戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)

He Walked by Night, 1948

(3部構成の第2部です。第1部はここ。)

イーグル・ライオン・フィルムズのノワール

最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と
言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。

その後、イーグル・ライオンは、この手の「粗い手触りの/gritty」ノワール作品を次々製作します。前年にコロラドで起きた刑務所脱獄をテーマにした
「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He
Walked By
Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。
Vera Caspary
「ローラ殺人事件」の原作者
イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた
しかし、なぜこの時期にイーグル・ライオンはそのようなタイプの映画を製作するようになったのでしょうか?最大の理由は、少ない予算で「A級映画のようなルック」が作れるからです。犯罪者達の世界は、最低限のセットのほうがむしろ現実味があるし、夜のロケ撮影で底辺の世界を描くことができます。それをほとんど時間もかけずにどんどん撮影してくれる監督とカメラマンがいる。俳優達だってむしろ無名のほうが真実味もあるし、自分の役柄がどうのこうのと文句もつけない。製作側としてはかなりやりやすいジャンルです。

もうひとつの理由は、イーグル・ライオン・フィルムズの実質的な製作担当だった、ブライアン・フォイにあるでしょう。彼は、もともとボードビルの出身でしたが、1930年代にハリウッドの映画製作に深くかかわるようになりました。その中で彼が作った「友達」たちが非常に「カラフルな」人たちだったのです。
ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア
にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・
マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon
City」、「He Walked By
Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]

ジョン・ロッセーリ

そういう筋金入りのマフィアが、製作の立場で関わっていたことが、どのくらい映画の表現に影響したでしょうか。「T-Men」で危険な殺し屋の役をしたチャールズ・マックグローは、この映画の撮影の頃から普段でもマフィアのようなしゃべり方になり、自分の娘に嫌われてしまいます。「He Walked
By
Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ
ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。

ちなみに「He Walked By
Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。

第3部に続く)

[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。

[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, “Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death”, Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(1)

J・アーサー・ランク製作「黒水仙(1947)」のオープニング

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる


1946年、イギリスの実業家で映画製作者、J・アーサー・ランクと、アメリカの鉄道王、ロバート・R・ヤングが、手を組んで事業に乗り出します。彼らはイーグル・ライオン・フィルムズという映画会社を設立します。そのトップに弁護士のアーサー・クリムをすえ、ワーナー・ブラザーズからブライアン・フォイをプロデューサーとして迎えました。この会社は、映画の未来を見すえようとしていました。しかし、あやふやな基盤と少し早すぎたヴィジョン、何よりも市場の動きを見誤って、4年目には消滅していました。

戦時中、この二人の実業家は、戦争が終わった後のことを考えていました。イギリスのランクは、戦争が終われば、兵士達が帰国し、さらに映画産業が拡大すると予想していました[1]。彼はその機会を逃さず、特に同じ英語圏であるアメリカでの市場を獲得するために、アメリカの映画会社と交渉を重ねます。彼が製作したイギリス映画をアメリカ国内で配給するためです [2]。しかし、MGMやパラマウントといったメジャーには相手にされず、独立系のユナイテッドと交渉を繰り返したものの、メアリー・ピックフォードやチャールズ・チャップリンとのやり取りはひどいありさまでした。結局、彼はさらにその下のランクの映画会社、Poverty Rowと呼ばれるB級映画会社をパートナーとして探すしかなかったのです。

一方でヤングは、戦争が終われば旅行産業がブームになるだろうと考えていました。戦時中はアメリカ国内での旅行が制限されていたため、観光産業は縮小していたのです。戦後の旅行ブームのときにぼやぼやしていると、市場を航空産業に取られてしまう。そう考えた彼は、長距離鉄道事業への投資を始めます。その事業展開のひとつに、長い旅行の間のアトラクションとして映画上映を考えていたようです。そして映画プリントを扱う会社 ーパテ現像所ー を買収します。ところが、取引先のある映画スタジオが現像代を払えなくなり、そのままスタジオごとヤングが買い上げることになります。他のPoverty Rowの会社からさえ「腐ったゴミ」と呼ばれたPoverty Rowの最下層、PRCです [3]。

ランクとヤングは、英国産映画をアメリカ国内で配給する会社としてイーグル・ライオン・フィルムズを興します。一方でPRCの設備を使って映画製作をすることにも乗り出したのです。

PRC製作「The Black Raven (1943)」のオープニング

典型的なPRC作品「ナボンガ(Nabonga, 1943)」
メジャーの独占はいつ終わるのか

イーグル・ライオンのトップに就任したアーサー・クリムは、もともとは映画スタジオをクライアントに持つ有名な弁護士事務所のパートナーでした。彼は当時のハリウッドが独占禁止法に抵触したビジネスをしていることを、長い経験から知っていました。また、ハリウッドの金の流れにも通じており、ビジネスの側面については裏まで知り尽くしていた男です。独占禁止法違反として、1940年にメジャー5社に対して出された判決は、他の中小のスタジオが公平な配給を受けられるようになる道筋となるはずでした。しかし、メジャーはのらりくらりとして、判決に従いません。1945年に更なる独占禁止法違反でハリウッド映画会社8社が訴えられます。クリムはまさにこのタイミングで映画スタジオと配給の会社を任されるのです。彼は、国の判決でメジャー8社が映画館チェーンを切り離さざるを得なくなれば、独立系の製作会社にも有利な配給ができるようになると思っていました。

1946年から製作に着手したイーグル・ライオンでは、ヤングが準備した1200万ドルを元手に6作品を手がけます。そのどれも100万ドル以上の製作費をかけて、メジャーの配給チェーン、すなわち封切りの一番館に配給できるように狙っていました。映画のクオリティを引き上げれば、必ずチャンスはあると考えていたのです。

イーグル・ライオン・フィルムズ製作「虚しき勝利(1948)」のオープニング

うまくいかないビジネス

イーグル・ライオンが当てにしていた目論見は外れるばかりでした。戦後、アメリカ国内での映画の興行成績は無残な状態に陥ったのです。兵士達は帰還しました。しかし、彼らは家庭を持ち、子供が産まれ、夜に映画を行くよりも、家でラジオを聴くようになっていたのです。また、GIビルという制度で、多くの帰還兵は大学に入学、出費を抑えるためにも、映画館から足は遠のいてしまったのです。

映画の配給も、メジャー各社は心を入れ替えようとはしません。実質的なブロック・ブッキングは続き、「クオリティが低い」とPoverty Rowの作品は買い叩かれるか、2番館、3番館でしか興行できない状態が続きます。おまけにメジャー各社がBユニットで2本立て興行の添え物も製作する体制が出来上がり、ハリウッド全体が完全な供給過剰に陥っていたのです。1946-47年のシーズンは、イーグル・ライオンは大幅な赤字に転落、戦略の転換を余儀なくされます。自社での製作はやめ、独立プロデューサーに資金の一部を調達、その配給権を得るというビジネスにするのです。このシステムで、ブライアン・フォイ、エドワード・スモール、ウォルター・ワンガーといった、メジャーから独立したプロデューサーたちがイーグル・ライオンで映画製作をすることになります。そして、大幅に削減された予算のもとで、一連のフィルム・ノワールの作品が誕生します。

第2部につづく)

<注>
[1]J・アーサー・ランクは1944年にイーグル・ライオン配給会社を設立し、世界中に配給網を拡大することに乗り出します。そして、戦時中にもかかわらず、デンマーク、 オランダ、フィンランド、スェーデン、チェコスロバキア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、シリア、パレスチナ、アビッシニア、インド、シンガポールなどに支社を設立しました。(Geoffry Macnab, “J. Arthur Rank and the British Film Industry”, p.80 [1993] )


[2] J・アーサー・ランクが製作した主要作品リスト
老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)
ヘンリー五世(Henry V, 1944)
天国への階段(The Matter of Life and Death, 1945)
黒水仙(Black Narcissus, 1947)
赤い靴(The Red Shoes, 1948)

