ウクライナを映す、ウクライナを撮る

Like Dew in the Sun (2016) [Show and Tell Films]

ウクライナの領土内にロシア軍が侵攻してしまった。私達の多くは、この事態が訪れるのをまるで知らなかったかのように驚いているが、クリミアへのロシア侵攻以来、ロシアの強硬な姿勢は崩されていなかった。そして、ウクライナ国内では内戦状態がずっと続いていた。ドキュメンタリー映画のストリーミングサイト、dafilmsウクライナについての映画の特集が組まれている。少しづつ見ているのだが、この内戦状態について扱った2本の作品を紹介したい(追記:いずれも英語字幕)。

LIKE DEW IN THE SUN (2016)

監督のピーター・エンテル(Peter Entell)はニューヨーク生まれのユダヤ人で、現在はスイスに拠点を置きながら、ドキュメンタリー映画を製作している。エンテルの祖父母は、1914年にウクライナを離れてアメリカに渡った。祖父母がなぜ故郷を離れることになったのか、その故郷とはどんなところなのか、彼は祖父母の写真とわずかな手がかりだけをもって、彼らが住んでいた村を探し当てるためにウクライナを訪れる。エンテルが訪れたウクライナは、東部のロシア系分離独立派とウクライナ政府とのあいだで市民戦争状態に陥っていた。カメラは、彼の祖先を訪ねる旅を映しながらも、同時にウクライナ兵たち、そしてロシア系の分離独立軍の兵士たちを映し出す。また、一方でクリミアのバフチサライに住むタタール人の一家や、探し当てたエンテル監督の祖父母の故郷、モリカ・カリルカに住む人々の声も収めている。

このドキュメンタリーは、黒海を臨む土地をめぐって交差する、数多くの人種の争いの歴史が、時には遠景に、時には近景に現れてくるため、そのそれぞれの歴史の重みを直接感じることができない私達には、共感が横滑りして思考に詰まってしまう場面も多い。たとえば、モリカ・カリルカを訪れたエンテル監督は、住人に「もし、私の祖父母がここにとどまっていたなら、私達は隣人だったんですよ」と言ったその直後、「いや、そんなことはないか、わたしの祖父母は殺されて、私は生まれていませんね」と付け加える。ユダヤ人は激しいポグロムにさらされ、ほとんど全滅させられた。逃げた者だけが生き残ったのだ。事実、かつてユダヤ人が800人も住んでいたモリカ・カリルカには、ユダヤ人は一人もおらず、ユダヤ人の墓地も墓石がどこかに持ち去られて跡形もない。私達は、現在の村の住人たちが、その過去をおぞましいものとして語る様子を見るのだが、さて、そのユダヤ人を抹殺し、ユダヤ人の歴史を抹殺した者たちはどこへ行ったのか。その歴史を身近に経験していない私達には、その<見えない>部分が想像力の埒外に置かれてしまったままになる。また、クリミアのタタール人たちは、ロシアによる長い迫害の歴史について、「何百年も前のカーンのことをロシア人はまだ許さないのさ」という。そのクリミアは、また実質的にロシアの支配下に入り、タタール人達はマイノリティとして肩身の狭い思いをしている。このロシア人たちはどのようにしてタタール人を<許さない>のか、またウラル地方に追放しようとしているのか、私達には見えない。

そして、前景に現れるロシア分離独立派とウクライナのあいだの紛争の映像は、スマートフォンで撮影された生々しいビデオや、砲撃で殺された遺体に横たわって寄り添う女性や、ウクライナ人捕虜を虐待するロシア分離独立派兵士の映像や、大砲を撃って喜ぶ兵士たちの映像など、まったく理性を欠いた人間の行動とその結果を次々と直視させられる。電話でウクライナの指揮官と<やりあって>いるロシア分離独立派の将兵の様子は、まるで中学の不良が「やんのか、テメエ」と啖呵を切っているのを見せられているようだが、それは殺戮の宣言なのである。

随所に挿入される<像>の映像。特にバビ・ヤールのモニュメントは繰り返し登場する。ナチスに殺された子供たちのために作られたモニュメント、ソ連時代に作られた巨大なモニュメント、いずれも極めて扇情的なモチーフで、日本の広島や長崎に見られるモニュメントとは趣が違う。そこで残虐な方法で殺された人々の無念と悲しみを、可視化して絶対に後世に残すのだ、という強い執念を感じる。

そして、市井の人々が歌う歌も怨念がこもったものだ。クリミアの老婆が歌う。

Ural moutains, The horses here are no better

Crimean steppes and Crimean gardens, Live in my heart and give me joy

You who sent us away, Damn you!

May you burn and turn into ashes and be blinded for sending us away!

Don’t rejoice, you unfortunate people who live in the house we left behind

Because one day we will come back to Crimea and you will go instead to the Ural mountains

ちなみにこの映画のタイトルも、ウクライナの国歌からとられている。「敵は陽の光のなかの雫のように消えていく」という歌詞だ。

モリカ・カリルカの老婆が言う。「私にとってはみんな同じ人間、私達はみんな同じ太陽に照らされている」と。同じ太陽の光のもとでも、<敵>が雫のように消えていくことを願う歌もあれば、同じように照らされているという宣言もある。

怒りや憎悪、怨念や暴虐が、何らフィルターを介することなく表現され、そこからエスカレートした戦争も可視化されている。ロシア分離独立派がリクルートした新兵たちに宣誓をさせる様子のフッテージは、それがなんの統率もなく、およそ軍事組織とは思えない集団であることを映し出している。将兵はユダヤ人差別、同性愛差別を丸出しにして<想像のウクライナ>を敵視している。そこには、オブラートに包まれた<民族自立>といった概念は存在しない。機動力の高いデジタルカメラやスマートフォンのカメラは、そういった粗い現実の素地をすべて記録している。

そうやって、可視化されているにもかかわらず、いずれは忘れ去られていく。この映画もいずれは大量の映像の記録の山に埋もれてしまうのだろう。そして監督が訪れたモリカ・カリルカの村のユダヤ人墓地のようにわずかな痕跡しか残らないのだろう。

この作品は、その意図と語ろうとする物語は多くの人に受け入れられやすいものかもしれない。だが、決定的な瑕疵がある。それは次に紹介する映画「Show Me the War」が見せる、紛争地帯の映像の<とらえどころのなさ>について、あまりに無責任だという点だ。

SHOW ME THE WAR (2016)

Show Me the War (2016) [FAMU]

戦場にカメラを持って飛び込み、戦争の真実を伝える。だが、紛争地帯は世界中にあり、どこへ行けば<戦場>なのか、誰に会えば話を聞けるのか、すぐにはわからない。かつての従軍記者のように長期間部隊と行動を共にするような人たちは少ない。海外から来たジャーナリストやドキュメンタリー・クルーが、すぐに<戦場>を撮影できるように手配する者たちがいる。<フィクサー>と呼ばれている。

この映画では、そんなフィクサーの一人の仕事を追う。ロシア分離独立派兵士のなかにコロンビア人がいるので取材したいと、コロンビアからTV局の撮影クルーがやってきた。なぜ、こんな遠い土地で、コロンビア人が戦っているのか、インタビューしたいのだそうだ。フィクサーとして雇われたルスランは、クルーを連れてキエフから前線に向かって移動し、様々な<戦場>を見せてゆく。

ルスランとクルーは、ある町の集合住宅を訪れる。この建物は砲撃を受けた痛々しい傷跡や生存者が隠れた地下室などがあり、戦争の悲劇を見せるにはうってつけの場所なのだ。さらに、この地域では戦闘はおさまっており、安全地帯で戦争を取材できるというメリットもある。彼らが取材していると、偶然通りかかった住人の一人が言う。「私達はここに住んでいるんだよ、花も植えている、なのにどうしていつもぶっ壊れたところだけ撮影するんだろうね」と少々激昂している。ルスランは以前にも別のジャーナリストをこの場所に連れてきたようだった。一種の戦場観光のようになっているわけだ。

また別の日には、分離独立派に雇われている兵士が、誰もいない野原で射撃をしている様子を撮影する。だが、こんなものではとても遠く離れた国の視聴者が満足するわけがない。次の日、撮影クルーの女性ジャーナリストが言う。

私達が欲しいのは、軍の存在、戦車とか、そういったものなんです(中略)(昨日撮ったのは)3人の人が弾を撃っているところ。そんなのは、コロンビアでは普通なんです。

本人たちは笑いながら話していた。

近代の戦争で、映像が果たす役割は大きい。だが、実際の戦闘場面を撮るためには危険を侵さなければならないし、協力してくれる戦闘員たちがいなければ、視聴者が釘付けになるような映像は撮れない。フィクサーはそれを比較的簡単に手配してくれる。言い換えれば、いま今日の世界で戦闘の場面が映る際には、それを撮らせることを了承した人々の意図を考えなければならない。

なぜコロンビア人がウクライナで戦っているのか。傭兵だからに決まっている。実際、彼と同じ部隊にいるベトナム人は、ベトナム戦争を経験したベテランだ。現代の軍事行動では傭兵の存在は当然だし、それが多国籍にわたることも常識だ。そんな当たり前のことのために取材に来たのは、取りも直さず<戦車や大砲やミサイル>の映像が欲しかったからである。実際、クルーはフィクサーに紹介された分離独立派の将校に頼み込んで、極めて危険な撮影に出かける。彼らは帰ってきた時、非常に満足そうである。コロンビア人の取材よりも何かが爆発する映像のほうが重要なのだ。

