赤外線フィルムの時代

Star-Gazette (New York) 1942/1/5

第二次世界大戦前後の映像技術や工学をながめていると、この頃から、《見えるもの》と《見えないもの》の境界を曖昧にするテクノロジーが徐々に社会に浸透し始めている様子が見えてくる。可視の外側の現象が、平然と可視の領域に滑り込んで、ヒトは自らの知覚が広がったかのような錯覚に囚われ始める。この錯覚は時としてとても危険なものになりうるのだが、視覚に不自由を感じないヒトはすべての感覚のなかで視覚を無防備に無批判に信望していて、その危なかっしさを見逃しがちである。

このテクノロジーを支える基盤となったひとつが真空技術だ。真空技術の成熟は、水銀灯、CRT、光電子増倍管などの装置の製品化に不可欠だった。また、1910年代に登場したボーアのモデルが、物質と分光を直接的につなげる役割を果たし、例えばその後の写真技術の展開に極めて大きな影響を与えた。《近代的な》分光測定装置が登場し始めたのも1940年代だ。物質をモデルで考察し、そのモデルの検証を測定する方法が広がっていた時代である。そうして、赤外線や紫外線、さらには電子線が身近な ──科学者にとってだけでなく、一般人にとっても── ものになっていった。

赤外線フラッシュ写真

アメリカが第二次世界大戦に参戦し、都市部に消灯令が発令され、闇が街を覆うようになると、当時の新聞カメラマンたちは、それをなんとかして《絵にしよう
visualize》とした。彼らは当時の最先端技術 ──コダックやデュポンが売り出した赤外線に反応するフィルム[1]と赤外線フラッシュ── を駆使して、夜の街に蠢く人々を撮影しはじめた。消灯令下では、まったくの漆黒の闇に包まれてしまって肉眼では見えにくい街の風景を、赤外線フラッシュ写真はあたかも鮮明に見えているかのごとく写し出す。

Daily News (New York) 1942/3/16
Pittsburgh Press (Pittsburgh) 1942/6/26
Chicago Tribune (Chicago) 1942/8/13

赤外線フラッシュ写真に写っているのは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」の暗い街角で遊んでいる人々だ。あの絵に描かれた暗い通りや闇に沈んだ建物の部屋を赤外線で照射すると、笑っている男や、キスしている男女が浮かび上がるのかもしれない。

ウィージーも1940~50年代に赤外線フラッシュ写真が映し出す《闇の中》に興味を持った写真家の一人だ。彼も1942年、消灯令の最中に赤外線フラッシュ撮影をはじめた。ウィージーはその後、映画館や劇場などの暗闇のなかの人々を隠し撮りするようになった。スタンリー・キューブリックも同じようにニューヨークの夜に蠢く人々を隠し撮りしている[2]。闇のなかで、人々が他人の視線を忘れて見せる姿、そういったものをフィルムに映し出す行為は、吉行耕平の『ドキュメント・公園』まで受け継がれていった。近年注目を集めている夜間の動物たちの行動を撮影する「トレイルカム」は、この延長線上にあるのかもしれない。ただ、哺乳類の生態観察として、ヒトが夜中の公園で性行為にふける様子などを覗き見するのは、もう驚きも面白みも失われ、それよりは、自分の庭先に突然現れるタヌキを観察するほうがよほど感動的になったようである。

赤外線フラッシュ写真も、通常の撮影と原理は同じで、フラッシュが発光した光を被写体が反射、反射光がフィルムに届いた部分が感光する。普通の写真と違うのは、発光される光が赤外線で、フィルムが赤外線に反応するという点だ。赤外線フィルムといっても、実際には近赤外の領域のごく一部までしか感度がない。さらにフィルムの製造元各社のあいだで設計がそれぞれ異なっており、最も人気があったコダックのHIE/HISシリーズのネガフィルムは最も広く赤外線領域をカバーして、波長950nmまで感度があった[3]。コダックHIE/HISフィルムは、アンチハレーション層がないために、ハレーションが起きるのが特徴だった。

赤外線が見せる世界は、私達が普段接している可視光の世界と若干違うものが現れる。最も顕著な特徴の一つが、ヒトの眼が黒く大きく見えることだ(例えばこの写真)。ヒトの眼球が赤外線を吸収してしまい、フラッシュの赤外線が反射・散乱されないからだと言われている。一般的に「ヒトの眼球の大部分を構成する水が赤外線を吸収する」と言われるのだが、赤外線フラッシュ写真に関して言えば、眼球が持つ900~1100nmの赤外線吸収が引き起こすのだろう[4]。赤外線写真について著書のあるローリー・クラインは、フラッシュを使用しない赤外線写真で起きる眼の黒化について、眉と眼窩が直射日光を遮るため僅かな明暗の差が生じ、赤外線写真ではそれが拡大されるとしている[5, p.42]。この理論では被写体の正面からフラッシュを浴びせる赤外線フラッシュ写真でも眼の黒化が起きる理由が説明できないが、たしかに眼窩の構造が原因で十分な赤外線量がフィルムまで戻ってこない可能性もあるだろう。

ヒトの眼球と水の赤外線吸収スペクトラム
Gea60 : 眼球([6]に記載されているもの)
vitreous :
硝子体
aqueous : 房水
lens : 水晶体
cornea : 角膜
water
: 水(参照用)
[4]より

赤外線フラッシュ写真のもう一つの特徴は、赤外線は皮膚の下にかなり潜り込むので、毛根が写るという点だ。ウィージーのこの写真は赤外線の性質をよく表している。この男性はあきらかに頭頂部が禿げており、側頭~後頭部はきれいに剃っているのだが、その側頭~後頭部が暗くくすんでいる。下の図は皮膚のどの深さまで光が潜り込むかを示している。近赤外線が毛根を含めた奥深くまで入り込んでいるのが分かる。可視光にせよ、赤外線にせよ、写真に反映されるのは、潜り込んだ上にさらに反射・散乱されて戻ってきた光である。可視光の写真は皮膚の表面で反射されたものが大部分を占めるのに対して、近赤外線を使った写真では、毛根くらいまで潜り込んだ光がフィルムまで戻ってくる。ウィージー写真に写された男性は、剃ったところの毛根が赤外線を吸収してしまってフィルムまで戻ってこないため、暗くなっているのである。

光の各成分が皮膚の下どこまで潜り込むかを示した模式図
NIRが近赤外
[7]より

ちなみに、髪が黒く見えるのは髪に含まれる色素メラニンが可視光を吸収するからだが、メラニンは赤外光もかなり吸収する。

メラニン、オキシヘモグロビン、水の可視光~近赤外吸収スペクトラム
[8]より

可視光で見た《見た目》など、ごく表面的な情報にすぎない。

新聞カメラマンたちは赤外線フラッシュ写真で夜の人々を撮影したが、1940年代末の一時期、ハリウッドのカメラマンたちは赤外線フィルムを使用して昼の風景を夜に見せかける、“Day for Night” の撮影をしていた[9]。このテクニック自体は1920年代から存在したが、『アパッチ砦(Fort Apache, 1949)』以降、ちょっとした流行になった。特にユニバーサルの製作主任、ジム・プラットがスタジオで撮影される作品に次々と導入していったようである(1)
。ウィリアム・キャッスル監督の”Johnny Stool Pigeon (1949)”
はその一連の作品のうちの一作で、メキシコの国境の町、ノガレスのシーンをほぼすべて赤外線フィルムでロケーション撮影している。

“Johnny Stool Pigeon (1949)”の赤外線フィルム撮影
d. William
Castle
dp. Maury Gertsman
Johnny Stool Pigeon (1949)“の1シーン
Howard Duff
Dan Duryea
“Johnny Stool Pigeon (1949)”
上のシーンの撮影の様子[10]

大気中の粒子は波長の短い光を散乱していて、ゆえに空はヒトの眼には青く見える。一方で、波長の長い赤外線領域の光は散乱されにくく、赤外線フィルム撮影では、晴れた空が暗く映る。これが、“Day
for Night”
撮影に赤外線フィルムが使用された最大の理由だ。だが、ここでも赤外線領域でヒトの眼には見えていない物理現象が数多く起きている。最も顕著に違うのは葉緑素を含む植物の葉だ。植物の葉は可視光域の光を極めて効率よく吸収しているが、近赤外線はほとんど反射している。“Johnny
Stool Pigeon” や “Abandoned (1949)”
で林や並木の葉が白く写っているのは、植物のこの性質によるものだ。

“Johnny Stool Pigeon (1949)”
“Abandoned (1949)”
d. Joseph H. Newman
dp. William H. Daniels
植物の典型的な可視光~近赤外~赤外の反射スペクトラム
[11]より

新聞カメラマンたちの赤外線フラッシュ写真は、フラッシュが発する赤外線が対象物に当たって反射される様子を撮影する。《夜》を《夜》として映し出す手法だ。しかし、赤外線フィルムを使った
“Day for Night”
撮影は、太陽光が照らす風景から赤外線だけを抽出している。そのやり方で、監督や撮影監督は《昼》を《夜》だと嘘をつこうとした。空には鮮明に縁取られた雲が浮かび、舗道には並木の蔭が映り、葉は白く浮き上がっている。太陽までもが満月にすり替えられる。この偽ジョルジョ・デ・キリコの世界は、当時の観客に対しては《夜》としての説得力も魅力もなかったのだろう。すぐに廃れていってしまった。

だが、赤外線フィルムで撮影された映像を《夜》の風景だと思う必然性はどこにもない。“Johnny
Stool Pigeon”
のノガレスの町の風景は、ヒトにはふつう見えない世界なのだ。形式的な異化
defamiliarization
によって私たちが慣れ親しんだ可視光の認知を混乱させるやり方だ。この認知の混乱を新しい国家の再定義に利用しようとしたのが『怒りのキューバ(Soy
Cuba,
1964)』である。赤外線フィルムで撮影されたサトウキビの《白》は窓からまかれる革命のビラの《白》と呼応するはずだったが、モスクワは好感を示さなかったと言われている。この作品を発見したのが、アメリカのシネフィルたちという暢気な有閑階級だったのは、彼らが映画を知覚のゲームとしてとらえているからだろう。

ヒトの網膜が知覚しているものは、眼の前にあふれているすべてのエネルギーのなかのわずかな部分でしかない。そう考えると、ヒトの思想や思考なんて誤謬だらけに決まっているではないか。

“Soy Cuba/I Am Cuba (1964)”
d. Mikhail Kalatozov
c.Sergey
Urusevsky

Notes

(1)^  この時期のユニバーサルの作品で赤外線フィルムを用いて撮影した作品として、“Sword
in the Desert (1949)”、 “Johnny Stool Pigeon (1949)”、 “Illegal Entry
(1949)”、 “Take One False Step (1949)”, “Abandoned (1949)”が挙げられる。

References

[1] W.
W. Kelley, “Making Modern Night Effects,”
American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 11, Jan.
1941.

