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エルンスト・ルビッチ(左)とポール・ダヴィッドソン |
投稿者: Murderous Ink
広告に載った九つの映画:貴方を愛す (前篇)
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「月世界の女」撮影中のクルト・クーラント(中央)とフリッツ・ラング |
広告に載った九つの映画:ミカエル (後篇)
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「アイ・ラブ・ルーシー」撮影風景 カメラ手前で光量をチェックしているのがカール・フロイント |
広告に載った九つの映画:ミカエル (前篇)
1928年頃のワルター・スレザック |
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ベンジャミン・クリステンセン監督 「魔女(Haxän, 1922)」 |
ベンジャミン・クリステンセン監督 悪魔への七つの足跡(Seven Footprints to Satan, 1929) |
広告に載った九つの映画:男對男 (後篇)
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天国へのエスカレーター アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「天国への階段(1946)」 |
1929)」とアーサー・ロビソンの「密告者(Informer, 1929)」(これはセオドア・スパールクールと共同撮影)です。どちらもイギリスで製作されましたが、彼のカメラワークのスタイルはそれまでのイギリス映画には見られないものでした。E・A・デュポンとともに都会を切り取ったイメージを前面に押し出していくものです。ドイツに帰国後はゲルハルト・ランプレヒト監督の「少年探偵団(Emil und die Detektive, 1931)」で、第2次大戦前のベルリンを美しくとらえています。
and Innocent, 1937)」の美術を手がけます。キング・ヴィダーの「城砦(The Citadel,
1938)」、ロバート・スティーブンソンの「ソロモン王の財宝(King Solomon’s Mines, 1943)」などを担当した後、マイケル・パウエル/エメリッヒ・プレスバーガー監督のもとで名作を次々に担当します。「老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)」、「カンタベリー物語(A Canterbury Tale, 1944)」、「天国への階段(A Matter
of Life and Death, 1946)」そして「黒水仙(Black Narcissus, 1947)」は、イギリス映画界の美術としては屈指の出来だと思います。特に「天国への階段」の美術はずば抜けて独創的ですし、「黒水仙」はテクニカラーで描かれる美しい世界をマットペインティングで表現しきった作品です。あの崖っぷちの鐘楼や、元ハーレムだった修道院の建物の壁画などは、製作初期からユンゲがデザインしていたものでした。
崖っぷちのクライマックス アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「黒水仙(1947)」 |
オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフは、ウィーンで美術を学んでいたのですが、1913年にヨーゼフスタットの劇場で美術を担当するようになります。第一次大戦後、映画界に転身、ラインホルト・シュンツェルの映画で美術を担当していましたが、1925年にE・A・デュポンの「ヴァリエテ(Variete, 1925)」を担当してから、ユンゲとともにE・A・デュポンの下で仕事をすることが多くなります。トーキーへの移行時期にイギリスへ移住、彼もアルフレッド・ヒッチコックの「三十九夜(The 39 Steps, 1935)」、「間諜最後の日(The Secret
Agent, 1936)」、「サボタージュ(Sabotage, 1936)」で美術を担当しますが、戦争が始まる前に亡くなってしまいます。
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「間諜最後の日(1936)」のチョコレート工場 美術:オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ |
広告に載った九つの映画:男對男 (前篇)
ハンス・シュタインホフ |
Kind der Straße, 1931)」を監督しますが、一方でその二年後には有名なナチス党の宣伝映画「ヒトラー青年(Hitlerjunge Quex, 1933)」を世に出します。これは、ナチス党員だったハイニ・ヴォルカーが暴力沙汰で死亡した事件を美化した映画で、最初期のナチス・プロパガンダ映画のひとつです。シュタインホフは、この映画で勲章も授与され、名実ともにプロパガンダ映画の旗手となります。彼はナチスが政権をとる前から支持者でしたが、意外にも最後まで党員にはなりませんでした(レニ・リーフェンシュタールも、ファイト・ハーランも党員にはなっていません)。彼はゲッベルスのもとで大作を数多く手がけます。
「大嫌いだ」(ゲザ・フォン・ツィフィラ)
