赤外線フィルムの時代

第二次世界大戦前後の映像技術や工学をながめていると、この頃から、《見えるもの》と《見えないもの》の境界を曖昧にするテクノロジーが徐々に社会に浸透し始めている様子が見えてくる。可視の外側の現象が、平然と可視の領域に滑り込んで、ヒトは自らの知覚が広がったかのような錯覚に囚われ始める。この錯覚は時としてとても危険なものになりうるのだが、視覚に不自由を感じないヒトはすべての感覚のなかで視覚を無防備に無批判に信望していて、その危なかっしさを見逃しがちである。

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エドワード・ホッパーと戦争

エドワード・ホッパー(1882 – 1967)の「ナイトホークス Nighthawks」は、彼の数ある作品のなかでも最も有名な作品だろう。蛍光灯に煌々と照らされた店内。寂しいような、落ち着くような、不思議な場所。しかし、この風景は、作品が製作されたとき、存在してはいけない風景だったというのはあまり知られていない。

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『深夜の告白』の3つのショット

以前紹介したアーヴィング・ピシェル監督『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』は、1943年7月にサンタ・ローザ近辺でロケーション撮影されたが、1943年の後半にロサンゼルスでロケーション撮影された作品がある。ビリ-・ワイルダー監督の『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』である。

今回は『深夜の告白』のオープニングの3つのショットだけを取りあげたい。

『深夜の告白』のオープニング

筆者が「50本のフィルム・ノワールを取り上げるプロジェクト」として取り組んだ「ランダム・ノワール」のほうでも『深夜の告白』は取りあげた。ここでは、この作品のオープニングについて、もう少し見ていきたい。

私はこのオープニングの映像がいつも気になっていた。1940年代のロサンゼルスの夜のダウンタウンを撮影した写真とくらべて、どこか陰鬱で、独特な闇に包まれている印象がある。

1940年代後半のハリウッド通りとヴァイン通りの交差点
Huntington Library Digital Collection
『深夜の告白』の最初のショット
場所は 5th ストリート と オリーヴ・ストリートの交差点

はたして、なにが起きていたのだろうか。

『深夜の告白』の撮影は、1943年の9月27日から11月24日までのほぼ2ヶ月にわたっておこなわれた[1]消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)の記事の最後でも述べたが、灯火管制は1943年11月1日に解除され、その後は夜間の戸外でも照明に制限がなくなっている。つまり、『深夜の告白』の撮影期間のうち、9月27日から10月31日までは、ロケーション撮影は様々な制限を受けるが、管制が解除された11月1日からは、以前の通りの日常の(ノーマルな)夜の風景を、カーボン・アーク灯を何十台も使用して撮影できたはずだ。

だが、『深夜の告白』の最初のショットは、灯火管制下で撮影されたように見える。左に見えるビルはビルトモア・ホテル、その向かいのコカ・コーラの看板が見える店はヴィクトリー・スクエア・ドラッグストア、いずれも地上階の窓に照明があっておかしくないはずだが、暗い闇に沈んでいる。街燈はすべて点灯しているが、これは、灯火管制下でも許可されていた。『深夜の告白』の撮影ロケーションをまとめたジーン・ロートンによれば、この撮影は1943年8月に行われているという[2]

まず、最初のショットには、「Los Angeles Railway Corp. Maintainance Dept.」という標識を掲げた工事の業者が手前に写っている。

全米映画俳優組合は、パラマウント・ピクチャーズ Inc.が、ロサンゼルス市内の5thストリートとオリーヴ・ストリートにあるロサンゼルス・レールウェイ社の鉄道用地において、同社の溶接工とその助手が作業している様子を撮影することについて、(組合との協定事項の遵守する義務を)免除する。ビリー・ワイルダー監督、『深夜の告白』の製作において、1943年8月14日の1日限りである。
この2人が演技、役、スタント、会話などをせず、また、これが免除の前例とならない、ということを両者のあいだで合意している。

全米映画俳優組合からのメモ
Screen Actors Guild, August 14, 1943

すなわち、このショットは8月14日に撮影されたということになる。ここで、「ロサンゼルス・レールウェイの鉄道用地」というのは、具体的には3号線(Line 3)のことである(Wikipedia)。これは、戦時下のロケーション撮影で常に問題になった、エキストラの雇用規定について例外を認める、という全米映画俳優組合の覚書だ。この最初のショットは、ロサンゼルス市内での撮影であり、<300マイル・ルール>が適用される。このルールが適用される場合は、エキストラは全米映画俳優組合の組合員(クラスB)でなければならない。だが、ビリ-・ワイルダーは、実際に溶接工が作業している様子を撮影することにした。それを俳優組合に申し込んだのであろう。

さらに次の2つのショットは、次の製作レポートが鍵となる。

ロサンゼルス、6thストリートとオリーヴ・ストリートの交差点
集合 3:30 AM、カメラ 3AM
リハーサル 4AM- 5:40AM
最初のテイク 5:40 AM - 終了 6 AM
エキストラ8名、車とエキストラ8名
マクマレーのダブルはアラン・ポメロイ
トラック運転手はゴードン・カーヴァス
もしうまくいけば、この早朝の撮影が、完成時には夜のシーンとして使われる
ナイト・フィルター撮影

Paramount Production Memo, 1943/8/4

このメモが少なくとも3つ目のショットを表しているのは、このショットにトラックが登場することから明らかである。どのテイクが使用されたかは分からないが、早朝5時40分から6時のあいだに撮影されていることが分かる。撮影には「ナイト・フィルター」、すなわち赤いフィルターが使用されている。

『深夜の告白』の3番目のショット
場所は 6th Street と Olive Street の交差点

この前日の8月3日のロサンゼルス・タイムズによると、灯火管制は3日の日没時刻(午後7時52分)から翌4日の日の出時刻(午前6時6分)までだ。

ロサンゼルス・タイムズ 1943年8月3日

この撮影は、朝の午前5時40分から6時のあいだまでに行われているから、灯火管制下での撮影である。だが、この時間帯は日の出の6:06直前の<マジック・アワー>と推測される。ワイルダーとサイツは、この時間 ─── 日の出直前で、かつ灯火管制中 ─── は街燈はまだ灯っているが、空は明るくなっていて、照明を利用しなくても「夜のシーンとして」撮影できるともくろんだのではないか。最初のショットとこのショットをよく見ると、背景のビルと空の境界に不自然な輪郭が現れているのが分かる。これはオプティカル・プロセスを施したあとだろう。このオープニングは前述のように日をわたって撮影されているため、空の明暗がショットごとにばらついていた可能性がある。それをオプティカル・プロセスで統一したのではないだろうか。

最初のショットで、フレーム内に配置された多様な光源が作り出す早朝の街の風景は、新鮮なドキュメンタリー性に満ちていて、この後、ハリウッド映画に起きる変化を予言しているようだ。奥行きのある配置の街燈、こちらに向かってくる車のヘッドライト、それを反射する鉄道のレール、手前の溶接作業の光、道に無造作に置かれた迂回路用のオイルランプの炎、どれもが映画のために準備されたものではなく、その風景に最初から存在していたかのようだ。

この最初のショットの街燈に注目したい。

『深夜の告白』のオープニング・シーンに登場する街燈

街燈の上半分が円錐のような形状をしているのが分かるだろうか。1930~1940年代のビルトモア・ホテルの近くの写真を見てみると、これが灯火管制下、街灯の光が上向きに逃げないように施された遮蔽であることが分かる。

ビルトモア・ホテル 1930~40年頃
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが1930~1940年代のビルトモア・ホテルの写真である。写真右奥の坂の上からウォルター・ネフが運転する車が暴走してくる。この電車通りは5thストリートである。

街燈(上の写真の拡大 1930~1940年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが、ビルトモア・ホテル付近の街燈の元の姿である。

次に1943年、灯火規制下のビルトモア・ホテル付近を見てみる。

ビルトモア・ホテル 1943年
University of Southern California Libraries Digital Collection

画面左奥から右に向かって伸びているのが、オリーヴ・ストリート、右から左の道は5thストリートである。この街燈には黒い布のようなものが被せられているのが分かる。

街燈(上の写真の拡大 1943年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

この黒い布のようなものは、翌年になってもまだ被せられたままだった。これは5th ストリートを坂の上から見下ろした写真である(ウォルター・ネフはこの道を奥に向かって暴走した)が、ここでも街燈に黒いものが被せられているのが分かる。

5thストリートをグラント通りからオリーヴ通りに向かって
Los Angeles Public Library Digital Collections
街燈(上の写真の拡大 1944年)
Los Angeles Public Library Digital Collections

これが、戦争の終わる1945年になると、元の姿に戻る。下の写真は、画面奥から手前にオリーヴ・ストリート、左右に6th ストリートが交差する交差点である。『深夜の告白』の3ショットめで、ウォルターの車とトラックが事故を起こしそうになるのはこの交差点だ。

6th ストリートとオリーヴ・ストリート
Los Angeles Public Library Digital Collections

上の空間に光が届かない戦時下独特の街燈、闇に沈むビルの窓、ストリートは車のヘッドライトだけが見える ─── 『深夜の告白』のオープニングの独特の<暗さ>は、ワイルダーとサイツが、灯火管制が作り出した都市部の闇を、照明を使わずにいかに撮影するかと苦心した末に生み出したものである。この<暗さ>は、戦争が民衆に植え付けた、恐怖、愛国心、パラノイア、非日常の興奮、憎悪の念といった闇の成分が凝集したものだと言ってもよいのではないか。そして、それは灯火管制が解除されてしまうと、二度と都市部に現れることはなかった。フィルム・ノワールの作品が数多くあるとは言え、この<暗さ>をとらえた映像は、この作品のこのオープニングだけではないだろうか。

References

[1]^ E. Robson, “Double Indemnity,” in Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir, Dutch Tilt Publishing, 2016.

[2]^ J. Laughton, “Double Indemnity: Self-Guided Movie Location Tour.” Los Angeles Conservancy. link

模範的な町、サンタ・ローザ

模範的な町

カリフォルニア州の小さな町サンタ・ローザは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』でロケーション撮影に使われて以来、新作映画の企画で<アメリカの片田舎の小さな町>が登場するたびに、ロケーション候補地のトップにその名前が挙がるようになった。19世紀のイタリア風ヴィクトリア朝建築の住宅、広さを感じさせる中央通り(メイン・ストリート)の存在、町の支柱としての時計塔、ひらけた交差点をのぞむ教会、並木に埋もれた住宅街といった要素が、カリフォルニア特有の陽光の風景のなかに適度に薄められたノスタルジアを呼び起こすのだ。この町が果たすべき役割を住民も承知しているかのようだった。

『疑惑の影』の撮影最終日、「The Press Democrat」に掲載された論説が、その<役割>を語っている[1]

この映画の製作のおかげで、サンタ・ローザは国内に広くPRされて好意的な印象をもたれている。今までサンタ・ローザについて何も知らなかったコラムニストや物書きたちが、ここを<模範的な町 Model City>という輝かしい言葉で表現してくれているのだ。

The Press Democrat, Editorial

ここで、サンタ・ローザは【典型的(typical)】や【平均的(average)】ではなく、【模範的(model)】という言葉で形容されている。この言葉の選択は、歴史を遠く隔てた現在の眼でみると、サンタ・ローザ、そしてサンタ・ローザのあるソノマ郡全体がハリウッド映画で果たしてきた役割を的確に表現しているかもしれない。1940年代から1990年代に至るまで、平和な田舎町、穏健な中流階級が眠る町の背景として頻繁に採用されてきた。『みんな我が子(All My Sons, 1948)』では、サンタ・ローザのマクドナルド街に現在も残る白い家が、破綻したモラルが招いた悲劇を迎えるケラー家の住居として使用される。その隣の家が『スクリーム(Scream, 1996)』に登場する印象的な曲線の白い手摺のテイタムの家である。『輝け!ミス・ヤング・アメリカ(Smile!, 1975)』では、ミス・コンテストへの熱狂という、当時の中流階級の閉塞した価値観をうつしだす町として登場する。