[2] A.
A. Finney, “Weegee and Kubrick: The Infrared
Connection
.”
https://www.infrared100.org/2020/07/weegee-and-kubrick-infrared-connection.html.

[3] R.
Williams and G. Williams, “Reflected Infrared
Photography
: Films.”
https://medicalphotography.com.au/Article_03/02e.html.

[4] T.
J. Van Den Berg and H. Spekreijse, “Near Infrared Light
Absorption
in the Human Eye Media,”

Vision research, vol. 37, no. 2, pp. 249–253, 1997.

[5] L.
Klein, Infrared Photography: Artistic
Techniques
for Digital Photographers
.
Amherst Media, 2016.

[6] W.
J. Geeraets, R. Williams, G. Chan, W. T. HAM, D. Guerry, and F. Schmidt,
“The Loss of Light Energy in
Retina and Choroid,”
Archives of
ophthalmology
, vol. 64, no. 4, pp. 606–615, 1960.

[7] C.
Ash, M. Dubec, K. Donne, and T. Bashford, “Effect of
Wavelength and Beam Width on
Penetration in Light-Tissue Interaction Using
Computational Methods
,”
Lasers Med Sci, vol. 32,
no. 8, pp. 1909–1918, 2017, doi: 10.1007/s10103-017-2317-4.

[8] I.
B. Allemann and J. Kaufman, “Laser
Principles,”
in Basics in Dermatological
Laser Applications
, vol. 42, Karger Publishers,
2011, pp. 7–23.

[9] “Necsus | Beyond human
vision: Towards an archaeology of infrared images.”

https://necsus-ejms.org/beyond-human-vision-towards-an-archaeology-of-infrared-images/.

[10] L.
Allen, “They Do It with
Infrared,”
American Cinematographer, vol.
30, no. 10, p. 360, 1949

[11] M.
T. Kuska, J. Behmann, and A.-K. Mahlein, “Potential of
Hyperspectral Imaging to Detect and
Identify the Impact of Chemical Warfare
Compounds
on Plant Tissue,”
Pure and
Applied Chemistry
, vol. 90, no. 10, pp. 1615–1624, 2018.

エドワード・ホッパーと戦争

Edward Hopper, “Nighthawks” (部分)

エドワード・ホッパー(1882 – 1967)の「ナイトホークス Nighthawks」は、彼の最も代表的な作品だ。

ホッパーの最も有名な作品のひとつ、「ナイトホークス」は、夜の都会の生の光景である。場所は、彼がよく知っていたグリニッチ・ヴィレッジのダイナー。1940年代には蛍光灯の照明は比較的目新しく、ホッパーはその明るさを用いて、ダイナー内部を都会の暗い夜の安らぎのオアシスとして強調している。

Ita G. Berkow [1]

「ナイトホークス」の評には、<都会の孤独>、<寂寥>、<静寂>、あるいは<オアシス>、<光と闇>といった言葉が頻繁に現れる。また、ホッパーがアーネスト・ヘミングウェイの短編小説「殺人者(The Killers)」を大変気に入っていたことから、そこに登場するダイナーと関連付けて鑑賞する人も多い。1930年代~40年代はいわゆるハードボイルド小説の古典期にあたり、この絵にダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、そして当時のハリウッド映画とのパラレルを指摘する批評も存在する。さらに時代を下って、リドリー・スコットが『ブレードランナー(The Blade Runner, 1982)』のインスピレーションのひとつとして「ナイトホークス」を語っており、ネオ・ノワールの想像力の源泉として論じることも可能であろう。どんな切り口を持ってきても、興味と想像の領域が広がり続ける不思議な作品である。

私自身は、深夜のダイナーという日常的であるはずの光景が、どこか非日常的な世界に埋め込まれているように感じられ、その歪みのメカニズムがいつも気になっていた。

アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後に導入された消灯令(ブラックアウト)について様々な文献や資料、新聞などを読み進めるなかで、「ナイトホークス」についての以下の文章に遭遇した。

「ナイトホークス」はホッパーの世代が経験した最大の出来事のひとつ ── 1941年12月7日の真珠湾攻撃、そしてアメリカの第二次世界大戦への参戦 ── に対するホッパーの応答だということを、知る人は少ない。ホッパーは街のなかを歩き回るのが好きだったが、この局面を迎えたあとでは、まったく違う経験に感じられたに違いない。

Sarah Kelly Oehler [2]

「ナイトホークス」が描かれたのは1942年1月、真珠湾攻撃からまだ2ヶ月も経っていない時期である。ニューヨークは夜になると消灯令が頻繁に発令された。西海岸が日本軍の襲撃に神経質になるのはまだ理解できるとしても、東海岸の各州でも同様に色めきだっているのは過剰反応のように思える。ナチス・ドイツの爆撃機が編隊を組んで大西洋を渡ってくるという黙示録的な光景を皆が思い浮かべていたのだろうか。この頃、政府も軍も、そして新聞も足並みをそろえて、志願する若者たちを称え、遠い太平洋での危機を叫び、本土の安全保障に躍起になっていた。戦争は始まったばかり、実際の大規模な派兵もこれからというタイミングだが、国内には「戦争だ!」という高揚感ばかりが先走っていたようにみえる。そのなかで、消灯令は民間人ができる数少ない<参戦>であり、実際の効果や戦争への貢献は別として、都市部の人々が声を揃えて<活動>できる希少な機会だったのではないか。

当時の新聞や雑誌を見ていると、消灯令を守らない人たちを糾弾するとまではいかないまでも、愛国心に欠ける、怠惰な人々と揶揄する論調に覆われているのがわかる。例えば、消灯令の発令の様子を報じるロチェスターの新聞の記事は、ショーウィンドウの照明を消し遅れた店を取りあげて「消灯令の暗闇を台無しにした」と報じている。

消灯令下のロチェスター、ニューヨーク。
下の写真で右手の店が消灯をしていないために
通りが明るく照らされている。
”Democrat and Chronicle” 1941/12/15

この空気のなかでホッパーは「ナイトホークス」を描いた。描かれた街角は暗い。消灯令下で息をひそめている街角だ。その街角に佇むダイナーの大きなウィンドウから放たれる蛍光灯の光が闇と拮抗し、溶解している。現実のグリニッジ・ビレッジならば、このダイナーも周囲の店舗と同じように閉店して夜に沈んでいなければならないはずだ。「暗い夜の明るいオアシス」は戦時下の街角に存在してはいけない場所なのだ。

つい数週間前まで、深夜のダイナーが舗道を明るく照らす風景は<日常>だったに違いない。だが、開戦を境に消灯令の闇の街が<日常>になり、蛍光灯に眼が眩むようなダイナーは<非日常>になってしまった。<日常>と<非日常>が反転し、ありきたりだった光景が失われてしまった。背景に佇む建物の暗い窓、暗いショーウィンドウは、どこかで見たことがある。そう、『深夜の告白』のオープニングのロサンゼルスだ。ウォルター・ネフが瀕死の重傷を負いながら乱暴に運転して走り抜ける街、あのビルトモア・ホテルやヴィクトリー・スクエア・ドラッグストアの暗い窓、暗いショーウィンドウと、「ナイトホークス」の背景で佇んでいる暗い建物はつながっている。

「ナイトホークス」を制作する前の約1年間、ホッパーは精神的に絵を描けない状態にあったという。ケープ・コッドの別荘でも、ニューヨークのアトリエでも、ほとんど作品を仕上げていない。友人にはヨーロッパの戦況について「不安に苛まれる(suffer anxiety)以外、なにもできない」と書き送っている。その彼が真珠湾攻撃の直後に取り憑かれたように「ナイトホークス」を描きあげた。エドワード・ホッパーの妻ジョセフィーンがエドワードの姉、マリオンにあてた手紙が面白い。

エドは、爆撃されるかもしれないという話をしても、まったく聞く耳を持たない。私達の住んでいるところはガラスの天窓、雨が降ると屋根から雨漏りする。彼は用心するなんてまっぴらという感じで、私が、夜中にパジャマで外に飛びなさなきゃならなくなったときのために、タオルや鍵、石鹸に小切手帳、シャツ、ストッキング、ガーターをナップサックに詰めているのを見て鼻で笑っているだけ。消灯令が出ても、天窓にはカーテンをしていない。でもエドはおかまいなし。彼は新しい作品にとりかかっていて、じゃまされたくないらしい。

Josephine Hopper [3]

彼のアトリエは、消灯令の最中でも空に向かって煌々と光を拡散していたのだろうか。「ナイトホークス」のダイナーそのものではないか。

ジョセフィーンの手紙からは、国を覆い始めた偏執と熱狂をエドワード・ホッパーが冷めた視線でながめていたように見える。実際のところはどうだったのか分からないが、暗い消灯令のグリニッジ・ヴィレッジの街角に、煌々と明るいダイナーを描いたのは、ある種の抗いだったのだろう。

この作品はシカゴ美術館が$3,000で買い取り、1942年11月の展覧会でアダ・S・ガレット賞を受賞する。当時の評には、後世の批評家たちがこの作品を表現するときには使わないであろう語彙が登場する。

エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」は面白い(amusing)、時代にぴったりの(topical)キャンヴァスだ。

Eleanor Jewett [4]

「amusing」を「面白い」と訳すには難があるかもしれないが、この「amusing」は、どこか楽しい、ほっこりと微笑んでしまう、といった感じが漂う。これは孤独、寂寥、殺伐といった感傷とかけ離れているように聞こえるが、一方で<日常>のなかに<非日常>が埋め込まれた異譚の風景が呼び起こす言葉としてはおかしくないのかもしれない。

ニューヨークのエドワード・ホッパーは、作品「ナイト・ホークス」でアダ・S・ガレット賞を受賞、750ドルを手にした。この作品は、深夜の「即席メニュー」ランチルームをシンプルに、印象深く描いた絵画である。ランチルームの長く、水平にのびる抽象的なデザインが、緑、赤、灰色のあたたかい(warm)背景に映えている。

The Art Digest [5]

