ハイパーノーマリゼーション

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

ソ連では、国家の重要人物が亡くなったときには、「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」されてきた。これは、1946年に亡くなった、元ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Z-89a-ASaZo]

これは1968年に亡くなった、宇宙飛行士ミハイル・ガガーリンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=8jW4vtjQ6Ig]

カリーニンの葬儀では棺が土中に埋葬されているが、ガガーリンの場合は遺灰を入れた骨壷が壁の中に収められているのが分かる。もともと、ソ連に重要な貢献をした人物はクレムリンの壁の下に埋葬されていたのだが、第二次世界大戦後から徐々にクレムリンの壁付近に場所が確保できなくなってきており、遂に1960年代には、火葬して灰の骨壷を壁の中に収めるようになった。にもかかわらず、この葬儀は公式に「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」と表現されていた。

1960年代に、ソ連科学アカデミーのロシア語研究所の15人の教授が「この表現は現実と合わない」と中央執行部に示唆した。すなわち、亡骸を「埋めていない」のだから「埋葬」ではないだろう、と正確な表現に変更するように申し入れたのだ。数週間後、共産党中央執行部から表現を変えるつもりはない、との連絡がロシア語研究所に入った。理由は明らかにされなかった。ソ連の国民は、ニュース映像で骨壷が壁に収められる様子を目の当たりにするにも関わらず、「埋葬される」という表現で表される状況に慣れていき、それが奇異な表現だとは思わなくなった。

これはアレクセイ・ユルチャックが<ハイパーノーマリゼーション>と呼ぶ状況の一例である[1]。ユルチャックの定義では、ハイパーノーマリゼーションは「単に言語的、テキスト的、及びナラティブの構造のすべてのレベルにおいて影響を及ぼすだけでなく、それ自体が目的化してしまった、(言説の)正規化(ノーマリゼーション)のプロセス」であり、「述定的な意味のレベルで(ほとんど)解釈ができない、凝り固まって厄介な言語の形態」のことを指す。ユルチャックは、ソ連の統治の時代の終盤では、このハイパーノーマリゼーションがあらゆるレベルで観察され、政府権力はその凝り固まった言説によって、実際に起きていること(骨壷の収容)に対する、何も変化せずに連続している虚構の世界(埋葬)を維持し続けた。ソ連の国民は、共産主義システムの機能不全を目の当たりにしながらも、政府権力が描く、変化していない連続している世界を「見続けた」という。

BBCのiPlayerで公開された『ハイパーノーマリゼーション(HyperNormalisation, アダム・カーティス監督, 2016)』は、そのタイトルを直接ユルチャックの議論から借用している。アダム・カーティスはここで「社会システムが破綻して機能不全に陥っているにも関わらず、そして人々はそのことに気づいているにも関わらず、他の選択肢がないために、あたかも全て上手くいっているように振る舞っている」状態のことをハイパーノーマリゼーションと呼んでいる。ここで言うシステムの破綻とは、中東の国土が次々と瓦礫の山になり、過激派の凶悪な暴力が周辺国へさらに拡大し続け、一方でかつて先進国と呼ばれた国が急激な経済格差の進行に苛まれている事態であり、インターネットにより人々がよりセクト化し、憎悪と偏見がとめどなく増幅されていく凋落の様相を指している。

カーティスは、ハイパーノーマリゼーションの起源を1970年代中盤に起きた2つの政治の退廃的現象に求めている。一つは国家間の信頼という切り札を反故にした、アメリカのヘンリー・キッシンジャーの中東外交であり、もう一つはニューヨーク市の財政破綻と金融システムによる政治の乗っ取りである。

ヘンリー・キッシンジャーは<権力のバランス>による世界の支配を実践しようとする。イスラエルとの緊張が高まる中東では、特にデリケートな権力均衡を保つことによって、アメリカにとって都合のいい状態を作り出そうとしていた。パレスチナの独立こそアラブの平和に不可欠と考えるシリアのハーフィズ・アル=アサド大統領、そのアサドを、キッシンジャーは、独自の<建設的な曖昧さ(Constructive Ambiguity)>戦術によって欺き、エジプトとイスラエルの停戦協定を進めてしまう。この時のアサド大統領の失望が、その後の過激なイスラム原理主義とテロリズム、特に自爆テロの蔓延に結びついていく、とカーティスは語る。

さらに複雑に入り組んだ、そしてアメリカ政府自身にも非がある外交上の難題を、アメリカ政府とメディアは単純に善玉/悪玉のナラティブに落とし込み、そのサンドバッグとしてガダフィ大佐を30年にわたって容赦なく利用し続けてきた経緯を辿っていく。

一方で、リベラル/ラディカルのアーティストや運動家が政治運動から距離をおき、自分達の安全な繭のなかで、自分自身を表現する(express yourself)というモットーを掲げて自らの充足や幸福を追求する姿を映し出す。この繭の中の自己表現者達として、『キッチンの記号論(Semiotics of the Kitchen, 1975)』のマーサ・ロスラー、ニューヨークのアンダーグランド・シーンから登場したパティ・スミス、反戦運動からエクササイズ・ビデオに移行したジェーン・フォンダなどが挙げられる。

「繭の中のラディカリズム」の表現者たちとして、カーティスが主にフェミニスト達を挙げているのは興味深い。彼自身のミソジニーの無意識がそのような選択をさせたのか、それとも見る側の反応を秤にかけて、最も情動的な効果を得られるように選んだのだろうか。インタービューのなかでカーティスは、「パティ・スミスは、グループ運動に身を投じるのではなく、ラディカリズムを個人のアートで表現することを始めた、最初の人物だ」と言っている。そして「そのアートを通してラディカルな思考を広めようとしたのだが、成功したかどうか疑問だ」と言う。

「この自己表現者達を見て、現代の資本主義は『君たちの自己表現を手伝ってあげよう』と、様々な自己表現の手段を売り物にした」とカーティスは指摘する。「いかに自分がラディカルであるかを表現すること」は現代資本主義の最大の市場になった。

いま、最もラディカルな態度は、何も表現しないことだ

アダム・カーティス

カーティスはBBCの映像ライブラリの膨大なフッテージから、衝撃的で、オフビートで、時に残酷で、時に笑ってしまうような、極めて印象的な映像のマッシュアップを作ることを続けてきた。この作品も、その点において2時間40分という長さを全く感じさせない、壮大な映像の海を渡る作品だ。だが一方で、彼の作品はその巧妙な恣意性を指摘されることが多い。おそらく誰でも、彼の作品を見はじめて数分でいくつもの問題点を指摘できるだろうと思う。ある1つの事件からみえる問題を、20世紀終盤の歴史全体に敷衍して提起するようなロジックは大丈夫なのか。いま映っている映像は、カーティスが暗示しているような解釈をしてよいものなのか。「単純な話に落とし込んだ」政権側を批判しながらも、カーティス自身も単純な構図を提示しているのではないのか。そういう疑問はすぐに湧き上がってくる。そして、おそらく1時間も見た頃には、辟易する人も多いだろう。

カーティスの手法は、例えばフレデリック・ワイズマンのそれとは対極にある。カーティスの<ドキュメンタリー>には、彼自身が撮影した映像はひとつもない。過去に撮影された材料をコンテクストから剥ぎ取り、つなぎ合わせる。それに彼自身のナレーションを途切れることなくかぶせていく。鑑賞者はただカーティスの持論を延々と聞かされるだけだ。これでは、飲み屋で延々と<自分が考える東アジア地域の安全保障>について語っている初老の男性となんら変わらない。しかし、この<ドキュメンタリー>は、彼の持論に細かく反論したり、同意できないといって投げ出してしまうという真面目な見方をするものでもないだろう。まるでTwitterのタイムラインを見ているかのごとく、短いスニペットの映像が脈絡もなく流れていき、カーティスは様々な驚くべき出来事を滔々と喋っている。音楽はナイン・インチ・ネイルズが流れたかと思えば、ショスタコーヴィッチが襲ってくる。むしろ、見ている側が、自分が興味を抱いた事柄を取り出して、自らその周辺の事情を掘り出していけばよいのだ。そして、自分の持論を組み立てていけば良い。

カーティスの取りあげる事件は、奇矯だが決してデマや都市伝説の類ではない。例えば、「ブレア首相とブッシュ大統領がとにかくサダム・フセインを悪者にすることに躍起になってしまい、事実とフィクションの区別ができなくなった」出来事の例として、MI6が化学兵器の証拠を掴んだときの出来事を挙げている。カーティスは、マイケル・ベイ監督の映画『ザ・ロック(The Rock, 1996)』の映像を使いながら、こんな話をする。

(MI6がブレア首相に語ったところによれば)イラクが開発している神経ガスは、数珠つなぎになったガラスの球に収められているという。その話を聞いていた別のMI6のメンバーが、その詳細が1996年の映画『ザ・ロック』とそっくりであることに気がついた。

アダム・カーティス

カーティスは、ニコラス・ケイジが数珠つなぎになった緑のガラス球をケースから取り出すシーンの直後に、ブレア首相が「サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているということは疑いの余地がない」と宣言している記者会見の映像をつなげる。英国情報部は、イラクにいる情報源がハリウッド映画の場面をそのまま描写したものをトップ・シークレットして鵜呑みにしていたのである。このにわかには信じがたい話は、2016年に発表されたチルコット報告書[2]に記載されている事実が元になっている1)

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

カーティスは自己表現の繭の中を様々なかたちで批判しているが、彼自身がそのカルチャーのなかで育ってきたことに自覚的だ。さらにジョセフ・ヒースらの批判が資本主義の枠組みのなかにとどまっていたのとは対照的に、ソ連でも若者の間で「繭の中」が存在していた点も見逃していない。カーティスは「繭の中」が生まれてきた背景に冷戦後期の政治の退廃があると見ており、資本による自己表現の市場化はその結果だと考えている。

モスクワの感化院の少女たちが矯正官の質問に気怠く答える映像に、シベリア・パンクの中心的存在だったヤンカ(Yanka Dyagileva)の「My Sorrow is Luminous(Печаль моя светла)」がつながっていく。カーティスはその歌詞を字幕で見せる2)

I say it tem times over and once again

No one knows how fucking shitty I feel

And the TV hangs off the ceiling

And no one knows how fucking shitty I feel

This has got so fucking annoying

That I want start all over again

This verse is sad, such that I say again

How fucking shitty I feel

Yanka “My Sorrow is Luminous”

受話器のない公衆電話が映し出される。これほど示唆に富んだフッテージを膨大な映像アーカイブの中から見つけてくるという点で、アダム・カーティスのなかには映像への底知れない畏怖と唾棄が共存しているのかもしれない。

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

Notes

1)^ 報告書の第4巻第3章「Iraq’s WMD assessments, October 2002 to March 2003」に以下の記載がある。

SISのレポートによれば、VX、サリン、ソマンがアル=ヤルムクで製造されており、<数珠つなぎになった中空のガラス球>を含む、様々な<容器>に入れられているという。

チルコット報告書

そして、当時からそのSISのレポートは疑問視されていた。

化学兵器には通常ガラスの容器は使用されない。人気の映画(ザ・ロック)は神経ガスがガラスのビーズ又は容器に収納されている様子を描写しているが、それは正確ではない。

チルコット報告書

『ザ・ロック』の脚本を担当したデヴィッド・ワイスバーグによれば、映画に登場する緑のガラス球は「完全なでっち上げ」「見た目がぱっとしないテクノロジーだから、視覚的に(観客を)驚かせようとしたもの」に過ぎないという[3]。ワイスバーグは、義理の父親ジェフリー・ケンプ(ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュの政権で安全保障部門のアドバイザーをしていた)に頼んで、化学兵器の専門家に取材している。だが、その面白みのない武器を危険で魅力あるものにするために「数珠つなぎのガラス玉」を発案した。

2)^ アダム・カーティスはこの曲がかなり気に入っているようだ。彼がマッシヴ・アタックと企画したコンサートで、エリザベス・フレイザーがこの曲をカバーしている(YouTube)。

References

[1]^ A. Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation. Princeton University Press, 2013.

