オスカー・フィッシンガーの徒歩の旅

UNKNOWN HOLLYWOODの第1回に来ていただいた方は、この短篇フィルムを覚えていらっしゃるだろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJDb-cj1YLA]
これは、ラッキー・ストライクのコマーシャル(1948)だ。実は、これはオスカー・フィッシンガー(Oskar Fischinger, 1900 – 1967)が戦前1930年代にドイツで製作したタバコのコマーシャルの真似だということを知った。ムラッティというブランドのタバコのコマーシャルが1934年と1935年に製作されている。これは実は以前日本でレーザーディスクで発売されていたようだ。

オスカー・フィッシンガーは抽象映像芸術の先駆者であり、その後のヴィジュアル・アーツに大きな影響を与えたと言われている。1920年代から、ヴァルター・ルットマンと交流があり、お互いを刺激する関係にあった。フィッシンガーの仕事で有名なのはフリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」の特殊効果である。月面や宇宙空間、そしてロケットなどのヴィジュアルを提供した。その頃、彼自身はスタディーズと呼ばれる、紙に炭で描いたアニメーションを製作している。これらは音楽と同期させて鑑賞することを目的としており、映像史上初のMTVとも言えるかもしれない。


フィッシンガーが1920年代に発明した装置に「ワックス・スライシング・マシーン」がある。これはワックスで作成されたオブジェをスライスしてその断面を1フレームずつ撮影していくものである。これで製作された作品が「ワックス・エクスペリメンツ(Wax Experiments)」と呼ばれている。

彼の作品をもっと知りたいと思うが、なかなか見る機会はなさそうだ。特に彼の作品を管理している、フィッシンガー・トラストが多くの作品を再リリースしていない現状では致し方ない(特に彼が製作したコマーシャルなどは、フィッシンガー自身の遺志によるところも大きいようだ)。そんななかで現在全編見ることが出来て、なおかつ非常に興味深いのが「ミュンヘンからベルリンまで徒歩の旅(Munchen-Berlin Wanderung, 1927)」である。家賃が払えなくなってベルリンに逃避行したときの徒歩の旅程で得られた映像を映画にしたものである。これは見る機会があればぜひ見てみたい。

この抜粋を見て思い出したのが、2002年ごろから数年間、マイクロソフトが研究開発していた「マイライフビッツ(MyLifeBits)」で導入されたセンスカム(SenseCam)である。 マイライフビッツは、自分の人生をすべて記録して保存するシステムを提供しようというプロジェクトで、ゴードン・ベルが自身でそれを実践していたのだが、そのときに首からぶら下げてタイムラプス映像を取り続けるカメラがセンスカムである。これがその例である。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=V0iqj27LKGA]
最近は自撮り棒で自分のビデオを撮るのが流行っているが、以前は外界を撮ることに熱中していた時期があった。このセンスカムとそのアイディアは、実はアルツハイマー病や記憶喪失などの記憶障害の患者のために利用されている。その日一日の行動を記録したものを後で見直すことで、記憶の復帰を刺激することができるとされている。

「ミュンヘンからベルリンまで」を記録した、そのときの記憶の持ち主はもういないのだが、その映像は私達に別の経験を与えてくれる。それはどういうことなのだろうか。私は「他人が撮った映像」「自分が撮った映像」を見るという行為のはじまりについて、もう一度最初から考え直さないといけないようだ。

ハンス・カスパリウスの「ヒデンゼー(1932)」

英国の映画雑誌「Close-Up」の1932年9月号に掲載されていたスチール写真に眼を惹かれた。

ドキュメンタリー映画「ヒデンゼー(Hiddensee, 1932)」からのもの。監督はハンス・カスパリウス(Hans Casparius)。ヒデンゼーはバルト海の孤島だ。そこを舞台としたドキュメンタリーだと思われる。思われる、というのも、この映画についての情報がほとんど見つかっていないからだ。

ハンス・カスパリウスの映画界における活動は、G.W.パブストの「三文オペラ(1931)」などにスチール写真家として参加していること、戦後「サイモン(Simon, 1954)」という短編映画をイギリスで製作したことくらいがIMDBに掲載されている程度である。この「ヒデンゼー」というドキュメンタリー映画についてはリストされていない。

カスパリウスは、写真家として1920年代からナチス台頭前のベルリン、そしてその後ロンドンで活躍しているようである。ジグスモンド・フロイトの肖像写真のひとつも彼のクレジットになっている。

彼のベルリン時代の写真は、街の何気ない風景をスナップした作品だ。対象を瞬時にとらえたようなものが多い。けれども、陽光に満ちた白とそれが落とす影とがしっかりと刻まれ、そのコントラストが魅力的だ。

ちなみに、短編映画「サイモン」はショーン・コネリーが映画出演した二作目らしい。また、カスパリウスが監督・製作した、スコットランドを舞台にしたドキュメンタリー映画「You Take the High Road (1950s)」は、ここで見ることができる。

立体的に見るということ(4)

これは「立体的に見ること」のシリーズの続きです。
動く2Dイメージで奥行きを表現する
前回までは静止している2Dイメージで奥行きを表現することについて書きましたが、今回は動く2Dイメージで(つまり、動くことではじめて発生する)奥行き感についてのはなしです。
これは運動視差(Motion Parallax)と呼ばれます。カメラが動くとき、近くにあるものは早く、遠くにあるものは遅く動くというものです。列車の窓から見ると、近くの家はあっという間に通り過ぎて行きますが、遠くの建物はゆっくりと動いていきますね。あの効果です。スーパースローモーションにすると、その効果が拡大されて見えます。

この運動視差を用いて空間の奥行きを表現した最初期の映画として挙げられるのが、イタリア映画「カリビア(1913)」です。それより以前にもカメラを動かすという例は見られますが、「パン」による構図の再構成が主体だったようです。「カリビア」は、映画のために特別につくられた巨大なセットの奥行きを表現するために、ゆっくりとしたトラッキングショットを導入したといわれています。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=gOWicOwtHa8?rel=0&start=2383&end=2420]


