動くカメラ (5)

本当にカメラは解き放たれたのか

 

サンライズ Sunrise (1927) F・W・ムルナウ監督

“Fluid Camera”

F・
W・ムルナウはドイツで『最後の人(Der Letze Mann,
1924)』を監督しました。この作品で、カール・フロイント(撮影)とともに非常に独創的なカメラ・ムーブメントに挑戦し、それは “die
entfesselt Kamera(飛ぶカメラ)”と呼ばれていました。
ウィリアム・フォックスがドイツからムルナウを招聘し、白紙委任で監督させた作品が『サンライズ(Sunrise,
1927)』です。強調遠近法を利用したオープンセット、ディープ・フォーカスを使用した構図、少ない光源をうまく利用した夜のシーンなど、当時のハリ
ウッド映画の常識を大きく覆した演出を盛り込んだ作品です。そのなかでも、湖からゆっくりと街に走る「路面電車の移動」と、この「夜の沼での密会」は、その後のハリウッドの映像文法を考える上でも重要なシーンです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=EQvPVWkvpyY]

この沼でのシーンのようなカメラの動きを、ムルナウは好んで「解き放たれたカメラ(Unchained Camera)」と呼びました。これは、例えば『つばさ』のトラッキング・ショットのような直線的な動き、あるいは飛行機に固定されたカメラのように、運動する物体からみた景色の動き、さらには手持ちカメラといった、動くものにくくりつけられた(Chained)カメラの映像とは一線を画しています。カメラは自由に浮遊し、人物を追跡するだけでなく、柵を超え、葦の茂みを分け入って進み、カメラ自体に意思があるようにさえ感じられるのです。様々な動きの多重化、多層化を見事に捕捉して、「カメラが動く」ということ -フレームが動き、動くものがフレームに収められるということー をトラッキングや手持ちといった制約から解き放ったように見えます。
この「夜の沼」のシーンの撮影の様子は、スチル写真などで見たことがありません。ジョン・ベイリー(撮影監督。『恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day, 1994)』『キャット・ピープル(Cat People, 1982)』)によれば、カール・シュトラスが天井から吊るされたドリーに乗って、モーターで動くベル・ハウエルで撮影したようです。よく観察すると、ドリーはほぼ直線上を動いています(追記注)。にも関わらず、カメラがその直線から解き放たれたように見えるのは、ドリー上でカメラが左右にパンしつつ、カメラの向いている方向がドリーの進行方向と一致していないこと、ドリーの移動速度が変化すること、そして(おそらく)最初に出てくる月と最後に出てくる月は別のプロップ(道具)なので、観ている者の空間把握を狂わせるからだと思われます。
このショットのNGテイクのプリントも残っているのですが、そこでは、動きが突然速くなって、ドリーが上下に揺れてしまっているのが、画面の揺れとなって現れています。実は人物の動きとの同期がずれてしまって、ドリーが速く動かされたのです。そこから考えると、このカメラの動きは実は「解き放たれ」てはおらず、別のものにくくりつけられたのではないでしょうか。今度は何にくくりつけられたのか。それは「動きの同期」です。人物の動きの軌跡とカメラの軌跡はあらかじめ決められていて、その同期が図られることで初めてフレームの中に求められていた動きが現れる。そして、動かすメカニズムがばれてはいけない。ドリーの振動や移動速度の急激な変化など、カメラが設置されているメカニズムの特性がフレームに現出してはいけないのです。
この「動きの同期」と「メカニズムの透明化」が重要なのは、その後のクレーンの登場や長回しの演出という、ハリウッド映画において重要な位置を占める技法の基盤になるからです。

(追記注)  2015.6.20
カール・シュトラスは、これは天井からつるされた「パーアンビュレーター(乳母車、この場合はドリーのようなもの)」で逆S字の動きをした、と発言しています。(TSMPE, 12, p.318 (1928))

動くカメラ (4)

帝国ホテル Hotel Imperial (1927) モーリッツ・スティルレル監督

手持ちカメラ

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rsYpSR0DOiY]

これは「帝国ホテル」ではなく、「明眸罪あり(The Temptress, 1926)」の撮影現場
左はモーリッツ・スティルレル監督
右でタンゴを踊っているのがグレタ・ガルボとアントニオ・モレノ
カメラ(手持ちカメラのEyemo)を構えているのがトニー・ガウディオ
モーリッツ・スティルレルはこの映画の撮影に入って10日ほどで降ろされ、
代わりにフレッド・ニブロが監督をつとめる

