広告に載った九つの映画:貴方を愛す (後篇)

エルンスト・ルビッチ(左)とポール・ダヴィッドソン
この映画は、ドイツ映画界創始者のポール・ダヴィッドソンが、度重なる失敗の後に再起をかけて立ち上げたダヴィッドソン・フィルム-AGの製作です。ポール・ダヴィッドソン(1867 – 1927)は、1906年にフランクフルトで最初の映画館を営業、それから事業を拡大し一大映画館チェーンを経営します。1913年には北ドイツからベルギーまで一帯に50以上の映画館を所有していました。1909年に彼は会社を設立、PAGU(Projektions-AG “Union”)という、ドイツではじめての映画関係の株式会社でした。すぐに映画製作にも乗り出して、最初にマックス・ラインハルトに出資したのは彼でした。しかし、第一次世界大戦の勃発とともに経営が行き詰まり、彼は自分の映画館チェーンをノルディスクに売却せざるをえなくなります。それがきっかけとなって、映画製作のほうにより集中することになり、エルンスト・ルビッチの1910~20年代の作品を次々と発表します。1917年に国策会社として発足したウーファに、彼の製作会社(PAGU)とノルディスクに売却した映画館チェーンが吸収され、彼はそこで製作主担当として雇われますが、戦後、ルビッチやジョー・マイとともにウーファを飛び出してEFA(Europaischen Film-Allianz)を結成します。ちなみにウーファで彼の穴を埋めたのはエーリッヒ・ポマーでした。EFAはやがて閉鎖、夢よもう一度と立ち上げたのがこのダヴィッドソン・フィルム-AGでした。この会社は、ウーファ傘下で「独立製作体制」をとっていることになっていたようです。しかし、この事業も頓挫、1927年にダヴィッドソンは精神病院に収容され、数ヵ月後に自殺してしまいます。
この映画の脚本を担当したロルフ・E・ヴァンロー(1899 – ?)は、1920年代にシナリオライターとして成功し、「ヨーロピアン・シナリオ・カンパニー」という会社まで設立しました。最も有名な作品は「アスファルト(Asphalt, 1929)」ですが、それよりも映画史には「マレーネ・ディートリッヒの説得に失敗した男」として名を残しているかもしれません。1936年に、ゲッベルス/ヒトラーの要請で、ヴァンローは「鎧なき騎士(Knight without Armor, 1937)」をロンドンで撮影中のマレーネ・ディートリッヒを訪れ、ドイツで製作予定の映画「夜のタンゴ(Tango Notturno, 1937)」の主演を要請し、高額の報酬を提示します。ディートリッヒはこれをあっさり断ります。結局、この役はポーラ・ネグリが演りました。ちなみにディック・ミネや菅原洋一の歌で有名な「夜のタンゴ」はこの映画の主題歌です。その後数本の映画の脚本を残したものの、ヴァンローは姿を消してしまいます。
この映画もプリントの存在は確認されていません。

広告に載った九つの映画:貴方を愛す (前篇)

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貴方を愛す
Ich Liebe Dich!
1925
ポール・L・スタイン 監督
Paul L. Stein
リアネ・ハイト、アルフォンス・フリーラント、アニー・オンドラ 出演
Liane Haid, Alphons Fryland, Anny Ondra
A・H・ザイス 原作、ロルフ・E・ヴァンロー 脚本
Rolf E. Vanloo, A.H. Zeiz
クルト・クーラント 撮影
Curt Courant
ハインリッヒ・リヒター 美術
Heinrich Richter
ポール・ダヴィッドソン、ダヴィッドソン・フィルムーAG 製作
Paul Davidson, Davidson Film-AG
ウーファ 配給
Universum Film
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日本では「舞姫の唄は悲し」というタイトルで正式に公開されました。
アーゲ・アデルストム大尉は、孤児のマヌエラをイタリアの港町で拾い、故郷のコペンハーゲンに連れ帰って教育を受けさせた。美しく、歌の才能豊かに育ったマヌエラだったが、破産した大尉をおいて、ロンドンの劇場へ行ってしまう。彼女は支配人オブラエインの後押しもあって舞台で大成功をおさめるが・・・
ポール・L・スタイン(1899 – 1968)はウィーン生まれの映画監督です。若いころはウィーンの劇場で働いていましたが、1918年に映画界に入り、ベルリンに移ってきます。1926年まで、ウーファでコメディやメロドラマを撮り続け、「女性向けジャンル」の定評ある映画監督となります。その後、ハリウッドに引き抜かれ、ワーナー・ブラザースで「ウィーン仕込みの」女性映画を撮り続けます。「白鳥(One Romantic Night, 1930)」でリリアン・ギッシュを、「第一の恋(Sin Takes a Holiday, 1930)」でコンスタンス・ベネットを監督し、手堅い監督として成功を収めます。1931年からは英国に渡り、British International Picturesでミュージカル、コメディを主に監督しています。
「月世界の女」撮影中のクルト・クーラント(中央)とフリッツ・ラング
ハリウッドやイギリスに渡って名声を得た映画人も多いですが、必ずしもそんな人ばかりではありません。この映画でカメラを担当したクルト・クーラント(1899 – 1968)は、ヨーロッパでは名の知られた撮影監督でした。1921年にドイツでカメラマンとなり、フリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」、アルフレッド・ヒッチコックの「暗殺者の家(The Man Who Knew Too Much, 1934)」ジャン・ルノワールの「獣人(La bête humaine, 1938)」と、重要な作品を数多く撮っています。彼はユダヤ人でした。ナチスが政権をとった後は、イギリス、フランス、そしてハリウッドへ亡命します。ところが彼はハリウッドで不遇の時代を迎えます。A.S.C.に加入することができず、仕事が回ってこないのです。実際に仕事をしても、名前がクレジットされることは無く、そのことをA.S.C.に訴えましたが退けられました。チャールズ・チャップリンの「殺人狂時代(Monsieur Verdoux, 1947)」の撮影を担当しましたが、その後はハリウッドとは距離を置き、ロサンジェルスの大学で映画の授業を教えていました。彼は、ジャン=リュック・ゴダールの「男性・女性(Masculin féminin, 1966)」の撮影監督、ウィリー・クーラントの父親です。

