曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール  [4]

フィルム・ノワールはフランス語だ

《フィルム・ノワール film noir》という言葉の語源に、ことさら深い意味があるのかどうか、正直なところわからない。だが、フランス映画批評を起源とするこの名詞は、様々な意味を持たされて時代を通過してきた。そして、これからもその意味を変えていくのではないだろうか。

この語の起源がフランスにあるという点が長いあいだ注目されていたのは、1946年から20年以上のあいだ、当のアメリカ人たちが《フィルム・ノワール》なるものを全く認知していなかった、という文化のあや(・・)のようなものを象徴しているからだろう。特にハリウッド映画という、本国では非耐久消費財とみなされていたものが、シリアスな批評に値する可能性を具体化してみせたのが《フィルム・ノワール》だった。

この言葉のその怪しげな出自と、その出自がその後の批評に与えたインパクトを見てみたい。

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曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [3]

フィルム・ノワール批評の広がり

1970年代後半から、一気に多くの映画批評家がフィルム・ノワールについて活発に語るようになる。「実存主義」というキーワードからフィルム・ノワールを読み解こうとする試み(ロバート・G・ポーフィリオ[1])、フィルム・ノワールをジャンルとして再定義しようとする論考(ジェームズ・ダミコ[2])といったものは、それまでの批評の延長と見てよいだろう。ジャック・シャドイアンの“Dreams and Dead Ends: the American Gangster/Crime Film (1977)”は、ハリウッドの犯罪映画史を展望する力作だが、フィルム・ノワールはあくまでギャング・犯罪映画ジャンル史のなかに登場する分類として位置付けられた。一方で、当時登場し始めた新しい映画批評の潮流と合流するように、新しいパースペクティブから論じられたものもある。映画の産業史的見地から、いわゆる《B級映画》とフィルム・ノワールの関係について見通す批評・研究(マッカーシー&フリン[3]、ポール・カー[4])、同時期に隆興しはじめたジェンダー映画批評(リチャード・ダイアー[5]、E・アン・キャプラン[6]等)などが挙げられる。

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曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [1]

「映画とは何か」「フィルム・ノワールとは何か」といった、「○○○○とは何か」といったタイトルを映画批評ではよく見かけるのだが、風呂敷が大きいだけで、広げる場所が間違っているような印象をいつも受けている。だが、「フィルム・ノワールとは何か」については、さすがに困っている。その定義が極めて曖昧で、流動的で不定形で、どんな映画を《フィルム・ノワール》と呼ぶのかという点も絶えず変化しているからだ。1980年代には、1940年代から50年代の一握りのハリウッド娯楽作品を指すものだと主張されていたが、今ではIMDBで『獣人島(Island of Lost Souls, 1932)』に film noir のタグがつけられてしまうほど自由自在に解釈されているようだ。《濫用》されているといってもよいだろう。そんな調子だから、《フィルム・ノワール》についての様々な記述や批評を読んでいると、あまりにいろんな齟齬が目立ち、疑問が沸き起こり、全く疑わしい土台のうえに分析や解釈が堂々と展開されている様子に出くわしたりする。私は、そういう定義の食い違いや齟齬について議論したり、分析したりすることには、あまり興味がないのだが、一度は整理して見る必要を感じている。そこで、残念ながら今回ばかりは「フィルム・ノワールとは何か」という風呂敷を、間違った場所に広げてみることにした。

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忘れられたフェミニスト映画批評家

自分からの逃走

バーバラ・デミングという名前を聞いてピンとくる人は決して多くないだろう。1960年代後半のベトナム戦争と反戦市民運動について興味がある人であれば、1966年にハノイで非暴力を訴えてデモをした6人組のアメリカ人の一人だったことを覚えているかもしれない。あるいはロバート・スクラーの映画史の著作に、彼女の名前が数回登場するのをぼんやりと記憶している方もいるかもしれない。映画批評の歴史の中で極めて重要な位置を占める、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーへ From Caligari to Hitler(1947)」の「緒言 Preface」に、バーバラ・デミングへの謝辞が述べられているのを見て、いったい誰だろうと思った人もいるかもしれない。