[2]^ “[ARCHIVED CONTENT] Iraq Inquiry – Home.” (Link)

[3]^ C. Shoard, “‘It was such obvious bullshit’: The Rock writer shocked film may have inspired false WMD intelligence,” The Guardian, Jul. 08, 2016. (Link).

プーチンの証言者たち

 

前回ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations』を紹介したが、今回は『Putin’s Witnesses (Свидетели Путина, 2018)』を紹介したい。この作品も、dafilmsのストリーミング・サービスで鑑賞可能だ(英語字幕のみ)。

時は1999年12月31日。ロシアの大統領ボリス・エリツィンが、突然退任を発表して後任の大統領代行にウラジーミル・プーチン首相(当時)を指名した。プーチンは3ヶ月後の選挙で正式に大統領に就任する。監督のマンスキーはロシア国営TVのドキュメンタリー部門に属しており、選挙までの3ヶ月間、プーチン大統領代行の選挙活動を取材していた。国営TVの番組とは実質的には政府のプロパガンダであり、マンスキーが関わっていたのはプーチンの応援番組の制作である。マンスキーは2015年にロシアから<亡命>したが、この作品は、この3ヶ月間に撮影したフッテージをもとに2018年に編集したものである。マンスキーの意図は、その後の政治的転回によって明らかになるプーチンの独裁的性格や強硬保守主義が、すでにこのフッテージの中に現れていることをあぶり出そうとする点にある。

2018年の今では、プーチンは存在しない。彼はもはや血肉でできた人間ではない。彼はドラゴンだ。プーチン自身でも倒せない。

ヴィタリー・マンスキー

この作品では、確かにカメラはまだ若々しい大統領代行のそばを離れることなく追跡している。だからといって「ウラジーミル・プーチンの素顔」のようなものを期待しても無駄だ。映像には常に<政治家>が記号的に映っているだけで、それは普段ニュースや報道番組で見ている<ウラジーミル・プーチン>と何ら変わらない。それは彼が幼い頃の学校の先生を訪問するシーンでもそうだ。私達はプーチンがなにか<人間的な>側面を見せるのではないかと期待するのだが、それは期待はずれに終わる。

プーチンはTVのコマーシャルや討論番組に出演することなく、選挙運動をすすめた。つまり「私の仕事を見ろ」というメッセージである。その彼の<仕事>のひとつがチェチェン勢力の弾圧であったが、なかでも高層アパート爆破事件[Wikipedia]はプーチン政権にとって大きな転換点であった。プーチンが事件の現場を訪れるシーンがある。彼自身の個人的な関与があったかどうかは不明だが、この事件をきっかけにチェチェン勢力への弾圧が理由を得たのは事実だ。その後の報道で、事件はFSBによる自作自演だったことや、内幕を暴露しようとしたリトビネンコの暗殺などの後知恵をもってしまった私達には、事件現場に立つ2000年のプーチンの姿を見るのはやはり奇異で諧謔的な感じが強く残る。

一方、映画は選挙の行方を見守るボリス・エリツィンのプライベートな姿も追いかけている。エリツィンは、後継のプーチンは最適な人物だと確信しており、そのプーチンを選んだ自分の鑑識眼を自画自賛している。だが、その彼自身の思惑とプーチンの政策がすでにずれ始めている様子もとらえられている。特にソ連国歌を、歌詞を変えてロシア国歌に制定したプーチンの決定については、エリツィンは時代を逆行していると感じたようだ。

その国歌を録音するシーンが挿入される。歌詞を任せられたセルゲイ・ミハルコフとその息子ニキータ・ミハルコフが録音に参加している。まさしくソ連時代と同じように、新しい体制に迎合した歌詞をつくって、国歌が制定される伝統が続いている。それにしてもこの録音時にミハルコフ親子が目を光らせているのはなんとも異様だ。

ここには、いまロシアがウクライナに侵略している事態の萌芽はこのときにすでにあるのだ。当時気づいていなかったが、ここに映っているプーチンの延長線上に今がある。

Links

Variety誌のGuy Lodgeによる評は、マンスキーのナレーションとその視座を「not sutble」としながらも、現在はファシズムに反対の声をあげるのに躊躇している場合ではない、という主張には説得力があると評価している。[Link]

Current Timeがヴィタリー・マンスキーへのインタビューを掲載している。[Link]

Putin’s Witnesses (原題:Свидетели Путина)

監督 Vitaly Mansky
編集 Gunta Ikere
音楽 Karlis Auzans
音響 Anrijs Krenbergs
製作 Golden Egg Production
2018 Latvia, Switzerland, Czech Republic

遠い親類と遠い物語

 

『Close Relations (2016)』[Studio Vertov]

引き続きdafilmsのウクライナ特集からの作品を紹介する。今回は、ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations (2016)』というドキュメンタリーをとりあげたい。原題は『Рідні』、ウクライナ語で「親類たち」という意味だ。

マンスキー監督というと、日本では、北朝鮮での<一般人の生活>を撮影した『太陽の下で ─真実の北朝鮮─(В лучах Солнца, 2015)』という作品をご存知の方も多いかもしれない。これは、撮影時に政府当局からの干渉が著しかったため、その様子を隠し撮りした作品だ。『Close Relations』は、『太陽の下で』の直後の作品に当たる。マンスキー監督は、今度も一国の政治のあり方を<一般人>の姿を描くことで立ち上がらせる手法をとっている。その国とはウクライナだが、この作品ではその<一般人>が、自分の家族、親類縁者である点が特異なのだ。

ヴィタリー・マンスキーは、1963年ウクライナのリヴィウの生まれ。ソ連時代の1982年に有名な全ロシア映画大学(VGIK)に入学、1989年から通算30作以上の映画を監督している。この『Close Relations』までロシアを中心に活動していた。

『Close Relations』の冒頭で、マンスキーは「この映画を作るつもりはなかった」と宣言する。その真意は測りかねるが、映画を見終わった時、たしかにこの映画を作ったあとには、彼はもとの生活、もとの関係に戻ることは不可能だろう、と感じた。事実、マンスキーはこの映画発表ののち、ロシアを離れている。

映画は、生まれ故郷のリヴィウの町に住む、彼の母親を訪ねるところから始まる。2014年の大統領選挙の最中だ。母親はウクライナの現状を嘆き(「ドンバスでの戦いでどうして西ウクライナの人間が死ななければならないの」)、今回は選挙に行くと宣言する。彼女は自分の家系はウクライナ人だというのだが、息子のヴィタリーが「僕の曾祖母はリトアニア系ポーランド人じゃないか、僕の祖母はどうやってウクライナ人になったんだ?」と問い詰める。母親は「彼女のパスポートではウクライナ人だった」と言い、息子はもちろんそれでは納得しない。結局、母親と息子の会話は平行線をたどったままだ。

マンスキー監督は、この母親との会話を起点に、オデッサに住む妹一家、リヴィウに住む伯母のリュダとタマラ、ロシアに<併合>されたクリミアに住む伯母のナターシャ、分離独立派が戦闘を繰り広げるドネツクに住む祖父のミーシャ、とウクライナを横断してゆく。

キッチンやリビングルームといった近接した空間、親近さが約束された場所で撮影は行われ、伯母やその家族が、親戚同士の会話としてウクライナの現状と自分を語っている。リュダは、ソ連の崩壊後に共産政権の嘘と詐欺がだんだんと見えてきて、かつて好きだったソ連のTVドラマ(『春の十七の瞬間(Семнадцать мгновений весны, 1973)』)、そしてニキータ・ミハルコフが嫌いになったという。タマラは、リヴィウに「純血」などおらず、都市そのものがオーストリアやポーランド、ロシアなど様々な国に占領され建設されたのだと話す。タマラの義理の母は、戦後に現れたポーランド人たちがいかに貧しかったかを語る。

エスニシティの問題なんかじゃない。誰と一緒に暮らしたいかだよ。

タマラ

そういった、大文字の<政治>と一般人の感性の距離のようなものが、彼女らの言葉にはある。冒頭で、選挙に行くんだと息巻いていたマンスキーの母親は、投票所を間違えてしまって、バスに乗って停留所2つ先に行かないといけないとわかると、突然行く気をなくしてしまう。カメラを回しているマンスキーに「行かなきゃダメ?そこ撮りたい?」と聞く始末である。

だが、ウクライナを横断して東部に行くほど、その距離感がおかしくなっていく。ナターシャは、クリミアがロシアに併合されて幸せだと言い、プーチンの新年の挨拶をロシアの旗を振りながら喜んで見ている。年老いて自由が効かないミーシャはウクライナ人が野蛮な殺人鬼(バンデラ Banderivtsi)だと主張する1)。彼が見ているTVには、偶然なのか、マンスキーの仕業なのか、『春の十七の瞬間』が映っている。二人とも<ウクライナ>に対する憎悪をむき出しにしてはばからない。

マンスキーは、完全な観察者というわけでもないが、一貫した主張やステートメントを提示しているわけでもない。母親と話しているときには、ウクライナのアイデンティティについて懐疑的な質問を投げかけているが、後半のクリミアやドネツクのシーンでは、プーチン政権の影響力、ロシアメディアの存在などを、分析的な視点でとらえ、否定こそしないが、共感を拒否する姿勢がうかがえる。

『Close Relations』に対する批評を読むと、このマンスキーの<態度>が失敗とみなされたのがわかる。East European Film BulletinのKonstanty Kuzmaは、作品を通して維持されるべき客観性が失われ、マンスキーの主観が入り込むことに苛立ちを隠さない [Link]。Pat MullenがTIFFに寄せた文章では、マイルドには評価しているものの、「出てくる人物にカリスマがないこと」が欠点だとコメントしている [Link]。Daria Badyorは、マンスキーが、客観性の影に隠れて、政治的にも人道的にもポジションを明らかにしなかったことを非難している [Link]。