列車などの高速で動くものをとらえるときに「奥から手前へ」の構図で、近くに来たときのスピード感とサイズが強調するのは常套手段です。これとは逆にカメラが動きながら「手間から奥へ」と風景が動くときは、動く視点のスピードともに、周囲の風景の広大さを強調することができます。レニ・リーフェンシュタールの「意思の勝利」では、この「手前から奥へ」をロングテイクで撮影することで、ヒトラーの支持者の膨大さを強調しています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=GHs2coAzLJ8?rel=0&start=3038&end=3092]

SF映画など宇宙空間を舞台にした作品の場合、周囲に参照する風景がまったくないか、少ない場合には、この運動視差を利用することが重要になります。カメラの動き、被写体の動き、そしてカメラと被写体の距離を複雑に重ね合わせて、空間表現をするために、キュー(鍵)となるものを常に意識しながら構図を設計しないと観客を混乱させてしまうことになります。しかし、むしろその混乱を適度に利用して、エキサイティングな場面を作ることも可能です。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ZWoGkrt5Upg]

運動視差を用いた映像の中で、私が最も素晴らしいと思うのは、F・W・ムルナウの「都会の女(1930)」のこのシーンです。人間が走るスピードの移動カメラと、麦畑のテクスチャが作り出す運動視差、被写体の動きとカメラの動きの相対関係が、数十秒だけど、美しい。リンク先のYouTube映像では、麦畑のテクスチャがつぶれてしまっていて残念です。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=AM81H8fOWwE?rel=0&start=2100&end=2147]

ムルナウは本当にカメラを動かすのが上手い。

立体的に見るということ(3)

立体的に見るということ(2)の続きです
今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。
光と影を用いた立体感
物体の相対的な位置ではなく、物体そのものの立体感を表現する際に、陰影が大きな役割を果たします。陰影をつけることによって、2次元の円が球のように見え、凹凸が把握できるようになります。陰影を用いる立体表現は透視法よりも古く西洋絵画に導入されました。ローマ帝国時代の壁画には、陰影を使って表現された立体的な表現も見られ、また、時代を下ってジオット(1266 – 1377)の作品には、布のひだなどのやわらかい影を用いた、自然な立体表現が見られるようになります。
ボスコレアーレのフレスコ画 43 – 30 BC

ジオット ユダの接吻 c.1305

ジオット 聖フランシスの伝説 アレッツォでの悪魔追放 1297 – 1299
右下の壁の凸模様にも影による立体表現が見られる

影による立体造形に非常に積極的だった初期の映画監督は、レックス・イングラム(1893 – 1950)でしょう。彼は彫刻家だったこともあり(最終的には映画をやめて彫刻家になりました)、立体的な造形に非常に興味があったようです。「黙示録の四騎士(1921)」で、無名だったルドルフ・ヴァレンチノ(1895 – 1926)に深い陰影を与えて、それまでの顔の表情のとらえ方とは一線を隠した映像を試みました。

黙示録の四騎士(1921) レックス・イングラム監督

これとは別に、深い闇で遠近感を表現する場合があります。レンブラント(1606 – 1669)の絵画をみるとわかりますが、背景に暗く沈む闇は、何も描かれていないがゆえに、深い遠近感を生みます。

レンブラント・ファン・レイン キリストと姦淫の女 1644

薔薇の名前(1986) ジャン=ジャック・アノー監督

遠景を撮影すると光の散乱で青みがかって見えることは、映画や写真ではごく自然に起きます。しかし、絵画では意識的にそのような描き方をする必要があります。

トリュフォーの思春期(1976) フランソワ・トリュフォー監督
遠景は青くシフト
バニシング・ポイント(1971)リチャード・C・サラフィアン監督
ジョルジョ・ヴァッサーリ 十字架降架 c1430
暗闇と同じように、霧や煙を用いて距離感、深さを表現するのは、常套手段となりました。

ラスト・エンペラー(1987) ベルナンド・ベルトリッチ監督

立体的に見るということ (2)

(4)短縮法(Foreshortening)
これは(3)の「相対的なサイズ」の延長ですが、遠くのものが実際よりもより短く見えるということを利用したものです。この短縮法で描かれた最初期の絵画として、モンターニャの「死せるキリスト(c.1480)」が挙げられます。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂、特に「大地と水の分離(1511)」では、まさしく神がこちらに向かって飛び出してくるような印象を与えます。ルネサンスからロココ/バロックの画家たちは、この短縮法を様々な場面で応用しました。

モンターニャ 死せるキリスト(c.1480)
ミケランジェロ 大地と水の分離(1511)

カラヴァッジオ エマオの晩餐(1601)

映画でこの短縮法が最も使用されるのが銃です。エドウィン・ポーターの「大列車強盗(1903)」から、ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス(1999)」まで、ことあるごとに観客のほうに向けられ短縮法が強調された銃は、今にも弾丸がこちらに向かって飛び出してくる迫力を強調しています。

大列車強盗(1903) エドウィン・S・ポーター監督

お金持ちにつける薬(1940) アール・C・ケントン監督

 マトリックス(1999) ウォシャウスキー兄弟

(5)地平線からの位置
2次元で表現された空間では、地平線が参照の線となります。この地平線から離れれば離れるほど、近くにあるといえます。ルネサンス初期の絵画には、他の遠近感のキュー(鍵)とともに使われていることがあります。

ピエトロ・ペルジーノ ペトロへの鍵の授与(1481 – 1482)
西部劇、特に西部の荒野を舞台としたものでは、周囲に遠近を指示する対象となるものが少ないため、地平線を利用しながら、人物同士の距離や動きを表現するものが多く見られます。ジョン・フォード監督の「捜索者たち(1956)」では、人間の画面上での大きさ、土地の高低などを組み合わせながら、この遠近感を起伏のあるものにしています。

