広告に載った九つの映画 (序)

これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。

ウーファという会社の大まかな歴史については、ウィキペディアに譲るとして(笑)、この時期から1945年にいたるまでのドイツ映画界についてちょっと述べておこうと思います。私たちは、どうしても「巨匠」や「名作」の歴史に眼を奪われがちですし、「問題作」や「汚点」に注意がいってしまいます。つまり、ジーグフリード・クラカワーの「カリガリからヒトラーへ」やロッテ・アイズナーの「The Haunted Screen」のような映画史書、批評書が語り続けてきた、ヴェゲナー、ラング、ムルナウといった巨匠やその名作、リーフェンシュタールのような問題人物のプロパガンダ作品が、この時代のドイツ映画を代表していると思いがちになってしまうことです。もちろん、それらは大作であり、ウーファが全面的にバックアップした作品群ではあるのですが、同時にウーファ、あるいはドイツの観客がそういう好みだったと言うわけではないと思うのです。たとえば、ナチス政権下の映画はすべて「意思の勝利」のような、あるいは「ユダヤ人ズース」のようなプロパガンダ映画だったかと言うと、むしろそういう映画は稀で、大部分の映画は現実逃避的なエンターテーメントだったわけです。

ウーファは、特に芸術映画の根城というわけではなく、この時代のドイツに特徴的な一企業だとおもいます。ワイマール時代は、資本家の保守的な性格をもった利益追求型の企業、そしてナチスの台頭後は、政権に吸収されることに抵抗しきれずに「国家」が要求するものを提供しながら利益を追求する、という道をたどります。「国家」と言っても、なんだか分からない連中が相手です。ヒトラーもゲッベルスも映画が好き。不思議なことに二人とも勇ましいプロパガンダ映画は二の次で、ヒトラーは「(大して面白くも無い)センチメンタルな社会派コメディ」がお好みで、ヴァイス・フェルデルという俳優の「二つの封印(Die beiden Seehunde, 1934)」が特にお気に入り(1)。ゲッベルスはもう少し映画の好みが高尚で、一応「ユダヤ・ボルシェヴィキの」エイゼンシュタイン監督の作品には一目おいている。二人に共通するのは、美人女優に眼が無いこと。総統は、レナーテ・ミュラーのことを大いに気に入ってしまい、彼女の映画をもっと作るように命令。問題は、彼女には秘密のユダヤ人富豪の恋人がいたことです。ゲシュタポに嗅ぎつかれて、彼女は謎の死を遂げてしまいます。ジェニー・ユーゴは、ヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングにいたずらをして射殺されなかった唯一の人間です。ヒトラーに「私は総統だ」と叫ぶオウムをプレゼントしたり、ゲーリングの食事にゴムのソーセージを出したり。ジェニーがいない夜は、特別に撮影された彼女の全裸体操フィルムを総統はご覧になっていたようです(2)。リダ・バーロヴァ(「メトロポリス」の主役グスタフ・フレーリッヒの元婚約者)に狂ってしまって、ゲッベルスは自殺未遂をしてしまう始末。1920年代後半から敗戦まで、ドイツ映画は女優の時代と言ってもいいかもしれません。リル・ダゴーヴァー、亡命してしまったマレーネ・ディートリッヒ、レニ・リーフェンシュタール、リリアン・ハーヴェイ、ツァラ・レアンダー、マリカ・レックと挙げるときりがありません。彼女たちが、美しく着飾り、歌い、踊り、愛にうつつを抜かす(多くの場合勇敢な軍人に)、そんな映画が大量生産されました。

ジェニー・ユーゴ
リリアン・ハーヴェイの”Ins Blaue Leben (1939)”公開時の
ウーファ・パラスト・アム・ズー劇場

とは言え、文化政策の一環として、政治色が濃い映画も製作されました。そのためにナチス政権はウーファを国有化し、ゲッベルスの配下においたのです。完全に徹頭徹尾プロパガンダの目的で製作された映画は、本当に数えるほどで、歴史上の人物や出来事に沿って、ナチスのイデオロギーを刷り込んだ内容のものがほとんどです。

1925年の段階では、まだナチスはミュンヘンの田舎に巣くっているゴロツキくらいなものです。しかし、この広告に並んでいる作品に関わった人たちが、その後歩む道を考えると、この広告に凝縮された世界が奇跡にようにも感じられます。

ここに挙げられている映画について、ひとつずつ書いていきます。あらかじめ告白しておきますが、私が見たことがあるのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけです。一般にDVDなどで流通しているのは、この作品だけです。「フレデリック大帝」の第四部が非常に低いクオリティのもので出ています。「沈黙の塔」は最近ヨーロッパでリバイバル上映がされています。その他の作品はプリントがアーカイブに存在していることがわかっているものもありますが、大半が行方不明です。調査には、英語、ドイツ語の文献を参考にしました。

References

(1) Eric Rentschler, “The Fuhrer’s Fake” in Hitler – Films from Germany: History, Cinema and Politics Since 1945edited by Karolin Machtans, Martin A. Ruehl