前述の『Like Dew In The Sun』では、スマートフォンで撮影されたと思われる紛争の被害者たちの映像に「本作品のシーンの中には、インターネットからの映像もあります」という字幕が重ねられる。そのうち、どれが<インターネットからの映像>で、どれが<エンテル監督たちが撮影した映像>かが、判別し難くなっていく。<インターネットからの映像>を使用している際に、字幕で引用を明示していないからだ。明らかにアスペクト比が違うものや画質が違うもの、周囲をマスクしてサイズを小さくしたフッテージが、<インターネットからの映像>なのだろうが、見ている者にはわかりづらい。そうこうするうちに、それぞれの違う諸元の映像がエンテル監督の語りたい物語に編み込まれ、もはやそれがどこから来たかは重要でなくなってしまう。自らの物語を強化するために他の映像をこのような形で借りることは極めて危険な行為である。どこから引用されたか明らかでない、だがショッキングな数々の映像は、フィクサーによって手配され、分離独立派が、それらを世界に見せても良いと思って撮影させたものだ。分離独立派の兵士がウクライナ兵捕虜を虐待するシーン(これはインターネットから引用されたものだろう)でも、もともとは分離独立派にとって何らかの利益がある動画だったのだ。ロシアやその影響が及ぶ地域でウクライナ人や他の民族に反感を抱いている若い人間達の関心を引き、リクルートに役立つと考えていたのかもしれない。捕虜の肩章をナイフで切り取り、口に押し込んで食べさせると行った、あからさまで、映画的な演技をみるにつけ、そう思わざるを得ない。私達が<戦車や大砲やミサイル><戦場の現実><戦火に追われる人々の悲劇>を見たいと反応すればするほど、それを見せる仕掛けが現地で作動して、軍事行動をより正当化させてしまう側面もあるのではないか。

戦闘の映像を撮るための機会がこのようにして取引され、撮影されたフッテージは真実でありつつも用意周到に意味が付与されている。私達は<観る>だけではなく、実は知らぬ間に<参加>させられているとも言える。

Like Dew in the Sun

監督:Peter Entell
脚本:Peter Entell, Elizabeth Waelchli
撮影:Jón Björgvinsson
製作:Show and Tell Films
2016 スイス

Show Me the Invasion(原題:Ukažte mi válku)

監督:Zdeněk Chaloupka
撮影:Zdeněk Chaloupka
編集:Ilona Malá
音響:Miroslav Chaloupka
製作:FAMU、Smetanovo nábřeží 2、11000 Praha 1
2016 チェコ

銃に選ばれし人間

 

ジョセフ・H・ルイス監督の『拳銃魔(Gun Crazy, 1950)』について調べているときに、ハリウッドと銃の関係について、つい調べ始めてしまった。Hollywood Reporterにこんな動画があったのを見つけた。

ハリウッド、特に俳優や監督、プロデューサーはどちらかと言うと政治的にはリベラルなスタンスをとる人が多い。銃による暴力行為がニュースになると、銃規制に声を上げる映画関係者もいる。だが、セレブリティによるそういった活動にシニカルになる人達も少なくない。なぜなら、多くの映画でバイオレンスが重要な役割を果たしているし、ヒーロー達が数え切れない数の銃器を握って、困難を撃ち抜けるストーリーが語られているからだ。

この動画には「Independent Studio Services(ISS)」という映画の小道具、特に武器類を専門とする会社が紹介されている。この会社では16,000丁以上の銃器を保有し、映画撮影用の銃器のレンタルだけでなく、注文に合わせた銃器の製作、製作、撮影現場での教育、コンサルタントなども行なっている。さらには、アメリカ軍の戦闘員のトレーニングも行なっている。映画なんかでは、主人公が敵の武器を拾い上げてすぐに撃ちまくって窮地を脱するシーンなど散々製作されてきたが、実際の海兵隊員はAK-47だって触ったことがない場合がある。ISSで実際にトレーニングを受けた海兵隊員の二人が、2003年のイラク戦争の戦闘中に敵のAK-47を使って作戦を完遂した例があるという。現実はフィクションの想像力を必要としているのだ。

NRAの博物館の人が「映画で使われたもっとも有名な銃」として、『ダーティー・ハリー(Dirty Harry, 1971)』のキャラハン刑事が使用しているスミス&ウェッソンM29(”44マグナム”)を挙げている。私自身は「銃といえば44マグナム」みたいな安易な発想に少々うんざりしている。

今から30年ほど前、私はアメリカの西部のある都市で学生として住んでいた。私のアパートは大学の近くでそんな物騒なところではない。夜中の2時に80歳のおばあさんが3,000ドルの現金が入ったポーチを抱えてチワワを散歩させていても、ひったくりにさえ会わない。そんな平穏な場所だったが、ある夜の7時頃、アパートに帰ってくると、普段は誰もいない隣のアパートの駐車場に50人ほどの人が集まり、その人だかりの真ん中にパトカーが2台停まっていた。さっきまでピザを食べながら「ロザンヌ」を見ていましたという感じのスェット姿の女性に話しかけて何が起きたのと聞いてみた。このアパートに住んでいる若い女性がボーイフレンドと電話中に口論になり、激昂したボーイフレンドが、これから44マグナムを持ってお前のところに行く、と言ったらしい。若い女性はすぐに警察に連絡した。

「で、そのボーイフレンドは?」

「ほんとに来たんだよ、マグナム持って」

「え、マグナム持ってたの?」

「そ、持ってたの」

私達のそばにいた数人がほぼ同時に「Stupid」と言った。横にいた背のひょろっとした若い男がニヤニヤしながら、指で銃を作り「ゴーアヘッド、メイク・マイ・デイ!プシュー!」と撃つ真似をした。この国の男は全員馬鹿なんじゃないかと思った。だいたい、あのセリフのあとで、クリント・イーストウッドは銃を撃たない。

パトカーの後部座席に座っていたのは、ジョン・ボン・ジョヴィから全ての魅力を取り除いて、汚れたビールをぶっかけたような容姿の男だった。あの体つきでS&W M29なんか撃った日には、リコイルでひっくりこけて、上の階の人がとばっちりで怪我するという不幸な事態しか招かないだろう。

「世界で最もパワフルなハンドガンだ」みたいなスローガンは、こういう人物を引き寄せてしまう。そういう人間は、自分がその銃に選ばれていないのに、どこかでそれを手に入れてしまうのだ。フィクションの約束事を、現実の自分に委ねてしまう。

ジョン・バダムがTV映画を担当していた時代に監督した『ザ・ガン 運命の銃弾(The Gun, 1974)』という作品がある。38口径のリボルバーが<誕生>してから、様々な持ち主の手に渡ってゆく。その持ち主たちの銃との関わりを、持ち主たちに肩入れすることなく描いてゆく映画だ。ジュリアン・デュヴィヴィエの監督作品に『運命の饗宴(Tales of Manhattan, 1942)』という、これは燕尾服が様々な人の手に渡ってゆくさまを描く映画があるが、趣向は似ているけれど、こちらのほうは銃という、いつ悲劇を生むかわからないオブジェが主体なだけに、遥かに緊張感にみなぎっている。銃、特にハンティング用ではないハンドガンやライフルは、それが<殺傷する>という目的を果たすとき、悲劇しか生まない。その端的な事実を、大げさな演出や演技を介さずに、効果的に描き出している。この物語でも、銃に選ばれていない人間が、その銃を手に入れてしまう。あるいは、銃は死をもたらすもの、この世に属していないのだから、この世には選ぶ相手などいないのかもしれない。脚本はリチャード・レヴィンソンとウィリアム・リンク、撮影はスティーヴン・ラーナー。

この作品については、めとろんさんが詳しく論じられているので、ぜひそちらを参考にしていただきたい。

『市民ケーン』と空間の音響 (Part IV)

Part Iはこちら

Part IIはこちら

Part IIIはこちら

演説の時代

『市民ケーン』のマジソン・スクエア・ガーデンのシーンとオペラのシーンにはある共通項がある。いずれも、広い空間で、マイク/アンプ/PAを使わずに声を発するという演技をしている点だ。

この映画では、ケーンが州知事に立候補したのは1916年の設定になっている。PAシステムが普及する前のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの選挙演説のシーンでは、チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)はマイクを使わずに自らの<肉声>を大ホールに響かせている。1916年といえば、スタンフォード・ホワイトが設計した第2期(1890 – 1924)のマジソン・スクエア・ガーデンにあたる。舞台となったアンフィシアターは床面積6000平方メートルを超える巨大なホールだった。

PAシステムを使わずに演説をするというのは、どんな感じだったのだろうか?

米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、20世紀初頭、演説家として名を馳せていた政治家の一人だ。彼の演説シーンはサイレントのニュース映像として残されている。多くの場合、戸外で、おそらく多いときには数百人から千人以上の聴衆を相手に声を張り上げている。特に米国国会図書館所蔵のこのフィルムクリップの1:08~1:20の演説の様子をみていただきたい。手前で演説をしているのがルーズベルトだが、その奥、壇上で聴衆に向かって指示をしているように見える男性がいる。何が起きているのだろうか。

セオドア・ルーズベルトのフィルムクリップ(米国国会図書館

セオドア・ルーズベルトの選挙活動を報じる新聞記事を読むと、当時の演説がいかに混沌としていたかがわかる。支持者たちはいつまでたっても拍手をやめないし、中には壇上に上がって煽り始める者もいる。聴衆はすぐに声を合わせてスローガンを繰り返す。ようやくおさまって演説が始まっても常に野次が飛ぶ。おそらくフィルムクリップの男性は、騒がしく声を上げたり演説を妨害している者に注意しているのだろう。当時の新聞記事はルーズベルトの演説内容とともに、それに返された野次も記録している。

セオドア・ルーズベルトの演説の様子を伝える記事[1]。緑下線は聴衆からの発言。

つまり、PAシステムが導入される以前は、いくら演説者の声が大きくても聴衆の野次と大して変わるわけではなく、<やりとり>が必然的に存在する仕組みだったのだ。これは、アメリカの二大政党、民主党と共和党の全国大会(National Convention)についての報道を読むとそれがより鮮明に表れている。1904年、PAシステムが登場するはるか以前の共和党全国大会はシカゴ・コロシアムで開催されているが、始まる前から議長がギャベルで叩き続けても一向に静かにならない、各州から選挙人が登場する度に大騒ぎになる、意見が一致せずに割れると収集がつかない、といった具合である[2]