サンタ・ローザの20Km南に位置する町、ペタルーマも頻繁にハリウッド映画に登場する。『アメリカン・グラフィティ(American Graffiti, 1974)』はその大部分がペタルーマでロケーション撮影されている。物語は、ジョン、テリー、スティーブ、カート達が気怠い夜を過ごすだけのノスタルジーに満ちたものだが、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争を経験していない<無垢なアメリカ>を象徴する舞台として、この町の風景が切り取られている。4人の男たちのその後を語る字幕は、ポーリーン・ケールが批判したように[2]、物語に登場してきた女性たちの人生を実に都合よく消し去っている。『アメリカン・グラフィティ』で、物語のカタルシスの中に無意識に埋め込まれた、錆びれた差別的遠近法のもたらす想像力の欠如が、『輝け!ミス・ヤング・アメリカ』で描かれる痛ましい文化と同根であるのは明らかだ。<模範的>というのは、そういった遠近法を内在させているものなのだ。『ノマドランド』に関するエントリーでも紹介したが、ロナルド・レーガン陣営が第二期目の大統領選挙で製作したキャンペーン用TVコマーシャル「Morning in America」も、ペタルーマで撮影されている。レーガン陣営の考える<模範的なアメリカ人>が住む町の風景が、カリフォルニア州のこの町なのだ。この映像に登場するのはほぼ白人だけだというのも、保守派陣営の考える<模範>の想像力を端的に表している。

ソノマ郡で撮影された映画については、「The Sonoma County Historical Society」の1994年の会誌(link)、ペタルーマで撮影された映画についてはこのサイトが詳しい。

『スクリーム(Scream, 1996)』に登場するサンタ・ローザの家
824 McDonald Ave., 1958年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

歴史をもどそう。1943年は、<模範>が<愛国>という機能を担い、民衆の行動や精神の統制を要求する時代になっていた。模範市民とは愛国者であり、若い男ならば、自ら率先して志願する。戦場に向かう若い兵士を送り出す家族は、彼が犠牲になっても受容できる心構えができていないといけない。当時のアメリカの新聞や雑誌、映画を見ていると、そういった抑圧のような風潮を感じる。<模範>のドラマが繰り広げられる<模範の町>としてサンタ・ローザは機能した。

『疑惑の影』の直後に、サンタ・ローザを含むソノマ郡でロケーション撮影された二本の映画、『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』と『戦うサリヴァン兄弟(The Fighting Sullivans, 1944)』は、当時のアメリカが田舎町の中流階級に何を求めているかがはっきりと分かる作品である。

『ハッピー・ランド』の撮影

マッキンレー・カンターの小説を原作とした『ハッピー・ランド』は、20世紀フォックスが戦時情報局(Office of War Information, OWI)の推進するプロパガンダの一環として製作した映画である(マッキンレー・カンターについては『拳銃魔』についてのこの分析で詳細に書いた)。戦争で命を落とした兵士の家族の心をいかに癒やすか ─── その模範的な物語として、『ハッピー・ランド』の製作にOWIは注意をはらっていたと言われている[3, pp. 161–165]。アイオワ州の小さな町、ハートフィールドで薬局を営むリュー・マーシュ(ドン・アメチー)は、一人息子のラスティが太平洋の戦闘で戦死したことを知る。リューは喪失の絶望から立ち直ることができない。そのリューの前に彼を育ててくれた祖父の霊が現れる。祖父の霊は、ラスティが生まれてから歩んできた人生をリューとともに振り返り、息子の人生がいかに豊かなものだったかをリューに悟らせる。マーシュ夫妻がラスティの戦友を家に迎え入れて、新しい人生の章を始めようとするシーンで映画は終わる。

テーマのうえでも、技法的にも、この作品は明らかにソーントン・ワイルダーの戯曲「我らの町」、そしてそれを原作としたサム・ウッド監督の映画『我等の町(Our Town, 1940)』に強い影響を受けている。死んだ者の魂によって呼び起こされるフラッシュバックの技法を使って、<なんでもない日々こそ幸福の日々>というメッセージを、戦争における犠牲の正当化に資するよう物語に埋め込んでいる。ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに請われて脚本を担当したのが『疑惑の影』である。『ハッピー・ランド』は物語の骨格を『我等の町』から、物語の舞台としてのサンタ・ローザを『疑惑の影』から受け継いだ。

『ハッピー・ランド』のロケーション撮影の様子は、やはり当時の地元新聞によって知ることができる。撮影クルーと出演者たちは、1943年6月14日から7月3日までサンタ・ローザとその近くのヒールズバーグ、ペタルーマで撮影をおこなった [4]。前年の『疑惑の影』の撮影では、アルフレッド・ヒッチコックが地元の少女をスカウトしたが、『ハッピー・ランド』でも監督のアーヴィング・ピシェルが「ソフト・クリームを道に落としてしまう女の子」の役にサンタ・ローザ在住の4歳の少女 ─── のちのナタリー・ウッド ─── を起用する[5, pp. 21–28]。また、実際のサンタ・ローザ市長のE・A・アイマンが、架空の町ハートフィールドの市長を演じた[6]。エキストラも、前回と同じように地元から雇われている[7]。新聞ではサンタ・ローザは「第2のハリウッド」になる、とまで言われている。監督たちもサンタ・ローザの住民たちの不気味なまでに褒めちぎっている。

昨日のジュニア・カレッジでの撮影中、監督のアーヴィング・ピッチェルはこう語った。「ここの皆さんは実に素晴らしいですね。皆さんの撮影中の協調性といったら、本当に私達全員にとって驚きなんです」彼は、撮影に現れた住民たちの演技力を高く褒め称えている。昨日の撮影では、撮り直しもなかったそうだ。

The Press Democrat [7]

木陰に安らぐマクドナルド通りの住宅街、ジュニア・カレッジの広い陸上トラック、パレードができるほどのゆったりとしたヒールズバーグのメイン・ストリート、通りに面したドラッグストア、アメリカの小さな田舎町にあるべきものが、この土地にはすべて揃っている。サンタ・ローザからさらに北に進んだところにある人口2,500人の小さな町ヒールズバーグは、フラッシュバックで登場する1910年代のアメリカの町として最適だった。町の通りがまだ舗装されていないのだ。ハリウッドのスタッフたちは、この<失われつつある風景>を追加で撮影していったという[8]灯火管制(ディムアウト)のせいで、夜の撮影は不自由だが、この土地に来れば、わざわざセットを組む必要がない。そんな中で、一つだけ気になるシーンがある。夜遅く、リューとラスティの親子がドラッグストアから家に帰る、長いトラッキングショットがある。昼のシーンは、ヒールズバーグに実在した店を利用して撮影されたが、このシーンは、ナイト・フィルターを使って昼間に撮影したか、あるいはロケーション撮影ではなく、スタジオで後日撮影したものかのいずれかだろう。

『ハッピー・ランド』でドン・アメチーが住んでいる家
1127 McDonald Ave., 1953年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

当時、カリフォルニア州内であれば、少し日数がかかるものの、ロケーション先でデイリー(ラッシュ)を見ることができたようである。『誰が為に鐘は鳴る』のようなテクニカラー作品でもロケーション先でデイリーを見ていたと報告されているし、『ハッピー・ランド』でもアーヴィング・ピシェル監督らは1週間ほど遅れてデイリーを見ていた[7]。撮影はのどかに進んでいった。ドン・アメチーとハリー・ケリーが家の前で会話をするシーンを撮影中、二軒先に住む税務署職員のエディー・サリヴァンの家のニワトリが声高く鳴いた(すでにアメリカ国内では食料の配給が始まり、不自由を感じた一般人の多くが「食料」を自宅で育てていた)。ピシェル監督が「このシーンは$1,250かかっているんだぞ!あの毛布みたいな鳥の口を塞いでこい!」と怒鳴って、助手たちがニワトリを暗い鳥小屋に押し込んだが、事態はさらに悪化した。「その後数分間起きたことは、あまりに痛ましく、サンタ・ローザの善良でおとなしい市民の方々が読むこの新聞にはとても書けない」とパーディー記者は書いている[9]。驚いて恐縮したサリヴァンが撮影クルーに「鳥を振る舞った」と報じられたが、サリヴァンは「冗談じゃない、あの鳥は$1,2000ドルするんだ」と否定したという[10]。ハリウッドから来た映画人たちは田舎でも忙しい。出演俳優たちは、撮影のあいだに空いた時間を使って、近くの陸軍航空軍の兵士たちを慰問している[11]。撮影の休息日には、地元の地主が監督、アメチー夫妻、ケリー夫妻を招待して、野豚狩りや鱒釣りに誘った[12]。撮影期間中、子どもたちはポリオの流行でプールが閉鎖されているので、かわりに撮影現場に大挙して現れた。その母親たちは、新聞社にその日はどこで撮影するか毎朝問い合わせをしていた[4]。出演俳優のサインをもらった者たちは、それを交換しあっていた。

『ハッピー・ランド』公開

12月に『ハッピー・ランド』が公開された際、サンタ・ローザの新聞編集長は全国の雑誌や新聞を取り寄せたに違いない。この作品が地元に与えるPR効果を詳細に報告している。雑誌「タイム」は、サンタ・ローザを「Hollywood’s All-American Town」と呼び、「リバティ」誌はサンタ・ローザがもたらした<リアリズム>を高く評価していた[13]

映画界の業界雑誌、Motion Picture Heraldには各号に「What the Picture Did for Me」という項目があった。ここでは、公開された映画について映画館主が送ってきた意見や感想を公開している。他の映画館主がプログラム作成の際に参考にできるように組まれた企画であろうか。現在の私達にとって、当時の観客に近い視点からの作品受容や感覚を知ることができる数少ない資料になっている。1944年の前半に『ハッピー・ランド』について書き送ってきた映画館主は多く、その大部分は好意的だった。特にテキサス州のある映画館主は長文の感想を書き送ってきている。

この映画のタイトルは『アメリカ』とするべきだった。製作、セット、ストーリーのどの面から見ても大作ではない。しかし、この映画はアメリカに住むすべての人にとって共通するものをもっている。私達ひとりひとりの心、手、健康、家に響くものがある。そう、この映画は平均的なアメリカ人の生活に共通する小さな事柄が題材だ。その小さな事柄がこの映画を大きなものにしている。これこそ、プロデューサーたちは立ち止まってよく考えないといけないことだ。広大な風景の映画なんか置いといて、心の琴線に触れるものを作れ。

Lee Guthrie(Rogue Theatre, Wheeler Texas)

前述の「タイム」の「Hollywood’s All-American Town」という表現も、このガスリー氏のような感慨も、決して少なくなかったはずだ。『ハッピー・ランド』の興行収入は$1,500,000だった。『誰が為に鐘は鳴る』の興行収入が$11,000,000だったことを考えると、プロデューサーたちは立ち止まって考えることもなかったかもしれない。

ハッピー・ランド(Happy Land)

監督:アーヴィング・ピシェル

製作:ケネス・マクゴワン

原作:マッキンレー・カンター

脚本:キャスリン・スコラ

脚本:ジュリエン・ジョセフソン

撮影:ジョセフ・ラシェル

編集:ドロシー・スペンサー

音楽:シリル・J・モックリッジ

出演:ドン・アメチー、フランシス・ディー

製作:20世紀フォックス

1943

References

[1]^       “Farewell to Movie Friends,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 12, Aug. 26, 1942.

[2]^       P. Kael, “The Current Cinema: Un-People,” _The New Yorker_, vol. 49, no. 36, p. 153, Oct. 29, 1973.