彼は戦争末期に「Shiva und die Galgenblume」と言う映画をプラハで撮っていましたが(どうやら戦火を逃れる口実だったようです)、ドイツが降伏したと聞くと、ベルリンに舞い戻り財産をカバンにつめると国外へ飛び立つ飛行機に乗り込みました。長い間、「シュタインホフは逃げ延びて、南米にいる」といった話が語られていましたが、この飛行機はソビエト軍に撃ち落されていたのです。今世紀になって、西イングランド大学のホルスト・クラウス博士が、その事実を確認しました。1945年4月20日、ルフトハンザ航空のユンカースJu52は、ベルリンの飛行場を飛び立って、ウィーンに向かおうとしていましたが、すぐにソビエト軍の対空高射砲の集中砲火を浴び、ベルリンの郊外にあるグリーニッヒの森に墜落しました。乗客20人が亡くなりましたが、たった一人、生き延びたクルト・ルンゲ氏をクラウス博士は見つけ出したのです。ルンゲ氏は事故現場から見つかった腕時計を見て、「ああ、これはシュタインホフが、高級腕時計だ、と私に自慢げに見せたものですね。」と確認しました。最後まで評判どおりの人物だったようです。
広告に載った九つの映画:誘惑 (後篇)
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「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」の撮影風景(filmprotal.de) この吊ってあるカーボン・アーク灯が落ちて事故になったという記述があります。 |
カメラマンのカール・ホフマン(1885 – 1947)は、10代の頃から映画業界に入って、現像技師、映写技師などを経験し、1916年にデクラ社のカメラマンとなります(1)。そこで彼は、エーリッヒ・ポマーのもと、オットー・リッペルト監督の「ホムンクルス」6部作やアルウィン・ノイシュのメロドラマの撮影を担当します。1920年にフリーランスのカメラマンになり、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, dir Spieler, 1922)」、「ニーベルンゲン(Die
Niebenlungen, 1924)」、F・W・ムルナウの「ファウスト(Faust, 1925)」などの作品に参加します。20年代の末には自ら監督もするようになりました。彼はトーキー導入によってカメラが静止してしまうのを嫌い、「トーキー技術を導入してもカメラは自由に動かせるべきだ」と考えて実践しています。「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」は、リリアン・ハーヴェイ主演のヒット作として有名ですが、カメラは実に自由に動き回っています。「麦藁帽子(Der Florentiner Hut, 1938)」は、ウーファの製作責任者だったウォルフガング・リーベンアイナーが監督し、カール・ホフマンが撮影を担当した、当時としては実験的な映画です。まず、導入部にタイトルや出演者・スタッフの字幕が無く、それらはすべて大道芸人が歌っている歌詞のなかで紹介されます。そして、映画の中では「一人称のカメラ(subjective camera, POVショット)」が頻繁に使用されます。これは主役のハインツ・リューマンの視点から見えることを移しているのですが、婚約者や訪問客とキスをするシーンなど生々しいんですね。さらにプロットを推し進めるのに、ハインツ・リューマンが映画の観客に話しかける(第4の壁を破る)のです。
「一人称のカメラ」は、劇映画では時折挿入されることはあっても、ずっと長回しで使われることはあまりありません。有名な例として、ロバート・モンゴメリーが監督(および主演)した「湖中の女(Lady in the Lake, 1947)」で、これは全編「一人称のカメラ」でフィリップ・マーロウの世界を表現しようとしたのですが、実験的すぎたようです。「麦藁帽子」では、ハインツ・リューマンのコメディということもあって、むしろ良い効果を挙げているかもしれません。
カール・ホフマンは戦争末期にアグファカラーの「すばらしい日(Ein toller
Tag, 1945)」にも参加しますが、それが最後の仕事となりました。
美術を担当したハンス・ヤコビー(1904 – 1963)は、むしろ脚本家として有名です。1933年にナチスが政権をとったときにはスペインに亡命、そこで内戦が勃発すると、ローマからパリへと向かいます。しかし、ここもナチス・ドイツによって占領されるわけで、逃げる先々にファシストたちがやってきてしまう。なんとかアメリカに亡命してユニバーサルにもぐりこみます。ここで彼は「オペラ座の怪人(Phantom of the Opera, 1943)」そしてターザンシリーズの脚本を共同執筆します。ハンフリー・ボガートのサンタナ・ピクチャーズの「モロッコ慕情(Sirocco, 1951)」も彼の脚本です。50年代にドイツに帰国し、ハインツ・リューマンのヒット作を書きました。
「誘惑」は恐らく全く人口に膾炙することなく忘れ去られてしまったのでしょう。プリントも存在も確認できません。ランプレヒト監督が「第五階級」の直前に撮った作品ですが、その萌芽はこの作品にあったのか、と言う点は気になりますが。
(1)Hans-Michael Bock, Tim Bergfelder ed., “The Concise Cinegraph: Encyclopedia of German Cinema”
広告に載った九つの映画:誘惑 (前篇)
ゲルハルト・ランプレヒト監督 (「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」の撮影中、filmportal.de) |