また、上記のフィルムクリップで2:00~2:08あたりの映像を見てほしい。これは屋外での演説だが、ルーズベルトの声がいくら大きく通る声でも、後ろのほうの聴衆まで聞こえたとは考えにくい。演説者の直ぐそばで野次を飛ばす人たちもいれば、遠くの方から演説の内容はともあれ<イベントに参加した>という人もいたのだろう。当時は翌日の新聞に演説の全文が掲載されることも多く、多くのひとは演説の内容を遅れて知ったのではないか。

だが、PAシステムとラジオの登場によって、その様相が少しずつ変わっていく。

アメリカの政治家でPAシステムを最も有効に使用した最初の人物は、第29代大統領ウォレン・ハーディングである。彼は1921年の大統領宣誓式、第一次世界大戦終戦記念日の演説をPAシステムとラジオを駆使しておこない、好評を博している[3], [4], [5]。これらはどちらも屋外で行われる式典で、PAシステムの効果は絶大だったに違いない。

屋内で開催される大規模な政治集会といえば、前述の共和党、民主党の全国大会である。1920年代の両党の全国大会はベルシステムズが新技術を披露する格好の場所となっていた。まず、前述のハーディングの大統領宣誓式の前年1920年に、共和党全国大会でベル・テレフォン・システムズが大規模政治集会としては初めてPAシステムを設置した[6]。1924年にはやはりベルシステムズが全国大会のラジオ中継の技術を提供、アメリカ全土で両党の全国大会の進行を生放送で聞くことができるようになった。これは今で言う「パブリック・ビューイング」のように、大型の施設を開放、PAシステムを設置してラジオ放送を流すという仕組みだった。

1930年代に入ると、<拡声>技術と政治はより深く結びついていく。トーキー映画の登場はそのひとつだ。また政党がラジオ放送のスポンサーとなり、自分たちの政策や主張をラジオ番組として流すようになったことも挙げられる。1932年のアメリカ大統領選では、ハーバート・フーヴァーとフランクリン・D・ルーズベルトが、PA装置、トーキーのニュース映画、ラジオといったさまざまな<声の拡大装置>を用いて戦った。民主党全国大会のラジオ放送は、NBC、CBSそれぞれがのべ50時間を超える放送を行ない、政情変化をリアルタイムでつたえる一大イベントとなった。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-mqWhDwAFmk&w=560&h=315]
民主党全国大会(1932年6月)

このフィルムクリップに写っているNBCのロゴの入ったパラボラは新型のマイクである。また、パラボラの横に天井から吊り下げられたコードがうっすらと見えるが、これはCBSが準備した<ラペルマイク>のケーブルだと思われる。どちらも<フロアにいる人々の声をとらえる>ために準備された。

NBCのパラボラマイク(左)とCBSのラペルマイク(右)。ラペルマイクは右から二人目のベルボーイの襟の下についている円盤状のもの。このマイクのケーブルは会場の天井に架けられていて、ベルボーイはフロアをマイクをつけたまま自由に移動できる。各州の選挙人代表などがこのラペルマイクに向かって話し、その声がコンソールからラジオ放送に送出される[7]

この<会場の声をひろう>マイクは、PAシステムの強力な増幅能力と対になっている。パラボラマイクはフロア(にいる聴衆)の<ノイズ>をとらえるために設置され[8]、ラペルマイクはフロアにいる<重要人物の意見>を集めるために準備された。セオドア・ルーズベルトの時代には、無名の聴衆からあがる<声>は大統領候補の演説とともに記録されるものだったが、PAシステムは、壇上の人物の声を圧倒的に増幅し、フロアにいる人々の声をかき消して<ノイズ>にしてしまったのだ。また、1920年代には演説に使用される技術開発はベルシステムズが担っていたが、1930年代になって、NBC、CBSといったメディアが担うようになっている点も示唆的だ。メディア企業は広告料によって経営がなりたっている。お金を払っている人の声が最大限に増幅され、それを享受している側の声はノイズとして処理されるようになった。

マイクの前に立つ者の声を何万倍にも増幅し、聴衆の発言をかき消す。このような特質を持つPAシステムとファシズムの台頭が軌を一にしているのは偶然ではないのかもしれない1)。ヒトラーの、演説を静かに始め、だんだんと声を張り上げていくという演出が効果を奏したのも、PAシステムのおかげである。

戦前ハリウッド映画に見る演説

フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年、MGMは『獨裁大統領(Gabriel over the White House, 1933)』を公開した。このなかで、架空のハモンド大統領がPAを使わずに演説するシーンが登場する。

『獨裁大統領』よりハモンド大統領(ウォルター・ヒューストン)の演説

この演説のシーンは2つの点で興味深い。まず、ミディアム・ショットからロング・ショットに切り替わると、声の音響特性が変化する点だ。ミディアム・ショットでは声はダイレクトで反響音が少ないが、ロング・ショットでは声が<遠く>なり、反響音が言葉を聞き取りにくくしている。これはPart Iで紹介した『アギー・アップルビー』の例と同じく、撮影のセットアップ(ミディアム/ロング)に合わせてマイクのセットアップが変わったからだろう。このシーンは、Part IIIで引用したフランクリン・L・ハントの「ショットによっては反響音を加えたほうが自然に聞こえる」という見解を実証的に見ることができる例だ。確かに、各々のショットだけを取り出すと、カメラの位置と音響の性質が合致していて、あたかもそれぞれの場で聞いているかのような錯覚を生み出す。ところが、このショットが編集によって繋げられると、その唐突な変化が目立ってしまう。

もう一つの興味深い点は、前述のPAシステムを使わなかった時代の演説の例のとおり、聴衆が言葉で反応する点だ。聴衆の音は<ノイズ>ではなく、<声>であり、演説の一部なのである。

『獨裁大統領』の公開の2年後、エドワード・スモールが製作、ユナイテッド・アーチスツが配給した『近代脱線娘(Red Salute, 1935)』にも同様にPAシステムを使わない演説のシーンが登場する。ここでもミディアム・ショットとロング・ショットが繋げられているのだが、『獨裁大統領』のような顕著な音響の変化は起きていない。これはリレコーディングのおかげだ。音響の質が撮影のセットアップに制限されず、編集によってなめらかにつながるようになった。

『近代脱線娘』より演説のシーン

日常的な政治の場に、PAシステムとラジオが平行に介在するようになると、当然それは映画にも登場するようになる。

<拡声の力>を表す2本の映画が1940年と1941年に公開された。

チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』に登場するヒンケルの演説のシーンは、音響が実に緻密に設計されている。当初、ヒンケルの演説を聞いている私達は、この音声が何の(・・)音声なのか判然としないまま聞かされている。PAシステムのスピーカーからの音なのか、あるいは演壇上のマイクからの入力なのか、音響からは判断する材料がないまま、演説はすすんでいく。ただ、ヒンケルがわめくデタラメ語はきわめて聞き取りやすく、屋外のPAシステム独特のこだまのような反響音で濁るようなことがない。そして、しばらく経ってから英語による同時通訳の声が入ってくる。だが、なぜ同時通訳の声が入ってくるのかは説明されない。演説が終わったあと、はじめて私達はこれがラジオの音声だったと知らされる。ヒンケルの演説はステージ上で得られるであろう反響音が聞こえているのに対し(つまり、壇上のマイクからの入力である)、ラジオの同時通訳の声には全く反響音がない(デッドな音響のスタジオのマイクの入力である)。「独裁者お抱えの同時通訳者が演説内容を都合よく取捨選択して聴衆に伝えている」というマスメディアの特性に対する揶揄を、一度に見せてしまうのではなく、反響音の微妙な差を使いながら少しずつ種明かししている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=isLNLpxpndA?start=63&w=560&h=315]
『独裁者』よりヒンケルの演説(YouTube

フランク・キャプラ監督の『群衆(Meet John Doe, 1941)』の雨の中の政治集会のシーンは、まさしくPAシステムによる<拡声の力>をコントロールする者が政治的な力を持ちうるということを強烈に表現している。ノートン(エドワード・アーノルド)がジョン・ドー(ゲーリー・クーパー)の<嘘>をあばき、聴衆の信頼をあっという間に奪ってしまう。PAの音は集会の会場にこだまし、ノートンの大声の非難が響きわたる。ノートンはジョンを失墜させると同時に、PAシステムのケーブルを切断させる。ジョンは自らの弁明を<拡声>する術を失い、セオドア・ルーズベルトの時代に戻されてしまう。彼は聴衆からの野次や怒号に音量で押し黙らされてしまう。ジョンの戸惑う声の音量は、映画のシーンの音量として決して小さいわけではない。映画を見ている(・・・・・・・)観客はジョンの声を普通に聞くことができる。だが、それは映画のなかの(・・・・・・)群衆には聞こえない。このPAと肉声の音量差は、反響音の有無で表現されているのだ。『群衆』の製作にワーナー・ブラザーズの設備やスタッフが関わっているが(『群衆』の音響エンジニアはワーナー・ブラザーズのC・A・リッグス)[9 p.430]、もちろん、ワーナーでもエコーチェンバーは使用されていた[10]。このエコー/リバーブ音の制御は、リレコーディングのプロセスでの音響編集が可能になったからこそできた。

