曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [5]

《フィルム・ノワール》の総論的分析には、ドイツとの関係が常につきまとう。ひとつは《フィルム・ノワール》の視覚的(ヴィジュアル)スタイルは《ドイツ表現主義》の影響を受けたとする議論である。もうひとつは、ハリウッドでの《フィルム・ノワール》形成には、ナチスから逃れたユダヤ系ドイツ人が重要な役割を果たした、というものである。

総論のなかで何の躊躇もなく述べられるこれらの議論は、それぞれをつぶさに見ていく各論のレベルのなかでは、あきらかに齟齬を起こしている。1970年代にはだれも疑うことのなかった総論を支えていたはず基礎がほころび始めている。その状況をみてみたい。

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曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール  [4]

フィルム・ノワールはフランス語だ

《フィルム・ノワール film noir》という言葉の語源に、ことさら深い意味があるのかどうか、正直なところわからない。だが、フランス映画批評を起源とするこの名詞は、様々な意味を持たされて時代を通過してきた。そして、これからもその意味を変えていくのではないだろうか。

この語の起源がフランスにあるという点が長いあいだ注目されていたのは、1946年から20年以上のあいだ、当のアメリカ人たちが《フィルム・ノワール》なるものを全く認知していなかった、という文化のあや(・・)のようなものを象徴しているからだろう。特にハリウッド映画という、本国では非耐久消費財とみなされていたものが、シリアスな批評に値する可能性を具体化してみせたのが《フィルム・ノワール》だった。

この言葉のその怪しげな出自と、その出自がその後の批評に与えたインパクトを見てみたい。

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曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [3]

フィルム・ノワール批評の広がり

1970年代後半から、一気に多くの映画批評家がフィルム・ノワールについて活発に語るようになる。「実存主義」というキーワードからフィルム・ノワールを読み解こうとする試み(ロバート・G・ポーフィリオ[1])、フィルム・ノワールをジャンルとして再定義しようとする論考(ジェームズ・ダミコ[2])といったものは、それまでの批評の延長と見てよいだろう。ジャック・シャドイアンの“Dreams and Dead Ends: the American Gangster/Crime Film (1977)”は、ハリウッドの犯罪映画史を展望する力作だが、フィルム・ノワールはあくまでギャング・犯罪映画ジャンル史のなかに登場する分類として位置付けられた。一方で、当時登場し始めた新しい映画批評の潮流と合流するように、新しいパースペクティブから論じられたものもある。映画の産業史的見地から、いわゆる《B級映画》とフィルム・ノワールの関係について見通す批評・研究(マッカーシー&フリン[3]、ポール・カー[4])、同時期に隆興しはじめたジェンダー映画批評(リチャード・ダイアー[5]、E・アン・キャプラン[6]等)などが挙げられる。

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曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [1]

「映画とは何か」「フィルム・ノワールとは何か」といった、「○○○○とは何か」といったタイトルを映画批評ではよく見かけるのだが、風呂敷が大きいだけで、広げる場所が間違っているような印象をいつも受けている。だが、「フィルム・ノワールとは何か」については、さすがに困っている。その定義が極めて曖昧で、流動的で不定形で、どんな映画を《フィルム・ノワール》と呼ぶのかという点も絶えず変化しているからだ。1980年代には、1940年代から50年代の一握りのハリウッド娯楽作品を指すものだと主張されていたが、今ではIMDBで『獣人島(Island of Lost Souls, 1932)』に film noir のタグがつけられてしまうほど自由自在に解釈されているようだ。《濫用》されているといってもよいだろう。そんな調子だから、《フィルム・ノワール》についての様々な記述や批評を読んでいると、あまりにいろんな齟齬が目立ち、疑問が沸き起こり、全く疑わしい土台のうえに分析や解釈が堂々と展開されている様子に出くわしたりする。私は、そういう定義の食い違いや齟齬について議論したり、分析したりすることには、あまり興味がないのだが、一度は整理して見る必要を感じている。そこで、残念ながら今回ばかりは「フィルム・ノワールとは何か」という風呂敷を、間違った場所に広げてみることにした。

