされたレンズで撮影された写真だ。コーティングによってコントラストが改良されているのがわかるだろう。左の写真では斜線が薄くなって見えにくくなってしまっている。これは、レンズのあいだで反射して散乱してしまった光が全体の白のレベルを上げてしまっているからだ。

レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より

太陽を直接撮影した写真では、レンズ・コーティングがないといわゆるフレアがいくつも発生している。これはレンズ同士の光の反射でいくつも像ができてしまうからである。実際にモデルの女性を撮影した写真は、同じ光量、同じ感度のフィルム、同じ絞りで撮影してある。わざと照明を不足気味にしているのだが、コーティングによってフィルムに届く光量が増加したのは一目瞭然だ。

レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より

 

レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より

『市民ケーン』ではこのレンズ・コーティングの効果はどこに現れているのだろうか。ローキーの映像や、少なめの光量でもディープフォーカスで撮影しているシーン等、さまざまなシーンがあるが、レンズ・コーティングの効果として映画公開当時から話題になっていたのは、スーザンが主演をつとめるオペラのオープニングのシーンだ[2]。舞台照明の光源にレンズを向けて直接撮影しているがフレアが起きず、乾いたステージの上にたつスーザンの孤独を際立たせる効果をもたらしている(このページの一番上を参照)。

では、このレンズ・コーティングの技術はどのようにして『市民ケーン』にもたらされたのか。三浦哲哉氏の「サスペンス映画史」にある、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドに関する記述を見てみよう[3]

トーランドはたんなる撮影監督であっただけではなく、自らキャメラとフィルムの改良に携わる技術者でもあった。彼は一九三〇年代末に開発された高感度フィルム、光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した。驚くべき鮮明さで画面の手前から奥までの広範囲に焦点をあてるディープーフォーカスの技術もその一つだった。高感度フィルムとレンズの改良によって、照明を大胆に節約することができるようになり、有名な極度の早撮りが可能になった。

三浦哲哉

トーランドが「光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した」とは、具体的にはどういうことなのだろうか?これを読むと、トーランドが「キャメラとフィルムの改良に携わる技術者」だったのだとすると、レンズのコーティングを自ら発明したのだろうか?三浦氏はロバート・L・キャリンジャーの研究を参照しているので、そこを見てみよう[4]

1939年に、研究者たちはレンズ・コーティングの原理を発表した。レンズの表面を弗化マグネシウムの超薄膜の層でコーティングすることによって、光の透過率を向上させたのだ。

ロバート・L・キャリンジャー

この「研究者たち」とは誰で、どうしてそれがグレッグ・トーランドにつながったのだろうか?これは、トーランド自身に答えてもらおう[5]

カリフォルニア工科大学で開発されたヴァード(Vard)のオプティコート・システムは私達の照明の問題解決に役立ったもののひとつだ。オプティコートは屈折(refraction)を除去し、光を散乱させずに透過させる。このおかげでレンズ・スピードをストップいっぱいまで向上させることができる。光源にカメラを直接向けると、今までは必ず酷い絵になっていたが、このコーティングを施したレンズのおかげでそれが起きなくなったのだ。

グレッグ・トーランド

撮影監督たちの挑戦

レンズの表面に処理を施して反射を抑えようというアイディアは以前からあった。それが、1940年頃に革新的な変化を遂げたのである。

もともとレンズの反射を抑える方法は熱心な写真好きの個人たちによって探求されていた。1892年にイギリスのハロルド・デニス・テイラーが、使い古して変色してしまったレンズのほうが実は光の透過量が多いということを偶然発見し、同様の<侵食>を再現するためにレンズ表面をアンモニアと硫化水素で処理する方法を提案した。これはレンズガラスの侵食された部分がガラスと空気の中間の屈折率をもつからで、他の光学研究者やレンズ設計者たちもさまざまな薬品でレンズ表面を処理しようと試みた。だが、この方法はレンズの仕上げの状態やレンズ材質、処理(エッチング)の条件に強く左右されるために安定した品質が得られなかった[6]

それが1935年にほぼ同時に新しい手法がアメリカとドイツで発明されたのである[7]。これは真空蒸着と呼ばれる方法で、真空下でコーティングの材料を蒸発させてレンズの表面に薄く付着させる方法である。この手法がねらったのは、レンズ表面に屈折率の低い材料を薄く(光の波長の4分の1に相当する厚み、2000Å)付着させて光を反射させない、というものである。カリフォルニア工科大学のジョン・D・ストロングが、屈折率の低いフッ化カルシウムの薄膜をレンズに蒸着して光の反射を抑制する方法を考案する。一方、ドイツではカール=ツァイスのアレクサンダー・スマクラがやはりフッ化カルシウムの薄膜を蒸着する手法の特許を申請している。

ストロングの発表のあと、アメリカではすぐに材料の探索がはじまり、フッ化マグネシウムが有望だといわれるようになった。この真空蒸着によるコーティングは、レンズガラスの性質や組成に影響を受けにくい。1939年を境に数多くの企業がこの分野の研究開発に乗り出した。グレッグ・トーランドが記している「ヴァード・メカニカル・ラボラトリー(Vard Mechanical Laboratory)」はカリフォルニアのパサデナにあった民間企業で、このレンズ・コーティングを請け負っていた。1940年の4月には「American Cinematographer」誌にレンズコーティングを請け負うという広告を出している。ヴァード社はこれを「オプティコート(Opticote)」と呼び、「あなたが今使っているレンズや光学システムにオプティコートを施すことができます」と宣伝している。グレッグ・トーランドは自分が使っているレンズをこのヴァード社に出してコーティングさせたのである。彼はこのレンズを使って、1940年の6月の第1週から『市民ケーン』の撮影に入った。

ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの広告 American Cinematographer 1940年4月号

 

その3ヶ月前の1940年3月に発行された「American Cinematographer」誌にウィリアム・スタルがパラマウント・スタジオでのコート・レンズの導入について論じている[8]。それによれば、ストロング博士の新技術をパラマウントの光学技術者やカメラマンは数ヶ月前から注目し、さまざまなテストを繰りかえしていた。指紋がついたものを洗浄してもコーティングは剥がれないか、コーティングによって他の光学特性に影響が出ていないか、コーティングの化学特性はレンズに影響を及ばさないか、といったことを調査していたという。通常はガラスー空気界面で5.22%の光が反射で失われるため、アナスチグマートの「アストロ・パン=タッカー」レンズのように4枚レンズ、計8つのガラス=空気界面があると41%も光が反射で失われてしまうが、その表面すべてにこのコーティングを施すと、光量損失はほとんど無視できるようになる、と述べている。ストロング博士の研究がほぼ完成したと見たパラマウントでは、実製作でこのレンズを使い始めた。最初に使用したのはジョージ・マーシャル監督、チャールズ・ラング撮影、ボブ・ホープ、ポーレット・ゴダード主演の『ゴースト・ブレイカーズ(Ghost Breakers, 1940)』である。これは「猫とカナリア」系の幽霊屋敷コメディで、幽霊屋敷の暗い内部が舞台となっている。たしかにローキーでもコントラストがはっきりとあり、蝋燭などの光源がフレーム内にあっても反射によるフレアや白曇りがない。

1940年7月に同じく「American Cinematographer」誌[9]に発表されたスタルの調査(5月18日から6月16日にかけて実施)では、コート・レンズを使用していた撮影監督は、パラマウントのセオドア・スパークルとワーナー・ブラザーズのL・ウィリアム・オコネルの2人だった。翌年の1月の同誌記事「昨年の進歩」[10]のなかで、ヴァードで従来のレンズにコーティングをしてもらうことに加え、新品のコート・レンズをクック、ボシュロムなどから入手できるようになったと記載がある。20世紀フォックスは自社開発のカメラすべてにボシュロムのコートレンズを搭載している。同年4月の同誌[2]では20世紀フォックスの撮影監督チャールズ・G・クラークがコート・レンズの現状を報告、そこではコート・レンズを使用して撮影された映画として、アーネスト・パルマーが撮影した『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』、レオン・シャムロイが撮影した『ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley, 1940)』とともに『市民ケーン』が挙げられている。『トール・ダーク・ハンサム』はシーザー・ロメロ主演のコメディの要素の強いギャング映画、『ティン・パン・アレイ』はアリス・フェイ主演のミュージカル映画だが、いずれの作品もコート・レンズの効果が発揮できるような場面は特にない。

つまり、グレッグ・トーランドは一人だけ最先端を突っ走っていたわけではなく、レンズのコーティングの効果についてハリウッドのカメラマンたちが確信を持ち始めた頃に『市民ケーン』で使用した、ということになる。だが、トーランドはアマチュア向けの写真雑誌を含め数々の媒体に寄稿し、『市民ケーン』における自らの功績を喧伝しているように見える。他のカメラマンたちはコート・レンズをつかっていても、とりたてて宣伝するようなことはしていない。これはトーランドがほぼフリーランスで働くカメラマンだったこととも関係しているだろう。当時、トーランドは、ジョン・フォードやウィリアム・ワイラーら、ハリウッドの有名監督のあいだで、新しい映画を撮るときにリストのトップに載っていた撮影監督だ。彼は低予算の「プログラムピクチャー」など撮る必要はなく、常に話題作を撮っている。フリーランスのように働いている以上、宣伝は重要だ。<異端児>オーソン・ウェルズと型破りな話題作『市民ケーン』を撮ったのだから、「私はハリウッドの掟をどうやって破ったか」という宣伝もして当然だし、実際それが彼の名声につながっている。

むしろ興味深いのは、レンズ・コーティングの技術を使いこなすために、パラマウントなどのスタジオが大学の研究と並行でテストを繰り返し、実際の製作に活かしていく基盤にしていることである。そして、ヴァードのような会社が存在してハリウッドの技術革新に貢献していたという点である。

だが、実はそれは「映画」の視点からしか見ていない。ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの重要顧客はバーバンクにあった映画スタジオではなかった。バーバンクにあったもう一つの大企業、ロッキードだったのである。

拡散ポンプ

1943年の10月、ニューヨークのブルックリンである会議が行われた。この会議はフランクフォード兵器廠が中心となり、ボシュロム、ベル&ハウエル、イーストマン・コダックなどの企業、160社が参加した[11]。会議は「光学素子への金属フッ化物反射減衰膜の応用」という、極めて狭い分野を扱っていた。つまり、反射防止のレンズコーティングについての会議なのだが、これだけ大規模な産業になっていたのである。

フランクフォード兵器廠 1934年(National Archives Photo

 