現在、この絵の背景を「warm」と表現する人はどれくらいいるだろうか。しかし、そう言われてもう一度見てみると、そうなのかもしれない。

2020年の初頭、コロナ/Covid-19が世界を襲い、世界の各都市で<ロックダウン>がはじまった。この頃、自分たちがおかれた状況をエドワード・ホッパーの作品になぞらえたTweetが注目された。

なかには、「ナイトホークス」のダイナーを<ロックダウン>の情景に変貌させたものもあった。

「私たちはみんなエドワード・ホッパーの絵の世界になってしまった」という退屈なSNSの皮肉を、深刻な面持ちで受け取った者などいないだろう。「ああ、そうだね」とどこか笑いながら、<amusing>だと思って見ていたのではないか。ホッパーの作品をmetaphysicalな空間 ──心象風景のようなもの── として体験しているあいだは、孤独とか、静寂といった語彙が共有されていたが、physical【物理的/身体的】な境遇として体験したとき、amusingなものに変貌したのは示唆的だ。時代とともに感性が変わったとか、過去の人々の視点は不自由だったとか、あるいは現在の私達の視点が不自由だとか、そういったわけではなくて、おそらく日常の営みの緩さを信じていた人たちが、ちょっと転ばされた時に感じる、怒りにもならない怒りや恐怖にもならない恐怖のようなものを受け流す、反射的な反応なのだろう。

ホッパーが、ヘミングウェイの「殺人者」やハードボイルド小説に影響を受けて「ナイトホークス」を描いたとする議論は、私には、後世の鑑賞者の願望的思考のように思えるが、同時代の映画監督でホッパーの絵画に影響を受けたと告白する者はいた。『悪の力(Force of Evil, 1948)』は、フィルム・ノワールと呼ばれる一連の作品のなかでも、もっともやりきれない後味を残す作品だが、監督のエイブラハム・ポロンスキーはインタビューでこう述べている。

僕はジョージ(撮影監督のジョージ・S・バーンズ)に自分が探している映像を説明しようとしたのだけれど、なんて言えばいいのかわからなくて、うまく伝えることができなかった。僕は本屋に出かけていって、ホッパーの画集を買ってきた。サード・アヴェニュー、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り ── そういう絵だよね。そこに人がいるのに、見えない。どういうわけか、周りの環境が人を支配している。僕はジョージに画集を見せて「こういうのが欲しいんだ」と言ったんだ。すると、「なんだ、これか!」と彼はすぐに「これ」が分かってね。そのあとは最後までなんてことはなかった。ジョージは、僕が欲しかったトーンが一度分かったら、そこから絶対にブレなかったんだ。

Abraham Polonsky

画集と言っても、現在のような色の再現性を極限まで追求した印刷物ではない。1948年当時に入手可能なホッパーの画集、例えば American Artists Group Monograph のシリーズ(1945年刊)は、大部分が白黒の図版である。画集に掲載された「ナイトホークス」には、闇を覆う緑の色調も、背景の建物のレンガ色も、ダイナーの壁の若干汚れたクリーム色も、存在しない。

『悪の力(Force of Evil, 1948)』
d. Abraham Polonsly
dp. George S. Burns

かつてホッパーは<アメリカ>を体現する画家として、ウィンスロー・ホーマーやグラント・ウッドとともに語られていた。彼の作品は<特異なスタイル>や<ユニークな作風>と形容され、他の芸術家たちとは一線を画していると常に言われていたが、むしろ<アメリカ>を体現する画家のあいだで共通する作風を見出すほうが困難だ。だが、ホッパーがアメリカに特徴的なある種の景色を執拗に描き続けたのは確かだ。

イギリスのアート・ジャーナリスト、ジョナサン・ジョーンズは「エドワード・ホッパーの絵に登場する家はすべて殺人鬼の家みたいだ」と言った。ヒッチコックの『サイコ(Psycho, 1960)』に登場するノーマン・ベイツの家は、ホッパーの “House by the Railroad (1925)” がモデルになっているという話は、<映画史上の名作>の逸話として少し完璧すぎる気がするが、<アメリカ>が無軌道な暴力をいたたまれないほど内包しているという点では、説得力がある。

そこに人がいるのに、見えない。第二次世界大戦という暴力の場に引きずり込まれたときに、悲愴感ややりきれなさよりも高揚感や期待が人々を覆うという奇妙さへの違和感が1940年代のホッパーの作品 ── ”Nighthawks” だけでなく、”Dawn in Pennsylvania (1942)” や “Appraoching a City (1946)”、”Seven A. M. (1948)” など ── には漂っている。人のいない世界に底の見えない闇の穴があいている。『疑惑の影』、『深夜の告白』、『悪の力』といった作品にもやはり闇の穴があいている。

闇の穴はいまでもあいている。アメリカで銃の乱射事件が起きるたびに、銃の売上げが伸びるのだという。いままで銃と無縁だった人たちが、乱射の恐怖を目の当たりにして、護身用に買うらしい。「すべて殺人鬼の家みたいだ」という表現はそれほど的外れではない。

References

[1]^ I. G. Berkow, Edward Hopper : an American master. Smithmark Publishers, 1996.

[2]^ S. K. Oehler, “Nighthawks as a Symbol of Hope,” Mar. 2020, Accessed: May 31, 2022. Link

[3]^ G. Levin, “Edward Hopper’s ‘Nighthawks’, Surrealism, and the War,” Art Institute of Chicago Museum Studies, vol. 22, no. 2, pp. 181–200, 1996, doi: 10.2307/4104321.

[4]^ E. Jewett, “53d Paintings and Sculture Show Pleasant,” Chicago Tribune, Chicago, p. 4, Nov. 01, 1942.

[5]^ “Chicago Continues American Annual,” The Art Digest, vol. 17, no. 3, p. 5, Nov. 01, 1942.

『深夜の告白』の3つのショット

以前紹介したアーヴィング・ピシェル監督『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』は、1943年7月にサンタ・ローザ近辺でロケーション撮影されたが、1943年の後半にロサンゼルスでロケーション撮影された作品がある。ビリ-・ワイルダー監督の『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』である。

今回は『深夜の告白』のオープニングの3つのショットだけを取りあげたい。

『深夜の告白』のオープニング

筆者が「50本のフィルム・ノワールを取り上げるプロジェクト」として取り組んだ「ランダム・ノワール」のほうでも『深夜の告白』は取りあげた。ここでは、この作品のオープニングについて、もう少し見ていきたい。

私はこのオープニングの映像がいつも気になっていた。1940年代のロサンゼルスの夜のダウンタウンを撮影した写真とくらべて、どこか陰鬱で、独特な闇に包まれている印象がある。

1940年代後半のハリウッド通りとヴァイン通りの交差点
Huntington Library Digital Collection
『深夜の告白』の最初のショット
場所は 5th ストリート と オリーヴ・ストリートの交差点

はたして、なにが起きていたのだろうか。

『深夜の告白』の撮影は、1943年の9月27日から11月24日までのほぼ2ヶ月にわたっておこなわれた[1]消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)の記事の最後でも述べたが、灯火管制は1943年11月1日に解除され、その後は夜間の戸外でも照明に制限がなくなっている。つまり、『深夜の告白』の撮影期間のうち、9月27日から10月31日までは、ロケーション撮影は様々な制限を受けるが、管制が解除された11月1日からは、以前の通りの日常の(ノーマルな)夜の風景を、カーボン・アーク灯を何十台も使用して撮影できたはずだ。

だが、『深夜の告白』の最初のショットは、灯火管制下で撮影されたように見える。左に見えるビルはビルトモア・ホテル、その向かいのコカ・コーラの看板が見える店はヴィクトリー・スクエア・ドラッグストア、いずれも地上階の窓に照明があっておかしくないはずだが、暗い闇に沈んでいる。街燈はすべて点灯しているが、これは、灯火管制下でも許可されていた。『深夜の告白』の撮影ロケーションをまとめたジーン・ロートンによれば、この撮影は1943年8月に行われているという[2]

まず、最初のショットには、「Los Angeles Railway Corp. Maintainance Dept.」という標識を掲げた工事の業者が手前に写っている。

全米映画俳優組合は、パラマウント・ピクチャーズ Inc.が、ロサンゼルス市内の5thストリートとオリーヴ・ストリートにあるロサンゼルス・レールウェイ社の鉄道用地において、同社の溶接工とその助手が作業している様子を撮影することについて、(組合との協定事項の遵守する義務を)免除する。ビリー・ワイルダー監督、『深夜の告白』の製作において、1943年8月14日の1日限りである。
この2人が演技、役、スタント、会話などをせず、また、これが免除の前例とならない、ということを両者のあいだで合意している。

全米映画俳優組合からのメモ
Screen Actors Guild, August 14, 1943

すなわち、このショットは8月14日に撮影されたということになる。ここで、「ロサンゼルス・レールウェイの鉄道用地」というのは、具体的には3号線(Line 3)のことである(Wikipedia)。これは、戦時下のロケーション撮影で常に問題になった、エキストラの雇用規定について例外を認める、という全米映画俳優組合の覚書だ。この最初のショットは、ロサンゼルス市内での撮影であり、<300マイル・ルール>が適用される。このルールが適用される場合は、エキストラは全米映画俳優組合の組合員(クラスB)でなければならない。だが、ビリ-・ワイルダーは、実際に溶接工が作業している様子を撮影することにした。それを俳優組合に申し込んだのであろう。

さらに次の2つのショットは、次の製作レポートが鍵となる。

ロサンゼルス、6thストリートとオリーヴ・ストリートの交差点
集合 3:30 AM、カメラ 3AM
リハーサル 4AM- 5:40AM
最初のテイク 5:40 AM - 終了 6 AM
エキストラ8名、車とエキストラ8名
マクマレーのダブルはアラン・ポメロイ
トラック運転手はゴードン・カーヴァス
もしうまくいけば、この早朝の撮影が、完成時には夜のシーンとして使われる
ナイト・フィルター撮影

Paramount Production Memo, 1943/8/4

このメモが少なくとも3つ目のショットを表しているのは、このショットにトラックが登場することから明らかである。どのテイクが使用されたかは分からないが、早朝5時40分から6時のあいだに撮影されていることが分かる。撮影には「ナイト・フィルター」、すなわち赤いフィルターが使用されている。