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忘れられたフェミニスト映画批評家

自分からの逃走

バーバラ・デミングという名前を聞いてピンとくる人は決して多くないだろう。1960年代後半のベトナム戦争と反戦市民運動について興味がある人であれば、1966年にハノイで非暴力を訴えてデモをした6人組のアメリカ人の一人だったことを覚えているかもしれない。あるいはロバート・スクラーの映画史の著作に、彼女の名前が数回登場するのをぼんやりと記憶している方もいるかもしれない。映画批評の歴史の中で極めて重要な位置を占める、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーへ From Caligari to Hitler(1947)」の「緒言 Preface」に、バーバラ・デミングへの謝辞が述べられているのを見て、いったい誰だろうと思った人もいるかもしれない。

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『深夜の告白』の3つのショット

以前紹介したアーヴィング・ピシェル監督『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』は、1943年7月にサンタ・ローザ近辺でロケーション撮影されたが、1943年の後半にロサンゼルスでロケーション撮影された作品がある。ビリ-・ワイルダー監督の『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』である。

今回は『深夜の告白』のオープニングの3つのショットだけを取りあげたい。

『深夜の告白』のオープニング

筆者が「50本のフィルム・ノワールを取り上げるプロジェクト」として取り組んだ「ランダム・ノワール」のほうでも『深夜の告白』は取りあげた。ここでは、この作品のオープニングについて、もう少し見ていきたい。

私はこのオープニングの映像がいつも気になっていた。1940年代のロサンゼルスの夜のダウンタウンを撮影した写真とくらべて、どこか陰鬱で、独特な闇に包まれている印象がある。

1940年代後半のハリウッド通りとヴァイン通りの交差点
Huntington Library Digital Collection
『深夜の告白』の最初のショット
場所は 5th ストリート と オリーヴ・ストリートの交差点

はたして、なにが起きていたのだろうか。

『深夜の告白』の撮影は、1943年の9月27日から11月24日までのほぼ2ヶ月にわたっておこなわれた[1]消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)の記事の最後でも述べたが、灯火管制は1943年11月1日に解除され、その後は夜間の戸外でも照明に制限がなくなっている。つまり、『深夜の告白』の撮影期間のうち、9月27日から10月31日までは、ロケーション撮影は様々な制限を受けるが、管制が解除された11月1日からは、以前の通りの日常の(ノーマルな)夜の風景を、カーボン・アーク灯を何十台も使用して撮影できたはずだ。

だが、『深夜の告白』の最初のショットは、灯火管制下で撮影されたように見える。左に見えるビルはビルトモア・ホテル、その向かいのコカ・コーラの看板が見える店はヴィクトリー・スクエア・ドラッグストア、いずれも地上階の窓に照明があっておかしくないはずだが、暗い闇に沈んでいる。街燈はすべて点灯しているが、これは、灯火管制下でも許可されていた。『深夜の告白』の撮影ロケーションをまとめたジーン・ロートンによれば、この撮影は1943年8月に行われているという[2]

まず、最初のショットには、「Los Angeles Railway Corp. Maintainance Dept.」という標識を掲げた工事の業者が手前に写っている。

全米映画俳優組合は、パラマウント・ピクチャーズ Inc.が、ロサンゼルス市内の5thストリートとオリーヴ・ストリートにあるロサンゼルス・レールウェイ社の鉄道用地において、同社の溶接工とその助手が作業している様子を撮影することについて、(組合との協定事項の遵守する義務を)免除する。ビリー・ワイルダー監督、『深夜の告白』の製作において、1943年8月14日の1日限りである。
この2人が演技、役、スタント、会話などをせず、また、これが免除の前例とならない、ということを両者のあいだで合意している。

全米映画俳優組合からのメモ
Screen Actors Guild, August 14, 1943

すなわち、このショットは8月14日に撮影されたということになる。ここで、「ロサンゼルス・レールウェイの鉄道用地」というのは、具体的には3号線(Line 3)のことである(Wikipedia)。これは、戦時下のロケーション撮影で常に問題になった、エキストラの雇用規定について例外を認める、という全米映画俳優組合の覚書だ。この最初のショットは、ロサンゼルス市内での撮影であり、<300マイル・ルール>が適用される。このルールが適用される場合は、エキストラは全米映画俳優組合の組合員(クラスB)でなければならない。だが、ビリ-・ワイルダーは、実際に溶接工が作業している様子を撮影することにした。それを俳優組合に申し込んだのであろう。

