これは「立体的に見ること」のシリーズの続きです。
年: 2014年
立体的に見るということ(3)
立体的に見るということ(2)の続きです
今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。
立体的に見るということ (2)
[「立体的に見るということ (1)」の続きです]
立体的に見るということ (1)
[「疲労困憊の3D映画」シリーズの続きです]
1920年代の3D映画
もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
左目(青)だけで見ると棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。右目(赤)だけで見ると妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
疲労困憊の3D映画(3)
3D映画を観ると疲れる
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実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右) |
Mendiburuは
この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。
このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.
別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。
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被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き 左は両足を閉じて、右は開いて。 (Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析) Computer Technology and Application 3159-168 (2012) |
では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。
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ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ (Popular Mechanics, January 1955) |
問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。
「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。
(4)に続く
疲労困憊の3D映画(2)
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via. wonderfulengineering |
50年代とは違うシナリオ
(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。
実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。
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1860年頃の3Dステレオグラム |
ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。
Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]
(3)に続く
疲労困憊の3D映画(1)
3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック) |
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています
多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。
[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。
戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)
Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の
「T-Men」と「Raw
Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明
によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、
それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。
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アーサー・クリム |
Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination
Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。
し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。
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左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領 |
るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of
Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、
今は全世界に彼のファンがいます。
戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)
最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と
言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。
「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He
Walked By
Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。
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Vera Caspary 「ローラ殺人事件」の原作者 イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた |
ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア
にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・
マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon
City」、「He Walked By
Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]
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ジョン・ロッセーリ |
By
Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ
ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。
Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。
(第3部に続く)
[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。
[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, “Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death”, Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。