『深夜の告白』の3番目のショット
場所は 6th Street と Olive Street の交差点

この前日の8月3日のロサンゼルス・タイムズによると、灯火管制は3日の日没時刻(午後7時52分)から翌4日の日の出時刻(午前6時6分)までだ。

ロサンゼルス・タイムズ 1943年8月3日

この撮影は、朝の午前5時40分から6時のあいだまでに行われているから、灯火管制下での撮影である。だが、この時間帯は日の出の6:06直前の<マジック・アワー>と推測される。ワイルダーとサイツは、この時間 ─── 日の出直前で、かつ灯火管制中 ─── は街燈はまだ灯っているが、空は明るくなっていて、照明を利用しなくても「夜のシーンとして」撮影できるともくろんだのではないか。最初のショットとこのショットをよく見ると、背景のビルと空の境界に不自然な輪郭が現れているのが分かる。これはオプティカル・プロセスを施したあとだろう。このオープニングは前述のように日をわたって撮影されているため、空の明暗がショットごとにばらついていた可能性がある。それをオプティカル・プロセスで統一したのではないだろうか。

最初のショットで、フレーム内に配置された多様な光源が作り出す早朝の街の風景は、新鮮なドキュメンタリー性に満ちていて、この後、ハリウッド映画に起きる変化を予言しているようだ。奥行きのある配置の街燈、こちらに向かってくる車のヘッドライト、それを反射する鉄道のレール、手前の溶接作業の光、道に無造作に置かれた迂回路用のオイルランプの炎、どれもが映画のために準備されたものではなく、その風景に最初から存在していたかのようだ。

この最初のショットの街燈に注目したい。

『深夜の告白』のオープニング・シーンに登場する街燈

街燈の上半分が円錐のような形状をしているのが分かるだろうか。1930~1940年代のビルトモア・ホテルの近くの写真を見てみると、これが灯火管制下、街灯の光が上向きに逃げないように施された遮蔽であることが分かる。

ビルトモア・ホテル 1930~40年頃
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが1930~1940年代のビルトモア・ホテルの写真である。写真右奥の坂の上からウォルター・ネフが運転する車が暴走してくる。この電車通りは5thストリートである。

街燈(上の写真の拡大 1930~1940年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが、ビルトモア・ホテル付近の街燈の元の姿である。

次に1943年、灯火規制下のビルトモア・ホテル付近を見てみる。

ビルトモア・ホテル 1943年
University of Southern California Libraries Digital Collection

画面左奥から右に向かって伸びているのが、オリーヴ・ストリート、右から左の道は5thストリートである。この街燈には黒い布のようなものが被せられているのが分かる。

街燈(上の写真の拡大 1943年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

この黒い布のようなものは、翌年になってもまだ被せられたままだった。これは5th ストリートを坂の上から見下ろした写真である(ウォルター・ネフはこの道を奥に向かって暴走した)が、ここでも街燈に黒いものが被せられているのが分かる。

5thストリートをグラント通りからオリーヴ通りに向かって
Los Angeles Public Library Digital Collections
街燈(上の写真の拡大 1944年)
Los Angeles Public Library Digital Collections

これが、戦争の終わる1945年になると、元の姿に戻る。下の写真は、画面奥から手前にオリーヴ・ストリート、左右に6th ストリートが交差する交差点である。『深夜の告白』の3ショットめで、ウォルターの車とトラックが事故を起こしそうになるのはこの交差点だ。

6th ストリートとオリーヴ・ストリート
Los Angeles Public Library Digital Collections

上の空間に光が届かない戦時下独特の街燈、闇に沈むビルの窓、ストリートは車のヘッドライトだけが見える ─── 『深夜の告白』のオープニングの独特の<暗さ>は、ワイルダーとサイツが、灯火管制が作り出した都市部の闇を、照明を使わずにいかに撮影するかと苦心した末に生み出したものである。この<暗さ>は、戦争が民衆に植え付けた、恐怖、愛国心、パラノイア、非日常の興奮、憎悪の念といった闇の成分が凝集したものだと言ってもよいのではないか。そして、それは灯火管制が解除されてしまうと、二度と都市部に現れることはなかった。フィルム・ノワールの作品が数多くあるとは言え、この<暗さ>をとらえた映像は、この作品のこのオープニングだけではないだろうか。

References

[1]^ E. Robson, “Double Indemnity,” in Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir, Dutch Tilt Publishing, 2016.

[2]^ J. Laughton, “Double Indemnity: Self-Guided Movie Location Tour.” Los Angeles Conservancy. link

アメリカの朝

二期目の大統領選キャンペーン中のロナルド・レーガン(UCLA Library Digital Collections

このブログでは、今まで幾度か、ロナルド・レーガンが二期目の大統領選のときに繰り広げたキャンペーンで製作されたコマーシャル「Morning in America」について触れてきた。『ノマドランド』に見られる<マジック・アワー>の美学と労働倫理の結託について考える時の、その先駆的な映像としての位置付けや、ソノマ郡という場所がハリウッド映画で果たしてきた役割のなかでの例として言及した。この「Morning in America」について記しておきたい。

アメリカの朝

まず、その「Morning in America」(正式な名称は「Prouder, Stronger, Better」)とはどんな映像なのか。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pUMqic2IcWA]
Morning in America (1984)

ナレーションはレーガン政権の一期目の成果を総括している。

アメリカにまた朝が来た。今日、この国の歴史でも類を見ないほど多くの男性、女性が仕事に向かう。今の利率は、史上最高を記録した1980年の半分になり、今日も2,000の家族が家を購入する。これは過去4年間を通して最高の件数だ。

今日の午後には、6,500の若い男女が結婚する。インフレ率は4年前の半分以下。彼らは将来に確信をもって望むことができる。

アメリカにまた朝が来た。レーガン大統領のリーダシップのもと、私達の国は、より誇り高く、より強く、よりよいものになっている。誰が4年前に戻りたいだろうか?

なぜ、この映像が「アメリカの選挙キャンペーン史上に残る名作(マスターピース)」と呼ばれるのだろうか。New-York Historical Societyが過去の大統領選で製作されたキャンペーン映像のなかでも、最も影響力のあったものを年代順にショーケースしている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KY1QgFEnijg]
政治メッセージ映像:ベスト9

ここで取りあげられている映像は以下の9本である。

1952   ドワイト・D・アイゼンハワー   「I Like Ike」
1960   ジョン・F・ケネディ 「Kennedy For Me」
1964   リンドン・ジョンソン 「Daisy」
1968   リチャード・ニクソン 「Crime」
1984   ロナルド・レーガン 「Morning in America」
1988   ジョージ・H・W・ブッシュ 「Revolving Door」
1992   ビル・クリントン 「The Man From Hope」
2004   ジョージ・W・ブッシュ 「Windsurfing」
2008   バラク・オバマ 「Yes We Can」

特にレーガンの「Morning in America」以前と以後では、ブッシュ親子以外、まったくアプローチが変わったのが明らかだ。名前を連呼することに終始しているアイゼンハワーとケネディの時代から、ネガティブなイメージで感情を揺さぶろうとする冷戦の時代を経て、レーガンの楽観主義と希望に満ちたメッセージ/スタイルが登場している。もちろん、各候補者は、敵対候補者に対してネガティブ・キャンペーンも同時に行っているが、それらは人々の記憶に残らない。それぞれの大統領が発したメッセージとして、これらのインパクトの大きな映像が人々の記憶に係留しているのだ。この流れを見ると、「Morning in America」が極めて先駆的なゲームチェンジャーだったことがわかる。

いったい、どのような経緯で「Morning in America」の映像ができあがったのだろうか。

Tuesday Team Inc.

ここでは、レーガン政権の歴史については割愛したい。ただ、選挙の前年の1983年1月においては、レーガンの支持率は38%にまで下がっていた点を強調しておきたい[1]。その後、支持率は回復したものの、決して楽観視できる状態ではなかった。

レーガン陣営が選挙キャンペーンを開始してまもなく、ホワイトハウスの副主席補佐官だったマイケル・K・ディヴァーが、当時ニューヨークの広告業界で最も注目を集めていたジェリー・デラ・ファミナに接触する。ファミナには、「From Those Wonderful Folks Who Gave You Pearl Harbor: Front-Line Dispatches from the Advertising War」という広告業界の内情を描いた著作があるが、この本がテレビ・シリーズ「マッドメン(Mad Men, 2007 – 2015)」のインスピレーションになった。1960年代にニューヨークのマディソン・アヴェニューで起きた<広告業界の革命>の申し子と言ってもよいだろう。だが、ホワイトハウスとファミナはそりが合わなかった。

そのファミナが推薦したのが、彼の広告代理店のCEOであるジェームス・D・トラヴィスだった[2]。トラヴィスが中心となって、レーガン陣営のキャンペーンのメディア戦略を企画・実行するためだけに<Tuesday Team Inc.>という会社が設立される。選挙とともに解散するこの会社に、普段は競争相手同士で睨み合っている広告マンのエリートが集められた。B. B. D. O.のフィリップ・D・デューゼンベリーという当時のアメリカの広告業界の「巨人」もチームに参加にしている[3]。この<Tuesday Team Inc.>のメンバーの一人が オグルヴィ・アンド・メイザー社サンフランシスコ支店の名コピーライター、ハル・リニー(Hal Riney)だった。

ニューヨーク・タイムズに<センチメンタルの名人>と評されたハル・リニーは、独特のスタイルを持っていた[4]。いわゆる<アメリカーナ>のイメージを基盤にして、アメリカの一般人の皮膚感覚に訴えかけるアプローチが秀逸だった。彼が作り出した有名なキャンペーンには、ヘンリー・ワインハードのプライベート・リザーブ・ビールのシリーズガロの<バートルズ&ジェイムズ>ワインクーラーのシリーズ、後年になってGMのブランド、サターンの一連のコマーシャルなどがある。これらのコマーシャルでは、ハル・リニー自身がナレーションを担当していた。彼の優しく、まろやかな声が、極めて効果的なのだ。出世作となったサンフランシスコのクロッカー銀行のコマーシャル(1970)には、彼の<センチメンタリティ>が実によく現れている。これは、クロッカー銀行が、若い世代に向けたマーケティングを展開しようとしていた時に製作された。このCMを見たカーペンターズのリチャード・カーペンターがこの曲を気に入り、「愛のプレリュード」として録音してヒットさせた話は有名である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=97X9huy7pHQ]

このCMは大成功だった。若いカップルがクロッカー銀行を訪ねてくるようになったのだ。しかし、彼らは投資の資金も、ローンの抵当も何も持っていない。銀行にとってはキャンペーンは失敗だった。失敗に気づいたクロッカー銀行はキャンペーンを打ち切ったという。コマーシャルは成功し、ビジネスが失敗した好例とも言える。