『群衆』より 拡声機能を失うジョン・ドー

ここまで見てきた演説とPAの歴史をふまえると、『市民ケーン』の選挙演説のシーンは果たして1916年の状況を現実的(リアリスティック)に反映しているのだろうかという疑問も湧き上がってくる。PA登場以前の演説に見られたような、聴衆との<やりとり>は存在せず、ケーンは一方的に自分の声をはり上げている。マジソン・スクエア・ガーデンの音響が果たして、PAを使用しない演説であそこまでのリバーブ/エコーが生じたかは疑わしい2)。むしろこの場面でのオーソン・ウェルズの演説手法がPAシステムを使うことを前提にしているようにさえ見える。ここで追求されているのは歴史的事実や客観的観測に基づいた<実証性(デモンストレーション)>ではなく、PA装置による政治という声の不均衡の時代に生きる人々の現実(リアル)なのではないだろうか。ロング・ショットになったり、聴衆を映すと、リバーブの比率が高くなり、ウェルズを近景で映すとダイレクトな音声になる。だが、これは『獨裁大統領』のようなカメラとマイクのセットアップが呼応しているから起きている現象ではない。音を操作して、カメラの視点と観客の視点があたかも同期しているかのような没入感を作り出しているのだ。ファシズムとマスメディアの時代に生きていた当時の人たちにとって、<やりとり>が存在した演説はすでに風化して失われてしまい、反響音が響き渡るホールで一方的に主張を聞かされるのが政治の現実だったのだ。

『市民ケーン』の音響設計の<革新性>は、エコーを使って空間を表現したことではない。エコーチェンバーを使ってさまざまな空間の音響を表現するテクニックはすでに1930年代から存在し、各スタジオもエコーチェンバーを音響部門に設置してさまざまな場面で使用していた。映像に合わせてリバーブの度合いを変えるというアイディアも、トーキー導入当初から議論の争点だった。『市民ケーン』の音響設計が当時の状況から見て突出している点は、空間の特性についての映像と音響の表現が、単なる場所の描写にとどまらず、観る者をストーリーに引き込むための仕掛けとして機能していることだろう。奇術(マジック)で観客の注意を操るように、映像と音響にさらされた観客をストーリーに没入させ、その種に気づかせないような、そういったテクニックに事欠かない作品が『市民ケーン』だといえるだろう。

Notes

1)^ ヒトラーやゲッベルスは自分たちの声の圧倒的な支配力を誇示したが、ムッソリーニは必ずしも聴衆を一方的に威圧できていたわけではなかったように見える。いつまでたっても静まらない聴衆に手を焼いていたり(リンク)、聴衆からの言葉に思わず反応して笑ってしまったり(リンク)する様子が記録されている。

2)^ 第三期のマジソン・スクエア・ガーデンの音響、特に反響音特性を調査した研究には、もともとスポーツアリーナとして設計された大ホールがいかに音響的に劣っていたかが記されている[11]。話者の肉声ではほとんど聞き取ることができず、それを補うためにPAシステムを導入したが失敗、再度別のPAシステムを導入するものの、それでも結果は決して満足ゆくものでなかったという。『市民ケーン』が想定しているのは第二期のマジソン・スクエア・ガーデンだが、状況は似たようなものだったのではないだろうか。

References

[1]^ “Col Roosevelt Speaking From a Baggage Truck at the Railroad Station in Brockton,” The Boston Globe, Boston, p. 9, Apr. 28, 1912.

[2]^ “Roosevelt, Fairbanks, and a Long Whoop,” The Baltimore Sun, Baltimore, Maryland, p. 1, Jun. 24, 1904.

[3]^ “Inaugural to be Broadcast to All Parts of the Country,” The New York Times, New York, p. 186, Mar. 01, 1925.

[4]^ “Harding Used Loud Speaker,” New Castle Herald.

[5]^ “Big Amplifier Armistice Day,” Chehalis Bee Nugget, Chehalis, Washington, Nov. 11, 1921.

[6]^ “At the National Conventions,” The Manmouth Inquirer, Freehold, New Jersey, p. 4, Aug. 12, 1920.

[7]^ M. Codel, “Radio ‘Scoops’ World at Chicago Stadium,” Broadcasting, vol. 3, no. 2, p. 7, Jul. 1932.

[8]^ M. Codel, “Political Campaigns to Boom Broadcasting,” Broadcasting, vol. 2, no. 12, p. 13, Jun. 1932.

[9]^ J. McBride, Frank Capra: The Catastrophe of Success, Illustrated edition. Jackson: Univ Pr of Mississippi, 2011.

[10]^ L. T. Goldsmith, “Re-recording Sound Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 39, no. 11, pp. 277–283, 1942.

[11]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part III)

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戦前ハリウッドにおける<反響音>

ラジオ放送や映画製作で、エコーチェンバーの利用が拡大していく経緯を追っていると、リバーブがほしいときには空室に音を響かせてミックスしていた、という単純なシナリオのように見えてしまうかもしれない。だが、実際には極めて科学的な議論のもとに開発が進められていた。特にハリウッドにおける映画製作の場合、リバーブの問題は多くの要素が複雑に絡み合っていた。

トーキーが導入された直後に、ジェネラル・エレクトリックのエドワード・W・ケロッグが発表したリバーブに関する考察が、1930年代初頭のハリウッドが直面していた音響技術の問題をよくあらわしている[1]。ケロッグが問題にしたのは、撮影・録音がおこなわれる部屋の反響特性が、全体的な再生音量や言葉の聞き取りやすさに与える影響だった。

セリフの場合の好ましい反響音とは、音の増幅効果と音の重なり合いのあいだでどこに妥協点を見出すかという問題である。

エドワード・W・ケロッグ

ケロッグはセリフの録音においては、十分な音量をドライ(直接音)で確保して、ウェット(反響音)はできるだけ抑制するべきだと提案している。なぜなら、反響音はセリフの聞き取りにとって悪影響しか及ぼさないからだ。当時は撮影時に録音したセリフがそのまま完成フィルムのサウンドトラックに使用されていた。撮影セットは音響面において最適化されていないし、マイクはカメラに映り込まないように離して設置する必要がある。ラジオのように基本的にデッド(反響音に乏しい)なスタジオでマイクのそばで発話するのとは、状況が大きく異なるのだ。当時のマイクは指向性に乏しく、周囲のアンビエント音をピックアップしてしまう。セリフを聞き取りにくくする反響音が問題視されたのはそういう背景があった。

だが、ほぼ同時期に反響音の不在は不自然だという意見もあった。

トーキー映画の録音では、マイクロフォンを話している人物の数フィート以内に設置すると最も聞き取りやすいというのが一般的な意見だ。だが、このようにして得られた音声の質は、中程度からロングのショットで使われた時に何かが欠けているように思われている。この不自然さはセットの壁から反射された音が存在しないために起こるもので、話し手の声そのものにこの反射音を加えると、通常の聴衆条件下、普通の部屋で音質を模倣することができる。

フランクリン・L・ハント[2]

注目したいのは、シーンが話者とどのような距離関係にあるか(クローズアップ/ミドルショット/ロングショット)と反響音の程度に関連性を見出している点だ。ロングショットで反響音がないと<不自然>だと指摘している。

だが、<聞き取りやすさ>とか<不自然>という概念は曖昧としている。それを技術で解決するためには、少なくとも明確な、測定可能なものをお互いに共有する必要がある。当時、他国の映画産業と比べて、ハリウッドが特異だった点の一つに、技術の標準化に極めて熱心だったということが挙げられる。スタジオ間の競争は非常に熾烈だったにもかかわらず、エンジニアたちが同じ言語を話し、同じものさしを持てるようにアカデミーや学会が積極的に活動した。音響の分野も例外ではない。米国商務省規格基準局の研究者たちによる反響音の標準測定法の提案[3]、マジソン・スクエア・ガーデンの反響音の周波数特性の測定結果の報告[4]、材料の音吸収特性を測定するためのチェンバーの開発[5]、小型反響音測定装置[6]と1930年代から40年代を通じて技術開発の重心が<測定>や<標準化>におかれているのがよく分かる。

音吸収特性測定用チェンバー[5]

また、実践をとおして理論の検証が継続的におこなわれているのも特徴的だ。例えば、1938年に建設されたリパブリック・ピクチャーズのダビング/スコアリング・スタジオは、当時もっとも音響的に優れたスタジオとして有名になったが、この設計は当時の音響理論を積極的に取り入れ、検証しつつおこなわれている[7]。当時、すでにウォレス・セイビンの理論式が不十分であることが指摘されており、この設計検証には数年前にドイツで発表されたストラットの理論も応用されている。もともと、ウォレス・セイビンの理論が、原始的ではあったものの極めて入念で精微な実験を通して立てられたものであるだけに[8]、音響エンジニアリングの分野では理論と実験の両立が常に求められていたのかもしれない。

もう一点忘れてはいけないのが、映画館の音響特性である。サイレントからトーキーに移行した際、それまでの映画館が<無声映画上映時の音楽演奏>に照準を合わせて設計されていたことが、トーキーでの音設計をさらに複雑にした。すなわち、残響が意外に長い劇場が多いのである。だからこそ、もともとの録音に残響が含まれていると、より聞き取りにくくなる、と懸念された。また、スピーカーを設置する位置や、スピーカーそのものの特性、音量設定の標準化(録音フォーマットの混在、スタジオ間の録音レベルの差などに合わせて劇場側が音量を調節する必要があった)についても試行錯誤がくりかえされていく。

このような環境が、ハリウッド映画の音響の可能性をひろげるのに非常に貢献したのは間違いない。1930年には、話し言葉とオーケストラで反響音の扱いは違うべきか否かという論争を繰り広げていたのだが、わずか9年で30Hzから7KHzまでの広帯域にわたって残響をほぼフラットに抑制するスタジオを設計・建設し、それを測定して業界に共有するところまで進歩したのである。

しかし、これらの研究は学術的関心によるものではないし、進歩は人類の知の地平を広げるために推し進められたわけではない。ハリウッドの映画産業でのテクノロジーの存在理由は「物語を語る」ためにある。

その存在理由を非常によくあらわしているエピソードがある。<Part I>で紹介した『市民ケーン』のなかのマジソン・スクエア・ガーデンでの演説のシーンのリレコーディングのときの話だ。サウンド・エンジニアのジェームズ・G・スチュワートは、オーソン・ウェルズとの仕事の<自由さ>に感化され、このシーンでの残響音の設計に夢中になってしまった[9]。空間の大きさを強調しすぎてしまったのだ。このテストを聞いたオーソン・ウェルズはスチュワートの方を振り向いてこう冗談を言った。

君は僕より大根役者だね!