映画批評家が、作品になんらかの一貫性を求めるのは当然だろう。特にポリティカルなテーマをもった作品においては、監督の姿勢が定まらないのは問題かもしれない。私も『Close Relations』は、ひとつの映画作品としては失敗だろうと感じた。親戚たちが語る話は、文脈をつかみにくい部外者にとっては、大部分が意味が分からないまま流れていってしまう。特に、クリミアやドネツクのシーンは、表面だけをなぞっているような印象を受けてしまった。

だが、今現在、ウクライナがロシアに侵攻されている事態を踏まえると、この映像はまったく違う意味を持ち始めていると思う。私達は、紛争と言うと、鎌と槌のシンボルの旗を抱えたドンバスの分離独立派の兵士や、キエフでウクライナ国旗を振っているウクライナ予備役軍人たちの話ばかりを思い起こすが、<政治>というものは深く長いグラデーションでできている。投票所の場所を間違えただけですっかり投票する気がなくなってしまう女性や、クリミアのサッカー・クラブがどこの国にも所属しなくなって応援できないことを嘆いている男性や、パスポートが電子チップ式になってかっこいいと話している若い女性たちの<政治>も、そのグラデーションの中に存在する。この<政治>との様々な距離が国家の基盤を作っている。ウクライナとロシアの事態は、もはや後戻りができなくなってしまっているが、この映画はその以前の段階の、ウクライナのなかにあった様々なグラデーションを見事に切り取った映像だ。その点で、ドキュメントとして極めて貴重である。

ロシアのウクライナ侵略、それに対するウクライナの抵抗が報じられるなか、ユヴァル・ノア・ハラリは英ガーディアン紙に寄稿し、「国家は物語の上に築かれる」と述べた2)。その物語とは、ウクライナの勇敢な抵抗の物語であり、この物語には戦車でも勝てないという。だが、こういった<物語>は、西側諸国のインテリ達が気持ちよくなるだけで、こんなものばかりを紡いでいても仕方ないのではないか。インテリ達が<民主主義>と<自由>の表明という自己満足をただ漫然と繰り返してきたから、この事態になるまで放置していたのではないか。

ドネツクに住むミーシャは、年老いてしまい、風呂から出られなくなっても助けを呼ぶことができないほど弱っている。美しい桜が咲く下で猫とともに暮らしている。その彼は、ウクライナ人がきらいだ。第二次世界大戦中の1943年にウクライナ人(バンデラ)達がやってきて、人々を虐殺したという。人々を吊るして焼き殺した、女の目の前でその夫をのこぎりでバラバラにした、そんな都市伝説をあたかも自分が見た事実のように語る(ミーシャがソ連の貧しい町ヴォロネジからドンバスに送られてきたのは1948年である)。インテリたちは、この老人はメディア・リテラシーがないためにプロパガンダを信じてしまったのだ、というだろう。メディア・リテラシーも何も、老人はTVしか持っていないし、バンデラ達の伝説は何十年も囁かれてきたものだ。人はTVやネットで聞いたり見たりして、突然陰謀論を信じたり、荒唐無稽な話を信じるようになるのではない。メディアは、もともと個人の中にある偏見や差別を強化するだけだ。では、なぜミーシャはそんな偏見を持つようになったのか。娘たちの話では、かつてミーシャが若かった頃、ソ連時代には、ドンバスは重要な工業拠点で、食料や物資が豊富にあったという。つまり、ミーシャにとってモスクワは庇護者なのだ。かつて隣人たちを残酷に殺したウクライナ人はモスクワからの救世主によって追い払われ、ソ連崩壊後、ウクライナ人が領土を主張している今でもロシアが食料を届けてくれる。これがミーシャの<物語>なのだ。

私達は、このミーシャの<物語>について真剣に考える必要があるだろう。その歴史的正確さについてではなく、人間がいかにそのような<物語>を自分の中で育むかについて。

マンスキーは、リヴィウに住む甥の一人がウクライナ国軍に徴兵にとられる様子を撮影している。そのサウンドトラックに『春の十七の瞬間』のテーマ曲が使われている。オリジナルのドラマは、渡り鳥が編隊を組んで飛ぶ映像にこのテーマ曲が重なる、極めて印象的なオープニングで物語がはじまる。だが、果たしてこの選曲が『Close Relations』の締めくくりに相応しいかと言われると、少し首をかしげてしまう。『春の十七の瞬間』の作り出した神話的な世界とウクライナの青年の応召の場面とは、いかなる相似も、衝突も、意味の多層化もない。ミカエル・タリヴェルディエフの曲ならば、クリミアの少年たちが兵隊になる『グッド・バイ・ボーイズ(До свидания, мальчики!, 1966)』のオープニング曲のほうがあっていたかもしれないが、だが、それではあまりに不吉だ。『Close Relations』に描かれているそれぞれの話は、<映画的な>オマージュとか、引用をはねつけてしまうほど、物語的映像の世界とは相容れないものなのかもしれない。

Close Relations (原題:Рідні)

監督:Vitaly Mansky
脚本:Vitaly Mansky
撮影:Alexandra Ivanova
編集:Peteris Kimelis, Gunta Ikere
音楽:Music Harmo Kallaste, Mikael Tariverdiev
音響:Harmo Kallaste
製作:Studio Vertov
2016 ラトビア、ドイツ、エストニア、ウクライナ

1)^ 「バンデラ Banderivtsi」については、第二次世界大戦中のウクライナの極右政治活動としてのBanderivtsiと、そこから派生したウクライナ人の俗称としてのBanderivtsiがあるという [Link]。

2)^ 日本語翻訳はいくつかウェブ上に提供されているが、ここではWeb河出のページをリンクしておく[Link]。

ウクライナを映す、ウクライナを撮る

Like Dew in the Sun (2016) [Show and Tell Films]

ウクライナの領土内にロシア軍が侵攻してしまった。私達の多くは、この事態が訪れるのをまるで知らなかったかのように驚いているが、クリミアへのロシア侵攻以来、ロシアの強硬な姿勢は崩されていなかった。そして、ウクライナ国内では内戦状態がずっと続いていた。ドキュメンタリー映画のストリーミングサイト、dafilmsウクライナについての映画の特集が組まれている。少しづつ見ているのだが、この内戦状態について扱った2本の作品を紹介したい(追記:いずれも英語字幕)。

LIKE DEW IN THE SUN (2016)

監督のピーター・エンテル(Peter Entell)はニューヨーク生まれのユダヤ人で、現在はスイスに拠点を置きながら、ドキュメンタリー映画を製作している。エンテルの祖父母は、1914年にウクライナを離れてアメリカに渡った。祖父母がなぜ故郷を離れることになったのか、その故郷とはどんなところなのか、彼は祖父母の写真とわずかな手がかりだけをもって、彼らが住んでいた村を探し当てるためにウクライナを訪れる。エンテルが訪れたウクライナは、東部のロシア系分離独立派とウクライナ政府とのあいだで市民戦争状態に陥っていた。カメラは、彼の祖先を訪ねる旅を映しながらも、同時にウクライナ兵たち、そしてロシア系の分離独立軍の兵士たちを映し出す。また、一方でクリミアのバフチサライに住むタタール人の一家や、探し当てたエンテル監督の祖父母の故郷、モリカ・カリルカに住む人々の声も収めている。

このドキュメンタリーは、黒海を臨む土地をめぐって交差する、数多くの人種の争いの歴史が、時には遠景に、時には近景に現れてくるため、そのそれぞれの歴史の重みを直接感じることができない私達には、共感が横滑りして思考に詰まってしまう場面も多い。たとえば、モリカ・カリルカを訪れたエンテル監督は、住人に「もし、私の祖父母がここにとどまっていたなら、私達は隣人だったんですよ」と言ったその直後、「いや、そんなことはないか、わたしの祖父母は殺されて、私は生まれていませんね」と付け加える。ユダヤ人は激しいポグロムにさらされ、ほとんど全滅させられた。逃げた者だけが生き残ったのだ。事実、かつてユダヤ人が800人も住んでいたモリカ・カリルカには、ユダヤ人は一人もおらず、ユダヤ人の墓地も墓石がどこかに持ち去られて跡形もない。私達は、現在の村の住人たちが、その過去をおぞましいものとして語る様子を見るのだが、さて、そのユダヤ人を抹殺し、ユダヤ人の歴史を抹殺した者たちはどこへ行ったのか。その歴史を身近に経験していない私達には、その<見えない>部分が想像力の埒外に置かれてしまったままになる。また、クリミアのタタール人たちは、ロシアによる長い迫害の歴史について、「何百年も前のカーンのことをロシア人はまだ許さないのさ」という。そのクリミアは、また実質的にロシアの支配下に入り、タタール人達はマイノリティとして肩身の狭い思いをしている。このロシア人たちはどのようにしてタタール人を<許さない>のか、またウラル地方に追放しようとしているのか、私達には見えない。

そして、前景に現れるロシア分離独立派とウクライナのあいだの紛争の映像は、スマートフォンで撮影された生々しいビデオや、砲撃で殺された遺体に横たわって寄り添う女性や、ウクライナ人捕虜を虐待するロシア分離独立派兵士の映像や、大砲を撃って喜ぶ兵士たちの映像など、まったく理性を欠いた人間の行動とその結果を次々と直視させられる。電話でウクライナの指揮官と<やりあって>いるロシア分離独立派の将兵の様子は、まるで中学の不良が「やんのか、テメエ」と啖呵を切っているのを見せられているようだが、それは殺戮の宣言なのである。

随所に挿入される<像>の映像。特にバビ・ヤールのモニュメントは繰り返し登場する。ナチスに殺された子供たちのために作られたモニュメント、ソ連時代に作られた巨大なモニュメント、いずれも極めて扇情的なモチーフで、日本の広島や長崎に見られるモニュメントとは趣が違う。そこで残虐な方法で殺された人々の無念と悲しみを、可視化して絶対に後世に残すのだ、という強い執念を感じる。

そして、市井の人々が歌う歌も怨念がこもったものだ。クリミアの老婆が歌う。

Ural moutains, The horses here are no better

Crimean steppes and Crimean gardens, Live in my heart and give me joy

You who sent us away, Damn you!

May you burn and turn into ashes and be blinded for sending us away!