この頃は反体制のピークだった。人々は体制と呼ばれるもの ─── 結婚、真摯な関係、労働 ─── に反抗していた。しかし、60年代の世代だって他の人たちと同じような望みを持っているはずだ。

Hal Riney

彼は、ベビー・ブーマーも結局は<ウェディング>や<二人の家>には弱いと信じていた。それが見事に当たったのだ。

TVコマーシャルを作る時に、ハル・リニーがよく組んでいたのが、監督のジョー・ピトカ(Joe Pytka)である。多くの映画ファンには、ほとんど誰もが凡作と罵しる『のるかそるか(Let It Ride, 1990)』の監督くらいのイメージしかないかもしれないが、ピトカは広告業界ではほとんど神と崇められるほどの存在だ。彼は数多くのTVコマーシャルを担当し、カンヌ・ライオンズでも数多く受賞している。また、ピトカはマイケル・ジャクソンの「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」「ダーティ・ダイアナ」、ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」のMVを担当したことでも知られる。彼のCMのなかでも最も有名なのが、ペプシの「考古学」であろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Kf1A8Ukk5Us]

ブリトニー・スピアーズを起用したペプシのCMも彼の監督作である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=3Yarv7_iFX4]

そんな彼らの<作品>のなかでも「Morning in America」は出色の出来である。もちろん、ナレーションもハル・リニーによるものである。

内容のないスタイルだけの映像

この映像の与えた衝撃(インパクト)とはどんなものだったのだろうか。

これらのコマーシャルは、それ以前のどの大統領選のものよりも遥かに強烈に、内容よりも情感や好感を強調したという点において、特筆すべきものである。

Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture [5]

レーガンのキャンペーンの戦略は、最初から「問題を議論しない」だった。公職をめぐる選挙戦では、問題をいかにして解決するかを提示するのが、候補者の最低限の役割であろう。しかし、そのアプローチを最初から放棄したのである。

(マイケル・ディーヴァーと)大統領首席補佐官のジェームズ・ベーカーは、この春には(大統領選の戦略として)個々の問題よりも広いテーマを強調し、レーガンの政策の詳細について守りに入るよりも愛国心と豊かさのフィーリングを演出すると決めていた。

James Kelly [6]

しかも、この<演出>が最優先事項となり、テレビでレーガンの集会の様子が放映されても「キャンペーン・コマーシャルなのか、それともニュースの映像なのか」判断がつかない。レーガンが登場する場面は、どんな場合でも、コマーシャルと同じくらい細部にわたり演出されており、コーラやクッキーのコマーシャルにしか使われないようなテクニックが、あらゆる局面で使われていた[6]

「Morning in America」を見てみると、まさしく個々のアジェンダについて、これからの4年間どうするのかということはなにも(・・・)言っていない。4年前に比べると良くなった、という催眠術を有権者にかけているようなCMである。映像にいたっては、ナレーションの内容にかろうじて引っかかっているだけで、実質はホールマークのCMと大差ない。だが、つぶさに見ると、実は極めて精緻に計算されていることが分かる。例えば、ウェディングのシーンは、ハル・リニーがこの14年前に製作したクロッカー銀行のCMと瓜二つである。どちらも花嫁が焦点になっており、その花嫁が母親とハグするというところまでなぞっている。クロッカー銀行のCMが若い世代に「銀行に行けば、なにか良いことがあるかもしれない」と行動を起こさせるほどのインパクトがあったという経験をもとに、若い有権者にも行動を起こさせよう(選挙に行かせよう)としているのは明らかだ。

このハグしている花嫁と母親の白い影がそのままアメリカの国会議事堂の白いシルエットに重ねられる。極めて自然に「親子の慈しみ」から「国政」に移行する。実はこの名作(マスターピース)は、後半の3分の1にわたってアメリカの国旗しか登場しない。延々と国旗が掲揚されて、最後にレーガン大統領のポートレートと国旗につながって終わる。「レーガン大統領のリーダシップのもと」で国旗が掲揚され(音楽も少しトーンを変える)、「より誇り高く(Prouder)」で国旗を見上げる少年を、「より強く(Stronger)」で腕っぷしの強そうな男性を、「よりよい(Better)」で高齢者を映し出す。カーペンターズの感傷に浸ったまま、愛国が語られる。本当に有権者に対して効果があったのかどうかは不明だが、少なくともタカ派の軍備増強計画を綿あめに包んで映像にする方法が確立されたと言えよう。

このノーマン・ロックウェルの80年代版のような世界は、その後しばらくアメリカの映像の想像力を支配していたが、郊外の多様化や産業構造の変化によって、今となってはニューアーバニズムのようなかたちでしか想起できないのではないだろうか。

Prouder, Stronger, Better (Morning in America)

脚本:ハル・リニー
監督:ジョー・ピトカ
ナレーション:ハル・リニー
1984

References

[1]^ “Reagan Popularity Slips in Poll,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 2, Jan. 13, 1983.

[2]^ W. Grimes, “James D. Travis, Whose TV Ad Helped Re-elect Reagan, Dies at 83,” The New York Times, May 12, 2016.

[3]^ D. Clendinen, “Reagan Advertising Team Is Formed,” The New York Times, p. 7, Mar. 30, 1984.

[4]^ A. Kleiner, “Master of the Sentimental Sell,” The New York Times, Dec. 14, 1986.

[5]^ B. Cogan and T. Kelso, Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture. ABC-CLIO, 2009.

[6]^ J. Kelly, “Packaging the Presidency: How to coordinate campaigning and commercials,” Times, vol. 124, no. 20, p. 36, Nov. 12, 1984.

模範的な町、サンタ・ローザ

模範的な町

カリフォルニア州の小さな町サンタ・ローザは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』でロケーション撮影に使われて以来、新作映画の企画で<アメリカの片田舎の小さな町>が登場するたびに、ロケーション候補地のトップにその名前が挙がるようになった。19世紀のイタリア風ヴィクトリア朝建築の住宅、広さを感じさせる中央通り(メイン・ストリート)の存在、町の支柱としての時計塔、ひらけた交差点をのぞむ教会、並木に埋もれた住宅街といった要素が、カリフォルニア特有の陽光の風景のなかに適度に薄められたノスタルジアを呼び起こすのだ。この町が果たすべき役割を住民も承知しているかのようだった。

『疑惑の影』の撮影最終日、「The Press Democrat」に掲載された論説が、その<役割>を語っている[1]

この映画の製作のおかげで、サンタ・ローザは国内に広くPRされて好意的な印象をもたれている。今までサンタ・ローザについて何も知らなかったコラムニストや物書きたちが、ここを<模範的な町 Model City>という輝かしい言葉で表現してくれているのだ。

The Press Democrat, Editorial

ここで、サンタ・ローザは【典型的(typical)】や【平均的(average)】ではなく、【模範的(model)】という言葉で形容されている。この言葉の選択は、歴史を遠く隔てた現在の眼でみると、サンタ・ローザ、そしてサンタ・ローザのあるソノマ郡全体がハリウッド映画で果たしてきた役割を的確に表現しているかもしれない。1940年代から1990年代に至るまで、平和な田舎町、穏健な中流階級が眠る町の背景として頻繁に採用されてきた。『みんな我が子(All My Sons, 1948)』では、サンタ・ローザのマクドナルド街に現在も残る白い家が、破綻したモラルが招いた悲劇を迎えるケラー家の住居として使用される。その隣の家が『スクリーム(Scream, 1996)』に登場する印象的な曲線の白い手摺のテイタムの家である。『輝け!ミス・ヤング・アメリカ(Smile!, 1975)』では、ミス・コンテストへの熱狂という、当時の中流階級の閉塞した価値観をうつしだす町として登場する。

サンタ・ローザの20Km南に位置する町、ペタルーマも頻繁にハリウッド映画に登場する。『アメリカン・グラフィティ(American Graffiti, 1974)』はその大部分がペタルーマでロケーション撮影されている。物語は、ジョン、テリー、スティーブ、カート達が気怠い夜を過ごすだけのノスタルジーに満ちたものだが、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争を経験していない<無垢なアメリカ>を象徴する舞台として、この町の風景が切り取られている。4人の男たちのその後を語る字幕は、ポーリーン・ケールが批判したように[2]、物語に登場してきた女性たちの人生を実に都合よく消し去っている。『アメリカン・グラフィティ』で、物語のカタルシスの中に無意識に埋め込まれた、錆びれた差別的遠近法のもたらす想像力の欠如が、『輝け!ミス・ヤング・アメリカ』で描かれる痛ましい文化と同根であるのは明らかだ。<模範的>というのは、そういった遠近法を内在させているものなのだ。『ノマドランド』に関するエントリーでも紹介したが、ロナルド・レーガン陣営が第二期目の大統領選挙で製作したキャンペーン用TVコマーシャル「Morning in America」も、ペタルーマで撮影されている。レーガン陣営の考える<模範的なアメリカ人>が住む町の風景が、カリフォルニア州のこの町なのだ。この映像に登場するのはほぼ白人だけだというのも、保守派陣営の考える<模範>の想像力を端的に表している。

ソノマ郡で撮影された映画については、「The Sonoma County Historical Society」の1994年の会誌(link)、ペタルーマで撮影された映画についてはこのサイトが詳しい。

『スクリーム(Scream, 1996)』に登場するサンタ・ローザの家
824 McDonald Ave., 1958年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

歴史をもどそう。1943年は、<模範>が<愛国>という機能を担い、民衆の行動や精神の統制を要求する時代になっていた。模範市民とは愛国者であり、若い男ならば、自ら率先して志願する。戦場に向かう若い兵士を送り出す家族は、彼が犠牲になっても受容できる心構えができていないといけない。当時のアメリカの新聞や雑誌、映画を見ていると、そういった抑圧のような風潮を感じる。<模範>のドラマが繰り広げられる<模範の町>としてサンタ・ローザは機能した。

『疑惑の影』の直後に、サンタ・ローザを含むソノマ郡でロケーション撮影された二本の映画、『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』と『戦うサリヴァン兄弟(The Fighting Sullivans, 1944)』は、当時のアメリカが田舎町の中流階級に何を求めているかがはっきりと分かる作品である。