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赤外線フィルムの時代

Star-Gazette (New York) 1942/1/5

第二次世界大戦前後の映像技術や工学をながめていると、この頃から、《見えるもの》と《見えないもの》の境界を曖昧にするテクノロジーが徐々に社会に浸透し始めている様子が見えてくる。可視の外側の現象が、平然と可視の領域に滑り込んで、ヒトは自らの知覚が広がったかのような錯覚に囚われ始める。この錯覚は時としてとても危険なものになりうるのだが、視覚に不自由を感じないヒトはすべての感覚のなかで視覚を無防備に無批判に信望していて、その危なかっしさを見逃しがちである。

このテクノロジーを支える基盤となったひとつが真空技術だ。真空技術の成熟は、水銀灯、CRT、光電子増倍管などの装置の製品化に不可欠だった。また、1910年代に登場したボーアのモデルが、物質と分光を直接的につなげる役割を果たし、例えばその後の写真技術の展開に極めて大きな影響を与えた。《近代的な》分光測定装置が登場し始めたのも1940年代だ。物質をモデルで考察し、そのモデルの検証を測定する方法が広がっていた時代である。そうして、赤外線や紫外線、さらには電子線が身近な ──科学者にとってだけでなく、一般人にとっても── ものになっていった。

赤外線フラッシュ写真

アメリカが第二次世界大戦に参戦し、都市部に消灯令が発令され、闇が街を覆うようになると、当時の新聞カメラマンたちは、それをなんとかして《絵にしよう
visualize》とした。彼らは当時の最先端技術 ──コダックやデュポンが売り出した赤外線に反応するフィルム[1]と赤外線フラッシュ── を駆使して、夜の街に蠢く人々を撮影しはじめた。消灯令下では、まったくの漆黒の闇に包まれてしまって肉眼では見えにくい街の風景を、赤外線フラッシュ写真はあたかも鮮明に見えているかのごとく写し出す。

Daily News (New York) 1942/3/16
Pittsburgh Press (Pittsburgh) 1942/6/26
Chicago Tribune (Chicago) 1942/8/13

赤外線フラッシュ写真に写っているのは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」の暗い街角で遊んでいる人々だ。あの絵に描かれた暗い通りや闇に沈んだ建物の部屋を赤外線で照射すると、笑っている男や、キスしている男女が浮かび上がるのかもしれない。

ウィージーも1940~50年代に赤外線フラッシュ写真が映し出す《闇の中》に興味を持った写真家の一人だ。彼も1942年、消灯令の最中に赤外線フラッシュ撮影をはじめた。ウィージーはその後、映画館や劇場などの暗闇のなかの人々を隠し撮りするようになった。スタンリー・キューブリックも同じようにニューヨークの夜に蠢く人々を隠し撮りしている[2]。闇のなかで、人々が他人の視線を忘れて見せる姿、そういったものをフィルムに映し出す行為は、吉行耕平の『ドキュメント・公園』まで受け継がれていった。近年注目を集めている夜間の動物たちの行動を撮影する「トレイルカム」は、この延長線上にあるのかもしれない。ただ、哺乳類の生態観察として、ヒトが夜中の公園で性行為にふける様子などを覗き見するのは、もう驚きも面白みも失われ、それよりは、自分の庭先に突然現れるタヌキを観察するほうがよほど感動的になったようである。

赤外線フラッシュ写真も、通常の撮影と原理は同じで、フラッシュが発光した光を被写体が反射、反射光がフィルムに届いた部分が感光する。普通の写真と違うのは、発光される光が赤外線で、フィルムが赤外線に反応するという点だ。赤外線フィルムといっても、実際には近赤外の領域のごく一部までしか感度がない。さらにフィルムの製造元各社のあいだで設計がそれぞれ異なっており、最も人気があったコダックのHIE/HISシリーズのネガフィルムは最も広く赤外線領域をカバーして、波長950nmまで感度があった[3]。コダックHIE/HISフィルムは、アンチハレーション層がないために、ハレーションが起きるのが特徴だった。