[3]^       C. R. Koppes, _Hollywood Goes to War: How Politics, Profits, and Propaganda Shaped World War II Movies_. New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1987.

[4]^       M. R. Pardee, “Movie Company Leaves After Petaluma Shots,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 3, Jul. 04, 1943.

[5]^       S. Finstad, _Natasha: The Biography of Natalie Wood_. New York, N.Y. : Harmony Books, 2001.

[6]^       “Movie Stars to Arrive in S. R. Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 13, 1943.

[7]^       “200 Local ‘Extras’ Used in Scenes for Happy Land Film,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 17, 1943.

[8]^       “Travel Restrictions of Wartime Fail to Bother Location Expert,” _Daily News_, Los Angeles, p. 13, Aug. 02, 1943.

[9]^       M. R. Pardee, “Expensive Rooster Holds Up Production for Movie Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 2, Jun. 23, 1943.

[10]^ M. R. Pardee, “Evening Scenes for ‘Happy Land’ Taken,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 6, Jun. 24, 1943.

[11]^ “‘Happy Land’ Stars Aid in Entertaining Soldiers Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 18, 1943.

[12]^ “Film Folks Will Go Pig Hunting Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 4, Jun. 27, 1943.

[13]^ “‘Happy Land’ Brings More Publicity for Santa Rosa,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 8, Dec. 14, 1943.

『疑惑の影』の製作

『疑惑の影』
サンタ・ローザでの夜間ロケーション

前の記事のような状況下で、プロデューサーのジャック・スカーボールと監督のアルフレッド・ヒッチコックは『疑惑の影』のロケーション撮影をおこなった。ニュージャージーで序盤のシーンを撮影した後、大部分を北カリフォルニアのサンタ・ローザで撮影した。

サンタ・ローザ

『疑惑の影』の4年前に、<実在の町>を背景にロケーション撮影した作品として注目を集めた作品がある。MGMの『少年の町(Boy’s Town, 1938)』は、ネブラスカ州オマハにあるボーイズ・タウンで全編ロケーション撮影され、実際にボーイズ・タウンの少年たちが映画に出演している。『少年の町』は興行的にも成功しただけでなく、MGM、あるいはMGMスタジオのトップであるルイス・B・メイヤーの哲学を具現化した作品として、その後の保守的、アメリカ製カトリック的物語の精神的鋳型(アーケタイプ)として機能した。<実在の町>を背景(バックドロップ)として、その町の<性格>や<佇まい>を物語のなかで機能させる手法を、再度挑戦したのが『疑惑の影』だと言ってもよいかもしれない。だが、スカーボール/ヒッチコック/ソーントン・ワイルダーは『少年の町』で描かれた保守的なアメリカ神話を逆手にとって、神話の舞台である<アメリカの小さな町>の内部と外部の<悪>が見せる相似を描いた。その神話の舞台として、サンタ・ローザが選ばれたのだ。

この『疑惑の影』が特異的なのは、その製作過程が詳細にメディアに取り上げられている点だ。撮影がおこなわれた8月1日から25日にかけて、サンタ・ローザの地元新聞「The Press Democrat」と「Santa Rosa Republican」が、連日撮影の様子を報道していた。まさしく「ハリウッドが町にやってきた」「この町がスクリーンになる」という興奮と高揚感に満ち溢れた記事が、日本軍のアリューシャン列島攻撃の見出しの横に並んでいる。この記録の存在は貴重だと思う。これらのおかげで、私たちは撮影がどのように進行し、<ハリウッド>がこの小さな町にどのようなインパクトを与えたかを知ることができる。もう一つの大事な報道は映画公開後に雑誌「ライフ」に掲載された「$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets」という製作レポートだ[1]。このレポートは、そのタイトルが示す通り、ヒッチコックがいかに工夫して、WPBの<$5,000のセット材料費上限>ルールをクリアしたかという称賛記事である。後述するようにロケーション撮影とセット撮影の組み合わせによって製作費を抑えたプロセスが具体的に明らかにされている。

この「ライフ」の記事と地元新聞の報道を突き合わせて見ると、非常に興味深いことが見えてくる。「ライフ」の記者とカメラマンは、スカーボールとヒッチコックが撮影に入る前から、彼らに同行して取材を重ねているのだ。サンタ・ローザでのロケーション撮影が発表されたのは1942年6月2日だったが、すでにその時に「ライフ」のカメラマン、ジョージ・アイヤマンがロケーション・ハンティングをするヒッチコックやソーントン・ワイルダーの写真を撮っている、と「The Press Democrat」が報じている[2]。実際、このときの撮影と思われる写真が記事に掲載されている。つまり、この<ロケーション撮影を使って製作材料費を抑える>という物語(ストーリー)を、全国的な雑誌で取り上げて報じるという計画が製作の初期の段階からあったということだ。<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして機能したわけだが、前述のビーゼンの記述を見ると、いかに効果的なプロパガンダだったか(であり続けているか)ということがよく分かる。

『疑惑の影』のロケーション撮影を伝える「ライフ」誌の記事
Google Books Link

これは、開戦直後にハリウッドの戦争協力が限定的だった状況を考えると興味深い。WPBの材料統制がきっかけとなって、ハリウッドが自発的に戦争協力のプロパガンダを編み出すようになっていたのかもしれない。それを、すでに戦争に突入して3年目になるイギリスから来たアルフレッド・ヒッチコックと、ユダヤ教のラビとして20年近くつとめていたジャック・H・スカーボールが率先しておこなったという点は、示唆的であるように思われる。

『疑惑の影』のロケ地として、サンタ・ローザが選ばれた背景には、前述のロケーション撮影の抱える様々な問題を迂回できる要素が整っていたことも挙げられるだろう。この町はサンフランシスコの北、ソノマ郡にあり、ロサンゼルスからは680キロメートル(422マイル)離れている。これは前述の全米映画俳優組合との<300マイル・ルール>が適用されない土地だ。製作発表と同時に、地元での100人程度のエキストラ採用が始まっている[2]。このエキストラには、全米映画俳優組合がプロデューサー達と取り交わした契約が適用されない。どのような待遇だったかは不明だが、組合のレートと同等だったとは考えにくい。結局、1000人もの住人が映画のエキストラとして採用されていた[3]。チャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)の妹、アン・ニュートン役に抜擢されたエドナ・メイ・ウォナコットは、サンタ・ローザ在住の10歳の少女で、サンタ・ローザの4番通りとメンドシノ通りの交差点でバスを待っているところを見かけたヒッチコックに<発見>された[4]。ウォナコットの抜擢は地元で当然注目を集め、この「シンデレラ」について新聞は些細な事でも記事にした[5]。映画の出演者、撮影クルーは撮影期間の4週間のあいだ、サンタ・ローザのオキシデンタル・ホテルとサンタ・ローザ・ホテルに宿泊、膨大な量の撮影機材は地元の倉庫で保管、撮影のための移動手段はやはり地元の業者が担当したが、そういったお膳立てはサンタ・ローザの商工会議所が率先しておこなっていた。こういった報道を醒めた目で見ていると、狡猾なハリウッドの映画人たちが、地方の小さな町の人たちの浮かれた気分を手玉にとっているようにしか見えない。まるで、映画のジョセフ・コットンが、映画の中のサンタ・ローザの人たちの無知を利用する様子のパラレルを見ているようだ。

アメリカでも、1950年代までは幹線道路以外はまだ整備されていない地域は多かった。その点サンタ・ローザは、サンフランシスコなどの都市部から離れた町だが、交通の便には恵まれていた。1930年代に、サンタ・ローザを通るUS101号道路はほぼ舗装化されていたし、サンフランシスコ湾も1937年にゴールデン・ゲート・ブリッジが開通して、ソノマ郡とサンフランシスコが直通している。映画の撮影クルーと出演者たちは、撮影開始の前日(7月30日)に鉄道とグレイハウンド・バスを乗り継いで、現地入りしたと伝えられている[3]

『疑惑の影』の夜間撮影

サンタ・ローザは海岸からも離れているため、沿岸部に適用される規制の対象外である。消灯令もなく、夜のロケーション撮影も夜通し可能だった。夜の撮影に使用された照明も当時の新聞[6]や「アメリカン・シネマトグラファー」誌[7]に報告されている。サン・アーク(カーボン・アーク灯)10台、24インチ・サンスポット(カーボン・アーク灯)19台、”シニア”(白熱灯)6台、”ジュニア”(白熱灯)10台、No.4 フラッドランプ 50台、No.2 フラッドランプ 50台、No.1 フラッドランプ 50台、スカイパン(拡散反射板)10台、これらを全部同時に使用して(3,000アンペア)撮影がおこなわれた(通称についての説明は[8]を参考にした)。電力は撮影隊の電源(1,250アンペア ガス発電機、50キロワット変電機)が供給している。オフィスビルの窓にはフラッドライトが使用されたが、家庭用電源でまかなえるのが便利だった(フラッドライトは、1940年代のロケーション撮影の機動性を高める上で極めて重要な役割を担っている)。カメラのフィルム・ストックは、『市民ケーン』でも使用されたコダックの高感度フィルム(Super-XX)が使用されている[7]

ところが、撮影に入って数日後に、西海岸全域での灯火管制(ディムアウト)が発表される。海岸から比較的遠いサンタ・ローザも灯火管制の地域に入っており、灯火管制(ディムアウト)開始の8月20日から夜のロケーション撮影が実質的に不可能になった。前日までに夜間撮影を終えるようにスケジュールが組み直され[9]、13日と14日には徹夜で撮影が行われた。しかし、夜間撮影を期日までに終えることができず、20日には民間防衛局(Office of Civilian Defense)の許可を得て夜の9時まで撮影をおこなっている[10]

サンタ・ローザでのロケーション撮影は8月25日まで続いた。地元新聞は、映画の撮影進行状況を事細かく伝え、小道具担当やグリップなど撮影クルーたちの談話を載せている[11], [12]。25日の最後の撮影は、<チャーリーおじさん>の葬式の場面だった[13]。サンタ・ローザの住民数百人がエキストラとして参加して、もうハリウッドに戻ってしまったジョセフ・コットンの葬式がしめやかにおこなわれた[14]

この後、ハリウッドに戻って追加のセット撮影が行われている。前述の「ライフ」誌の記事によれば、セットはサンタ・ローザでロケーションに使用された家を模して設計され、すでに他のセットで使用された材料を再利用して建設された。総額は$2,927で、WPBの制限額を大きく下回る。ここまで映画製作の内実を公開しているのは、この映画の製作自体を<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして利用する意図があったからにほかならない。同時期のハリウッド映画で、ここまで製作の経済的側面をメディアに露出させた作品は一本もない。

『疑惑の影』と同じように灯火管制(ディムアウト)のために夜間撮影のスケジュールの変更を余儀なくされた作品には、『砂漠の歌(The Desert Song, 1943)』、『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』、『カナリヤ姫(Princess O’Rourke, 1943)』などがある。空に向かって逃げる拡散光を出さなければよい、ということであれば、少し工夫をして乗り切った撮影もある。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『肉体と幻想(Flesh and Fantasy, 1943)』はサーカスのテントを張って、その下で夜のシーンの撮影をおこなった。RKOでは、エドワード・ドミトリク監督の『アルカトラズから7マイル(Seven Miles from Alcatraz, 1942)』の灯台のシーンを200フィート四方(60メートル四方)のキャンバスで覆って撮影した[15]

『疑惑の影』のスタジオでの撮影の様子
Google Books Link

参考文献

[1]^ “$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets,” LIFE, vol. 14, no. 4, p. 70, Jan. 25, 1943.

[2]^ “Hollywood Producers To Make Motion Picture Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jun. 03, 1942.

[3]^ “Movie Cast, Aides To Arrive Tonight From Hollywood,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jul. 29, 1942.