この会議は、真空ポンプ、手入れ法、原材料、不良品解析、オペレーターの教育など、真空蒸着によって反射防止コーティングを作るためのすべての実務的問題をカバーして議論している。例をあげれば、原料のフッ化マグネシウムの純度をいかにあげるかのマニュアルを、名前と住所を書いておけば後で送ってもらえるといった具合だ。この会議に参加し資料をもらって帰った技術者たちは、日々自分たちが困っている問題を解決する方法の緒を得られたに違いない。

この会議の議事録に、真空蒸着によるレンズコーティング技術が数年で発展してきた様子が述べられている。フランクフォード兵器廠のウェルチ大佐がいかのような興味深い経緯を語っている。

第一次世界大戦までは研究室の領域を出なかったと思うのですが、その頃からここにも出席していらっしゃる企業の方々が光学素子の性能向上をねらって反射防止の技術を試し始めていました。フレッド・ライトも戦争中この膜について研究していました。たしか彼はボシュロムにいましたよね。・・・(中略)・・・1939年、K&E社がフランクフォード兵器廠に高度測定追跡型望遠鏡を見せてくれたのです。この望遠鏡は反射防止コーティングがされていて、当時フランクフォードで設計部にいて今はワシントンの兵器省にいるウェルズ将軍が、軍事利用の可能性を見出したわけです。すぐに性能と耐久性の調査を始めました。1940年に兵器廠の研究所はこの計画をすすめるよう報告書を提出しました。そのなかで耐久性についてまだ疑問があり、推薦するには至りませんでした。

G・B・ウェルチ大佐(フランクフォード兵器廠)

兵器の開発で当時最も必要とされていた分野の一つに、光学装置の性能向上があった。望遠鏡でより遠くを精確にみる。レンジファイダーでより正確に距離を割り出す。夜や霧の状態でも視認性を改良する。そういったことが求められていた。彼によれば、1941年に海軍が反射防止コーティングの普及のために大掛かりなテストを始めたという。翌1942年の暮れ頃から戦車などのスコープに応用することが検討され、RCAが大量生産を始めた。

ボシュロムのピーターソンは真空蒸着法がなぜ工業的に利用できるようになったか端的に説明している。

真空技術の利用は大学の「珍しいもの」から抜け出しました。大学にあった設備はだいたい小さく、真空に到達するまで非常に時間がかかったのです。しかし高速の油拡散ポンプの登場ですべてが変わりました。

スタンリー・ピーターソン(ボシュロム)

拡散ポンプは1915年にヴォルフガング・ゲーデによって発明されたとなっているが、これが「珍しいもの」だったのである。当時は水銀を使用しており、極めて扱いにくいものだった。それを一般的な低蒸気圧合成油で使用できるようにしたのが、イギリスのセシル・レジナルド・バーチだった。1928年のことである。イーストマン・コダックの研究者がこのアイディアをイギリスから持ち帰り、自社で油拡散ポンプの開発を始めた[12]。1930年代にRCAとコダックが油拡散ポンプの開発に注力し、これが工業的利用につながっていった。イーストマン・コダックの子会社ディスティレーション・プロダクツ・インクはビタミンを製造していたが、拡散ポンプの製造も始めるようになった。

イーストマン・コダックの特許 ガラス用非反射コーティング 米国特許 第2,260,471号

 

前述のヴァード・メカニカル・ラボラトリーズもロッキード用に部品や器具を開発、製造していた。社長で創業者のヴァード・ウォレスは南アメリカで宣教活動をしていたが、1930年代にカリフォルニアに移ってきて、航空業界向けに工作技術の開発を始めた。1940年には98人の従業員を抱え、設備をさらに拡充している[13]。ヨーロッパの戦争もあり、顧客のロッキードが増産にはいったからだ。そんななかで、飛行機に搭載するスコープの性能向上、すなわちレンズのコーティングもロッキードを顧客として開始したようである。ハリウッドの映画スタジオにレンズ・コーティングの機会も見つけ出してきたのだろう。ヴァードのビジネスはあくまで既存のレンズへのコーティングだったが、ボシュロムはコーティングした新品のレンズの販売をおこなっていた。前述の会議でもボシュロムは中心的な存在であり、当時の主なビジネスはやはり軍事向けだった。

見方を変えると、オーソン・ウェルズがハリウッドに行くのが1年早かったら、レンズ・コーティングの技術はまだできておらず、『市民ケーン』のいくつかのシーンはあそこまで印象的なものにはなり得なかったのである。偶然ではあるが、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まってしまい、それを機にアメリカ国内の産業が軍事に舵を切っていたときだった。その<おこぼれ>をハリウッドは頂戴していたとも言える。

アヴィエーター

この記事のタイトルには「将軍マッカーサー」とある。勘の良い方ならお気づきだろう。ダグラス・マッカーサーのトレードマークのサングラスのレイバンは、ボシュロムのブランドだった。

ダグラス・マッカーサー 1944年 レイテ島 (National Archives Photo)

 

もともとサングラスの開発は、飛行機操縦士と密接に関係がある。陸軍のパイロット、ジョン・マクレディが1920年代におこなった最高度到達記録挑戦のさい、ゴーグルが太陽光を直接透過してしまうため、眼を痛めそうになってしまった。彼はボシュロムに相談して新しい操縦者用の新しいメガネの開発をうながした。それが有名なレイバン3025「アヴィエーター」というサングラスとして結実した。1938年のことである。その後、海軍で飛行中の操縦士が視界の上方の太陽によって敵機の視認が悪くなることへの対策として、レンズの上半分をインコネル(クロム=ニッケル合金)の薄膜でコーティングする技術を開発した[14]。特許は1944年にボシュロムから出願されている[15]。マッカーサーは、屋外ではこのアヴィエーターのサングラスをかけていることが多かった。

このインコネルのコーティングは、飛び抜けた耐久性が求められた。レンズの反射防止のフッ化マグネシウムのコーティングは、いくら実地とはいえ、それでも光学器械として丁寧に扱われる対象だったが、サングラスは日常で遭遇するありとあらゆる衝撃、擦過、温度変化などに耐えなければならない。幸い、インコネルの薄膜は極めて強い薄膜だった。

米国特許 第2,409,356号 ゴーグル

 

前述のように、真空蒸着の技術をレンズコーティングに応用したのは、カリフォルニア工科大学のジョン・ストロングだったが、彼が最初に試験したのは実はレンズではなく、ミラーだった。反射型天体望遠鏡に必要な大口径のミラーを製作する方法として、アルミの蒸着を検討し、1933年に18インチのミラーの表面にアルミニウムの薄膜を蒸着した[16]

いま、あなたが食べているそのポテトチップスの袋の内側には、このアルミ蒸着が施されている。このアルミ蒸着膜は、酸素、水分の透過を防ぎ、光も遮断する。ポテトチップスがおいしいのは、ジョン・D・ストロング博士が始めた研究が発端である。

何がすごかったのか

『市民ケーン』の話にもどそう。アンドレ・バザンは「奥行きの深い画面」についてこう述べている[17]

だからこそ、ウェルズはグレッグ・トーランドにこの難題を解決するように求めたのだ。実際、周知のように、少なくとも人工照明を使った撮影の場合、非常に深い被写界深度[profondeur de champ]を得るのはほとんど不可能だ。レンズの絞りを陽光の下で撮るときよりも大きく開かなければならないのと、柔らかくて作り込まれた照明をたびたび追求する必要があることが、技術面でのその主要な理由である(1920年以来の光学的な探求が、まったく別の写真的特質に促されて進んできたことも、おそらく付け加えておくべきだろう)。理論的には、この問題を解決するのは、アマチュア写真家にとって同じくらい簡単だ。十分にレンズを絞ればよいだけなのだから。だが、実際には、この操作は照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄するように仕向ける。この技法に内在するリスクを受け入れるには、グレッグ・トーランド級の撮影技師が必要だった。というのも、奥行きの深い画面がフィルムの感度とレンズの絞りの問題にすぎないと考えるとしたら、それはあまりにも単純だからである。

アンドレ・バザン

ここで、バザンがいう「奥行きの深い画面」は、写真技術で言われる「ディープ・フォーカス」とは若干違うことがわかるだろう。なぜなら、「十分にレンズを絞るだけ」ではなく、照明の技法全体を転覆させて、「柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄」することが必要だと言っているからだ。これはトーランド自身が言っている「ハリウッドのルールを破った」ということとほぼ同じことだろう。つまり、MGMのグレタ・ガルボの映画や、パラマウントのマレーネ・ディートリッヒの映画に見られるような、ソフト・フォーカス、「ガーゼのかかったような画面」のスタイル、つまり「ハリウッドのルール」を破って、新しいスタイルに挑戦したということだ。それは、まあそうかもしれないな、と言ったところだろうか。

だが、ウェルズやトーランドの前に「ルール」を転覆させようとした演出や撮影が皆無だったわけもなく、また同時代に彼らだけがその挑戦をしていたわけでもない。ハル・モーアが苦労してクレーンを使った長回しを1929年に挑戦し、ジェームズ・ウォン・ハウが、シーンが必要とすれば、ひたすらローキーでディープ・フォーカスに挑んでいたことも、トーランド自身が30年代にもずっと三次元的な造形を意識した撮影を試みてはそれほど注目を浴びなかったことも、忘れてはいけないだろう。

トーランドが長いあいだ「弟子」としてついていた撮影監督のジョージ・バーンズについて、『悪の力(Force of Evil, 1948)』を監督したエイブラハム・ポロンスキーがこういっている。少し長くなるが引用する[18]

カメラマンはジョージ・バーンズだった。知っているだろうけど、この町にいるカメラマンで最も優秀なうちの一人だ。彼は、ウェルズとトーランドがやるずっと前にディープフォーカスをやってたしね。バーンズはちょっと年齢の高い女優を若く美しく見せるような撮影をずっとやっていた。どうやっていたかは皆さんご存知だろう。

(『悪の力』の撮影を)何日かテストをして、ラッシュを見たら、全部美しくてぼんやりしているんだ。つまり、彼がずっとやっていた普通のロマンティックな写真になっていたんだね。だけど、この映画で僕たちがやろうとしていたことの正反対なんだ。『ボディ・アンド・ソウル』を撮ったジミー・ハウ(注:ジェームズ・ウォン・ハウ)はあんな撮り方をしなかった。ハウはクリアに、正確に、反ロマンティックに撮ったんだ。僕はそれに慣れてしまっていたんだね。『ボディ・アンド・ソウル』の現場にずっといてハウの仕事を見ていたからね。