『ハッピー・ランド』の撮影

マッキンレー・カンターの小説を原作とした『ハッピー・ランド』は、20世紀フォックスが戦時情報局(Office of War Information, OWI)の推進するプロパガンダの一環として製作した映画である(マッキンレー・カンターについては『拳銃魔』についてのこの分析で詳細に書いた)。戦争で命を落とした兵士の家族の心をいかに癒やすか ─── その模範的な物語として、『ハッピー・ランド』の製作にOWIは注意をはらっていたと言われている[3, pp. 161–165]。アイオワ州の小さな町、ハートフィールドで薬局を営むリュー・マーシュ(ドン・アメチー)は、一人息子のラスティが太平洋の戦闘で戦死したことを知る。リューは喪失の絶望から立ち直ることができない。そのリューの前に彼を育ててくれた祖父の霊が現れる。祖父の霊は、ラスティが生まれてから歩んできた人生をリューとともに振り返り、息子の人生がいかに豊かなものだったかをリューに悟らせる。マーシュ夫妻がラスティの戦友を家に迎え入れて、新しい人生の章を始めようとするシーンで映画は終わる。

テーマのうえでも、技法的にも、この作品は明らかにソーントン・ワイルダーの戯曲「我らの町」、そしてそれを原作としたサム・ウッド監督の映画『我等の町(Our Town, 1940)』に強い影響を受けている。死んだ者の魂によって呼び起こされるフラッシュバックの技法を使って、<なんでもない日々こそ幸福の日々>というメッセージを、戦争における犠牲の正当化に資するよう物語に埋め込んでいる。ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに請われて脚本を担当したのが『疑惑の影』である。『ハッピー・ランド』は物語の骨格を『我等の町』から、物語の舞台としてのサンタ・ローザを『疑惑の影』から受け継いだ。

『ハッピー・ランド』のロケーション撮影の様子は、やはり当時の地元新聞によって知ることができる。撮影クルーと出演者たちは、1943年6月14日から7月3日までサンタ・ローザとその近くのヒールズバーグ、ペタルーマで撮影をおこなった [4]。前年の『疑惑の影』の撮影では、アルフレッド・ヒッチコックが地元の少女をスカウトしたが、『ハッピー・ランド』でも監督のアーヴィング・ピシェルが「ソフト・クリームを道に落としてしまう女の子」の役にサンタ・ローザ在住の4歳の少女 ─── のちのナタリー・ウッド ─── を起用する[5, pp. 21–28]。また、実際のサンタ・ローザ市長のE・A・アイマンが、架空の町ハートフィールドの市長を演じた[6]。エキストラも、前回と同じように地元から雇われている[7]。新聞ではサンタ・ローザは「第2のハリウッド」になる、とまで言われている。監督たちもサンタ・ローザの住民たちの不気味なまでに褒めちぎっている。

昨日のジュニア・カレッジでの撮影中、監督のアーヴィング・ピッチェルはこう語った。「ここの皆さんは実に素晴らしいですね。皆さんの撮影中の協調性といったら、本当に私達全員にとって驚きなんです」彼は、撮影に現れた住民たちの演技力を高く褒め称えている。昨日の撮影では、撮り直しもなかったそうだ。

The Press Democrat [7]

木陰に安らぐマクドナルド通りの住宅街、ジュニア・カレッジの広い陸上トラック、パレードができるほどのゆったりとしたヒールズバーグのメイン・ストリート、通りに面したドラッグストア、アメリカの小さな田舎町にあるべきものが、この土地にはすべて揃っている。サンタ・ローザからさらに北に進んだところにある人口2,500人の小さな町ヒールズバーグは、フラッシュバックで登場する1910年代のアメリカの町として最適だった。町の通りがまだ舗装されていないのだ。ハリウッドのスタッフたちは、この<失われつつある風景>を追加で撮影していったという[8]灯火管制(ディムアウト)のせいで、夜の撮影は不自由だが、この土地に来れば、わざわざセットを組む必要がない。そんな中で、一つだけ気になるシーンがある。夜遅く、リューとラスティの親子がドラッグストアから家に帰る、長いトラッキングショットがある。昼のシーンは、ヒールズバーグに実在した店を利用して撮影されたが、このシーンは、ナイト・フィルターを使って昼間に撮影したか、あるいはロケーション撮影ではなく、スタジオで後日撮影したものかのいずれかだろう。

『ハッピー・ランド』でドン・アメチーが住んでいる家
1127 McDonald Ave., 1953年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

当時、カリフォルニア州内であれば、少し日数がかかるものの、ロケーション先でデイリー(ラッシュ)を見ることができたようである。『誰が為に鐘は鳴る』のようなテクニカラー作品でもロケーション先でデイリーを見ていたと報告されているし、『ハッピー・ランド』でもアーヴィング・ピシェル監督らは1週間ほど遅れてデイリーを見ていた[7]。撮影はのどかに進んでいった。ドン・アメチーとハリー・ケリーが家の前で会話をするシーンを撮影中、二軒先に住む税務署職員のエディー・サリヴァンの家のニワトリが声高く鳴いた(すでにアメリカ国内では食料の配給が始まり、不自由を感じた一般人の多くが「食料」を自宅で育てていた)。ピシェル監督が「このシーンは$1,250かかっているんだぞ!あの毛布みたいな鳥の口を塞いでこい!」と怒鳴って、助手たちがニワトリを暗い鳥小屋に押し込んだが、事態はさらに悪化した。「その後数分間起きたことは、あまりに痛ましく、サンタ・ローザの善良でおとなしい市民の方々が読むこの新聞にはとても書けない」とパーディー記者は書いている[9]。驚いて恐縮したサリヴァンが撮影クルーに「鳥を振る舞った」と報じられたが、サリヴァンは「冗談じゃない、あの鳥は$1,2000ドルするんだ」と否定したという[10]。ハリウッドから来た映画人たちは田舎でも忙しい。出演俳優たちは、撮影のあいだに空いた時間を使って、近くの陸軍航空軍の兵士たちを慰問している[11]。撮影の休息日には、地元の地主が監督、アメチー夫妻、ケリー夫妻を招待して、野豚狩りや鱒釣りに誘った[12]。撮影期間中、子どもたちはポリオの流行でプールが閉鎖されているので、かわりに撮影現場に大挙して現れた。その母親たちは、新聞社にその日はどこで撮影するか毎朝問い合わせをしていた[4]。出演俳優のサインをもらった者たちは、それを交換しあっていた。

『ハッピー・ランド』公開

12月に『ハッピー・ランド』が公開された際、サンタ・ローザの新聞編集長は全国の雑誌や新聞を取り寄せたに違いない。この作品が地元に与えるPR効果を詳細に報告している。雑誌「タイム」は、サンタ・ローザを「Hollywood’s All-American Town」と呼び、「リバティ」誌はサンタ・ローザがもたらした<リアリズム>を高く評価していた[13]

映画界の業界雑誌、Motion Picture Heraldには各号に「What the Picture Did for Me」という項目があった。ここでは、公開された映画について映画館主が送ってきた意見や感想を公開している。他の映画館主がプログラム作成の際に参考にできるように組まれた企画であろうか。現在の私達にとって、当時の観客に近い視点からの作品受容や感覚を知ることができる数少ない資料になっている。1944年の前半に『ハッピー・ランド』について書き送ってきた映画館主は多く、その大部分は好意的だった。特にテキサス州のある映画館主は長文の感想を書き送ってきている。

この映画のタイトルは『アメリカ』とするべきだった。製作、セット、ストーリーのどの面から見ても大作ではない。しかし、この映画はアメリカに住むすべての人にとって共通するものをもっている。私達ひとりひとりの心、手、健康、家に響くものがある。そう、この映画は平均的なアメリカ人の生活に共通する小さな事柄が題材だ。その小さな事柄がこの映画を大きなものにしている。これこそ、プロデューサーたちは立ち止まってよく考えないといけないことだ。広大な風景の映画なんか置いといて、心の琴線に触れるものを作れ。

Lee Guthrie(Rogue Theatre, Wheeler Texas)

前述の「タイム」の「Hollywood’s All-American Town」という表現も、このガスリー氏のような感慨も、決して少なくなかったはずだ。『ハッピー・ランド』の興行収入は$1,500,000だった。『誰が為に鐘は鳴る』の興行収入が$11,000,000だったことを考えると、プロデューサーたちは立ち止まって考えることもなかったかもしれない。

ハッピー・ランド(Happy Land)

監督:アーヴィング・ピシェル

製作:ケネス・マクゴワン

原作:マッキンレー・カンター

脚本:キャスリン・スコラ

脚本:ジュリエン・ジョセフソン

撮影:ジョセフ・ラシェル

編集:ドロシー・スペンサー

音楽:シリル・J・モックリッジ

出演:ドン・アメチー、フランシス・ディー

製作:20世紀フォックス

1943

References

[1]^       “Farewell to Movie Friends,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 12, Aug. 26, 1942.

[2]^       P. Kael, “The Current Cinema: Un-People,” _The New Yorker_, vol. 49, no. 36, p. 153, Oct. 29, 1973.

[3]^       C. R. Koppes, _Hollywood Goes to War: How Politics, Profits, and Propaganda Shaped World War II Movies_. New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1987.

[4]^       M. R. Pardee, “Movie Company Leaves After Petaluma Shots,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 3, Jul. 04, 1943.

[5]^       S. Finstad, _Natasha: The Biography of Natalie Wood_. New York, N.Y. : Harmony Books, 2001.

[6]^       “Movie Stars to Arrive in S. R. Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 13, 1943.

[7]^       “200 Local ‘Extras’ Used in Scenes for Happy Land Film,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 17, 1943.

[8]^       “Travel Restrictions of Wartime Fail to Bother Location Expert,” _Daily News_, Los Angeles, p. 13, Aug. 02, 1943.

[9]^       M. R. Pardee, “Expensive Rooster Holds Up Production for Movie Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 2, Jun. 23, 1943.

[10]^ M. R. Pardee, “Evening Scenes for ‘Happy Land’ Taken,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 6, Jun. 24, 1943.

[11]^ “‘Happy Land’ Stars Aid in Entertaining Soldiers Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 18, 1943.

[12]^ “Film Folks Will Go Pig Hunting Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 4, Jun. 27, 1943.

[13]^ “‘Happy Land’ Brings More Publicity for Santa Rosa,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 8, Dec. 14, 1943.

