まだ起きていない犯罪

「スナイパー(1952)」
  「スナイパー(1952)」の主人公エディーについては、直接モデルとなった連続殺人犯はいないようだ。しかし、この映画が製作されるときに、製作や監督の意識にあったであろう殺人事件があった。ハワード・ウンルー(Howard Unruh, 1921 – 2009)が1949年に起こした大量殺人事件である。ニュー・ジャージー州のカムデンという小さな町で、ある朝、彼は町の通りを歩きながら、わずか12分のうちに13人を射殺した。町の人たちをターゲットとしてはいたが、計画的ではなく、ほぼランダムに、手当たり次第にドイツ製ルガーで撃っていった。彼はすぐに逮捕された。
  ウンルーは、結局精神異常と診断される。彼が最後に残した言葉は「弾さえあれば千人だって殺した」だった。

逮捕されたハワード・ウンルー(中央)
警官たちの表情と犯罪者の表情の対比
  このウンルーは、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線に従軍したが、非常に腕の立つスナイパーだったらしい。しかし、すでに彼の異常性はこの時から明らかだった。

彼の日記は、奇怪としか言いようがないー戦争中に射殺したドイツ兵について一人一人、いつ、どこで、どのような状況で撃ったか、そしてその兵士の死んでいくときの顔の表情を、克明に記録しているのだ。
-Bad Blood, An Illustrated Guide to Psycho Cinema, Christian Fuchs, 1996

  この「死んでいくときの顔を表情を記録している」というのが、実に衝撃的だ。撃ったときのリコイルの問題も考えると、どこまで本当にウンルーがスコープを通して見たことなのか、彼の幻想も混じってはいないだろうか、と思ってしまう。
 
  現在のスナイパーのトレーニングでは、しとめる相手の頭部はなるべく狙わず、身体の重心位置、すなわち胸部を狙うらしい。ターゲットとして広くて狙いやすいから、ということのほかに、撃つ相手の表情を見るとスナイパーといえども一瞬ひるむことがあるからだそうである。ウンルーはひるむこともなく、じっと観察していたことになるのだろうか。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KeqoVE5HHwU]
  「スナイパー」では、精神科医のケント(リチャード・カイリー)が自説を披露するシーンがある。エディーのような無差別殺人を起こす犯人は、過去にすでに暴力行為で警察の世話になっているはずだ、最初は殴ったりするような小さな犯罪だったのが、だんだんエスカレートして、最後には歯止めが効かなくなる。その最初の、小さな犯罪の時点で見つけ出して精神病院に収容すべきだ、というものである。この「予防措置」的な考えは、21世紀になってまさに起きていることである。ガンタナモ収容所は、「テロを起こすかもしれない」可能性のある人物を強制的に収容している。その人権を無視した扱いも含めてUNやアメリカ国内のリベラルのみならず、右派からさえも批判のある一方で、「あのおかげでテロが未然に防げているのだ」という意見もある。
  P.K.ディックの小説「少数報告(The Minority Report)」とその映画化作品も、犯罪を起こす人間を未然に逮捕するという設定だが、実際に起こした犯罪ではなく、「これから起こすかもしれない犯罪」に対してアクションがとられるという点において、ケント医師の発言はディックの描いた居心地の悪い未来への入り口とも言えよう。

「スナイパー」-フィルム・ノワールから新しい時代への入り口

「スナイパー(1952)」UNKNOWN HOLLYWOODオリジナル予告編

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アレキサンダー・ハミッドの「あてなき彷徨」

マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

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列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。
この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。

厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。
特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。
ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。

【参考】
“Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand”、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号 

オスカー・フィッシンガーの徒歩の旅

UNKNOWN HOLLYWOODの第1回に来ていただいた方は、この短篇フィルムを覚えていらっしゃるだろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJDb-cj1YLA]
これは、ラッキー・ストライクのコマーシャル(1948)だ。実は、これはオスカー・フィッシンガー(Oskar Fischinger, 1900 – 1967)が戦前1930年代にドイツで製作したタバコのコマーシャルの真似だということを知った。ムラッティというブランドのタバコのコマーシャルが1934年と1935年に製作されている。これは実は以前日本でレーザーディスクで発売されていたようだ。