さらに次の2つのショットは、次の製作レポートが鍵となる。

ロサンゼルス、6thストリートとオリーヴ・ストリートの交差点
集合 3:30 AM、カメラ 3AM
リハーサル 4AM- 5:40AM
最初のテイク 5:40 AM - 終了 6 AM
エキストラ8名、車とエキストラ8名
マクマレーのダブルはアラン・ポメロイ
トラック運転手はゴードン・カーヴァス
もしうまくいけば、この早朝の撮影が、完成時には夜のシーンとして使われる
ナイト・フィルター撮影

Paramount Production Memo, 1943/8/4

このメモが少なくとも3つ目のショットを表しているのは、このショットにトラックが登場することから明らかである。どのテイクが使用されたかは分からないが、早朝5時40分から6時のあいだに撮影されていることが分かる。撮影には「ナイト・フィルター」、すなわち赤いフィルターが使用されている。

『深夜の告白』の3番目のショット
場所は 6th Street と Olive Street の交差点

この前日の8月3日のロサンゼルス・タイムズによると、灯火管制は3日の日没時刻(午後7時52分)から翌4日の日の出時刻(午前6時6分)までだ。

ロサンゼルス・タイムズ 1943年8月3日

この撮影は、朝の午前5時40分から6時のあいだまでに行われているから、灯火管制下での撮影である。だが、この時間帯は日の出の6:06直前の<マジック・アワー>と推測される。ワイルダーとサイツは、この時間 ─── 日の出直前で、かつ灯火管制中 ─── は街燈はまだ灯っているが、空は明るくなっていて、照明を利用しなくても「夜のシーンとして」撮影できるともくろんだのではないか。最初のショットとこのショットをよく見ると、背景のビルと空の境界に不自然な輪郭が現れているのが分かる。これはオプティカル・プロセスを施したあとだろう。このオープニングは前述のように日をわたって撮影されているため、空の明暗がショットごとにばらついていた可能性がある。それをオプティカル・プロセスで統一したのではないだろうか。

最初のショットで、フレーム内に配置された多様な光源が作り出す早朝の街の風景は、新鮮なドキュメンタリー性に満ちていて、この後、ハリウッド映画に起きる変化を予言しているようだ。奥行きのある配置の街燈、こちらに向かってくる車のヘッドライト、それを反射する鉄道のレール、手前の溶接作業の光、道に無造作に置かれた迂回路用のオイルランプの炎、どれもが映画のために準備されたものではなく、その風景に最初から存在していたかのようだ。

この最初のショットの街燈に注目したい。

『深夜の告白』のオープニング・シーンに登場する街燈

街燈の上半分が円錐のような形状をしているのが分かるだろうか。1930~1940年代のビルトモア・ホテルの近くの写真を見てみると、これが灯火管制下、街灯の光が上向きに逃げないように施された遮蔽であることが分かる。

ビルトモア・ホテル 1930~40年頃
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが1930~1940年代のビルトモア・ホテルの写真である。写真右奥の坂の上からウォルター・ネフが運転する車が暴走してくる。この電車通りは5thストリートである。

街燈(上の写真の拡大 1930~1940年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが、ビルトモア・ホテル付近の街燈の元の姿である。

次に1943年、灯火規制下のビルトモア・ホテル付近を見てみる。

ビルトモア・ホテル 1943年
University of Southern California Libraries Digital Collection

画面左奥から右に向かって伸びているのが、オリーヴ・ストリート、右から左の道は5thストリートである。この街燈には黒い布のようなものが被せられているのが分かる。

街燈(上の写真の拡大 1943年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

この黒い布のようなものは、翌年になってもまだ被せられたままだった。これは5th ストリートを坂の上から見下ろした写真である(ウォルター・ネフはこの道を奥に向かって暴走した)が、ここでも街燈に黒いものが被せられているのが分かる。

5thストリートをグラント通りからオリーヴ通りに向かって
Los Angeles Public Library Digital Collections
街燈(上の写真の拡大 1944年)
Los Angeles Public Library Digital Collections