なんとかジョージに自分が探していることを伝えようとしたんだけど、うまく言うことができなかったんだ。なんと言えば良いのか分からなかった。外に行って、(エドワード・)ホッパーの画集を買ってきた。三番街、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り───。そこに人間がいても、見えない。なぜかまわりの風景が人間を呑み込んでいる。僕はバーンズのところに行って「これがほしいんだ」と言った。「なんだ、それか!」すぐにバーンズは「それ」がわかったんだ。そして「それ」で映画を全部やってくれた。一度、僕がほしいトーンがわかったら、彼はブレることはなかった。

エイブラハム・ポロンスキー

バザンのいう「グレッグ・トーランド級」の撮影監督は、当時のハリウッドには数多くいた。このポロンスキーの言葉からもわかるように、バーンズは「それ」を知っていたし、「それ」をどうやれば撮れるかも知っていたし、「それ」を全編ブレないで撮る技術をもっていた。バーンズは「綿のようにぼかしたままにしておく」撮影ばかりしていたが、いざとなれば「照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄する」ことなど造作なかったのだ。彼が1930年代に撮った映画のなかでも「これはいったいどうやって撮ったんだろう」と思うものもすくなくない。だが映画そのものが他愛もない作品が多く、題材として、いまの私達の鑑賞に耐えうるものではないものがほとんどだ。時代の流行を追っていたり、当時の文化状況に深く埋め込まれた題材(よくハイ・コンテクストとも呼ばれる)だと、いったんコンテクストが取り除かれると(古くなると)、もはや「何が良かったのか、さっぱり見当がつかない」ことになりかねない。バーンズがヒッチコックの下で撮った作品も、スターの撮影が優先されているために「綿のような」シーンが目立つかもしれない(実際にはそんなことはないのだが)。そういう作品ばかりだと、革新的な技術をもっていたカメラマンとしての評価を受けにくいということにもなるだろう。

いまや、スマートフォンのカメラのレンズでさえ何重ものコーティングがされており、センサーは極めて感度が高く、暗いところでも平気で撮れてしまう。そういった時代に「これは当時すごかったんだ」ということだけを言い続けていても、先人たちの仕事について評価を再検討していくのはもう難しくなっているのだろう。『市民ケーン』でさえそうなのだから、なかなか難しい。

一つ言えるとすれば、映画みたいなメディアを考えるときに、「天才オーソン・ウェルズ」とか「グレッグ・トーランド級」といった言説から離れて、あるいは「ルールを破った」とか「初めて挑戦した」といった具合の考え方から距離を置く必要があるだろうということだ。トーランドが、『市民ケーン』でヴァードのオプティコートを使えたのは、(少なくとも)パラマウントの技術者達がストロング博士と共同で、何ヶ月にもわたって基礎的な実験やテストを繰り返したことが背景にある。ボシュロムがほぼ同時期に技術を導入できているところを見ると、20世紀フォックスでもテストや実験が行われていた可能性は高い。つまり、ハリウッドの産業全体が底上げを図っていた、その小さな小さな一例なのだ。そして見てきたように、その底上げの小さな一例は、悲しいことながら、戦争が背景にあったのだ。そのなかで、多くの、今となっては名前もわからない人々の仕事の総体として、映画作品のある側面が形成されている。そういった距離で、一つ一つのシーンを分析し、全体の流れを再度把握し、<テクノロジー>と<テクニック>を出来得る限り分解してみたときに、『市民ケーン』なり『トール・ダーク・ハンサム』なり『ゴースト・ブレイカーズ』なりの作品としての位置づけが少しなりともわかってくるのではないだろうか。

 

コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング(Miller’s Crossing, 1990)』の<森の中で処刑したふりをする>のアイディアは、『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』にヒントを得たものである。

ポン・ジュノ監督は『パラサイト・半地下の家族(기생충, 2019)』で、雨の中、階段を降りていくシーンは『悪の力』へのオマージュだと語っている

ジョージ・バーンズが1930年代に撮影したミュージカルは、あまりに荒唐無稽なためにシュールな映像になっているものがある。”Dames(1934)”からのこのシーンや”Golddiggers of 1935″からのこのシーンなどはその例である。

 

 

参考文献

[1]^ W. C. Miller, “Speed Up Your Lens Systems,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 35, no. 7, p. 3, Jul. 1940.

[2]^ C. G. Clarke, “Are We Afraid of Coated Lenses?,” American Cinematographer, vol. 22, no. 4, p. 161, Apr. 1941.

[3]^ 三浦哲哉, サスペンス映画史. 東京: みすず書房, 2012.

[4]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Reprint版. Berkeley: Univ of California Pr, 1996.

[5]^ G. Toland, “How I Broke the Rules in Citizen Kane,” Popular Photograph Magazine, p. 55, Jun. 1941.

[6]^ U. S. N. D. B. of Ordnance, Optics Filming. U.S. Government Printing Office, 1946.

[7]^ “AVS Thin Films History.” http://www2.avs.org/historybook/links/tfexh96.htm (accessed Sep. 12, 2021).

[8]^ W. Stull, “Non-Glare Coating Makes Lenses One Stop Faster,” American Cinematographer, vol. 21, no. 3, p. 108, Mar. 1940.

[9]^ W. Stull, “Surveying Major Studio Light Levels,” American Cinematographer, vol. 21, no. 7, p. 294, Jul. 1940.

[10]^ “Technical Progress in 1940,” American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 6, Jan. 1941.

[11]^ “The Application of Metallic Fluoride Reflection Reduction Films to Optical Elements,” Frankfird Arsenal, Oct. 1943.

[12]^ P. A. Redhead, Vacuum Science and Technology: Pioneers of the 20th Century. Springer Science & Business Media, 1997.

[13]^ C. King, “Pasadena Factory Making Essential Airplane Parts,” The Pasadena Post, p. 5, Oct. 04, 1940.

[14]^ J. L. Matthews, “Physiological Effects of Reflective, Colored, and Polarizing Ophthalmic Filters: Basic Consideratinos in the Selection of Sunglasses for Flying Personel,” USAF School of Aviation Medicine, Randolph Field, Texas, Project No. 21-02-040, Report No. 1, Aug. 1949.

[15]^ C. F. Hutcings, “Goggle,” US2409356A, Oct. 15, 1946 [Online]. Available: https://patents.google.com/patent/US2409356A/en?oq=US2409356

[16]^ J. Strong, “The Evaporation Process and Its Application to the Aluminizing of Large Telescope Mirrors,” The Astrophysical Journal, vol. 83, p. 401, 1936.

[17]^ アンドレ・バザン, 堀潤之訳, オーソン・ウェルズ, 四六変型版. 東京: インスクリプト, 2015.

[18]^ A. Dickos, Ed., Abraham Polonsky: Interviews. Jackson: University Press of Mississippi, 2012.

 本文中の引用における翻訳は、アンドレ・バザンの「オーソン・ウェルズ」は堀潤之訳、それ以外は拙訳である。

モスクワを歩く

 

みずみずしい。

ギオルギー・ダネリヤ監督の『私はモスクワを歩く(Я шагаю по Москве, 1964)』はよく「みずみずしい」という形容詞とともに紹介される。ソ連の新しい世代の若者達が、輝く陽光に包まれて走りまわり、突然雨に洗われて裸足で散歩する。恋にためらい、突然不安になり、そしてまた将来の夢を探しはじめる。ラストの地下鉄のシーンの清々しさは、あの歌とともに、観たあとしばらく漂っている。

独特の爽やかさはヌーヴェルヴァーグのようだと言われ、ソ連の「雪解け」の時期を謳歌している作品と言われる。

しかし、「みずみずしい」と言い切ってしまうのもためらわれる。

ふとしたシーンでソ連の「まがまがしさ」が顔をのぞかせ、雪が解けたと思ったらまた雪が降り始めている。だいたいキューバ危機の1年後に、何事もなかったかのような「みずみずしさ」がスクリーンをおおっているのだから、すこし疑ってかかったほうがいいに決まっている。

しかし、もう半世紀以上も前のことだから、何を疑うべきなのかもよくわからない。私の場合は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のレコードを買いに来た青年のセリフが疑うきっかけだった。

グム百貨店のレコード売り場で働くアリョーシャに客の男が尋ねる。

客の男:チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のレコードはある?

アリョーシャ:ネイガウス、リヒテル、それともクライバーン?

客の男:あの・・・ヒゲの男。

(?) :オグドンだよ。

アリョーシャが挙げる3人の名前は当時のソ連で最も人気があったピアニストたちだ。そのなかでもヴァン・クライバーンは、冷戦のさなかの1958年にモスクワで行われた第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したアメリカ人ピアニスト、ソ連にとってはフルシチョフ第一書記の「雪解け」政策の象徴的存在と言ってもいいだろう。ソ連国民はこのテキサス州から来たひょろっとした青年のピアノに魅了されてしまっていた。そして、ジョン・オグドンも、1962年の第2回のチャイコフスキー国際コンクールで第1位をとったイギリスのピアニストである。ソ連国民は、今度はクマのようにノソノソと歩く、ヒゲの青年ピアニストに夢中になっている。このシーンでは、モスクワ市民たちが自国ソ連のピアニストたちよりも、西側のピアニストのレコードを買い求める様子が描かれているように映るだろう。

だが、実は第2回のコンクールでは第1位は2人いた。ジョン・オグドンとウラジーミル・アシュケナージである。アシュケナージは生粋のソ連国民だ。なぜ彼の名前が出ないのか。

クラシック音楽をそれほど聞かない人でも、ウラジーミル・アシュケナージの名前はどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。ピアニストとしてだけでなく、指揮者としても有名で、20世紀を代表するクラシック音楽家だ。彼はソ連邦、ヴォルガ川河畔のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)出身のユダヤ人である。1962年にチャイコフスキー・コンクールで優勝、将来のソビエト音楽界での<スター>を嘱望された存在だったが、1963年にイギリスに<亡命>している。彼の<亡命>の実情は、政治的な亡命ではなく、アイスランド人の妻と暮らすための<移住>といったほうが良いだろう。フルシチョフ第一書記は「アシュケナージは自由に出入国しても良いことにしていた」と回想録で述べているが、それまでのアシュケナージ夫妻の行動を見ていれば、モスクワに戻るつもりがないことは明白だった [1]。おそらくソ連文化省もほぼ確信していただろう。アシュケナージが国外で<反ソ連>の発言をしない限り、彼の両親や妹を収容所に送るような真似はしない、といったところだった。

だが、ソ連を捨てた人間であることにはかわりはない 2)。映画の脚本で、人気ピアニストとして名前をあげるわけにはいかなかったのではないだろうか。当時の文化省の立場としては、ソ連にのこのこやってきて、フルシチョフに「そのヒゲを引っ張ったら国際問題になるかな」とからかわれたイギリス人のほうがよっぽど良い、と見ていただろう。