『疑惑の影』の製作

『疑惑の影』
サンタ・ローザでの夜間ロケーション

前の記事のような状況下で、プロデューサーのジャック・スカーボールと監督のアルフレッド・ヒッチコックは『疑惑の影』のロケーション撮影をおこなった。ニュージャージーで序盤のシーンを撮影した後、大部分を北カリフォルニアのサンタ・ローザで撮影した。

サンタ・ローザ

『疑惑の影』の4年前に、<実在の町>を背景にロケーション撮影した作品として注目を集めた作品がある。MGMの『少年の町(Boy’s Town, 1938)』は、ネブラスカ州オマハにあるボーイズ・タウンで全編ロケーション撮影され、実際にボーイズ・タウンの少年たちが映画に出演している。『少年の町』は興行的にも成功しただけでなく、MGM、あるいはMGMスタジオのトップであるルイス・B・メイヤーの哲学を具現化した作品として、その後の保守的、アメリカ製カトリック的物語の精神的鋳型(アーケタイプ)として機能した。<実在の町>を背景(バックドロップ)として、その町の<性格>や<佇まい>を物語のなかで機能させる手法を、再度挑戦したのが『疑惑の影』だと言ってもよいかもしれない。だが、スカーボール/ヒッチコック/ソーントン・ワイルダーは『少年の町』で描かれた保守的なアメリカ神話を逆手にとって、神話の舞台である<アメリカの小さな町>の内部と外部の<悪>が見せる相似を描いた。その神話の舞台として、サンタ・ローザが選ばれたのだ。

この『疑惑の影』が特異的なのは、その製作過程が詳細にメディアに取り上げられている点だ。撮影がおこなわれた8月1日から25日にかけて、サンタ・ローザの地元新聞「The Press Democrat」と「Santa Rosa Republican」が、連日撮影の様子を報道していた。まさしく「ハリウッドが町にやってきた」「この町がスクリーンになる」という興奮と高揚感に満ち溢れた記事が、日本軍のアリューシャン列島攻撃の見出しの横に並んでいる。この記録の存在は貴重だと思う。これらのおかげで、私たちは撮影がどのように進行し、<ハリウッド>がこの小さな町にどのようなインパクトを与えたかを知ることができる。もう一つの大事な報道は映画公開後に雑誌「ライフ」に掲載された「$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets」という製作レポートだ[1]。このレポートは、そのタイトルが示す通り、ヒッチコックがいかに工夫して、WPBの<$5,000のセット材料費上限>ルールをクリアしたかという称賛記事である。後述するようにロケーション撮影とセット撮影の組み合わせによって製作費を抑えたプロセスが具体的に明らかにされている。

この「ライフ」の記事と地元新聞の報道を突き合わせて見ると、非常に興味深いことが見えてくる。「ライフ」の記者とカメラマンは、スカーボールとヒッチコックが撮影に入る前から、彼らに同行して取材を重ねているのだ。サンタ・ローザでのロケーション撮影が発表されたのは1942年6月2日だったが、すでにその時に「ライフ」のカメラマン、ジョージ・アイヤマンがロケーション・ハンティングをするヒッチコックやソーントン・ワイルダーの写真を撮っている、と「The Press Democrat」が報じている[2]。実際、このときの撮影と思われる写真が記事に掲載されている。つまり、この<ロケーション撮影を使って製作材料費を抑える>という物語(ストーリー)を、全国的な雑誌で取り上げて報じるという計画が製作の初期の段階からあったということだ。<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして機能したわけだが、前述のビーゼンの記述を見ると、いかに効果的なプロパガンダだったか(であり続けているか)ということがよく分かる。

『疑惑の影』のロケーション撮影を伝える「ライフ」誌の記事
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これは、開戦直後にハリウッドの戦争協力が限定的だった状況を考えると興味深い。WPBの材料統制がきっかけとなって、ハリウッドが自発的に戦争協力のプロパガンダを編み出すようになっていたのかもしれない。それを、すでに戦争に突入して3年目になるイギリスから来たアルフレッド・ヒッチコックと、ユダヤ教のラビとして20年近くつとめていたジャック・H・スカーボールが率先しておこなったという点は、示唆的であるように思われる。

『疑惑の影』のロケ地として、サンタ・ローザが選ばれた背景には、前述のロケーション撮影の抱える様々な問題を迂回できる要素が整っていたことも挙げられるだろう。この町はサンフランシスコの北、ソノマ郡にあり、ロサンゼルスからは680キロメートル(422マイル)離れている。これは前述の全米映画俳優組合との<300マイル・ルール>が適用されない土地だ。製作発表と同時に、地元での100人程度のエキストラ採用が始まっている[2]。このエキストラには、全米映画俳優組合がプロデューサー達と取り交わした契約が適用されない。どのような待遇だったかは不明だが、組合のレートと同等だったとは考えにくい。結局、1000人もの住人が映画のエキストラとして採用されていた[3]。チャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)の妹、アン・ニュートン役に抜擢されたエドナ・メイ・ウォナコットは、サンタ・ローザ在住の10歳の少女で、サンタ・ローザの4番通りとメンドシノ通りの交差点でバスを待っているところを見かけたヒッチコックに<発見>された[4]。ウォナコットの抜擢は地元で当然注目を集め、この「シンデレラ」について新聞は些細な事でも記事にした[5]。映画の出演者、撮影クルーは撮影期間の4週間のあいだ、サンタ・ローザのオキシデンタル・ホテルとサンタ・ローザ・ホテルに宿泊、膨大な量の撮影機材は地元の倉庫で保管、撮影のための移動手段はやはり地元の業者が担当したが、そういったお膳立てはサンタ・ローザの商工会議所が率先しておこなっていた。こういった報道を醒めた目で見ていると、狡猾なハリウッドの映画人たちが、地方の小さな町の人たちの浮かれた気分を手玉にとっているようにしか見えない。まるで、映画のジョセフ・コットンが、映画の中のサンタ・ローザの人たちの無知を利用する様子のパラレルを見ているようだ。

アメリカでも、1950年代までは幹線道路以外はまだ整備されていない地域は多かった。その点サンタ・ローザは、サンフランシスコなどの都市部から離れた町だが、交通の便には恵まれていた。1930年代に、サンタ・ローザを通るUS101号道路はほぼ舗装化されていたし、サンフランシスコ湾も1937年にゴールデン・ゲート・ブリッジが開通して、ソノマ郡とサンフランシスコが直通している。映画の撮影クルーと出演者たちは、撮影開始の前日(7月30日)に鉄道とグレイハウンド・バスを乗り継いで、現地入りしたと伝えられている[3]

『疑惑の影』の夜間撮影

サンタ・ローザは海岸からも離れているため、沿岸部に適用される規制の対象外である。消灯令もなく、夜のロケーション撮影も夜通し可能だった。夜の撮影に使用された照明も当時の新聞[6]や「アメリカン・シネマトグラファー」誌[7]に報告されている。サン・アーク(カーボン・アーク灯)10台、24インチ・サンスポット(カーボン・アーク灯)19台、”シニア”(白熱灯)6台、”ジュニア”(白熱灯)10台、No.4 フラッドランプ 50台、No.2 フラッドランプ 50台、No.1 フラッドランプ 50台、スカイパン(拡散反射板)10台、これらを全部同時に使用して(3,000アンペア)撮影がおこなわれた(通称についての説明は[8]を参考にした)。電力は撮影隊の電源(1,250アンペア ガス発電機、50キロワット変電機)が供給している。オフィスビルの窓にはフラッドライトが使用されたが、家庭用電源でまかなえるのが便利だった(フラッドライトは、1940年代のロケーション撮影の機動性を高める上で極めて重要な役割を担っている)。カメラのフィルム・ストックは、『市民ケーン』でも使用されたコダックの高感度フィルム(Super-XX)が使用されている[7]

ところが、撮影に入って数日後に、西海岸全域での灯火管制(ディムアウト)が発表される。海岸から比較的遠いサンタ・ローザも灯火管制の地域に入っており、灯火管制(ディムアウト)開始の8月20日から夜のロケーション撮影が実質的に不可能になった。前日までに夜間撮影を終えるようにスケジュールが組み直され[9]、13日と14日には徹夜で撮影が行われた。しかし、夜間撮影を期日までに終えることができず、20日には民間防衛局(Office of Civilian Defense)の許可を得て夜の9時まで撮影をおこなっている[10]

サンタ・ローザでのロケーション撮影は8月25日まで続いた。地元新聞は、映画の撮影進行状況を事細かく伝え、小道具担当やグリップなど撮影クルーたちの談話を載せている[11], [12]。25日の最後の撮影は、<チャーリーおじさん>の葬式の場面だった[13]。サンタ・ローザの住民数百人がエキストラとして参加して、もうハリウッドに戻ってしまったジョセフ・コットンの葬式がしめやかにおこなわれた[14]

この後、ハリウッドに戻って追加のセット撮影が行われている。前述の「ライフ」誌の記事によれば、セットはサンタ・ローザでロケーションに使用された家を模して設計され、すでに他のセットで使用された材料を再利用して建設された。総額は$2,927で、WPBの制限額を大きく下回る。ここまで映画製作の内実を公開しているのは、この映画の製作自体を<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして利用する意図があったからにほかならない。同時期のハリウッド映画で、ここまで製作の経済的側面をメディアに露出させた作品は一本もない。

『疑惑の影』と同じように灯火管制(ディムアウト)のために夜間撮影のスケジュールの変更を余儀なくされた作品には、『砂漠の歌(The Desert Song, 1943)』、『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』、『カナリヤ姫(Princess O’Rourke, 1943)』などがある。空に向かって逃げる拡散光を出さなければよい、ということであれば、少し工夫をして乗り切った撮影もある。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『肉体と幻想(Flesh and Fantasy, 1943)』はサーカスのテントを張って、その下で夜のシーンの撮影をおこなった。RKOでは、エドワード・ドミトリク監督の『アルカトラズから7マイル(Seven Miles from Alcatraz, 1942)』の灯台のシーンを200フィート四方(60メートル四方)のキャンバスで覆って撮影した[15]

『疑惑の影』のスタジオでの撮影の様子
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参考文献

[1]^ “$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets,” LIFE, vol. 14, no. 4, p. 70, Jan. 25, 1943.

[2]^ “Hollywood Producers To Make Motion Picture Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jun. 03, 1942.

[3]^ “Movie Cast, Aides To Arrive Tonight From Hollywood,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jul. 29, 1942.

[4]^ “10-Year-Old S.R. Girl Gets Chance at Role in Movies!,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 2, Jul. 28, 1942.

[5]^ “S. R. Child Gets Contract as Work Starts on Movie Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 01, 1942.

[6]^ “Even Town’s Clock Stops to Aid Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 11, 1942.

[7]^ Joseph A. Valentine, A. S. C., “Using an Actual Town Instead of Movie Sets,” American Cinematographer, vol. 23, no. 10, p. 440, Oct. 1942.