捜索者たち(1956) ジョン・フォード監督

「アラビアのロレンス(1962)」でも、やはり砂漠を舞台としているシーンでは、この遠近表現とクローズアップを交互に使いながらドラマの緊張を高めていきます。

アラビアのロレンス(1962) デヴィッド・リーン監督
(6)遮蔽(オクルージョン)
これは端的に言えば、近くにあるものは遠くのものをさえぎって見えなくするということです。ピエトロ・ペルジーニョの「降誕(1497 – 1500)」では、天使が雲に乗っているのですが、これがどこにいるのかと言うと、背景の山のほうの空ではなく、アーチから手前に浮かんでいるのです。これは天使の羽根が、アーチの一部を遮蔽していることから判るのですが、しかし、どれくらいこちらに近いのかは正直なところわかりませんね。

ピエトロ・ペルジーニョ 降誕(1497 – 1500)

フィリッポ・リッピ(1406 – 1469)の「受胎告知(1445)」では、真ん中の一本の柱で、受胎告知の場面が「向こう」にあることを明確に示しています。

フィリッポ・リッピ 受胎告知(1445)
このように描かれている世界とこちらを明確に分離する手段の一つとして、「フレーム(枠)」があります。すなわち、構図内にもうひとつの枠 -窓、ドア、アーチなどー をもうけて、その向こうの世界、枠にさえぎられて見えない世界をつくりだす手法です。この方法でより広い世界を枠の向こうに想像させ、遠近感を強調することがあります。カナレットのサン・マルコ広場の2枚の絵を比べて見ると、フレームを用いて視点を低く構えフレームを設けた絵のほうが、見ている者に自らの位置を意識させる効果があることがわかると思います。

カナレット サン・マルコ広場(1730)
カナレット サン・マルコ広場(c.1760)

フレームのこちら側が向こう側に比べて暗い場合が多いですね。

カナレット ウェストミンスター・ブリッジから見たロンドンの眺め(1746 – 47)

ジョン・フォードの「捜索者たち」のラストシーンは、まさしくこの「フレーム」と「遮蔽」を組み合わせて、イーサン・エドワーズ(ジョン・ウェイン)の世界の儚さを見事に表現しています。イーサンに抱きかかえられて戻ってきたデビーを迎えるジョージェンセン夫妻、そしてマーティンとローレン、彼らはみんなイーサンを「遮蔽」し、フレーム(玄関)のこちらにやってきます。イーサンは、フレームをこえてこちらに来ることはありません。このフレームは実に重要な役割を果たしています。

捜索者たち(1956) ジョン・フォード監督

立体的に見るということ (1)

[「疲労困憊の3D映画」シリーズの続きです]

静止した2Dイメージから奥行きを得る

3D映画でなくとも、立体感、奥行きを感じることはできます。いや、むしろ大部分の3D情報は視差を用いていないのです。
(1)透視図法
いわゆる「2次元での奥行き表現」と言ったときに、西洋絵画で発達した、この「遠近法」「透視図法」は基礎になります。一般的には1410年代から20年代に、フィリッポ・ブルネレスキ(1377 – 1446)ロレンツォ・ギベルティ(c.1381 – 1455)が、「再発見」したとされています。ブルネレスキは古代ローマの建築の観察から、ギベルティは、10世紀のアラビアの学者、イブン・アル・ハイサム(965 – 1040)の著書「光学の書」を研究したのがきっかけです。古代ギリシア、あるいはローマに「遠近法」が法則として認知されていたかは定かではありませんが、ポンペイの壁画には、消失点をもつ構図のものも含まれています。それらの法則を「復活させた」のがこの二人だと言われています。「ブルネレスキの実験」と呼ばれる、透視図法描画の実験があります。彼はフィレンツェのサン・ジョバンニ礼拝堂の風景を透視図法で描き、その絵の裏側から消失点を通して覗いた風景と、鏡に反射させた絵が重なるかを試しました。これからもわかるように、「透視図法」は片目でみても遠近感が発生するシステムです。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bkNMM8uiMww]
この透視図法による描画法はイタリア国内では10年から20年でほぼ確立されたようです。たとえば14世紀の終わりから15世紀のはじめにフィレンツェで作品をのこしたロレンツォ・ディ・ニッコーロの「聖フィナの伝説(1402)」では、遠近法の基本的なシステムも導入されておらず、現在の我々の眼から見るとかなり破綻した造形が描かれています。ところが、同じフィレンツェのマサッチオ(1401 – 1428)の「聖三位一体(1425)」になると、かなり正確な透視図法が導入され、いわゆる「トロンプ・ルイユ(trompe l’oeil)」の効果をみることができます。

ロレンツォ・ディ・ニッコーロ 聖フィナの伝説(1402)[部分]
マサッチオ 聖三位一体(1425)

マサッチオ 聖三位一体 透視図法解釈

 
この間はわずか23年であり、驚くべきスピードでこの技法が吸収されていったのがわかります。1450年代には、多少の不正確さはあれ、多くのイタリアの画家が透視図法を導入しています。なかには、ロレンツォ・モナコのように当初は遠近感など微塵もなかった作品だったのが、20年ほどで極端な透視図法を取り入れようとして、M. C. エッシャーのようなシュールなものになっている場合もあります。

ロレンツォ・モナコ 降誕(1390)

ロレンツォ・モナコ 三王礼拝(1422)[部分]
このような透視図法にみられる、消失点に向かって伸びる直線を利用した構図は、たとえば「第三の男(The Third Man, 1949)」の最後のシーンなどに見られます。

第三の男(1949) キャロル・リード監督

ミステリー・ストリート(1950) ジョン・スタージェス監督
(2)繰り返しパターン
透視図法とともに現れてきたのが、床や天井などのデザインやパターンを用いて、遠近を表現する方法です。同じ模様や形状が繰り返されるため、そのパターンが遠くに行くほど小さくなることで奥行きを表現します。アーチ、柱、天井や壁のパネルなどがよい例です。遠近表現の正確さを追及し始めた15世紀前半では、透視図法と併用されて多く登場します。わざわざ、繰り返しのパターンをひねり出して使用している例も見られます。また、時代は下って、ベネチアやロンドンの風景を多く描いたイタリア・バロック期の画家、カナレット(1697 – 1768)は繰り返すアーチと柱を多用しながら、空間を表現しました。

カナレット 修復中のウェストミンスター橋(1749)