第2回チャイコフスキー国際コンクール
第二回チャイコフスキー国際コンクール
ウラジーミル・アシュケナージ(左から2人目)、ニキータ・フルシチョフ第一書記(真ん中)、ジョン・オグドン(右から2人目)
classicfm.com

もちろん、西側諸国の文化がモスクワの市民のあいだに浸透している様子を描いているだけだと見てもよいだろう。しかし、このセリフに登場するピアニストたちは、フルシチョフ第一書記の文化外交政策の<成果>といった趣があり、いかにもそつなく選んでいるように思えてならない。スヴィアトスラフ・リヒテルはソ連随一のピアニストだったが、スターリン時代は、ドイツ人の血をひくという理由から国外での演奏活動は禁じられていた。それをフルシチョフが破り、西側諸国でのリヒテルのツアーはセンセーションを巻き起こした。クライバーンとオグドンは、たとえ西側の演奏家であっても、優れた才能を平等に評価するというロシアの懐の深さを世界に示した象徴だった。(ゲンリフ・ネイガウスは、ソ連のピアノ界の大御所なのだが、やはりドイツ系ということで戦時中は危険人物としてみなされ、モスクワから追放されていた。)

このレコード店がはいっているグム百貨店そのものが、「雪解け」の象徴だ。スターリンの時代にはオフィスビルになっていたものを、ミコヤンが物資的豊かさの象徴としてのショッピング・モールに再生した。

同じレコード屋のシーンで、「ロベルティーノ」のレコードを買い求める客が二人も現れる。ロベルティーノ・ロレッティは1960年代初頭に一世を風靡した少年歌手で、特にソ連でなぜか人気があった。レコードは瞬く間に売れ尽くし、入手できなかったのだ。「わたしはカモメ」のワレンチナ・テレシコワが初の女性宇宙飛行士として1963年6月にヴォストーク6号で地球を周回しているときに、地上の交信係にロベルティーノの曲をリクエストしたという。しかし、そこまで人気がありながらロベルティーノのエージェントはソ連へのツアーを取りやめる。熱狂的に迎えられるかもしれないが、ビジネスとしては損しかしないからだ。ソ連で得られる興行収入はありえないほど少なく、しかもその大部分をソ連政府に巻き上げられてしまう。レコードを出しても、ソ連では著作権というものが尊重されないために、模造品が出回ってしまう。エージェントは「ロベルティーノは成長して声変わりした」といってツアーをキャンセルしたと言われている。ヴォロージャのセリフ(「成長したんだよ」)は、そんな出来事を指している。 

ロベルティーノ「ジャマイカ」1961年

西側諸国から外貨を稼ぐために、優秀なアーティストをツアーに出し、優れた芸術作品を貸し出す。一方で西側諸国から流入する文化には、なるべく対価を払わない。おそらく監督や脚本家はそんな意図でこのレコード店のシーンを作らなかったと思うが、しかしそこには、「雪解け」のそんな側面が見え隠れしている。

雪解けの終わり

スターリンが亡くなって間もない1956年にフルシチョフ第一書記が激烈なスターリン批判を行い、ソ連共産党の政治路線の変更が決定的になった。それから「雪解け」と呼ばれる時期が始まり、文化の面でもスターリン時代の硬直から解放され始めていた。映画の分野では新しい世代が登場し、ミハイル・カラトーゾフ監督の『鶴は翔んでゆく(Летят журавли, 1957)』、グリゴーリ・チュフライ監督の『誓いの休暇(Баллада о солдате, 1959)』などの作品が国際的にも評価された。

1961年10月、文科大臣エカテリーナ・フルツェワは以下のように述べている [2]

映画製作は大きく変化した。1950年代のはじめには、映画スタジオは年平均6~7本しか公開していなかったが、去年1年間だけでも100本を超える映画が公開されている。若い、才能のある映画監督や俳優たち、つまりソビエトの芸術の将来を担う人たちが、映画スタジオで育ったのだ。最近では遠隔地の人も映画を見るようになった。昨年の観客動員数は40億人となり、これにはテレビで放映される映画の視聴者の数は含まれていない。

スターリン時代から映画を作り続け、若い映画監督たちからも慕われていたミハイル・ロンムは、保守系雑誌「オクチャーブリ」───すなわち、スターリン主義を温存し、西側諸国の文化を否定する側───からの攻撃に対し、さらなるスターリン批判をくりひろげると宣言した。1962年の秋のことである [2]

いま、(フルシチョフ第一書記によるスターリン批判)だけでは十分ではないということが明らかになった。これからは私達自身が考え、語り、書くことが必要なのだ。スターリンとスターリン主義だけでなく、スターリン主義によって残された遺産の虚偽を暴くことも重要だ。我々の周りで起こることに注意をはらい、芸術の社会的活動で起きる出来事について判断を下すことがより重要になっているのだ。

このとき、ロンムは「オクチャーブリ」の保守派たちがユダヤ人差別のニュアンスを含ませて批判を展開していることを指摘していた。

だが、フルシチョフの<自由化>路線を転覆させる事件が1962年12月に起きる。マネージ展覧会で展示されていた抽象芸術作品をフルシチョフがこきおろしたのだ。「マネージ展覧会事件」と呼ばれるこの出来事によって、抽象芸術の絶対否定が公式政策として復活し、それにともなって<保守派>による<自由化派>の追い出しが始まった [3]。これは方針転換というよりも、フルシチョフが内政の失敗への批判をかわすために、文化政策の自由化にブレーキをかけたという側面が強い。

翌年1963年の3月、ソ連映画界は大打撃を受ける。フルシチョフは600人もの芸術家や作家をクレムリンに招き、そこでマルレン・フツイエフ監督の『イリイチの砦(Застава Ильича, 1963)』を徹底的に批判した。この作品は、モスクワで暮らす若者たちの姿をロケーション撮影を駆使して、極めて誠実に描き出した力作だった。しかしフルシチョフは、この作品が「どうやって生きていくかもわからず、何を目指すべきかも知らない」怠け者たちを描いているとして糾弾した。最もフルシチョフが反応したのは、主人公のセルゲイが、戦死した父親の亡霊と話をするシーンだった。セルゲイが父に助言を求めると、父親の亡霊は自分が死んだのは21歳で、今のお前より若かった、と言い残して消えてしまうのだ。フルシチョフは「こんな馬鹿なことがあるか、猫でも子猫を見捨てたりはしない!」と罵った [4]

『イリイチの砦/私は20才』

 

このフルシチョフによる攻撃の最中、脚本を担当した、当時25歳のシュパリコフが挙手して発言を求めた [5], [6]

フルシチョフ:誰だ、君は?

シュパリコフ:いま議題にあがっている映画の脚本を書いたものです。

フルシチョフ:じゃあ、ニヤニヤ笑ってないで、どうしてあんなくだらないものを書くほどのバカに成り下がったか説明しなさい。

シュパリコフ:そんなことを説明するつもりはありません。というか、こんなこと、どうだっていいじゃないですか。それより私を祝福してください。みんなで祝ってください!私に娘が生まれたんです。ダーシャって言うんです!

このあと、フルシチョフが拍手をし、それに続いて出席者全員が拍手喝采をしたと言われている。

ちなみにイゴール・イエルツォフによると、フルシチョフは『イリイチの砦』を実際に見たことはないという。彼の部下の報告をもとに批判を展開したらしい [7]

拍手喝采はともかく、『イリイチの砦』は大幅な修正を求められることになる。編集につぐ編集の末、1965年に『私は20才(Мне двадцать лет, 1965)』というタイトルで大幅に短縮されて公開された。その後、ソ連崩壊後にフツイエフ監督自身の手で再編集されてほぼもとの形で再公開された。

この『イリイチの砦』批判は、ソ連映画界が<世代>の問題に対してふたたび神経質になるきっかけとなった。

『イリイチの砦』の次にシュパリコフがとりかかったのが『私はモスクワを歩く』である。シュパリコフのイメージは、ひとつだけだった。夏の午後、突然降り始めた激しい雨のなか、裸足の女性が傘もささずに通りを歩いている。彼女のそばを自転車に乗った若い男がついてまわる。彼が傘を差し出すが、彼女は幸せそうに雨に濡れている・・・。監督のギオルギー・ダネリヤは、これだけでは映画にならないので、シュパリコフに様々なエピソードの断想を書かせ、それをもとに脚本を仕上げていった。『私はモスクワを歩く』が「他愛もないエピソードの寄せ集め」となったのも、こういった構想の経緯から生まれた作品だからである。

しかし、製作途中に撮影所の所長が「意味のあるエピソードがない」と批判した。つまり登場人物が「葛藤」する話がない、ということだ。その応答として<床磨き>のエピソードが生まれた。また、ゴスキノの首脳陣は、この物語が登場人物構成やその扱いの点において『イリイチの砦』と似ていることに不安を感じていた。ゴスキノの副委員長ウラジーミル・バスカコフは、撮影にとりかかる監督のダネリヤに『イリイチの砦』の轍を踏まないよう注意したという。

おそらく、この「葛藤のない物語」という点が、シュパリコフとダネリヤの狙いだったのだろう。完成した作品を見る限り、シュパリコフがフルシチョフに言い放った言葉が、『私はモスクワを歩く』の<狙い>そのものなのかもしれない。つまり「もう政治のことなんかどうでもいいじゃないか、生きていることを祝おう」と。『イリイチの砦』が若い世代の自由への渇望と葛藤を扱おうとしたが、それを政府首脳が意図的に捻じ曲げて解釈し文化政策の道具に仕立ててしまった。ならば、そういった<物語>を漂白して、まだ見ぬ新しい世界への憧れという点に映像を収斂させる、そういったアプローチが功を奏したのではないだろうか。

シュパリコフとダネリヤが脚本執筆に没頭していた頃、ソ連映画界を震撼させるもう一つの事件が起きていた(なかなか、激動の時代である)。第3回モスクワ映画祭で、グランプリの選出をめぐって審査員たちが対立し3)、映画祭の危機にまで陥っていた [8]。その年の候補作のなかでは、誰が見てもフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』がグランプリだと思われた。しかし、開催国ソ連のメンツを潰していいものか、特に共産圏の国々の審査員が渋ったのである。同年のソ連からのエントリ『Знакомьтесь, Балуев』はいつもの社会主義リアリズムのぱっとしない作品で、贔屓目に見てもグランプリには値しなかったという。イタリアのセルジオ・アミデイは「チェコの審査員は『8 1/2』が一番優れているが、票を入れることはできないと言っている。なんだこれは」と怒って出ていってしまった。アメリカからの審査員、スタンリー・クレーマーも審査を放棄して自身の作品の上映会場に向かっていた。ブラジルからの審査員、共産党員でもあるネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが共産圏の審査員を説得して『8 1/2』に投票してグランプリにする代わりに声明を発表しよう、と説得していた。結局、共産圏側が折れて『8 1/2』にグランプリが与えられた。一説には首脳部がフルシチョフ第一書記に状況を説明し、ソ連の国際的なメンツを保つためにも『8 1/2』に賞を与えなければならないだろうという指示があったと言われている。