[4]^ “10-Year-Old S.R. Girl Gets Chance at Role in Movies!,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 2, Jul. 28, 1942.

[5]^ “S. R. Child Gets Contract as Work Starts on Movie Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 01, 1942.

[6]^ “Even Town’s Clock Stops to Aid Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 11, 1942.

[7]^ Joseph A. Valentine, A. S. C., “Using an Actual Town Instead of Movie Sets,” American Cinematographer, vol. 23, no. 10, p. 440, Oct. 1942.

[8]^ “Report of the Studio Lighting Committee,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXII, p. 44, Jan. 1939.

[9]^ “Santa Rosa’s Name Retained for Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 10, 1942.

[10]^ “Film Company In Twilight Shots Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 5, Aug. 20, 1942.

[11]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Prop’ Man Amazes With His Ingenuity,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 11, Aug. 21, 1942.

[12]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Grip Men’ Busiest Part of Film Crew,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 7, Aug. 22, 1942.

[13]^ “Movie Company to End S. R. Stay With ‘Final Rites’ Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 25, 1942.

[14]^ “City Turns Out for ‘Funeral’ in Movies,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 26, 1942.

[15]^ “Coast Takes Dimout in Stride, Nite Trade Booms as Curious Roam Streets,” Variety, vol. 147, no. 12, p. 5, Aug. 26, 1942.

軍需生産委員会とハリウッド

『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』
アリゾナ州にある陸軍のサンダーバード第1飛行場でロケーション撮影された

真珠湾攻撃から4ヶ月後、政府による物資の統制がハリウッドの映画製作そのものを直撃する。1942年4月に軍需生産委員会(WPB)が、L-41という政令を発表した。これによれば、いかなる建造物(私有、公共関わらず)でも、費用が$5,000を超える場合は許可が必要となった[1]。当初、この<建造物>に映画のセットは含まれないのではないかとハリウッドは期待したようだが[2]、戦争による物資の統制政策は甘くなかった。WPBは映画の種類にかかわらず(・・・・・・・・・・・)、セットの材料費に$5,000の上限を設けたのである。セットに対する材料統制は、ハリウッドの映画スタジオの価値観と大きくずれていた。MGMからリパブリック・ピクチャーズまで、どこのスタジオでも<超大作>と<低予算映画>の両方が製作されているが、同じものではない。こんなコストでは、製作可能な映画のレベルが子供向けの低予算西部劇しかなくなってしまう、と反発する者たちも多かった。物資の民間消費を問題にするのだったら、なぜフィルムそのものを規制しないのか。むしろ二本立てを止めさせて、誰も見ない低予算B級映画そのものをなくしてしまう方が、フィルム材料の節約にもなるだろう、という意見もあった[3]。しかし、WPBはその方針を曲げなかった。

映画史の見直し

従来のハリウッド映画史では、戦時下の映画製作の変化を単純でわかりやすい物語に押し込む傾向がある。例えば、第二次世界大戦中のハリウッドについて「ブラックアウト」などを著しているシェリ・チネン・ビーゼンは、戦前のMGMのテクニカラー大作『北西への道(Northwest Passage, 1940)』に見られたような、潤沢な資金をつぎ込んでロケーション撮影を行うことは、開戦とともに下火になったと述べている[4]。特にテクニカラー作品は、尋常ではない照明を必要とし、生フィルムの使用量も単純に3倍必要になるために少なくなったと主張している。しかし、これは端的に言って間違っている。

テクニカラーの作品は、戦時中に製作本数が増えている。1940年には12本(そのうち1本はパートカラー)、1941年には17本だったが、1942年に13本、1943年に20本、1944年には29本にまで増加する(1942年にいったん減少しているように見えるが、『誰がために鐘は鳴る』や『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』のように、この年に製作されたにもかかわらず、公開が先延ばしになった作品が少なからずある)。ウォルター・ラング、アーサー・ルービン、アーヴィン・カミングス、デヴィッド・バトラーといった監督がほぼ毎年テクニカラー作品を担当していた。また、これらの映画はロケーション撮影をふんだんに利用して、広大な景色をカラフルに見せることを主眼としている。例えば、『海の征服者(The Black Swan, 1942)』は、(そんなふうには見えないかもしれないが)ジャマイカ、メキシコ、キューバ、フロリダで、『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』はアリゾナで、『森林警備隊(The Forest Rangers, 1942)』はオレゴン、モンタナで、『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』はユタでロケーション撮影をしている。戦争開始とともに、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザーズは、低予算映画の計画を取りやめ、積極的に大作主義に路線を変更していった。テクニカラー作品を含む<大作>、<話題作>は、劇場での上映期間延長(ホールドオーバー)になりやすく、歩合制レンタル料が圧倒的に興行収入を押し上げていった。つまり、政府に言われるまでもなく、低予算B級映画の製作を止めたのである(5大メジャー・スタジオの中で、最終的に二本立て用の低予算映画を作り続けたのはMGMだけだった)。

また、前述のビーゼンは、さらに続けて以下のようにヒッチコックを称賛する。

ヒッチコックはロサンゼルスのスタジオを離れて、北カリフォルニアでロケーション撮影するという、当時としては珍しい、革新的なやり方で『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』を監督した。

シェリ・チネン・ビーゼン Sheri Chinen Biesen[4]

『疑惑の影』をロケーションで撮影した動機のひとつが、前述のWPBが設定した材料費の上限$5,000だったのは間違いないだろう。安いセットで撮影するよりも、サンタ・ローザという実在する町で、実在する家や通り(ストリート)を利用した撮影のほうが効果的だと考えたのだ。しかし、それは『疑惑の影』に限ったことではなかった。後世の私達が映画史を振り返るとき、どうしてもヒッチコックのような象徴的な監督に<革新性>を見出しがちである。『疑惑の影』とほぼ同じ時期に、サム・ウッドやジョージ・マーシャルが監督した『誰がために鐘は鳴る』や『森林警備隊』も<ロサンゼルスを離れて>、ほぼ<ロケーションで撮影>されたことは忘れられ、<普通ではない、革新的なやり方>をしたのはヒッチコックだけだったということにされてしまう。ロケーション撮影は珍しくもなければ、革新的でさえなかった。ヒッチコックが『疑惑の影』を撮影した1942年には、寧ろあまりにロケーション撮影が多くなりすぎて、様々な問題が噴出していたのである。

戦時下のロケーション撮影

ハリウッドは、ロサンゼルス近郊が軍による統制(消灯令、海岸地域の立入禁止、駅や空港などでの撮影禁止、軍用機以外の飛行機の飛行制限など)が厳しくなったために、南カリフォルニアから離れた場所でのロケーション撮影に計画を切り替えていた。1942年4月29日のVariety紙によれば、20世紀フォックスが撮影に入る作品のうち、8作品は「この地域の戦争による統制を避け、ストーリーにあった自然の背景を利用するために」大部分をロケーションで撮影すると報じている[5]

戦時下で、ハリウッドのスタジオがロケーション撮影をしようとする際にまず最初に遭遇する問題が<タイヤ>だった。当時は日本が天然ゴムの原産地であるインドネシアなどの地域を占領していたため、アメリカではゴムの入手が極めて困難になっていた。戦争開始直後から、タイヤの消費を抑制するために、政府はガソリンを配給制にした。さらに輸送に関して様々な規制を設けたために、ハリウッドが自由気ままに車を走らせてロケーションに向かうわけにはいかなくなった。

20世紀フォックスは『大空の戦士』をアリゾナ州のグレンデールにある操縦士訓練施設でロケーション撮影した。ハリウッドから車で一晩ほどの距離だが、<ゴム節約のために>人員、機材、そして録音用車両を鉄道で輸送したという[6]。パラマウントも『森林警備隊』をサンタクルーズでのロケーション撮影には鉄道を使用して移動した[7]。6月には、トラックなどの輸送車が貨物を積まずに走行することに防衛輸送局(Office of Defense Transportation)が難色を示し、ロケーション撮影で使用したトラックがハリウッドに戻って来るときには、野菜であろうが、鉄道のレールであろうが、現地で輸送貨物を積んで戻ってくることになった[8]。映画スタジオの輸送走行距離は全体で35%削減され、従業員用のバスも廃止された[9]

軍が戦略的にクリティカルとみなした地域は映画撮影の許可がさらに厳しくなった。『The Great Northwest Frontier』という題名の映画で、アラスカでのロケーション撮影を計画していたリパブリック・ピクチャーズは、撮影の許可が下りずに苦労している[10]。日本軍の侵攻が続いていた北太平洋に近いアラスカはカリフォルニアよりもさらに軍の統制が厳しかったのである。さらに、西海岸の沿岸地域で撮影する場合には、撮影クルー、出演者含めてすべてアメリカ市民である必要があった[11]。特にヨーロッパからナチスの脅威を逃れてきた映画人にとって、これは厳しい決定だっただろう。

軍の要請だけではない。ハリウッドから300マイル以内でのロケーション撮影の場合、全米映画俳優組合との取り決めでエキストラを現地で雇うことができず、ハリウッドからエキストラを連れていかなければならないことになっていた[7]。戦時下で多くのエキストラがロサンゼルスを離れることができないといった問題もあった。

こういった数々のハードルがロケーション撮影にはつきまとった。しかし、スケールの大きな戦争映画や、テクニカラー作品のミュージカルなどで、ロケーション撮影を敢行して<大作>として公開するメリットは、これらのハードルをはるかに上回ったようだ。

『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』

参考文献

[1]^ “Ban Placed on Building,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 6, Apr. 09, 1942.

[2]^ “Studios Wary of Set Building Under WPB Rules, Despite D. C. Assurance,” Variety, vol. 146, no. 9, p. 6, May 06, 1942.

[3]^ Paul Harrison, “Paul Harrison in Hollywood: Moviemakers in Quandry Over WPB Set Restrictions,” Ventura County Star, p. 3, Jul. 07, 1942.

[4]^ S. C. Biesen, “Chapter 2. The Classical Hollywood Studio System, 1928–1945,” in Hollywood on Location: An Industry History, J. Gleich and L. Webb, Eds. Rutgers University Press, 2019.

[5]^ “Wartime Rules Spread 20th-Fox Locations,” Variety, vol. 146, no. 8, p. 6, Apr. 29, 1942.

[6]^ “Casey Jones’ Comeback,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 7, Mar. 11, 1942.

[7]^ “Inside Stuff – Pictures,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 18, Mar. 11, 1942.

[8]^ “Bring-Back-a-Load Dictum to Film Cos. May Mean Radishes or Rail Ties,” Variety, vol. 147, no. 3, p. 3, Jun. 24, 1942.

[9]^ “Studios Cut Mileage 35%,” Variety, vol. 147, no. 5, p. 6, Jul. 08, 1942.

[10]^ “Army Regulations Hobble Rep’s Filming in Alaska,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 27, Mar. 11, 1942.

[11]^ “Studios Must Vouch for Troupes in Zoned Areas,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 22, Mar. 11, 1942.