オーソン・ウェルズ

これは、音の設計が<演技>をしているという意味だ。スチュワートは「音は演技の邪魔をするものであってはならない、よりよくするものであるべきだ」と語っている。

『市民ケーン』で、リバーブが重要な役割を果たしているシーンをもうひとつ挙げよう。ケーンの二人目の妻、スーザンが主役をつとめるオペラのオープニングだ。このシーンはリーランドの回想とスーザン本人による回想で2回登場する。リーランドの回想のほうは『市民ケーン』の批評で必ずとりあげられる有名な移動ショットである。上昇するカメラがとらえる舞台の上の空間は、実は美術と特殊プロセスのアマルガムによって見事に作り出されたものなのだ。音響設計においても、リレコーディングによって生み出された空間の錯覚が効果的である。スーザンが歌い始める瞬間にはほぼダイレクトなドライ音であるが、カメラが上昇するにつれてリバーブ音の比率が大きくなり、最後はほぼウェットなリバーブ音だけになっていく。あたかもカメラの位置で音を聞いているかのような錯覚が生み出される。スーザンの回想のほうもカメラの位置と音が深く関係している。幕が上がるとき、映像はスーザンをステージ後方からとらえているが、彼女の歌声はほぼウェットなリバーブ音だけだ。PAを使用しないステージに立った方はおわかりになると思うが、舞台から客席に向けて発せられた音(直接音)は舞台後方には届かない。カメラの位置では反響音だけが聞こえるだろう。作曲のバーナード・ハーマンは、このオペラのオープニングが、物語上非常に重要だったと強調している。ポーリーン・ケールの「オペラ『タイス』の使用料を払えなかった」という記述を一蹴しながら、このオペラは「ウェルズが求めたんじゃない、『ケーン』が求めたんだ」と述べている。スーザンのオペラ歌手としての決定的な実力不足をわずか1分足らずで見せなければならない。

このオペラのシークエンスはつぶさに見てほしい。なぜならこれは音楽が映画のために作曲されなければならなかったケースだからだ。私はこれ以外の方法でこの問題を解決できたとは思えない。例えば「サロメ」のラストをもってきても似たような効果が得られたかもしれないが、それではスーザンがオペラを歌い始める・・・・・)様子を描けない(「サロメ」のオープニングは誰でも歌える)。問題は「スーザンは出だしを切り抜けられるか?」だ。それが映画が私に仕掛けてきた問いだった。

バーナード・ハーマン[10]

この「スーザンの決定的な歌唱力不足」は、物語の流れにそって段階的に明らかになっていく1)。最初のリーランドの回想では、映画を見ている私達がスーザンの歌をじっくりと聞くことができる前にリバーブ音になってしまう。だが、上昇していったカメラがとらえるのは舞台の裏方が鼻をつまむ様子だ。次のスーザンの回想では、最初はやはりリバーブ音から始まるのだが、明らかに退屈したリーランドの様子や観客の嘲笑的な私語によって、スーザンの力のない歌声がかき消されていく。そしてフィナーレではカメラが正面からスーザンをとらえ、ダイレクトな音響によって、スーザンの細く共鳴の少ない声質がやはり・・・)<不適>だったことが露骨に晒される。リバーブがずっと答えを隠していたのだ。

『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(リーランドの回想)
『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(スーザンの回想)

このように反響音が物語を操作し、起伏を作ることに積極的に関わるように仕向けたのはオーソン・ウェルズであるのは間違いないだろう。ウォルター・マーチが「反響の要素を繊細に使いこなして、物語を語る」と述べたのはこういうことだったのである。

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Notes

1)^ このオペラ「Salaambo」で実際の歌声を提供したのは、カリフォルニア出身のジーン・フォーワードである。バーナード・ハーマンは「スーザンが苦労するのは、彼女が歌えないからではない・・)んだ、役が要求する力量があまりに大きすぎて、とても彼女の手に負えないからだ」といい、どういう効果を求めているかをフォワードに説明して歌ってもらったという。のちにこのアリアは、コンサート・ピースとしてソプラノ歌手に取り上げられるようになり、ハーマンは<非常に優れた>歌唱の例としてアイリーン・ファレルを挙げている。ファレルの録音はここで聞ける。その他にはキリテ・カナワヴェネラ・ギマディエヴァロザモンド・イリングなども取り上げている。

References

[1]^ E. W. Kellogg, “Some New Aspects of Reverberation,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 14, no. 1, p. 96, Jan. 1930.

[2]^ F. L. Hunt, “Sound Pictures: Fundamental Principles and Some Factors Which Affect Their Quality,” The Journal of the Acoustical Society of America, vol. 2, no. 4, pp. 476–484, 1931.

[3]^ V. L. Chrisler and W. F. Snyder, “Measurements with a Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 479–487, 1932.

[4]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.

[5]^ V. O. Knudsen, “Recent Progress in Acoustics,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXIX, no. 3, p. 233, Sep. 1937.

[6]^ E. S. Seeley, “A Compact Direct-Reading Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 37, no. 12, pp. 557–568, 1941.

[7]^ C. L. Lootens, D. J. Bloomberg, and M. Rettinger, “A Motion Picture Dubbing and Scoring Stage,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 32, no. 4, pp. 357–380, Apr. 1939, doi: 10.5594/J16557.

[8]^ W. C. Sabine, Collected Papers on Acoustics. Cambridge: Harvard University Press, 1922.

[9]^ J. G. Stewart, “The Evolution of Cinematic Sound: A Personal Report,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

[10]^ B. Herrmann, “Bernard Herrmann, Composer,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part II)

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ラジオドラマの時代

オーソン・ウェルズが、デビュー当初、演劇とともにラジオドラマで注目を浴びるようになったのはよく知られている。特に1938年のハロウィンに放送された「宇宙戦争」の際のメディアの狂乱ぶりは有名だ。この「宇宙戦争」は、「マーキュリー放送劇場(Mercury Theatre on the Air, 1938)」というラジオドラマ番組枠で放送されたエピソードのひとつである。だが、この「宇宙戦争」は実際に聞いてみると、当時のラジオドラマの質と比較して特に秀でているとは言い難い。物語の導入部と終盤をモノローグで縁取るという構成はオーソン・ウェルズらしいアプローチだが、本編にあたる部分のインパクトをかなり弱めているのは否めない。ポール・スチュアートが効果音の制作(大砲の音や群衆の声など)を担当しているが、例えば当時人気だったホラードラマ番組「ライツ・アウト(Lights Out)」などと比べると独創性はあまり感じられない。「宇宙戦争」が極めて特殊なのは(そして、制作に関与していたジョン・ハウスマン、オーソン・ウェルズ、ポール・スチュアートらもリハーサルのあとで痛感していたことだが[1 p.393])<ニュース速報>というフォーマットで物語が駆動されるという点だ。それは、<ニュース速報>そのものだけでなく、<ニュース速報>が通常の番組に割り込むというダイナミクスや、<ニュース速報>のあとの空白の時間にショパンやドビュッシーのピアノ曲が流されるという不可抗力の不穏さも含む、駆動力である。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言明を先取りして実践していたと言ってもよいだろう。

オーソン・ウェルズは、自ら率いるマーキュリー劇団のこの番組をCBSで担当する前から、ラジオドラマの人気俳優だった。タイム誌が製作した「ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1936 – 1938の期間出演)」のナレーションや、ミステリー番組の「ザ・シャドウ(The Shadow, 1937 – 1938)」の主人公ラモント・クランストン役などCBSラジオの人気番組を受け持っていた。

そのCBSは1930年代初頭から、実験的なラジオ番組を手掛けており、30年近くにわたって音の可能性に挑戦する演出家、脚本家、俳優、作曲家などを数多く輩出してきた[2]

The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 1 1931
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 2 1932
Columbia Workshop 1936-1947
CBS Forecast 1940-1941
26 By Corwin 1941
An American In England 1942
Columbia Presents Corwin 1944-1944
Once Upon A Tune 1947
CBS Radio Workshop 1956-1957

このなかでも1936年からはじまった「コロンビア・ワークショップ(Columbia Workshop)」は、その革新的な実験性で最も成功したシリーズである。このシリーズを創り出したのは演出家のアーヴィング・ライス(1906 – 1953)だ。これ以前の「The Columbia Experimental Dramatic Laboratory」の録音は現存しないようだが、「コロンビア・ワークショップ」の録音は現存しているエピソードもあり、そのなかに1937年4月11日に放送された「都市の没落(The Fall of the City)」がある1)。アーチボルド・マクリーシュ原作の詩劇で、ハウス・ジェイムソン、オーソン・ウェルズ、バージェス・メレディスらが出演、アーヴィング・ライスが製作・主監督、バーナード・ハーマンが音楽を作曲、指揮している。この「都市の没落」がウェルズに多大な影響を与えたという指摘は多い[3][4 p.196][5 p.32]

「都市の没落」はマクリーシュによる民主主義喪失の寓話である。これは当時ヨーロッパを覆い始めていたファシズムに対する警鐘として書かれた作品だ。<どこにでもある都市>の広場からのラジオの実況中継(オーソン・ウェルズがアナウンサー)という形式をとっている。物語は、<死から蘇った女性>の言葉を聞こうと広場に1万人もの市民が集まっているところから始まる。<死から蘇った女性>が現れ、言葉を発する。

支配者のいない者たちの都市に支配者が現れるだろう!