(2) Hitler’s Sex Life, Liberty Magazine

敷香 1939年

敷香の町並み(Wikipedia
敷香はシクカ、もしくはシスカと發音する。日本最北端の國境にちかい街で、例の岡田嘉子越境事件で有名な處です。
<中略>
こゝに映畫館が二つ、尤も樺太へ來ると、どの町も、どの街も映畫館は大抵二軒づつよりありません。六社聯盟(1)、米突制限とか云ったものも、こゝまでくると完全にペシヤンコで、「愛染かつら(2)」と「忠臣藏(3)」ともう一本これは例え話にすぎますが、「忠臣藏」と「愛染かつら」は同時にやる譯はないにして、「王政復古(4)」と「チヨコレートと兵隊(5)」「アルプス槍騎隊(6)」の三本立をやつている處はざらにあり、防共國策時局映畫週間とぐらひの銘打つて、支廳長の奥さんは愛國婦人會の會長、銘酒屋で料理屋の女将が副會長といふ膳立で、そこへうまく話を持ちこむと、一寸飲みにいつては藝妓から前賣券を無理矢理に、カフヱでは女給さんにチツプがはり五六枚といつた有様で、藝妓にしたつて、こんな土地では常設館の切符でも賣らなけりや自分たちの温習會もなにもあつたもんでないので、こゝをせんどと五○銭の切符を四十五銭で賣つてゐる。
だから「皇道日本(7)」なんかという有難い映畫はこの敷香で、敷香ばかりでない樺太全島でご光がさすほど珍重がられ、こんな寫眞ほど婦人會を動かし易いし、またうごいてもくれるので、それに小學校は動員、誠に壮観極まりなきものがあつて、お向ふの館に淡屋のり子嬢が雨のブルースをうたつてゐよふが、高い入場料で大入満員といつた風景であります。
そのかはり、冬の最中になれば、列車がエンコして馬橇も通はねば、いつまで經つても同じ寫眞をうつしてみせる、後のかはりの寫眞なんか、あてにしてゐられないといふ悲惨?なこともあります。また、ひどいのは日本物のトーキーはどうもよく判らん、西洋物のほうがよく判るといふんで、どうして西洋物のほうがよく判るんだと聞くと、それやちやんと西洋物には畫面に字が書いてある!といふ話もこゝの話です。
「北海道雑記」 瀧井孝二
キネマ旬報 昭和一四年八月一日号
敷香には、樺太の豊富な木材資源を求めて日本人絹パルプ(王子製紙)が工場を建設していた。上の写真奥に見えるのが、その工場。
(1)六社聯盟
新しく市場に参入してきた東宝を排斥するために、既存の映画会社六社(松竹、日活、新興、大都、全勝、極東)が組んだ連盟。
(2)愛染かつら 
1938年(昭和13年)公開 松竹大船 川口松太郎 原作、野田高悟 脚本、野村浩将 監督、田中絹代、上原謙 出演
川口松太郎の同名の原作(「婦人倶楽部」連載)を映画化し、大ヒットした。主人公の看護婦(田中絹代)と医師(上原謙)の恋愛がすれ違い続けるメロドラマ。前編、後編に分かれていたが、その後「続愛染かつら(1939)」「愛染かつら 完結篇(1939)」まで製作され、いずれも空前の興行収入を上げた。しかし、時局にそぐわない、低俗で愚劣である、など、批評家や知識人から痛烈な批判を浴びた。 
(3)忠臣蔵
この時期(1939年前半)に上映されていた可能性がある「忠臣蔵」は、
忠臣蔵 天の巻・地の巻 1938年(昭和13年)公開 日活京都 阪東妻三郎 主演
忠臣蔵 前篇・後篇 1939年(昭和14年)公開 東宝 大河内傳次郎 主演
「六社聯盟・・・も、こゝまでくると完全にペシヤンコで」とあることから、ここでは東宝の作品をさしていると思われる。
(4)王政復古 担龍篇 双虎篇
1939年(昭和14年)公開 日活京都 滝田紅葉 原作・脚色、池田富保 監督、片岡千恵蔵 主演
(5)チヨコレートと兵隊
1938年(昭和13年)公開 東宝 小林勝 原作、鈴木紀子 脚色、佐藤武 演出、藤原釜足 主演
戦時中に日本の戦意高揚映画を研究していたフランク・キャプラが「これじゃ、反戦映画じゃないか。こんな映画、我々には絶対出来ないな」と述べたとされる作品。
(6)アルプス槍騎隊
1937年(昭和12年)製作、原題:Condottieri 独トービス社、伊ENIC社合作、ルイス・トレンカー 監督・主演
中世を舞台とした、人気俳優ルイス・トレンカーの作品。ただし、ヒトラーとゲッベルスからは不評だった。
(7)皇道日本
東宝、池永浩久 総指揮、青木泰介 構成、三浦耕作 原文、円谷英二 撮影
日本映画データベースでは、1940年(昭和15年)公開となっているが、ここに記載されているように前年の1939年の春には完成していた模様。1938年のキネマ旬報(秋季特別号)には、2ページの広告が掲載されている。

鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑

音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002))

2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=uuH-85lCwrs]
YouTubeのなかではこの人の鞭のクラック音がいちばんいいかも。

あの音は鞭で何かを叩いている音ではありません。あれは、もともと空気中で鳴っているもので、牛追いのときに牛を驚かせたり、遠くにいる仲間に合図を送る目的で鳴らすものです。ゴリエリーは、自分でもクラックを鳴らしてみたいと思い、ネット・オークションで鞭を購入し、アリゾナの自宅の裏庭で練習をはじめました。鞭の扱い方にはいろいろスタイルがあるようですが、鞭そのものにも「鳴る鞭」と「鳴らない鞭」があるのです。「鳴る鞭」は、その鞭が先に行くほど細くなる形状(テーパー)に鍵があるのではないかと、ゴリエリーは考えました。

エルンスト・マッハによって撮影された弾丸の衝撃波
(二本の縦線のうち、右の線はカメラのシャッターを切るためのトリップワイヤー)

あの鞭のクラックについて興味を抱いたのはゴリエリーが最初ではありません。実は、19世紀の物理学者たちが、クラックは鞭の先端が音速の壁を破るときの音ではないかという仮説を議論していたのです。しかし、それを実験的に証明するにはどうすればいいのでしょうか。1880年代にエルンスト・マッハが、弾丸が音速を破る瞬間を写真に収めてから、高速の物体を写真を用いて解析することが実験的に行われるようになりました。鞭のクラックも1927年にフランスのトゥールーズ基督学院のカリエールが「高速度カメラ」を用いて、速度の測定を試みています。彼の仕掛けは高電圧のスパークを使った連続ストロボ撮影(最も短い時間間隔で0.1msまで到達)による、鞭の軌跡の写真です。鞭のクラックは音速を超えたときの音であることが実験的に証明されたのです。

カリエールによる鞭の軌跡の高速度撮影(J. Phys. Radium., 8, 365-384 (1927))

ゴリエリーは「鳴る鞭」は、そのテーパーの設計に鍵があると考えて、数学モデルを立ててシミュレーションを行います。手首のスナップで与えられたエネルギーが、鞭の先端に伝播していく。と共にそれはエネルギー保存の法則から、速度に変わっていく。テーパーによって鞭の径が細くなっていくと、その速度上昇も大きくなり、鞭の先端に到達したときには音速に達する。これは2002年に論文として発表されますが、実はこの考え方(そして数学モデルを使うということ)は、彼よりも前に意外な分野で試みられていました。1997年にネイサン・ミルヴォルド(マイクロソフトの現CTO)とフィリップ・キュリーが化石学の学術誌に「超音速のサウロポッドか?ディプロドクスの尾の動態」という論文を発表し話題になります。これは草食系の巨大恐竜、特にディプロドクスなどが、長くて先が細くなる尾をもっていることに着目し、その尾を振り回して、鞭のクラックのような音を立てていた(先端が音速を超えていた)という説を唱えたものです。ミルヴォルドがコンピューターシミュレーションを用いて、尾の先端が音速を超えることが可能であると算出し、巨大なクラック音で周囲の恐竜を威嚇したに違いないといったのです。この「ディプロドクスの尾は音速を超えた」というのはよく聞きますが、もともと門外漢で目立ちたがりのミルヴォルドの説に、首をかしげる学者も多く、まあ誰も見たことがないからなあと黙っているしかなかったようです。最近では、尾の骨格の成り立ちから考えて、鞭と言うよりもヌンチャクのような機能を持っていて、戦いのときの武器として使っていたと考えるのが妥当ではないかといわれているようです