ブラックアウトとハリウッド

『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』の爆撃シーン

前回、真珠湾攻撃とその後に続く伊号潜水艦の攻撃が、アメリカ西海岸に<消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制 (ディムアウト)>をもたらした経緯をみてみた。

では、それらがどのようにハリウッドの映画製作に影響を及ぼしただろうか。

これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない

ハリウッドが最初の<消灯令(ブラックアウト)>を経験したのは1941年12月10日の夜だった。

7:45 p.m. 丘の上の窓から見ていると、町はクリスマスツリーが横たわっているみたいだった。RKOスタジオの貯水タンクの三角のネオンから、ラ・ブレア・アベニューのナイトクラブ街の電気まで、赤、白、緑、青のカーペットがチカチカしていた。サイレンが鳴り響き、電気会社は損失を出しはじめた。15分以内に、何マイルにもわたって街燈が暗くなった。赤い電光表示もほとんど消えてしまった。30分もすると、まったく何も見えなくなった。真っ暗になったが、白熱電球の列が1マイルほど伸びている。あれはハリウッド大通りのサンタクローズ・レーン、マツダ・ランプで飾られたクリスマスツリーの列だ。だが、そのスイッチもようやく見つかったようだ。

フレデリック・C・オスマン[1]

このサンタクローズ・レーンのクリスマスツリーも次の日には撤去されてしまったようだ。

開戦の影響を最初に受けた映画の一つが、サム・ウッド監督の『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』だった。この作品は、正式な製作開始が1942年夏ということになっているが(よって、イングリッド・バーグマンにとっては『カサブランカ(Casablanca, 1942)』の撮影と重なっていた)、背景のシーンなどの撮影は、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの配役が決定するはるか前の1941年11月に始まっていた。サム・ウッドと撮影クルーは、12月前半にハイ・シエラで爆撃機による攻撃のシーンを、陸軍の爆撃機を使用して撮影する予定だった。ところが、真珠湾攻撃の後、アメリカ全土で航空規制が敷かれ、軍用機の使用はもちろん禁止、民間機の飛行も制限された。パラマウントは軍から特別な許可を得て、近隣住民に「これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない」とあらかじめ通達を出して撮影に臨んだ[2]。撮影にはボーイングの民間機を軍用にカモフラージュした。ところが、飛行の許可が下りたのは、撮影のあいだだけだったようで、撮影後は現地で飛行機を解体し、貨物車で運搬してハリウッドに戻ったという[3]

この爆撃のシーンのために、パラマウントは構造力学のエンジニア、ハロルド・オムステッドをコンサルタントとして呼んでいた。彼はノルウェイでナチスによる爆撃を実際に経験していたからである。オムステッドは爆撃シーンの協力だけでなく、パラマウント・スタジオに近代的な防空壕を作るように助言もした[4]

他の映画の製作も、戦時下の体制に強く左右されていく。

まず、<消灯令(ブラックアウト)>によって、従業員が帰宅できなくなる可能性を考えて、多くのスタジオは標準稼働時間を1時間繰り上げた。それまで午前9時から午後6時までだった勤務を、午前8時から午後5時にした[5]。こうして、大部分の映画撮影がセット内で、昼間に行われることになった。特にオープンセット(バックロット)での夜間撮影は、消灯令のために難しくなり始めていた。突然、サイレンが鳴り始めると撮影を中止しなければならないからだ。

ハリウッドの映画館は「Show Must Go On」を合言葉に、「外の明かりは消していても、中では映画をやっているよ」と強調して、業界が今までと変わらず、安定してエンターテインメントを供給しているとアピールした。

時流に乗るのが早いハリウッド業界人たちは、すぐに戦争をモチーフにした映画の製作(あるいはタイトルだけ)を発表した。それまで製作していた映画でも、敵をナチスから日本に切り替えたり、真珠湾攻撃によって主人公たちが主体的に日本軍をやっつけるという物語に書き換えたり、といったことが行われるものもあった。例えば、MGMの『A Yank on the Burma Road (1942)』では、当初の脚本が真珠湾攻撃後に書き換えられ、主人公のアメリカ人ジョー・トレーシー(バリー・ネルソン)が日本軍と派手に銃撃戦を交わす、高揚的なエンディングになった。

『A Yank on the Burma Road (1942)』のエンディング
日本兵をマシンガンで倒すバリー・ネルソン

カリフォルニアに居住していた日系アメリカ人が戦時中に強制的に収容所に入れられたが、それは当時の白人を主体とするアメリカ社会が彼らを<アメリカ人>と考えずに<ジャップ>と考えていたからにほかならない。ハリウッドのように移民が多い社会でもそれは変わらない。多くのハリウッド映画人が、日系人が追放されると「腕の良い庭師がいなくなる(彼らの大邸宅の庭師の多くが日系人だった)」くらいにしか考えていなかったのもその表れである。

戦争協力への道のり

戦争が始まる2週間ほど前の11月24日、20世紀フォックスはフリッツ・ラング監督を擁して『夜霧の港(Moontide, 1942)』の撮影を開始した。ジャン・ギャバンのハリウッド第一作であり、アイダ・ルピノにとっても重要な作品になるはずだった。だが、撮影に入る前からすでにヨーロッパの戦争が製作を思わしくない方向へ引きずっていた。ロケーション撮影を予定していたサン・ペドロの港は海軍の要塞化が始まり、ラングたちは仕方なくフォックスの敷地内に大型のプールを$45,000で作って、海辺のセットを構えることになった。ラングはこの妥協がきっかけになってやる気をなくしたと言われている(その他、ジャン・ギャバンとの不仲、脚本の変更も原因として挙げられている)。真珠湾攻撃の直後、12月12日を最後にラングは監督を降板し、アーチー・メイヨが残りの監督を引き受ける[6, p. 6463/13753]

開戦後の撮影はすべてフォックスのセットでおこなわれたが、決して順調だったわけではない。アーチー・メイヨは撮影中に上空を通過する陸軍の爆撃機の騒音に悩まされている[7]。この『夜霧の港』は、幻のような霧に包まれた海辺のセット撮影やサルバトール・ダリ原案の酩酊のシーンなど魔術的な映像とともに、前述の大型プールのセットを使った海岸のシーンの、とてもセットとは思えないリアリズムが印象的な作品だ。近年、<プロト・ノワール>として再評価もされている[8], [9]

『夜霧の港(Moontide, 1942)』

ハリウッドの映画人たちも、それぞれの形で戦争に参加しはじめる。応召する者、志願する者、さまざまだ。ハリウッドの監督のなかでいち早く軍に志願したのは、フランク・キャプラとウィリアム・ワイラーだった。こういった環境の変化は、不思議な人間関係も生み出す。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice, 1946)』の原作者のジェームズ・M・ケインは、ハリウッドの消灯指導員に志願した。彼とチームを組んだ消灯指導隊員は映画監督のセシル・B・デミルだった。ケインとデミルは、ヘルメットをかぶり、毎晩ハリウッドの坂道を車で行ったり来たりした。二人は窓から灯りが漏れている家を見つけてはドアを叩いて注意するという仕事を極めて真面目にやっていた[10, p. 320]

ハリウッドは、政府との関係を急速に深めていった。生産管理局(The Office of Production Management)や軍需生産委員会(War Production Board)などの組織が、ハリウッドが有する才能や技術、影響力を駆使して、戦時下における民衆の社会、経済活動を<統制>しようと試みた。そして、その多くは成功したといってよいだろう。『ダンボ(Dumbo, 1941)』を公開したばかりのウォルト・ディズニーは、政府が製作するプロパガンダ映画やトレーニング用映画のアニメーションを受託しはじめた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WC5BAp2xvDc&w=560&h=315]
『Four Methods of Flush Riveting (1942)』
ディズニー・スタジオがロッキード社のために製作したアニメーション
フラッシュリベットの方法を説明している

ハリウッド映画がもつファッションへの影響力は、政府にとって好都合だった。ワシントンは、ハリウッドのファッション・デザイナーたちに戦時下の新しいデザインを依頼したのである。ハッティー・カーネギーは、それまでのプリーツ、バルーン・スリーブといった<余分な布>を必要とするデザインを廃し、布地の使用量を最小限にするスタイルを作り出した。男性用のサスペンダーに使われていたゴム、ベルトに使われていた革も貴重な軍需物資だ。デザイナーのドリー・ツリーは、ジーン・ティアニーの衣装をシルクではなく、コットンで作成した[11]。こういった衣装デザインの変化は戦時中を通じて、より顕著になってゆくが、その原動力はハリウッドのスタジオ・デザイナーたちだった。

だが、戦争開始当初のハリウッドの全体的な状況を俯瞰してみると、戦時体制への協力はごく一部にとどまり、少なくとも数ヶ月のあいだは<エンターテイメントの提供者>として振る舞おうとしているのが分かる。当初は消灯令(ブラックアウト)で従業員が帰宅できなくなることを心配していたスタジオの重役たちも、すぐに従業員のことを忘れ、夜間の撮影を再開した。20世紀フォックスは、真珠湾攻撃の3週間後には『Sundown Jim (1942)』と『To the Shores of Tripoli (1942)』の夜間撮影を再開している[12]。年が明けて、1月にはハリウッド全体で40本もの映画が撮影に入っており、その大半は戦争という現実からの逃避(エスケーピスト)を大衆に提供していた。そればかりではない。「映画を見に来る観客は、戦争を忘れようとしているのだ」と主張して、戦争に関するニュース映画の数さえ減らそうとしていた[13]

ハリウッドは、自分たちはアメリカの基幹産業で特別だ、という奢りがあったようだ。

誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)

監督・製作:サム・ウッド
製作総指揮:B・G・デシルヴァ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ
脚本:ダドリー・ニコルズ
撮影:レイ・レナハン
編集:シャーマン・トッド、ジョン・F・リンク
音楽:ヴィクター・ヤング
出演:イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパー
製作:パラマウント
1943

A Yank on the Burma Road

監督:ジョージ・B・サイツ
製作:サミュエル・マルクス
脚本:ヒューゴ・バトラー、デヴィッド・ラング、ゴードン・カーン
撮影:レスター・ホワイト
編集:ジーン・ルジエロ
音楽:レニー・ヘイトン
出演:ロレイン・デイ、バリー・ネルソン
製作:MGM
1942

夜霧の港(Moontide)

監督:アーチー・メイヨ、フリッツ・ラング
製作:マーク・ヘリンジャー
原作:ウィラード・ロバートソン
脚本:ジョン・オハラ
撮影:チャールズ・G・クラーク
編集:ウィリアム・レイノルズ
音楽:デヴィッド・ブトルフ、シリル・J・モックリッジ
出演:ジャン・ギャバン、アイダ・ルピノ
製作:20世紀フォックス
1942

参考文献

[1]^ Frederick C. Othman, “Hollywood Turns ’em Off,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Dec. 11, 1941.

[2]^ Frederick C. Othman, “Behind the Scenes Hollywood,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 16, Dec. 11, 1941.

[3]^ Harrison Carrol, “Behind the Scenes Hollywood,” The Times, San Mateo, p. 6, Dec. 24, 1941.

[4]^ Virginia Wright, “Virginia Wright,” Daily News, Los Angeles, p. 27, Dec. 10, 1941.

[5]^ James Francis Crow, “Theaters Map Plans To Fight Drop in Box Office Business,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 6, Dec. 12, 1941.

[6]^ P. McGilligan, Fritz Lang: The Nature of the Beast. U of Minnesota Press, 2013.

[7]^ E. Johnson, “Desert Sandstorm High Spot in Tour of Hollywood Film Sets,” Daily News, Los Angeles, p. 19, Jan. 14, 1942.

[8]^ M. Bamber, “Moontide (Archie Mayo & Fritz Lang, 1942) – Senses of Cinema.” (Link).

[9]^ “The Making of Moontide — a Noir Fairy Tale,” Let Yourself Go … To Old Hollywood. (Link).

[10]^ R. Hoopes, Cain: The Biography of James M. Cain. Carbondale : Southern Illinois University Press, 1987.

[11]^ Sara Hamilton, “Films to Aid War Clothes Style Drive,” San Francisco Examiner, San Francisco, p. 25, Apr. 05, 1942.

[12]^ James Francis Crow, “Jane Wyman Teamed With Kay Kyser In RKO-Radio Film,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 4, Dec. 29, 1941.

[13]^ Sidney Skolsky, “The Week in Review,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Jan. 10, 1942.