この<死から蘇った女性>が消えたあとも、市民たちの混乱と熱狂は止まない。そこへ<メッセンジャー>が到着する。<メッセンジャー>は<征服者>がこの都市に襲来すると告げ、「征服者にすでに征服された人々は恐怖におののいている」と警告する。次に預言者が現れ「征服者を平和的に受け入れよ」と告げる。市民たちはこの<征服者>の到来を待ち望んでいる。2人目の<メッセンジャー>が到着し、「征服された者たちは征服者を歓迎している」と告げる。やがて<征服者>が都市に入城し、市民たちは顔を覆い屈み込む。ラジオのアナウンサーだけが<征服者>が覆面を上げるところを目撃し、「覆面と鎧の下には何もない」と報告する。だが、もうすでにこの都市は<征服者>の手に落ちたのである。

このラジオドラマの制作は、当時としてはかなり大掛かりなものだった[5 p.30]。200人以上の出演者を擁して広場に集まる市民たちの声を再現した。この出演者の大部分はニュージャージーの高校やニューヨーク州立大学の演劇部の学生たちやアマチュアの俳優たちで、学生はボランティア、俳優には最低限のギャラが支払われたという。市の広場に集まった群衆の<音>を作り出すために、演出のアーヴィング・ライスはマンハッタンにある第7連隊武器庫(現在のパーク・アベニュー・アーモリー)のドリル・ホール(5000平方メートル)を貸し切り、その巨大な空間の音響を利用した。さらに、この学生たちが作り出す<群衆の声>を4枚のアセテート盤に録音、それぞれを武器庫内で異なる場所に配置して、生放送実演時に少し遅らせて再生した。このようにして、巨大な広場に1万人が集まっているという音の効果を編み出した[6]

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「都市の没落」より 広場に集まった人々とラジオアナウンサー(オーソン・ウェルズ)

最初のメッセンジャーを演じたのはバージェス・メレディスだが、彼の声は武器庫のドリルホールによく響いていて、十分な残響がある。この残響のおかげでメレディスが広い広場の市民に向かって発言しているように聞こえる。この「都市の没落」にみられるように、ラジオドラマでは、反響音を人工的に操作して、場所の大きさを想像させる手法がすでに確立していた。

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「都市の没落」より メッセンジャー(バージェス・メレディス)
「都市の没落」第7連隊武器庫での収録の様子(Billy Rose Theatre Collection

「コロンビア・ワークショップ」を取材した「ポピュラー・メカニクス」誌の記事では、アーヴィング・ライスが<エコーチェンバー>を用いて他のエピソードも演出していることが記されている。エコーチェンバーは広い何もない部屋で、一方の端にスピーカー、もう一方の端にマイクを設置して、スピーカーから発せられた音が部屋の中で反射する様子をマイクで拾う仕組みである。元の音にこの反響音をミックスして、聴取者がセリフの内容を容易に判別しつつ、音の発生している場を容易に想像できるような音設計がなされていた。

「コロンビア・ワークショップ」で使用されていたエコーチェンバー[6]

エコーチェンバーとリバーブの歴史

多くの文献や記事で、リバーブを人工的に作り出した最初の例として挙げられるのが、1947年にリリースされたハーモニキャッツの「ペグ・オ・マイ・ハート(Peg ‘o My Heart)」という曲だ(YouTube)。これは、ビル・パットナムのユニバーサル・スタジオで録音された。スタジオのトイレにスピーカーとマイクを設置してリバーブの効果を作り出したと言われている。だが、この曲の場合、リバーブは<自然な音響>を模倣するためではなく、明らかに<人工的な音響>を作り出す目的で使用されている[7 p.143]。<自然な音響>を模倣するという目的が達せられたかどうかは別にしても、リバーブを人工的に作り出すことはすでに1930年代にはおこなわれていた。前述のようにラジオ業界では、1930年代にすでにエコーチェンバーを用いてリバーブの効果を得るのはすでに一般的になっており、楽曲の録音でさえ、リバーブを人工的に作り出した例は、1937年にさかのぼることができる。ジャズ・バンドのレイモンド・スコットがやはりスタジオのトイレを使ってリバーブ効果を作り出している[8]。レイモンド・スコット・クインテットの1937年発表作「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部と終盤のピアノはこの方法で録音されたものだろう2)

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レイモンド・スコット「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部

お気づきの方もいるだろうが、<リバーブ>と<エコー>は現代の音響工学においては違う現象を指している。だが、20世紀前半にはエンジニアのあいだでも<リバーブ(reverberation)>と<エコー(echo)>は相互互換的に使用されていて区別されていない。ここでは現在使用されている<エコー(音が反射によって遅延して戻ってくること)>の意味ではなく、<リバーブ(音が構造物などによって反射を繰り返し、連続的な遅延時間と減衰をともなって響くこと)>として記述していく。そのため、ドライ(原音)とウェット(効果音)という用語も、リバーブのそれを指していると思ってほしい。

では、空間をもちいて人工的にリバーブを作り出す方法、エコーチェンバーはいつ頃から登場したのだろうか。

私が調査した限り、ラジオ放送におけるエコーチェンバーの使用に関する最も古い記述は、1926年9月にロンドンのイブニング・スタンダード紙に掲載されたBBCに関する記事だ。

数ヶ月前、スタジオの音響実験の実施中にある発見があった。それまで不可能と思われていたことの多くが、新スタジオの隣に設置された「エコーチェンバー」によって可能になったのである。さらに、この<エコー>の具合はエコーチェンバーの大きさによって制御できる。場合によっては元の音よりも大きくすることもできるのだ。

イブニング・スタンダード紙 1926年9月21日[9]

この記事からおよそ4年後にマンチェスター・ガーディアン紙がより詳細に報じている[10]。この記事によれば、リアリズムを達成するために<エコー>の長さを音楽の種類によって調整しなければならないという。例えば、楽器独奏や室内楽の場合は1秒から1秒半ほどの<エコー>をかけて、大きな部屋で演奏しているような錯覚を作り出すことができる。交響楽の場合には、同様の効果を得るためには2秒から3秒が必要で、もし大聖堂で演奏しているような効果を必要とする場合には5秒から6秒が必要になるという。BBCでは放送時にエコーチェンバーを用いてこのようなリバーブを作り出していた。「もちろん大ホールの音響効果を複製することはできないが、この模倣は錯覚を作り出し聴取者をだますには十分だ」とくくっている。

このBBCの技術がアメリカに輸入されたのは1931年から32年のことである。

きっかけは、ラジオ番組の国際化だった。コロンビア・ネットワーク(CBS)のトップ、ウィリアム・S・パーレーが、大西洋を超えたラジオ番組放送網を準備するためにヨーロッパ各国のラジオ放送局を訪問した。イギリス、フランス、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、イタリアの各国から番組を輸入する一方で、アメリカのラジオ番組もヨーロッパで放送されるようになるとAPが報道している[11]。この段階では生放送ではなく、「再放送」が計画されていたようだ。この訪問のなかで、イギリスとドイツのエコーチェンバー技術が紹介されている。

翌年の1932年、ニューヨーク・ワールド=テレグラムのラジオ制作編集担当、ジャック・フォスターがロンドンのBBCを訪問、BBCラジオの番組制作状況を報告している[12]。BBCでは、ラジオドラマ制作の際に、4つの別々のスタジオを用いて、俳優の演技、オーケストラの生演奏、効果音、アセテート盤による追加音再生がそれぞれ同時におこなわれ、エンジニアがその4つの音源をコンソールでミキシングして放送に送出していた。この際にエコーチェンバーも利用され、コンソールからリバーブ効果を制御できるようになっていたという。フォスターは、演技者、効果音、音楽の生演奏がすべて一つのスタジオでおこなわれているニューヨークの放送局との違いに驚いている。

1933年にニューヨークのラジオ・シティが完成するが、それに先立って、NBCのエンジニア達がエコーチェンバーを開発したことが報じられている[13]。これは1932年の新技術として、リボンマイク、パラボラマイクとともに紹介されている。このエコーチェンバーは、ラジオ・シティに移る前の旧スタジオに設置されたものだろう。ブロードキャスティング誌によれば、12平方フィートのエコーチェンバーにスピーカーとマイクが設置され、リバーブ効果を施すことができるようになっていたようだ[14]

このNBCの旧スタジオでのエコーチェンバーによるものと思われる録音が残っている。当時、NBCラジオの人気番組だった「ターザン(Tarzan of the Apes, 1932 – 1934)」の第52話である3)。「ターザン」は当時最も人気のある番組のひとつで、NBCのネットワークはアメリカ全土の提携局に生放送ではなく、アセテート盤による録音(electrical transcription)で配給していた。背景には、各地方で番組のスポンサーが異なり、そのスポンサーのニーズに合わせて放送時間帯を選択できるようにする、という事情があった[15]。問題の第52話は、ターザンたちが洞窟のなかに逃げ込んだシーンである(1932年11月22日放送)。洞窟の音響を再現するためにエコーチェンバーが使用された。現存する録音は針飛びが激しく、聞き取りにくいが、リバーブの効果はよく分かると思う。

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エコーチェンバーによるリバーブ(「ターザン」第52話から抜粋)

もちろん、新しいラジオ・シティにもエコーチェンバーが設置された。しかも3部屋も設置されたようだ。エコーチェンバーへの音の供給はマイクではなく、ダクトによっておこなわれていたと報道されているのは興味深い[16]

この後、ラジオの業界ではエコーチェンバーは必須の設備となっていく。1940年に出版された「Radio Directing」にはエコーチェンバーについての記述がある[17 p.17]

エコーチェンバーはトンネルのような構造をしており、90フィートの長さにわたって湾曲や捻りが加えられた迷路のような形状をしている。その一方にはスピーカー、もう一方にはマイクロフォンが設置されている。声はスタジオからエコーチェンバーのスピーカーに供給され、そこから迷路の湾曲や捻りを通過しながらだんだんとリバーブを強めていく。それがマイクロフォンに到達して、エンジニアのところに戻され、進行中の番組の音声にミックスされる。マイクロフォンの位置を変化させ(すなわち、スピーカーからの距離を近くしたり、遠くしたりして)、マイクとスピーカーのあいだの時間の遅延を変えてエコー効果の大小を調整することができる。

Radio Directing

1930年代から1940年代をとおして、エコーチェンバーは巨大化していく。クリーブランドのNBC系列放送局WTAMでは、スタジオがあるビル内の使われなくなった排気シャフトをエコーチェンバーに改造している[18]。6平方フィートの広さで16階分の高さ(200フィート、60メートル)のシャフトを使ったエコーチェンバーがどのように使用されたのか興味深い。