赤外線が見せる世界は、私達が普段接している可視光の世界と若干違うものが現れる。最も顕著な特徴の一つが、ヒトの眼が黒く大きく見えることだ(例えばこの写真)。ヒトの眼球が赤外線を吸収してしまい、フラッシュの赤外線が反射・散乱されないからだと言われている。一般的に「ヒトの眼球の大部分を構成する水が赤外線を吸収する」と言われるのだが、赤外線フラッシュ写真に関して言えば、眼球が持つ900~1100nmの赤外線吸収が引き起こすのだろう[4]。赤外線写真について著書のあるローリー・クラインは、フラッシュを使用しない赤外線写真で起きる眼の黒化について、眉と眼窩が直射日光を遮るため僅かな明暗の差が生じ、赤外線写真ではそれが拡大されるとしている[5, p.42]。この理論では被写体の正面からフラッシュを浴びせる赤外線フラッシュ写真でも眼の黒化が起きる理由が説明できないが、たしかに眼窩の構造が原因で十分な赤外線量がフィルムまで戻ってこない可能性もあるだろう。

ヒトの眼球と水の赤外線吸収スペクトラム
Gea60 : 眼球([6]に記載されているもの)
vitreous :
硝子体
aqueous : 房水
lens : 水晶体
cornea : 角膜
water
: 水(参照用)
[4]より

赤外線フラッシュ写真のもう一つの特徴は、赤外線は皮膚の下にかなり潜り込むので、毛根が写るという点だ。ウィージーのこの写真は赤外線の性質をよく表している。この男性はあきらかに頭頂部が禿げており、側頭~後頭部はきれいに剃っているのだが、その側頭~後頭部が暗くくすんでいる。下の図は皮膚のどの深さまで光が潜り込むかを示している。近赤外線が毛根を含めた奥深くまで入り込んでいるのが分かる。可視光にせよ、赤外線にせよ、写真に反映されるのは、潜り込んだ上にさらに反射・散乱されて戻ってきた光である。可視光の写真は皮膚の表面で反射されたものが大部分を占めるのに対して、近赤外線を使った写真では、毛根くらいまで潜り込んだ光がフィルムまで戻ってくる。ウィージー写真に写された男性は、剃ったところの毛根が赤外線を吸収してしまってフィルムまで戻ってこないため、暗くなっているのである。

光の各成分が皮膚の下どこまで潜り込むかを示した模式図
NIRが近赤外
[7]より

ちなみに、髪が黒く見えるのは髪に含まれる色素メラニンが可視光を吸収するからだが、メラニンは赤外光もかなり吸収する。

メラニン、オキシヘモグロビン、水の可視光~近赤外吸収スペクトラム
[8]より

可視光で見た《見た目》など、ごく表面的な情報にすぎない。

新聞カメラマンたちは赤外線フラッシュ写真で夜の人々を撮影したが、1940年代末の一時期、ハリウッドのカメラマンたちは赤外線フィルムを使用して昼の風景を夜に見せかける、“Day for Night” の撮影をしていた[9]。このテクニック自体は1920年代から存在したが、『アパッチ砦(Fort Apache, 1949)』以降、ちょっとした流行になった。特にユニバーサルの製作主任、ジム・プラットがスタジオで撮影される作品に次々と導入していったようである(1)
。ウィリアム・キャッスル監督の”Johnny Stool Pigeon (1949)”
はその一連の作品のうちの一作で、メキシコの国境の町、ノガレスのシーンをほぼすべて赤外線フィルムでロケーション撮影している。