ブラックアウトとディムアウト

「バトル・オブ・ロサンゼルス」(1942年2月26日未明)で、ブラックアウト発令下、敵機を探すサーチライト(Los Angeles Public Library Photo Collection

第二次世界大戦期のハリウッド映画製作について調べていると、<blackouts and dimouts>という表現に頻繁に遭遇する。どちらも<灯火管制>のことだろうと思い、最初は余り気にしていなかったのだが、どうもはっきりしないことが積み上がっていった。調べていくと、<blackouts>と<dimouts>は、それぞれ違う規制を意味していて、それらがハリウッドに与えた影響も異なっていた。ここでは、その成り立ちの違いを見てみる。

ブラックアウト

ハワイのオアフ島現地時間で1941年12月7日午前8時前、日本軍がアメリカの太平洋艦隊に対して攻撃をおこなった。真珠湾攻撃である。この日を境に、アメリカ国民は戦場において血を流し、命を失う覚悟を決めなければならなくなった。国民の生活も、それまで想像もしなかった方向へ大きく変化する。ハワイは本土から遠く離れた太平洋の島とはいえ、アメリカの国土である。その自分たちの土地に地球の裏側に住んでいる民族が攻めてきたのである。

アメリカ国民はその日のうちに反応した。

真珠湾が攻撃された夜、ハリウッド北方のバーバンクにあるロッキード空港(現ボブ・ホープ空港)が完全に闇に沈んだ [1]全部の灯火を消灯 (ブラックアウト)したのである。なぜ消灯したのか尋ねても空港側は回答しなかったが、噂では敵機が来襲したと判断したからだという。翌日8日の深夜、シアトルでは3,000人もの人たちが街の中心部に繰り出し暴徒と化した。前日に軍が発令した<消灯令(ブラックアウト)>に従わず、明かりをともしている店舗のショーウィンドウやネオンサインを破壊し続けたのだ [2]。警察は暴徒のリーダーの1人、19歳のエセル・チェルスヴィグを勾留した。海軍兵士の妻であるチェルスヴィグは「消灯しないのは裏切り、戦争が始まったんだ」と堂々と答えた [3]

こうやって、アメリカ本土でも、戦争がはじまった。カリフォルニア州からオレゴン、ワシントン州にかけての西海岸では、ほぼ毎晩消灯令(ブラックアウト)が発令されていた。変調のかかったサイレンが2分間鳴り響く。これが消灯を命ずる警報である。消灯令が発令されると、屋外の照明をすべて消し、屋内の光が外部に漏れないように窓を遮蔽する必要がある。車の運転中であれば、すべてのライトを消して停車しなければならない。行動は制限され、外出は極力してはならない [4]。街のなかを<消灯指導員>が巡回している。光が漏れている家があれば、ただちに注意を受けてしまう。場合によっては違反者は逮捕される。

1941年12月12日のシアトルの夜の写真がある。一枚の写真は<消灯令>に定められた消灯時間前のシアトル市内の様子、そしてもう一枚の写真は消灯した後の様子である。

消灯令発令直前のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI
消灯令発令直後のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI

ネオンサインやビルボードだけでなく、室内灯や街燈も消されている。誰も住んでいない街のように街路が漆黒に包まれ、数時間前の夜の喧騒が嘘のように消え去っている。

スティーブン・スピルバーグ監督の『1941』に登場するロサンゼルスは、ビルボードやネオンサインが煌々と輝いていたが、戦時下のロサンゼルスの夜はひたすら暗く、一度屋外に出てしまうと極めて危険な状況になることさえあった。

伊号潜水艦の攻撃と灯火管制(ディムアウト)

真珠湾攻撃の影響もあったのだろう、アメリカ西海岸は当初、空爆に備えた防空体制をとっていた。消灯令もその一環だ。だが、すぐに別のかたちの脅威が襲ってきた。

真珠湾攻撃から2週間も経たない12月20日、日本の潜水艦伊17が、サンフランシスコから北200kmほどにあるメンドシノ岬沖でタンカーのエミディオ号を砲撃して破壊した [5]。12月23日には、潜水艦伊21がカリフォルニア州カンブリア沖でタンカーのモンテベロ号を撃沈、伊17がユーリカ沖でラリー・ドヘニー号を攻撃するなど西海岸付近での攻撃が続いた [6]

年が明けて1942年の2月23日、伊17がカリフォルニア州サンタ・バーバラにあるエルウッド精油所に向けて攻撃をおこなった [7]。第二次世界大戦に参戦したアメリカにとって、はじめての本土攻撃だった。断続的に太平洋からやってくる敵の影にカリフォルニアは怯え、パラノイアがロサンゼルスの街を覆った。翌24日の深夜から25日の未明にかけて、海軍情報局は<敵機襲来>の警報を発令して消灯令を敷く。上空に<敵機襲来>を見た第37沿岸砲撃隊が高射砲を撃ち始め、計1440発の対空射撃をおこなった [8]。この夜、消灯令下でロサンゼルス市民に5人の死者が出ている。うち3人は交通事故、2人は心臓発作だった。犠牲者の一人、ズーラ・クラインは夫の運転する車がトラックと衝突した事故で亡くなった。どちらの車も消灯令下、ヘッドライトを消して運転していた。その他にも暗闇で転倒した人などが病院に担ぎ込まれた。この「バトル・オブ・ロサンゼルス」は、気象気球を「日本かドイツの飛行船だ」と言い張った若い将校が砲撃を命令、その後はパラノイアが連鎖的に広がったと当時から報告されていた [9]

伊17がサンタ・バーバラの沿岸を攻撃したことを伝えるデイリー・ニュース紙(ロサンゼルス) 1942年2月24日

さらに同年の6月には潜水艦伊25がバンクーバー(エステヴァン・ポイント) [10]、オレゴン州のシーサイド(フォート・スティーヴンス) [11]を攻撃している。

伊号潜水艦による本土への攻撃は、確かにアメリカ国民への心理的な効果は大きかったが、物理的な被害そのものは大したものではなかった。一方で、潜水艦による船舶への攻撃の被害はあきらかに甚大だった。沿岸警備の考え方として、危険を察知して警報を鳴らして全てを完全に消灯する<消灯令(ブラックアウト)>に効果がどれだけあるのか疑問視する声が上がり始める [12]。ロサンゼルスを含む西海岸の都市部の灯りは、海上150マイル(約241キロメートル)からでも見ることができるという。これらの灯りは、夜間に海洋を航行する船舶そのものを照らさなくても、そのシルエットを浮き上がらせる。むしろ、この都市部の灯りを総合的に統制する仕組みのほうが効果的だとエンジニアたちが言いはじめた。この助言を受けて、まず5月に沿岸部に<灯火管制(ディムアウト)>が敷かれ [13]、その後、8月20日にメキシコからカナダまで、メキシコからカナダまでの太平洋岸全域に<灯火管制(ディムアウト)>の規則が適用された [14]。灯火管制下では、夜間のスポーツ試合の禁止、劇場などの広告照明の禁止、戸外の照明(例えばガソリンスタンド)は1フートキャンドル(約10ルクス)以下、信号や街燈は上向きの光を遮蔽すること、海上から視認できる窓はすべてカーテンなどで遮蔽すること、車のヘッドライトはわずか250ビーム・キャンドルパワーまで、と決められた。そしてこれが毎晩日没から日の出まで行われる。各新聞は毎日第一面にその日の<灯火管制>開始時間と終了時間を掲載していた。

消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制(ディムアウト)>の違いを説明する広告 Los Angeles Times 1942/5/23 II p.6

すなわち、伊号潜水艦の攻撃が引き金となって、アメリカの西海岸の人々は毎夜、灯火管制の独特の暗さのなかで過ごすことになったのである。

灯火管制(ディムアウト)>下のロサンゼルス(1943年)UCLA Library Digital Collections

この管制下では、毎日のように灯火管制規則違反で逮捕されたり拘束されたりした人々のニュースが報道されている。イースト・ロサンゼルスのハリー・トリガーは、経営するクリーニング屋の窓のカーテンをせずに屋内の光を漏らしていたという違反で逮捕された。ダウニーのカフェのオーナー、マニュエル・ガルシアは、ネオンサインを点けたままにしていたので、やはり逮捕された [15]。宝石店を営むナタリー・シェルドンは、やはり灯火管制の時間帯に店の灯りを煌々と点けていて警察に違反を指摘された。彼女は裁判で、灯火管制の開始時間を忘れないようにセットしていた時計のアラームが鳴らなかったからだと主張したが、判事は$15の罰金を課した [16]。交通事故も極めて多い。ヘッドライトを暗くしているために、間違ったレーンを走っていたり、対向車が見えなかったり、歩行者が見えないという事態が頻発し、正面衝突、ひき逃げ、ひき逃げされた後にさらに別の車に轢かれるというケースも多かった。マインズ・フィールドの部隊の軍警察官クリストファー・スピンドラーは、マンハッタン・ビーチのそばのセプルヴェダ大通りで、轢き逃げされたあと、さらに別の2台の車に轢かれて死亡した [17]。こういった事故は日常茶飯事だった。

消灯令(ブラックアウト)>下のロサンゼルス、カクテル・ラウンジの<トミーズ・ジョイント Tommy’s Joynt>
「中は消灯してないぜ!」とサインを出しているが、店の前で躊躇する客たち
(サンタ・クルーズ・センチネル紙、1942年1月3日)

消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)も、レストランやナイトクラブのビジネスにはうれしくないルールだった。西海岸は自動車が移動手段として定着していたため、ヘッドライトを点灯できなかったり、暗くしたりしなければならないのは、夜の外出には不自由極まりない。タイヤの消耗を防ぐためのガソリン価格の規制も手伝って、一般人は夜の移動を控えざるを得なかった。

消灯令(ブラックアウト)>で、信号の光が拡散しないように覆いをかぶせている。(1941年)UCLA Library Digital Collections

もちろん、それでも夜の町に繰り出したい人たちはいる。女性たちのための「ブラックアウト・ファッション」や「ディムアウト・ファッション」も登場した。ブラックアウト・バッグは、普通の女性用ハンドバッグにブラックアウトに便利な小物が入った少し大きめのバッグだ。非常用に懐中電灯、暗闇で怪我をしたときのファーストエイド・キットなどが入っている。懐中電灯が装備されて足元を照らす靴、帽子も蛍光塗料で処理してあって、暗闇で歩行者だと視認できるようになっている [18]。フレドリック・モセルがデザインしたブローチは、ハリウッドの街燈をかたどっているが、暗闇でも光る [19]

家の照明が外に漏れないように、黒くて分厚い布の<ブラックアウト・カーテン>や<ディムアウト・カーテン>はすぐに売り出された。だが、カリフォルニアの夏の気候では黒いカーテンで窓を覆うと過ごしにくい。そこでベネチアン・ブラインドが流行した。これならブラインドを開ける方向さえ気をつければ、窓を開けたまま灯火管制のルールに従うことができる。

ネオンサインや照明広告はご法度だが、自分で発光しなければ問題ないだろう、と考えた人たちがいた。これはニューヨークのブロードウェイだが、<フレックスグラス>という材料を使って、灯火管制下でも周囲の少しの光を反射して広告の文字が光る、という巨大看板が劇場に使われた。

ニューヨーク・ブロードウェイ、アスター劇場の<フレックスグラス>を使った巨大看板
Better Theaters 1942年9月19日号

こうやって、人々は<非常事態下>でも、生活を続け、商売を編み出し、楽しみを作り出していた。やがて、この灯火管制は、日本軍の前線の後退とともに不要になっていく。1943年10月12日にゾーンの見直しがあった後 [20]、同年11月1日に撤廃された [21]

References

[1]^ “City’s Airfields Blacked Out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. E, Dec. 08, 1941.

[2]^ “Rioters Smash in Pike St. Windows,” The Seattle Star, p. 1, Dec. 09, 1941.

[3]^ “Rioters Enforce Seattle Black-out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Dec. 10, 1941.