広告に載った九つの映画:ミカエル (後篇)

「アイ・ラブ・ルーシー」撮影風景
カメラ手前で光量をチェックしているのがカール・フロイント
この映画のカメラマンとしてクレジットされているのが、カール・フロイント(1890 – 1969)です。「ミカエル」の撮影の時にはF・W・ムルナウの「最後の人(Der Letze Mann, 1925)」の準備に忙しく、大部分を(クレジットされていない)ルドルフ・マテが撮影したとされています。カール・フロイントはドイツ映画界とハリウッドに多大な足跡を残した撮影監督です。1906年に映写技師として働きはじめ、初期の頃からトーキーの実験撮影を行っていました。イタリアの有名なオペラ歌手、エンリコ・カルーソの歌う様子を音とともに残そうとしていました。1908年にニュースカメラマンとしてバルカン半島に派遣され、まさしく第一次世界大戦の勃発を目の当たりにします。徴兵されたものの太りすぎで解除、しかし、戦場に赴いてニュース映画をひたすら撮り続けました。戦後は劇映画に転向します。「ゴーレム(Der Golem, wie er in die Welt kam, 1920)」「メトロポリス(Metropolis, 1927)」「ベルリン:大都会交響楽(Berlin: Die Sinfonie der Grosstadt, 1929)」、ハリウッドに渡ってからは「ドラキュラ(Dracula, 1931)」「巨星ジーグフェルド(The Great Zeigfeld, 1936)」「キーラーゴ(Key Largo, 1948)」などの撮影監督を担当します。1950年代にはテレビに活動の拠点を移し、「アイ・ラブ・ルーシー(I Love Lucy)」を6年近く撮りました。フロイントは、「蜘蛛(Der Spinnen, 1919)」で一緒に仕事をしたものの、フリッツ・ラングをひどく嫌っていました。そのひとつの理由に、ラングの最初の妻の変死は、実はフリッツ・ラング自身が射殺したと考えていたからだという証言があります(フロイントは事件直後にフリッツ・ラングに呼ばれて自宅をおとずれていて、現場を見ています)。それでも、エーリッヒ・ポマーに説得されて「メトロポリス」のカメラを担当することになります。彼は常に新しい技術に貪欲で、「ベルリン:大都会交響楽」ではモーター駆動のカメラを用い、その後イギリスでワイヤー録音システムのテストに立ち会います。ハリウッドに移ったときもテクニカラーのコンサルタントをするためでした。カール・フロイントはハリウッドで何作か監督もしています。そのうちの「マッド・ラヴ(Mad Love, 1935)」は、ピーター・ローレが主演のホラー映画ですが、映画評論家のポーリン・ケイルが「オーソン・ウェルズは、『マッド・ラヴ』のヴィジュアル・スタイルやアイディアを盗んで『市民ケーン』を作った」と批判したこともありました。フロイントは当初テレビの仕事をひどく嫌がったようですが「3台のカメラで同時に撮影する方法を考えてくれるのはあなたしかいない」とプロデューサーに説得され、引き受けます。今でもスタジオ撮影のシトコムは、この「アイ・ラブ・ルーシー」で確立されたライティングが基本になっています。ちなみに、この「ミハエル」では、カール・フロイントは役者としても参加しています。これが最初で最後の映画出演です。
この映画はYouTubeでも見ることができますし、かなり高いですが日本語版のDVDも販売されています。是非とも見てください。

広告に載った九つの映画:ミカエル (前篇)