これが、戦争の終わる1945年になると、元の姿に戻る。下の写真は、画面奥から手前にオリーヴ・ストリート、左右に6th ストリートが交差する交差点である。『深夜の告白』の3ショットめで、ウォルターの車とトラックが事故を起こしそうになるのはこの交差点だ。

6th ストリートとオリーヴ・ストリート
Los Angeles Public Library Digital Collections

上の空間に光が届かない戦時下独特の街燈、闇に沈むビルの窓、ストリートは車のヘッドライトだけが見える ─── 『深夜の告白』のオープニングの独特の<暗さ>は、ワイルダーとサイツが、灯火管制が作り出した都市部の闇を、照明を使わずにいかに撮影するかと苦心した末に生み出したものである。この<暗さ>は、戦争が民衆に植え付けた、恐怖、愛国心、パラノイア、非日常の興奮、憎悪の念といった闇の成分が凝集したものだと言ってもよいのではないか。そして、それは灯火管制が解除されてしまうと、二度と都市部に現れることはなかった。フィルム・ノワールの作品が数多くあるとは言え、この<暗さ>をとらえた映像は、この作品のこのオープニングだけではないだろうか。

References

[1]^ E. Robson, “Double Indemnity,” in Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir, Dutch Tilt Publishing, 2016.

[2]^ J. Laughton, “Double Indemnity: Self-Guided Movie Location Tour.” Los Angeles Conservancy. link

模範的な町、サンタ・ローザ

模範的な町

カリフォルニア州の小さな町サンタ・ローザは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』でロケーション撮影に使われて以来、新作映画の企画で<アメリカの片田舎の小さな町>が登場するたびに、ロケーション候補地のトップにその名前が挙がるようになった。19世紀のイタリア風ヴィクトリア朝建築の住宅、広さを感じさせる中央通り(メイン・ストリート)の存在、町の支柱としての時計塔、ひらけた交差点をのぞむ教会、並木に埋もれた住宅街といった要素が、カリフォルニア特有の陽光の風景のなかに適度に薄められたノスタルジアを呼び起こすのだ。この町が果たすべき役割を住民も承知しているかのようだった。

『疑惑の影』の撮影最終日、「The Press Democrat」に掲載された論説が、その<役割>を語っている[1]

この映画の製作のおかげで、サンタ・ローザは国内に広くPRされて好意的な印象をもたれている。今までサンタ・ローザについて何も知らなかったコラムニストや物書きたちが、ここを<模範的な町 Model City>という輝かしい言葉で表現してくれているのだ。

The Press Democrat, Editorial

ここで、サンタ・ローザは【典型的(typical)】や【平均的(average)】ではなく、【模範的(model)】という言葉で形容されている。この言葉の選択は、歴史を遠く隔てた現在の眼でみると、サンタ・ローザ、そしてサンタ・ローザのあるソノマ郡全体がハリウッド映画で果たしてきた役割を的確に表現しているかもしれない。1940年代から1990年代に至るまで、平和な田舎町、穏健な中流階級が眠る町の背景として頻繁に採用されてきた。『みんな我が子(All My Sons, 1948)』では、サンタ・ローザのマクドナルド街に現在も残る白い家が、破綻したモラルが招いた悲劇を迎えるケラー家の住居として使用される。その隣の家が『スクリーム(Scream, 1996)』に登場する印象的な曲線の白い手摺のテイタムの家である。『輝け!ミス・ヤング・アメリカ(Smile!, 1975)』では、ミス・コンテストへの熱狂という、当時の中流階級の閉塞した価値観をうつしだす町として登場する。