Don’t rejoice, you unfortunate people who live in the house we left behind

Because one day we will come back to Crimea and you will go instead to the Ural mountains

ちなみにこの映画のタイトルも、ウクライナの国歌からとられている。「敵は陽の光のなかの雫のように消えていく」という歌詞だ。

モリカ・カリルカの老婆が言う。「私にとってはみんな同じ人間、私達はみんな同じ太陽に照らされている」と。同じ太陽の光のもとでも、<敵>が雫のように消えていくことを願う歌もあれば、同じように照らされているという宣言もある。

怒りや憎悪、怨念や暴虐が、何らフィルターを介することなく表現され、そこからエスカレートした戦争も可視化されている。ロシア分離独立派がリクルートした新兵たちに宣誓をさせる様子のフッテージは、それがなんの統率もなく、およそ軍事組織とは思えない集団であることを映し出している。将兵はユダヤ人差別、同性愛差別を丸出しにして<想像のウクライナ>を敵視している。そこには、オブラートに包まれた<民族自立>といった概念は存在しない。機動力の高いデジタルカメラやスマートフォンのカメラは、そういった粗い現実の素地をすべて記録している。

そうやって、可視化されているにもかかわらず、いずれは忘れ去られていく。この映画もいずれは大量の映像の記録の山に埋もれてしまうのだろう。そして監督が訪れたモリカ・カリルカの村のユダヤ人墓地のようにわずかな痕跡しか残らないのだろう。

この作品は、その意図と語ろうとする物語は多くの人に受け入れられやすいものかもしれない。だが、決定的な瑕疵がある。それは次に紹介する映画「Show Me the War」が見せる、紛争地帯の映像の<とらえどころのなさ>について、あまりに無責任だという点だ。

SHOW ME THE WAR (2016)

Show Me the War (2016) [FAMU]

戦場にカメラを持って飛び込み、戦争の真実を伝える。だが、紛争地帯は世界中にあり、どこへ行けば<戦場>なのか、誰に会えば話を聞けるのか、すぐにはわからない。かつての従軍記者のように長期間部隊と行動を共にするような人たちは少ない。海外から来たジャーナリストやドキュメンタリー・クルーが、すぐに<戦場>を撮影できるように手配する者たちがいる。<フィクサー>と呼ばれている。

この映画では、そんなフィクサーの一人の仕事を追う。ロシア分離独立派兵士のなかにコロンビア人がいるので取材したいと、コロンビアからTV局の撮影クルーがやってきた。なぜ、こんな遠い土地で、コロンビア人が戦っているのか、インタビューしたいのだそうだ。フィクサーとして雇われたルスランは、クルーを連れてキエフから前線に向かって移動し、様々な<戦場>を見せてゆく。

ルスランとクルーは、ある町の集合住宅を訪れる。この建物は砲撃を受けた痛々しい傷跡や生存者が隠れた地下室などがあり、戦争の悲劇を見せるにはうってつけの場所なのだ。さらに、この地域では戦闘はおさまっており、安全地帯で戦争を取材できるというメリットもある。彼らが取材していると、偶然通りかかった住人の一人が言う。「私達はここに住んでいるんだよ、花も植えている、なのにどうしていつもぶっ壊れたところだけ撮影するんだろうね」と少々激昂している。ルスランは以前にも別のジャーナリストをこの場所に連れてきたようだった。一種の戦場観光のようになっているわけだ。

また別の日には、分離独立派に雇われている兵士が、誰もいない野原で射撃をしている様子を撮影する。だが、こんなものではとても遠く離れた国の視聴者が満足するわけがない。次の日、撮影クルーの女性ジャーナリストが言う。

私達が欲しいのは、軍の存在、戦車とか、そういったものなんです(中略)(昨日撮ったのは)3人の人が弾を撃っているところ。そんなのは、コロンビアでは普通なんです。

本人たちは笑いながら話していた。

近代の戦争で、映像が果たす役割は大きい。だが、実際の戦闘場面を撮るためには危険を侵さなければならないし、協力してくれる戦闘員たちがいなければ、視聴者が釘付けになるような映像は撮れない。フィクサーはそれを比較的簡単に手配してくれる。言い換えれば、いま今日の世界で戦闘の場面が映る際には、それを撮らせることを了承した人々の意図を考えなければならない。

なぜコロンビア人がウクライナで戦っているのか。傭兵だからに決まっている。実際、彼と同じ部隊にいるベトナム人は、ベトナム戦争を経験したベテランだ。現代の軍事行動では傭兵の存在は当然だし、それが多国籍にわたることも常識だ。そんな当たり前のことのために取材に来たのは、取りも直さず<戦車や大砲やミサイル>の映像が欲しかったからである。実際、クルーはフィクサーに紹介された分離独立派の将校に頼み込んで、極めて危険な撮影に出かける。彼らは帰ってきた時、非常に満足そうである。コロンビア人の取材よりも何かが爆発する映像のほうが重要なのだ。

前述の『Like Dew In The Sun』では、スマートフォンで撮影されたと思われる紛争の被害者たちの映像に「本作品のシーンの中には、インターネットからの映像もあります」という字幕が重ねられる。そのうち、どれが<インターネットからの映像>で、どれが<エンテル監督たちが撮影した映像>かが、判別し難くなっていく。<インターネットからの映像>を使用している際に、字幕で引用を明示していないからだ。明らかにアスペクト比が違うものや画質が違うもの、周囲をマスクしてサイズを小さくしたフッテージが、<インターネットからの映像>なのだろうが、見ている者にはわかりづらい。そうこうするうちに、それぞれの違う諸元の映像がエンテル監督の語りたい物語に編み込まれ、もはやそれがどこから来たかは重要でなくなってしまう。自らの物語を強化するために他の映像をこのような形で借りることは極めて危険な行為である。どこから引用されたか明らかでない、だがショッキングな数々の映像は、フィクサーによって手配され、分離独立派が、それらを世界に見せても良いと思って撮影させたものだ。分離独立派の兵士がウクライナ兵捕虜を虐待するシーン(これはインターネットから引用されたものだろう)でも、もともとは分離独立派にとって何らかの利益がある動画だったのだ。ロシアやその影響が及ぶ地域でウクライナ人や他の民族に反感を抱いている若い人間達の関心を引き、リクルートに役立つと考えていたのかもしれない。捕虜の肩章をナイフで切り取り、口に押し込んで食べさせると行った、あからさまで、映画的な演技をみるにつけ、そう思わざるを得ない。私達が<戦車や大砲やミサイル><戦場の現実><戦火に追われる人々の悲劇>を見たいと反応すればするほど、それを見せる仕掛けが現地で作動して、軍事行動をより正当化させてしまう側面もあるのではないか。

戦闘の映像を撮るための機会がこのようにして取引され、撮影されたフッテージは真実でありつつも用意周到に意味が付与されている。私達は<観る>だけではなく、実は知らぬ間に<参加>させられているとも言える。

Like Dew in the Sun

監督:Peter Entell
脚本:Peter Entell, Elizabeth Waelchli
撮影:Jón Björgvinsson
製作:Show and Tell Films
2016 スイス

Show Me the Invasion(原題:Ukažte mi válku)

監督:Zdeněk Chaloupka
撮影:Zdeněk Chaloupka
編集:Ilona Malá
音響:Miroslav Chaloupka
製作:FAMU、Smetanovo nábřeží 2、11000 Praha 1
2016 チェコ

モスクワを歩く

 

みずみずしい。

ギオルギー・ダネリヤ監督の『私はモスクワを歩く(Я шагаю по Москве, 1964)』はよく「みずみずしい」という形容詞とともに紹介される。ソ連の新しい世代の若者達が、輝く陽光に包まれて走りまわり、突然雨に洗われて裸足で散歩する。恋にためらい、突然不安になり、そしてまた将来の夢を探しはじめる。ラストの地下鉄のシーンの清々しさは、あの歌とともに、観たあとしばらく漂っている。

独特の爽やかさはヌーヴェルヴァーグのようだと言われ、ソ連の「雪解け」の時期を謳歌している作品と言われる。

しかし、「みずみずしい」と言い切ってしまうのもためらわれる。

ふとしたシーンでソ連の「まがまがしさ」が顔をのぞかせ、雪が解けたと思ったらまた雪が降り始めている。だいたいキューバ危機の1年後に、何事もなかったかのような「みずみずしさ」がスクリーンをおおっているのだから、すこし疑ってかかったほうがいいに決まっている。

しかし、もう半世紀以上も前のことだから、何を疑うべきなのかもよくわからない。私の場合は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲のレコードを買いに来た青年のセリフが疑うきっかけだった。

グム百貨店のレコード売り場で働くアリョーシャに客の男が尋ねる。

客の男

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のレコードはある?

アリョーシャ

ネイガウス、リヒテル、それともクライバーン?

客の男

あの・・・ヒゲの男。

(?)

 

オグドンだよ。1)

アリョーシャが挙げる3人の名前は当時のソ連で最も人気があったピアニストたちだ。そのなかでもヴァン・クライバーンは、冷戦のさなかの1958年にモスクワで行われた第1回チャイコフスキー国際コンクールで優勝したアメリカ人ピアニスト、ソ連にとってはフルシチョフ第一書記の「雪解け」政策の象徴的存在と言ってもいいだろう。ソ連国民はこのテキサス州から来たひょろっとした青年のピアノに魅了されてしまっていた。そして、ジョン・オグドンも、1962年の第2回のチャイコフスキー国際コンクールで第1位をとったイギリスのピアニストである。ソ連国民は、今度はクマのようにノソノソと歩く、ヒゲの青年ピアニストに夢中になっている。このシーンでは、モスクワ市民たちが自国ソ連のピアニストたちよりも、西側のピアニストのレコードを買い求める様子が描かれているように映るだろう。

だが、実は第2回のコンクールでは第1位は2人いた。ジョン・オグドンとウラジーミル・アシュケナージである。アシュケナージは生粋のソ連国民だ。なぜ彼の名前が出ないのか。

クラシック音楽をそれほど聞かない人でも、ウラジーミル・アシュケナージの名前はどこかで耳にしたことがあるのではないだろうか。ピアニストとしてだけでなく、指揮者としても有名で、20世紀を代表するクラシック音楽家だ。彼はソ連邦、ヴォルガ川河畔のゴーリキー(現在のニジニ・ノヴゴロド)出身のユダヤ人である。1962年にチャイコフスキー・コンクールで優勝、将来のソビエト音楽界での<スター>を嘱望された存在だったが、1963年にイギリスに<亡命>している。彼の<亡命>の実情は、政治的な亡命ではなく、アイスランド人の妻と暮らすための<移住>といったほうが良いだろう。フルシチョフ第一書記は「アシュケナージは自由に出入国しても良いことにしていた」と回想録で述べているが、それまでのアシュケナージ夫妻の行動を見ていれば、モスクワに戻るつもりがないことは明白だった [1]。おそらくソ連文化省もほぼ確信していただろう。アシュケナージが国外で<反ソ連>の発言をしない限り、彼の両親や妹を収容所に送るような真似はしない、といったところだった。