“Johnny Stool Pigeon (1949)”の赤外線フィルム撮影
d. William
Castle
dp. Maury Gertsman
Johnny Stool Pigeon (1949)“の1シーン
Howard Duff
Dan Duryea
“Johnny Stool Pigeon (1949)”
上のシーンの撮影の様子[10]

大気中の粒子は波長の短い光を散乱していて、ゆえに空はヒトの眼には青く見える。一方で、波長の長い赤外線領域の光は散乱されにくく、赤外線フィルム撮影では、晴れた空が暗く映る。これが、“Day
for Night”
撮影に赤外線フィルムが使用された最大の理由だ。だが、ここでも赤外線領域でヒトの眼には見えていない物理現象が数多く起きている。最も顕著に違うのは葉緑素を含む植物の葉だ。植物の葉は可視光域の光を極めて効率よく吸収しているが、近赤外線はほとんど反射している。“Johnny
Stool Pigeon” や “Abandoned (1949)”
で林や並木の葉が白く写っているのは、植物のこの性質によるものだ。

“Johnny Stool Pigeon (1949)”
“Abandoned (1949)”
d. Joseph H. Newman
dp. William H. Daniels
植物の典型的な可視光~近赤外~赤外の反射スペクトラム
[11]より

新聞カメラマンたちの赤外線フラッシュ写真は、フラッシュが発する赤外線が対象物に当たって反射される様子を撮影する。《夜》を《夜》として映し出す手法だ。しかし、赤外線フィルムを使った
“Day for Night”
撮影は、太陽光が照らす風景から赤外線だけを抽出している。そのやり方で、監督や撮影監督は《昼》を《夜》だと嘘をつこうとした。空には鮮明に縁取られた雲が浮かび、舗道には並木の蔭が映り、葉は白く浮き上がっている。太陽までもが満月にすり替えられる。この偽ジョルジョ・デ・キリコの世界は、当時の観客に対しては《夜》としての説得力も魅力もなかったのだろう。すぐに廃れていってしまった。

だが、赤外線フィルムで撮影された映像を《夜》の風景だと思う必然性はどこにもない。“Johnny
Stool Pigeon”
のノガレスの町の風景は、ヒトにはふつう見えない世界なのだ。形式的な異化
defamiliarization
によって私たちが慣れ親しんだ可視光の認知を混乱させるやり方だ。この認知の混乱を新しい国家の再定義に利用しようとしたのが『怒りのキューバ(Soy
Cuba,
1964)』である。赤外線フィルムで撮影されたサトウキビの《白》は窓からまかれる革命のビラの《白》と呼応するはずだったが、モスクワは好感を示さなかったと言われている。この作品を発見したのが、アメリカのシネフィルたちという暢気な有閑階級だったのは、彼らが映画を知覚のゲームとしてとらえているからだろう。

ヒトの網膜が知覚しているものは、眼の前にあふれているすべてのエネルギーのなかのわずかな部分でしかない。そう考えると、ヒトの思想や思考なんて誤謬だらけに決まっているではないか。

“Soy Cuba/I Am Cuba (1964)”
d. Mikhail Kalatozov
c.Sergey
Urusevsky

Notes

(1)^  この時期のユニバーサルの作品で赤外線フィルムを用いて撮影した作品として、“Sword
in the Desert (1949)”、 “Johnny Stool Pigeon (1949)”、 “Illegal Entry
(1949)”、 “Take One False Step (1949)”, “Abandoned (1949)”が挙げられる。

References

[1] W.
W. Kelley, “Making Modern Night Effects,”
American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 11, Jan.
1941.

[2] A.
A. Finney, “Weegee and Kubrick: The Infrared
Connection
.”
https://www.infrared100.org/2020/07/weegee-and-kubrick-infrared-connection.html.

[3] R.
Williams and G. Williams, “Reflected Infrared
Photography
: Films.”
https://medicalphotography.com.au/Article_03/02e.html.