「帝国ホテル」のダンスのショットも手持ちカメラ(Eyemo)で撮影されたものでしょう。Eyemoとは1925年から市場に導入されたベル&ハウエル社の手持ち35mmカメラ(Hand-held Camera)。1970年代まで使用されていました。ニュース用、あるいはドキュメンタリー用として主に活躍していましたが、このように劇映画でも多く使用されています。無声映画の当時は、撮影は手のクランクしていましたが、Eyemoはゼンマイ駆動なので、握っているだけで撮影できました。このおかげで機動性が格段によくなりました。

American Cinematographer誌に掲載されたEyemoの広告(1927)
Eyemoを握っているのはセシル・B・デミル
「キング・オブ・キングス(The King of Kings, 1927)」で使用
他にも、1920年代後半に手持ちカメラが市場に登場しています。1910年代からニュース映画用として使用されていたAkeleyよりも、より機動性のあるDeVry、Cine-Kodakなどが盛んに広告を出しています。
DeVryカメラの使い方の例
特別なクランプで様々な場所に固定できる
これを思い出しました
ニード・フォー・スピード(Need for Speed, 2014)の撮影現場
GoPro3を設置しています
(via. hurlburvisuals.com)
これはシドニー・フランクリン監督が「クオリティ街(Quality Street, 1927)」撮影中に、ローラースケートを履いてEyemoで撮影している様子です。
 
 このような撮影手法もサイレント後期の1926年以降にはかなり頻繁に現れるようになります。

動くカメラ (3)

クオリティ街 Quality Street (1927) シドニー・フランクリン監督

ダンスのショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=30n8GKVhgvU]

上のシーンの撮影の様子
右手に吊り下げられたカメラ
照明も一緒に回転するようになっている

群集 The Crowd (1928) キング・ヴィダー監督

滑り台のショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=s3puV5Q-zF0]
撮影はベル・ハウエルにモーターを搭載している
撮影はヘンリー・シャープ(のちに『我輩はカモである (1933)』や『恐怖省 (1944)』を担当)

動くカメラ (2)

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

ブランコのショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=F79916-mdRg]

撮影の様子
カメラの三脚にもたれているのが
ウィリアム・ウェルマン監督

飛行機からの攻撃

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=zL-cC-VlRC4]
カメラ設置の様子
モーターで動かすための配線が見える

動くカメラ (1)

先日のUNKNOWN HOLLYWOOD第6回のトーク内で「動くカメラ」についてお話をしましたが、そのいくつかについて、実際の撮影の様子を紹介します。

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

トラッキングショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=d1H699088FI]


このトラッキングショットの撮影の様子
天井から吊るされたドリーに乗っているのは
監督のウィリアム・ウェルマン
カメラがドリーの前方に固定されている
照明の設置に注目

『第七天国』 Seventh Heaven (1927) フランク・ボゼージ監督

トラッキング+エレベーターショット


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=PdCuX85yEMk]

撮影の様子
2階でポケットに右手を入れて上を見上げているのが
フランク・ボセージ監督


まだ起きていない犯罪

「スナイパー(1952)」
  「スナイパー(1952)」の主人公エディーについては、直接モデルとなった連続殺人犯はいないようだ。しかし、この映画が製作されるときに、製作や監督の意識にあったであろう殺人事件があった。ハワード・ウンルー(Howard Unruh, 1921 – 2009)が1949年に起こした大量殺人事件である。ニュー・ジャージー州のカムデンという小さな町で、ある朝、彼は町の通りを歩きながら、わずか12分のうちに13人を射殺した。町の人たちをターゲットとしてはいたが、計画的ではなく、ほぼランダムに、手当たり次第にドイツ製ルガーで撃っていった。彼はすぐに逮捕された。
  ウンルーは、結局精神異常と診断される。彼が最後に残した言葉は「弾さえあれば千人だって殺した」だった。

逮捕されたハワード・ウンルー(中央)
警官たちの表情と犯罪者の表情の対比
  このウンルーは、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線に従軍したが、非常に腕の立つスナイパーだったらしい。しかし、すでに彼の異常性はこの時から明らかだった。

彼の日記は、奇怪としか言いようがないー戦争中に射殺したドイツ兵について一人一人、いつ、どこで、どのような状況で撃ったか、そしてその兵士の死んでいくときの顔の表情を、克明に記録しているのだ。
-Bad Blood, An Illustrated Guide to Psycho Cinema, Christian Fuchs, 1996

  この「死んでいくときの顔を表情を記録している」というのが、実に衝撃的だ。撃ったときのリコイルの問題も考えると、どこまで本当にウンルーがスコープを通して見たことなのか、彼の幻想も混じってはいないだろうか、と思ってしまう。
 