だが、ソ連を捨てた人間であることにはかわりはない 2)。映画の脚本で、人気ピアニストとして名前をあげるわけにはいかなかったのではないだろうか。当時の文化省の立場としては、ソ連にのこのこやってきて、フルシチョフに「そのヒゲを引っ張ったら国際問題になるかな」とからかわれたイギリス人のほうがよっぽど良い、と見ていただろう。

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第二回チャイコフスキー国際コンクール
ウラジーミル・アシュケナージ(左から2人目)、ニキータ・フルシチョフ第一書記(真ん中)、ジョン・オグドン(右から2人目)
classicfm.com

 

もちろん、西側諸国の文化がモスクワの市民のあいだに浸透している様子を描いているだけだと見てもよいだろう。しかし、このセリフに登場するピアニストたちは、フルシチョフ第一書記の文化外交政策の<成果>といった趣があり、いかにもそつなく選んでいるように思えてならない。スヴィアトスラフ・リヒテルはソ連随一のピアニストだったが、スターリン時代は、ドイツ人の血をひくという理由から国外での演奏活動は禁じられていた。それをフルシチョフが破り、西側諸国でのリヒテルのツアーはセンセーションを巻き起こした。クライバーンとオグドンは、たとえ西側の演奏家であっても、優れた才能を平等に評価するというロシアの懐の深さを世界に示した象徴だった。(ゲンリフ・ネイガウスは、ソ連のピアノ界の大御所なのだが、やはりドイツ系ということで戦時中は危険人物としてみなされ、モスクワから追放されていた。)

このレコード店がはいっているグム百貨店そのものが、「雪解け」の象徴だ。スターリンの時代にはオフィスビルになっていたものを、ミコヤンが物資的豊かさの象徴としてのショッピング・モールに再生した。

同じレコード屋のシーンで、「ロベルティーノ」のレコードを買い求める客が二人も現れる。ロベルティーノ・ロレッティは1960年代初頭に一世を風靡した少年歌手で、特にソ連でなぜか人気があった。レコードは瞬く間に売れ尽くし、入手できなかったのだ。「わたしはカモメ」のワレンチナ・テレシコワが初の女性宇宙飛行士として1963年6月にヴォストーク6号で地球を周回しているときに、地上の交信係にロベルティーノの曲をリクエストしたという。しかし、そこまで人気がありながらロベルティーノのエージェントはソ連へのツアーを取りやめる。熱狂的に迎えられるかもしれないが、ビジネスとしては損しかしないからだ。ソ連で得られる興行収入はありえないほど少なく、しかもその大部分をソ連政府に巻き上げられてしまう。レコードを出しても、ソ連では著作権というものが尊重されないために、模造品が出回ってしまう。エージェントは「ロベルティーノは成長して声変わりした」といってツアーをキャンセルしたと言われている。ヴォロージャのセリフ(「成長したんだよ」)は、そんな出来事を指している。 

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ZM63xMU6FEc] 

ロベルティーノ「ジャマイカ」1961年

西側諸国から外貨を稼ぐために、優秀なアーティストをツアーに出し、優れた芸術作品を貸し出す。一方で西側諸国から流入する文化には、なるべく対価を払わない。おそらく監督や脚本家はそんな意図でこのレコード店のシーンを作らなかったと思うが、しかしそこには、「雪解け」のそんな側面が見え隠れしている。

雪解けの終わり

スターリンが亡くなって間もない1956年にフルシチョフ第一書記が激烈なスターリン批判を行い、ソ連共産党の政治路線の変更が決定的になった。それから「雪解け」と呼ばれる時期が始まり、文化の面でもスターリン時代の硬直から解放され始めていた。映画の分野では新しい世代が登場し、ミハイル・カラトーゾフ監督の『鶴は翔んでゆく(Летят журавли, 1957)』、グリゴーリ・チュフライ監督の『誓いの休暇(Баллада о солдате, 1959)』などの作品が国際的にも評価された。

1961年10月、文科大臣エカテリーナ・フルツェワは以下のように述べている [2]

映画製作は大きく変化した。1950年代のはじめには、映画スタジオは年平均6~7本しか公開していなかったが、去年1年間だけでも100本を超える映画が公開されている。若い、才能のある映画監督や俳優たち、つまりソビエトの芸術の将来を担う人たちが、映画スタジオで育ったのだ。最近では遠隔地の人も映画を見るようになった。昨年の観客動員数は40億人となり、これにはテレビで放映される映画の視聴者の数は含まれていない。

スターリン時代から映画を作り続け、若い映画監督たちからも慕われていたミハイル・ロンムは、保守系雑誌「オクチャーブリ」───すなわち、スターリン主義を温存し、西側諸国の文化を否定する側───からの攻撃に対し、さらなるスターリン批判をくりひろげると宣言した。1962年の秋のことである [2]

いま、(フルシチョフ第一書記によるスターリン批判)だけでは十分ではないということが明らかになった。これからは私達自身が考え、語り、書くことが必要なのだ。スターリンとスターリン主義だけでなく、スターリン主義によって残された遺産の虚偽を暴くことも重要だ。我々の周りで起こることに注意をはらい、芸術の社会的活動で起きる出来事について判断を下すことがより重要になっているのだ。

このとき、ロンムは「オクチャーブリ」の保守派たちがユダヤ人差別のニュアンスを含ませて批判を展開していることを指摘していた。

だが、フルシチョフの<自由化>路線を転覆させる事件が1962年12月に起きる。マネージ展覧会で展示されていた抽象芸術作品をフルシチョフがこきおろしたのだ。「マネージ展覧会事件」と呼ばれるこの出来事によって、抽象芸術の絶対否定が公式政策として復活し、それにともなって<保守派>による<自由化派>の追い出しが始まった [3]。これは方針転換というよりも、フルシチョフが内政の失敗への批判をかわすために、文化政策の自由化にブレーキをかけたという側面が強い。

翌年1963年の3月、ソ連映画界は大打撃を受ける。フルシチョフは600人もの芸術家や作家をクレムリンに招き、そこでマルレン・フツイエフ監督の『イリイチの砦(Застава Ильича, 1963)』を徹底的に批判した。この作品は、モスクワで暮らす若者たちの姿をロケーション撮影を駆使して、極めて誠実に描き出した力作だった。しかしフルシチョフは、この作品が「どうやって生きていくかもわからず、何を目指すべきかも知らない」怠け者たちを描いているとして糾弾した。最もフルシチョフが反応したのは、主人公のセルゲイが、戦死した父親の亡霊と話をするシーンだった。セルゲイが父に助言を求めると、父親の亡霊は自分が死んだのは21歳で、今のお前より若かった、と言い残して消えてしまうのだ。フルシチョフは「こんな馬鹿なことがあるか、猫でも子猫を見捨てたりはしない!」と罵った [4]

『イリイチの砦/私は20才』

 

このフルシチョフによる攻撃の最中、脚本を担当した、当時25歳のシュパリコフが挙手して発言を求めた [5], [6]

フルシチョフ

誰だ、君は?

シュパリコフ

いま議題にあがっている映画の脚本を書いたものです。

フルシチョフ

じゃあ、ニヤニヤ笑ってないで、どうしてあんなくだらないものを書くほどのバカに成り下がったか説明しなさい。

シュパリコフ

そんなことを説明するつもりはありません。というか、こんなこと、どうだっていいじゃないですか。それより私を祝福してください。みんなで祝ってください!私に娘が生まれたんです。ダーシャって言うんです!

このあと、フルシチョフが拍手をし、それに続いて出席者全員が拍手喝采をしたと言われている。

ちなみにイゴール・イエルツォフによると、フルシチョフは『イリイチの砦』を実際に見たことはないという。彼の部下の報告をもとに批判を展開したらしい [7]

拍手喝采はともかく、『イリイチの砦』は大幅な修正を求められることになる。編集につぐ編集の末、1965年に『私は20才(Мне двадцать лет, 1965)』というタイトルで大幅に短縮されて公開された。その後、ソ連崩壊後にフツイエフ監督自身の手で再編集されてほぼもとの形で再公開された。

この『イリイチの砦』批判は、ソ連映画界が<世代>の問題に対してふたたび神経質になるきっかけとなった。

『イリイチの砦』の次にシュパリコフがとりかかったのが『私はモスクワを歩く』である。シュパリコフのイメージは、ひとつだけだった。夏の午後、突然降り始めた激しい雨のなか、裸足の女性が傘もささずに通りを歩いている。彼女のそばを自転車に乗った若い男がついてまわる。彼が傘を差し出すが、彼女は幸せそうに雨に濡れている・・・。監督のギオルギー・ダネリヤは、これだけでは映画にならないので、シュパリコフに様々なエピソードの断想を書かせ、それをもとに脚本を仕上げていった。『私はモスクワを歩く』が「他愛もないエピソードの寄せ集め」となったのも、こういった構想の経緯から生まれた作品だからである。

しかし、製作途中に撮影所の所長が「意味のあるエピソードがない」と批判した。つまり登場人物が「葛藤」する話がない、ということだ。その応答として<床磨き>のエピソードが生まれた。また、ゴスキノの首脳陣は、この物語が登場人物構成やその扱いの点において『イリイチの砦』と似ていることに不安を感じていた。ゴスキノの副委員長ウラジーミル・バスカコフは、撮影にとりかかる監督のダネリヤに『イリイチの砦』の轍を踏まないよう注意したという。

おそらく、この「葛藤のない物語」という点が、シュパリコフとダネリヤの狙いだったのだろう。完成した作品を見る限り、シュパリコフがフルシチョフに言い放った言葉が、『私はモスクワを歩く』の<狙い>そのものなのかもしれない。つまり「もう政治のことなんかどうでもいいじゃないか、生きていることを祝おう」と。『イリイチの砦』が若い世代の自由への渇望と葛藤を扱おうとしたが、それを政府首脳が意図的に捻じ曲げて解釈し文化政策の道具に仕立ててしまった。ならば、そういった<物語>を漂白して、まだ見ぬ新しい世界への憧れという点に映像を収斂させる、そういったアプローチが功を奏したのではないだろうか。

シュパリコフとダネリヤが脚本執筆に没頭していた頃、ソ連映画界を震撼させるもう一つの事件が起きていた(なかなか、激動の時代である)。第3回モスクワ映画祭で、グランプリの選出をめぐって審査員たちが対立し3)、映画祭の危機にまで陥っていた [8]。その年の候補作のなかでは、誰が見てもフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』がグランプリだと思われた。しかし、開催国ソ連のメンツを潰していいものか、特に共産圏の国々の審査員が渋ったのである。同年のソ連からのエントリ『Знакомьтесь, Балуев』はいつもの社会主義リアリズムのぱっとしない作品で、贔屓目に見てもグランプリには値しなかったという。イタリアのセルジオ・アミデイは「チェコの審査員は『8 1/2』が一番優れているが、票を入れることはできないと言っている。なんだこれは」と怒って出ていってしまった。アメリカからの審査員、スタンリー・クレーマーも審査を放棄して自身の作品の上映会場に向かっていた。ブラジルからの審査員、共産党員でもあるネルソン・ペレイラ・ドス・サントスが共産圏の審査員を説得して『8 1/2』に投票してグランプリにする代わりに声明を発表しよう、と説得していた。結局、共産圏側が折れて『8 1/2』にグランプリが与えられた。一説には首脳部がフルシチョフ第一書記に状況を説明し、ソ連の国際的なメンツを保つためにも『8 1/2』に賞を与えなければならないだろうという指示があったと言われている。