サンタ・ローザの20Km南に位置する町、ペタルーマも頻繁にハリウッド映画に登場する。『アメリカン・グラフィティ(American Graffiti, 1974)』はその大部分がペタルーマでロケーション撮影されている。物語は、ジョン、テリー、スティーブ、カート達が気怠い夜を過ごすだけのノスタルジーに満ちたものだが、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争を経験していない<無垢なアメリカ>を象徴する舞台として、この町の風景が切り取られている。4人の男たちのその後を語る字幕は、ポーリーン・ケールが批判したように[2]、物語に登場してきた女性たちの人生を実に都合よく消し去っている。『アメリカン・グラフィティ』で、物語のカタルシスの中に無意識に埋め込まれた、錆びれた差別的遠近法のもたらす想像力の欠如が、『輝け!ミス・ヤング・アメリカ』で描かれる痛ましい文化と同根であるのは明らかだ。<模範的>というのは、そういった遠近法を内在させているものなのだ。『ノマドランド』に関するエントリーでも紹介したが、ロナルド・レーガン陣営が第二期目の大統領選挙で製作したキャンペーン用TVコマーシャル「Morning in America」も、ペタルーマで撮影されている。レーガン陣営の考える<模範的なアメリカ人>が住む町の風景が、カリフォルニア州のこの町なのだ。この映像に登場するのはほぼ白人だけだというのも、保守派陣営の考える<模範>の想像力を端的に表している。

ソノマ郡で撮影された映画については、「The Sonoma County Historical Society」の1994年の会誌(link)、ペタルーマで撮影された映画についてはこのサイトが詳しい。

『スクリーム(Scream, 1996)』に登場するサンタ・ローザの家
824 McDonald Ave., 1958年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

歴史をもどそう。1943年は、<模範>が<愛国>という機能を担い、民衆の行動や精神の統制を要求する時代になっていた。模範市民とは愛国者であり、若い男ならば、自ら率先して志願する。戦場に向かう若い兵士を送り出す家族は、彼が犠牲になっても受容できる心構えができていないといけない。当時のアメリカの新聞や雑誌、映画を見ていると、そういった抑圧のような風潮を感じる。<模範>のドラマが繰り広げられる<模範の町>としてサンタ・ローザは機能した。

『疑惑の影』の直後に、サンタ・ローザを含むソノマ郡でロケーション撮影された二本の映画、『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』と『戦うサリヴァン兄弟(The Fighting Sullivans, 1944)』は、当時のアメリカが田舎町の中流階級に何を求めているかがはっきりと分かる作品である。

『ハッピー・ランド』の撮影

マッキンレー・カンターの小説を原作とした『ハッピー・ランド』は、20世紀フォックスが戦時情報局(Office of War Information, OWI)の推進するプロパガンダの一環として製作した映画である(マッキンレー・カンターについては『拳銃魔』についてのこの分析で詳細に書いた)。戦争で命を落とした兵士の家族の心をいかに癒やすか ─── その模範的な物語として、『ハッピー・ランド』の製作にOWIは注意をはらっていたと言われている[3, pp. 161–165]。アイオワ州の小さな町、ハートフィールドで薬局を営むリュー・マーシュ(ドン・アメチー)は、一人息子のラスティが太平洋の戦闘で戦死したことを知る。リューは喪失の絶望から立ち直ることができない。そのリューの前に彼を育ててくれた祖父の霊が現れる。祖父の霊は、ラスティが生まれてから歩んできた人生をリューとともに振り返り、息子の人生がいかに豊かなものだったかをリューに悟らせる。マーシュ夫妻がラスティの戦友を家に迎え入れて、新しい人生の章を始めようとするシーンで映画は終わる。

テーマのうえでも、技法的にも、この作品は明らかにソーントン・ワイルダーの戯曲「我らの町」、そしてそれを原作としたサム・ウッド監督の映画『我等の町(Our Town, 1940)』に強い影響を受けている。死んだ者の魂によって呼び起こされるフラッシュバックの技法を使って、<なんでもない日々こそ幸福の日々>というメッセージを、戦争における犠牲の正当化に資するよう物語に埋め込んでいる。ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに請われて脚本を担当したのが『疑惑の影』である。『ハッピー・ランド』は物語の骨格を『我等の町』から、物語の舞台としてのサンタ・ローザを『疑惑の影』から受け継いだ。