ところが、このグランプリの結果がさらに波紋を呼ぶ。この結果をみた若いソビエトのインテリたちが間違った考えを起こさないようにと「プラウダ」紙が『8 1/2』をこき下ろし始めるのだ。この攻撃を指揮したのは、文化大臣のフルツェワだと言われている。さらに興味を持ったフルシチョフが『8 1/2』を鑑賞、30分で激怒して出てきて「なんとかしろ」とわめきはじめた。政府の映画委員会のアレクセイ・ロマノフが、ソ連政府は映画祭とは無関係だと声明を発表し、『8 1/2』はソ連国内では公開されないと示唆した。このあと、国内で製作中の13本の映画がいったん中止となったという。このなかに『私はモスクワを歩く』が含まれていたかどうかはわからない。

モスクワという被写体

スターリン体制からの脱却は、モスクワという都市にも変化をもたらした。都市開発、新しい居住空間の登場、そして観光地としての機能である。この変化を具体的に紹介するドキュメンタリーがある。『偉大なる運命の都市(Город большой судьбы, 1961)』は、雪解けによって現れたモスクワの姿をカラーでとらえている。この映画をみると、『イリイチの砦』や『私はモスクワを歩く』で描かれる若者たちの生きる場所としての<モスクワ>の文脈がもう少し明るくなってくる。例えば、『イリイチの砦』に登場する若者の一人がビルの解体作業の労働者だったが、当時のモスクワにとってスターリン時代の老朽化した集合住宅を解体して新しい住居を建設することがいかに重要な改革の一部だったかがわかる。地下鉄の建設はまさしく労働の喜びと直結していることが示されているし、百貨店は商品で溢れかえっている。観光客が世界中から集ってきて赤の広場を見学している。様々な人種の留学生が共産主義の中心地で学んでいる。

このドキュメンタリーは、特に『私はモスクワを歩く』の手本になったのではないかと思われるほど類似点が多い。一方はカラーでスタンダード比、もう一方は白黒でワイドスクリーンという差はあるにせよ、望遠レンズで夜の車のヘッドライトの列をとらえたり、俯瞰で街路をとらえる構図は共通している。導入部を比較してみると興味深い。どちらの作品もまず、俯瞰でモスクワをとらえるショットからはじまる。そして街路の喧騒を映し出すのだが、『偉大なる運命の都市』は歩道を歩く人達に焦点をあて、ときには移動カメラも用いてダイナミックに街をとらえているのに対し、『私はモスクワを歩く』は大通りを埋め尽くす自動車を固定カメラでとらえている。やはり『私はモスクワを歩く』は歩く人間の視点の映画なのだ。『私はモスクワを歩く』の試写の際、この俯瞰ショットにケチが付いた。政府が細心の注意を払っている<写ってはいけないもの>が写っているのではないか、と危惧したのだ。

冷戦時のソ連映画は、非常に厳しい検閲を受けて公開にたどりつく。その全容はなかなかわからないものの、映画関係者の証言などから興味深い状況を知ることができる。映画監督のイゴール・イエルツォフは「(政治に関わる映画委員会の検閲よりも)軍の検閲のほうが楽だった」と述べている [7]。軍はあらかじめ、フレームに入ってはいけない建造物などを指摘してくれるからだ。軍の検閲でなくても、実際の土地に関する情報はすべて誤魔化すか、偽の情報にする必要があった4)。理由は不明だが、正確な日付のカレンダーも撮影禁止だったようだ。イエルツォフは、ある映画の撮影で正確な日付のカレンダーが写り込んでいたために結局お蔵入りになってしまったことがあると証言している。

『私はモスクワを歩く』が、実際にどのような検閲を受けたかは調べた限りではわからなかった。前述のように、この映画にはモスクワのドキュメンタリーのような感触がある。しかし、冒頭の地下鉄の場面でヴォロージャが尋ねる場所は実在せず、ラストの地下鉄の駅は「大学駅」のホームでの別れのシーンも辻褄が合わない(当時の大学駅はソコーリニチェスカヤ線の終点)[9]。コーリャの家の前にある印象的なカフェも映画のために作られたセットだった。観光要所以外は、<本当の>モスクワをはぐらかしているような印象を受ける。

この<はぐらかし>が『私はモスクワを歩く』の底に流れているような気がしてならない。<狙い>は、鬱陶しい政治的なテーマは漂白して「生」を祝福することではなかったか、と述べたが、その<狙い>自体が極めて政治的だったように思えるのだ。たとえば、夜のモスクワを写していくモンタージュで、プーシキンの像、ゴーゴリの像、マヤコフスキーの像、と順番につなげている。1961年に、このマヤコフスキーの像の下でゲリラ的な詩の朗読会が繰り広げられ、KGBによって弾圧された事件が起きている。すると、このモンタージュは、ロシアの文学の歴史───プーシキン、ゴーゴリ、マヤコフスキー───の延長線上に若い詩人たちの活動があることを暗に示していると思うのは、深読みしすぎだろうか?

この映画が公開されたとき、登場人物たちの<考えの浅さ>を批判する批評家たちもいたという(I・S・レヴシナなど)。しかし、何を考えているかわからない当局の考える通りに考えないと600人のインテリの前で激しくこき下ろされ、作品をズタズタにされるような環境で、どんな物語を語ることができるのだろう?何も考えていないような登場人物たちにモスクワ案内をさせつつ、<はぐらかした>向こうにうっすらと、詠みたい詩を詠み、行きたいところに自由に行きたいと願う若い世代がみえるような、そんな作品をねらったのではないだろうか。

そういえば、この映画で検閲を受けた箇所についてダネリヤ監督が自伝でエピソードを紹介しているらしい。あの印象的な主題歌の歌詞の一節「だれと行くかまだわからない」は、もともと「どこに行くかわからない」だったという。文科省の役人が「どこに行くかわからない」では、亡命を示唆していることになると指摘したそうだ。

 

エデュアルド・ヒーリ「私はモスクワを歩く」 1967年

フルシチョフ時代の終焉とホロコースト

『私はモスクワを歩く』でコーリャが向かいのアパートを指差して「あそこにプーシキンが昔住んでいたんだよ」というシーンがある。実際にプーシキンの住んでいた家の近所で育った映画監督がいる。ミハイル・カリク監督だ [10]

カリクは1949年にVGIK(全ソ国立映画大学)に入学、しかしすぐに強制労働収容所(グラグ)に送られてしまう。ユダヤ人だからである。1953年、スターリンの死後に解放されて、VGIKに戻った。1958年に監督としてデビュー、『太陽を追う男(Человек идёт за солнцем, 1961)』で注目された。その次の作品、『グッドバイ・ボーイズ!(До свидания, мальчики!)』は1960年代のソ連映画のなかでも最も叙情的でかつ実験的な優れた作品のひとつだと言ってよいはずだ。しかし、公開時の検閲問題に加えて、ソ連崩壊後もカリクとロシア当局のあいだでトラブルが続き、結局カリクが望んだかたちで日の目を見ることもなく、また現在でもロシア以外の国ではほとんど知られていない映画となっている。

これも、3人の少年、ヴォロージャ、サーシャ、ヴィーチャ(『私はモスクワを歩く』と紛らわしい)が主人公たちだ。舞台は黒海沿岸のリゾート地、エフパトリア、時代は1930年代なかばである。この3人が軍事学校に推薦され、本人たちは行く気満々なのだが、それぞれの親が(なにかを察して)行かせまいとする。特にユダヤ人のサーシャは困った事態になってしまう。だが、最後には親を説得して、陸軍学校に旅立つ───それだけの話だ。このストーリーに、少年たちの大人への通過儀礼、ヴォロージャとガールフレンドの不器用な恋愛、黒海のリゾートでののびやかな風景が重なっていく。その一方で、この青年たちがやがて行くことになる第二次世界大戦の序章がドキュメンタリー・フィルムとして挿入されていく。母親がヴォロージャを見つめていると、『意志の勝利(Triumph des Willens, 1934)』が突然挿入される。ヴォロージャとガールフレンドが将来について語り合っていると、ユダヤ人の絶滅収容所のフィルムが入ってくる。挿入されるフィルムは、青年たちの未来を暗示するフラッシュ・フォワードとなり、その絶望的な事態がのどかな海岸の風景と衝突していく。そして少年たちの陸軍学校行きが決定したとき、悲劇的な字幕が挿入される。ヴィーチャは戦死し、サーシャは「1956年に死後名誉回復」。この字幕は本当にみごとだ。この映画で語られた物語の結末としても、そして歴史の記憶としても、油断していた鑑賞者を床にたたきつけるような衝撃がある。

ボリス・バルターの原作をもとにした脚本をカリクがモスフィルムに持ち込んだのは1963年のことだった [10]。前述のようにこの年はソ連映画界にとって激動の年だ。そこにユダヤ人粛清を糾弾する内容の脚本を持ち込んだのだから、騒ぎになった。オリジナルの脚本では、サーシャの死に関しては「1952年に医師の粛清の際に逮捕され、収容所で死んだ」と更に直接的に表現されていた。これにはモスフィルムの評議会も頭を抱えてしまった。アンドレイ・タルコフスキーもこの字幕はまずいと助言した。結局、アレクサンドル・アロフとウラジーミル・ナウモフの二人が現在の「1956年に死後名誉回復」の字幕にしてはどうかと示唆した。これならば「わかる人にはわかる」。脚本はゴスキノで了承され、撮影に入った。

カリクはドキュメンタリーのフィルムをアーカイブから取り寄せて検討したが、「ソビエト国内でのホロコーストを記録したフィルムは存在していない」ことに気づく。実際、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・虐殺にしても、その様子を撮影したフィルムが存在するわけではない。あくまで強制収容所や絶滅収容所が解放された際に連合軍によって撮影されたフィルムのみが存在する。『グッドバイ・ボーイズ!』に含まれるフィルムは、大部分がナチス・ドイツの収容所の解放時のものだ。

『グッドバイ・ボーイズ(1965)』

 

1964年9月にモスフィルムの評議会で『グッドバイ・ボーイズ!』の試写が行われた。概ね良い反応だったが、やはりドキュメンタリーのフィルムの挿入部分に懸念が示されたのと、労働者たちが一輪車を走らせるシーンが問題視された。これはスタハノフ運動に代表されるソ連の<労働賛美>を揶揄していると解釈されるのでは、と心配したのだ。もちろん、それがカリクの狙いそのものだった。このシーンに関してはカリクはあちこち少しずつカットして諧謔のトーンを抑えたという。そうしてフィルムはゴスキノに承認を得るために送られた。