プロペラの回転を横から高速度カメラで撮影した例。
上のグラフは回転によるプロペラの変形(deflection)をプロットしたもの。
J. Appl. Phys., 8, 2 (1937)

ゴリエリーの研究は2002年に発表された論文のあと、あまり進展がないようです。2003年ごろに、実際に音速を超えていることを高速度カメラでとらえる実験の準備をするのですが、公開されているデータだと、これがあまりうまく行かなかったようです。問題は、音速を超える瞬間をとらえることがかなり難しいのです。素人の二人組が「怪しい伝説」番組の真似事みたいなことをYouTubeでやっています。かれらが「鞭のクラックは音速を超えているか」をビデオカメラで撮影して証明しようとするのですが、カメラのフレームスピードが足りずに、その瞬間をとらえることができません。900fpsでは足りません。たとえば、鞭の先端が音速を超えるのは0.3ミリ秒の間だけだとしましょう。その間に鞭の先端は10cmほど動きます。0.3ミリ秒の事象をとらえようとすると、少なくとも10000fpsは必要ですね(音速を超えている間の像が2~3点撮れます)。デジタルカメラで1000fpsくらいのものは民生用でもあります。しかし、10000fps近くのものは工業用とか産業用で、いいお値段します。島津のHAP-Vシリーズなんかは最大で2000万fpsまで到達します。お値段も2000万くらい。ここまで高速にすると撮ったデータをメモリに移す時間が間に合わないので、CCDチップ上のレジスターに放り込んで、後で読み出します。だからレジスターの数だけのフレーム(256)しか撮れません。

もちろん、デジタルカメラが登場する前には、フィルムの高速度カメラがありました。1920年代からコダックは研究していたようですが、1930年代から様々な産業分野で使用されるようになりました。Wikipediaでは、ベル研究所のことしか書かれていませんが、実際には、弾道解析、ガラスの破砕解析、エンジンの燃焼解析、スプレーなどの噴霧状態の解析など、様々な分野で使用されています。くしゃみや咳の高速度撮影は、病気の感染にどのように関係しているのかを解析するために始められたのです。フィルムのカメラは現像するまで実験がうまくいったかどうかわかりません。ですから、試行錯誤の繰り返しですし、ようやく撮影できるようになっても、ちょっと条件を変えるとまたやりなおしということもしばしばです。(デジタル)ビデオカメラになってから、観測現場ですぐに再生して実験条件やカメラの設置条件の変更をフィードバックできるようになりました。私も、研究開発の現場で何度か使用しましたが、問題は(設備の取り回しの都合で)カメラの設置場所が限られてしまうことや、より高速で撮影しようとするとバッファがすぐにいっぱいになるので、撮りたい瞬間を追い込むようにしないといけないんですが、これが難しかったですね。結局、速度測定などの定量的な高速度撮影をしようとすると、その目的のためだけに設計しなおした実験セットアップが必要なことが多く、そこに労力と資金をかける計画が必要です。裏庭で撮影したり、簡単な実験設備だけでは行き詰ってしまうことが多々あります。

Muybridge horse gallop animated 2

もともと、映画の始まりといわれているのは、有名なマイブリッジの「駆ける馬」の撮影です。やはりこの場合も、馬の動きが早すぎて人間の眼では見極められないために、運動を分解する目的で撮影されています。高速度カメラは、この「運動の分解」の最たるものです。映画/動画というのは、この「分解された運動」を再構築したものだともいえます。マイブリッジの例は「ぱらぱらアニメ」のように見えますが、「本物に近い動き」に再構築するためにはフレームレートを上げなければいけません。現在の映画はフィルム、デジタル共に24fps(fps=frames per second、毎秒24フレーム)で、上映時には、1フレームを止めて、2回あるいは3回映写します。これで多くの人はカタカタと動く感じはしないと思っています。しかし、ダグラス・トランブルは60fps、いや120fpsまで上げないと「滑らかな動き」にならないと主張しています。彼が提案した「ショースキャン」は70mmフィルムで60fpsで撮影・上映するのですが、結局普及しませんでした。上映館の設備導入のコストが高いことと、フィルムの消費量も多くなってしまうため製作・配給にもコストがかかってしまうからです。ピーター・ジャクソンの「ホビット」シリーズは3Dで48fpsで撮影されています。48fpsで上映可能なシアターでは撮影時のフレームレートで見ることができます(HFR上映と呼ばれています)。シリーズ第1作目の「ホビット・思いがけない冒険」が公開されたとき、このHFR上映に対する評価のなかにはかなり否定的なものもありました。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=NkWLZy7gbLg?si=ORZ81pVV-myFrMve]
ダグラス・トランブルの「デジタル・ショースキャン」
24fpsの映画の中に60fpsの映像をデジタルデータで埋め込んでいくもの

イギリスのテレグラフ紙のロビー・コリンは「偽物の気持ち悪さ」があると言い、ハフィントン・ポストのマイク・ライアンは、クリアに見えすぎて、「イアン・マッケランのコンタクトレンズまで見える」ので、気になって仕方がないと主張しています。スレートのダナ・スティーブンスガーディアンのピーター・ブラッドショーらも「ハイビジョンテレビ(60fpsと同等)を見ているみたい」と言い、ヴィレッジ・ボイスのスコット・ファウンダスは「24fpsのほうが美しい」と断言しています。これらの否定的な見解を、映画監督のジェームス・カーウィンという人物が、「人間の知覚は毎秒40回であり、48fpsだと『不気味の谷』に入り込んでしまうからだ」と科学的に解明したと主張していますが、ちょっと怪しいです(彼の議論の元になっているスチュワート・ホメロフ博士の理論は、・・・読むに耐えないです)。ジョン・ノル(VFX監督)は、この「偽物に見えてしまう」理由を端的に説明しています。「感度の低いフィルム撮影で使われていた、メークアップ技術、照明技術、セットの技術(そしてVFXの技術そのもの)を、48fpsでも使っているので、その偽物さ加減が丸見えになってしまっている。たとえば、照明を多用している室内のシーンがあまりに「偽物」に見えるのに対し、戸外のシーンでは自然光を利用して撮影しているせいであまり違和感を感じない。だから、48fpsでの作品製作の経験を重ねれば、これらのアナクロニズムはなくなっていくだろう。」加えて、カリフォルニア大学バークリー校のマーティ・バンクスや、ヨーク大学のロブ・アリソンは、「そのような『すべてが見えてしまう状態』に観客がまだ慣れていないからだ」とも言っています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fnaojlfdUbs]
The Hobbit: The Desolation of Smaug Official Trailer