  現在のスナイパーのトレーニングでは、しとめる相手の頭部はなるべく狙わず、身体の重心位置、すなわち胸部を狙うらしい。ターゲットとして広くて狙いやすいから、ということのほかに、撃つ相手の表情を見るとスナイパーといえども一瞬ひるむことがあるからだそうである。ウンルーはひるむこともなく、じっと観察していたことになるのだろうか。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KeqoVE5HHwU]
  「スナイパー」では、精神科医のケント(リチャード・カイリー)が自説を披露するシーンがある。エディーのような無差別殺人を起こす犯人は、過去にすでに暴力行為で警察の世話になっているはずだ、最初は殴ったりするような小さな犯罪だったのが、だんだんエスカレートして、最後には歯止めが効かなくなる。その最初の、小さな犯罪の時点で見つけ出して精神病院に収容すべきだ、というものである。この「予防措置」的な考えは、21世紀になってまさに起きていることである。ガンタナモ収容所は、「テロを起こすかもしれない」可能性のある人物を強制的に収容している。その人権を無視した扱いも含めてUNやアメリカ国内のリベラルのみならず、右派からさえも批判のある一方で、「あのおかげでテロが未然に防げているのだ」という意見もある。
  P.K.ディックの小説「少数報告(The Minority Report)」とその映画化作品も、犯罪を起こす人間を未然に逮捕するという設定だが、実際に起こした犯罪ではなく、「これから起こすかもしれない犯罪」に対してアクションがとられるという点において、ケント医師の発言はディックの描いた居心地の悪い未来への入り口とも言えよう。

「スナイパー」-フィルム・ノワールから新しい時代への入り口

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=VaLlsjuZ0AE]
「スナイパー(1952)」UNKNOWN HOLLYWOODオリジナル予告編

  次回の「知られざるハリウッド映画」で上映予定のエドワード・ドミトリク監督「スナイパー(The Sniper, 1952)」は、サンフランシスコを舞台としたフィルム・ノワールの佳作だ。この作品は、調査した限り日本で公開された形跡がみられず、現在でも日本国内でDVD等で見ることができない作品である。

  舞台は第二次世界大戦後のサンフランシスコ。ブルネット(黒髪)の女性を狙った無差別殺人が次々と起こる。犯人はビルの屋上や物陰からスコープ搭載のライフルで狙い撃ちをしているのだ。サンフランシスコ市警は、次々と起こる殺人を前に市民の批判を浴びはじめる・・・。
  エドワード・ドミトリク(1908 – 1999)は「ケイン号の叛乱(The Caine Mutiny, 1954)」、「山(The Mountain, 1956)」といった大作も有名だが、私としては「ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)」や「影を追う男(Cornered, 1945)」などのスタイリッシュなフィルム・ノワールの作品が特に印象深い。「ブロンドの殺人者」はそれまでロマンチック・コメディーやミュージカルの甘い役が多かったディック・パウエルを、ハードボイルドのシンボル、フィリップ・マーロウに仕立て上げるという離れ業をやってのけた演出力が見事だ。「十字砲火(Crossfire, 1947)」は、人種差別問題を扱った、当時としてはセンセーショナルなスリラーとして歴史的にも重要な作品である。ロバート・ライアン演ずるモントゴメリーの正体が少しずつ暴かれていく様子は血も凍る。

  一見順調に見えたドミトリクのキャリアだったが、1940年代後半の赤狩りのさなか、共産党に一時期在籍していたことが非アメリカ的活動を行っていたと糾弾され、「ハリウッド・テン」の一人として投獄されてしまう。1951年4月に「転向」を表明、HUACの公聴会で、他の共産党メンバーの名前を挙げた。転向後、ハリウッド映画界に復帰して最初に監督した作品が「スナイパー」である。「スナイパー」で警部役として登場するアドルフ・マンジュー(1890 – 1963)は赤狩りで最も強硬だった右派の俳優。率先して公聴会で証言し「共産党員は全員ソ連に行け」と言い放ったりとしたのだが、その彼が「元共産党員」のドミトリクの作品に登場しているのもなかなか味わい深い。撮影中は特に大きな衝突もなかったようだ。
  「スナイパー」はその大部分がサンフランシスコでロケーション撮影されている。しかし、1940年代に20世紀フォックスで製作されたセミ・ドキュメンタリー風の「ブーメラン(Boomerang!, 1947)」「出獄(Call Northside 777, 1948)」あるいは「裸の町(The Naked City, 1948)」とも異なる風景の切り取り方をしているように感じる。撮影監督はバーネット・ガフィー(1905 – 1983)。「地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)」「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)」で二度アカデミー賞を受賞しているハリウッドを代表する撮影監督だ。ガフィーの白黒映画における独特のアプローチ -弱いコントラスト、全体にグレーを基調とした画面ー は有名で、この作品でもその美学が遺憾なく発揮されている。フィルム・ノワールというと、ジョン・オルトンやジーン・ネグレスコに代表される陰影の強い照明(キアロスクーロ)とディープ・フォーカスを要素とした映像を思い浮かべがちだが、ガフィーの映像はその対極にある。砂を噛んだような(gritty)灰色に荒された世界。ファム・ファタルの妖艶な輝きや裏切りのナイフのような鋭い影 -まさしくハリウッドによってグラマライズされた世界ー とは無縁の、普通の人間が孤独に日々を過ごす灰色の都会を写し取るこのような映像こそ、その後のハリウッド映画に別次元のリアリズムを与えることになった。「スナイパー」を見ていただければ分かるが、装飾が失われて大衆化していく都会の風景が容赦なく切り取られている。そのスタイルは、1952年と言うよりは60年代を髣髴させる。