[4] T.
J. Van Den Berg and H. Spekreijse, “Near Infrared Light
Absorption
in the Human Eye Media,”

Vision research, vol. 37, no. 2, pp. 249–253, 1997.

[5] L.
Klein, Infrared Photography: Artistic
Techniques
for Digital Photographers
.
Amherst Media, 2016.

[6] W.
J. Geeraets, R. Williams, G. Chan, W. T. HAM, D. Guerry, and F. Schmidt,
“The Loss of Light Energy in
Retina and Choroid,”
Archives of
ophthalmology
, vol. 64, no. 4, pp. 606–615, 1960.

[7] C.
Ash, M. Dubec, K. Donne, and T. Bashford, “Effect of
Wavelength and Beam Width on
Penetration in Light-Tissue Interaction Using
Computational Methods
,”
Lasers Med Sci, vol. 32,
no. 8, pp. 1909–1918, 2017, doi: 10.1007/s10103-017-2317-4.

[8] I.
B. Allemann and J. Kaufman, “Laser
Principles,”
in Basics in Dermatological
Laser Applications
, vol. 42, Karger Publishers,
2011, pp. 7–23.

[9] “Necsus | Beyond human
vision: Towards an archaeology of infrared images.”

https://necsus-ejms.org/beyond-human-vision-towards-an-archaeology-of-infrared-images/.

[10] L.
Allen, “They Do It with
Infrared,”
American Cinematographer, vol.
30, no. 10, p. 360, 1949

[11] M.
T. Kuska, J. Behmann, and A.-K. Mahlein, “Potential of
Hyperspectral Imaging to Detect and
Identify the Impact of Chemical Warfare
Compounds
on Plant Tissue,”
Pure and
Applied Chemistry
, vol. 90, no. 10, pp. 1615–1624, 2018.

エドワード・ホッパーと戦争

Edward Hopper, “Nighthawks” (部分)

エドワード・ホッパー(1882 – 1967)の「ナイトホークス Nighthawks」は、彼の最も代表的な作品だ。

ホッパーの最も有名な作品のひとつ、「ナイトホークス」は、夜の都会の生の光景である。場所は、彼がよく知っていたグリニッチ・ヴィレッジのダイナー。1940年代には蛍光灯の照明は比較的目新しく、ホッパーはその明るさを用いて、ダイナー内部を都会の暗い夜の安らぎのオアシスとして強調している。

Ita G. Berkow [1]

「ナイトホークス」の評には、<都会の孤独>、<寂寥>、<静寂>、あるいは<オアシス>、<光と闇>といった言葉が頻繁に現れる。また、ホッパーがアーネスト・ヘミングウェイの短編小説「殺人者(The Killers)」を大変気に入っていたことから、そこに登場するダイナーと関連付けて鑑賞する人も多い。1930年代~40年代はいわゆるハードボイルド小説の古典期にあたり、この絵にダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、そして当時のハリウッド映画とのパラレルを指摘する批評も存在する。さらに時代を下って、リドリー・スコットが『ブレードランナー(The Blade Runner, 1982)』のインスピレーションのひとつとして「ナイトホークス」を語っており、ネオ・ノワールの想像力の源泉として論じることも可能であろう。どんな切り口を持ってきても、興味と想像の領域が広がり続ける不思議な作品である。

私自身は、深夜のダイナーという日常的であるはずの光景が、どこか非日常的な世界に埋め込まれているように感じられ、その歪みのメカニズムがいつも気になっていた。

アメリカが第二次世界大戦に参戦した直後に導入された消灯令(ブラックアウト)について様々な文献や資料、新聞などを読み進めるなかで、「ナイトホークス」についての以下の文章に遭遇した。

「ナイトホークス」はホッパーの世代が経験した最大の出来事のひとつ ── 1941年12月7日の真珠湾攻撃、そしてアメリカの第二次世界大戦への参戦 ── に対するホッパーの応答だということを、知る人は少ない。ホッパーは街のなかを歩き回るのが好きだったが、この局面を迎えたあとでは、まったく違う経験に感じられたに違いない。