面白いのは、「ホビット」を見て「ハイビジョンのテレビを見ているみたいだ」と言っている人は、確実に48fpsの効果を感じているのに、それをいいことだと思っていない、と言う点です。テレビ(60fpsと同等)を映像文化的に「陳腐なもの」としてとらえる一方で、映画館の映画(24fps)は「作品」としてとらえている。早い動きを撮ると「滲み(motion blur)」が起きてしまうような、エンジニアリング的には「不十分な」技術(24fps)のほうが「本当」だと思うこと、これは長年の条件付けによるものなのでしょうか。

私は、人間の知覚には個人差がかなりあると思っています。そして「気になるところ」が人それぞれ違うとも思います。「滑らかな動き」を気にしてしまう人(ダグラス・トランブルは明らかにそうですね)は、動きによる『滲み』のほうが気になって仕方がないのだと思います。一方で、24fpsと48fpsの差があまり判別できない人も、実はいるのではないでしょうか。1チップのDLPプロジェクターでは、カラーブレイキング(レインボー効果)というものがありますが、これを見ることが出来るのは10人に1人くらいしかいないそうです。いろんな人で見えているものが違う。けれども、技術の普及と共に全員が「同じもの」を見るように条件付けされていくのかもしれません。

武田信明氏が「三四郎の乗った汽車」で言及していたことで非常に印象的なことがあります。幕末、万延元年にアメリカに派遣された使節団は、おそらく日本人で初めて長距離の列車に乗った人たちでした。彼らが一様に日記に記しているのは、列車の窓からの風景が「ぼやけて見えない」ということだそうです。窓の外の風景が、速く過ぎ去ってしまって、眼でとらえることができない、という意味です。「世界の車窓から」なんて番組を見ている、今の私たちからは想像できません。それから60年ほど経った、1919年に芥川龍之介が発表した小説「蜜柑」。ここでは、走る汽車の窓から見えた、踏切に立っている子供たちを、そしてその子供たちに向かって投げられた蜜柑を、まるでスローモーションの映画のように描写しています。これは、動く列車の窓からの風景、しかもものすごく短い瞬間に起きることを視覚的にとらえる、ということを読者も共有しているからにほかありません。幕末の使節団から、「蜜柑」までの60年余りの間に、日本人は視覚的な認知能力に変化が起きた、ということなのかもしれません。

パウル・フェヨスの数奇な人生(12/12)

晩年のパウル・フェヨス

晩年のパウル・フェヨスは、ヴァイキング財団、のちのヴェナー=グレン財団の理事長として、考古学を主とする科学全般の研究支援をし続けました。1950年代には、考古学や文化人類学が活発になり、財団は以前にも増して創造性のある研究をサポートしています。

パウル・フェヨスは戦前にハンガリーに立ち寄ったのを最後に、祖国の土を踏むことはありませんでした。生涯を通して慕っていた母親にも会うことができず、母親の訃報を聞いて、非常に強いショックを受けたといわれています。彼は1963年4月23日に亡くなりました。

パウル・フェヨスについて、ひとつ言えることは、彼はどこに行ってもそこで才能を開花させていますが、同時に常にアウトサイダーだったことです。ニューヨークにたどり着いたときには、まったく無知な外国人。ハリウッドで一流監督になったときも、いわゆるハリウッド映画監督とは、モチベーションも、目的も、感性もあまりに違う。人類学も、正規の教育を受けておらず、ドキュメンタリー映画と言うからめ手から入ってきた。そういう「亜流の眼」だからこそ、達成できたことも多かったと思います。彼はその分野の人たちが見落としていること、当たり前だと思っていること、をもう一度自分の目で見直すのです。学者としての成功とか、学会での評価などは、さして気にすることなく、むしろ自分のしていることが自分が理想としているレベルよりも低いことに、つねにフラストレーションを感じていたのです。特に彼が文化人類学の研究において、全くの素人にもかかわらず業績を残せたのは、研究の対象としている民族、原住民に対して、対等の人間として接しているからだと思います。これは彼がニューヨークやハリウッドで、底辺で暮らし、そこで人間としての威厳を失うことなく生き抜いてきたからでしょう。彼は決して西欧の科学や知が、優れているとは思っていませんでした。特に西欧人の無知を、自分が無知であることを知らない、その無知を嘆いていました。彼は自分を医者だとは思っていませんでしたが、常に最先端の医学について論文を読み、旅先で医師として治療にあたることもありましたが、こんなことを言っています。

ニューギニアから、パプア人がニューヨークにやってきたとしましょう。彼らは自分たちとさして違わない人々を見て驚くのではないでしょうか。特に科学と言う魔術によって支配されている人々を。医者に行って、レントゲンを撮ってもらう。患者はレントゲンの装置がどう動くのかも、X線についても何も知らない。レントゲン写真を見てもどう診ればいいのかわからない。けれど、呪術を使いこなす医者という人物のいうことを信じて治療を受けるのです。テレビで言っていることの90%は魔術でしょう。なんだか科学的な名称がついていれば、みんな効果があると信じてしまう。

Paul Fejos

インドネシアのスンバワ島で調査していたときのことです。ドドンゴの村の呪術師(医師、シャーマン)は、パウル・フェヨスにとって重要な情報源でもあり、同じ医師同士という友人でした。パウルは、彼の治療法や薬草について教えてもらい、彼が医術についてたずねてきたときには助言をしたりしていました。時にはパウルが持っている薬、-ドイツのバイエル社のものですーを分けてあげることもありました。バイエル社の薬には、トレードマークの円に囲まれた大文字のBが印刷されています。呪術師の彼は、パウルの魔術の力とそのトレードマークが深い関係にあるのだと信じるようになりました(その通りですが)。数ヶ月たった後、その呪術師は、パウルに正式に申し入れをしてきました。彼らは非常に厳しく自分たちを律しています。そのルールに従って、正式に「そのマークを使わせてもらいたい」と申し入れてきたのです。パウルは「バイエル社の承諾なく、倫理的には問題がある行動だったが」、そのトレードマークを使うことを了承します。呪術師は大きな円に囲まれた「B」のトレードマークを胸に刺青し、彼の治癒能力はいっそう高まったのです。

このことは、私たちにもそのまま当てはまります。医学の研究者たちでさえ、効能のメカニズムを完全に把握できていないけれど効果のある薬や治療法を、ましてや一般人の我々は、「有名な医者が言うから」「話題になっているから」「テレビで言っていたから」信じて受け入れています。医術だけではありません。リンゴのマークがついているアップル社の製品だから、品質がいいと思い、旅行先で偽物だってつかまされかねない。東京大学の教授の言うことに間違いはなく、成功したビジネスマンの言っていることは、ためになると思っている。そのことをパウルは見抜いていたし、だからといってそれを愚かなことだとは思っていない。むしろ人間とはそういうものだと思っていたのでしょう。彼は自分たちの文明はそういう迷信や迷妄から解放されていると勘違いすることを諌めていたのだと思います。