[4]^ “L. A. Blackout Regulations,” Daily News, Los Angeles, p. 2, Feb. 26, 1942.

[5]^ “Jap Subs Raid California Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 21, 1941.

[6]^ “Jap Sub Sinks L. A. Tanker,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 24, 1941.

[7]^ “Submarine Shells Southland Oil Field,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Feb. 24, 1942.

[8]^ “California in World War II: The Battle of Los Angeles.” http://www.militarymuseum.org/BattleofLA.html (accessed Apr. 23, 2022).

[9]^ Col. John G. Murphy, “Activities of the Ninth Army AAA,” Antiaircraft Journal, vol. LXXXXII, no. 3, p. 2, Jun. 1949.

[10]^ “Japanese Craft Shell B.C. And Oregon Coasts; Navy, RCAF Hunt Enemy,” Vancouver Sun, Vancouver, p. 1, Jun. 22, 1942.

[11]^ “Oregon Fort Undamaged in Sub Attack,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Jun. 23, 1942.

[12]^ “No Blackouts Till Necessary,” The Spokesman-Review, Spokane, p. 5, Jan. 27, 1942.

[13]^ “Move Designed to Protect Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, May 23, 1942.

[14]^ “Drastic Dimout Ordered for Coast, Inland Areas,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Aug. 05, 1942.

[15]^ “Dupities Seize Two on Dimout Charges,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Nov. 09, 1942.

[16]^ “Clock Blamed for Lights,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 5, Jan. 01, 1943.

[17]^ “Traffic Takes Lives of Two Adults and Baby,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Mar. 15, 1934.

[18]^ Dorothy Roe, “Blackout Styles,” Metropolitan Pasadena Star News, Pasadena, p. 10, Feb. 24, 1942.

[19]^ “Luminous Coat Doo-dads Very Chic,” San Fernando Valley Times, p. 10, Feb. 20, 1942.

[20]^ “Angelenos Study New Lighting Regulations,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 12, 1943.

[21]^ “Dimout Darkness Ends Tomorrow,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 31, 1943.

銃に選ばれし人間

 

ジョセフ・H・ルイス監督の『拳銃魔(Gun Crazy, 1950)』について調べているときに、ハリウッドと銃の関係について、つい調べ始めてしまった。Hollywood Reporterにこんな動画があったのを見つけた。

ハリウッド、特に俳優や監督、プロデューサーはどちらかと言うと政治的にはリベラルなスタンスをとる人が多い。銃による暴力行為がニュースになると、銃規制に声を上げる映画関係者もいる。だが、セレブリティによるそういった活動にシニカルになる人達も少なくない。なぜなら、多くの映画でバイオレンスが重要な役割を果たしているし、ヒーロー達が数え切れない数の銃器を握って、困難を撃ち抜けるストーリーが語られているからだ。

この動画には「Independent Studio Services(ISS)」という映画の小道具、特に武器類を専門とする会社が紹介されている。この会社では16,000丁以上の銃器を保有し、映画撮影用の銃器のレンタルだけでなく、注文に合わせた銃器の製作、製作、撮影現場での教育、コンサルタントなども行なっている。さらには、アメリカ軍の戦闘員のトレーニングも行なっている。映画なんかでは、主人公が敵の武器を拾い上げてすぐに撃ちまくって窮地を脱するシーンなど散々製作されてきたが、実際の海兵隊員はAK-47だって触ったことがない場合がある。ISSで実際にトレーニングを受けた海兵隊員の二人が、2003年のイラク戦争の戦闘中に敵のAK-47を使って作戦を完遂した例があるという。現実はフィクションの想像力を必要としているのだ。

NRAの博物館の人が「映画で使われたもっとも有名な銃」として、『ダーティー・ハリー(Dirty Harry, 1971)』のキャラハン刑事が使用しているスミス&ウェッソンM29(”44マグナム”)を挙げている。私自身は「銃といえば44マグナム」みたいな安易な発想に少々うんざりしている。

今から30年ほど前、私はアメリカの西部のある都市で学生として住んでいた。私のアパートは大学の近くでそんな物騒なところではない。夜中の2時に80歳のおばあさんが3,000ドルの現金が入ったポーチを抱えてチワワを散歩させていても、ひったくりにさえ会わない。そんな平穏な場所だったが、ある夜の7時頃、アパートに帰ってくると、普段は誰もいない隣のアパートの駐車場に50人ほどの人が集まり、その人だかりの真ん中にパトカーが2台停まっていた。さっきまでピザを食べながら「ロザンヌ」を見ていましたという感じのスェット姿の女性に話しかけて何が起きたのと聞いてみた。このアパートに住んでいる若い女性がボーイフレンドと電話中に口論になり、激昂したボーイフレンドが、これから44マグナムを持ってお前のところに行く、と言ったらしい。若い女性はすぐに警察に連絡した。

「で、そのボーイフレンドは?」

「ほんとに来たんだよ、マグナム持って」

「え、マグナム持ってたの?」

「そ、持ってたの」

私達のそばにいた数人がほぼ同時に「Stupid」と言った。横にいた背のひょろっとした若い男がニヤニヤしながら、指で銃を作り「ゴーアヘッド、メイク・マイ・デイ!プシュー!」と撃つ真似をした。この国の男は全員馬鹿なんじゃないかと思った。だいたい、あのセリフのあとで、クリント・イーストウッドは銃を撃たない。

パトカーの後部座席に座っていたのは、ジョン・ボン・ジョヴィから全ての魅力を取り除いて、汚れたビールをぶっかけたような容姿の男だった。あの体つきでS&W M29なんか撃った日には、リコイルでひっくりこけて、上の階の人がとばっちりで怪我するという不幸な事態しか招かないだろう。

「世界で最もパワフルなハンドガンだ」みたいなスローガンは、こういう人物を引き寄せてしまう。そういう人間は、自分がその銃に選ばれていないのに、どこかでそれを手に入れてしまうのだ。フィクションの約束事を、現実の自分に委ねてしまう。

ジョン・バダムがTV映画を担当していた時代に監督した『ザ・ガン 運命の銃弾(The Gun, 1974)』という作品がある。38口径のリボルバーが<誕生>してから、様々な持ち主の手に渡ってゆく。その持ち主たちの銃との関わりを、持ち主たちに肩入れすることなく描いてゆく映画だ。ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品に『運命の饗宴(Tales of Manhattan, 1942)』という、これは燕尾服が様々な人の手に渡ってゆくさまを描く映画があるが、趣向は似ているけれど、こちらのほうは銃という、いつ悲劇を生むかわからないオブジェが主体なだけに、遥かに緊張感にみなぎっている。銃、特にハンティング用ではないハンドガンやライフルは、それが<殺傷する>という目的を果たすとき、悲劇しか生まない。その端的な事実を、大げさな演出や演技を介さずに、効果的に描き出している。この物語でも、銃に選ばれていない人間が、その銃を手に入れてしまう。あるいは、銃は死をもたらすもの、この世に属していないのだから、この世には選ぶ相手などいないのかもしれない。脚本はリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンク、撮影はスティーヴン・ラーナー。

この作品については、めとろんさんが詳しく論じられているので、ぜひそちらを参考にしていただきたい。

『市民ケーン』と空間の音響 (Part IV)

Part Iはこちら

Part IIはこちら

Part IIIはこちら

演説の時代

『市民ケーン』のマジソン・スクエア・ガーデンのシーンとオペラのシーンにはある共通項がある。いずれも、広い空間で、マイク/アンプ/PAを使わずに声を発するという演技をしている点だ。

この映画では、ケーンが州知事に立候補したのは1916年の設定になっている。PAシステムが普及する前のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの選挙演説のシーンでは、チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)はマイクを使わずに自らの<肉声>を大ホールに響かせている。1916年といえば、スタンフォード・ホワイトが設計した第2期(1890 – 1924)のマジソン・スクエア・ガーデンにあたる。舞台となったアンフィシアターは床面積6000平方メートルを超える巨大なホールだった。

PAシステムを使わずに演説をするというのは、どんな感じだったのだろうか?

米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、20世紀初頭、演説家として名を馳せていた政治家の一人だ。彼の演説シーンはサイレントのニュース映像として残されている。多くの場合、戸外で、おそらく多いときには数百人から千人以上の聴衆を相手に声を張り上げている。特に米国国会図書館所蔵のこのフィルムクリップの1:08~1:20の演説の様子をみていただきたい。手前で演説をしているのがルーズベルトだが、その奥、壇上で聴衆に向かって指示をしているように見える男性がいる。何が起きているのだろうか。

セオドア・ルーズベルトのフィルムクリップ(米国国会図書館

セオドア・ルーズベルトの選挙活動を報じる新聞記事を読むと、当時の演説がいかに混沌としていたかがわかる。支持者たちはいつまでたっても拍手をやめないし、中には壇上に上がって煽り始める者もいる。聴衆はすぐに声を合わせてスローガンを繰り返す。ようやくおさまって演説が始まっても常に野次が飛ぶ。おそらくフィルムクリップの男性は、騒がしく声を上げたり演説を妨害している者に注意しているのだろう。当時の新聞記事はルーズベルトの演説内容とともに、それに返された野次も記録している。

セオドア・ルーズベルトの演説の様子を伝える記事[1]。緑下線は聴衆からの発言。

つまり、PAシステムが導入される以前は、いくら演説者の声が大きくても聴衆の野次と大して変わるわけではなく、<やりとり>が必然的に存在する仕組みだったのだ。これは、アメリカの二大政党、民主党と共和党の全国大会(National Convention)についての報道を読むとそれがより鮮明に表れている。1904年、PAシステムが登場するはるか以前の共和党全国大会はシカゴ・コロシアムで開催されているが、始まる前から議長がギャベルで叩き続けても一向に静かにならない、各州から選挙人が登場する度に大騒ぎになる、意見が一致せずに割れると収集がつかない、といった具合である[2]

また、上記のフィルムクリップで2:00~2:08あたりの映像を見てほしい。これは屋外での演説だが、ルーズベルトの声がいくら大きく通る声でも、後ろのほうの聴衆まで聞こえたとは考えにくい。演説者の直ぐそばで野次を飛ばす人たちもいれば、遠くの方から演説の内容はともあれ<イベントに参加した>という人もいたのだろう。当時は翌日の新聞に演説の全文が掲載されることも多く、多くのひとは演説の内容を遅れて知ったのではないか。

だが、PAシステムとラジオの登場によって、その様相が少しずつ変わっていく。

アメリカの政治家でPAシステムを最も有効に使用した最初の人物は、第29代大統領ウォレン・ハーディングである。彼は1921年の大統領宣誓式、第一次世界大戦終戦記念日の演説をPAシステムとラジオを駆使しておこない、好評を博している[3], [4], [5]。これらはどちらも屋外で行われる式典で、PAシステムの効果は絶大だったに違いない。

屋内で開催される大規模な政治集会といえば、前述の共和党、民主党の全国大会である。1920年代の両党の全国大会はベルシステムズが新技術を披露する格好の場所となっていた。まず、前述のハーディングの大統領宣誓式の前年1920年に、共和党全国大会でベル・テレフォン・システムズが大規模政治集会としては初めてPAシステムを設置した[6]。1924年にはやはりベルシステムズが全国大会のラジオ中継の技術を提供、アメリカ全土で両党の全国大会の進行を生放送で聞くことができるようになった。これは今で言う「パブリック・ビューイング」のように、大型の施設を開放、PAシステムを設置してラジオ放送を流すという仕組みだった。

1930年代に入ると、<拡声>技術と政治はより深く結びついていく。トーキー映画の登場はそのひとつだ。また政党がラジオ放送のスポンサーとなり、自分たちの政策や主張をラジオ番組として流すようになったことも挙げられる。1932年のアメリカ大統領選では、ハーバート・フーヴァーとフランクリン・D・ルーズベルトが、PA装置、トーキーのニュース映画、ラジオといったさまざまな<声の拡大装置>を用いて戦った。民主党全国大会のラジオ放送は、NBC、CBSそれぞれがのべ50時間を超える放送を行ない、政情変化をリアルタイムでつたえる一大イベントとなった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-mqWhDwAFmk&w=560&h=315]
民主党全国大会(1932年6月)