[3] PRCが製作した主要作品リスト
The Devil Bat, 1940
コレヒドール(Cooregidor, 1943)
Nabonga, 1943
まわり道(Detour, 1945)

カメラが多すぎる

イントゥ・ザ・ストーム(Into the Strom, 2014)」を観たのだが、何かがしっくりこない。いや、別に期待していたわけではない。これはアメリカ国内では頻繁に起きるトルネードを題材にした、パニック映画だ。それ以上の期待はしていなかった。むしろ、そこそこのプログラム・ピクチャー、アクションとイメージが売り物のハリウッド製品、90分で楽しんだら、次の週には題名も覚えているか怪しいような、それで構わない映画を期待していた。しかし、もう一週間以上経とうかと言うのに、題名どころか色んなものが引っかかったまま、残ってしまった。「ファウンド・フッテージ」ものとして始まったはずなのに、途中でカメラのPOVに統一性がなくなって、サウンドトラックもNon-Diegeticになるような破綻が見られるから、そのいい加減さに呆れたのか?そういう部分もあるが、それよりももっと痛々しい感じがしたのだ。人物造形があまりに単純で薄っぺらいからだろうか?この映画並みか、それ以下の人物造形の映画はざらにある。ご都合主義の脚本も、科学的に怪しいあれもこれも、そんなのは承知のうえだった。この映画が、そういう問題を抱えることになった、もっと奥底の理由があるような気がする。
この映画の撮影自体は2012年に完了している。映画の企画自体はもう少し前からあっただろう。この映画の企画が進められる背景には、2012年以前に「ストーム・チェーサー」というリアリティTV番組がそこそこ人気があった事が大きく影響しているはずだ(日本では「追跡!竜巻突入チーム」という題名で放映されていたらしい)。これは、実際にアメリカの各地で発生するトルネードの映像を撮ろうとする「命知らずの追っかけ屋(ストーム・チェーサー)」に密着して、「科学調査」の名の下に行われる、彼らの勇敢/無謀な行動をTV番組に仕立てたものだ。映画に出てくるトルネード撮影用特殊装甲車「タイタス」も、この番組内で登場する装甲車がモデルになっているのは一目瞭然である。だが、この番組も人気が下降して、2012年に終了してしまう。「イントゥ・ザ・ストーム」の撮影が進んでいる頃だ。
SRV Dominator
ディスカバリーチャンネルの「Storm Chaser」にも登場した装甲車
Wikipediaより)
翌年の2013年5月には超弩級(EF5という)のトルネードが二つもオクラホマを襲った。そのうちのひとつ、エル・リノの街を襲ったトルネードは、史上最大のサイズとされ、小学校を跡形もなく吹き飛ばし、10トンもあるガスタンクを900mも吹き上げて小学校に叩きつけた。ムーアの町を襲ったトルネードは24人もの犠牲者を出している。こういった実被害が「イントゥ・ザ・ストーム」製作側にどういう影響を与えたかは分からない。しかし、そもそもトルネードのパニック映画を製作する時点で、そういったことは予想していたはずだ。撮影前の2011年に158人もの犠牲者を出したミズーリのトルネードもあるし、そんなことを言ったら、トルネードの被害は毎年ある。トルネード被害者に対して無神経にならないような最低限の工夫は、脚本や演出の上でももちろん施されていた。しかし、このエル・リノのトルネードでティム・サマラスをはじめとする3人のストーム・チェーサーが事故死したことは、製作者側をことさらに敏感にしたかもしれない。ティム・サマラスは「ストーム・チェーサーというよりは気象研究者」という評価が高かっただけに、「イントゥ・ザ・ストーム」の中でのキャラクター達の扱いは再検討されたとしてもおかしくない。
このオクラホマのトルネードの際に一般人が撮影したビデオがいくつかYouTubeにあるのだが、この動画を以前見た記憶があって、「イントゥ・ザ・ストーム」を見た後にふと思い出した。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Q7X3fyId2U0]
これが印象に残ったのは、今思うとその映像もさることながら「”Loaded Gun” Warning」という言葉だったかもしれない。『弾が込められた銃』警報。気象状況を武器に見立て、いつ殺戮を起してもおかしくないことを、このように表現したのだ。たった3つの単語だが、トルネードが襲う土地が染み付いた言葉だ。オクラホマという、南部の州、銃所持を支持する層が多く、銃規制もゆるい。そして、それが言葉に滲み出して、気象現象に南部のアクセントが聞こえる。
さらにこの映像では、パニックを起した女性が登場する。私がなぜか忘れられないのは、彼女が手にしているコーラのボトルとタバコだった。
あるいは「Ugly」と言う言葉。トルネードを表す形容詞として、「Ugly」が幾度も発せられる。ひとは、突然の危険や事故に遭遇すると、同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すことがある。まるで念仏か祈りの言葉のように繰り返す。その言葉を発することで浄化しているかのように。
トルネードが道の向こうでゆっくりと町を破壊している、その強烈な映像よりも、そんな些細なことのほうが引っかかって残ってしまった。このYouTubeのページで右の「おすすめ」を見ればわかるようにトルネードの強烈な映像はもっと他にもたくさんある。多くの人が手にカメラを、スマートフォンを持って、自分の住んでいる場所の向こうを通り過ぎる「弾が込められた銃」を撮影している。
カメラが多すぎるのだ。
何も誰かが手に持っているカメラだけではない。むしろ、全世界で最も大量の映像を撮影しながら、その大部分は人間に見られることなく削除されているカメラの一群がある。セキュリティ・カメラ、CCTVだ。
このオクラホマのトルネードでも、小学校のCCTVに撮影された映像が残されていて、YouTubeで閲覧することができる。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJPGuMfnty4]
トルネードを撮影するために設置されたわけではない。だから、クリーンな映像ではないし、アングルも光量も「トルネードの破壊力を見る」にはベストではない。けれども私達はその前提を理解しているがゆえに、そのすさまじさを思考の中で増幅してしまう。
実は「イントゥ・ザ・ストーム」は、映像を取り巻くこういった環境について非常に意識的だ。卒業式で、ほぼ全ての卒業生達がスマートフォンで校長のスピーチを撮影している。センセーショナルな動画を撮影して、YouTubeでのヒット数を稼ぐことだけに人生を費やしている二人組の男。高校にトルネードが押し寄せるときには、CCTVの映像が挿入され、主人公の兄弟は、タイム・カプセルに入れるためのビデオを撮影している。この兄弟やストーム・チェーサーのビデオが折り重なるようにして、ストーリーが展開するのだが、どこか優柔不断なままつなげられていく。手持ちカメラはいつもほぼ完璧なフレーミングだ。素人のカメラワークのような、撮影者の靴が何分も写っていたり、天井が写されたまま会話が進行したり、指が画面の半分を覆ったままトルネードが写っていたりするようなことはない。本人達がカメラの存在を忘れてしまっているであろう場面でも、カメラはちゃんとフレーム内にアクションを捉えている。CCTVもトルネードの破壊力を見せ付けるべく特等席に設置されている。迫り来るトルネードを撮影したビデオでも、会話はちゃんと聞こえ、マイクを襲う強風のノイズは聞こえない。登場人物たちも「逃げろ!」と叫ぶ。「下がれ、下がれ、下がれ、下がれ・・・・下がれ、下がれ、下がれ、下がれ!」ではない。トルネードを撮影するためにTV局はヘリコプターを飛ばし、「警報が発令されました」と報道するが、「弾が込められた銃警報」とは言わない。
そうするしかなかったのだろう。靴が映ったまま3分も会話が流れるような映像にするわけにもいかないし、「撮影範囲の廊下の角を曲がったところが吹き飛ばされたので、特に何も写っていないCCTV」設定にはできない。ハリウッドの映画に求められているのは、そんなことではなくて「プロフェッショナルな」エンターテーメントだ。カメラは特等席でなければならない。あるいはハリウッドはそういうものを観客は求めていると思っている。しかし、この氾濫するカメラとそれがとらえ続けている映像について意識すればするほど、プロフェッショナルであること、特等席のカメラは弱点になっていってしまう。結局、見所をつくるとすれば、飛行機が巻き上げられるとか、炎の竜巻とか、あるいは「オズの魔法使(Wizard of Oz, 1939)」みたいにトルネードに巻き上げられて「別世界」を見てくるとか、そんなところになってしまう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WhQySxqSANU]

この映画はアメリカではすこぶる評判が悪い(Rotten TomatoのTomatometerは21%)。理解できる。彼らにとっては、トルネードの驚異/脅威はわざわざVFXで見直さないといけないものではない。ましてリアリティTVやYouTubeに氾濫する映像の「不完全さ」が、それを真似しきれないハリウッド映画をあざ笑っているように思える。

フィルムに写った空は曇っていた

(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)

透明で無形な媒介

アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。
そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。
たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?
サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。
パンクロマティック・フィルムと南海映画
初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。
1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。
このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。
肌の色、髪の色
ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。
パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。
今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?

彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない

フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、

映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。

– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992

撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。

吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20

他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。

高感度フィルム

1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。

当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。

グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。

ハイスピード・レンズ

1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。

特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。

反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。

上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影
コントラスト、細い線の再現性に差が現れている
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。
光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。

フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。

強力な照明

スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。

科学、技術そして標準化

上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。

ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。

現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。

書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。

フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。

近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。

1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。

広告に載った九つの映画:表現主義はただのゲームにすぎない

「ドクトル・マブゼ」

「時代の雰囲気」

「ドイツ表現主義映画」に関しては「ワイマール期の暗い時勢を反映している」とか「第一次世界大戦後の政情不安や文化的な危機を捉えている」といった、「時代の雰囲気」とのかかわりに言及する表現が良く見られます。私も使いました。しかし、実際に「時代の雰囲気」を反映しているとはどういうことなのか、本当に反映していたのか、という点は一度立ち戻って考えないといけないでしょう。

フリッツ・ラング監督の「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, der Spieler – Ein Bild der Zeit, 1921)」は、原題が示すとおり「時代を映すもの」という触れ込みで公開されました。1921年から22年のドイツでは、インフレーションが日々深刻さを増し、失業者、あるいは職があっても貧困にあえぐ大半の民衆と、闇取引や投資で極端な富をかき集め、その金でギャンブルに興じる者たちの二極化が起きていました。当時のベルリンで生まれた言葉で「Raffke」というのがあります。これは新興成金、特に戦後の混乱に乗じて儲けた者たちを指しており、フリッツ・ラングは、マブゼをこのRaffkeをイメージして造形したとインタビューで述べています[3]。Gerald D. Feldmanによれば、

(Raffkeと呼ばれる新興成金は)ルーベンスの絵を「中古」といって買い叩こうとし、オペラ観賞中でも瓶ビールをラッパ飲みし、ベルリンの夜の下品な遊びの合間に高尚な芸術らしきものを漁る人物だ。表現主義絵画を税金対策か投資目的で購入し、家の書棚は読みもしない本がつまっている。[10]

Gerald D. Feldman

当時の流行歌には「(Raffkeは)シャンペン、ロブスター、女、なんでも買える男、家のトイレに飾る絵を注文できるけど、ボッティチェリってコニャックかチーズかも分からない… 儲けた金は全部ドル建てで英国銀行に預金してますよ」と皮肉られています。

ラング自身は「ドクトル・マブゼ」は「表現主義映画」ではないと繰り返し述べています。この映画の中で表現主義絵画のコレクターであるグラーフ・トールトとマブゼの間でこんなやり取りがあります。

トールト:博士、表現主義についはいかがお考えですか?

マブゼ:表現主義なんてゲーム(Spielerei)にすぎません。しかし、どうでしょう?今日ではすべてゲーム(Spielerei)です。

トールト:すべてゲームと言えば、博士、ポーカーを始めてもかまいませんかね?

Mabuse

Spielereiは英語のPlayにあたり、遊び、ゲーム、ギミック、そしてギャンブルといった意味を含んでいますが、この映画のタイトル自体が、マブゼをSpielerと呼んでいる事も考え合わせると非常に示唆的です。実際、表現主義とはどんな運動だったのでしょうか。表現主義詩人のエルンスト・ブラスの言葉にこんな一節があります。

何があの空気を支配していたのだ?とりわけ、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ、フロイトも、そしてヴィーデキンドもだ。望まれていたのは、ポスト理性主義のディオニソス。ヴァン・ゴッホは燃え上がるように凝縮し、若々しい誠実さ、親近感、深遠さに満ち、印象主義や自然主義に対抗して、表現と強烈な経験を意味したのだー露出と幻惑[…]自分を表現する勇気。ニーチェ、それは自分自身であることの勇気。フロイト、それは自分自身に隠された深遠と問題。ヴィーデキンド、それは爆発する人間関係の問題(しかも美しいヴィジョンだ)。

表現主義はその起源に自然主義への懐疑と反発があります。「あるがままに表現する」という外部からの視点に対し、あるいは印象主義の「外見を描写する」という姿勢に対して、「自らの主観」を表現することを目指しました。当時の芸術活動は様々なアヴァンギャルドの流派が生まれては消え去っており、表現主義はその中でも境界が曖昧で、他の芸術活動とも密接に関わっています。ブラスの詩にもあるように、表現主義はヴァン・ゴッホ、ニーチェ、フロイトに強い影響をうけていますが、さらに大きくは、ヨーロッパ文化を支配していた理性主義の崩壊を第一次世界大戦に見ていたのです。マブゼが「幸福などない、あるのは『力への意思』だ!」というのも、彼の思想の下敷きはニーチェにあることを示唆しています。しかし、マブゼが、-そしてフリッツ・ラングやテア・フォン・ハルボウがー どこまでニーチェを理解しているかと言うと、それはかなり怪しい。ましてや、当時は、ニーチェの妹、エリザベートによって編集された「力への意思」がポピュラーであったことを考えると、今現在我々が考える「ニーチェ」とはずいぶん違うとらえ方がされていたのでしょう。むしろ、ラングは表現主義、そしてその根底に流れる「文化」と呼ばれていたものが当時、投資の対象であったり、ステータスを示唆するものであったりしたことを認識していて、それを「対象」としてあらわしていたのではないかと思うのです。ラングからすれば、「ドクトル・マブゼ」は表現主義の映画ではなく、表現主義についての映画だったということもできると思います。

1920年代から30年代におけるフリッツ・ラングの軌跡(あるいはテア・フォン・ハルボウの軌跡)は、当時の社会状況の鏡像ともいえます。「ニーベルンゲン(Der Niebelungen, 1924/25)」は第一次世界大戦終盤で起きたと論争されていた「背中からの一刺し」を背景のコンテクストとしてもっていますし、「メトロポリス(Metropolis, 1927)」はワイマール期に顕著になった支配層と労働者層の分断をテーマにしたものの、結局、それは解決されえないことであることをあらわにした作品でした。保守派も共産党も、支配層も労働者層も、当時のワイマール政権には裏切られたという感情では一致していた。その不満は様々な形で噴出するけれども、保守派は自分たちが主導権を握ることを極力避けようとしたし、プロレタリアートは政権を狙えるほどの力にはまだ程遠かった。その状況で、「力への意思」を味付けに使い、「背中からの一刺し」でドイツ伝統のドラマを現代に焼きなおし、「指導者と労働者の和解」をテクノ・フェチの言い訳に使った、のが彼らの軌跡ではないでしょうか。フリッツ・ラング自身はナショナリストだったと言われていますが、決して一貫した主張を持っていたわけではないようです。そして、それはウーファのスタッフや技術者にも共通に見られる性格のものでした。象徴的なエピソードとしてクライメイヤーは、「メトロポリス」に関わったスタッフが、一方で非常に高度な芸術性とそれを達成する技術を持っていながら、この映画のもつ「哲学性」についてはラングやハルボウのうわついた発言を無味乾燥に繰り返すだけであったことを指摘しています[3]。このエピソードは、もともとマックス・ラインハルトの表現主義演劇が、政治的志向を持たない、新しい流行好きの中産階級を観客としてターゲットにしていたことを思い出させます[11]。どのような政治的なスタンスにもコミットしない(あるいはしたくても出来ない)けれども、主観的な世界を投影することで「自意識の問題」を投げかけているかのように見える、けれども、それはいったいどんな問題なのかは、実は明示されない、という仕掛け。「カリガリ博士」はいったい何を問いかけているのか?第一次世界大戦時のドイツ帝政と国民の関係の比喩、ドイツの理性主義と無意識の関係の比喩、さまざまな解釈は成り立つけれども、それらはあくまで観た者の意識の投影でしかない、という仕掛け。それは意識的にラインハルトやカール・メイヤーらが編み出した手法なのか、それとも無意識的な模索の結果なのか、あるいは当時まだ幅を利かせていた検閲をかいくぐるためだったのか。おそらく、いろんなことが同時に起こっていたのでしょう。そして、数年で表現主義と言うスタイルは廃れたけれども、ウーファの作品群、-「ニーベルンゲン」、「メトロポリス」、「最後の人」、「ファウスト」などー のなかにはその仕掛けは残り続けたように見えるのです。裏を返せば、これらの映画の視覚的な数々の試みは、そういう「仕掛け」のもとで可能になった、ともいえるかもしれません。ことドイツでは「高尚な芸術」と「低俗な芸術」の区別は現前としていて、映画を「高尚な視覚芸術」として、その消費者である中産階級にアピールする、最良の、あるいは唯一のアプローチだったのかもしれません。