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誘惑
ファニー・カールセン、イワン・スミス 脚本
カール・ホフマン 撮影
ハンス・ヤコビー 美術
アルベルト・ポマー、デア・フィルム、ウーファ 製作
(UFA)
ウーファ 配給
(UFA)
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Schwarze Huser, 1932)」、「真紅の恋(Spione am Werk, 1933)」など良質なエンターテーメントで知られています。しかし、近年になって見直されているのが、サイレント期に撮られた「第五階級(Der Verrufenen, 1925)」、「私生児(Die Unehelichen,
1926)」、「互いの中の人々(Menschen untereinander, 1926)」という三部作です。これらは、当時のドイツの最下層の人々の生活を描いた社会派の作品で、数年後のキング・ヴィダー監督の「群集(The Crowd, 1928)」や、戦後イタリアのネオリアリスモを先取りしたかのような映像の作品です。「第五階級」は、ハインリッヒ・ツィレの風刺画の世界を再現しようとする試みでした。ベルリンの安アパートに暮らしていた人たち -地方からより良い賃金を求めてきたものの、結局更なる貧困に突き落とされてしまった人たちー の生活を、ユーモアを交えて赤裸々に描いて見せたツィレのイラストは、非常に人気があり、表現主義とは一線を画す、別の大都会の一面を浮き彫りにするものでした。それを下敷きにし、さらに発展させたランプレヒトの作品群は、社会派と位置づけられるものの、その頃台頭しつつあったプロレタリアート映画(ソビエト映画に影響を受けた一派)とは違い、自然主義的なアプローチに終始しています。
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「第五階級(Der Verrufennen, 1925)」から 無職の男達 |
トーキーへの転換時期にエーリッヒ・ケストナー原作、ビリー・ワイルダー脚本の「少年探偵団」を撮りましたが、これは爆撃で失われる前のベルリンの街 ―エーリッヒ・ケストナーが描いた街― を写し取った佳作です。30年代もいくつかのヒット作を監督、ナチスが政権を奪取した後も、彼は特に政治的な作風に陥ることはなかったようです。1945年に敗戦した直後、彼はソビエト赤軍管轄下にいてフィルムアクティフ(Filmaktiv)というグループの一員となり、1946年、東ドイツ初の映画スタジオDEFAに参加します。そこで当時のドイツ映画としては珍しい、廃墟のベルリンを舞台とした「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」を監督します。1949年には西ドイツに、そこで数作を監督しますが、このころから彼の関心事は映画史のほうへ移っていきます。彼が若いころに映写技師として働いていたときから収集し始めた膨大な映画のコレクションをもとに1962年にドイツ・シネマテークが設立されました。
広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (後篇)
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「吸血鬼(Vampyr, 1931)」カール・Th.・ドライヤー監督 ルドルフ・マテ撮影 |
Adventures of Marco Polo, 1936)アーチー・メイヨー 監督
Correspondent, 1940)アルフレッド・ヒッチコック 監督
「都会の牙(D.O.A.,1950)」 ルドルフ・マテ監督、アーネスト・ラズロ撮影 |
1940年代後半から監督に転向します。「都会の牙(D.O.A., 1950)」は最もよく知られたフィルム・ノワールの作品のひとつです。最大の理由はアメリカでパブリック・ドメインに落ちていて、安価でひどい画質のVHSが出回っていたからですが、それでも、この時期に(撮影は1949年)サンフランシスコとロスアンジェルスのロケで、ここまで印象的な映像を見せてくれる作品は稀少です。この映画は賛否両論分かれる作品で、荒唐無稽なプロットとやりきれないセリフで「ノワールの代表作とはとても言えない」という人もいます。しかし、撮影に精通したルドルフ・マテと撮影監督アーネスト・ラズロのとらえた、魔のような夜のロスの風景は飛びぬけてすばらしいと思います。ラストのブラッドベリー・ビルディングは、「ブレードランナー(Bladerunner, 1980)」「アーティスト(The Artist, 2011)」などでもロケーションに使用されました。
(1)RUDOLPH MATÉ: Great Cinematographers, http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mate.htm
(2)Issak Thorsen, Lars Gustaf: “Historical Dictionary of Scandinavian Cinema”
広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (中篇)
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アルビン・グラウ |
Grauens, 1922)F・W・ムルナウ 監督
1920年代は怒涛のごとく重要な作品でカメラを担当します。