Sarah Kelly Oehler [2]

「ナイトホークス」が描かれたのは1942年1月、真珠湾攻撃からまだ2ヶ月も経っていない時期である。ニューヨークは夜になると消灯令が頻繁に発令された。西海岸が日本軍の襲撃に神経質になるのはまだ理解できるとしても、東海岸の各州でも同様に色めきだっているのは過剰反応のように思える。ナチス・ドイツの爆撃機が編隊を組んで大西洋を渡ってくるという黙示録的な光景を皆が思い浮かべていたのだろうか。この頃、政府も軍も、そして新聞も足並みをそろえて、志願する若者たちを称え、遠い太平洋での危機を叫び、本土の安全保障に躍起になっていた。戦争は始まったばかり、実際の大規模な派兵もこれからというタイミングだが、国内には「戦争だ!」という高揚感ばかりが先走っていたようにみえる。そのなかで、消灯令は民間人ができる数少ない<参戦>であり、実際の効果や戦争への貢献は別として、都市部の人々が声を揃えて<活動>できる希少な機会だったのではないか。

当時の新聞や雑誌を見ていると、消灯令を守らない人たちを糾弾するとまではいかないまでも、愛国心に欠ける、怠惰な人々と揶揄する論調に覆われているのがわかる。例えば、消灯令の発令の様子を報じるロチェスターの新聞の記事は、ショーウィンドウの照明を消し遅れた店を取りあげて「消灯令の暗闇を台無しにした」と報じている。

消灯令下のロチェスター、ニューヨーク。
下の写真で右手の店が消灯をしていないために
通りが明るく照らされている。
”Democrat and Chronicle” 1941/12/15

この空気のなかでホッパーは「ナイトホークス」を描いた。描かれた街角は暗い。消灯令下で息をひそめている街角だ。その街角に佇むダイナーの大きなウィンドウから放たれる蛍光灯の光が闇と拮抗し、溶解している。現実のグリニッジ・ビレッジならば、このダイナーも周囲の店舗と同じように閉店して夜に沈んでいなければならないはずだ。「暗い夜の明るいオアシス」は戦時下の街角に存在してはいけない場所なのだ。

つい数週間前まで、深夜のダイナーが舗道を明るく照らす風景は<日常>だったに違いない。だが、開戦を境に消灯令の闇の街が<日常>になり、蛍光灯に眼が眩むようなダイナーは<非日常>になってしまった。<日常>と<非日常>が反転し、ありきたりだった光景が失われてしまった。背景に佇む建物の暗い窓、暗いショーウィンドウは、どこかで見たことがある。そう、『深夜の告白』のオープニングのロサンゼルスだ。ウォルター・ネフが瀕死の重傷を負いながら乱暴に運転して走り抜ける街、あのビルトモア・ホテルやヴィクトリー・スクエア・ドラッグストアの暗い窓、暗いショーウィンドウと、「ナイトホークス」の背景で佇んでいる暗い建物はつながっている。

「ナイトホークス」を制作する前の約1年間、ホッパーは精神的に絵を描けない状態にあったという。ケープ・コッドの別荘でも、ニューヨークのアトリエでも、ほとんど作品を仕上げていない。友人にはヨーロッパの戦況について「不安に苛まれる(suffer anxiety)以外、なにもできない」と書き送っている。その彼が真珠湾攻撃の直後に取り憑かれたように「ナイトホークス」を描きあげた。エドワード・ホッパーの妻ジョセフィーンがエドワードの姉、マリオンにあてた手紙が面白い。

エドは、爆撃されるかもしれないという話をしても、まったく聞く耳を持たない。私達の住んでいるところはガラスの天窓、雨が降ると屋根から雨漏りする。彼は用心するなんてまっぴらという感じで、私が、夜中にパジャマで外に飛びなさなきゃならなくなったときのために、タオルや鍵、石鹸に小切手帳、シャツ、ストッキング、ガーターをナップサックに詰めているのを見て鼻で笑っているだけ。消灯令が出ても、天窓にはカーテンをしていない。でもエドはおかまいなし。彼は新しい作品にとりかかっていて、じゃまされたくないらしい。

