立体的に見るということ(3)

立体的に見るということ(2)の続きです

今までの話は、相対的な遠近関係を幾何学的に導き出した方法で表すことについてでしたが、光を用いて遠近感、奥行きを表現する方法もあります。

続きを読む 立体的に見るということ(3)

1920年代の3D映画

3D映画は、ハリウッド映画史上において1950年代に最初にブームを迎えたとされていますが、実は1920年代に一度ブームを迎えているのです。この時期の3D映画は、今となってはその完成度や影響力を把握しにくいものになっています。というのも、そのほとんどが消失してしまっているからです。
1920年代に登場した3D映画は、基本的にアナグリフ型であるため、カラー映画の発達と並行していたともいえます。1922年に発表、公開されたウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリーの「プラスティコン(Plasticon)」は現存する最古の3D映画だと思われます。「未来の映画(The Movie of the Future)」というタイトルでニューヨークのリヴォリ・シアターで公開されました。この映画は90年後の2013年にWorld 3-D Film Expo IIIで特別上映もされています。

もともとウィリアム・ヴァン・ドーレン・ケリー(1876 – 1934)はカラー映画の開発を手がけていました。1916年にプリズマ I、1917年にパンクロモーション(Panchromotion)というプロセスを発表します。これは赤/オレンジ、青/緑、緑/紫(+黄色[パンクロモーション])のフィルターの円盤がフィルムとシンクロして回転することでカラーを形成するというものです。このプロセスを用いて、「Our Old Navy(1917)」という映画を発表しますが、技術的な問題を抱えていたため、ケリーは別の手法を模索します。(このプロセスでは、1秒あたりのフィルムコマ数を増やす必要があり、行き詰ってしまいます。)ケリーは、1919年にプリズマ IIというプロセスを発表します。これは二枚のフィルムを貼り合わせたもので、一方が赤/オレンジ、もう一方が緑/青に染色されています。これは撮影時に1コマおきに赤、青とフィルターしたものを重ねたもののようで、重ねると動いているものはぴったりと重ならない、という欠点がありました。そのため、風景を撮影したものが主体となり、このプリズマカラーで多くの観光映画が製作されています。「Bali : The Unknown (1921)」「The Glorious Adventure (1922)」は、ニューヨークのリヴォリ・シアター、あるいはロキシー・シアターで公開されています。このシアターチェーンのディレクターであるヒューゴ・リーゼンフェルドがこのような新規技術に理解を示しており、積極的にプログラムに組み込んで行ったようです。1923年にはロバート・フラハティーが「モアナ」の撮影のためにプリズマ IIのカメラをサモア諸島に持って行きますが、カメラの動作不良により、カラー撮影をあきらめたと言われています。

このケリーのプラズマ IIが基礎となって、2台のカメラでそれぞれ赤/オレンジ、緑/青を撮影することで3D映画のプロセスが生まれます。「未来の映画(The Movie of the Future)」はニューヨークで撮影され、ルナ・パーク(当時最も人気のあった遊園地)での動きのある映像が呼び物だったようです。
このほかにも、フレデリック・ユージン・アイヴスとヤコブ・リーヴェンタールが開発したステレオスコピクス(Streoscopiks)も1925年に同じくニューヨークで公開されます。「Lunacy」はやはりルナ・パークで撮影され、ローラーコースターや観覧車からみた映像が中心だったようです。異なる原理を利用した3D映画としては、1922年のテレヴュー(Teleview)があります。これは、観客席に双眼鏡のような装置がすえつけてあり、観客はスクリーンをこの装置を通して見ることになります。映画は1コマごとに右目用、左目用の像をスクリーン上に投射します。映画上映に同期して双眼鏡内のシャッターが左右のレンズを交互に開放する仕組みです。

ここで、私は「3D映画」と呼んでいますが、当時は「ステレオスコピック(Streoscopic)・ムービー」と呼び、3D効果のことも「レリーフ効果」と呼んでいました。