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ミカエル
Mikaël
1924
カール・テオドア・ドライヤー 監督
Carl Theodor Dreyer
ワルター・スレザック、マックス・アウツィンガー、ベンジャミン・クリステンセン 出演
Walter Slezak, Max Auzinger, Benjamin Christensen
ヘルマン・バング 原作、テア・フォン・ハルボウ、カール・テオドア・ドライヤー 脚本
Herman Bang, Thea von Harbou, Carl Theodor Dreyer
カール・フロイント、ルドルフ・マテ 撮影
Karl Freund, Rudolf Mate
ヒューゴ・へリング 衣装・美術
Hugo Häring
 エーリッヒ・ポマー、ウーファ 製作
Erich Pommer, Universum Film
ウーファ 配給
Universum Film
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この作品は、「広告に載った九つの作品」のなかで、観賞が容易な作品です。日本でもDVD化されています。これはカール・テオドア・ドライヤーのサイレント期の代表作のひとつで、ホモセクシャリティが注意深く、しかし時には大胆に表現されています。
有名な画家ゾレにとって、彼の若い弟子マイケルは精神的な支柱であり、かつ芸術的なインスピレーションの源泉であった。ザミコフ公爵夫人の肖像画を委託されたゾレは、彼女の瞳をうまく描けず悩んでいたが、ミカエルが彼女の瞳を見事に仕上げてしまった。それ以来、ミカエルと公爵夫人は愛人関係となり、ミカエルはゾレから離れていく…
これは、ドライヤーがエーリッヒ・ポマーに呼ばれてウーファで撮った唯一の作品で、ヘルマン・バングの原作自体もポマーに推薦されたと言われています。しかし、この作品が完成した後、すぐにウーファを離れてしまいます(一説には、作品のエンディングをエーリッヒ・ポマーが勝手に変えたからだと言われています)。ドライヤーはこの映画を最後に実に40年間もひとつの製作会社にとどまることなく、漂流者のように渡り歩きながら作品を作り続けていきます。カール・テオドア・ドライヤーの生涯や作品については、ジョルジュ・サドゥールの書籍などに詳しいです。
画家の弟子、ミカエルの役を演じているのがワルター・スレザック(1902 – 1983)です。オーストリア生まれのこの俳優は、マイケル・カーチスの誘いで舞台から映画に転向しました。若いころは美男子の主役が多かったのですが、1930年代にアメリカに渡ってからは太り始めて、性格俳優に転じました。最も有名な役どころはアルフレッド・ヒッチコックの「救命艇(Lifeboat, 1944)」のドイツ人将校です。この「ミカエル」のときと、あまりに風貌が変わってしまっているので、同じ俳優だと気づきませんでした。
1928年頃のワルター・スレザック
ベンジャミン・クリステンセン監督
「魔女(Haxän, 1922)」
この映画でほぼ主演とも言っていい、ゾレ役を演じるのが、ベンジャミン・クリステンセン。ドライヤーと同じデンマーク出身の映画監督ですが、ここでは役者として見事な演技をしています。彼は、ヴィクター・シェーストロムとともにサイレント期の北欧映画界を代表する映画監督で、代表作は「魔女(Haxän, 1922)」です。これはヨーロッパにおける「魔女」と「魔女狩り」の歴史をクロニクルする作品なのですが、ドキュメンタリーでもなく、教育映画でもなく、一般的な劇映画でもない、極めて特殊な映画です。特に「魔女」の夜会のシーンや魔女裁判における拷問の説明などは、当時としてはかなりショッキングな映像表現でした。この映画はどこの国でも検閲でズタズタにされたものの大ヒットとなり、それがきっかけとなって、クリステンセンはウーファに招待されます。ここで、役者として「ミカエル」に出演したわけです。1925年、MGMからのオファーを受けたクリテンセンはハリウッドに渡り、「悪魔の曲馬団(Devil’s Circus, 1926)」をノーマ・シアラー主演で監督し、大ヒットしますが、次作の「嘲笑(Mockery, 1927)」はロン・チェイニーが出演したものの大失敗。さらに「神秘の島(The Mysterious Island, 1929)」で製作が大幅に頓挫してMGMからお払い箱になります。ワーナー・ブラザーズに移ってから、コーネル・ウールリッチ(ヒッチコックの「裏窓」の原作者)が脚本に参加した作品を監督します。中でも「悪魔への七つの足跡(Seven Footprints to Satan, 1929)」は、今でも見ることのできる数少ないクリステンセンの作品です。トーキーの到来とともに彼は故郷のデンマークに帰国、その後10年ほどは舞台の仕事をしていました。1930年代末に映画監督に復帰しますが、四作品で引退してしまいます。
ベンジャミン・クリステンセン監督
悪魔への七つの足跡(Seven Footprints to Satan, 1929)

広告に載った九つの映画:男對男 (後篇)

天国へのエスカレーター
アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「天国への階段(1946)」
不思議なことに、この「男對男」でカメラと美術を担当したスタッフは、その後EA・デュポン監督と深いかかわりを持ち、イギリスで仕事をすることになります(1)。
カメラマンのヴェルナー・ブランディス(1889 – 1968)は、第一次大戦前から映画界に入り歴史作品などを撮っていましたが、戦後ジョー・マイのカメラマンとして仕事をします。彼の最も有名な作品はEA・デュポンの「ピカデリー(Piccadilly,
1929
)」とアーサー・ロビソンの「密告者(Informer, 1929)」(これはセオドア・スパールクールと共同撮影)です。どちらもイギリスで製作されましたが、彼のカメラワークのスタイルはそれまでのイギリス映画には見られないものでした。EA・デュポンとともに都会を切り取ったイメージを前面に押し出していくものです。ドイツに帰国後はゲルハルト・ランプレヒト監督の「少年探偵団(Emil und die Detektive, 1931)」で、第2次大戦前のベルリンを美しくとらえています。
美術を担当したアルフレッド・ユンゲ(1886 – 1964)、オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ(1880 – 1938)は、イギリスの映画界に大きな足跡を残した美術監督です。ユンゲはもともと舞台美術をゲールリッツ劇場で担当していました。映画監督のパウル・レニがユンゲを映画界に招き、ウーファで1920年から6年間仕事をします。そしてEA・デュポンのブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズに参加し、1930年代にはアルフレッド・ヒッチコックのイギリス時代の作品、「暗殺者の家(The Man Who Knew Too Much, 1934)」と「第三逃亡者(Young
and Innocent, 1937
)」の美術を手がけます。キング・ヴィダーの「城砦(The Citadel,
1938
)」、ロバート・スティーブンソンの「ソロモン王の財宝(King Solomons Mines, 1943)」などを担当した後、マイケル・パウエル/エメリッヒ・プレスバーガー監督のもとで名作を次々に担当します。「老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)」、「カンタベリー物語(A Canterbury Tale, 1944)」、「天国への階段(A Matter
of Life and Death, 1946
)」そして「黒水仙(Black Narcissus, 1947)」は、イギリス映画界の美術としては屈指の出来だと思います。特に「天国への階段」の美術はずば抜けて独創的ですし、「黒水仙」はテクニカラーで描かれる美しい世界をマットペインティングで表現しきった作品です。あの崖っぷちの鐘楼や、元ハーレムだった修道院の建物の壁画などは、製作初期からユンゲがデザインしていたものでした。