Josephine Hopper [3]

彼のアトリエは、消灯令の最中でも空に向かって煌々と光を拡散していたのだろうか。「ナイトホークス」のダイナーそのものではないか。

ジョセフィーンの手紙からは、国を覆い始めた偏執と熱狂をエドワード・ホッパーが冷めた視線でながめていたように見える。実際のところはどうだったのか分からないが、暗い消灯令のグリニッジ・ヴィレッジの街角に、煌々と明るいダイナーを描いたのは、ある種の抗いだったのだろう。

この作品はシカゴ美術館が$3,000で買い取り、1942年11月の展覧会でアダ・S・ガレット賞を受賞する。当時の評には、後世の批評家たちがこの作品を表現するときには使わないであろう語彙が登場する。

エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」は面白い(amusing)、時代にぴったりの(topical)キャンヴァスだ。

Eleanor Jewett [4]

「amusing」を「面白い」と訳すには難があるかもしれないが、この「amusing」は、どこか楽しい、ほっこりと微笑んでしまう、といった感じが漂う。これは孤独、寂寥、殺伐といった感傷とかけ離れているように聞こえるが、一方で<日常>のなかに<非日常>が埋め込まれた異譚の風景が呼び起こす言葉としてはおかしくないのかもしれない。

ニューヨークのエドワード・ホッパーは、作品「ナイト・ホークス」でアダ・S・ガレット賞を受賞、750ドルを手にした。この作品は、深夜の「即席メニュー」ランチルームをシンプルに、印象深く描いた絵画である。ランチルームの長く、水平にのびる抽象的なデザインが、緑、赤、灰色のあたたかい(warm)背景に映えている。

The Art Digest [5]

現在、この絵の背景を「warm」と表現する人はどれくらいいるだろうか。しかし、そう言われてもう一度見てみると、そうなのかもしれない。

2020年の初頭、コロナ/Covid-19が世界を襲い、世界の各都市で<ロックダウン>がはじまった。この頃、自分たちがおかれた状況をエドワード・ホッパーの作品になぞらえたTweetが注目された。

なかには、「ナイトホークス」のダイナーを<ロックダウン>の情景に変貌させたものもあった。

「私たちはみんなエドワード・ホッパーの絵の世界になってしまった」という退屈なSNSの皮肉を、深刻な面持ちで受け取った者などいないだろう。「ああ、そうだね」とどこか笑いながら、<amusing>だと思って見ていたのではないか。ホッパーの作品をmetaphysicalな空間 ──心象風景のようなもの── として体験しているあいだは、孤独とか、静寂といった語彙が共有されていたが、physical【物理的/身体的】な境遇として体験したとき、amusingなものに変貌したのは示唆的だ。時代とともに感性が変わったとか、過去の人々の視点は不自由だったとか、あるいは現在の私達の視点が不自由だとか、そういったわけではなくて、おそらく日常の営みの緩さを信じていた人たちが、ちょっと転ばされた時に感じる、怒りにもならない怒りや恐怖にもならない恐怖のようなものを受け流す、反射的な反応なのだろう。

ホッパーが、ヘミングウェイの「殺人者」やハードボイルド小説に影響を受けて「ナイトホークス」を描いたとする議論は、私には、後世の鑑賞者の願望的思考のように思えるが、同時代の映画監督でホッパーの絵画に影響を受けたと告白する者はいた。『悪の力(Force of Evil, 1948)』は、フィルム・ノワールと呼ばれる一連の作品のなかでも、もっともやりきれない後味を残す作品だが、監督のエイブラハム・ポロンスキーはインタビューでこう述べている。