オスカー・フィッシンガーは抽象映像芸術の先駆者であり、その後のヴィジュアル・アーツに大きな影響を与えたと言われている。1920年代から、ヴァルター・ルットマンと交流があり、お互いを刺激する関係にあった。フィッシンガーの仕事で有名なのはフリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」の特殊効果である。月面や宇宙空間、そしてロケットなどのヴィジュアルを提供した。その頃、彼自身はスタディーズと呼ばれる、紙に炭で描いたアニメーションを製作している。これらは音楽と同期させて鑑賞することを目的としており、映像史上初のMTVとも言えるかもしれない。


フィッシンガーが1920年代に発明した装置に「ワックス・スライシング・マシーン」がある。これはワックスで作成されたオブジェをスライスしてその断面を1フレームずつ撮影していくものである。これで製作された作品が「ワックス・エクスペリメンツ(Wax Experiments)」と呼ばれている。

彼の作品をもっと知りたいと思うが、なかなか見る機会はなさそうだ。特に彼の作品を管理している、フィッシンガー・トラストが多くの作品を再リリースしていない現状では致し方ない(特に彼が製作したコマーシャルなどは、フィッシンガー自身の遺志によるところも大きいようだ)。そんななかで現在全編見ることが出来て、なおかつ非常に興味深いのが「ミュンヘンからベルリンまで徒歩の旅(Munchen-Berlin Wanderung, 1927)」である。家賃が払えなくなってベルリンに逃避行したときの徒歩の旅程で得られた映像を映画にしたものである。これは見る機会があればぜひ見てみたい。

この抜粋を見て思い出したのが、2002年ごろから数年間、マイクロソフトが研究開発していた「マイライフビッツ(MyLifeBits)」で導入されたセンスカム(SenseCam)である。 マイライフビッツは、自分の人生をすべて記録して保存するシステムを提供しようというプロジェクトで、ゴードン・ベルが自身でそれを実践していたのだが、そのときに首からぶら下げてタイムラプス映像を取り続けるカメラがセンスカムである。これがその例である。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=V0iqj27LKGA]
最近は自撮り棒で自分のビデオを撮るのが流行っているが、以前は外界を撮ることに熱中していた時期があった。このセンスカムとそのアイディアは、実はアルツハイマー病や記憶喪失などの記憶障害の患者のために利用されている。その日一日の行動を記録したものを後で見直すことで、記憶の復帰を刺激することができるとされている。

「ミュンヘンからベルリンまで」を記録した、そのときの記憶の持ち主はもういないのだが、その映像は私達に別の経験を与えてくれる。それはどういうことなのだろうか。私は「他人が撮った映像」「自分が撮った映像」を見るという行為のはじまりについて、もう一度最初から考え直さないといけないようだ。

ハンス・カスパリウスの「ヒデンゼー(1932)」

英国の映画雑誌「Close-Up」の1932年9月号に掲載されていたスチール写真に眼を惹かれた。

ドキュメンタリー映画「ヒデンゼー(Hiddensee, 1932)」からのもの。監督はハンス・カスパリウス(Hans Casparius)。ヒデンゼーはバルト海の孤島だ。そこを舞台としたドキュメンタリーだと思われる。思われる、というのも、この映画についての情報がほとんど見つかっていないからだ。

ハンス・カスパリウスの映画界における活動は、G.W.パブストの「三文オペラ(1931)」などにスチール写真家として参加していること、戦後「サイモン(Simon, 1954)」という短編映画をイギリスで製作したことくらいがIMDBに掲載されている程度である。この「ヒデンゼー」というドキュメンタリー映画についてはリストされていない。

カスパリウスは、写真家として1920年代からナチス台頭前のベルリン、そしてその後ロンドンで活躍しているようである。ジグスモンド・フロイトの肖像写真のひとつも彼のクレジットになっている。

彼のベルリン時代の写真は、街の何気ない風景をスナップした作品だ。対象を瞬時にとらえたようなものが多い。けれども、陽光に満ちた白とそれが落とす影とがしっかりと刻まれ、そのコントラストが魅力的だ。

ちなみに、短編映画「サイモン」はショーン・コネリーが映画出演した二作目らしい。また、カスパリウスが監督・製作した、スコットランドを舞台にしたドキュメンタリー映画「You Take the High Road (1950s)」は、ここで見ることができる。