そういう眼でもう一度彼の映画を見直すと、今までとはもっと違うことを感じるかもしれません。

References

The Several Lives of Paul Fejos, John W. Dodds, The Wenner-Gren Foundation, 1973

”Image” On the Art and Evolution of the Film, Ed. Marshall Deutelbaum, Dover, 1979

Hollywood Destinies, Graham Petrie, Routledge & Kegan Paul, 1985

Lonesome, Bluray, The Criterion Collection, 2012

パウル・フェヨスの数奇な人生(11/12)

ペルーのインカトレイルにある、ウィニャイワイナの遺跡
1940年にパウル・フェヨスの調査隊が発見した。

パールハーバーの攻撃を期にアメリカは正式に第二次世界大戦に参戦します。太平洋、東アジアの地理、民族に明るいパウル・フェヨスは、スタンフォード大学で海軍の兵士を相手に、文化人類学の講義をするよう、要請されます。彼の講義は非常にユニークで、非常に実践的だったようです。彼は若く、まだ何も知らない兵士たちを相手に「シミュレーションによる訓練」をします。

「君たちは、ある島に到着する。君たちは無線基地を設営しなければならない。上陸船は母船に引き返し、君たちは自分たちだけが頼りだ。さあ、どうする?」

生徒たちは、何も事前情報がないまま、その島について探索し、また住民と遭遇したときのコミュニケーションの方法を、手探りで考えていきます。生徒たちの言動をもとに、パウルは情報を与えたり、住民とのやり取りをシミュレーションしたりします。生徒が住民を警戒させるような言動をとれば、住民のふりをしているパウルはもう何も言わなくなってしまいます。こうやって、いかに現地の住民からいかに協力を得るか、そして必要な物資や情報をいかに確保するかを兵士たちに教えていきました。彼はこれをずっとインドネシアやタイで自ら経験してきているので、現地住民とのコミュニケーションの重要性を理解しているのです。兵士たちは、このトレーニングを通して、言語がいかに重要か痛感し、ランチの時間でも中国語やマレー語で会話をしていたそうです。

ヴァイキング財団は、文化人類学や考古学に研究資金を提供することを目的としていました。財団でのパウル・フェヨスの役割は、多くの学者たちとコミュニケーションをとり、学問の発展に寄与すると思われる研究を見極めていくことでした。1945年、第二次大戦が終結し、ようやく軍事から切り離されて研究ができるようになりました。「学際領域」 ーーすなわち専門的な学問同士の間をつなぐ領域ーー は、まだまだ未開拓の時代でしたが、パウルはまさしく専門家たちを引き合わせ、それぞれの領域の関心事をつないでいくことにかけては先駆者だったといえるかもしれません。彼は「自分は考古学について疎い」と常に発言していましたが、彼の「学際領域に敏感な感覚」のおかげで、考古学にとって非常に重要な研究がなされました。

アメリカ自然博物館のラルフ・フォン・ケーニヒヴァルトは、戦時中ジャワ島で日本軍の捕虜になって死んだと伝えられていました。しかし、彼は収容所を生き延び、ジャワ島各地に隠しておいた考古学的資料 ーージャワ島で発見した原始人の頭骸骨ーー を持って帰国したのです。1947年のことです。ケーニヒヴァルトは、避暑のため、コールドスプリングスの研究所で研究していましたが、そこの研究所はまさしく核物理、核化学のメッカでした。ある日、パウルにあった彼は、自分がいかにその研究所で浮いているかを話していました。核物理学者の群れにひとりだけ考古学者なんて!ランチで話しかけてくる研究者たちは、考古学なんて全く知らないのです。だから説明するのも苦労する。つい昨日も、ランチで食堂のテーブルの前に座った男が、話しかけてきたよ、とパウルにこぼします。

「『君は何を研究しているの?』って聞いてくるんだ。だから、僕が最近持ち帰った頭蓋骨と写っている写真を見せて『こういう原始人の研究をしているんですよ。』って答える。するとね、『へぇ。その頭蓋骨は何年位前のものなんだい?』なんて聞いてくる。『だいたい50万年前くらいですかね。』ってこっちが言うと、『そんなに古くなかったら、もっと正確に、何年前、って言えるんだがね。残念だ。』なんていうのさ。」

パウルが、それはどうやるんだって聞くと、「なんでも放射線がどうとかこうとか言っていたなあ」とはっきりしません。パウルはふと、今読んでいる岩石の年代決定法でヘリウム・インデックス(ヘリウムの同位体の比で年代を決定できる)について書かれていることを思い出しました。ひょっとしたら・・・。その男の名前は?ケーニヒヴァルトは、その男の名前も知らないので困ったことになってしまいました。

パウルはコールド・スプリングスの研究所に電話をかけ、食堂の従業員に「昨日、ケーニヒヴァルトとランチを食べていたのは誰かわかるかい?」と聞きました。ハロルド・ユーリーですよ。ノーベル賞学者の。

ウィラード・リビー

シカゴでハロルド・ユーリーに会ったパウル・フェヨスは、早速そのアイディアについて矢継ぎ早に質問します。「実はその研究をしているのは、私じゃなくて、ウィラード・リビーだよ。」同じくシカゴ大学で研究をしているウィラード・リビーはバルチモアの下水から炭素の同位体を検出し、それがどうやら大気を起源とするものらしいと考えていました。同位体の半減期は正確にわかっているので、炭素を含むものなら年代を決定できるのではないかと考えていたのです。それを是非とも考古学のために使いたい、とパウルが突っ走っているのですが、リビーは、まだ手法が確立されていないからと慎重です。パウル・フェヨスは、ヴァイキング財団が研究費を出すから、是非とも考古学に役立てるものにして欲しいと申し出ました。ウィラード・リビーは、放射性炭素年代測定法を開発し、後年ノーベル賞を受賞しました。(ウィラード・リビーによる話でも、パウル・フェヨスが考古学と放射性炭素年代測定を結び付けたことがわかります。)

パウル・フェヨスの数奇な人生(10/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで、飛行機不時着後。1940年

マシコ族という研究対象を失ったパウル・フェヨス一行は、リマまで引き返しました。パウルは、そこで山地奥深くにある古い都市の遺跡の話を耳にします。アメリカの探検家、ハイラム・ビンガムによって、1911年にマチュ・ピチュの遺跡が発見されたことは、パウルもよく知っていましたが、それとは別に「古い都市が存在する」という話は根も葉もない噂だろうくらいに思っていました。ある日、フランシスコ派の僧院の図書館で「クズコの輝かしき未来(1848)」という本を見つけます。この本には、ある俗僧が、アマゾンの密林で迷ってしまい、2年間行方不明になったことが記されていました。この男は帰還して数日で死んでしまいますが、ジャングルの奥地で見た古代の都市について話をしています。この話と、先ほどの噂が、地理的にも奇妙なほど符合したので、パウルは興味を持ち始めました。1940年9月、ヴェナー・グレンの了承と資金提供を受けたパウルは、その幻の古代都市の発見を目標にリマを出発します。