直線からの距離

最初に戻って、このシリーズの発端となった広告に載った九つの映画は、ウーファの「拡大路線」の頃(1920~1925)に作られた映画ばかりです。その中には「海賊ピエトロ」や「沈黙の塔」のように、スチールを見るかぎり、ハリウッドに対抗して作られた、輸出品目としての役割を担っていたものもありました。おそらく他の作品もそうでしょう。同時代に世界の映画史上を席巻していたチャップリンやキートン、MGMやパラマウントの作品から較べれば、本当にこれらの映画が人を呼べたかどうかは分かりません。しかし、エーリッヒ・ポマーが言ったように「新しいことをやる」ことがドイツの輸出映画として必要だったことは間違いありません。しかし、これらの輸出映画でさえ、その半分以上のプリントが存在せず、ましてやドイツ国内で大量に生産されていた国内市場向けの映画はさらに残っていない。私は最初、この九つの映画のうち少なくとも七、八本はプリントがあるんじゃないかくらいに思っていました。しかしプリントの存在が分かっているのはどうやら三本だけのようです。ウォーレンベルグの言うように「この時代の傑出した映画だけを見て、ドイツ映画を一般化するのは間違い」でしょう。「メトロポリス」でシュフタン・プロセスが使われていますが、あそこまでテクノロジーを投入して製作された映画は、あの映画だけなのです。1920年代のドイツではまだガラス・ステージ(天井までガラス張りのスタジオ)が大半を占めていて、太陽光に左右される撮影をしていたし、アグファのフィルムは粒状がひどいからコダックを使いたいとエーリッヒ・ポマーは言っていたそうです。ハリウッドのスタジオでは、日割りのスケジュール管理が一般化していたのに、ウーファでは誰が何を撮っているか、おおまかしか把握していない。ポマーが、ウーファの社内にスケジュール管理ボードを導入したのが1920年代の終わりだそうです。ハリウッドは産業として映画をみていたし、映画製作に対して、(意識的かどうかはわからないけれど)ヘンリー・フォードのように生産管理・品質管理のエンジニアリングを適用していた。マックス・ファクターがハリウッドに第一号店を構えるのが1908年。1920年代にはグロリア・スワンソンのメークアップからルドルフ・バレンチノの眉まで面倒を見ていました。トーキーになって、タングステン灯とパンクロマチック・フィルムの組み合わせに最も映えるメークアップを開発したのもマックス・ファクターです。同じ頃、ドイツではどこかの女優がウーファの映画で着た衣装を別の会社の映画で着用したのしないので訴訟騒ぎです。それくらい、総合芸術、総合産業としての映画産業の構えに差があったようです。衣装の流用について騒ぎ立てたのも、パラマウントがウーファの経営に参加していることが影響しているのではないかと思うのですが。むしろ、ハリウッドのように映画産業のあらゆる側面がすべてコントロールされていることが稀なことなのですが、その感覚で当時のドイツ映画を見ると「メトロポリス」や「最後の人」、あるいは1920年には「カリガリ博士」でさえ、ドイツ映画界の「飛び道具」だったことが意識されないかもしれません。1920年代に多くのヨーロッパの映画人たちが電灯に群がる虫のようにハリウッドに集まっていくのも「より芸術的な作品を作れる」からというよりは「合理的な映画製作」に惹かれてのことかもしれません。

同時に、これらのウーファの映画に関わった映画人たちが、その後たどった道のりは非常に興味深いものがあります。ドイツに残った多くの映画人が1945年までは精力的に映画製作に関わるものの、戦後はすっかりペースが落ちてしまう。年齢のこともありますが、あまりに断絶が大きい。これは戦後もほぼ継続的に映画製作がされていた日本とは対照的です。日本では、良きにつけ悪しきにつけ無声映画期からの映画人たちが戦後もすぐに映画を撮り続けていました。ドイツの場合は、戦後の連合国側によるプロセス、その中で特に強調されたゲッベルスと宣伝省の影についての解釈が、「わかりやすい部分」に集中してしまったのは否めません。「ユダヤ人ズース(Jud Süß, 1940)」や「永遠のユダヤ人(Der ewige Jude, 1940)」、「意思の勝利(Triumph des Willen, 1935)」や「オリンピア(Olympia, 1938)」といった作品と、アウシュビッツやダッハウの収容所が直線で結ばれて、そこで話が完結してしまった。むろん、そんなに話は単純ではないのですが、当時も今もその直線からの距離と言う点で、映画やそこに関わった人たちが語られるし、あるいは逆にその直線をさっぱり消し去って映画だけを評論しようとしたりするわけです。ナチス政権下の「娯楽映画」も、ゲッベルスによって特に強化されたわけではなく、もともと娯楽映画が主流の映画産業だったし、ワイマール期の厳しい経済状況からの逃避と第三帝国期の戦争やファシズムからの逃避は決して無関係ではないでしょう。

おそらく現実はなんかもっとねばっとしたやりきれないものがたくさんあったのではないでしょうか。ドイツを出る直前のビリー・ワイルダーと「豚野郎」ハンス・シュタインホフは一緒に仕事をしたこともあれば、ドイツ映画界きってのスター、ハンス・アルバースはナチ党員ではあったものの、ナチスが嫌いで、ユダヤ人の恋人がいた。カール・リッターはプロパガンダ映画の巨匠だと言われ続けてきたけれども、ゲッベルスは彼には嫌気がさしていて映画を作らせたくなかったという。フリッツ・ラングはゲッベルスとの会見の後、すぐにベルリンを脱出したと嘯いているけれど、彼はナチスが結成した労働組合NSBOの委員長の一人で、ドイツを脱出したのはもっと後になってからということも分かっています。彼の「ドクトル・マブゼ」が反ナチ映画という位置づけになったのも、「死刑執行人もまた死す(Hangmen Also Die, 1943)」の公開とほぼ同時に「ドクトル・マブゼ」が米国で公開されたときのPRだった可能性もあります。エドガー・G・ウルマーにいたっては、何がなんだか分かりません(本当に15歳で「カリガリ博士」や「ゴーレム」に参加したのか、とか、「タブウ(Tabu, 1930)」と「日曜日の人々(Menschen am Sonntag, 1930)」をタヒチとベルリンで同時期に参加できたのか、とか)。多くの記述が、あとになってから書かれたものであり、都合よく誇張されたり消去されたりしている面が多いのです。それは、ナチスとの関係だけでなく、「だれそれと私は仕事をした」とか「あの映画には私も関わった」といった類の話も、誇張されているものが多いのです。「なにが本当だったのかは、もうよくわからない」というこの状況は、それでも永年多くの映画史家や批評家が地道に様々な資料を紐解いた結果でもあるのです。この「よくわからない」けれど、わずかながら遺された映画がもう一度遠く離れた時間で見直されることで、いままでずっと支配的だった、直線的な「枠」みたいなものから逃れられるのかもしれません。

References

[1] シネクラブ時代: アテネ・フランセ文化センター・トークセッション. フィルムアート社, 1990.