ゴスキノでは、ドキュメンタリーのフィルムに現れるフルシチョフ第一書記の部分を削除するように求められた。カリクはすぐに応じ、『グッドバイ・ボーイズ!』は10月8日にゴスキノの承認を得た。

そのおよそ1週間後の10月14日に、フルシチョフは降格され、ブレジネフが権力の座についた。

ゴスキノは新しいブレジネフの政権にどう対応したら良いのか見当もつかないまま、とりあえず「新政権が気にいらない可能性があるものはすべて削除する」という方針で動き始めた。そして<労働賛美>を揶揄するシーンは削除するようカリクに求めたのである。だが、カリクは「一度承認したじゃないか」と反論、ゴスキノとカリクのあいだにできた溝は埋まらず、映画の公開は宙に浮いてしまう。

ゴスキノはカリクとその作品を公開の場で弾劾することにした。1965年6月17日に、自動車工場の労働者を集めて『グッドバイ・ボーイズ!』の試写会をおこなった。上映後、おそらくあらかじめ準備されていた発言者たちが口を揃えて「労働をバカにしている」と述べ、失敗作と罵った。カリクはその場は耐えたものの、問題のシーンの削除については同意せず、結局モスフィルムでナウモフが編集し直してなんとか公開にこぎつけたという。

この一件で、カリクの映画監督としての生命は極めて危ういものとなってしまう。リガの映画スタジオにコンサルタントとして左遷され、それでもいくつかの作品を撮った後、1971年にイスラエルに移住した。

この『グッドバイ・ボーイズ!』は、どこかで『私はモスクワを歩く』と重なっているように思われる。もちろん、エフゲニー・ステブロフがどちらの映画でも存在感を放っているのだが、名前も同じ少年たち、そのうちの一人は徴兵される身であること、近所にあるプーシキンの家、夜のコンサートで聞く異国の音楽、ひとつ無駄になるアイスクリーム、など、シュパリコフとカリクの描く物語はあちらこちらでつながっているようだ。しかし、一方の若者たちは戦争と独裁で悲劇的な結末を迎えるが、もう一方の若者たちは将来に希望をもっている。

私には、1950年代から60年代にかけて東欧とソビエト連邦で作られた映画について「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ぶのはためらわれる。チェコのヌーヴェルヴァーグ、ポーランドのヌーヴェルヴァーグ、ソ連のヌーヴェルヴァーグ・・・それは、あのフランスの、フランス国内でも恵まれた男たちが作った映画とひとくくりにしていいものなのか。ひとくくりが言い過ぎなら、なにか似通ったものと考えていいのだろうか。若者たちが前の世代に反抗して、新しい、みずみずしい映像を撮り始めた、という図式だけで、フツィエフやヘルツ、ダネリヤ、メンツェル、カリクを見ていいのだろうか。ジャック・タチの『プレイタイム(Playtime, 1967)』のオープニングショットが、『私はモスクワを歩く』のオープニングショットへのオマージュだと言われているように、フランスからソ連、ソ連からフランスへの影響もあっただろう。だが、見えているものが「似ている」ような気がするのは、ただ気がするだけに過ぎないのではないだろうか。「雪解け」と言っても、本当に溶けて消えたわけではなくて、ただ溶けてまた凍っただけではないか。

しかし、まだまだわからないことのほうが多い。『グッドバイ・ボーイズ!』にしても私は描かれていることの半分もわかっていないみたいだ。この撮影をつとめたレヴァン・パタシヴィリがグルジアで撮影した作品群は興味をそそられるものが多いし、音楽を担当したミカエル・タリヴェルディエフはソ連の映画音楽においては重要な存在だ。『私は20才』の撮影監督マルガリータ・ピリキナの技術は壮絶だ。にもかかわらず、いろんなことがわからない。

ひとつひとつ解きほぐしていくしかなさそうだ。

 

 ところで、『私はモスクワを歩く』に登場した日本人「ウノ・マサアキ」はどういう人物で、どういう経緯で出演したのだろう?知っている方がいたら教えてほしい。

 『私はモスクワを歩く』の製作背景や経緯についてはロシア語のWikipediaが詳しく記載しているようだ。これらの記述の大部分は、最近出版されたゲオルギー・ダネリヤ監督、ニキータ・ミハルコフ監督の自伝、ゲンナギー・シュパリコフの伝記などに負うところが大きいようだ。興味深いエピソードも多い。例えば、有名な「夏の雨の中を裸足で歩く女性と自転車の男性」のシーンは、3日間にわたって撮影され、3人の女性が演じていること、また、ミハルコフが俳優未経験にも関わらず、高いギャラを要求してダネリヤがクビにしようとしたことなど、意外なことが書かれている。 

ここに挙げた映画のいくつかはオンラインで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』と『グッドバイ・ボーイズ!』はモスフィルムのYouTubeチャンネルで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』(英語他字幕あり)link

『グッドバイ・ボーイズ!』(字幕なし)link

Vimeoに英語字幕付きバージョンがある。

『グッドバイ・ボーイズ!』(英語字幕あり)link

『偉大なる運命の都市』は字幕はないが、非常に楽しい映画だ。

『偉大なる運命の都市』(字幕なし)link

 

 

Footnotes

1)^ この最後のセリフがだれのものなのか、はっきりしない。アフレコで入れられたセリフなのだが、誰の口も動いていないからだ。

2)^ アシュケナージの名前が、ソ連の公式記録から抹消されるのはこの映画の数年後である。1970年頃からアシュケナージはメディアでソ連批判をはじめた。すると、チャイコフスキー国際コンクールの歴代優勝者のリストから名前が消えたという。

3)^ このとき日本から参加していた審査員は牛原虚彦。

4)^ ソ連当局が国内外に向けて発行していたソ連地図は意図的に都市、道、鉄道、河川などをずらして記載してあった。一方で軍が保持していた地図には、世界中の都市や要所についての情報が極めて正確に記載されていた。

References

[1]^ J. Parrott, Beyond Frontiers. New York : Atheneum, 1985. link

[2]^ L. H. Cohen, “The Cultural-Political Traditions and Developments of the Soviet Cinema,” Carleton University, 1973. link

[3]^ P. Sjeklocha and I. Mead, Unofficial Art in the Soviet Union. Berkeley, University of California Press, 1967. link

[4]^ W. Taubman, Khrushchev: The Man and His Era. W. W. Norton & Company, 2004. link

[5]^ “Студия СВС – Завершенные проекты,” Mar. 18, 2017. link

[6]^ G. B. Miller, “Reentry Shock: Historical Transition and Temporal Longing in the Cinema of the Soviet Thaw,” University of Oregon, 2010. link

[7]^ M. Dewhirst, The Soviet Censorship. Metuchen, N.J. : Scarecrow Press, 1973. link

[8]^ Priscilla Johnson and Leopold Labedz (Eds.), Khrushchev and the Arts: The Politics of Soviet Culture, 1962–1964. MIT Press, 1965. link

[9]^ “Walking the Streets of Moscow: City in Georgy Daneliya’s films,” Moscow City Web Site. link

[10]^ O. Gershenson, The Phantom Holocaust: Soviet Cinema and Jewish Catastrophe. Rutgers University Press, 2013.

こんな町で育ちたかった

The Truman Show (© Paramount Pictures 1998)

『トゥルーマン・ショー』の世界に入ったみたいだ。

訪れた人の多くがそんな感想を残す町がある。フロリダ州セレブレーションだ。

ディズニーが作った町。ウォルト・ディズニーのヴィジョンが詰まった町。12月にはホワイト・クリスマスが訪れる。降るのは人工雪だ。

フロリダ州オーランドのディズニー・ワールドリゾートから車ですぐのところにある人口7,000人余りの町。まるで、映画のセットのような風景が続き、ゆったりとしたコミュニティに子どもたちの声が響く。今のアメリカの都市では考えられない光景だ。ネット上には色々紹介記事があるので参照してほしい(例えば、ここここここ)。

ウォルト・ディズニーは1960年代、実験的な街の建設を念頭に置いてフロリダで土地を買い漁っていた。彼の死後、彼のヴィジョン(EPCOT, Experimental Prototype Community of Tomorrow)を現実化しようとする試みがはじまった。セレブレーションの建設は、1990年代初頭からウォルト・ディズニー社が入念に研究と調査を重ね、1996年から開発が始まった。この計画を推進した当時のディズニーCEO、マイケル・アイスナーはこんなことを言っている。「過去においてコミュニティを強くしたもの、そして今日の我々が学んだベスト・プラクティス、それに未来へ向かって、素晴らしいコミュニティのヴィジョンと希望をかけ合わせたものが、この町だ。[1]」ディズニーのチームは全米各地の20以上の都市や町を研究し、家の様式についてフォーカス・グループを呼んでアンケートをとった。ピッツバーグのUDA建築事務所が家のスタイルを6種類に絞り込み、ニューヨークのロバート・A・M・スターン建築事務所とクーパー・ロバートソン&パートナーズが都市計画を担当。チャールストン(サウス・カロライナ州)、サヴァンナ(ジョージア州)、イースト・ハンプトン(ニューヨーク州)などの「アメリカの小さな町」を参考にした[2]。

もともと、人口比率も人種・エスニシティを考慮して「多様性」をもたせたものにするつもりだった。しかし、2000年には人口の88%、2020年には91%が白人という結果になった。売り出したときには、土地付き家屋の価格は13万ドルから110万ドルまで、周辺地域から比べると極めて割高な価格だったが[2]、それは今も変わらない。住民は、コミュニティが細かく決めたルールを守る。それがあるから、この町はいつも清潔で、美しく、会う人々は礼儀正しく、安全で、平和なのだ。

ディズニー社は2004年にこの町の所有権の大部分を管理会社に売却している。

 

Celebration, Florida (Google Earth)

 

このセレブレーションと言う町は「ディズニーが作った町」というキャッチフレーズとは別の側面を持っている。1980年代からアメリカで急速にモーメンタムを獲得し始めた<ニュー・アーバニズム>の成果としての側面だ。ニュー・アーバニズムとは、第二次世界大戦後のアメリカ国民の生活空間が、<郊外の無軌道な拡大/スプロール化>とともに様々な問題を抱えるようになったことへの危機感から生まれた新しい都市開発の哲学とその実践を指す。地域コミュニティは多様性に富んだ機能や住民構成から成っており、移動手段は自動車のみならず、歩行者にも配慮され、公共の空間や施設が町の空間を形作る ─── 都市空間は、地域の歴史や気候、エコロジー、建築慣習などを尊重した建築・空間設計に基づくべきだ、という思想である[3]。この活動の中心にいたアンドレス・デュアーニー、エリザベス・プレッタ=ジーベックらが開発し、ニュー・アーバニズムの最初の成功例となったのが、やはり同じフロリダ州にあるシーサイドという町である。