この探検に同行したのが、スタンフォード大学のポール・ハンナでした。彼は教育学の教授ですが、ネルソン・ロックフェラーによって、南米に派遣されていました。目的は、ペルー、エクアドル、ボリビアにおけるナチスの活動、特に教育におけるナチズムの浸透を調査することでした。実はこれらの南米の国々では、ナチズムは初等、中等教育の各場面で思ったよりも深く浸透していたのです(戦後、多くのナチス高官が南米に逃れたのも、こういう背景があったからだと推測されます)。ポール・ハンナは、リマの町で物資や助手を探しているヨーロッパの怪しい調査隊がいると聞いて、パウル・フェヨスのグループを監視していました。この調査隊は、ヴェナー・グレン(当時はナチス・ドイツに共感していると考えられていました)のバックアップがある。ますます怪しいと踏んだポール・ハンナは、考古学者のふりをして、パウル・フェヨスの調査隊に同行することを申し出ました。結局、パウルがヒトラーを嫌悪していることや、隊がアンデスの遺跡発掘の学術調査に本気で取り掛かっていることを知ると、ポール・ハンナは自分の正体を明かしたようです。

1940年と1941年に2回の調査を経て、チョケスイスイ、チャチャバンバ、サヤックマルカなどの遺跡を発見し、36平方キロメートルの地域を調査、詳細な地図を作成しました。100kmにも及ぶ補給路を維持し、数百人の経験の浅い人足を監督しながらの調査でした。この調査結果は1944年に出版されています。パウルは、自分には十分な考古学の知識がないとして、遺跡発掘は最小限にとどめ、あくまで遺跡の位置の確認、写真などによる現状記録、そして地理的情報の収集をメインとしました。

パウル・フェヨス ヤグア族と。

また、パウルはこの時期にペルー北部に住むヤグア族の調査もしています。ヤグア族はやはり外部との接触の少ない種族で、言語、文化についてほとんど知られていませんでした。調査隊はヤグア族と接触して、彼らの言語を学び、その生活、習慣を記録することに成功します。言語をフィルムに記録するために、同時録音のできるカメラで住民の話し言葉を撮影しました。さらに、非常に珍しい村落の引越しをフィルムに収めることができ、これはドキュメンタリー映画「ヤグア(1943)」として編集されました。ちなみに、この映画がパウル・フェヨスのフィルモグラフィでは最後の映画となります。

1941年、ヴェナー・グレンはヴァイキング財団を設立します。財団のもとで、パウル・フェヨスはアンデスでの遺跡調査、ヤグア族の人類学研究の成果を発表します。財団はニューヨークにオフィスを構え、パウルは研究部門の指揮を執りました。彼は、もうすっかり商業映画の世界とは決別し、文化人類学、考古学にすべてのエネルギーを注ぎ込んでいました。

パウル・フェヨスの数奇な人生(9/12)

パウル・フェヨスとアクセル・ヴェナー=グレン

この東アジア遠征中に、タイのチェンマイで「一握りの米(原題:En Handful Ris)」という作品を製作します。これは珍しくフィクションのストーリーを盛り込んだ作品です。オープニングは、ストックホルムのアパートで引っ越しの真っ最中の夫婦の話です。引越しの荷物や家具を全部運び出した後、棚の引き出しに残っていた一握りの米を、「ちょっとしかないから」捨てるという場面から始まります。そして、映画はタイの農村に舞台を移します。新婚の夫婦が新しい生活を始め、森を切り開いて耕し、米を栽培するものの、旱魃に襲われて、最後はやっと収穫できたのが一握りの米だったという話です。この映画は、最初のストックホルムの部分を切って、RKOが”The Jungle of Chang”という映画で公開しています。ハリウッド時代から「君と暮らせば」まで、ずっと彼がテーマとしている、容赦ない人生の苦労と生きのびることの大変さが、ここでも描かれています。

パウルとその一行は「コモドドラゴンを撮影したら面白いな」と話し合い、ボートで島に乗り付けて、撮影することにしました。ところが、このボートが珊瑚礁に座礁して、ばらばらになってしまい、一行は遭難します。一行はコモド島に流れ着くのですが、集落などどこにもなく、その上、乾季の最中で飲み水がない。3日間、飲み水なく、いよいよ死ぬかと思われた夜に沖を航行する船を見つけ、高い木の上から懐中電灯でS.O.S.を発信して、無事見つけ出してもらって救助されます。その後、パウルはこの島をもう一度(今度はココナッツの実を大量に持って)訪れます。実はこの島は無人島ではなく、彼らが遭難した島の反対側には集落がありました。コメディーでそういう設定がよくありますが、それを地でいったわけです。この訪問で、パウルは、コモドドラゴンを2頭捕獲します。1頭はストックホルムへ、もう1頭はコペンハーゲンの動物園へ送られ、それぞれの国の最初のコモドドラゴンとなります。

パウル・フェヨスが捕獲したコモド・ドラゴンの剥製 コペンハーゲン

もうひとつ、この旅では非常に重要な人物と出会います。スウェーデンの実業家、アクセル・ヴェナー=グレンです。彼は、スウェーデンのエレクトロラックス社を掃除機や冷蔵庫の有名ブランドにし、一大財閥を作り上げた人物です。ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングと親交があると噂され、ナチス幹部に太いコネクションがあると信じられていました。しかし、実際には彼は、まったくそんなものを持っておらず、ドイツにおいては何の影響力もありませんでした。

1938年に、ストックホルムに戻ってきたパウル・フェヨスはスプルー/熱帯性下痢に罹患しており、非常に弱っていましたが、1939年には次の遠征に出発します。ヴェナー=グレンは、ペルーに鉱山を保有しており、ペルーの先住民についての情報を必要としていました。パウルは、ペルー先住民のマシコ族と接触して、彼らの生活・文化について調査することを依頼されます。この部族は19世紀の終わりにカルロス・フィッツカラルド(ヴェルナー・ヘルツォークの「フィッツカラルド」のモデルですね)の部下によって大部分が虐殺され、それ以来、アマゾンの奥深くに住んで外部との接触を一切断ってきました。パウルはこの部族と接触するのですが、様々な不運と無知が重なって、途中であきらめざるを得なくなりました。ペルー政府は、パウルたち一行に、ペルー軍の兵士を連れて行くよう要求したのですが、これが仇となってしまったのです。銃を持っているがゆえにマシコ族の部族間の争いに巻き込まれ、兵士の一人が住民の一人を射殺してしまったのです。もうこうなっては、部族と接触することはできず、引き上げざるを得なくなりました。