上の「第三の男」でも並木のパターンが遠近感を強調しています。映画「アパートの鍵貸します(1960)」に登場するオフィスは、その広大さ、従業員の数の多さ、そしてジャック・レモン扮するバクスターが一介のしがない従業員でしかない事実を、数限りなく並ぶデスクと、天井の照明のパターンで表現しています。特にこの天井照明は、実際には大きすぎるし多すぎる。当時の実際のオフィスの写真と比較してみると一目瞭然です。これは、わざとこのようなデザインにして、奥行きを強調したのでしょう。

アパートの鍵貸します(1960) ビリー・ワイルダー監督
1950年代のアメリカのオフィス (via. WSJ)
(3)相対的なサイズ
これは我々があらかじめサイズを知っているものが、画面上でどのようなサイズ関係になっているかで遠近感を把握するということです。カナレットの「柱廊の遠近法(1765)」では、柱の大きさ、ひいては建築そのものの大きさが、随所に配置された人間のサイズで把握できます。

カナレット 柱廊の遠近法(1765)
風景の中に人物を配置して、その広大さを想像させるという手法は、ドイツのロマン派絵画によく見られるようです。広大な風景だけ描いてしまうと、それがどれだけ広大か判別しにくいのですが、そこに人間を配置することで、「人間」と「自然」の相対的なサイズ関係を表現するのです。有名なカスパー・ダーヴィッド・フリードリヒの「雲海を見下ろす散策者(1818)」のなかでは、こちらに背を向けた「散策者」が、この絵画に描かれている風景の広大さの鍵になります。

カスパー・ダーヴィッド・フリードリヒ 雲海を見下ろす散策者(1818)

アウグスト・マティウス・ハーゲンの「海岸(1835)」では、手前のボートと、その向こうの人間のサイズの関係だけで(他に距離をあらわす鍵になるものが描かれていない)奥行きを表現しています。

アウグスト・マティウス・ハーゲン 海岸(1835)
これはF. W. ムルナウの「サンライズ(Sunrise, 1927)」の1シーンですが、手前のランプの大きさが人間に比べて異様に大きく映っていることで、非常に近距離にあることがわかります。

サンライズ(1927) F. W. ムルナウ監督
市民ケーン(Citizen Kane, 1941)」の1シーンですが、やはり、手前のビンとスプーンの大きさから、奥からやってくるオーソン・ウェルズの距離が把握できます。
市民ケーン(1941) オーソン・ウェルズ監督

1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。
1920年代に登場した3D映画は、基本的にアナグリフ型であるため、カラー映画の発達と並行していたともいえます。1922年に発表、公開されたウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリーの「プラスティコン(Plasticon)」は現存する最古の3D映画だと思われます。「未来の映画(The Movie of the Future)」というタイトルでニューヨークのリヴォリ・シアターで公開されました。この映画は90年後の2013年にWorld 3-D Film Expo IIIで特別上映もされています。

もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。

このケリーのプラズマ IIが基礎となって、2台のカメラでそれぞれ赤/オレンジ、緑/青を撮影することで3D映画のプロセスが生まれます。「未来の映画(The Movie of the Future)」はニューヨークで撮影され、ルナ・パーク(当時最も人気のあった遊園地)での動きのある映像が呼び物だったようです。
このほかにも、フレデリック・ユージン・アイヴスとヤコブ・リーヴェンタールが開発したステレオスコピクス(Streoscopiks)も1925年に同じくニューヨークで公開されます。「Lunacy」はやはりルナ・パークで撮影され、ローラーコースターや観覧車からみた映像が中心だったようです。異なる原理を利用した3D映画としては、1922年のテレヴュー(Teleview)があります。これは、観客席に双眼鏡のような装置がすえつけてあり、観客はスクリーンをこの装置を通して見ることになります。映画は1コマごとに右目用、左目用の像をスクリーン上に投射します。映画上映に同期して双眼鏡内のシャッターが左右のレンズを交互に開放する仕組みです。

ここで、私は「3D映画」と呼んでいますが、当時は「ステレオスコピック(Streoscopic)・ムービー」と呼び、3D効果のことも「レリーフ効果」と呼んでいました。

Plastigram Stereoscopic Film, 1921 と題されていますが、
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
これはGeorge Eastman Houseが保有するStereoscopiksのプリントのようです。左目が青、右目が赤のフィルターで見ると「レリーフ効果」が現れるはずなのですが、ちょっと難しいようですね。プロジェクターを使って大きく投影して見たりしたのですが、どうもしっくり来ません。これが当時の技術の限界だったのか、それともフィルムの保存に伴う問題なのか判別しません。こういう点が、この時代の技術の把握を難しくしている部分でもあるでしょう。しかし、これらの映画の技術的な発達が混迷してゆく様子を見ると、当時の観客にとっては望ましいものではなかった可能性が高いでしょう。
そのような背景からか、このあと、アナグリフ方式でスクリーンの2次元に新しい次元を加えるという試みは、まったく思わぬ方向に展開します。「プロット」の次元です。1927年に発表された「お気に召すまま(As You Like It)」は、ヤコブ・リーヴェンタールとウィリアム・クレスピネルが製作した短編映画です。普通の白黒映画として始まります。仕事場にいった夫の帰りが遅く、やきもきする妻。夫は木材処理場で働いているのですが、そこで悪人に襲われてしまいます。のこぎりのスイッチが入れられ、夫はいまにも真っ二つ。一方、心配のあまり妻は車で夫の仕事場へ。そこで画面に「メガネをかけてください」という字幕が出ます。ここで、
左目(青)だけで見ると
棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。
右目(赤)だけで見ると
妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
そう、見る眼によって、悲劇のエンディングか、ハッピーエンディングか選べるのです。
もちろん、現在ではゲームのストーリーテリングの基本的な手法として、複数のバージョンのエンディングというのはごく普通に存在します。しかし、映画では複数のエンディングが同時に公開されるというのは、数えるほどしかありません。「殺人ゲームへの招待(Clue, 1985)」と「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ(Hide and Seek, 2005)」はどちらも違う劇場で別々のエンディングが見られると言うものです。マレーシア映画「ハリクリシュナン(Harikrishnans, 1998)」は登場する2人の俳優のそれぞれのファンのために、2つのバージョンのエンディングを用意しました。ファンは自分の好きな俳優のハッピーエンディングが用意されている劇場に行けばよかったのです。しかし、「お気に召すまま」のようにひとつのスクリーン上で二つの違うプロットが同時に進行すると言うのは、後にも先にもこれだけではないでしょうか。残念ながらこの映画のプリントは現存していないようです。
この頃に、ハリウッドのステレオスコピック映画熱はいったん冷めてしまいます。これらの映画が公開されたのは、都市部、ほとんどニューヨーク市内に限られていたようですが、本当はどのくらい上映されていたのでしょうか。一方で、カラー映画は、テクニカラーが3ストリップ式を10年ほどかけて完成させます。1930年ごろには、一時期だけワイドスクリーンもブームになります。しかし、この時期の最も重要な技術競争と言えば、映画のサウンド化(トーキー化)であり、数多くの方式が特許を抱えて競い合っていました。そのような技術の嵐の中、ステレオスコピック映画はあっという間に忘れ去られてしまいました。

鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑

音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002))

2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=uuH-85lCwrs]
YouTubeのなかではこの人の鞭のクラック音がいちばんいいかも。

あの音は鞭で何かを叩いている音ではありません。あれは、もともと空気中で鳴っているもので、牛追いのときに牛を驚かせたり、遠くにいる仲間に合図を送る目的で鳴らすものです。ゴリエリーは、自分でもクラックを鳴らしてみたいと思い、ネット・オークションで鞭を購入し、アリゾナの自宅の裏庭で練習をはじめました。鞭の扱い方にはいろいろスタイルがあるようですが、鞭そのものにも「鳴る鞭」と「鳴らない鞭」があるのです。「鳴る鞭」は、その鞭が先に行くほど細くなる形状(テーパー)に鍵があるのではないかと、ゴリエリーは考えました。

エルンスト・マッハによって撮影された弾丸の衝撃波
(二本の縦線のうち、右の線はカメラのシャッターを切るためのトリップワイヤー)

あの鞭のクラックについて興味を抱いたのはゴリエリーが最初ではありません。実は、19世紀の物理学者たちが、クラックは鞭の先端が音速の壁を破るときの音ではないかという仮説を議論していたのです。しかし、それを実験的に証明するにはどうすればいいのでしょうか。1880年代にエルンスト・マッハが、弾丸が音速を破る瞬間を写真に収めてから、高速の物体を写真を用いて解析することが実験的に行われるようになりました。鞭のクラックも1927年にフランスのトゥールーズ基督学院のカリエールが「高速度カメラ」を用いて、速度の測定を試みています。彼の仕掛けは高電圧のスパークを使った連続ストロボ撮影(最も短い時間間隔で0.1msまで到達)による、鞭の軌跡の写真です。鞭のクラックは音速を超えたときの音であることが実験的に証明されたのです。

カリエールによる鞭の軌跡の高速度撮影(J. Phys. Radium., 8, 365-384 (1927))

ゴリエリーは「鳴る鞭」は、そのテーパーの設計に鍵があると考えて、数学モデルを立ててシミュレーションを行います。手首のスナップで与えられたエネルギーが、鞭の先端に伝播していく。と共にそれはエネルギー保存の法則から、速度に変わっていく。テーパーによって鞭の径が細くなっていくと、その速度上昇も大きくなり、鞭の先端に到達したときには音速に達する。これは2002年に論文として発表されますが、実はこの考え方(そして数学モデルを使うということ)は、彼よりも前に意外な分野で試みられていました。1997年にネイサン・ミルヴォルド(マイクロソフトの現CTO)とフィリップ・キュリーが化石学の学術誌に「超音速のサウロポッドか?ディプロドクスの尾の動態」という論文を発表し話題になります。これは草食系の巨大恐竜、特にディプロドクスなどが、長くて先が細くなる尾をもっていることに着目し、その尾を振り回して、鞭のクラックのような音を立てていた(先端が音速を超えていた)という説を唱えたものです。ミルヴォルドがコンピューターシミュレーションを用いて、尾の先端が音速を超えることが可能であると算出し、巨大なクラック音で周囲の恐竜を威嚇したに違いないといったのです。この「ディプロドクスの尾は音速を超えた」というのはよく聞きますが、もともと門外漢で目立ちたがりのミルヴォルドの説に、首をかしげる学者も多く、まあ誰も見たことがないからなあと黙っているしかなかったようです。最近では、尾の骨格の成り立ちから考えて、鞭と言うよりもヌンチャクのような機能を持っていて、戦いのときの武器として使っていたと考えるのが妥当ではないかといわれているようです

プロペラの回転を横から高速度カメラで撮影した例。
上のグラフは回転によるプロペラの変形(deflection)をプロットしたもの。
J. Appl. Phys., 8, 2 (1937)

ゴリエリーの研究は2002年に発表された論文のあと、あまり進展がないようです。2003年ごろに、実際に音速を超えていることを高速度カメラでとらえる実験の準備をするのですが、公開されているデータだと、これがあまりうまく行かなかったようです。問題は、音速を超える瞬間をとらえることがかなり難しいのです。素人の二人組が「怪しい伝説」番組の真似事みたいなことをYouTubeでやっています。かれらが「鞭のクラックは音速を超えているか」をビデオカメラで撮影して証明しようとするのですが、カメラのフレームスピードが足りずに、その瞬間をとらえることができません。900fpsでは足りません。たとえば、鞭の先端が音速を超えるのは0.3ミリ秒の間だけだとしましょう。その間に鞭の先端は10cmほど動きます。0.3ミリ秒の事象をとらえようとすると、少なくとも10000fpsは必要ですね(音速を超えている間の像が2~3点撮れます)。デジタルカメラで1000fpsくらいのものは民生用でもあります。しかし、10000fps近くのものは工業用とか産業用で、いいお値段します。島津のHAP-Vシリーズなんかは最大で2000万fpsまで到達します。お値段も2000万くらい。ここまで高速にすると撮ったデータをメモリに移す時間が間に合わないので、CCDチップ上のレジスターに放り込んで、後で読み出します。だからレジスターの数だけのフレーム(256)しか撮れません。