[2] US Geological Survey 1920. Gemstones, Metals.

[3] K. Kreimeier, The Ufa Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918-1945. University of California Press, 1999.

[4] S. KracauerとL. Quaresima, From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press, 2004.

[5] L. H. Eisner, The Haunted Screen: Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt. University of California Press, 2008.

[6] C. Rogowski, 「Movies, Money, and Mystique」, Weimar Cinema: An Essential Guide to Classic Films of the Era, Columbia University Press.

[7] T. Elsaesser, Weimar Cinema and After: Germany’s Historical Imaginary. Routledge, 2000.

[8] H. H. WollenbergとR. A. Manvell, Fifty Years of German Film, by H. H. Wollenberg. [Introduction by Roger Manvell. Translated by Ernst Sigler.].the Falcon press, 1948.

[9] U. Hardt, From Caligari to California: Erich Pommer’s Life in the International Film Wars. Berghahn Books, 1996.

[10] G. D. Feldman, The Great Disorder: Politics, Economics, and Society in the German Inflation, 1914-1924. Oxford University Press, USA, 1993.

[11] W. Grange, Historical Dictionary of German Theater. Scarecrow Press, 2006.

広告に載った九つの映画:カリガリから憑かれたスクリーンを通って

ハリウッドで製作された「人類の破滅(Human Wreckage, 1923)」のセット
(Kevin Brownlow, “Behind the Mask of Innocence”より)

「カリガリから憑かれたスクリーンを通って」

この時代のドイツ映画について考える上で避けて通れない二冊の本があります。ジークフリード・クラカワーの「カリガリからヒトラーへ(From Caligari to Hitler, A psychological History of the German Film)」[1]とロッテ・アイズナーの「憑かれたスクリーン(The Haunted Screen)」[2]です。

「カリガリからヒトラーへ」では、「カリガリ博士」の博士とチェザーレの関係に、その後のヒトラーとドイツ民衆の関係の萌芽を見ていました。シナリオの変更も含めて、あのいびつな風景のいびつな物語が、第一次世界大戦直後のドイツに現れたことに、混沌とした時代の象徴を見るのはたやすいです。そして、「催眠状態の私たち」と「それを操る男」の対比に、十数年後のドイツ国民の熱狂を重ね、アヴァンギャルド芸術の前進性とナチスの異常性を結び付けていくのは、一見説得力のあるものでした。しかし、これはかなり強引な「時代」と「作品」との結びつけで、その後多くの人が批判しています。

ドイツ表現主義映画を批評・分析したもうひとつの書籍として有名なのは、ロッテ・アイズナーの「憑かれたスクリーン(The Haunted Screen)」です。これは、美術史的見地から映画における表現主義の源とその展開を論じています。「カリガリ博士」に見られる視覚美術の形式は、19世紀のドイツロマン派芸術や、ゴシック文学にその源泉があるとアイズナーは考えていました。たとえば、象徴主義の画家、アルノルト・ベックリン(1827 – 1901)の絵画がフリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」に与えた影響を指摘し、E・T・A・ホフマン(1776 – 1822)の小説が作り出したキャラクターや幻想世界が「プラハの学生」、「カリガリ博士」、「ノスフェラトゥ」、「戦く影」などの原型となったという分析は、「表現主義」の語彙を理解するうえで画期的なものでした。さらにマックス・ラインハルトの演劇芸術の影響が、多くの表現主義映画の源にあるという指摘も非常に重要なものです。

しかし、映画史家バリー・ソルトは、当時の表現主義映画は、マックス・ラインハルトだけではなく、広く当時のドイツ演劇全般から受けていたこと、さらに陰影の強い照明スタイルは、ごく初期のアメリカ映画にも見られ、すべてドイツ起源と考えることはできないと反論しています。特に、後世になって「私はマックス・ラインハルトの劇場で美術を担当していた」とか「舞台監督をした」ということを言い出す映画関係者が多く、それらの話をどこまで信用してよいのかわからないことも合わせて考慮すべきかもしれません。

Thomas Elsaesserの“Weimar Cinema And After”に以下のような記述があります[3]。

亡命者として、(アイズナーとクラカワー)両者は、自分たちを受け入れてくれた国(注:アイズナーはフランスに亡命、クラカワーはアメリカに亡命)に貢献しようとしていた。これらの国にはドイツに対する偏向や偏見がはびこる一方で、西ドイツは「第三帝国」の実質上の後継者としての責任の取り方を模索していた。彼らはこの二つの文化の間を取り持つ必要があったのだ。同時に、個人的なレベルで、彼らは自分たちの庇護者に感謝し、彼らの本はそのような恩人たちへのお礼でもあった、-アイズナーは(シネマテーク・フランセーズの)アンリ・ラングロワのもとで働いていたし、クラカワーはニューヨーク近代美術館のアイリス・バリー、社会学研究所に負うところが大きく、アメリカ政府の仕事もしていた。

Thomas Elsaesser

この国際的に影響力のあった二冊の本と同時期にドイツ国内で出版された「ドイツ映画の50年(H.H.Wollenberg著)」という本では、クラカワーやアイズナーの見地とは全く対抗する意見が見られます[4]。

海外では、1920年から30年の『古典の時代』におけるドイツ映画は不気味なテーマを好み、それはドイツ人の精神構造に由来するという考えが一般的だ。私はこの見方が全く間違っていることを証明しようとしてきた。この誤謬が広がっている理由として、(その時代に製作された)非常に大量のドイツ映画の中から一握りの映画しか見ていないことが考えられる。この時代の傑出した映画だけを見て、ドイツ映画を一般化するのは間違いだ。大部分の映画は一シーズンでその寿命を全うしたし、そういうものだったのだ。

H.H.Wollenberg

ある時代の映画史を一部の名作や問題作に代表させて、そこから読み解こうとするのは「作家主義」の視点の映画史の陥穽です。しかし、クラカワーとアイズナーの二人の映画史はあまりに影響力が大きく、「ドイツ表現主義映画」という語彙も定着してしまった。多くの映画批評がそれを解きほぐそうとしていますが、「一シーズンでその寿命を全うした」映画の大部分はプリントが行方不明、紛失し、同時代の証言や資料も矛盾や誤解に満ちており(『カリガリからハリウッド』には「カリガリ博士」の誕生の経緯を調査しても矛盾だらけで、何が真実か全く不明である様子が描かれています)、おそらく事態はこれからも不明のままであろうと思われます。

「表現主義なんてただのゲームに過ぎない」

表現主義が出現した経緯について、その当事者、エーリッヒ・ポマーはこんなことを言っています[5]。

ドイツ映画界は儲けるために『様式的映画』を作った…ドイツは敗戦していたんだ。どうやったら、他の国と競争できる映画を作ることができる?試すことさえできない、だから新しいことをやった。それが『表現主義映画』とか『様式的映画』というわけさ。

Erich Pommer

「カリガリ博士」は最初から国外の映画と競争する目的 ―それが国内市場であろうと、国際市場であろうと― で製作されていました。ゴシック的な文学モチーフ、キャラクター、催眠術という近代型オカルト、フロイトの精神分析学や、20世紀初頭の舞台芸術、構成主義などのアヴァンギャルド視覚芸術と言った、「ドイツ中産階級が文化と思っているもの」をごちゃ混ぜにして提示した。それは、ドイツ的と思われていた「道具箱」をひっくり返して詰め込んだに過ぎないものです。この高尚な芸術の寄せ集めは、当時ハリウッドを中心に主流だった国際的なテーマと求心力をもった映画、たとえばグリフィスやチャップリン、メアリー・ピックフォードの映画とは一線を画していました。しかし、同時に第一次世界大戦で世界が嫌悪した「帝政ドイツ」の匂いを全く感じさせないものでもあったのです。そこが、彼らのセールスポイントであり、ゆえに国際的に見事に成功をおさめたのです。