『ハッピー・ランド』のロケーション撮影の様子は、やはり当時の地元新聞によって知ることができる。撮影クルーと出演者たちは、1943年6月14日から7月3日までサンタ・ローザとその近くのヒールズバーグ、ペタルーマで撮影をおこなった [4]。前年の『疑惑の影』の撮影では、アルフレッド・ヒッチコックが地元の少女をスカウトしたが、『ハッピー・ランド』でも監督のアーヴィング・ピシェルが「ソフト・クリームを道に落としてしまう女の子」の役にサンタ・ローザ在住の4歳の少女 ─── のちのナタリー・ウッド ─── を起用する[5, pp. 21–28]。また、実際のサンタ・ローザ市長のE・A・アイマンが、架空の町ハートフィールドの市長を演じた[6]。エキストラも、前回と同じように地元から雇われている[7]。新聞ではサンタ・ローザは「第2のハリウッド」になる、とまで言われている。監督たちもサンタ・ローザの住民たちの不気味なまでに褒めちぎっている。

昨日のジュニア・カレッジでの撮影中、監督のアーヴィング・ピッチェルはこう語った。「ここの皆さんは実に素晴らしいですね。皆さんの撮影中の協調性といったら、本当に私達全員にとって驚きなんです」彼は、撮影に現れた住民たちの演技力を高く褒め称えている。昨日の撮影では、撮り直しもなかったそうだ。

The Press Democrat [7]

木陰に安らぐマクドナルド通りの住宅街、ジュニア・カレッジの広い陸上トラック、パレードができるほどのゆったりとしたヒールズバーグのメイン・ストリート、通りに面したドラッグストア、アメリカの小さな田舎町にあるべきものが、この土地にはすべて揃っている。サンタ・ローザからさらに北に進んだところにある人口2,500人の小さな町ヒールズバーグは、フラッシュバックで登場する1910年代のアメリカの町として最適だった。町の通りがまだ舗装されていないのだ。ハリウッドのスタッフたちは、この<失われつつある風景>を追加で撮影していったという[8]灯火管制(ディムアウト)のせいで、夜の撮影は不自由だが、この土地に来れば、わざわざセットを組む必要がない。そんな中で、一つだけ気になるシーンがある。夜遅く、リューとラスティの親子がドラッグストアから家に帰る、長いトラッキングショットがある。昼のシーンは、ヒールズバーグに実在した店を利用して撮影されたが、このシーンは、ナイト・フィルターを使って昼間に撮影したか、あるいはロケーション撮影ではなく、スタジオで後日撮影したものかのいずれかだろう。

『ハッピー・ランド』でドン・アメチーが住んでいる家
1127 McDonald Ave., 1953年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

当時、カリフォルニア州内であれば、少し日数がかかるものの、ロケーション先でデイリー(ラッシュ)を見ることができたようである。『誰が為に鐘は鳴る』のようなテクニカラー作品でもロケーション先でデイリーを見ていたと報告されているし、『ハッピー・ランド』でもアーヴィング・ピシェル監督らは1週間ほど遅れてデイリーを見ていた[7]。撮影はのどかに進んでいった。ドン・アメチーとハリー・ケリーが家の前で会話をするシーンを撮影中、二軒先に住む税務署職員のエディー・サリヴァンの家のニワトリが声高く鳴いた(すでにアメリカ国内では食料の配給が始まり、不自由を感じた一般人の多くが「食料」を自宅で育てていた)。ピシェル監督が「このシーンは$1,250かかっているんだぞ!あの毛布みたいな鳥の口を塞いでこい!」と怒鳴って、助手たちがニワトリを暗い鳥小屋に押し込んだが、事態はさらに悪化した。「その後数分間起きたことは、あまりに痛ましく、サンタ・ローザの善良でおとなしい市民の方々が読むこの新聞にはとても書けない」とパーディー記者は書いている[9]。驚いて恐縮したサリヴァンが撮影クルーに「鳥を振る舞った」と報じられたが、サリヴァンは「冗談じゃない、あの鳥は$1,2000ドルするんだ」と否定したという[10]。ハリウッドから来た映画人たちは田舎でも忙しい。出演俳優たちは、撮影のあいだに空いた時間を使って、近くの陸軍航空軍の兵士たちを慰問している[11]。撮影の休息日には、地元の地主が監督、アメチー夫妻、ケリー夫妻を招待して、野豚狩りや鱒釣りに誘った[12]。撮影期間中、子どもたちはポリオの流行でプールが閉鎖されているので、かわりに撮影現場に大挙して現れた。その母親たちは、新聞社にその日はどこで撮影するか毎朝問い合わせをしていた[4]。出演俳優のサインをもらった者たちは、それを交換しあっていた。