崖っぷちのクライマックス
アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「黒水仙(1947)」

オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフは、ウィーンで美術を学んでいたのですが、1913年にヨーゼフスタットの劇場で美術を担当するようになります。第一次大戦後、映画界に転身、ラインホルト・シュンツェルの映画で美術を担当していましたが、1925年にEA・デュポンの「ヴァリエテ(Variete, 1925)」を担当してから、ユンゲとともにEA・デュポンの下で仕事をすることが多くなります。トーキーへの移行時期にイギリスへ移住、彼もアルフレッド・ヒッチコックの「三十九夜(The 39 Steps, 1935)」、「間諜最後の日(The Secret
Agent, 1936
)」、「サボタージュ(Sabotage, 1936)」で美術を担当しますが、戦争が始まる前に亡くなってしまいます。

「間諜最後の日(1936)」のチョコレート工場
美術:オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ

サイレント後期からトーキー初期にかけてヨーロッパ大陸からハリウッドに渡った映画人たちとともに、イギリスに渡った映画人も多くいます。特に美術監督たちは、それまでのイギリス映画が「全体的なデザイン」を欠いていたことを指摘し、製作初期の段階から参加して、映画の「見た目」を作り出すことをイギリス映画の現場に持ち込みました。ヒッチコックのイギリス時代の作品が、箱庭的に統一された世界を持っていることは、この二人の美術監督の仕事に負うところが大きいでしょう。
この「男對男」という作品、美術監督たちがどんな仕事をしたのか見たかったです。

(1) Tim Bergfelder, Christian Cargnelli, “Destination London: German-speaking Emigrés and British Cinema, 1925-1950″



広告に載った九つの映画:男對男 (前篇)

ハンス・シュタインホフ

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男對男
Mensch gegen Mensch
1924

 
ハンス・シュタインホフ 監督
Hans Steinhoff

 
アルフレッド・アベル、オルガ・ベラジェフ、トゥリオ・カルミナティ 出演
Alfred Abel, Olga Belajeff, Tullio Carminati

 
ノルベルト・ジャック、アドルフ・ランツ 原作・脚本
Norbert Jacques, Adolf Lantz

 
ヴェルナー・ブランディス 撮影
Werner Brandes

 
アルフレッド・ユンゲ、オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ 美術
Alfred Junge, Oscar Friedrich Werndorff

 
ハンス・リップマン、グロリア・フィルム 製作
Hanns Lippmann, Gloria-Film GmbH

 
ウーファ 配給
Universum Film

 
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この映画については、スチール写真どころか情報らしい情報を何ひとつ見つけることができませんでした。(「男對男」というよりは「人間對人間」のほうがしっくりくるタイトルだとは思いますが、元の広告の表現のままにしておきます。)わずかに”Filmland: Deutsche Manatsschrift“の19251月号に意味不明な記述がある限りです。
・・・ここで、一人目の「男(人間)」はノルベルト・ジャック、この原作者であり、もう一人の「男(人間)」は観客のあなたである。そして、「ドクトル・マブゼ」の発明者であるノルベルト・ジャックはこの戦いであなた方を皆殺しにして勝ち誇っているのだ。・・・
原作は「探偵小説」らしいのですが・・・。
ノルベルト・ジャック(1880 – 1954)は、ルクセンブルグ生まれのジャーナリスト・小説家。最も有名な作品は「ドクトル・マブゼ」シリーズです。フリッツ・ラングが3度にもわたって映画化した作品は、すべてノルベルト・ジャックが原作です。彼はジャーナリストとして第一次世界大戦中に有名になりました。ルクセンブルグ国籍であることを利用して、イギリスの政治家にインタビューをしたり、ベルギーやフランスを旅して各地の様子をルポして、ドイツで出版したのです。これにはルクセンブルグの皇室も迷惑しましたが(まるでドイツの国益にルクセンブルグが加担しているように見えるからですね)、ドイツ国内では彼の「取材力」が高く評価されたのです。大戦が終わったころから、「マブゼ」シリーズを執筆し、これが時代の雰囲気とも共鳴して、ベストセラーになりました。1924年から映画会社のコンサルタントとして雇われ、映画界と深いかかわりを持つようになります。また、世界各地(アンデス、エジプト他)を取材して回って、その見聞録を出版していましたが、ナチスが政権をとった当初は軽視していましたが、1939年にゲシュタポに逮捕され拘留されます。これが彼の態度を変えました。いわゆる「転向」をしたのです。ユダヤ人の夫人と離婚(彼女はアメリカへ亡命)し、ゲッベルスの要請で「フリードリッヒ・シラー:天才の勝利(Friedrich Schiller Der Triumph eines Genies, 1940)」の原作を担当しています。戦争末期には、ベネルクス地域でドイツのプロパガンダを積極的に展開し、そのことが原因で戦後フランスの警察に逮捕され、ルクセンブルクに強制送還されています。戦後はハンブルグと自宅のあるレイク・コンスタンスに引きこもっていたようです。彼は若いころからジャーナリストとして世界中を旅行して、「ヨーロッパ中心主義の弊害」を目の当たりにし、そのような政策には反対する立場をとっていました。「ドクトル・マブゼ」のキャラクターも、新しい世界を担う人物像、当時のヨーロッパに対するアンチテーゼと彼は考えていたようです。しかし、その「新秩序」への憧れがナチスへの傾倒となってしまったことも、彼の思想の限界だったと言わざるを得ません。
この映画の監督、ハンス・シュタインホフ(1882 – 1945)は、絵に描いたようなオポチュニスト(機会便乗型の人物)です。もともと医学部にいたのですが、1903年に役者の道へ、第一次大戦前にはベルリン・メトロポール劇場で監督をしていました。1921年に映画界へ転身し、様々な映画を監督します。1931年にはビリー・ワイルダーの脚本で「街の子スカンポロ(Scampolo, ein
Kind der Stra
ße, 1931)」を監督しますが、一方でその二年後には有名なナチス党の宣伝映画「ヒトラー青年(Hitlerjunge Quex, 1933)」を世に出します。これは、ナチス党員だったハイニ・ヴォルカーが暴力沙汰で死亡した事件を美化した映画で、最初期のナチス・プロパガンダ映画のひとつです。シュタインホフは、この映画で勲章も授与され、名実ともにプロパガンダ映画の旗手となります。彼はナチスが政権をとる前から支持者でしたが、意外にも最後まで党員にはなりませんでした(レニ・リーフェンシュタールも、ファイト・ハーランも党員にはなっていません)。彼はゲッベルスのもとで大作を数多く手がけます。