Plastigram Stereoscopic Film, 1921 と題されていますが、
これは1926年のStereoscopiksのものだと思われます。
これはGeorge Eastman Houseが保有するStereoscopiksのプリントのようです。左目が青、右目が赤のフィルターで見ると「レリーフ効果」が現れるはずなのですが、ちょっと難しいようですね。プロジェクターを使って大きく投影して見たりしたのですが、どうもしっくり来ません。これが当時の技術の限界だったのか、それともフィルムの保存に伴う問題なのか判別しません。こういう点が、この時代の技術の把握を難しくしている部分でもあるでしょう。しかし、これらの映画の技術的な発達が混迷してゆく様子を見ると、当時の観客にとっては望ましいものではなかった可能性が高いでしょう。
そのような背景からか、このあと、アナグリフ方式でスクリーンの2次元に新しい次元を加えるという試みは、まったく思わぬ方向に展開します。「プロット」の次元です。1927年に発表された「お気に召すまま(As You Like It)」は、ヤコブ・リーヴェンタールとウィリアム・クレスピネルが製作した短編映画です。普通の白黒映画として始まります。仕事場にいった夫の帰りが遅く、やきもきする妻。夫は木材処理場で働いているのですが、そこで悪人に襲われてしまいます。のこぎりのスイッチが入れられ、夫はいまにも真っ二つ。一方、心配のあまり妻は車で夫の仕事場へ。そこで画面に「メガネをかけてください」という字幕が出ます。ここで、
左目(青)だけで見ると
棺桶が仕事場から運び出され、カメラに向かってやってくる。そこで棺おけは真っ二つに割れて、夫の死を暗示して終わる。
右目(赤)だけで見ると
妻は直前に間に合って、のこぎりのスイッチを切り、夫婦は抱き合って終わる。
そう、見る眼によって、悲劇のエンディングか、ハッピーエンディングか選べるのです。
もちろん、現在ではゲームのストーリーテリングの基本的な手法として、複数のバージョンのエンディングというのはごく普通に存在します。しかし、映画では複数のエンディングが同時に公開されるというのは、数えるほどしかありません。「殺人ゲームへの招待(Clue, 1985)」と「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ(Hide and Seek, 2005)」はどちらも違う劇場で別々のエンディングが見られると言うものです。マレーシア映画「ハリクリシュナン(Harikrishnans, 1998)」は登場する2人の俳優のそれぞれのファンのために、2つのバージョンのエンディングを用意しました。ファンは自分の好きな俳優のハッピーエンディングが用意されている劇場に行けばよかったのです。しかし、「お気に召すまま」のようにひとつのスクリーン上で二つの違うプロットが同時に進行すると言うのは、後にも先にもこれだけではないでしょうか。残念ながらこの映画のプリントは現存していないようです。
この頃に、ハリウッドのステレオスコピック映画熱はいったん冷めてしまいます。これらの映画が公開されたのは、都市部、ほとんどニューヨーク市内に限られていたようですが、本当はどのくらい上映されていたのでしょうか。一方で、カラー映画は、テクニカラーが3ストリップ式を10年ほどかけて完成させます。1930年ごろには、一時期だけワイドスクリーンもブームになります。しかし、この時期の最も重要な技術競争と言えば、映画のサウンド化(トーキー化)であり、数多くの方式が特許を抱えて競い合っていました。そのような技術の嵐の中、ステレオスコピック映画はあっという間に忘れ去られてしまいました。

疲労困憊の3D映画(3)

3D映画を観ると疲れる

Bernard Mendiburuの”3D Movie Making: Stereoscopic Digital Cinema from Script to Screen”(2009 Elsevier)には詳細に3D映画の原理とプロセスが書かれています。そこにも「両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なること」についても、もちろん言及されています(p.20)。

実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右)

Mendiburuは

この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。
This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
と言っています。しかし、この根拠は示されていません。本当に「難なくしていること」なのでしょうか?
この本が出てから4年後に発表された、Angelo G. Soliminiの論文(“Are There Side Effects to Watching 3D Movies? A Prospective Crossover Observational Study on Visually Induced Motion Sickness “, PLOS, Published: February 13, 2013, DOI: 10.1371/journal.pone.0056160)には、とても「多くの人が難なくしていること」とは思えない状況が述べられています。
ヴァーチャル・システムや操縦シミュレーター、3Dディスプレイを見ることで、視覚疲労(visual fatigue)や「乗り物」酔い(motion sickness)が起きることが報告されています。特に動画を見ることで起きる酔いはVIMS(visually induced motion sickness)と呼ばれています。
視覚疲労の症状としては、眼の不快感、疲れ、痛み、乾き目、涙目、頭痛、さらには、視界がかすんだりや二重に見えたり、焦点を合わせるのが困難になったりします。まさしく、焦点/輻輳の非同期が、この視覚疲労を引き起こしていると主張の研究もあります。一方でそれは原因ではなく、関連がみられるというだけではないか、という意見もあります。もともと潜在的に両眼視に問題を持っている人も多く(本人も気づいていない)、その場合は視覚疲労が発生する率はさらに高いと考えられます。
VIMSは、視覚で得られている動きの情報と、実際に身体が知覚する動きの情報が矛盾していることで発生すると考えられています。たとえば、ジェットコースター上で撮影された映像をじっと座って見ている場合、観客の視覚は高速で激しい動きの情報を送っているのに、体はまったく静止したままであるため、その矛盾を解決できずに「酔い」という症状になってあらわれるようです。このとき、「身体が知覚する動きの情報」というのは、実に複雑で、三半規管からの情報だけではなく、関節にかかる力、肌に触れる空気の流れ、などありとあらゆる情報を総合しているといわれています。動きの方向、速度、加速度だけでなく、環境からの刺激や、その変化なども、動きの情報として加わっているのです。
 