僕はジョージ(撮影監督のジョージ・S・バーンズ)に自分が探している映像を説明しようとしたのだけれど、なんて言えばいいのかわからなくて、うまく伝えることができなかった。僕は本屋に出かけていって、ホッパーの画集を買ってきた。サード・アヴェニュー、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り ── そういう絵だよね。そこに人がいるのに、見えない。どういうわけか、周りの環境が人を支配している。僕はジョージに画集を見せて「こういうのが欲しいんだ」と言ったんだ。すると、「なんだ、これか!」と彼はすぐに「これ」が分かってね。そのあとは最後までなんてことはなかった。ジョージは、僕が欲しかったトーンが一度分かったら、そこから絶対にブレなかったんだ。

Abraham Polonsky

画集と言っても、現在のような色の再現性を極限まで追求した印刷物ではない。1948年当時に入手可能なホッパーの画集、例えば American Artists Group Monograph のシリーズ(1945年刊)は、大部分が白黒の図版である。画集に掲載された「ナイトホークス」には、闇を覆う緑の色調も、背景の建物のレンガ色も、ダイナーの壁の若干汚れたクリーム色も、存在しない。

『悪の力(Force of Evil, 1948)』
d. Abraham Polonsly
dp. George S. Burns

かつてホッパーは<アメリカ>を体現する画家として、ウィンスロー・ホーマーやグラント・ウッドとともに語られていた。彼の作品は<特異なスタイル>や<ユニークな作風>と形容され、他の芸術家たちとは一線を画していると常に言われていたが、むしろ<アメリカ>を体現する画家のあいだで共通する作風を見出すほうが困難だ。だが、ホッパーがアメリカに特徴的なある種の景色を執拗に描き続けたのは確かだ。

イギリスのアート・ジャーナリスト、ジョナサン・ジョーンズは「エドワード・ホッパーの絵に登場する家はすべて殺人鬼の家みたいだ」と言った。ヒッチコックの『サイコ(Psycho, 1960)』に登場するノーマン・ベイツの家は、ホッパーの “House by the Railroad (1925)” がモデルになっているという話は、<映画史上の名作>の逸話として少し完璧すぎる気がするが、<アメリカ>が無軌道な暴力をいたたまれないほど内包しているという点では、説得力がある。

そこに人がいるのに、見えない。第二次世界大戦という暴力の場に引きずり込まれたときに、悲愴感ややりきれなさよりも高揚感や期待が人々を覆うという奇妙さへの違和感が1940年代のホッパーの作品 ── ”Nighthawks” だけでなく、”Dawn in Pennsylvania (1942)” や “Appraoching a City (1946)”、”Seven A. M. (1948)” など ── には漂っている。人のいない世界に底の見えない闇の穴があいている。『疑惑の影』、『深夜の告白』、『悪の力』といった作品にもやはり闇の穴があいている。

闇の穴はいまでもあいている。アメリカで銃の乱射事件が起きるたびに、銃の売上げが伸びるのだという。いままで銃と無縁だった人たちが、乱射の恐怖を目の当たりにして、護身用に買うらしい。「すべて殺人鬼の家みたいだ」という表現はそれほど的外れではない。

References

[1]^ I. G. Berkow, Edward Hopper : an American master. Smithmark Publishers, 1996.

[2]^ S. K. Oehler, “Nighthawks as a Symbol of Hope,” Mar. 2020, Accessed: May 31, 2022. Link

[3]^ G. Levin, “Edward Hopper’s ‘Nighthawks’, Surrealism, and the War,” Art Institute of Chicago Museum Studies, vol. 22, no. 2, pp. 181–200, 1996, doi: 10.2307/4104321.

[4]^ E. Jewett, “53d Paintings and Sculture Show Pleasant,” Chicago Tribune, Chicago, p. 4, Nov. 01, 1942.

[5]^ “Chicago Continues American Annual,” The Art Digest, vol. 17, no. 3, p. 5, Nov. 01, 1942.