ところが、このグランプリの結果がさらに波紋を呼ぶ。この結果をみた若いソビエトのインテリたちが間違った考えを起こさないようにと「プラウダ」紙が『8 1/2』をこき下ろし始めるのだ。この攻撃を指揮したのは、文化大臣のフルツェワだと言われている。さらに興味を持ったフルシチョフが『8 1/2』を鑑賞、30分で激怒して出てきて「なんとかしろ」とわめきはじめた。政府の映画委員会のアレクセイ・ロマノフが、ソ連政府は映画祭とは無関係だと声明を発表し、『8 1/2』はソ連国内では公開されないと示唆した。このあと、国内で製作中の13本の映画がいったん中止となったという。このなかに『私はモスクワを歩く』が含まれていたかどうかはわからない。

モスクワという被写体

スターリン体制からの脱却は、モスクワという都市にも変化をもたらした。都市開発、新しい居住空間の登場、そして観光地としての機能である。この変化を具体的に紹介するドキュメンタリーがある。『偉大なる運命の都市(Город большой судьбы, 1961)』は、雪解けによって現れたモスクワの姿をカラーでとらえている。この映画をみると、『イリイチの砦』や『私はモスクワを歩く』で描かれる若者たちの生きる場所としての<モスクワ>の文脈がもう少し明るくなってくる。例えば、『イリイチの砦』に登場する若者の一人がビルの解体作業の労働者だったが、当時のモスクワにとってスターリン時代の老朽化した集合住宅を解体して新しい住居を建設することがいかに重要な改革の一部だったかがわかる。地下鉄の建設はまさしく労働の喜びと直結していることが示されているし、百貨店は商品で溢れかえっている。観光客が世界中から集ってきて赤の広場を見学している。様々な人種の留学生が共産主義の中心地で学んでいる。

このドキュメンタリーは、特に『私はモスクワを歩く』の手本になったのではないかと思われるほど類似点が多い。一方はカラーでスタンダード比、もう一方は白黒でワイドスクリーンという差はあるにせよ、望遠レンズで夜の車のヘッドライトの列をとらえたり、俯瞰で街路をとらえる構図は共通している。導入部を比較してみると興味深い。どちらの作品もまず、俯瞰でモスクワをとらえるショットからはじまる。そして街路の喧騒を映し出すのだが、『偉大なる運命の都市』は歩道を歩く人達に焦点をあて、ときには移動カメラも用いてダイナミックに街をとらえているのに対し、『私はモスクワを歩く』は大通りを埋め尽くす自動車を固定カメラでとらえている。やはり『私はモスクワを歩く』は歩く人間の視点の映画なのだ。『私はモスクワを歩く』の試写の際、この俯瞰ショットにケチが付いた。政府が細心の注意を払っている<写ってはいけないもの>が写っているのではないか、と危惧したのだ。

冷戦時のソ連映画は、非常に厳しい検閲を受けて公開にたどりつく。その全容はなかなかわからないものの、映画関係者の証言などから興味深い状況を知ることができる。映画監督のイゴール・イエルツォフは「(政治に関わる映画委員会の検閲よりも)軍の検閲のほうが楽だった」と述べている [7]。軍はあらかじめ、フレームに入ってはいけない建造物などを指摘してくれるからだ。軍の検閲でなくても、実際の土地に関する情報はすべて誤魔化すか、偽の情報にする必要があった4)。理由は不明だが、正確な日付のカレンダーも撮影禁止だったようだ。イエルツォフは、ある映画の撮影で正確な日付のカレンダーが写り込んでいたために結局お蔵入りになってしまったことがあると証言している。

『私はモスクワを歩く』が、実際にどのような検閲を受けたかは調べた限りではわからなかった。前述のように、この映画にはモスクワのドキュメンタリーのような感触がある。しかし、冒頭の地下鉄の場面でヴォロージャが尋ねる場所は実在せず、ラストの地下鉄の駅は「大学駅」のホームでの別れのシーンも辻褄が合わない(当時の大学駅はソコーリニチェスカヤ線の終点)[9]。コーリャの家の前にある印象的なカフェも映画のために作られたセットだった。観光要所以外は、<本当の>モスクワをはぐらかしているような印象を受ける。

この<はぐらかし>が『私はモスクワを歩く』の底に流れているような気がしてならない。<狙い>は、鬱陶しい政治的なテーマは漂白して「生」を祝福することではなかったか、と述べたが、その<狙い>自体が極めて政治的だったように思えるのだ。たとえば、夜のモスクワを写していくモンタージュで、プーシキンの像、ゴーゴリの像、マヤコフスキーの像、と順番につなげている。1961年に、このマヤコフスキーの像の下でゲリラ的な詩の朗読会が繰り広げられ、KGBによって弾圧された事件が起きている。すると、このモンタージュは、ロシアの文学の歴史───プーシキン、ゴーゴリ、マヤコフスキー───の延長線上に若い詩人たちの活動があることを暗に示していると思うのは、深読みしすぎだろうか?

この映画が公開されたとき、登場人物たちの<考えの浅さ>を批判する批評家たちもいたという(I・S・レヴシナなど)。しかし、何を考えているかわからない当局の考える通りに考えないと600人のインテリの前で激しくこき下ろされ、作品をズタズタにされるような環境で、どんな物語を語ることができるのだろう?何も考えていないような登場人物たちにモスクワ案内をさせつつ、<はぐらかした>向こうにうっすらと、詠みたい詩を詠み、行きたいところに自由に行きたいと願う若い世代がみえるような、そんな作品をねらったのではないだろうか。

そういえば、この映画で検閲を受けた箇所についてダネリヤ監督が自伝でエピソードを紹介しているらしい。あの印象的な主題歌の歌詞の一節「だれと行くかまだわからない」は、もともと「どこに行くかわからない」だったという。文科省の役人が「どこに行くかわからない」では、亡命を示唆していることになると指摘したそうだ。

 

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-Njn0r40X_Y] 

エデュアルド・ヒーリ「私はモスクワを歩く」 1967年

フルシチョフ時代の終焉とホロコースト

『私はモスクワを歩く』でコーリャが向かいのアパートを指差して「あそこにプーシキンが昔住んでいたんだよ」というシーンがある。実際にプーシキンの住んでいた家の近所で育った映画監督がいる。ミハイル・カリク監督だ [10]

カリクは1949年にVGIK(全ソ国立映画大学)に入学、しかしすぐに強制労働収容所(グラグ)に送られてしまう。ユダヤ人だからである。1953年、スターリンの死後に解放されて、VGIKに戻った。1958年に監督としてデビュー、『太陽を追う男(Человек идёт за солнцем, 1961)』で注目された。その次の作品、『グッドバイ・ボーイズ!(До свидания, мальчики!)』は1960年代のソ連映画のなかでも最も叙情的でかつ実験的な優れた作品のひとつだと言ってよいはずだ。しかし、公開時の検閲問題に加えて、ソ連崩壊後もカリクとロシア当局のあいだでトラブルが続き、結局カリクが望んだかたちで日の目を見ることもなく、また現在でもロシア以外の国ではほとんど知られていない映画となっている。

これも、3人の少年、ヴォロージャ、サーシャ、ヴィーチャ(『私はモスクワを歩く』と紛らわしい)が主人公たちだ。舞台は黒海沿岸のリゾート地、エフパトリア、時代は1930年代なかばである。この3人が軍事学校に推薦され、本人たちは行く気満々なのだが、それぞれの親が(なにかを察して)行かせまいとする。特にユダヤ人のサーシャは困った事態になってしまう。だが、最後には親を説得して、陸軍学校に旅立つ───それだけの話だ。このストーリーに、少年たちの大人への通過儀礼、ヴォロージャとガールフレンドの不器用な恋愛、黒海のリゾートでののびやかな風景が重なっていく。その一方で、この青年たちがやがて行くことになる第二次世界大戦の序章がドキュメンタリー・フィルムとして挿入されていく。母親がヴォロージャを見つめていると、『意志の勝利(Triumph des Willens, 1934)』が突然挿入される。ヴォロージャとガールフレンドが将来について語り合っていると、ユダヤ人の絶滅収容所のフィルムが入ってくる。挿入されるフィルムは、青年たちの未来を暗示するフラッシュ・フォワードとなり、その絶望的な事態がのどかな海岸の風景と衝突していく。そして少年たちの陸軍学校行きが決定したとき、悲劇的な字幕が挿入される。ヴィーチャは戦死し、サーシャは「1956年に死後名誉回復」。この字幕は本当にみごとだ。この映画で語られた物語の結末としても、そして歴史の記憶としても、油断していた鑑賞者を床にたたきつけるような衝撃がある。

ボリス・バルターの原作をもとにした脚本をカリクがモスフィルムに持ち込んだのは1963年のことだった [10]。前述のようにこの年はソ連映画界にとって激動の年だ。そこにユダヤ人粛清を糾弾する内容の脚本を持ち込んだのだから、騒ぎになった。オリジナルの脚本では、サーシャの死に関しては「1952年に医師の粛清の際に逮捕され、収容所で死んだ」と更に直接的に表現されていた。これにはモスフィルムの評議会も頭を抱えてしまった。アンドレイ・タルコフスキーもこの字幕はまずいと助言した。結局、アレクサンドル・アロフとウラジーミル・ナウモフの二人が現在の「1956年に死後名誉回復」の字幕にしてはどうかと示唆した。これならば「わかる人にはわかる」。脚本はゴスキノで了承され、撮影に入った。

カリクはドキュメンタリーのフィルムをアーカイブから取り寄せて検討したが、「ソビエト国内でのホロコーストを記録したフィルムは存在していない」ことに気づく。実際、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・虐殺にしても、その様子を撮影したフィルムが存在するわけではない。あくまで強制収容所や絶滅収容所が解放された際に連合軍によって撮影されたフィルムのみが存在する。『グッドバイ・ボーイズ!』に含まれるフィルムは、大部分がナチス・ドイツの収容所の解放時のものだ。

『グッドバイ・ボーイズ(1965)』

 

1964年9月にモスフィルムの評議会で『グッドバイ・ボーイズ!』の試写が行われた。概ね良い反応だったが、やはりドキュメンタリーのフィルムの挿入部分に懸念が示されたのと、労働者たちが一輪車を走らせるシーンが問題視された。これはスタハノフ運動に代表されるソ連の<労働賛美>を揶揄していると解釈されるのでは、と心配したのだ。もちろん、それがカリクの狙いそのものだった。このシーンに関してはカリクはあちこち少しずつカットして諧謔のトーンを抑えたという。そうしてフィルムはゴスキノに承認を得るために送られた。