民衆の敵(Ein Volksfeind, 1937
コッホ伝(Robert Koch, der Bekämpfer des Todes, 1939
世界に告ぐ(Ohm Krüger, 1941
街の子スカンポロ(1931)
(dw.de)

彼の評判は芳しくありません。


「大嫌いだ」(ゲザ・フォン・ツィフィラ)
「ゲッベルス並みに茶色で、ヒムラー並みに真っ黒だ」(OW・フィッシャー)
「今世紀最大の馬鹿野郎だ」(ハンス・アルバース)
「あれは才能の無い男だった。ナチだからじゃない。・・・あれは馬鹿だから。」(ビリー・ワイルダー)
「ゲッベルス大臣が、そうおっしゃっているんだから、言うとおりにしろ!」(ハンス・シュタインホフの口癖)
「豚野郎だ」(ハンス・アルバース)

彼は戦争末期に「Shiva und die Galgenblume」と言う映画をプラハで撮っていましたが(どうやら戦火を逃れる口実だったようです)、ドイツが降伏したと聞くと、ベルリンに舞い戻り財産をカバンにつめると国外へ飛び立つ飛行機に乗り込みました。長い間、「シュタインホフは逃げ延びて、南米にいる」といった話が語られていましたが、この飛行機はソビエト軍に撃ち落されていたのです。今世紀になって、西イングランド大学のホルスト・クラウス博士が、その事実を確認しました。1945420日、ルフトハンザ航空のユンカースJu52は、ベルリンの飛行場を飛び立って、ウィーンに向かおうとしていましたが、すぐにソビエト軍の対空高射砲の集中砲火を浴び、ベルリンの郊外にあるグリーニッヒの森に墜落しました。乗客20人が亡くなりましたが、たった一人、生き延びたクルト・ルンゲ氏をクラウス博士は見つけ出したのです。ルンゲ氏は事故現場から見つかった腕時計を見て、「ああ、これはシュタインホフが、高級腕時計だ、と私に自慢げに見せたものですね。」と確認しました。最後まで評判どおりの人物だったようです。

広告に載った九つの映画:誘惑 (後篇)

「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」の撮影風景(filmprotal.de
この吊ってあるカーボン・アーク灯が落ちて事故になったという記述があります。

カメラマンのカール・ホフマン(1885 – 1947)は、10代の頃から映画業界に入って、現像技師、映写技師などを経験し、1916年にデクラ社のカメラマンとなります(1)。そこで彼は、エーリッヒ・ポマーのもと、オットー・リッペルト監督の「ホムンクルス」6部作やアルウィン・ノイシュのメロドラマの撮影を担当します。1920年にフリーランスのカメラマンになり、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, dir Spieler, 1922)」、「ニーベルンゲン(Die
Niebenlungen, 1924
)」、FW・ムルナウの「ファウスト(Faust, 1925)」などの作品に参加します。20年代の末には自ら監督もするようになりました。彼はトーキー導入によってカメラが静止してしまうのを嫌い、「トーキー技術を導入してもカメラは自由に動かせるべきだ」と考えて実践しています。「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」は、リリアン・ハーヴェイ主演のヒット作として有名ですが、カメラは実に自由に動き回っています。「麦藁帽子(Der Florentiner Hut, 1938)」は、ウーファの製作責任者だったウォルフガング・リーベンアイナーが監督し、カール・ホフマンが撮影を担当した、当時としては実験的な映画です。まず、導入部にタイトルや出演者・スタッフの字幕が無く、それらはすべて大道芸人が歌っている歌詞のなかで紹介されます。そして、映画の中では「一人称のカメラ(subjective camera, POVショット)」が頻繁に使用されます。これは主役のハインツ・リューマンの視点から見えることを移しているのですが、婚約者や訪問客とキスをするシーンなど生々しいんですね。さらにプロットを推し進めるのに、ハインツ・リューマンが映画の観客に話しかける(第4の壁を破る)のです。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=7d_xx6zzTiE]