ともあれ「カリガリ博士」の視覚芸術が1920年代の映画界にとって衝撃的だったことは間違いなく、直接的に影響を受けた作品が現れます。ドイツ国内では、ヴィーネ自身が監督した「ゲニーネ(Genuine, 1920)」「罪と罰(Raskolnilov, 1923)」のほか、「朝から夜まで(Von Morgen bis Mittelnacht, 1920)」「トルグ(Torgus, 1921)」「裏町の怪老窟(Das Wathsfigurenkabinett, 1924)」などがありますし、フランスではマルセル・レルビエ監督の「人でなしの女(L’inhumaine, 1923)」が顕著な影響を受けているのがわかります。日本でも衣笠貞之助の「狂った一頁(1926)」そして現存していれば溝口健二の「血と霊(1923)」も「カリガリ博士」の影響を直接受けた作品として挙げることが出来ます。実はハリウッドにも「人類の破滅(Human Wreckage, 1923)」という作品があり(プリントは現存せず)、薬物中毒者の世界を歪んだセットで表現した画期的な作品だったようです。しかし、特にドイツ国内の作品では、その様式ばかりが先走ってしまった内容の薄いものばかりになり、最後には廃れてしまいました。

(つづく)

References

[1] S. Kracauer and L. Quaresima, From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press, 2004.

[2] L. H. Eisner, The Haunted Screen: Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt. University of California Press, 2008.

[3] T. Elsaesser, Weimar Cinema and After: Germany’s Historical Imaginary. Routledge, 2000.

[4] H. H. Wollenberg and R. A. Manvell, Fifty Years of German Film, by H. H. Wollenberg. [Introduction by Roger Manvell. Translated by Ernst Sigler.]. the Falcon press, 1948.

[5] U. Hardt, From Caligari to California: Erich Pommer’s Life in the International Film Wars. Berghahn Books, 1996.

広告に載った九つの映画:フリッツ・ラングのハリウッド訪問

フリッツ・ラングのハリウッド訪問記
「採掘リグとやしの木のあいだで」
Filmland, 1925年1月号

レンテンマルクの導入、ドーズ案とウーファの危機

よく耳にする逸話で、「フリッツ・ラングの『メトロポリス』の製作費がかさんでウーファが倒産しそうになった」というのがあります。決して間違ってはいないのですが、ウーファが危機に陥ったのはあのSF超大作だけが原因ではありません。
1923年11月に、レンテンマルクが導入されます。これは暴落したマルクを一旦停止してレンテンマルク紙幣に置き換えた政策です。これによって急降下していた貨幣価値は一夜にして下げ止まりました。ほぼ同時にアメリカが「ドーズ案」というドイツの賠償金支払い緩和策を提案し、それによってドイツの通貨と物価は安定の方向に向かいます。実はこのドーズ案には、アメリカの産業界がドイツ国内に資本を投下してビジネスを拡大したいという思惑がありました。
映画界にもこのドーズ案の波が押し寄せます。まず、それまで「マルクで儲けてもしょうがない」と手控えていたハリウッドが一挙にドイツ市場に映画を輸出してきます。今までビジネスの拡大と国内市場の事実上の独占で経済危機を乗り越えてきていたドイツ映画界が、世界最大のエンターテーメント産業の攻撃に曝されたわけです。輸入規制で国内市場の40パーセントは国内映画会社が確保できていましたが、それをウーファ、エメルカ、ナショナルなどの企業で取り合っている状態でした[3]。一方で国内の通貨が安定したために映画輸出がハイパーインフレーション期のようなわけにはいかなくなりつつありました。
映画史家ぺーター・バッハリンによると、当時アメリカ国内には22500の映画館があり、1本の映画は平均してのべ1800万から2000万人の観客を呼ぶことができたのに対し、ドイツ国内では5000の映画館で映画一本あたり約400~500万の観客だったそうです。当たり前の話ですが、市場の大きいアメリカのほうが圧倒的に映画製作には有利です。まだ事業拡大の夢から覚めないウーファの経営陣は、「ハリウッドと対抗するには、ハリウッド並みかそれ以上の(豪華な)作品を作ることだ」ということが頭から離れません。エーリッヒ・ポマーとフリッツ・ラングは「ニーベルンゲン二部作」のニューヨーク・プレミアに出席するために渡米、ハリウッドを訪れ、監督に会い、撮影現場を見学し(ラングは特に「オペラの怪人(The Phantom of the Opera, 1925)」に感動したようです)、ハリウッドのように映画を作るにはどうすればいいかを学ぼうとしました。そしてそれが実を結んだのが「メトロポリス(Metropolis, 1927)」だったのです。
しかし、すでに浪費癖のついてしまっていたウーファは、「メトロポリス」に取り掛かる前から赤字を抱えていました。1925年末には3600万マルクの赤字になっていたという数字もあります。この状況では映画を製作することもままならない、そして、それを見越してアメリカのMGM、パラマウントが融資を申し出てきたのです。そうです。「ドーズ案」の目論見がここで発揮されるわけです。ウーファの映画をアメリカで公開するのと引き換えに、ドイツ国内のウーファ直営館でアメリカ映画を公開させろと言ってきたのです。1925年の12月、この契約にウーファはサインします。ウーファはキャッシュが欲しかった。アメリカでの映画公開での外貨獲得が欲しかった。しかし、MGMとパラマウントは、ウーファに麻薬のようにアメリカ資本に依存させ、競争力を失わせることが目的でした。
実はこの時期にアルフレッド・ヒッチコックはドイツーイギリス共同製作の下、当時市場を伸ばしはじめていたドイツのエメルカで監督デビューします。「快楽の園(The pleasure Garden, 1925)」と「山鷲(The Mountain Eagle, 1926)」ですね。これも外国資本(この場合はイギリス)のドイツ国内への投入だったのです。

ウーファの崩壊

 

アメリカ資本との提携は一見、功を奏するかと思われました。しかし、事態は好転するどころか、悪化の一歩をたどったのです。ウーファの巨大プロジェクトはどれも予算をオーバーし、資金を圧迫する一方、頼みの綱だったアメリカ映画からのコミッションがさっぱりだったのです。「黙示録の四騎士(The Four Horsemen of the Apocalypse, 1921)」、レックス・イングラム監督、ルドルフ・バレンチノ主演の、アメリカ国内では大ヒット作だったのですが、MGMはこんなものを持ってきて「売れ線」だと思ったのです。第一世界大戦が舞台で、バレンチノはフランス兵として戦い、甥の嫌なやつがドイツ兵となるという、明らかにドイツ国内でヒットするわけがない映画。いや、こんな場違いな映画を持ってきたMGMの気が知れないのですが、映写技師たちがフィルムをまわすのが嫌だと言いはじめる事態になってしまいました。キング・ヴィダーの「ビッグ・パレード(The Big Parade, 1925)」は、やはり第一世界大戦を舞台に、アメリカ兵とフランス娘の恋を描く映画ですが、これをドイツで封切れと言って来る。ドイツ兵を「フリッツ野郎」と呼び、戦友が目の前でドイツ兵に撃たれる。そんな映画を押し付けてくるわけです。ほとんどパワハラですね。編集してドイツ公開バージョンを作ろうという話まで持ち上がったそうです。こんな感じですから、ウーファ系列でかかるアメリカ映画はどれも不評で、売り上げが見込めない状態が1926年から27年にわたって続いていました。
そして、キャッシュが底をつき、もはやウーファは身売りをするしかなくなってしまったのです。そして、ウーファを買い上げたのが、右派の実業家、アルフレート・ヒューゲンベルクでした。彼は巨大出版グループを経営し、「国策のために」借金まみれのウーファを買い上げるような人物でした。右派政党の国家人民党(DNVP)の国会議員として政治に深く手を染めてもいました。と同時にユダヤ人嫌いでも有名です。また、このウーファの危機に乗じて、I.G.ファーベンも経営に参加します。I.G.ファーベンは、アグファを傘下におさめており、フィルム会社と映画会社が同じ資本によって経営されるという、異例の事態が起きるのです。