このフィルムクリップに写っているNBCのロゴの入ったパラボラは新型のマイクである。また、パラボラの横に天井から吊り下げられたコードがうっすらと見えるが、これはCBSが準備した<ラペルマイク>のケーブルだと思われる。どちらも<フロアにいる人々の声をとらえる>ために準備された。

NBCのパラボラマイク(左)とCBSのラペルマイク(右)。ラペルマイクは右から二人目のベルボーイの襟の下についている円盤状のもの。このマイクのケーブルは会場の天井に架けられていて、ベルボーイはフロアをマイクをつけたまま自由に移動できる。各州の選挙人代表などがこのラペルマイクに向かって話し、その声がコンソールからラジオ放送に送出される[7]

この<会場の声をひろう>マイクは、PAシステムの強力な増幅能力と対になっている。パラボラマイクはフロア(にいる聴衆)の<ノイズ>をとらえるために設置され[8]、ラペルマイクはフロアにいる<重要人物の意見>を集めるために準備された。セオドア・ルーズベルトの時代には、無名の聴衆からあがる<声>は大統領候補の演説とともに記録されるものだったが、PAシステムは、壇上の人物の声を圧倒的に増幅し、フロアにいる人々の声をかき消して<ノイズ>にしてしまったのだ。また、1920年代には演説に使用される技術開発はベルシステムズが担っていたが、1930年代になって、NBC、CBSといったメディアが担うようになっている点も示唆的だ。メディア企業は広告料によって経営がなりたっている。お金を払っている人の声が最大限に増幅され、それを享受している側の声はノイズとして処理されるようになった。

マイクの前に立つ者の声を何万倍にも増幅し、聴衆の発言をかき消す。このような特質を持つPAシステムとファシズムの台頭が軌を一にしているのは偶然ではないのかもしれない1)。ヒトラーの、演説を静かに始め、だんだんと声を張り上げていくという演出が効果を奏したのも、PAシステムのおかげである。

戦前ハリウッド映画に見る演説

フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年、MGMは『獨裁大統領(Gabriel over the White House, 1933)』を公開した。このなかで、架空のハモンド大統領がPAを使わずに演説するシーンが登場する。

『獨裁大統領』よりハモンド大統領(ウォルター・ヒューストン)の演説

この演説のシーンは2つの点で興味深い。まず、ミディアム・ショットからロング・ショットに切り替わると、声の音響特性が変化する点だ。ミディアム・ショットでは声はダイレクトで反響音が少ないが、ロング・ショットでは声が<遠く>なり、反響音が言葉を聞き取りにくくしている。これはPart Iで紹介した『アギー・アップルビー』の例と同じく、撮影のセットアップ(ミディアム/ロング)に合わせてマイクのセットアップが変わったからだろう。このシーンは、Part IIIで引用したフランクリン・L・ハントの「ショットによっては反響音を加えたほうが自然に聞こえる」という見解を実証的に見ることができる例だ。確かに、各々のショットだけを取り出すと、カメラの位置と音響の性質が合致していて、あたかもそれぞれの場で聞いているかのような錯覚を生み出す。ところが、このショットが編集によって繋げられると、その唐突な変化が目立ってしまう。

もう一つの興味深い点は、前述のPAシステムを使わなかった時代の演説の例のとおり、聴衆が言葉で反応する点だ。聴衆の音は<ノイズ>ではなく、<声>であり、演説の一部なのである。

『獨裁大統領』の公開の2年後、エドワード・スモールが製作、ユナイテッド・アーチスツが配給した『近代脱線娘(Red Salute, 1935)』にも同様にPAシステムを使わない演説のシーンが登場する。ここでもミディアム・ショットとロング・ショットが繋げられているのだが、『獨裁大統領』のような顕著な音響の変化は起きていない。これはリレコーディングのおかげだ。音響の質が撮影のセットアップに制限されず、編集によってなめらかにつながるようになった。

『近代脱線娘』より演説のシーン

日常的な政治の場に、PAシステムとラジオが平行に介在するようになると、当然それは映画にも登場するようになる。

<拡声の力>を表す2本の映画が1940年と1941年に公開された。

チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』に登場するヒンケルの演説のシーンは、音響が実に緻密に設計されている。当初、ヒンケルの演説を聞いている私達は、この音声が何の(・・)音声なのか判然としないまま聞かされている。PAシステムのスピーカーからの音なのか、あるいは演壇上のマイクからの入力なのか、音響からは判断する材料がないまま、演説はすすんでいく。ただ、ヒンケルがわめくデタラメ語はきわめて聞き取りやすく、屋外のPAシステム独特のこだまのような反響音で濁るようなことがない。そして、しばらく経ってから英語による同時通訳の声が入ってくる。だが、なぜ同時通訳の声が入ってくるのかは説明されない。演説が終わったあと、はじめて私達はこれがラジオの音声だったと知らされる。ヒンケルの演説はステージ上で得られるであろう反響音が聞こえているのに対し(つまり、壇上のマイクからの入力である)、ラジオの同時通訳の声には全く反響音がない(デッドな音響のスタジオのマイクの入力である)。「独裁者お抱えの同時通訳者が演説内容を都合よく取捨選択して聴衆に伝えている」というマスメディアの特性に対する揶揄を、一度に見せてしまうのではなく、反響音の微妙な差を使いながら少しずつ種明かししている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=isLNLpxpndA?start=63&w=560&h=315]
『独裁者』よりヒンケルの演説(YouTube

フランク・キャプラ監督の『群衆(Meet John Doe, 1941)』の雨の中の政治集会のシーンは、まさしくPAシステムによる<拡声の力>をコントロールする者が政治的な力を持ちうるということを強烈に表現している。ノートン(エドワード・アーノルド)がジョン・ドー(ゲーリー・クーパー)の<嘘>をあばき、聴衆の信頼をあっという間に奪ってしまう。PAの音は集会の会場にこだまし、ノートンの大声の非難が響きわたる。ノートンはジョンを失墜させると同時に、PAシステムのケーブルを切断させる。ジョンは自らの弁明を<拡声>する術を失い、セオドア・ルーズベルトの時代に戻されてしまう。彼は聴衆からの野次や怒号に音量で押し黙らされてしまう。ジョンの戸惑う声の音量は、映画のシーンの音量として決して小さいわけではない。映画を見ている(・・・・・・・)観客はジョンの声を普通に聞くことができる。だが、それは映画のなかの(・・・・・・)群衆には聞こえない。このPAと肉声の音量差は、反響音の有無で表現されているのだ。『群衆』の製作にワーナー・ブラザーズの設備やスタッフが関わっているが(『群衆』の音響エンジニアはワーナー・ブラザーズのC・A・リッグス)[9 p.430]、もちろん、ワーナーでもエコーチェンバーは使用されていた[10]。このエコー/リバーブ音の制御は、リレコーディングのプロセスでの音響編集が可能になったからこそできた。

『群衆』より 拡声機能を失うジョン・ドー

ここまで見てきた演説とPAの歴史をふまえると、『市民ケーン』の選挙演説のシーンは果たして1916年の状況を現実的(リアリスティック)に反映しているのだろうかという疑問も湧き上がってくる。PA登場以前の演説に見られたような、聴衆との<やりとり>は存在せず、ケーンは一方的に自分の声をはり上げている。マジソン・スクエア・ガーデンの音響が果たして、PAを使用しない演説であそこまでのリバーブ/エコーが生じたかは疑わしい2)。むしろこの場面でのオーソン・ウェルズの演説手法がPAシステムを使うことを前提にしているようにさえ見える。ここで追求されているのは歴史的事実や客観的観測に基づいた<実証性(デモンストレーション)>ではなく、PA装置による政治という声の不均衡の時代に生きる人々の現実(リアル)なのではないだろうか。ロング・ショットになったり、聴衆を映すと、リバーブの比率が高くなり、ウェルズを近景で映すとダイレクトな音声になる。だが、これは『獨裁大統領』のようなカメラとマイクのセットアップが呼応しているから起きている現象ではない。音を操作して、カメラの視点と観客の視点があたかも同期しているかのような没入感を作り出しているのだ。ファシズムとマスメディアの時代に生きていた当時の人たちにとって、<やりとり>が存在した演説はすでに風化して失われてしまい、反響音が響き渡るホールで一方的に主張を聞かされるのが政治の現実だったのだ。

『市民ケーン』の音響設計の<革新性>は、エコーを使って空間を表現したことではない。エコーチェンバーを使ってさまざまな空間の音響を表現するテクニックはすでに1930年代から存在し、各スタジオもエコーチェンバーを音響部門に設置してさまざまな場面で使用していた。映像に合わせてリバーブの度合いを変えるというアイディアも、トーキー導入当初から議論の争点だった。『市民ケーン』の音響設計が当時の状況から見て突出している点は、空間の特性についての映像と音響の表現が、単なる場所の描写にとどまらず、観る者をストーリーに引き込むための仕掛けとして機能していることだろう。奇術(マジック)で観客の注意を操るように、映像と音響にさらされた観客をストーリーに没入させ、その種に気づかせないような、そういったテクニックに事欠かない作品が『市民ケーン』だといえるだろう。

Notes

1)^ ヒトラーやゲッベルスは自分たちの声の圧倒的な支配力を誇示したが、ムッソリーニは必ずしも聴衆を一方的に威圧できていたわけではなかったように見える。いつまでたっても静まらない聴衆に手を焼いていたり(リンク)、聴衆からの言葉に思わず反応して笑ってしまったり(リンク)する様子が記録されている。

2)^ 第三期のマジソン・スクエア・ガーデンの音響、特に反響音特性を調査した研究には、もともとスポーツアリーナとして設計された大ホールがいかに音響的に劣っていたかが記されている[11]。話者の肉声ではほとんど聞き取ることができず、それを補うためにPAシステムを導入したが失敗、再度別のPAシステムを導入するものの、それでも結果は決して満足ゆくものでなかったという。『市民ケーン』が想定しているのは第二期のマジソン・スクエア・ガーデンだが、状況は似たようなものだったのではないだろうか。

References

[1]^ “Col Roosevelt Speaking From a Baggage Truck at the Railroad Station in Brockton,” The Boston Globe, Boston, p. 9, Apr. 28, 1912.

[2]^ “Roosevelt, Fairbanks, and a Long Whoop,” The Baltimore Sun, Baltimore, Maryland, p. 1, Jun. 24, 1904.

[3]^ “Inaugural to be Broadcast to All Parts of the Country,” The New York Times, New York, p. 186, Mar. 01, 1925.

[4]^ “Harding Used Loud Speaker,” New Castle Herald.

[5]^ “Big Amplifier Armistice Day,” Chehalis Bee Nugget, Chehalis, Washington, Nov. 11, 1921.

[6]^ “At the National Conventions,” The Manmouth Inquirer, Freehold, New Jersey, p. 4, Aug. 12, 1920.

[7]^ M. Codel, “Radio ‘Scoops’ World at Chicago Stadium,” Broadcasting, vol. 3, no. 2, p. 7, Jul. 1932.

[8]^ M. Codel, “Political Campaigns to Boom Broadcasting,” Broadcasting, vol. 2, no. 12, p. 13, Jun. 1932.

[9]^ J. McBride, Frank Capra: The Catastrophe of Success, Illustrated edition. Jackson: Univ Pr of Mississippi, 2011.

[10]^ L. T. Goldsmith, “Re-recording Sound Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 39, no. 11, pp. 277–283, 1942.

[11]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.