[8]^ “Report of the Studio Lighting Committee,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXII, p. 44, Jan. 1939.

[9]^ “Santa Rosa’s Name Retained for Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 10, 1942.

[10]^ “Film Company In Twilight Shots Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 5, Aug. 20, 1942.

[11]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Prop’ Man Amazes With His Ingenuity,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 11, Aug. 21, 1942.

[12]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Grip Men’ Busiest Part of Film Crew,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 7, Aug. 22, 1942.

[13]^ “Movie Company to End S. R. Stay With ‘Final Rites’ Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 25, 1942.

[14]^ “City Turns Out for ‘Funeral’ in Movies,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 26, 1942.

[15]^ “Coast Takes Dimout in Stride, Nite Trade Booms as Curious Roam Streets,” Variety, vol. 147, no. 12, p. 5, Aug. 26, 1942.

軍需生産委員会とハリウッド

『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』
アリゾナ州にある陸軍のサンダーバード第1飛行場でロケーション撮影された

真珠湾攻撃から4ヶ月後、政府による物資の統制がハリウッドの映画製作そのものを直撃する。1942年4月に軍需生産委員会(WPB)が、L-41という政令を発表した。これによれば、いかなる建造物(私有、公共関わらず)でも、費用が$5,000を超える場合は許可が必要となった[1]。当初、この<建造物>に映画のセットは含まれないのではないかとハリウッドは期待したようだが[2]、戦争による物資の統制政策は甘くなかった。WPBは映画の種類にかかわらず(・・・・・・・・・・・)、セットの材料費に$5,000の上限を設けたのである。セットに対する材料統制は、ハリウッドの映画スタジオの価値観と大きくずれていた。MGMからリパブリック・ピクチャーズまで、どこのスタジオでも<超大作>と<低予算映画>の両方が製作されているが、同じものではない。こんなコストでは、製作可能な映画のレベルが子供向けの低予算西部劇しかなくなってしまう、と反発する者たちも多かった。物資の民間消費を問題にするのだったら、なぜフィルムそのものを規制しないのか。むしろ二本立てを止めさせて、誰も見ない低予算B級映画そのものをなくしてしまう方が、フィルム材料の節約にもなるだろう、という意見もあった[3]。しかし、WPBはその方針を曲げなかった。

映画史の見直し

従来のハリウッド映画史では、戦時下の映画製作の変化を単純でわかりやすい物語に押し込む傾向がある。例えば、第二次世界大戦中のハリウッドについて「ブラックアウト」などを著しているシェリ・チネン・ビーゼンは、戦前のMGMのテクニカラー大作『北西への道(Northwest Passage, 1940)』に見られたような、潤沢な資金をつぎ込んでロケーション撮影を行うことは、開戦とともに下火になったと述べている[4]。特にテクニカラー作品は、尋常ではない照明を必要とし、生フィルムの使用量も単純に3倍必要になるために少なくなったと主張している。しかし、これは端的に言って間違っている。

テクニカラーの作品は、戦時中に製作本数が増えている。1940年には12本(そのうち1本はパートカラー)、1941年には17本だったが、1942年に13本、1943年に20本、1944年には29本にまで増加する(1942年にいったん減少しているように見えるが、『誰がために鐘は鳴る』や『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』のように、この年に製作されたにもかかわらず、公開が先延ばしになった作品が少なからずある)。ウォルター・ラング、アーサー・ルービン、アーヴィン・カミングス、デヴィッド・バトラーといった監督がほぼ毎年テクニカラー作品を担当していた。また、これらの映画はロケーション撮影をふんだんに利用して、広大な景色をカラフルに見せることを主眼としている。例えば、『海の征服者(The Black Swan, 1942)』は、(そんなふうには見えないかもしれないが)ジャマイカ、メキシコ、キューバ、フロリダで、『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』はアリゾナで、『森林警備隊(The Forest Rangers, 1942)』はオレゴン、モンタナで、『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』はユタでロケーション撮影をしている。戦争開始とともに、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザーズは、低予算映画の計画を取りやめ、積極的に大作主義に路線を変更していった。テクニカラー作品を含む<大作>、<話題作>は、劇場での上映期間延長(ホールドオーバー)になりやすく、歩合制レンタル料が圧倒的に興行収入を押し上げていった。つまり、政府に言われるまでもなく、低予算B級映画の製作を止めたのである(5大メジャー・スタジオの中で、最終的に二本立て用の低予算映画を作り続けたのはMGMだけだった)。

また、前述のビーゼンは、さらに続けて以下のようにヒッチコックを称賛する。

ヒッチコックはロサンゼルスのスタジオを離れて、北カリフォルニアでロケーション撮影するという、当時としては珍しい、革新的なやり方で『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』を監督した。

シェリ・チネン・ビーゼン Sheri Chinen Biesen[4]

『疑惑の影』をロケーションで撮影した動機のひとつが、前述のWPBが設定した材料費の上限$5,000だったのは間違いないだろう。安いセットで撮影するよりも、サンタ・ローザという実在する町で、実在する家や通り(ストリート)を利用した撮影のほうが効果的だと考えたのだ。しかし、それは『疑惑の影』に限ったことではなかった。後世の私達が映画史を振り返るとき、どうしてもヒッチコックのような象徴的な監督に<革新性>を見出しがちである。『疑惑の影』とほぼ同じ時期に、サム・ウッドやジョージ・マーシャルが監督した『誰がために鐘は鳴る』や『森林警備隊』も<ロサンゼルスを離れて>、ほぼ<ロケーションで撮影>されたことは忘れられ、<普通ではない、革新的なやり方>をしたのはヒッチコックだけだったということにされてしまう。ロケーション撮影は珍しくもなければ、革新的でさえなかった。ヒッチコックが『疑惑の影』を撮影した1942年には、寧ろあまりにロケーション撮影が多くなりすぎて、様々な問題が噴出していたのである。

戦時下のロケーション撮影

ハリウッドは、ロサンゼルス近郊が軍による統制(消灯令、海岸地域の立入禁止、駅や空港などでの撮影禁止、軍用機以外の飛行機の飛行制限など)が厳しくなったために、南カリフォルニアから離れた場所でのロケーション撮影に計画を切り替えていた。1942年4月29日のVariety紙によれば、20世紀フォックスが撮影に入る作品のうち、8作品は「この地域の戦争による統制を避け、ストーリーにあった自然の背景を利用するために」大部分をロケーションで撮影すると報じている[5]

戦時下で、ハリウッドのスタジオがロケーション撮影をしようとする際にまず最初に遭遇する問題が<タイヤ>だった。当時は日本が天然ゴムの原産地であるインドネシアなどの地域を占領していたため、アメリカではゴムの入手が極めて困難になっていた。戦争開始直後から、タイヤの消費を抑制するために、政府はガソリンを配給制にした。さらに輸送に関して様々な規制を設けたために、ハリウッドが自由気ままに車を走らせてロケーションに向かうわけにはいかなくなった。

20世紀フォックスは『大空の戦士』をアリゾナ州のグレンデールにある操縦士訓練施設でロケーション撮影した。ハリウッドから車で一晩ほどの距離だが、<ゴム節約のために>人員、機材、そして録音用車両を鉄道で輸送したという[6]。パラマウントも『森林警備隊』をサンタクルーズでのロケーション撮影には鉄道を使用して移動した[7]。6月には、トラックなどの輸送車が貨物を積まずに走行することに防衛輸送局(Office of Defense Transportation)が難色を示し、ロケーション撮影で使用したトラックがハリウッドに戻って来るときには、野菜であろうが、鉄道のレールであろうが、現地で輸送貨物を積んで戻ってくることになった[8]。映画スタジオの輸送走行距離は全体で35%削減され、従業員用のバスも廃止された[9]

軍が戦略的にクリティカルとみなした地域は映画撮影の許可がさらに厳しくなった。『The Great Northwest Frontier』という題名の映画で、アラスカでのロケーション撮影を計画していたリパブリック・ピクチャーズは、撮影の許可が下りずに苦労している[10]。日本軍の侵攻が続いていた北太平洋に近いアラスカはカリフォルニアよりもさらに軍の統制が厳しかったのである。さらに、西海岸の沿岸地域で撮影する場合には、撮影クルー、出演者含めてすべてアメリカ市民である必要があった[11]。特にヨーロッパからナチスの脅威を逃れてきた映画人にとって、これは厳しい決定だっただろう。

軍の要請だけではない。ハリウッドから300マイル以内でのロケーション撮影の場合、全米映画俳優組合との取り決めでエキストラを現地で雇うことができず、ハリウッドからエキストラを連れていかなければならないことになっていた[7]。戦時下で多くのエキストラがロサンゼルスを離れることができないといった問題もあった。

こういった数々のハードルがロケーション撮影にはつきまとった。しかし、スケールの大きな戦争映画や、テクニカラー作品のミュージカルなどで、ロケーション撮影を敢行して<大作>として公開するメリットは、これらのハードルをはるかに上回ったようだ。

『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』

参考文献

[1]^ “Ban Placed on Building,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 6, Apr. 09, 1942.

[2]^ “Studios Wary of Set Building Under WPB Rules, Despite D. C. Assurance,” Variety, vol. 146, no. 9, p. 6, May 06, 1942.

[3]^ Paul Harrison, “Paul Harrison in Hollywood: Moviemakers in Quandry Over WPB Set Restrictions,” Ventura County Star, p. 3, Jul. 07, 1942.

[4]^ S. C. Biesen, “Chapter 2. The Classical Hollywood Studio System, 1928–1945,” in Hollywood on Location: An Industry History, J. Gleich and L. Webb, Eds. Rutgers University Press, 2019.

[5]^ “Wartime Rules Spread 20th-Fox Locations,” Variety, vol. 146, no. 8, p. 6, Apr. 29, 1942.

[6]^ “Casey Jones’ Comeback,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 7, Mar. 11, 1942.

[7]^ “Inside Stuff – Pictures,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 18, Mar. 11, 1942.

[8]^ “Bring-Back-a-Load Dictum to Film Cos. May Mean Radishes or Rail Ties,” Variety, vol. 147, no. 3, p. 3, Jun. 24, 1942.

[9]^ “Studios Cut Mileage 35%,” Variety, vol. 147, no. 5, p. 6, Jul. 08, 1942.

[10]^ “Army Regulations Hobble Rep’s Filming in Alaska,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 27, Mar. 11, 1942.

[11]^ “Studios Must Vouch for Troupes in Zoned Areas,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 22, Mar. 11, 1942.