(つづく)

広告に載った九つの映画:ドイツ経済と映画界

 

「インドの墓(1921)」撮影風景

インフレーションとウーファ

第一次世界大戦が終結し、ベルサイユ条約で決められた賠償金と戦時中の負債が原因で、ドイツ経済が急速に破綻をきたします。約4年間にわたるハイパーインフレーションの時代です。なぜこの時代にドイツ映画が成長したのでしょうか。これは、映画史家たちが好んで題材にしますが、いくつか重要な事柄があります。
ひとつは、ドイツ貨幣の急落によって生じた極端な貿易不均衡です。これはもちろん輸入原材料の高騰をもたらしますが、一方で輸出にとっては非常に有利になります。映画の場合、特に問題になる「原材料」はフィルム・ストックですが、ドイツは第一次大戦中にコダックからアグファに供給元を切り替えていた。フィルム・ストックの原料でも最も高価な銀は、第一次世界大戦中まではハンガリーから輸入していると思われますが、戦後は生産がストップしているので、アメリカから輸入していたかもしれません[2]。一方、ドイツ映画の輸出は戦争が終わると盛んに始まりました。エルンスト・ルビッチの「パッション」はアメリカで1920年の12月に公開され、その後、「カリガリ博士」、「インドの墓(Das indische Grabmal, 1921)」と怒涛のようにアメリカを中心に公開されます。もうこのときにはすでにドイツでは貨幣の暴落が始まっていて、これらの輸出作品によってウーファには外貨(ドル)がもたらされたのです。
一方で、国内に流れ込む外国映画(特にハリウッド映画)は規制されました。政府によって、外国映画はドイツで公開される全作品の10パーセントと決められたのです[3]。このような保護政策は一般的には質の劣化を呼ぶと考えられやすいですが、必ずしもそうではありません。映画の作品の質の向上は、市場の競争によってだけもたらされるわけではないからです。
急激なマルクの低下は、当時のドイツ企業や投資家にとって有利に働きました。融資を受けても、あっという間に貨幣価値が下がるので、放っておけば負債額がどんどん減る。だから融資を受けられる大企業は投資や買収競争に出たのです。ウーファはドイツ銀行が株主ですから、どんどん買収に打って出ました。デクラ・バイオスコップもそういう経緯で吸収されたのです。そのほかにも、中小の製作会社を買収、また配給チェーンも拡大しました。同時に製作側もウーファの資金力と配給網で公開映画の質と量を向上させることができる、という関係が築けたのです。ウーファは、吸収した製作会社にはかなりの自由度を与え、ブランドとしての地位を与えました(たとえば、デクラ・バイスコップ/ウーファという肩書きで映画を配給しました)。このマネージメントのもとで、フリッツ・ラング、F・W・ムルナウ、ヨーエ・マイ、ゲオルグ・ヤコビーなどが監督しました。
もちろん、当時のドイツ映画界に創造力豊かな、若い人材が集まってきたことは最も重要な点の一つです。大きな流れとして、演劇界からの人材の流入が映画界の才能の蓄積に寄与したことは特筆すべきことでしょう。ルドルフ・クライン=ロッゲとテア・フォン・ハルボウが舞台での仕事を辞めて映画に転向したことなどは、典型的な例です。そのほかにも美術監督のアルフレッド・ユンゲ、ロフス・グリーセ、俳優・監督のラインホルト・シュンツェルなど、多くの映画人のキャリアの出発点は舞台でした。これは、サイレント期に舞台芸術を取り入れようとしてなかなかうまくいかなったハリウッドと対照的です。

「カリガリ博士」と「パッション」

第一次世界大戦直後にドイツで製作された映画作品で非常に対照的な二つの作品があります。ローベルト・ヴィーネ監督の「カリガリ博士」とエルンスト・ルビッチ監督の「パッション」です。前者はすべてスタジオで撮影され、歪んだセット、不気味なキャラクター、陰惨で悪夢のようなプロットの作品、後者は膨大な人数のエキストラと壮大なオープンセット、豪華な衣装と美術の壮大な歴史物語です。前者はデクラ=バイオスコップ(エーリッヒ・ポマー)製作、後者はPAGU/ウーファ製作です。これこそ、当時のドイツ映画界、そしてウーファの状況を良くあらわしている一例です。
「カリガリ博士」はカール・マイヤーとハンス・ヤノヴィッツという二人の作家・脚本家が催眠術と夢遊病という無意識の世界に焦点をあてて作り出した脚本に、ロベルト・ヴィーネ・ルドルフ・マイナート監督が様式的な演技と特徴的な美術を導入して完成させた作品です。セットの書割は執拗にゆがめられ、陰影が塗りこめられている。ジークフリート・クラカワー[4]によれば、「カリガリ」の美術は当時注目を集めていた表現主義芸術やアヴァンギャルド芸術との直接的な関係があり、事実、セットを担当したヘルマン・ヴァルム、ヴァルター・リーマン、ヴァルター・レーリッヒらはアヴァンギャルド芸術家グループ「シュトルム」に参加していたと「カリガリからヒトラーへ」で述べています(注) 。あるいはそれ以前からドイツ文化の底流としてある、E・T・A・ホフマン、ノヴァーリスなどのゴシック・幻想文学、19世紀後半からのロマンチシズムの流れを汲んでいるとロッテ・アイズナーなどは考えています[5]。美術史的な出自とは別に、この映画のセット美術にはエーリッヒ・ポマーの思惑もありました。コストダウンです。当時のドイツ国内は戦後の混乱で電力供給が不安定で、また電気料金が高騰しつつありました。事実、多くの工場は生産を停止しているか、さもなければ手作業で生産をしていたくらいです。映画撮影のスタジオ内で強い陰影のデザインがある画面を造るためには、強力な照明が必要ですが、もし、陰影をセットに描いてしまえばその必要がない。弱小プロダクションの低予算映画の懐をひっくり返して「視覚芸術」として見せる、という仕掛けがあったのです。
一方、エルンスト・ルビッチ監督の「パッション」は桁外れの大作です。実は、この時期にはエルンスト・ルビッチだけではなく、ウーファとその傘下の製作会社では大作が軒並作られていました。これは、外貨獲得のためには国際市場に打って出なくてはならない、ハリウッドやフランス映画に対して競争力のあるのは観る者を圧倒する「超大作」だ、という考えがウーファの経営層と製作者・監督たちで一致したからに他なりません。なかでも、「ワイマールのスティーブン・スピルバーグ」と呼ばれる、ヨーエ・マイは東方趣味の大作を次々と手がけていました[6]。戦時中に低予算連続活劇を矢継ぎ早に出していた監督と同じ人物とは思えないくらい、細部にこだわり、誇大妄想的なビジョンで大作映画を精力的に監督し、「世界に鳴る女(Die Herrin der Welt, 1919)」、「インドの墓(Das indische Grabmal, 1921)」などのヒット作を出しています。ルビッチも「パッション」のほかに「ズムルン(Sumurun, 1920)」「デセプション(Anna Boleyn, 1920)」などを製作、ここでも紹介したクセレピィの「フリードリッヒ大帝(Friedricus Rex, 1921/22)」もそのような流れの中の作品のひとつです。これは、貨幣価値の下落と、それを上回る勢いの労働賃金の下落のなか、外貨獲得を担保にして莫大な投資をする仕組みがあったからです。
当時、映画製作の方向を模索していた当時のドイツ映画界では、この対極的な映画製作は議論の的だったようで、「『カリガリ』か『世界に鳴る女』か」という論争もあったそうです。しかし、大作は売り上げが伸びないと批判の槍玉に挙がってしまいます。ウーファの経営陣は大作の予想を下回る売り上げに批判的になり、それがもとで、ポール・ダヴィットソン、エルンスト・ルビッチ、ヨーエ・マイはウーファを飛び出してEFAを立ち上げます。これは、ハリウッドのフェイマス・プレーヤーズ・ラスキー(パラマウント)が出資して作った会社です。「パッション」のアメリカ市場での成功におののいたハリウッドがドイツ映画界の弱体化を図った、その最初の一歩でした。そして、ハイパーインフレーションと要人の暗殺やストライキといった相次ぐ政情不安が市民の生活を襲い、ウーファの大作至上主義は歯車が狂い始めました。