もちろん、デジタルカメラが登場する前には、フィルムの高速度カメラがありました。1920年代からコダックは研究していたようですが、1930年代から様々な産業分野で使用されるようになりました。Wikipediaでは、ベル研究所のことしか書かれていませんが、実際には、弾道解析、ガラスの破砕解析、エンジンの燃焼解析、スプレーなどの噴霧状態の解析など、様々な分野で使用されています。くしゃみや咳の高速度撮影は、病気の感染にどのように関係しているのかを解析するために始められたのです。フィルムのカメラは現像するまで実験がうまくいったかどうかわかりません。ですから、試行錯誤の繰り返しですし、ようやく撮影できるようになっても、ちょっと条件を変えるとまたやりなおしということもしばしばです。(デジタル)ビデオカメラになってから、観測現場ですぐに再生して実験条件やカメラの設置条件の変更をフィードバックできるようになりました。私も、研究開発の現場で何度か使用しましたが、問題は(設備の取り回しの都合で)カメラの設置場所が限られてしまうことや、より高速で撮影しようとするとバッファがすぐにいっぱいになるので、撮りたい瞬間を追い込むようにしないといけないんですが、これが難しかったですね。結局、速度測定などの定量的な高速度撮影をしようとすると、その目的のためだけに設計しなおした実験セットアップが必要なことが多く、そこに労力と資金をかける計画が必要です。裏庭で撮影したり、簡単な実験設備だけでは行き詰ってしまうことが多々あります。

Muybridge horse gallop animated 2

もともと、映画の始まりといわれているのは、有名なマイブリッジの「駆ける馬」の撮影です。やはりこの場合も、馬の動きが早すぎて人間の眼では見極められないために、運動を分解する目的で撮影されています。高速度カメラは、この「運動の分解」の最たるものです。映画/動画というのは、この「分解された運動」を再構築したものだともいえます。マイブリッジの例は「ぱらぱらアニメ」のように見えますが、「本物に近い動き」に再構築するためにはフレームレートを上げなければいけません。現在の映画はフィルム、デジタル共に24fps(fps=frames per second、毎秒24フレーム)で、上映時には、1フレームを止めて、2回あるいは3回映写します。これで多くの人はカタカタと動く感じはしないと思っています。しかし、ダグラス・トランブルは60fps、いや120fpsまで上げないと「滑らかな動き」にならないと主張しています。彼が提案した「ショースキャン」は70mmフィルムで60fpsで撮影・上映するのですが、結局普及しませんでした。上映館の設備導入のコストが高いことと、フィルムの消費量も多くなってしまうため製作・配給にもコストがかかってしまうからです。ピーター・ジャクソンの「ホビット」シリーズは3Dで48fpsで撮影されています。48fpsで上映可能なシアターでは撮影時のフレームレートで見ることができます(HFR上映と呼ばれています)。シリーズ第1作目の「ホビット・思いがけない冒険」が公開されたとき、このHFR上映に対する評価のなかにはかなり否定的なものもありました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=NkWLZy7gbLg?si=ORZ81pVV-myFrMve]
ダグラス・トランブルの「デジタル・ショースキャン」
24fpsの映画の中に60fpsの映像をデジタルデータで埋め込んでいくもの

イギリスのテレグラフ紙のロビー・コリンは「偽物の気持ち悪さ」があると言い、ハフィントン・ポストのマイク・ライアンは、クリアに見えすぎて、「イアン・マッケランのコンタクトレンズまで見える」ので、気になって仕方がないと主張しています。スレートのダナ・スティーブンスガーディアンのピーター・ブラッドショーらも「ハイビジョンテレビ(60fpsと同等)を見ているみたい」と言い、ヴィレッジ・ボイスのスコット・ファウンダスは「24fpsのほうが美しい」と断言しています。これらの否定的な見解を、映画監督のジェームス・カーウィンという人物が、「人間の知覚は毎秒40回であり、48fpsだと『不気味の谷』に入り込んでしまうからだ」と科学的に解明したと主張していますが、ちょっと怪しいです(彼の議論の元になっているスチュワート・ホメロフ博士の理論は、・・・読むに耐えないです)。ジョン・ノル(VFX監督)は、この「偽物に見えてしまう」理由を端的に説明しています。「感度の低いフィルム撮影で使われていた、メークアップ技術、照明技術、セットの技術(そしてVFXの技術そのもの)を、48fpsでも使っているので、その偽物さ加減が丸見えになってしまっている。たとえば、照明を多用している室内のシーンがあまりに「偽物」に見えるのに対し、戸外のシーンでは自然光を利用して撮影しているせいであまり違和感を感じない。だから、48fpsでの作品製作の経験を重ねれば、これらのアナクロニズムはなくなっていくだろう。」加えて、カリフォルニア大学バークリー校のマーティ・バンクスや、ヨーク大学のロブ・アリソンは、「そのような『すべてが見えてしまう状態』に観客がまだ慣れていないからだ」とも言っています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fnaojlfdUbs]
The Hobbit: The Desolation of Smaug Official Trailer

面白いのは、「ホビット」を見て「ハイビジョンのテレビを見ているみたいだ」と言っている人は、確実に48fpsの効果を感じているのに、それをいいことだと思っていない、と言う点です。テレビ(60fpsと同等)を映像文化的に「陳腐なもの」としてとらえる一方で、映画館の映画(24fps)は「作品」としてとらえている。早い動きを撮ると「滲み(motion blur)」が起きてしまうような、エンジニアリング的には「不十分な」技術(24fps)のほうが「本当」だと思うこと、これは長年の条件付けによるものなのでしょうか。