VIMSについて産業技術総合研究所の渡邊洋氏らが研究した結果は非常に興味深いものです。観客に2D、3D、そして「不適切な」3D映像を見せ、視覚疲労や自律神経系の反応を調査しました。ここで「不適切な」3D映像とは、左目と右目が見る像を上下にずらしたり、入れ替えたり、色味を変えたりして、通常の3D画像として認識できなくしたものをいいます。結果的には、「不適切な」3D映像を見た場合に疲労やVIMSを感じる観客は多いのですが、実は交感神経系の反応は3D映像をみるだけで上昇し、適切であるか不適切であるかは関係がないという結果になりました。

しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。

このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.

別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。

被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き
左は両足を閉じて、右は開いて。
(Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析)
Computer Technology and Application 3159-168 (2012)

では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。

ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ
Popular Mechanics, January 1955

3D映画を鑑賞することで身体に不快感を感じている人は明らかにいます。しかし、それがどのようなメカニズムで発生しているのかは、まだ研究段階で、安易な結論は避けなければなりません。ここ数年でも、VIMS専門の学会が2回、専門誌による特集号も何回も発行されています。3D映画のどのような部分が、視覚疲労につながるのか、VIMSにつながるのか、また疲労が出やすい人とそうでない人には相違があるのか、など科学的に解明されなければ、明らかな因果関係があるとは言い切れないでしょう。

問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。

「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。

(4)に続く

疲労困憊の3D映画(2)

via. wonderfulengineering

 
50年代とは違うシナリオ

2000年代後半から注目され始めたハリウッドの3D映画のビジネスモデル、あるいは普及のシナリオは1950年代とは違うのだとする意見もあります。Thomas Elsaesser の「The ”Return” of 3D」は、その相違として4点を論じています。

(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。

(2)3Dの視覚芸術は(ドルビー・サラウンドなどの)3Dの聴覚芸術を補完する性質のものである。
(3)3Dの視覚芸術は歴史的には2Dに先行していた技術でもあった。
(4)デジタルの3Dは、美学的な見地から「見えない」特殊効果を目指している。

実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
パーソナルな消費、小さなスクリーンでの3D映画、エンターテーメントの可能性、というのは、実際の3Dディバイスに対する市場の冷ややかな反応を見ると、その可能性は著しく萎んでしまっているとしか言えません。「ニンテンドー3DSは『3Dであるにもかかわらず』売れた」とされ、3Dのスマートフォンはほとんど注目されませんでした。そのような現状は、ディバイス、およびそれに対応したソフトウェアの開発への投資を一挙に鈍らせます。私自身、家庭用の3Dディスプレイに必要な材料の研究開発の現場の状況をわずかながら知っていましたが、結局R&Dや商品戦略を考える上で、「量が出ない」というのは大きなネックとなり、「技術的な差異化」「次世代のディバイス」といった切り口は殆ど意味をもちません。特に3Dディスプレイの場合、仮に商品化したとしても、そこから先に伸びていくマーケットが見えにくいのです。そういう、業界全体の投資が減速し始めると、加速度的に縮小し、おそらく現在では「パーソナルな消費」はほぼ壊滅したといってもいいと思います。