[つづく]

(注) しかし、近年の研究で、これら美術家と「シュトルム」には直接の関係は無かったことが指摘されており、むしろ彼らはそういう「高尚な芸術」を大衆エンターテーメントに組み込んだのだ、という意見もあります。
[2] US Geological Survey 1920. Gemstones, Metals. .
[3] K. Kreimeier, The Ufa Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918-1945. University of California Press, 1999.
[4] S. Kracauer, From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press, 2004.
[5] L. H. Eisner, The Haunted Screen: Expressionism in the German Cinema and the Influence of Max Reinhardt. University of California Press, 2008.

広告に載った九つの映画:「ズムルン」の時代

1945年までのドイツの主な映画会社(クリックで拡大)

  ウーファスタイル

ワイマール期から第三帝国期までのドイツ映画界を表現する言葉として「ウーファスタイル」は非常に良く使われます。しかし、この言葉が意味するところはあまりはっきりとしていません。実際、ウーファと言って思い浮かべるのは、「会議は踊る(Der Kongreß tanzt, 1931)」だったりしますが、同様のオペレッタやミュージカルは、ウーファだけでなく、当時のドイツ、オーストリア映画界では量産されていました。あるいはウーファの、あのシンプルだけど特長的なロゴを見ると「ニーベルンゲン二部作(Der Niebelungen, 1924)」、「最後の人(Der letze Mann, 1925)」を思い出します。フリッツ・ラングもムルナウもウーファで大作を監督しましたが、それらの作品に見られる手法や技術、表現方法が「ウーファのスタイル」としてウーファ作品に限って顕現し、他のドイツ映画群から独立していたわけではないのです。
第一次世界大戦からワイマール期に向けてのドイツ映画界は、中小の独立プロダクションが次々と現れては消えていきます。それらが果たした役割は極めて重要で、そのなかで成功を収めた会社や監督、俳優、スタッフが大きな会社に、そして最終的にはウーファに吸収されていく、という構図があります。たとえば、エルンスト・ルビッチはポール・ダヴィッドソンのPAGUで1年に数本の割合で大量生産していましたが、それがそのまま1917年にウーファに買収されました。その後もルビッチはPAGUブランドの下で「牡蠣の王女(Die Austernprinzessin, 1919)」「パッション(Madame Dubbary, 1919)」を監督します。ムルナウの場合も小さなプロダクション会社(ゴロン、プラナ)で初期の作品を作っています。「ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens, 1921)」はアルビン・グラウ/プラナフィルムが賭けに出なければ出来なかった映画です。フリッツ・ラングも「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, der Spieler – Ein Bild der Zeit, 1922)」まではデクラ・バイオスコップかウーコフィルムで監督していました。ムルナウとラングの場合には、デクラ・バイオスコップという製作会社が重要な役割を果たしています。これは1915年にエーリッヒ・ポマーが興した会社で、「カリガリ博士(Das Cabinet des Dr. Caligari, 1920)」はここで製作されました。第一次世界大戦後のドイツでウーファについで第2位の映画製作会社で、ミステリー、アドベンチャーなど、今で言う通俗的な題材の「ジャンルもの」を得意としていました。フリッツ・ラングの初期作品にそれは如実に現れていますね。しかし、デクラ・バイオスコップはウーファ資本に1922年に吸収されます。同時期に、先に吸収合併していたPAGUのポール・ダヴィッドソンとエルンスト・ルビッチがウーファを抜けてEFAを立ち上げます。エーリッヒ・ポマーはダヴィッドソンの後任の製作主担当として、1920年代の「ドイツ表現主義」とラベル付けされる数々の著名な作品を製作します。このように、非常に流動的な人材の移動が当時のドイツ映画界では起きていて、確かにその中心にウーファが存在していました。そのことが、ウーファと言う一企業をもって当時のドイツ映画界の「代名詞」として呼ぶことになったのかもしれません。

「ズムルン」の時代への道のり

 

「ズムルン(Sumurun, 1920)」
エルンスト・ルビッチ監督

 

 

故淀川長治氏がかつてインタビュー(聞き手蓮實重彦氏)でこんなことを言っていたのを思い出しました。
ところでルビッチ、いまは誰も知らないものね。名人芸だものね。意外にルビッチは誰も知らないのよね。ルビッチいうと「ズムルン(「寵姫ズムルン」)」みたいなあんな時代のことばかり知っているのね。現代のはあまり知らないのね。
「シネクラブ時代」フィルムアート社、1990年[1]
これは1990年のインタビューだから、今とずいぶん違うのかもしれません。今はむしろ「ズムルン」のほうが知られていないでしょう。「『ズムルン』みたいなあんな時代のこと」という表現が非常に面白いですね。というのも、デビューから生涯を通じてコメディの比率が高いルビッチの作品群の中で、1920年前後は歴史大作が集中している時代です。そして、ハリウッドが、「パッション」の国際的ヒットに危機感を感じて、ルビッチをドイツから引き抜いた「時代」なのです。
映画史としてはごく初期にあたるこの時期でも、すでに映画産業の国際化、正確に言うと地域間競争が始まっていたのです。そして、日本やアメリカと違い、ヨーロッパ大陸は政治的な紛争も背景に国境を越えた映画会社の進出が見られていたのです。
現在(2014年4月)、ウクライナをめぐる情勢は非常に緊張しています。今からほぼ百年前も緊張していました。1918年の前半には、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国とトルコの連合が、革命下にあったロシアにウクライナの独立を認めさせました。すると、ウーファの経営陣はウクライナに進出するために300万ドイツマルクを準備、東ヨーロッパから黒海に向けた地域の市場確保に乗り出すのです。非常に早い決断です。もちろん、この計画はその年の内に頓挫しますが、ウーファはウクライナでの配給についてロシア政府と交渉を続け、コンスタンチノープル経由で供給をするようになります。ウーファが国策会社であったという背景はあったにせよ、ヨーロッパの映画産業の状況を良くあらわしていると思います。
第一次世界大戦前のドイツの映画界の状況は決してかんばしいものではありませんでした。ドイツ国内で公開される映画の90%はフランス、アメリカ、イタリア、スカンジナビアからの輸入で「ドイツ映画」は肩身の狭い思いをしていたのです。映画館のチェーンも外国資本で、コスト競争力の面から言っても、すでにフランスやアメリカ本国で十分儲けてきた映画を安く買い取って公開するほうが儲かったのです。
しかし、第一次世界大戦が始まり、「敵国」―すなわちフランス、後にはアメリカー の映画は輸入・公開が制限され、ようやく国産の映画が映画館を埋めるようになりました。このころのドイツ映画といえば「プラーグの大学生(Der Student von Prag, 1913)」が有名ですが、むしろ主流はジャンルものの連続活劇でした。そして、小さな製作会社が、低予算で客を呼べる映画を次々とひねり出していたのです。たとえば、ジョー・ディーブスという探偵が活躍するシリーズは大人気で毎年5,6本公開されています。ステュアート・ウェブスという、これもアメリカ名の探偵連続活劇もありました。大戦の後半になって、ドイツ政府は映画業界をプロパガンダ目的で統制下におくことを考えます。当時おおやけにされることの無かった密約で、ノルディスク、メスター、PAGUの3社を合併してウーファが発足したのでした。
[つづく]

[1] シネクラブ時代: アテネ・フランセ文化センター・トークセッション. フィルムアート社, 1990.