ニュー・アーバニズムは、郊外開発が進む前のアメリカの小さな町をコミュニティ設計の下敷きとしている。大きな通りをはさんで様々な商業施設が立ち並ぶ中心、様々なスタイル、設計の住居群、子どもたちが安全に遊べる場所、日用品が揃う店、それらすべてが歩いていける距離にあり、迷ってもすぐに特徴的で見覚えのある風景に戻っていける、そういった<古き良き町>を理想としているのだ。フィリップ・ラングトンはイリノイ州のオーク・パークという町を観察して、車ではなく、人を念頭において町を設計することの重要性を説いた。シーサイドを計画する前に、デュアーニーとジーベックはフロリダの小さな町を数多く訪れて、この地方に最適な町の設計を考察している。そうして生まれた町は、創造性に富み、住民の生活の質を変えるものとして注目を浴びた。

しかし、皮肉なことに、多くの人にとってシーサイドという町は『トゥルーマン・ショー』のロケ地として有名なのである。

 

Seaside, Florida (Google Earth)

 

原案では、映画のロケーション撮影はマンハッタンの予定だった。しかし、監督のピーター・ウィアーは、フロリダ州の町を訪ね歩いてロケーション撮影に理想的な場所を探しまわっていた。このメキシコ湾に面した町を彼に紹介したのは彼の妻だった[4]。

シーサイドという町の成り立ちを考えると、『トゥルーマン・ショー』に登場するシーヘイヴンの町は、厳密な意味では<郊外>ではなく、むしろ<反郊外>と位置づける必要がある[5]。だが、その<反郊外>なるものを考える前に、まず<郊外>の成り立ちを探る必要があるだろう。

アメリカの郊外は、第二次世界大戦後の高速道路の急速な発達とベビーブーマーの誕生・成長が要因となって、急速に拡大する。それまで都市部に集中していた人口が、一気に周辺地域に拡散した。周辺地域とは、都市部にある職場に高速道路を使って自動車通勤が可能であり、かつ購入可能な一軒家が豊富に供給される場所である。多くの場合、デベロッパーが高速道路のジャンクションを起点に広い土地を開発し、グリッド状に広がる街路を均質的な低コスト住宅で埋めていった。だが、郊外発展のもう一つの重要な要因として有色人種の都市部への流入があった。例えば、ボストンのある地域では、1960年において、人口の99.9%を白人が占めていたが、その後、黒人の流入が続き、1970年には黒人が48%、1976年には85%を占めるまでになった[6]。1940年から1970年のあいだに400万人の黒人が南部を離れて北部、または西部の都市に移動、都市における黒人の人口比率が4%から16%に増加している[7]。これは戦後20年間にわたって、南部で産業の機械化が進んだことが引き金となっている。

有色人種が都市部の生活圏に流入してきたことを嫌った白人が、外縁に逃げ出して新しい生活圏を創造した。それが郊外である。そして白人のベビーブーマーたちの多くが郊外で育った。

1970年代に入ると、このベビーブーマーたちが同じ郊外で家庭を持つようになる。つまり、郊外が<コミュニティ>としての世代の記憶を背負うようになったのだ。この時代の郊外の夢を象徴する映画が『E.T.(1982)』だろう。ロサンジェルス郊外のサン・フェルナンド・ヴァレーが舞台、母親役のディー・ウォレスは1948年生まれのベビーブーマーだ。自動車が生活維持のための必需移動手段であり、子どもたちは親の運転する自動車に依存している。子どもたちが、自分たちの唯一の移動手段、自転車で空を飛んで夢を叶える。『E.T.』は郊外で芽生え始めていた<退屈>をすでに予見していた。

 

San Fernando City, California (Google Earth)

 

レーガン時代を経て、郊外はさらに<退屈>な場所になっていく。『ホーム・アローン(1990)』は、自動車がないとどこにも行けない場所に閉じ込められた少年が、<郊外>に存在してはいけないものを暴力で消し去る話である。ロジャー・イバートは『ホーム・アローン』に登場する泥棒撃退の仕掛けの数々を『鮮血の美学(Last House on the Left, 1972)』の父親が発明したものだろうと嘆き[8]、マイケル・フィリップスは、この映画の残酷さは『わらの犬(Straw Dogs, 1971)』にインスピレーションを得たものだろうと当時の美術スタッフに詰め寄っている[9]。

『ホーム・アローン』の舞台となったのはシカゴの郊外だが、ここで奇妙なズレが生じ始めている。ロケーションに使われたのはイリノイ州ウィネトカ・ヴィレッジ、平均年収が25万ドルを超えるコミュニティである。確かに<郊外>なのだが、実はアップスケールされた高級住宅街が物語の中心になっているのだ。

この奇妙なズレは、<郊外>がすでに新しい位相に入っていたことと密接に関係があるだろう。白人が都市中心部から逃げ出して作った<郊外>だったが、またここでも<違う人種>が流入し始めていたのだ。例えば『E.T.』の舞台になったサン・フェルナンド・ヴァレーは、1970年から2000年にかけて、白人以外の人種、とりわけヒスパニック系の人口が爆発的に増加した[10]。1990年から2000年のわずか10年間にヒスパニック系は43.3%、アジア系は25.8%、黒人/アフリカン・アメリカンは16.5%の人口増加を示す一方で、白人は5.3%減少している[11]。ヒスパニック系にも白人はいる。だからアメリカの国勢調査では「家庭で使用されている言語」という項目がある。2019年、サン・フェルナンド・ヴァレーの一部であるサン・フェルナンド・シティーでは、白人人口比率が65.2%であるが、スペイン語を家庭で使用している人口は78.4%にも上り、英語を使用しているのは19.9%しかいない。

カリフォルニアは、特にヒスパニック系の流入が大きかった場所だが、大都市では類似の傾向が見られる。イリノイ州の巨大な郊外オーロラでもヒスパニック系の比率が高く、家庭で英語を話す家庭の比率が54.1%に対してスペイン語の家庭が35.8%である。だが、『ホーム・アローン』のロケーションに使われたウィネトカ・ヴィレッジは、英語率89.8%、白人率92.9%のコミュニティである。映画の舞台として「あなたが今住んでいるような(いろんな人種のいる)<郊外>ではない場所」を意図的に選択し始めていたのだ。

『ホーム・アローン』が郊外のふりをして高級住宅街を使い、『ボーイ’ズ・イン・ザ・フッド(Boyz n the Hood, 1991)』でローレンス・フィッシュボーンがジェントリフィケーションとは何かを仲間に説教しているとき、ニュー・アーバニズムが注目され始め、フロリダを中心に白人/英語族が親密で清潔なコミュニティを作り始めた。フロリダのセレブレーションなどのニュー・アーバニズムの町は、白人比率が90%を超え、英語率も周辺自治体と比べると高い。人口の少ないアヴァロンなどでは英語率が100%である。言い方は悪いが、また白人は逃げ始めたのである。ニュー・アーバニズムの哲学は、無秩序な拡大、自動車依存、無軌道なエネルギー消費、デザインのコモディティ化といった<郊外>の病に対する<反郊外>であったのだが、実際に町として実現されてみると、住民の多様化という<郊外>に対する<反郊外>でもあった。

そもそも、ニュー・アーバニズムが手本とした「戦前のアメリカの小さな町」とはどんなところなのだろう。例えば、ウォルト・ディズニーが幼少の数年間を過ごし、生涯アメリカの理想とした町、ミズーリ州マーセリンはどんな町なのだろう。この19世紀末に現れた小さな炭鉱の町は、ウォルト・ディズニーがディズニーランドの「メインストリート」を設計する際に参考にしたといわれている[12](注1)。ディズニーが幼少期を過ごした頃は人口5000人[13]、現在は2000人ほどの町である。サンタフェ鉄道の駅として始まり、1888年に正式にリン郡に組み入れられた。地域の炭鉱が鉄道の石炭を供給していた。1906年、ディズニー一家はこの町に引っ越してくる。ウォルトはこの町で学校に通い、映画というものを初めて経験し、「ピーターパン」の劇を見た[14]。町は駅を中心に小さな商店や施設が立ち並ぶ大通りがあり、周辺に広く家が広がっている。広くと言っても町は2キロメートル四方に収まるくらいの大きさしかない。端から端まで歩いても1時間とかからないだろう。マーセリンの町は今でもディズニーが育った当時の面影を残している。ちなみに2019年の国勢調査では住民の93.6%が白人である。

歩いていける距離に生活圏がすべておさまり、自動車を必要としない町。穏やかな中心に公共の場があり、その周辺に多様な設計の住宅が広がっている。まさしく<ニュー・アーバニズム>のヴィジョンそのもののような町だ。だが、誰かが設計してそういう町になったわけではない。サンタフェ鉄道の駅を中心にコミュニティが自然発生したにすぎない。この土地には名前さえなかった(あっても白人は知らなかった)。「マーセリン」という町の名前は駅長の妻の名前からとられている。しかも、マーセリンは長い年月をかけて、形作られた町でもない。幼いウォルト・ディズニーが住んでいた頃は、町ができてわずか20年ほどのことなのだ。

 

Marceline, Missouri (Google Earth)

 

『ホーム・アローン』がクリスマスの定番映画になる前に、12月になると必ずTVで放映されていた作品がある。フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!(It’s A Wonderful Life, 1946)』だ。キャプラは1930年代からコロンビア・ピクチャーズで<アメリカの民衆>の良心を描き続けていた。彼の物語は政治的なメッセージで溢れているように見えるが、実際には政治性は極めて脱色されており、「アメリカには隅々まで善良な人々が住んでいる(一部の欲深い人を除いて)」というシンプルなメッセージが込められているに過ぎない。『素晴らしき哉、人生!』も、ベッドフォード・フォールズという小さな町に住む一人の善良な男とその家族の物語である(ただし、FBIは「銀行家は欲深い人間だという共産主義者のメッセージが込められている」と報告している[15])。ベッドフォード・フォールズは、キャプラが長年描いてきた「アメリカの小さな町」の集大成だと言ってもいいだろう。町の中心に大きな通りがあり、通りの中央には並木の分離帯がある。ドラッグストアでは子どもたちがどのアイスクリームにするか悩み、鞄屋の主人は、ジョージがどんなスーツケースを欲しがっているか言われなくても分かっている。恋人と結婚したら住みたい家はヴィクトリア様式の大きな家だ。クリスマスになると通りは雪に覆われ、楽しそうな飾りで埋まっている。人々は欠点もあるし、間違いも犯すが、悪い人間はいない。だが、一人だけ欲深い人間がいる。銀行家のポッター。この町の権力者、イニシャル入りの馬車に乗って自らの権勢を誇示している。ジョージは、このポッターに追い詰められて橋から身を投げようと思いつめる。