私は、人間の知覚には個人差がかなりあると思っています。そして「気になるところ」が人それぞれ違うとも思います。「滑らかな動き」を気にしてしまう人(ダグラス・トランブルは明らかにそうですね)は、動きによる『滲み』のほうが気になって仕方がないのだと思います。一方で、24fpsと48fpsの差があまり判別できない人も、実はいるのではないでしょうか。1チップのDLPプロジェクターでは、カラーブレイキング(レインボー効果)というものがありますが、これを見ることが出来るのは10人に1人くらいしかいないそうです。いろんな人で見えているものが違う。けれども、技術の普及と共に全員が「同じもの」を見るように条件付けされていくのかもしれません。

武田信明氏が「三四郎の乗った汽車」で言及していたことで非常に印象的なことがあります。幕末、万延元年にアメリカに派遣された使節団は、おそらく日本人で初めて長距離の列車に乗った人たちでした。彼らが一様に日記に記しているのは、列車の窓からの風景が「ぼやけて見えない」ということだそうです。窓の外の風景が、速く過ぎ去ってしまって、眼でとらえることができない、という意味です。「世界の車窓から」なんて番組を見ている、今の私たちからは想像できません。それから60年ほど経った、1919年に芥川龍之介が発表した小説「蜜柑」。ここでは、走る汽車の窓から見えた、踏切に立っている子供たちを、そしてその子供たちに向かって投げられた蜜柑を、まるでスローモーションの映画のように描写しています。これは、動く列車の窓からの風景、しかもものすごく短い瞬間に起きることを視覚的にとらえる、ということを読者も共有しているからにほかありません。幕末の使節団から、「蜜柑」までの60年余りの間に、日本人は視覚的な認知能力に変化が起きた、ということなのかもしれません。

パウル・フェヨスの数奇な人生(12/12)

晩年のパウル・フェヨス

晩年のパウル・フェヨスは、ヴァイキング財団、のちのヴェナー=グレン財団の理事長として、考古学を主とする科学全般の研究支援をし続けました。1950年代には、考古学や文化人類学が活発になり、財団は以前にも増して創造性のある研究をサポートしています。

パウル・フェヨスは戦前にハンガリーに立ち寄ったのを最後に、祖国の土を踏むことはありませんでした。生涯を通して慕っていた母親にも会うことができず、母親の訃報を聞いて、非常に強いショックを受けたといわれています。彼は1963年4月23日に亡くなりました。

パウル・フェヨスについて、ひとつ言えることは、彼はどこに行ってもそこで才能を開花させていますが、同時に常にアウトサイダーだったことです。ニューヨークにたどり着いたときには、まったく無知な外国人。ハリウッドで一流監督になったときも、いわゆるハリウッド映画監督とは、モチベーションも、目的も、感性もあまりに違う。人類学も、正規の教育を受けておらず、ドキュメンタリー映画と言うからめ手から入ってきた。そういう「亜流の眼」だからこそ、達成できたことも多かったと思います。彼はその分野の人たちが見落としていること、当たり前だと思っていること、をもう一度自分の目で見直すのです。学者としての成功とか、学会での評価などは、さして気にすることなく、むしろ自分のしていることが自分が理想としているレベルよりも低いことに、つねにフラストレーションを感じていたのです。特に彼が文化人類学の研究において、全くの素人にもかかわらず業績を残せたのは、研究の対象としている民族、原住民に対して、対等の人間として接しているからだと思います。これは彼がニューヨークやハリウッドで、底辺で暮らし、そこで人間としての威厳を失うことなく生き抜いてきたからでしょう。彼は決して西欧の科学や知が、優れているとは思っていませんでした。特に西欧人の無知を、自分が無知であることを知らない、その無知を嘆いていました。彼は自分を医者だとは思っていませんでしたが、常に最先端の医学について論文を読み、旅先で医師として治療にあたることもありましたが、こんなことを言っています。

ニューギニアから、パプア人がニューヨークにやってきたとしましょう。彼らは自分たちとさして違わない人々を見て驚くのではないでしょうか。特に科学と言う魔術によって支配されている人々を。医者に行って、レントゲンを撮ってもらう。患者はレントゲンの装置がどう動くのかも、X線についても何も知らない。レントゲン写真を見てもどう診ればいいのかわからない。けれど、呪術を使いこなす医者という人物のいうことを信じて治療を受けるのです。テレビで言っていることの90%は魔術でしょう。なんだか科学的な名称がついていれば、みんな効果があると信じてしまう。

Paul Fejos

インドネシアのスンバワ島で調査していたときのことです。ドドンゴの村の呪術師(医師、シャーマン)は、パウル・フェヨスにとって重要な情報源でもあり、同じ医師同士という友人でした。パウルは、彼の治療法や薬草について教えてもらい、彼が医術についてたずねてきたときには助言をしたりしていました。時にはパウルが持っている薬、-ドイツのバイエル社のものですーを分けてあげることもありました。バイエル社の薬には、トレードマークの円に囲まれた大文字のBが印刷されています。呪術師の彼は、パウルの魔術の力とそのトレードマークが深い関係にあるのだと信じるようになりました(その通りですが)。数ヶ月たった後、その呪術師は、パウルに正式に申し入れをしてきました。彼らは非常に厳しく自分たちを律しています。そのルールに従って、正式に「そのマークを使わせてもらいたい」と申し入れてきたのです。パウルは「バイエル社の承諾なく、倫理的には問題がある行動だったが」、そのトレードマークを使うことを了承します。呪術師は大きな円に囲まれた「B」のトレードマークを胸に刺青し、彼の治癒能力はいっそう高まったのです。

このことは、私たちにもそのまま当てはまります。医学の研究者たちでさえ、効能のメカニズムを完全に把握できていないけれど効果のある薬や治療法を、ましてや一般人の我々は、「有名な医者が言うから」「話題になっているから」「テレビで言っていたから」信じて受け入れています。医術だけではありません。リンゴのマークがついているアップル社の製品だから、品質がいいと思い、旅行先で偽物だってつかまされかねない。東京大学の教授の言うことに間違いはなく、成功したビジネスマンの言っていることは、ためになると思っている。そのことをパウルは見抜いていたし、だからといってそれを愚かなことだとは思っていない。むしろ人間とはそういうものだと思っていたのでしょう。彼は自分たちの文明はそういう迷信や迷妄から解放されていると勘違いすることを諌めていたのだと思います。