「一人称のカメラ」は、劇映画では時折挿入されることはあっても、ずっと長回しで使われることはあまりありません。有名な例として、ロバート・モンゴメリーが監督(および主演)した「湖中の女(Lady in the Lake, 1947)」で、これは全編「一人称のカメラ」でフィリップ・マーロウの世界を表現しようとしたのですが、実験的すぎたようです。「麦藁帽子」では、ハインツ・リューマンのコメディということもあって、むしろ良い効果を挙げているかもしれません。

カール・ホフマンは戦争末期にアグファカラーの「すばらしい日(Ein toller
Tag, 1945
)」にも参加しますが、それが最後の仕事となりました。

美術を担当したハンス・ヤコビー(1904 – 1963)は、むしろ脚本家として有名です。1933年にナチスが政権をとったときにはスペインに亡命、そこで内戦が勃発すると、ローマからパリへと向かいます。しかし、ここもナチス・ドイツによって占領されるわけで、逃げる先々にファシストたちがやってきてしまう。なんとかアメリカに亡命してユニバーサルにもぐりこみます。ここで彼は「オペラ座の怪人(Phantom of the Opera, 1943)」そしてターザンシリーズの脚本を共同執筆します。ハンフリー・ボガートのサンタナ・ピクチャーズの「モロッコ慕情(Sirocco, 1951)」も彼の脚本です。50年代にドイツに帰国し、ハインツ・リューマンのヒット作を書きました。


「誘惑」は恐らく全く人口に膾炙することなく忘れ去られてしまったのでしょう。プリントも存在も確認できません。ランプレヒト監督が「第五階級」の直前に撮った作品ですが、その萌芽はこの作品にあったのか、と言う点は気になりますが。

(1)Hans-Michael Bock, Tim Bergfelder ed., “The Concise Cinegraph: Encyclopedia of German Cinema”

広告に載った九つの映画:誘惑 (前篇)

ゲルハルト・ランプレヒト監督
(「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」の撮影中、filmportal.de

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誘惑

Die Andere
ゲルハルト・ランプレヒト 監督
Gerhard Lamprecht
クセニア・デスニ、 フリッツ・アルベルティ、 エルシー・フラー 出演
Xenia Desni, Fritz Alberti, Elsie Fuller

ファニー・カールセン、イワン・スミス 脚本
Fanny Carlsen, Iwan Smith

カール・ホフマン 撮影
Carl Hoffmann

ハンス・ヤコビー 美術
Hans Jacoby

アルベルト・ポマー、デア・フィルム、ウーファ 製作
Albert Pommer, Dea Film, Universum Film
(UFA)

ウーファ 配給
Universum Film
(UFA)

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この映画に関しては、スチール写真が見つかりません。ひょっとすると、古いキネマ旬報なんかには載っているのかもしれませんが。
ロッテルダムの名女優、ブランシェ・テルブルックは医者の勧めにしたがって、南仏ニースで療養することに。お供に若いジョーゼットを連れて、ホテルについた直後に、ブランシェは浴室で死んでしまいます。ジョーゼットは、この機会に乗じてブランシェになりきり、リゾート地の注目の的になりますが
監督のゲルハルト・ランプレヒト(1897 – 1974)はドイツ映画界に重要な足跡を二つの意味で残しています。ひとつは、サイレント期から戦時中、戦後は東ドイツそしてその後西ドイツにいたるまで、職人的な映画監督としてヒット作を出し続けたこと、そしてもうひとつは、映画コレクターとしてドイツの映画遺産を後世に遺したという功績があります。彼の代表作は「少年探偵団(Emil und die Detektive, 1931)」で、その他にも「黒騎士(Der
Schwarze Huser, 1932
)」、「真紅の恋(Spione am Werk, 1933)」など良質なエンターテーメントで知られています。しかし、近年になって見直されているのが、サイレント期に撮られた「第五階級(Der Verrufenen, 1925)」、「私生児(Die Unehelichen,
1926
)」、「互いの中の人々(Menschen untereinander, 1926)」という三部作です。これらは、当時のドイツの最下層の人々の生活を描いた社会派の作品で、数年後のキング・ヴィダー監督の「群集(The Crowd, 1928)」や、戦後イタリアのネオリアリスモを先取りしたかのような映像の作品です。「第五階級」は、ハインリッヒ・ツィレの風刺画の世界を再現しようとする試みでした。ベルリンの安アパートに暮らしていた人たち -地方からより良い賃金を求めてきたものの、結局更なる貧困に突き落とされてしまった人たちー の生活を、ユーモアを交えて赤裸々に描いて見せたツィレのイラストは、非常に人気があり、表現主義とは一線を画す、別の大都会の一面を浮き彫りにするものでした。それを下敷きにし、さらに発展させたランプレヒトの作品群は、社会派と位置づけられるものの、その頃台頭しつつあったプロレタリアート映画(ソビエト映画に影響を受けた一派)とは違い、自然主義的なアプローチに終始しています。

「第五階級(Der Verrufennen, 1925)」から
無職の男達

 
トーキーへの転換時期にエーリッヒ・ケストナー原作、ビリー・ワイルダー脚本の「少年探偵団」を撮りましたが、これは爆撃で失われる前のベルリンの街 ―エーリッヒ・ケストナーが描いた街― を写し取った佳作です。30年代もいくつかのヒット作を監督、ナチスが政権を奪取した後も、彼は特に政治的な作風に陥ることはなかったようです。1945年に敗戦した直後、彼はソビエト赤軍管轄下にいてフィルムアクティフ(Filmaktiv)というグループの一員となり、1946年、東ドイツ初の映画スタジオDEFAに参加します。そこで当時のドイツ映画としては珍しい、廃墟のベルリンを舞台とした「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」を監督します。1949年には西ドイツに、そこで数作を監督しますが、このころから彼の関心事は映画史のほうへ移っていきます。彼が若いころに映写技師として働いていたときから収集し始めた膨大な映画のコレクションをもとに1962年にドイツ・シネマテークが設立されました。