『ハッピー・ランド』公開

12月に『ハッピー・ランド』が公開された際、サンタ・ローザの新聞編集長は全国の雑誌や新聞を取り寄せたに違いない。この作品が地元に与えるPR効果を詳細に報告している。雑誌「タイム」は、サンタ・ローザを「Hollywood’s All-American Town」と呼び、「リバティ」誌はサンタ・ローザがもたらした<リアリズム>を高く評価していた[13]

映画界の業界雑誌、Motion Picture Heraldには各号に「What the Picture Did for Me」という項目があった。ここでは、公開された映画について映画館主が送ってきた意見や感想を公開している。他の映画館主がプログラム作成の際に参考にできるように組まれた企画であろうか。現在の私達にとって、当時の観客に近い視点からの作品受容や感覚を知ることができる数少ない資料になっている。1944年の前半に『ハッピー・ランド』について書き送ってきた映画館主は多く、その大部分は好意的だった。特にテキサス州のある映画館主は長文の感想を書き送ってきている。

この映画のタイトルは『アメリカ』とするべきだった。製作、セット、ストーリーのどの面から見ても大作ではない。しかし、この映画はアメリカに住むすべての人にとって共通するものをもっている。私達ひとりひとりの心、手、健康、家に響くものがある。そう、この映画は平均的なアメリカ人の生活に共通する小さな事柄が題材だ。その小さな事柄がこの映画を大きなものにしている。これこそ、プロデューサーたちは立ち止まってよく考えないといけないことだ。広大な風景の映画なんか置いといて、心の琴線に触れるものを作れ。

Lee Guthrie(Rogue Theatre, Wheeler Texas)

前述の「タイム」の「Hollywood’s All-American Town」という表現も、このガスリー氏のような感慨も、決して少なくなかったはずだ。『ハッピー・ランド』の興行収入は$1,500,000だった。『誰が為に鐘は鳴る』の興行収入が$11,000,000だったことを考えると、プロデューサーたちは立ち止まって考えることもなかったかもしれない。

ハッピー・ランド(Happy Land)

監督:アーヴィング・ピシェル

製作:ケネス・マクゴワン

原作:マッキンレー・カンター

脚本:キャスリン・スコラ

脚本:ジュリエン・ジョセフソン

撮影:ジョセフ・ラシェル

編集:ドロシー・スペンサー

音楽:シリル・J・モックリッジ

出演:ドン・アメチー、フランシス・ディー

製作:20世紀フォックス

1943

References

[1]^       “Farewell to Movie Friends,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 12, Aug. 26, 1942.

[2]^       P. Kael, “The Current Cinema: Un-People,” _The New Yorker_, vol. 49, no. 36, p. 153, Oct. 29, 1973.

[3]^       C. R. Koppes, _Hollywood Goes to War: How Politics, Profits, and Propaganda Shaped World War II Movies_. New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1987.

[4]^       M. R. Pardee, “Movie Company Leaves After Petaluma Shots,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 3, Jul. 04, 1943.

[5]^       S. Finstad, _Natasha: The Biography of Natalie Wood_. New York, N.Y. : Harmony Books, 2001.

[6]^       “Movie Stars to Arrive in S. R. Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 13, 1943.

[7]^       “200 Local ‘Extras’ Used in Scenes for Happy Land Film,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 17, 1943.

[8]^       “Travel Restrictions of Wartime Fail to Bother Location Expert,” _Daily News_, Los Angeles, p. 13, Aug. 02, 1943.

[9]^       M. R. Pardee, “Expensive Rooster Holds Up Production for Movie Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 2, Jun. 23, 1943.

[10]^ M. R. Pardee, “Evening Scenes for ‘Happy Land’ Taken,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 6, Jun. 24, 1943.

[11]^ “‘Happy Land’ Stars Aid in Entertaining Soldiers Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 18, 1943.

[12]^ “Film Folks Will Go Pig Hunting Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 4, Jun. 27, 1943.

[13]^ “‘Happy Land’ Brings More Publicity for Santa Rosa,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 8, Dec. 14, 1943.