ベッドフォード・フォールズは、ニューヨーク州にあるセネカ・フォールズという町がモデルになっているのはほぼ間違いない[16]。セネカ・フォールズは、シラキュースの西、約30Kmに位置する人口6,000人ほどの町である。1940年の人口は6,452人、1970年代から80年代に10,000人近くまで人口が増加したが、その後減少して今ではまた6,000人ほどである。町の大通りには並木の中央分離帯があり、商店や施設が立ち並ぶ。今でも住宅街にはビクトリア調の住宅が点在し、かつての優雅な風景が思い起こされる。町を横断するカユーガ=セネカ運河に架かった橋(’Bridge Street Bridge’)には、映画のプロットを彷彿とさせる史実がある。1917年、イタリア移民の若者が、運河に飛び込んだ若い女性を救った。しかし、彼自身は溺死してしまった[17]。セネカ・フォールズは貧しいイタリア移民が多い町だった。

そのセネカ・フォールズには19世紀から続く工場がある。グールド社というポンプの製造をしている会社だ。特に3代目の社長ノーマン・J・グールドは合衆国下院議員にまでなった有力者である。彼の車のナンバープレートは「NJG1」というイニシャルで、「町の若者を兵役に送ることも、自分の工場で働かせることも、彼の意思次第」と言われた[16]。

 

Seneca Falls, New York (Google Earth)

 

ニュー・アーバニズムは、マーセリンやセネカ・フォールズのような町を、「地域の歴史や気候、エコロジー、建築慣習などを尊重した建築・空間設計」という思想のもとでアップデートする試みだった。しかし、そもそもの成り立ちが違う。戦前のアメリカの町はその土地の気候に耐えるしかなかったし、さらに材料の調達も含めて建築慣習もその土地にあったものにならざるを得なかった。歴史と言っても、他国の人間が思うような数世紀にわたって刻み込まれる歴史ではなく、数十年の開発と居住の記憶の話である。その町のあり方を「エコロジー」や「多様性」という用語で修飾して再構成したのが、ニュー・アーバニズムだ。この思想は、一方で極めて巧妙に排外的な姿勢を隠蔽している。<郊外のスプロール化>という言葉で、自分たちの「新しい都市開発の思想」から<郊外>を切り離して取り除いていく。<戦前のアメリカの小さな町>を理想として、<戦前の都市部のスラム>、<南部の小作人たちの部落>、<ゴールドラッシュで湧いた町>を記憶から消し去っていく。いくら多次元的な枠組みを標榜しても、結局英語話者の白人が大半を占める人口構成になるのは、むしろそれを目指しているからだと言わざるを得ない。HOPE VIのような貧困層をも取り込んだニュー・アーバニズムの試みも、多くの場合、個々の住居の質の向上が優先され、ハウジング・プロジェクトから立ち退いた貧困層が帰還できないという事態が起きている[18]。経済的格差の問題が拡大されてしまうのは、住居と生活空間を整えれば、生活(そしてコミュニティ)が改善されるという思想が、人間の活動の多くの側面を見逃しているからだ。労働、物資の確保、廃棄、処理、そういった活動をループに含めなかったからである。これでは、<郊外>がスプロール化してしまったことをそのまま維持してしまっている。多くのニュー・アーバニズムの町で自動車の利用率がまったく低くならないのは、住民たちは結局町の外に働きに行くからだ。ひどく高価な不動産を維持するには、どこか別の場所でより多く稼がないといけないからである。

 

Goldfield, Nevada (Google Earth)

 

『トゥルーマン・ショー』は、架空のシーヘイヴンを映しだすために、実在のシーサイドというロケーションを利用して、この隠蔽の二重機構を投影している。消費の場と自意識の交差を描きながら、消費のために必要な資源の確保と廃棄のプロセスが隠蔽され、同時にコミュニティの絆を強調しながら、そのために断ち切ったものを隠蔽している。『トゥルーマン・ショー』のシーヘイヴンは外部がないと機能しないはずだ。水、電力、食料、ガソリンなどの資源の確保や、生活によって排出される廃棄物の処理はすべて書割の壁の向う側にある。しかし、実際のこの世界でも、私達のような一般の消費者は、消費行動のなかでそういったプロセスを、自意識の外側に追いやっている。消費だけをひたすら続けていれば、トゥルーマン・バーバンクのように「生活」が維持ができる。その消費を続けるためには、とくに快楽の充足を追求する消費を続けるためには、労働、しかも払いの良い労働が必要だ。そのためには、コミュニティの外側に出る必要がある。さもなければ、セネカ・フォールズのノーマン・J・グールドのように自分の町に工場を所有して移民を雇い入れる必要があるだろう。だが、現代で質の高い住宅と居住圏を手に入れる人たちは、自分たちを<支える>賃金の安い労働者たちを切り離した。

ピーター・ウィアー監督は、『トゥルーマン・ショー』に適したロケーションを見つけ出すために、フロリダの町を次から次へと見て回ったが、満足のいく町が見つからなかった。ところが、シーサイドについた瞬間、「ここだ、荷物を降ろせ」とスタッフに告げ、あっという間に撮影準備に入ったという。この作品については、パノプティコン的なパラノイアについての議論が多いが、それとともに消費社会が必然的に抱える構造を隠蔽する仕組みについての物語だとも思う。ニュー・アーバニズムは、居住圏を購入/消費して、<消費社会を超えたコミュニティという幻想>を充足させる試みだ。モノを消費して、世界の仕掛けを隠蔽する。この思考と行動は、私達の今の日々の生活に極めて深く、広く浸透している。

ディズニーが作った町、セレブレーションは、あまりにシニカルな存在である。訪れた人が『トゥルーマン・ショー』のセットみたいだ、と思わず言ってしまうのは、セレブレーションとシーサイドが同じ<ニュー・アーバニズム>の思想のもとに作られたために、居住圏としての<不自然さ>を共有しているからだ。セレブレーションを開発したとき、ディズニーのマーケティングがひねり出してきたコピーは「ここは、あなたが育った故郷のような───そうでなければ、こんな町で育ちたかったと思うような、そんな町です」である[2]。つまり、あなた方のなかには、ロクでもないところで育った人もいますよね、と言っている。なかなか言えることではない。ディズニー・リゾートのモットー”Where Dream Comes True”は、長年にわたる「消費者」についての洞察に基づいているらしい[19]。ディズニーだけでなく、すべての企業は、実質的に「あなた(消費者)の<夢>を<現実>にしています」と宣伝する。だが、それは<夢>の代替品でしかないか、そもそも私達がそんな<夢>を持っているのかさえ怪しい。

トゥルーマン・バーバンクがドアを開けて出ていった、その先の世界がどんなところか、まだ誰一人として知らないのかもしれない。また別の企業が用意した<夢>を<現実>にした世界なのかもしれない。

2019年国勢調査結果より(U. S. Census Bureau): Eng.は英語、Sp.はスペイン語

 

[1]        H. A. Giroux, The Mouse that Roared: Disney and the End of Innocence. Rowman & Littlefield, p. 67, 1999.

[2]        P. Lowry, “It’s A Small-Town World,” Pittsburgh Post-Gazette, Pittsburgh, Jul. 13, 1997.

[3]        taotiadmin, “The Charter of the New Urbanism,” CNU, Apr. 20, 2015. link.

[4]        L. B. Smyer, “Finding Truman,” 30A, Oct. 14, 2018. link.

[5]        D. A. Cunningham, “A Theme Park Built for One: The New Urbanism Vs. Disney Design in the Truman Show,” Critical Survey, vol. 17, no. 1, pp. 109–130, 2005.

[6]        I. G. ELLEN and I. G. Ellen, Sharing America’s Neighborhoods: The Prospects for Stable Racial Integration, p. 36, Harvard University Press, 2009.

[7]        L. P. Boustan, “Was Postwar Suburbanization ‘White Flight’? Evidence from the Black Migration,” The Quarterly Journal of Economics, vol. 125, no. 1, pp. 417–443, 2010.

[8]        R. Ebert, “Home Alone Movie Review; Film Summary (1990) | Roger Ebert,” link.

[9]        M. Phillips, “‘Home Alone’ a holiday classic? Don’t make me laugh,” chicagotribune.com. link.

[10]        “Our Future Neighborhoods: Housing and Urban Villages in the San Fernando Valley,” Economic Alliance of the San Fernando Valley, Jul. 2003.

[11]        J. Kotkin and E. Ozuna, “The Changing Face of the San Fernando Valley,” Economic Alliance of the San Fernando Valley, 2002.

[12]        C. Strodder, The Disneyland Encyclopedia: The Unofficial, Unauthorized, and Unprecedented History of Every Land, Attraction, Restaurant, Shop, and Event in the Original Magic Kingdom., p. 254, Santa Monica, Calif. : Santa Monica Press, 2008.

[13]        “Thirteenth Census of the United States Taken in the Year 1910: Volume II, Population”, p. 1079. Department of Census, Bureau of the Census, U. S. Census, 1913.

[14]        “Marceline History.” link.

[15]        “Running Memorandom on Communist Infiltration into the Motion Picture Industry (Up to Date as of December 31, 1955),” Federal Bureau of Investigation, 100-138754–1103, Jan. 1956.

[16]        “The Real Bedford Falls,” Sep. 27, 2013. link.

[17]        “A Wonderful Life? In Seneca Falls, Antonio Varacalli Laid His down for Someone Else,” syracuse, Apr. 15, 2014. link.

[18]        T. Trenker, “Revisiting the Hope VI Public Housing Program’s Legacy.” link.

[19]        “Disney Parks Introduces ‘Where Dreams Come True,’ A Worldwide Initiative Tied To Global Consumer Insights,” The Walt Disney Company, Jun. 07, 2006. link.

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注1    セットデザインを担当したハーパー・ゴフは自分の生まれ故郷、コロラド州フォートコリンズも参考にしている。

馬に乗っていた男、修道僧、廃墟ツアー、ベトナム戦争

1976年。ニューヨークのセントラル・パーク近く。深夜の3時過ぎに、巨体の男がメソメソ泣きながら早足で歩いている。その後を二人の男が息せき切りながら追いかけている。その横を三台のリムジンがゆっくりと三人を追い越さないようについてきている。

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