「少年探偵団(Emil und die Detektiv, 1931)」

出演者のひとり、フリッツ・アルベルティ(1877 – 1954)は、もともと建築業界で働いていましたが、1920年頃から役者に転向し、1920年代は脇役として人気がありました。1928年だけでも10本もの映画に出演しています。1935年に役者を廃業、ナチス統制下で作られた芸術家などの職業団体NSBOの会計係をつとめ、党の意向に服従しない役者の解雇やゲッベルス基金の管理などを任されていました。

広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (後篇)

「吸血鬼(Vampyr, 1931)」カール・Th.・ドライヤー監督
ルドルフ・マテ撮影

ルドルフ・マテ(1898 – 1964)はポーランド生まれのカメラマン、映画監督です(1)。ブダペスト大学を卒業後、アレキサンダー・コルダのもとで映画界に入ります。ハンガリーでカメラ・アシスタントを経験、その後、カール・フロインドの助手兼セカンドユニットカメラマンを務めます。「海賊ピエトロ」はそのころの作品で、後に出てくる「ミカエル」は、カール・フロインドが室内、ルドルフ・マテが戸外を担当したと言われています。この撮影で、カール・Th・ドライヤーはルドルフ・マテの技術と構成力を高く評価し、「裁かるゝジャンヌ(La Passion de Jeanne d’Arc, 1928)」で彼を起用します。あの、容赦ないクロースアップ、グレーに飛ばした背景、などはマテの類稀なる構図に対する優れた構成力によるところも大きいです。フリッツ・ラングがハリウッドに移る前にフランスで監督した「リリオム(Liliom, 1933)」ルネ・クレールの「最後の億萬長者(Le dernier milliardaire, 1934)」などにも参加した後、ハリウッドに渡り、多くの重要な作品で撮影監督を務めます。
孔雀夫人(Dodsworth, 1936)ウィリアム・ワイラー 監督
マルコ・ポーロの冒険(The
Adventures of Marco Polo, 1936
)アーチー・メイヨー 監督
海外特派員(Foreign
Correspondent, 1940
)アルフレッド・ヒッチコック 監督
生きるべきか死ぬべきか(To Be or Not to Be, 1942)エルンスト・ルビッチ 監督

「都会の牙(D.O.A.,1950)」
ルドルフ・マテ監督、アーネスト・ラズロ撮影



1940年代後半から監督に転向します。「都会の牙(D.O.A., 1950)」は最もよく知られたフィルム・ノワールの作品のひとつです。最大の理由はアメリカでパブリック・ドメインに落ちていて、安価でひどい画質のVHSが出回っていたからですが、それでも、この時期に(撮影は1949年)サンフランシスコとロスアンジェルスのロケで、ここまで印象的な映像を見せてくれる作品は稀少です。この映画は賛否両論分かれる作品で、荒唐無稽なプロットとやりきれないセリフで「ノワールの代表作とはとても言えない」という人もいます。しかし、撮影に精通したルドルフ・マテと撮影監督アーネスト・ラズロのとらえた、魔のような夜のロスの風景は飛びぬけてすばらしいと思います。ラストのブラッドベリー・ビルディングは、「ブレードランナー(Bladerunner, 1980)」「アーティスト(The Artist, 2011)」などでもロケーションに使用されました。

イェオリ・シュネーヴォイクト(1893 – 1961)は20年代から30年代のデンマークを代表するカメラマン・映画監督です(2)。宮廷写真家だった母親に連れられて14歳の頃にベルリンに移住、そこでやはりカメラマンとなります。また、マックス・ラインハルトの下で演技も学びます。1912年か13年頃にデンマークに戻り、そこで妻リリー・フォン・クンストバッハと一緒に自分の映画製作会社(Karlbach Kunstfilm, カールバッハ・クンストフィルム)を立ち上げます。そこで数作を製作した後、ノルディスクでカメラマンとなり、カール・Th・ドライヤーの映画(「サタンの書の数頁(Blade af Satans bog, 1919)」、「牧師の未亡人(Prästänkan, 1921」など)で撮影を担当します。1920年代後半から映画監督に転身し、1929年に「ライラ(Laila)」を監督、一躍デンマークの人気監督となります。スカンジナビアの先住民族、サーミ人をテーマにしたこの映画は大ヒットしたようで、シュネーヴォイクト自身によって1937年にリメイクされています。文芸大作からコメディ、ミュージカルまで器用にこなした監督でしたが、息子がナチスに入党、志願して東部戦線にドイツ軍として参加したことがきっかけとなって、一線から身を引きました。

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「海賊ピエトロ」のプリントは行方不明だそうです。スチールを見る限り、やはり美術が際立っているように思われます。アルビン・グラウが美術を担当した作品は少ないだけに非常に興味深い作品です。

(1)RUDOLPH MATÉ: Great Cinematographers, http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mate.htm
(2)Issak Thorsen, Lars Gustaf: “Historical Dictionary of Scandinavian Cinema”

広告に載った九つの映画:海賊ピエトロ (中篇)