(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。

1860年頃の3Dステレオグラム

ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。


Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
著者の呆れ果てたスノビズムを度外視しても、本当に3D映画が物語り -Narrative- に新しい地平を開くのかどうか、考える必要があります。正確に言うと、3Dがもたらす新しい物語りが、3D によって失われる物語りよりもはるかに魅力的か、ということです。アナロジーで言うなら、サイレントからトーキーに移行したときに失われた物語りと得られた物語りで、トーキーによって得られたものが「美的可能性」の上においても十分魅力のあるものだったが、それと同じことが3Dにも言えるだろうか、という問いです。
私は、この問いに答えるためには、3D映画はまだ十分に可能性が探られていないと考えます。Elsaesserもあげている「Cave of Forgotten Dreams (2011)」などは、その可能性を探索する一歩だとは思いますが、多くの3D映画は、まだその文法を把握することで精一杯だといわざるを得ない。典型的な例が、マイケル・ベイの「Transformer: The Age of Extinction (2014)」でしょう。彼は非常に短いカットをつなぐことで、彼のファンが好むダイナミズムを生み出していたわけですが、3Dではあまりに短いカットでは観客がショットのパースペクティブに慣れることができない。そのため、この映画では彼は5秒以上のショットを重ねるように心がけていたわけです。すなわち、マイケル・ベイは2Dで「魅力的に」使いこなしていた物語りができなくなったのです。その代わりに得たものはどれくらいだったのでしょうか?

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]

ここで、マイケル・ベイを美学的な観点で語るのはおかしいだろうという意見もあるかもしれません。しかし、Elsaesserのいうところの「スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話」でさえ、語り方を模索しているときに、それ以上の語りを模索することをもって3Dの優位性を位置づけるのは、議論として説得力がないと思うのです。
私が強く感じるのは、「どうしたら3D映画は離陸できるのか」ということの筋道が見える前に、経済のダイナミックスで3D映画が消える、あるいは限られた役割しか与えられなくなるのではないかということです。Immersion -没入ー の側面に強く依存していた3D映画の市場開発のシナリオが、次の一手を打つ前に息切れしてしまっていると見えるのです。

(3)に続く

疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み
今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。
この夏はハリウッドにとって8年振りの低調な興行成績に終わってしまいましたが、その原因として、ワールドカップがあったことや、凡庸な結果に終わった話題作があったことなどの他に、3D映画の伸び悩みがあったことも指摘されています。「家族で映画を見に行って、ポップコーンとコーラを買ったら1日分の給料が飛んでいく」というコメントを読んだことがありますが、2時間ほどの体験として3D映画の特別料金を支払うだけの価値を見出せるか、というところに観客の関心が向き始めているようです。

数年前から3D映画は本当に「体験」「興奮」を提供するのだろうか、ということは疑問視されてきました。2011年のアメリカ心理学会の調査で、400人の学生を対象に「不思議の国のアリス」と「クラッシュ・オブ・タイタンズ」の2D版と3D版を見せてアンケートをとったところ、2Dと3Dに「興奮度」「心に残る体験」としての差はほとんど見られない、という結果がありました。
もともと、3D映画の仕組みが不自然であることは否めません。スクリーン上に映し出された像を、特殊なメガネで観賞することで3次元の幻影を見るのですが、両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なります[1]。この不自然さをもって、「3D映画は永遠に普及しない」とウォルター・マーチは豪語しました。この記事は2011年のRoger Ebertのサイトに掲載され、多くの反響を呼びました。コメント欄には、まだ3D映画に対して好意的なものが多く見受けられます。
David Bordwellはゴダールの新作についての評論の中で、近年の3D映画に共通して見られる問題として2つ挙げています。ひとつは「coulisse effect」と呼ばれる、(体積的な3次元ではなく)複数の平面が重なったように見える効果、もうひとつは映画が進むにつれ3D効果が薄れる「慣れ」の問題です。私もこの問題には覚えがありますし、多くの人が体験したことではないでしょうか?

3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=TPqxONS3DEg?start=84]
バロック・オペラの舞台装置の模型
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています

多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。

現在のハリウッドのビジネスモデルは、劇場でのチケット売上げよりも、フランチャイズやDVD、ブルーレイといった「副次的な」ビジネスでの利益確保が必須です。3D映画を家庭で観賞することを狙ったハードウェア(3DTV、プロジェクター)やソフトが一気に出ましたが、普及は減速しています。TV放送を3D化することで普及が可能かと思われましたが、BBCは3Dによる放送を棚上げし、ESPNは開発プログラム自体をキャンセルしました。ゲームの分野でも3Dへのシフトが期待されたものの、様々なところで開発が鈍化しているようです。

「アバター」が公開された当初は非常に期待された3D映画ですが、現状を見る限り、1950年代の3Dブームがたどった道を多くの人が思い出しているに違いありません。私は「Immersion(没頭、浸かること)」によって得られる「体験」に過度な期待をかけすぎたのではないか、と思います。ひとつには、そういう体験がどれくらい新鮮でありつづけることができるか、さらには、メガネをかけ続ける不自然さを正当化するだけの体験でありうるのか、ということを考えざるを得ません。もっと根本的な疑問として、2次元の次は3次元、そしてバーチャル・リアリティ、という当然のことのように考えられている「進化」が、技術としては進化しているのかもしれないけれど、エンターテーメントとして「進化」しているのか、ということをひたすら考えてしまいます。
(2)に続く