ちなみにこのマシコ族は、今現在も外部との接触がほとんどなく、アマゾン流域の未踏の地で暮らしています。今はむしろ彼らを守るために、ペルーの一般市民や人類学の研究者などが彼らと接触しないよう、呼びかけられています。現在までずっと孤立していたので、様々な病気、特に20世紀以降に現れた疾病に対して耐性がないと考えられているためです。ところが、この数年、彼らの食糧事情が悪化したようで、マシコ族のほうから食料を求めて姿を現すことが多くなり、今年に入ってからビデオに撮影されるような事態にまでなりました

パウル・フェヨスの数奇な人生(8/12)

パウル・フェヨス マダガスカル

マダガスカルは、この時代には、まだヨーロッパの文化人類学の研究がそれほど進んでいない土地でした。事前の調査や文献探索をしても得られるものは少ないまま、パウル・フェヨスは1936年にボルドーから貨物船に乗ってマダガスカルに向かいます。彼は「未開」と呼ばれたマダガスカル南部の、いまだ政府の管轄の届いていない地域に入っていきます。途中、フランス植民地軍の砦で、「あんなところに行ったら、首を刎ねられて食われるぞ」と脅かされましたが、かまわず進んでいきました。そこで、撮影隊一行はタノシ族とバラ族に遭遇し、彼らの生活をフィルムに収めます。パウルは、「生まれて初めて出会った原住民」に強い感銘を受けます。彼らは理路整然と考え、アメリカ人なんかよりもはるかに理にかなった生き方をしている。彼らは非常に理知に富んでいて、文明国の誰よりも賢い。ここで撮影されたドキュメンタリーには「エジラのダンスコンテスト」「ビロ」などがあります。

アンタンドロイ族のダンサー/治療者
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

当時の文化人類学あるいは文化人類学者は大半が差別的で、研究の対象とする民族に対して理解を深めるという態度で臨んでいるとはお世辞にもいえない時代でした。とくに文化人類学と啓蒙的な文化政策が交差する場合には、その醜い差別感情が露わになります。1931年にフランスで「植民地展覧会(L’exposition coloniale)」なるものが開催されますが、そこでニューカレドニアの住民がパリに連れてこられ、動物園の動物のように展示されていたのです。マダガスカルにも全く調査が入っていなかったわけではありません。事実、1910年代からフランスのパテ社がいくつかマダガスカルで撮影したフィルムを公開しています。ただ、「北極の怪異(1922、ロバート・J・フラーティー監督、原題:Nanook of the North)」に始まる、「西欧人でない民族に、ジャズを聞かせて反応を見る」といったことを繰り返しやっていたのです。

博士号をもった文化人類学者でも、(調査対象である)原住民の狩りに同行して、平気で獲物を撃ってしまう者がいるのだ。獲物は自分のものではないということ、銃を撃てば、住民の狩りの対象が一帯から姿を消してしまって、彼らの経済を破壊するということがわかっていないのだ。


Paul Fejos

私が調べた限り、「エジラのダンスコンテスト」と「ビロ」はニューヨークのMoMAがプリントを所有しているようです。ほとんど上映されることはないようですが、記録によると、「ビロ(The Bilo)」は族長の葬式の様子を収めた貴重な資料のようです。族長の息子によって催された音楽と踊り、そして埋葬時の儀式として、族長の牛800頭を生贄をささげる様子などが記録されているようです。

バラ族のダンサー
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

マダガスカルには1年近くいましたが、その後、ヨーロッパの帰途にセイシェル諸島に寄港し、そこでも撮影をします。デンマークに帰国したのち、撮影した作品をデンマーク王立地理学会で発表し、一躍デンマークの文化人類学界で注目の人物となります。マダガスカルの文化については詳細な調査がされていなかったこと、デンマークの王立博物館にもマダガスカルに関する資料がなく、パウルが持ち帰った様々な事物が、貴重なコレクションとなりました。この時点で、パウルは文化人類学に強い興味を抱くようになります。1937年、今度はスウェーデンの映画会社が彼に同様の映画を依頼します。

パウルは少し濁した話し方をしているのですが、彼はアメリカに戻りたいと思い始めていたようです。ヨーロッパに戦争が近づいていること、特にナチス・ドイツと各国の関係が不安定な状態が続いていたこと、スウェーデンの立場はその中でももっとも微妙だったこと、などから、彼は「アメリカに戻れなくなるのではないか」と、オファーを躊躇していたようですが、待遇があまりに良かった。そして、東インドに向けて長い旅に出ます。目的地はインドネシアでしたが、横浜、神戸にも立ち寄っています。

パウル・フェヨスの数奇な人生(7/12)

春の驟雨 撮影セットで
中央 パウル・フェヨス、右から二人目 アナベラ
(via filmkultura.hu

ヨーロッパに戻ったパウル・フェヨスは、フランスを訪れ、そこで「ファントマ(原題:Fantômas)」を監督します。例の「謎のファントマ」ものです。そして1932年にハンガリーに舞い戻って「春の驟雨(原題:Tavaszi zápor)」を監督します。これは、パウル・フェヨスの最高傑作とする人も多く、私もこの映画がもっとも好きです。若い女性が過ちを犯し、妊娠し、子供を生みますが、子供は取り上げられ、彼女は失意のうちに亡くなります。天国に上った彼女は、自分の娘が大きくなって、同じ過ちを犯そうとしているところを見て、雨を天から降らせて娘を守るというお話です。この映画では、主人公のマリー(アナベラ)が未婚で妊娠したために、村で、そして都会で疎外されていく過程が、実に辛辣に冷酷に描かれています。特に子供を取り上げられて、村に舞い戻り、道端で子供たちにまでさげすまれて、汚れ、朽ち果てた彼女が、世を恨み、神を恨むさまは、この時代の作品には類を見ない強烈な印象を残します。そのため、この映画はハンガリーで「共同体と神を冒涜した」とされて上映禁止になり、ニューヨークでも上映禁止になります。

美術監督 ハインツ・フェンチェルと。
「君と暮らせば」のセットで
(via davidkultur.at

1933年にはウィーンで「君と暮らせば(原題: Sonnenstrahl)」を監督します。これもシンプルなストーリーで、貧乏のどん底にいる若い二人が様々な苦難を乗り越えていく話です。結婚式の場面は、ムルナウの「サンライズ」そのままですし、随所に影響を見ることができます。私は、フランク・キャプラはこの映画から「素晴らしき哉、人生(1946, 原題:It’s a Wonderful Life)」のヒントを得たのではないかと思っています。貧乏に耐えかねた主人公が飛び込み自殺をしようとしているときに、別の人間が飛び込み自殺をして、それを助けてしまうというオープニング。そして、お金に困って、もうどうにもならない、と言うときに、みんなが少しずつ出し合って、窮地から救われるというエンディング。それにしても、パウル・フェヨスは貧乏のどん底で暮らす人々を描くことにかけては、実に真摯で、かつ容赦ありません。表面は砂糖でコーティングしているのですが、その奥底には、実際に経験した人間だからこそ表現できる、冷徹さがあると思います。