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アルビン・グラウ

「海賊ピエトロ」の美術を担当したのは、アルビン・グラウ(1894 – 1971)。ワイマール時代の映画界に「吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des Grauens1921)」という爆弾を落としていった怪人です。ドレスデン芸術アカデミーで学んだ後、第一次大戦に従軍、戦後はベルリンの頽廃を謳歌した芸術家でした。彼は映画のポスターを手がけたり、各種美術に関わっていたりしましたが、その頃、映画「夜への旅(Der Gang in die Nacht, 1921)」を監督していたFW・ムルナウと出会います。グラウは、商売人のエンリコ・ディークマンと組んで、映画製作会社プラナ・フィルムを立ち上げたところでした。彼の頭の中には、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」を原作とした吸血鬼映画のアイディアがありました。意気投合した二人は映画化に取り掛かります。 ムルナウが監督、グラウが衣装・美術を担当(そしてプラナ・フィルムが製作)、脚本はヘンリケ・ガリーン、撮影はフリッツ・アルノ・ワーグナー。しかし、公開時にはあまり反響がなかったようです。さらに、ブラム・ストーカーの未亡人に著作権侵害で訴えられ(プラナ・フィルムは版権を確保していませんでした)、映画の上映は差し止め、プリントは焼却するように命じられました。かろうじて焼却をまぬかれた5本のプリントが現在残っており、先年修復されてほぼ完全に近い形まで復元されました。
プラナ・フィルムは「ノスフェラトゥ」一本のみで破産、グラウは再びディークマンと組んで新しい映画製作に乗り出します。その作品がアルトゥール・ロビソンを監督にすえた「恐怖の夜(Nächte des Grauens)」とこの「海賊ピエトロ」、そしてループ・ピックが監督した「野鴨(Das Haus der Lüge, 1928)」でした。しかし、これを最後にグラウは映画製作に興味を失います。彼は第一次大戦中からオカルトに異常な興味を持っていて、「ノスフェラトゥ」自体も戦地で聞いた不思議な物語に触発されたものでした。「ノスフェラトゥ」自体はオカルトの要素はむしろ抑制されているのですが、オルロック伯爵からノックへの手紙に見られる奇怪な文字などに、グラウの興味が反映されています。彼はベルリン・パンソフィア協会(100人以上の会員のいた有名なオカルトの団体)の理事を務めていて、「東方騎士団」の会合にも顔を出していました。1925年に有名なオカルティスト、アルスター・クローリーに出会ってからは、完全にのめりこんでしまいます。ベルリンを中心に積極的に活動し、土星同胞団(Fraternitas Saturni)のメンバーにもなります。このオカルトへの傾倒が原因で、彼はナチスに追われる身となりました。一部の文献では(IMDB)、彼は1942年にブッヘンヴァルト強制収容所で亡くなったことになっています。しかし、近年の調査で、彼は娘とともにスイスに亡命、1971年までバイエルン州のバイリッシュツェルで生存していたことがわかっています。晩年は絵を描いて暮らしていたようです。

「ノスフェラトゥ」:オカルト文字で書かれた手紙
アルノ・フリッツ・ワーグナー(1889 – 1958)。カール・フロイントとならんで、1920年代のドイツ表現主義映画の撮影カメラマンとして最も重要な人物です。彼の作品リストを挙げるだけで、そのままドイツ表現主義の教科書になるような作品群です。
パッション(Madame Du Barry, 1919)エルンスト・ルビッチ 監督
フォーゲルエート城(Schloss Vogeload, 1921) FW・ムルナウ 監督
死滅の谷(Der müde Tod, 1921) フリッツ・ラング 監督
ノスフェラトゥ(Nosferatu, eine Symphonie des
Grauens, 1922
FW・ムルナウ 監督
燃ゆる大地(Der brennende Acker, 1922FW・ムルナウ 監督
懐かしの巴里(Die Liebe der Jeanne Ney, 1927GW・パブースト 監督
スピオーネ(Spione, 1928)フリッツ・ラング 監督
淪落の女の日記(Tagebuch einer Verlorenen, 1929GW・パブースト 監督
西部戦線一九一八年(Westfront 1918, 1930GW・パブースト 監督
三文オペラ(Die 3 Groschen-Oper, 1931GW・パブースト 監督
MM, 1931)フリッツ・ラング 監督
炭鉱(Kameradschaft, 1931GW・パブースト 監督
怪人マブゼ博士(Das Testament des Dr. Mabuse, 1933)フリッツ・ラング 監督

「M」撮影中のフリッツ・ラング(左)とアルノ・フリッツ・ワーグナー(右)

ワーグナーはパリのエコール・デ・ボザールで学んだ後、パテ映画社で事務やシェフの仕事をしながら映画界に入っていきます。1913年に彼はニュース映画のカメラマンになり、メキシコ革命の様子を撮影したりしていました。第一次大戦とともに召集に応じ、そこでもカメラマンとして従軍したようです。負傷した後、PAGU社にカメラマンとして雇われ、その後PAGU社がウーファに吸収されると、ウーファへ、1919年にはデクラ=バイオスコップ社で第一カメラマンとなりました。
1920年代は怒涛のごとく重要な作品でカメラを担当します。
ナチスの政権獲得後も「紅天夢(Amphitryon, 1935)」や「世界に告ぐ(Ohm Krüger, 1941)」などの大作で活躍しています。この頃の彼の作品は「かつての盟友たちが国外に脱出してしまって冴えない」とか「かつてのひらめきが見られない」とか言われることが多いのですが、確かに創造的な仕事は少ないようです。戦後は、ドキュメンタリーなどを撮っていましたが、再起をかけていくつかの映画に参加していたところ、1958年に交通事故で亡くなってしまいました。