ゴスキノでは、ドキュメンタリーのフィルムに現れるフルシチョフ第一書記の部分を削除するように求められた。カリクはすぐに応じ、『グッドバイ・ボーイズ!』は10月8日にゴスキノの承認を得た。

そのおよそ1週間後の10月14日に、フルシチョフは降格され、ブレジネフが権力の座についた。

ゴスキノは新しいブレジネフの政権にどう対応したら良いのか見当もつかないまま、とりあえず「新政権が気にいらない可能性があるものはすべて削除する」という方針で動き始めた。そして<労働賛美>を揶揄するシーンは削除するようカリクに求めたのである。だが、カリクは「一度承認したじゃないか」と反論、ゴスキノとカリクのあいだにできた溝は埋まらず、映画の公開は宙に浮いてしまう。

ゴスキノはカリクとその作品を公開の場で弾劾することにした。1965年6月17日に、自動車工場の労働者を集めて『グッドバイ・ボーイズ!』の試写会をおこなった。上映後、おそらくあらかじめ準備されていた発言者たちが口を揃えて「労働をバカにしている」と述べ、失敗作と罵った。カリクはその場は耐えたものの、問題のシーンの削除については同意せず、結局モスフィルムでナウモフが編集し直してなんとか公開にこぎつけたという。

この一件で、カリクの映画監督としての生命は極めて危ういものとなってしまう。リガの映画スタジオにコンサルタントとして左遷され、それでもいくつかの作品を撮った後、1971年にイスラエルに移住した。

この『グッドバイ・ボーイズ!』は、どこかで『私はモスクワを歩く』と重なっているように思われる。もちろん、エフゲニー・ステブロフがどちらの映画でも存在感を放っているのだが、名前も同じ少年たち、そのうちの一人は徴兵される身であること、近所にあるプーシキンの家、夜のコンサートで聞く異国の音楽、ひとつ無駄になるアイスクリーム、など、シュパリコフとカリクの描く物語はあちらこちらでつながっているようだ。しかし、一方の若者たちは戦争と独裁で悲劇的な結末を迎えるが、もう一方の若者たちは将来に希望をもっている。

私には、1950年代から60年代にかけて東欧とソビエト連邦で作られた映画について「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ぶのはためらわれる。チェコのヌーヴェルヴァーグ、ポーランドのヌーヴェルヴァーグ、ソ連のヌーヴェルヴァーグ・・・それは、あのフランスの、フランス国内でも恵まれた男たちが作った映画とひとくくりにしていいものなのか。ひとくくりが言い過ぎなら、なにか似通ったものと考えていいのだろうか。若者たちが前の世代に反抗して、新しい、みずみずしい映像を撮り始めた、という図式だけで、フツィエフやヘルツ、ダネリヤ、メンツェル、カリクを見ていいのだろうか。ジャック・タチの『プレイタイム(Playtime, 1967)』のオープニングショットが、『私はモスクワを歩く』のオープニングショットへのオマージュだと言われているように、フランスからソ連、ソ連からフランスへの影響もあっただろう。だが、見えているものが「似ている」ような気がするのは、ただ気がするだけに過ぎないのではないだろうか。「雪解け」と言っても、本当に溶けて消えたわけではなくて、ただ溶けてまた凍っただけではないか。

しかし、まだまだわからないことのほうが多い。『グッドバイ・ボーイズ!』にしても私は描かれていることの半分もわかっていないみたいだ。この撮影をつとめたレヴァン・パタシヴィリがグルジアで撮影した作品群は興味をそそられるものが多いし、音楽を担当したミカエル・タリヴェルディエフはソ連の映画音楽においては重要な存在だ。『私は20才』の撮影監督マルガリータ・ピリキナの技術は壮絶だ。にもかかわらず、いろんなことがわからない。

ひとつひとつ解きほぐしていくしかなさそうだ。

 

 ところで、『私はモスクワを歩く』に登場した日本人「ウノ・マサアキ」はどういう人物で、どういう経緯で出演したのだろう?知っている方がいたら教えてほしい。

 『私はモスクワを歩く』の製作背景や経緯についてはロシア語のWikipediaが詳しく記載しているようだ。これらの記述の大部分は、最近出版されたゲオルギー・ダネリヤ監督、ニキータ・ミハルコフ監督の自伝、ゲンナギー・シュパリコフの伝記などに負うところが大きいようだ。興味深いエピソードも多い。例えば、有名な「夏の雨の中を裸足で歩く女性と自転車の男性」のシーンは、3日間にわたって撮影され、3人の女性が演じていること、また、ミハルコフが俳優未経験にも関わらず、高いギャラを要求してダネリヤがクビにしようとしたことなど、意外なことが書かれている。 

ここに挙げた映画のいくつかはオンラインで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』と『グッドバイ・ボーイズ!』はモスフィルムのYouTubeチャンネルで視聴可能である。

『私はモスクワを歩く』(英語他字幕あり)link

『グッドバイ・ボーイズ!』(字幕なし)link

Vimeoに英語字幕付きバージョンがある。

『グッドバイ・ボーイズ!』(英語字幕あり)link

『偉大なる運命の都市』は字幕はないが、非常に楽しい映画だ。

『偉大なる運命の都市』(字幕なし)link

 

 

Footnotes

1)^ この最後のセリフがだれのものなのか、はっきりしない。アフレコで入れられたセリフなのだが、誰の口も動いていないからだ。

2)^ アシュケナージの名前が、ソ連の公式記録から抹消されるのはこの映画の数年後である。1970年頃からアシュケナージはメディアでソ連批判をはじめた。すると、チャイコフスキー国際コンクールの歴代優勝者のリストから名前が消えたという。

3)^ このとき日本から参加していた審査員は牛原虚彦。

4)^ ソ連当局が国内外に向けて発行していたソ連地図は意図的に都市、道、鉄道、河川などをずらして記載してあった。一方で軍が保持していた地図には、世界中の都市や要所についての情報が極めて正確に記載されていた。

References

[1]^ J. Parrott, Beyond Frontiers. New York : Atheneum, 1985. link

[2]^ L. H. Cohen, “The Cultural-Political Traditions and Developments of the Soviet Cinema,” Carleton University, 1973. link

[3]^ P. Sjeklocha and I. Mead, Unofficial Art in the Soviet Union. Berkeley, University of California Press, 1967. link

[4]^ W. Taubman, Khrushchev: The Man and His Era. W. W. Norton & Company, 2004. link

[5]^ “Студия СВС – Завершенные проекты,” Mar. 18, 2017. link

[6]^ G. B. Miller, “Reentry Shock: Historical Transition and Temporal Longing in the Cinema of the Soviet Thaw,” University of Oregon, 2010. link

[7]^ M. Dewhirst, The Soviet Censorship. Metuchen, N.J. : Scarecrow Press, 1973. link

[8]^ Priscilla Johnson and Leopold Labedz (Eds.), Khrushchev and the Arts: The Politics of Soviet Culture, 1962–1964. MIT Press, 1965. link

[9]^ “Walking the Streets of Moscow: City in Georgy Daneliya’s films,” Moscow City Web Site. link

[10]^ O. Gershenson, The Phantom Holocaust: Soviet Cinema and Jewish Catastrophe. Rutgers University Press, 2013.

「富める者への手紙、貧しき者への手紙」

Night Mail スコア

1930年代後半、イギリスのドキュメンタリー映画は、ジョン・グリアソン(John Grierson, 1898 – 1972)のGeneral Post Office Film Unitによって革新的な展開を見せるが、そのなかでもブラジル生まれの映画監督アルベルト・カヴァルカンティ(1897 – 1982)が果たした役割は大きい。彼は、GPOではサウンドトラック担当であったが、その音像世界は、今聞いても斬新なものだ。当時、大学を卒業したばかりのベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten, 1913 -1976)が作曲している作品もあり、W・H・オーデン(W. H. Auden, 1907 – 1973)がまるでヒップホップのように詩を詠唱する『夜行郵便列車(Night Mail, 1936)』は圧倒的なスピード感がある。

面白いことに、『黒水仙(Black Narcissus, 1947)』などで知られるマイケル・パウエル(Michael Powell, 1905 – 1990)は、ドキュメンタリー映画を非常に嫌い、そのことを公言してはばからなかった。

私はドキュメンタリーが好きではないし、一度も好きになったことがない。私はいつもイギリスの映画作家と言い合いになってしまう。彼らがドキュメンタリーの製作することに随分とプライドを持っているからだ。・・・25年間もドキュメンタリーを作り続けて、いまだに連中はストーリーを語ることができない。

マイケル・パウエル インタビューより

(W・H・オーデンとベンジャミン・ブリテンのコラボレーションについて)
マイケル・パウエルが「長編映画を作れなかった人間や失業した詩人」の吹き溜まりだと言って、ドキュメンタリーのジャンルを一笑に付したとき、この2人のコラボレーションのことを考えていたのである。

A History of Film Music, Mervyn Cooke

1930年代が、パウエルにとって不遇の時代だったことを考えると、その頃に「風変わりな」ことをやって、批評家達の注目を浴びたGPOのクリエーター達を面白く思わなかったのかもしれない。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ska67lN4Wxw]

『夜行郵便列車』Night Mail, 1936

GPO Film Unit 製作
Dir. Basil Wright, Harry Watt
Soundtrack: Cavalcanti
Music: Benjamin Britten
Poem: W. H. Auden

ニック・カーターとその時代

Nick Carter Stories, 1915年2月6日, 126号
Archive.orgより

歴代のフィクションの探偵のなかで、週刊誌、映画、小説、ラジオにまで登場し半世紀にわたって最も人気があったにもかかわらず、今はすっかり忘れ去られているキャラクターがいる。1886年にデビューしたニック・カーターである。

ニック・カーターは、ストリート&スミス社が創りだした、鋭い頭脳と強靭な身体能力を備えもつ、スーパー・ヒーローである。彼は変装の天才でフランス人の役人から日本人にまでなりきることができる。3言語の読唇術は朝飯前だ。それに彼は紳士で酒も飲まなければ、タバコも吸わない。このキャラクターが、大活躍する短編小説が毎週発行され、飛ぶように売れた。だが、これはある一人の作者が創りだしたキャラクターではない。私達は、フィクションの探偵というと、コナン・ドイルがシャーロック・ホームズをベイカー街に生み落としたように、アガサ・クリスティがエルキュール・ポアロにフランス訛りの英語を喋らせたように、一人の想像力豊かな作家が造形するのが当然だと思っている。しかし、ニック・カーターは、ストリート&スミスの編集者たちが編み出したキャラクター像にあわせて、請負の作家が安い原稿料で書いたものであった。