ラジオ放送でのエコーチェンバーのプロセス[19 p.64]

このエコーチェンバーの技術は、もちろんハリウッドにも到達している。MGMではリレコーディングで<エコーパイプ>を使ってリバーブを導入していたこともあるようだ[20]。これは90メートルもあるパイプで、一方の端にスピーカーを設置、パイプの途中いくつかの箇所にマイクを仕込んで、リバーブのレートを選べるようになっていたと報告されている。前述の1938年の「Motion Picture Sound Engineering」にもエコーチェンバーに関する記載がある[21 p.173]。ワーナー・ブラザーズのレオン・ベッカーは「物語にリアルに、劇的に語るためのもの」として音響係の<エコーチェンバー>を挙げている[22]。リパブリック・ピクチャーズはダビング/スコアリング/リレコーディングのためのスタジオに2つのエコーチェンバーを設けていた[23]。また『市民ケーン』の4年後に、おそらくRKOのものと思われるエコーチェンバーについてRCAのエンジニアが報告している4)[24]。ロバート・ミクリティッチの「Siren City」には、RKOのエコーチェンバーが『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1941)』などのフィルム・ノワールの音響効果に寄与したと記されており、当時の映画製作において広範に使用されていたと推測される[25 p.33]

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Notes

1)^ 現存している「コロンビア・ワークショップ」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)。

2)^ 全曲はarchive.orgで聞くことができる(link)

3)^ 現存している「ターザン」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link

4)^ これは1945年5月に開催された「Hollywood Technical Conference」で発表された論文だが、その際のプログラムではRKOのジェームズ・スチュワートとの共同発表となっている。

References

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[3]^ C. O’Dell, “‘The Fall of the City’ (‘Columbia Workshop’) (April 11, 1937); Essay [Added to National Registry: 2005],” Library of Congress, 2005.

[4]^ J. Naremore, Orson Welles’s Citizen Kane: A Casebook. Oxford University Press, 2010.

[5]^ P. Heyer, The Medium and the Magician: Orson Welles, the Radio Years, 1934-1952. Rowman & Littlefield Publishers, 2005.

[6]^ “Broadcast Gives ‘Sight’ to the Ears,” Popular Mechanics, vol. 69, no. 1, pp. 90–92, 128A, 1938.

[7]^ P. Doyle, Echo and Reverb: Fabricating Space in Popular Music Recording, 1900-1960. Middletown, Conn. : Wesleyan University Press, 2005.

[8]^ I. Chusid, Reckless Nights and Turkish Twilights (CD): Liner Notes. Columbia (CK65672), 1992.

[9]^ “Listening to a Fountain,” Evening Standard, London, p. 14, Sep. 21, 1926.

[10]^ “Inserting the Echo,” The Manchester Guardian, Manchester, p. 10, Aug. 09, 1930.

[11]^ “Radio’s Exchange of Programs to Link Continents,” AP, New York, Aug. 13, 1931.

[12]^ “Writer Marvels at B.B.C. Centre: Finest Broadcasting Headquarters in the World is His Opinion,” The Montreal Daily Star, Montreal, p. 26, Sep. 26, 1932.

[13]^ “Completion of Radio City Crowns Achievements of Microphone World in ’32,” Quad-City Times, Davenport, Iowa, p. 19, Jan. 01, 1933.

[14]^ “NBC Uses Echo Room to Make Voice Sound Hollow in Radio Drama,” Broadcasting, vol. 4, no. 1, p. 26, Jan. 01, 1933.

[15]^ B. A. Stebbins, “‘Tarzan’: A Modern Radio Success Story,” Broadcasting, vol. 4, no. 2, p. 7, Jan. 15, 1933.

[16]^ Z. Palmer, “ON THE AIR,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Sep. 06, 1934.

[17]^ E. McGill, Radio Directing. McGraw-Hill, 1940.

[18]^ “Echo Chamber 16 Stories High Utilized by WTAM,” NBC Transmitter, vol. 10, no. 1, p. 4, Oct. 1944.

[19]^ K. S. Tyler, Modern Radio. Harcourt, Brace, 1944.

[20]^ “Progress in the Motion Picture Industry: Report of the Progress Committee for the Year 1938,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 23, p. 119, Aug. 1939.

[21]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938. Accessed: Dec. 21, 2021.

[22]^ L. S. Becker, “Technology in the Art of Producing Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXIX, p. 109, Aug. 1942.

[23]^ D. J. Bloomberg, W. O. Watson, and M. Rettinger, “A Combination Scoring, Recording, and Preview Studio,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 49, no. 1, p. 3, Jul. 1947.

[24]^ M. Rettinger, “Reverberation Chambers for Rerecording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 45, no. 5, p. 350, Nov. 1945.

[25]^ R. Miklitsch, Siren City: Sound and Source Music in Classic American Noir. Rutgers University Press, 2011.

『市民ケーン』と空間の音響 (Part I)

RCA設計のエコーチェンバー(Reverberation Chamber)

前回、「市民ケーンとマッカーサー」という記事で、『市民ケーン』の革新性について言われていることのうち、コートレンズの革新性について考えてみた。当時のアメリカの光学技術をめぐる状況を見渡してみると、見えてきたのは軍事研究の重要な一分野だったレンズコーティング技術が、スピンオフしてハリウッドに恩恵をもたらしていったという事実だった。そしてハリウッドのメジャースタジオの撮影部門は、おしなべてコーティングレンズの開発に積極的であり、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドもそのなかの一人だったということだ。

今回も『市民ケーン』の革新性について、分析してみたい。今回取り上げるのは<音>である。その中でも<音と空間>のテクニックについて考えてみたい。

マジソン・スクエア・ガーデンの演説シーン

映画の音響技術についてのドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ(Making Waves: The Art of Cinematic Sound, 2019)』で、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の音響設計がいかに当時画期的だったかという話が出てくる[1]。『地獄の黙示録』などの編集で知られるウォルター・マーチは「(ウェルズは)『市民ケーン』でラジオの技術を映画に転用した」と述べている。そしてそのラジオから転用された<技術>として、空間における音の残響・反響(リバーブ, reverberation)の設計を上げている。

『市民ケーン』において、オーソン・ウェルズは音についての技術をラジオから映画に持ち込みました。カメラの焦点深度の場合と同じように、音の空間性についても挑戦したのです。空間はそれぞれ異なった音の反響特性をもっており、反響(reverberation)の要素を繊細に使いこなして、物語を語ることができるということを示したのです。

ウォルター・マーチ[1]

このマーチの発言とともに、オーソン・ウェルズが演出、主演したラジオ・ドラマ「宇宙戦争」が引用され、『市民ケーン』のいくつかのシーンがさらに引用されている。『市民ケーン』で引用されているのは、いずれも広い空間で音が反響しているシーンだ。例えば、ケーンの巨大な邸宅ザナドゥで暇を持て余したスーザンとチャーリー・ケーンの会話、選挙演説会場でのチャーリー・ケーンの演説、それにサッチャー・ライブラリでの会話のシーンだ。

なぜ『市民ケーン』のこれらのシーンが<画期的>だったと言われているのだろうか。実はマーチの発言は要約されすぎている。広い空間を音が伝搬すれば、壁や天井、床で反射して、その空間特有の反響がもたらされる。広い大会堂で演説すれば、声が反響して聞こえるだろう。その様子を撮影し、同時に適切に録音すれば、広い空間であることはおのずとわかるはずだ。それはたいして驚くことではない。『市民ケーン』が<画期的>だと言われたのは、これらのシーンは特に広くないスタジオで撮影され、声の反響はあとから人工的に(・・・・)つくられたものだからだ。

『市民ケーン』より チャールズ・フォスター・ケーンの選挙演説のシーン

この点において、マジソン・スクエア・ガーデンでの演説シーンは特に注目に値する。実際に撮影に使われた空間よりもはるかに大きく、また聴衆で会場が埋まっている錯覚を作り出すために視覚的な効果が工夫された。

マジソン・スクエア・ガーデンのシーンの聴衆側から見たショットでは、演説者のステージだけがセットとして作られた。巨大なホールと観客はすべて書割である。書割に小さな穴が開けられており、そこから光がチラチラ見えるのは、観客が持っているプログラムがヒラヒラしている様子を模している。カメラの動きは、あたかも巨大なアリーナでカメラが高みから降りていくような印象を与える。観客をとらえるリバース・ショットは全体を捉えずに細かいディテールだけに限定している。来賓席のエミリーと息子、ホールの観客席のリーランドたちといった具合だ。

ロバート・L・キャリンガー[2 p.87]

これに対応して、音の設計が施されている。

音に関しては、特殊効果の問題と同じ問題を抱えていた。(演説会場のような)イベントの感覚と感触をいかに人工的に作り出すかということだ。・・・録音コンソールでは、ウェルズの声の反響速度(reverberation rate)を操作してエコー・チャンバー効果を作り出した。リアリズムをさらに加味するために、もとの録音のコピー、しかもそれぞれ音質が異なるものがいくつも作られ、無音部分にその様々な断片が挿入された。よく聞くと、演説の文句やフレーズのあいだに挿入された声がエコーのように聞こえるのが分かるだろう。エコー効果も極めて繊細に調整されている。話者にカメラが近いときにはエコーは短く目立たないが、聴衆が映し出されるショットでは、遅延が大きく、かつ反響音が大きくなっている。

ロバート・L・キャリンガー[2 p.105]

今の録音技術を知っている人からみれば、あまりに原始的で、いったい何が困難だったのか、とても理解できないかもしれない。だが、この時代の技術を用いて、現代の私達が聞いてもさほど違和感を覚えない音響効果を達成できていることじたいが驚きなのだ。