[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。

(左)実空間で物体(緑色の星)を視るとき、眼のレンズを使って焦点を合わせ、両眼の交差(コンバージェンス/輻輳)で距離を合わせますが、その焦点距離と輻輳の距離は一致します。
(右)3D映画で、物体(緑色の星)が手前に飛び出しているとき、コンバージェンスは飛び出してきている位置に距離を合わせますが、焦点はスクリーン上で結びます(映画の像が写っているのはスクリーン上だから)。この焦点距離と輻輳の距離の不一致が3D映画を見るときの特徴です。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)

The Destination Moon (1950)のポスター

3部構成の第3部です。第1部はここ、第2部はここ

アンソニー・マンとジョン・オルトン

アンソニー・マンとジョン・オルトンはイーグル・ライオンで3作(「He Walked By
Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の
「T-Men」と「Raw
Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明
によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、
それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。

アーサー・クリム
しかし、いくら彼らが安上がりの評判の良い作品を作っても、実際の配給となると、イーグル・ライオンはメジャー・スタジオの配給独占に阻まれてしまいます。確かに「Raw
Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination
Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。
作品たちの復活

実は、これらの作品をもう一度救うのは、アーサー・クリムです。1950年初頭、彼はもはや大出血を起こして死亡寸前のユナイテッド・アーティスツの経営を任されます。UAは毎週10万ドルを溝に棄てている状態だったのです。クリムと彼のパートナー、ロバート・ベンジャミン(イーグル・ライオンでも一緒でした)は、UAに乗り込んでいったその日のうちに、20世紀フォックスのスパイロス・スクーラスから資金を調達して、とりあえず「輸血」します。そして、様々な手を打って経営の改善に乗り出しますが、そのうちのひとつが、イーグル・ライオンの後継会社を買収して、そのフィルム・ライブラリをUAの財産と
し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。

左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領

このようにして、TVに配給されたイーグル・ライオンの映画は、深夜枠などで放送されることが多くなり、さらにVHSの登場と共にアメリカ国内での再評価が始まります。1980年代には、フィルム・ノワール批評の文脈のなかで、ジョン・オルトンのコアなファンたちが映画雑誌などで彼の作品の分析を繰り広げ
るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of
Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、
今は全世界に彼のファンがいます。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)

He Walked by Night, 1948

(3部構成の第2部です。第1部はここ。)

イーグル・ライオン・フィルムズのノワール

最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と
言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。

その後、イーグル・ライオンは、この手の「粗い手触りの/gritty」ノワール作品を次々製作します。前年にコロラドで起きた刑務所脱獄をテーマにした
「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He
Walked By
Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。
Vera Caspary
「ローラ殺人事件」の原作者
イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた
しかし、なぜこの時期にイーグル・ライオンはそのようなタイプの映画を製作するようになったのでしょうか?最大の理由は、少ない予算で「A級映画のようなルック」が作れるからです。犯罪者達の世界は、最低限のセットのほうがむしろ現実味があるし、夜のロケ撮影で底辺の世界を描くことができます。それをほとんど時間もかけずにどんどん撮影してくれる監督とカメラマンがいる。俳優達だってむしろ無名のほうが真実味もあるし、自分の役柄がどうのこうのと文句もつけない。製作側としてはかなりやりやすいジャンルです。

もうひとつの理由は、イーグル・ライオン・フィルムズの実質的な製作担当だった、ブライアン・フォイにあるでしょう。彼は、もともとボードビルの出身でしたが、1930年代にハリウッドの映画製作に深くかかわるようになりました。その中で彼が作った「友達」たちが非常に「カラフルな」人たちだったのです。
ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア
にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・
マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon
City」、「He Walked By
Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]

ジョン・ロッセーリ

そういう筋金入りのマフィアが、製作の立場で関わっていたことが、どのくらい映画の表現に影響したでしょうか。「T-Men」で危険な殺し屋の役をしたチャールズ・マックグローは、この映画の撮影の頃から普段でもマフィアのようなしゃべり方になり、自分の娘に嫌われてしまいます。「He Walked
By
Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ
ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。

ちなみに「He Walked By
Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。

第3部に続く)

[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。

[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, “Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death”, Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。