19世紀後半から20世紀初頭までのパルプ・フィクション全盛の時代には、このシステムが多くのジャンル小説に採用されていた。実際に、どんなプロセスだったのか。『パブリッシャーズ・ウィークリー』の1892年8月号に、その実態を調査した記事が掲載されている [1]。

ニューヨークの裏通りにある、「文学工場」と呼ばれるこのオフィスには、30人以上の女性が雇われている。彼女達の仕事は、アメリカ中の日刊紙、週刊誌を読むこと。彼女たちは、そのなかから「奇妙な話」、多くの場合、都市で起こる事件を選び抜いて集め、それをマネージャーに手渡す。マネージャーたちは、そのなかから、面白いネタになりそうなものを更に選び出し、それを5人の非常に優秀な女性ライターに渡す。彼女たちは、その厳選された「奇妙な話」の骨格を抜き出して、プロットを書き出すのだ。

この「骨格だけのプロット」はチーフマネージャーに渡される。チーフマネージャーは、100人を超える契約作家たちのなかから選び出した候補者に、内容、章数、文字数、納期とレート(原稿料)を指定して連絡を入れる。それらの契約作家の中でも優秀な者はペンネームで作品を発表されるが、その優秀な作家だけでは、とても消費者の需要を満たすことができない。そこで、安いレートでゴーストライターたちに書かせていた。多くの場合、1語1セントかそれ以下であった。これらのゴーストライターは、昼間の仕事を持ちながら、夜や休日に小説を書く者達がほとんどであったという。

ニック・カーターのキャラクターで発行された小説は、1000冊を超えると言われている。1940年代のラジオ番組は、同じくドラマ『シャドウ(Shadow)』と共に、黄金期のラジオミステリードラマの代表番組である。そのニック・カーターが、今は本国のアメリカでさえほとんど忘れ去られてしまい、パルプ・マガジンの時代は1920年代から始まる、と誤解されている。たとえジャンル小説とはいえ、「作家」が見えないものは、「作家」の存在を強く望む世紀を通り過ぎていく間に、「作品」も見えなくなっていったようだ。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=foVJ38Q-1hM]
UNKNOWN HOLLYWOODのトークで流す予定だった動画。
この時代のニック・カーターは、マシンガンを撃ちまくっている。

References

[1] John Walton “The Legendary Detective: The Private Eye in Fact and Fiction”

パセーイク・テクスタイル・ストライキ

『ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代償(The True Cost, 2015)』は、Zara、H&M、ファーストリテイリングなどのいわゆるファストファッションの擡頭によって、壊滅的な「変革」に曝された繊維・衣料業界についてのドキュメンタリーである。グローバリズムの下に、劣悪な環境で劣悪な賃金・労働条件で労働する人たち(主に女性)の実態をとらえていく。製作者らは(主にアメリカの)消費者が、この生産者たちの状況を知らないことを踏まえ、テーマの一つとして「あなたの服を作っている人を知ろう」という点を挙げている。

今から90年前に、同じ言葉で始まるドキュメンタリー映画がアメリカで製作されている。

『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ(The Passaic Textile Strike, 1926)』は、ニュージャージー州パセーイクで起こった労働争議を、労働者運動の側からとらえた極めて珍しいドキュメンタリーだ。

1890年のマッキンリー関税法、1897年のディングリー関税法によって、外国の経営者によるアメリカ国内での工業生産が加速した。パセーイクはオランダ系移民が作った町で、20世紀のはじめにはアメリカ東部の繊維産業の中心地の1つであった。その大部分は(海外の)ドイツ人によって経営されており、その一方で、労働力の大部分は移民かマイノリティであった。人種、宗教などの違いによって、労働者がコミュニティとして分断されていること(またそうなるように経営者が募集した)を利用して、経営者は労働力のコストを大幅に抑制し続けた。特にそこで働く女性たちの給与は低く、自立はもちろん、生活自体が維持できないレベルであったという。それに加えて、繊維くずによる呼吸系の病気なども多発しており、明らかに死亡率が高くなっていた。パセーイクでは、就労機会への不安を煽ることで、労働者の基本的人権の遵守がなされないという、典型的な雇用の不均衡が起きていた。さらに、第一次世界大戦でのドイツの敗北にもかかわらず戦後もドイツ人による経営が再開され、生産の機械化によって労働者の地位は更に低くなっていった。

1925年10月の経営者による「賃金10%カット」の通告を受けて、パセーイクでの最初のストライキが始まった。その後、労働組合教育連合(Trade Union Educational League)と労働者党(共産党, Worker’s Party)の指導のもと、15000人以上の労働者が1年以上にわたってストライキを行った。結局、労働者側の敗北に終わったこの労働運動は、アメリカ共産党によるはじめての運動であるとともに、その後の労働組合と共産党との関わりに大きな遺恨を残したと言われる。

このストライキを継続するための資金の一部は共産党から出資されていたが、一方で資金を獲得するために、労働者が置かれている状況を宣伝する必要があった。パセーイク繊維労働者統一戦線委員会を率いていたアルバート・ワイスバーグは、資金調達のための宣伝手法として、映画製作を行うことを決定、アルフレッド・ワーゲンネクトが実質的な製作担当として撮影が開始された。

この作品は、長い間「失われた映画」と思われていた。映画史研究家のケビン・ブランロウは、「もうこの映画は見ることができないだろう」とずっと思っていた。ニューヨーク近代美術館を訪問した時、アイリーン・バウザーに「そういえば『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ』のプリントが見つかったのよ」と言われて卒倒するほど驚いたらしい。この映画は全7巻であるが、完全な形で現存するのは、第5、7巻を除く5巻である。第5リールはその後、かなり劣化した状態で見つかり、修復されて米国国会図書館に保管されている。

この5巻をNew Jersey Research and Education Networkが運営するNJVID.NETで見ることができる。

最初の30分くらいは、労働者たちによる「実態」の再現ドラマである。経営者(現場レベルのマネージャーのようだが)による(未成年への性的暴行を含む)暴虐と、それによって崩壊していく労働者の家族がメロドラマ的に描かれていく。だが、その再現ドラマから突然、工場前のピケを映した映像に変わって、私たちは1926年のニュージャージーのくすんだ風景に放り込まれる。記念写真撮影のように並んでニコニコと笑う女性たち、ピケをはって練り歩く人の群れ、カメラマンに向かって手回しクランクを回す真似をしてみせる男、大人の群れを見入る子供、カメラの前に並んでいるのに兄弟にちょっかいを出す青年。いずれは離れ離れになってしまったであろうその人々の、少しだけ望みが見えた気がした日々。警棒やガスによって、やがてやって来る不況によって、潰されていった笑顔の撮影記録である。

この映画は、製作途中から、パセーイクの労働者を集めて上映会を開いたりしていた。完成後は、幾度か上映されたようだが、結局コミュニティの外への発信力は極めて低く、資金調達の目的は果たせなかった。その後、映画の上映用プリントは共産党事務局に保管されたまま忘れ去られてしまっていたようである。

このストライキの時に共産党員だったマーサ・アッシャーは、1980年代にパターソン・コミュニティ・カレッジでこの映画を上映した。学生の中にはパセーイク出身の黒人のティーンエイジャー達もいた。彼らは、(普段見慣れていないサイレント映画にもかかわらず)スクリーンをじっと見つめ、メモを取りながら見たという。「こんなことが自分たちの町で起きたなんて信じられなかったみたいね」とアッシャーはインタビューで語っている。

Reference

Kevin Brownlow, “Behind the Mask of Innocense”, University of California Press, 1990

アレキサンダー・ハミッドの「あてなき彷徨」

  マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

 


  プラハの街。路面電車。男。そして路面電車は男を郊外へ連れて行く。わずか8分程度の作品だが、手持ちカメラの映像と鋭い編集が澱むことの無い流れを作っている。当時のフランス、ドイツ、ソ連の映像芸術からの影響も勿論見えるが、構図やシルエットの撮り方は非常に新鮮だ。

  アレキサンダー・ハミッドはIMDBによれば本名アレキサンドル・ジーグフリード・ゲオルグ・シュマエル(Alexander Siegfried Georg Smahel)、オーストリア・ハンガリー帝国のリンツに1907年に生まれた。1930年代にチェコスロバキアの前衛映像運動の旗手として注目され、「あてなき彷徨」のほかにも「プラハの城(Na Prazském hrade, 1931)」を監督・撮影している。これはぜひとも見たい作品の一つだ。この頃はアレキサンドル・ハッケンシュミードという名で活動している。この作品の製作はラディスラフ・コルダ。戦前のチェコ映画界における重要な役割を果たした人で、ヘルミーナ・ティールロヴァーなどの作家を支持し、チェコ人形アニメの基礎を築いたと言われている。

プラハの城(1931)

  靴のブランドで有名なバタ(Bata)の経営者、ヤン・アントニン・バタが、1930年代に映画撮影所バタ・フィルム・スタジオを設立する。そのスタジオは若い映像作家達を呼んで様々な作品を製作させたが、ハミッドはその中心的人物だった。そのスタジオの作品はコマーシャルも多く、その作品のひとつにアレキサンダー・ハミッドと若きエルマール・クロスが監督したタイヤのコマーシャル「ハイウェイは歌う(Silnice zpivá, 1937)」がある。

ハイウェイは歌う(1937)
  さらにナチスのズデーテン地方の分割から存亡の危機に陥ったチェコスロバキア政府が製作した「危機(Krize, 1939)」の共同監督もつとめた。この後、ナチスのチェコ併合とともにハミッドはアメリカへ亡命、マヤ・デレンと出会うのだ。
  実は、UNKNOWN HOLLYWOODの第3回「封印されたプロパガンダ」のトークの際に使用した資料映像のひとつ、「国家の賛歌(Hymn of Nations, 1944)」はアレキサンダー・ハミッドが監督だった。すっかり見落としていた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=_O-7j9kHWrc]

  彼はその後もドキュメンタリーの分野で活躍し続ける。1960年代に「トゥ・ビー・アライブ!(To Be Alive!, 1964)」という同時に3画面に映写する作品を監督、さらに1976年にIMAXフォーマットのドキュメンタリー「トゥ・フライ!(To Fly!, 1976)」の編集も担当している。

  しかし、この映画作家達の有機的なつながりはなんだろう。IMAXからチェコアニメまで。その中心にアレキサンダー・ハミッドはいる。

Alexander Hammid“, MUBI
Modernity and Tradition; Film in Interwar Central Europe“, A film program offered in association with the exhibition Foto: Modernity in Central Europe, 1918 – 1945, at the National Gallery of Art, Washington, 2007
Ladislav Kolda“, fbz.cz
The Birth of IMAX“, Diane Disse

列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。
この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。

厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。
特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。
ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。

【参考】
“Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand”、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号