そういう眼でもう一度彼の映画を見直すと、今までとはもっと違うことを感じるかもしれません。

References

The Several Lives of Paul Fejos, John W. Dodds, The Wenner-Gren Foundation, 1973

”Image” On the Art and Evolution of the Film, Ed. Marshall Deutelbaum, Dover, 1979

Hollywood Destinies, Graham Petrie, Routledge & Kegan Paul, 1985

Lonesome, Bluray, The Criterion Collection, 2012

パウル・フェヨスの数奇な人生(11/12)

ペルーのインカトレイルにある、ウィニャイワイナの遺跡
1940年にパウル・フェヨスの調査隊が発見した。

パールハーバーの攻撃を期にアメリカは正式に第二次世界大戦に参戦します。太平洋、東アジアの地理、民族に明るいパウル・フェヨスは、スタンフォード大学で海軍の兵士を相手に、文化人類学の講義をするよう、要請されます。彼の講義は非常にユニークで、非常に実践的だったようです。彼は若く、まだ何も知らない兵士たちを相手に「シミュレーションによる訓練」をします。

「君たちは、ある島に到着する。君たちは無線基地を設営しなければならない。上陸船は母船に引き返し、君たちは自分たちだけが頼りだ。さあ、どうする?」

生徒たちは、何も事前情報がないまま、その島について探索し、また住民と遭遇したときのコミュニケーションの方法を、手探りで考えていきます。生徒たちの言動をもとに、パウルは情報を与えたり、住民とのやり取りをシミュレーションしたりします。生徒が住民を警戒させるような言動をとれば、住民のふりをしているパウルはもう何も言わなくなってしまいます。こうやって、いかに現地の住民からいかに協力を得るか、そして必要な物資や情報をいかに確保するかを兵士たちに教えていきました。彼はこれをずっとインドネシアやタイで自ら経験してきているので、現地住民とのコミュニケーションの重要性を理解しているのです。兵士たちは、このトレーニングを通して、言語がいかに重要か痛感し、ランチの時間でも中国語やマレー語で会話をしていたそうです。

ヴァイキング財団は、文化人類学や考古学に研究資金を提供することを目的としていました。財団でのパウル・フェヨスの役割は、多くの学者たちとコミュニケーションをとり、学問の発展に寄与すると思われる研究を見極めていくことでした。1945年、第二次大戦が終結し、ようやく軍事から切り離されて研究ができるようになりました。「学際領域」 ーーすなわち専門的な学問同士の間をつなぐ領域ーー は、まだまだ未開拓の時代でしたが、パウルはまさしく専門家たちを引き合わせ、それぞれの領域の関心事をつないでいくことにかけては先駆者だったといえるかもしれません。彼は「自分は考古学について疎い」と常に発言していましたが、彼の「学際領域に敏感な感覚」のおかげで、考古学にとって非常に重要な研究がなされました。

アメリカ自然博物館のラルフ・フォン・ケーニヒヴァルトは、戦時中ジャワ島で日本軍の捕虜になって死んだと伝えられていました。しかし、彼は収容所を生き延び、ジャワ島各地に隠しておいた考古学的資料 ーージャワ島で発見した原始人の頭骸骨ーー を持って帰国したのです。1947年のことです。ケーニヒヴァルトは、避暑のため、コールドスプリングスの研究所で研究していましたが、そこの研究所はまさしく核物理、核化学のメッカでした。ある日、パウルにあった彼は、自分がいかにその研究所で浮いているかを話していました。核物理学者の群れにひとりだけ考古学者なんて!ランチで話しかけてくる研究者たちは、考古学なんて全く知らないのです。だから説明するのも苦労する。つい昨日も、ランチで食堂のテーブルの前に座った男が、話しかけてきたよ、とパウルにこぼします。

「『君は何を研究しているの?』って聞いてくるんだ。だから、僕が最近持ち帰った頭蓋骨と写っている写真を見せて『こういう原始人の研究をしているんですよ。』って答える。するとね、『へぇ。その頭蓋骨は何年位前のものなんだい?』なんて聞いてくる。『だいたい50万年前くらいですかね。』ってこっちが言うと、『そんなに古くなかったら、もっと正確に、何年前、って言えるんだがね。残念だ。』なんていうのさ。」

パウルが、それはどうやるんだって聞くと、「なんでも放射線がどうとかこうとか言っていたなあ」とはっきりしません。パウルはふと、今読んでいる岩石の年代決定法でヘリウム・インデックス(ヘリウムの同位体の比で年代を決定できる)について書かれていることを思い出しました。ひょっとしたら・・・。その男の名前は?ケーニヒヴァルトは、その男の名前も知らないので困ったことになってしまいました。

パウルはコールド・スプリングスの研究所に電話をかけ、食堂の従業員に「昨日、ケーニヒヴァルトとランチを食べていたのは誰かわかるかい?」と聞きました。ハロルド・ユーリーですよ。ノーベル賞学者の。

ウィラード・リビー

シカゴでハロルド・ユーリーに会ったパウル・フェヨスは、早速そのアイディアについて矢継ぎ早に質問します。「実はその研究をしているのは、私じゃなくて、ウィラード・リビーだよ。」同じくシカゴ大学で研究をしているウィラード・リビーはバルチモアの下水から炭素の同位体を検出し、それがどうやら大気を起源とするものらしいと考えていました。同位体の半減期は正確にわかっているので、炭素を含むものなら年代を決定できるのではないかと考えていたのです。それを是非とも考古学のために使いたい、とパウルが突っ走っているのですが、リビーは、まだ手法が確立されていないからと慎重です。パウル・フェヨスは、ヴァイキング財団が研究費を出すから、是非とも考古学に役立てるものにして欲しいと申し出ました。ウィラード・リビーは、放射性炭素年代測定法を開発し、後年ノーベル賞を受賞しました。(ウィラード・リビーによる話でも、パウル・フェヨスが考古学と放射性炭素年代測定を結び付けたことがわかります。)