1940年のオーディオ技術

1940年当時のさまざまなメディア製作環境でのオーディオ技術(録音・再生)はどのようなものだったのだろうか。

当時のラジオ放送はほぼすべて生放送である。だが、番組制作においては、効果音や政治家の演説などの音源としてあらかじめ録音されたものが使用されることもあった。

このような場合の録音媒体の主流は、アセテート盤(ウィキペディア)であった。これはラジオの放送局や、映画スタジオなどでも、比較的手軽に録音・再生ができるため、頻繁に利用されていた。これをラジオ放送そのものに使用することもできるように思われるが、たいていの場合、敬遠された。音質がよくなかったのである。日本でも1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送はアセテート盤に録音されたものが放送されたが、音質は決して良くなかった。

一方、映画で使用されていた録音・再生技術はオプティカル・サウンド(ウィキペディア)である。これは、オーディオ信号をフィルムに記録する手法で、記録されたサウンドトラックに光を照射すると透過光量で音の強弱が読み取れる。1926年に導入されて以来、ノイズ低減とダイナミックレンジの向上に業界をあげて取り組み、音質に関しては優れていたが、フィルムの現像やプリントに手間がかかる。録音したその場で再生して確認するのが困難なのだ。

ドイツでは、これらに加えて磁気テープによる録音・再生がおこなわれていた。1935年にAEGがマグネトフォンを発表している1)。磁気記録では鋼線に録音するスチール・レコーディング(ウィキペディア)があるが、これはイギリスでBBCが番組制作や記録に利用していた。磁気記録は録音再生が比較的容易であるが、鋼線記録はノイズの問題を克服できなかった。

ハリウッドでは、ほぼすべての録音・再生はオプティカル・フィルムを使用しておこなわれ、補助的にアセテート盤を使用する、というのが一般的だった。例えば、PRCの西部劇『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(The Hawk of Powder River, 1948)』で主人公の<歌うカウボーイ>エディ・ディーンが馬に乗って歌うシーンをみてみよう。バスター・クラッベやエディ・ディーンの映画で録音技師の助手をしていたジャック・ソロモンによると、こういったシーンはあらかじめ曲が録音されたアセテート盤にあわせて俳優が歌う演技をするのをオプティカル・フィルムに録音していくのだそうだ[3 p.5]。ポータブル・プレーヤーがカメラのドリーに載せられているが、針が飛ばないように時速8キロくらいで進まないといけない。それでも地面に何かあると針が飛ぶ。<歌うカウボーイ>のジーン・オートリーやロイ・ロジャーズは全速力で悪人を追跡しているときに歌うわけにはいかず、なみあしの馬上でのんびり歌うしかないのである。

『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(1948)』

映画フィルムを用いた録音技術は、録音、ダビング、編集、ミキシングすべてを現像をともなうフィルムで行う、という気の遠くなるようなプロセスを必要とした。もちろん、アナログ信号技術であり、フィルムそのものがもつノイズや、真空管アンプ回路内のすべての歪みやノイズがダビングのたびに重ねられていく。1938年に映画芸術科学アカデミーから発行された「Motion Picture Sound Engineering」では、映画製作のプロセスについて以下のように記述されている。

現在の映画のための録音は、音としての状態は2つ、機械的状態としては6つ、電気的状態としては3つ、光学的状態としては6つ、化学的状態としては4つの状態を通過し、これらの状態同士、そして状態内での24回の変化のうち、少なくとも12回は機械的運動が重畳していることを忘れてはならない。

ケネス・ランバート[4 p.71]

そして、トータルとして2~3%程度の歪みが許容範囲だという。当時の装置やフィルムの性状について調べると分かるが、これは並大抵の技術力では達成できない。

リレコーディング

オーディオ・エフェクトとしての「リバーブ/反響(reverberation)」の議論に入るまえにもうひとつ取り上げておきたいことがある。映画のサウンドトラック製作におけるリレコーディング(rerecording)の工程だ。

トーキー映画が導入された当時、1927年頃から1930年代初頭までは、オーディオの記録再生のダイナミックレンジも帯域も限られており、さらにはフィルムのもつノイズや録音時のノイズが無視できないレベルだったため、撮影現場で録音されたトラックを音質劣化させずに手を加えるのは非常に困難だった。コピーを重ねるとノイズが無視できないほど大きくなってしまうのだ。1930年代初頭の映画を見ていると、ショットが変わるとバックグランドのノイズ(たとえばハム)が変わるのが露わになるケースに頻繁に遭遇する。例えば、この『アギー・アップルビー(Aggie Appleby, Maker of Men, 1932)』からのシーンでは、フィルムがカットされショットが切り返されるたびにバックグランドのノイズの特性が変わるのが分かるだろう。さらにザス・ピッツ(声の高い、チェックのブラウスを着た女優)のほうは、高い声で音が歪んでしまっているのが明らかだ。つまり、ザス・ピッツのセリフを撮影・録音したカメラ、マイクのセットアップ(A)と、もう一人の女優、ウィン・ギブソンのセリフを撮影したセットアップ(B)はそれぞれ異なっていたのだろうと推測できる。注意して聞くと、このビデオクリップで1分38秒から1分41秒あたりで、同じショット内でノイズが変わり、他のザス・ピッツのショットと同じノイズ特性になっている。1分38秒からのザス・ピッツのセリフはセットアップ(A)で録音されたものが挿入されたのであろう。

『アギー・アップルビー(1932)』 バックグランド・ノイズの例

初期のトーキー映画は、このようにショットごと、あるいはセットアップごとに音のダイナミックレンジ、歪み、ノイズ特性が変わるばかりか、ショットとショットをつなぐ部分に「ブリップ」と呼ばれる雑音が存在することも少なくなかった。これは、セリフ、効果音、音楽などの音の要素を映像とともにアドホックに編集していたからである。

1930年代には、映画サウンドトラックのノイズ低減のためにさまざまな手段が講じられた。粒状ノイズを低減したネガフィルム、音量に合わせて記録再生を最適化するプッシュプル方式などが登場し、ダイナミックレンジも広がった。そして上記のような「シーンごとに音の特性が変化する」問題を解決し、かつ、映画全体にわたって音響設計───セリフ、効果音、音楽などの音の要素をストーリーに合わせて操作すること───をおこなうために、<リレコーディング(Rerecording)>という工程が導入された。編集、ミックスダウン、マスタリングすべてを総合した工程といっても良いかもしれない。

前掲の「Motion Picture Sound Engineering」の「リレコーディング」の章を参照すると、1938年にはハリウッドのほぼすべての映画製作においてリレコーディングがおこなわれていたようだ[4 p.71]。『アギー・アップルビー』を1932年に製作したRKOは、1936年頃にダビング用コンソールを開発して全製作作品に用いている[5]。例えば、RKOがダビング・コンソールを用いてリレコーディングの工程を導入した後の作品、『美人は人殺しがお好き(The Mad Miss Manton, 1938)』を見てみると、リレコーディングの効果は明らかである。バックグランドのフィルムノイズは全くといっていいほど気にならないし、ショットが変わってもノイズの特性、レベルは変わらない。スタンリー・リッジスの殺人の告白の途中、非常に小さな音量で効果音楽が入ってくる。この音楽の表情は、リッジスのセリフの内容にあわせて変化しながら、次第に音量を上げてくる。このような繊細な制御を必要とするミキシングが可能になったのも、フィルムや撮影、編集時のノイズ混入が最小限に抑えられているからだ。だが、スタンリー・リッジスの囁くような声で話しているときには聞きやすいのだが、少し大きな声で話すと低域側が歪んでしまう。ダイナミックレンジの問題はまだ完全に解決できたわけではなかった2)

『美人は人殺しがお好き(1938)』 ノイズ低減とリレコーディングの効果

トーキー登場時の<セリフや音楽がシンクロしている映像>という物珍しさから、<映像と音で物語を語る>というシステムにわずか10年ほどで移行したのである。

では、このような技術環境のもとで、いかに<反響を使用した空間表現>が生まれたかを考えてみたい。

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Notes

1)^ 磁気テープによる録音・再生技術はナチスドイツの国家機密だったといわれることが多いが、フリードリッヒ・K・エンゲルによれば、戦時中でもドイツ国外でAEGの磁気テープ技術に関する情報を入手するのは比較的容易だったという。1937年にAEGはマグネトフォンをアメリカのGE社に送り、アメリカでの事業展開を打診している[6 p.60]

2)^ もちろん、現存しているプリントの状態、デュープ(コピー)作成時の問題、あるいはキネスコープやデジタル化でのマスタリングの問題などでサウンドトラックが歪んでしまう場合もある。RKOの場合はオプティカル・サウンドトラックに可変領域方式を採用していたため、プリント作成、デュープ作成での歪みは起きにくいと思われるが、デジタル化などの段階で発生するダイナミックレンジ圧縮や符号化による圧縮で音質が劣化することは頻繁に起きているようだ。

[追記 2022/8/8]1936~38年ごろまで、可変領域方式には独自の問題(ブラスティング blasting)があった。これは、セリフなどのごく一部(一単語、あるいは一音節のみ)が突然ひずんでしまう現象で、RKOとRCAのエンジニアたちを悩ませた。RKOの『美人は人殺しがお好き』のこの問題も、ブラスティングが完全に除去できていないのかもしれない。ブラスティングについてはこの記事で詳細に論じた。

References

[1]^ M. Costin, G. Rydstrom, S. Spielberg, and T. Eckton, Making Waves: The Art of Cinematic Sound, (Oct. 25, 2019).

[2]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Revised edition. 1996. 

[3]^ V. LoBrutto, Sound-on-film: Interviews with Creators of Film Sound. Greenwood Publishing Group, 1994. 

[4]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938.

[5]^ J. O. Aalberg and J. G. Stewart, “Application of Non-Linear Volume Characteristics to Dialog Recording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 31, no. 3, pp. 248–255, 1938.

[6]^ E. D. Daniel, C. D. Mee, and M. H. Clark, Eds., Magnetic Recording: The First 100 Years, 1st edition. New York: Wiley-IEEE Press, 1998.