パウルは、1934年にコペンハーゲンのノルディスク・フィルムと契約します。ここで、3作品ほど監督するのですが、彼はこの前後から「フィクション」の映画を作り続けることに限界を感じ始めます。何も「新しいこと」が生まれてこない焦燥が日増しに強くなっていました。しかし、彼はヨーロッパでは「一流監督」として認められていて、ノルディスクは彼に様々な ーー興行的にも、芸術的にもーー 期待をかけています。ある日、焦燥の頂点に達したパウルは、ノルディスクの重役会議にひとり乗り込んでいきます。

「私は、もう辞めたい。契約を破棄したい。」

実は契約はまだ2年残っていて、重役たちはそんな申し入れは当然拒否しました。

「拒否するならすればいい。私は病気だ。私は働けない。」

「君の好きにしていいから、映画を作り続けてくれないか。会社はどんなことでもしよう。」

「ここでは、映画は作れない。こんなところでは無理だ。」

「じゃあ、どこなら作れるのだ?パリか。ロンドンか?」

とにかく辞めたい一心で、彼は会議室の壁に貼ってあった世界地図の上で、自分の指の届くところにあったマダガスカルを指差して言ったのです。

「ここでなら。」

パウルは、マダガスカルのことなんかなんにも知りません。そんな島があることさえ。

「どうして、マダガスカル?」

「どうしてって、そこには原住民がいて、私は原住民と仕事をしたい。」

「マダガスカルか、よろしい。カメラマンは誰がいい?」

パウル・フェヨスのノルディスク時代の作品
「黄金の笑顔(原題:Det Gyldne Smil)」

彼が本当に「原住民と仕事をしたかった」のかどうか、あるいはこの重役会議の話が彼の「脚色」なのかは、定かではありません(この話は後年になって彼自身が口述したものから採られています)。ある側面では、この方向転換はそれほど異様なものではないと思います。1930年代に、とくにヨーロッパでは「文化映画」と呼ばれる、「学術性の高い」ドキュメンタリー映画の製作が盛んになるからです。この「学術性」に括弧がついてしまうのは、啓蒙的な側面が多分に強いのと、これらの映画のかなりの部分がプロパガンダ性の高いものも多かったからです。

パウル・フェヨスの数奇な人生(6/12)

ブロードウェイ 1929年

「ブロードウェイ(原題:Broadway)」はパウル・フェヨスが「自分の人生でもっとも惨めな作品」と呼び、撮影監督ハル・モーアが「もっとも楽しんだ作品」と呼んだ映画です。もともとのストーリーは大したものでもないのに、ユニバーサルは、映画化の権利だけで100万ドルも払ってしまっていました。そこで、さらに500万ドルをかけて、大作にしようと打って出たのです。パウル・フェヨスはどうすればいいのかわかりません。世界のどこにも存在しないような巨大で派手なステージで歌って踊っている主人公が、「こんなうらぶれたところを出て、いつかビッグになってやる」と言っている、というとんちんかんな話ですから、そりゃ厄介です。今、この映画を見るとすれば、まさしくそのカメラワークを楽しむのでしょう。この映画のために、巨大なカメラ・クレーンを建造しました。クレーン長50フィート(約15m)、重量28トン、6輪の自走式で、クレーンは360度回転、180度スイング(すなわち半球すべて)し、クレーンに搭載したカメラ用ステージはさらに360度回転するという代物です。作ったのはいいのですが、ユニバーサルのステージに入らないし、フロアも沈んでしまうので、ユニバーサルは新しくステージを建設、コンクリートで固めたフロアに、この代物がぐるぐる動いても大丈夫なスペースと天井で、「ブロードウェイ・ステージ」と呼ばれました。「ブロードウェイ」の中で、目の回るような映像を見ることができます。実はそんな大きなセットだし、ぐるぐる回るクレーンでは、十分な照明を得られないことが明らかになります。そこで、天井には絹を張って、その向こうに白熱灯をたくさん配置しました。これは「星のように」みえるはずです。これでも十分ではなく、ハル・モーアはコダックに頼んで、特別に感度の高いフィルム(タイプAのパンクロマチックに特別な処理をしてもらったもの)を準備してもらいます。これが、すぐに劣化してしまうので、毎日、ロチェスターから冷蔵空輸して送ってもらっていたそうです。

ブロードウェイ 1929年
頭の上に摩天楼をかぶった踊り子たち
「ブロードウェイ」の撮影に使われたクレーン
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-n02-HF8-R8]
『ブロードウェイ』

この頃から、パウル・フェヨスとユニバーサルの関係は悪化していきます。パウルは人気ジャズバンドのリーダー、ポール・ホワイトマンの映画を監督するように言われます。まず、ストーリーがない。そこでユニバーサルの脚本部30人全員で考えるのですが、ろくなアイディアは出てきません。カール・レムリ Jr.は「だったら、アメリカの有名作家全員に聞いてみよう」と言い出す。「ポール・ホワイトマンの映画を作ります。すばらしいストーリーを100語でお願いします。」とありとあらゆる有名作家に送ったんです。セオドア・ドライサーは「No、Never」と50回書いて送ってきた。できた映画は「キング・オブ・ジャズ(原題:King of Jazz)」ですが、パウル・フェヨスはクレジットされていません。今では、ニルヴァーナのカート・コベインのおじいさんが出演しているので有名な映画です。

左からカール・レムリ Jr.、ポール・ホワイトマン、カール・レムリ Sr.、パウル・フェヨス
MGM映画「ビッグ・ハウス」の外国語版撮影現場で。
アルバート・アインシュタイン(中央)、パウル・フェヨス(右端)

「西部戦線異状なし」の映画権を買ったと聞かされていたにもかかわらず、パウル・フェヨスはそれを作らせてもらえない。どれもこれもつまらないストーリーばかり。彼は一方的にユニバーサルを辞めてしまいます。それからしばらくして、MGMに雇われますが、ここはもっとつまらない。最後は脚本部で脚本を読んでいたのですが、あまりにアホらしく、馬鹿馬鹿しい。ある日、回ってきたメモを見たとたん、パウルは立ち上がってオフィスを出て行き、そのままシカゴ行きの「チーフ号」に乗って、ハリウッドを去りました。彼自身の言葉を借りれば、「ハリウッドとの恋愛が終わった」のです。1931年のことでした。