  サンフランシスコは坂の多い土地だ。この土地が持つ高低差に加え、連続殺人犯が獲物を狙う高低差、ビルの屋上からの眺望、観覧車の高さ、といった「高/低」に支配された構図が随所に現れてくる。不思議なことに高さからくる開放感よりも、高いものに阻まれたクローストロフォビック(閉所恐怖症)な強迫や、地に足が着いていない不安定な浮遊感を感じてしまう。背景に高い建造物のシルエットを配置する広めの奥行きのある構図とともに、視野をぐっと絞ったタイトな構図もある。広角と長めのレンズを縦横無尽に使いながらサンフランシスコの町が実に多彩な角度から切り取られていく。同じくサンフランシスコを舞台とした「ブリット(Bullitt, 1968)」や「めまい(Vertigo, 1958)」と比較しても面白いだろう。

  主人公を演じるアーサー・フランツ(1920 – 2006)は、特にTVドラマの手堅い性格俳優として重宝された。「ペリー・メイスン」「ローハイド」などに出演している。メアリー・ウィンザー(1919 – 2000)は大きな眠そうな瞳と175cmという大柄な体躯が印象的な女優。フィルム・ノワールにも多く出演している。注目したいのはジェラルド・モー(1914 – 1968)、この作品ではアドルフ・マンジューの部下で少し皮肉屋の刑事を演じている。彼は1930年代から50年代にかけて、実に500以上のラジオ番組に出演しており、多くのリスナーにとって、彼こそフィリップ・マーロウ、ネロ・ウルフ、ホイッスラーといったハードボイルドの「声」だった。「スナイパー」では、その風貌も手伝ってか「ハンフリー・ボガートの真似をしている」といわれることもあるが、どうだろう。彼もその後TVドラマで活躍するが54歳の若さで亡くなってしまう。

アーサー・フランツ
メアリー・ウィンザー

アドルフ・マンジュー
ジェラルド・モー
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=kG83E4GL5yg]
ジェラルド・モー主演の「フィリップ・マーロウの冒険」ラジオ番組  

  「スナイパー」の中でTVが話題になったり、プロットのカギとなったりするシーンがいくつかある。今回字幕を制作するうえで、当時のTV放送の状況を知る必要があって調査したのだが、1952年当時すでにアメリカではTVが大衆文化の一端として浸透しつつあった。なかでもスポーツの放送は非常に人気が高かったが、それは当時のTV放送においては録画放送のハードルが高かったことも一因だ。とはいえ、放送用のビデオテープシステムの開発が進み、テレビドラマが人気を博するようになるまであと数年。この映画は、TVそのもの、そしてTVが象徴するような、都会に生きる人間の新しい孤独の風景を切り取って見せている。この四半世紀後、トラヴィス・ビックルがTVをけり倒す、その入り口が見えている。

第5回「映画がアメリカンサイコを作った」
2015.4.5. Sun. 17:00開場 17:30開演
原宿 千駄ヶ谷 映画24区スタジオ(Webサイト)
短編映画併映
オリジナル日本語字幕付
上映後「映画がアメリカンサイコを作った」トーク
MC:角田亮、Murderous Ink

アレキサンダー・ハミッドの「あてなき彷徨」

  マヤ・デレンの「午後の網目(Meshes of the afternoon, 1943)」を知っている人も多いだろう。共同監督として名が挙がっているアレキサンダー・ハミッドは「マヤ・デレンの夫」としてまず紹介される。しかし、彼自身も、その生涯にわたって新しい映像技術に挑戦し続けた映像作家である。その彼の処女作が「あてなき彷徨(Bezucelná procházka, 1930)」である。この作品はチェコスロバキアの実験映画の始まりと言われている。

 


  プラハの街。路面電車。男。そして路面電車は男を郊外へ連れて行く。わずか8分程度の作品だが、手持ちカメラの映像と鋭い編集が澱むことの無い流れを作っている。当時のフランス、ドイツ、ソ連の映像芸術からの影響も勿論見えるが、構図やシルエットの撮り方は非常に新鮮だ。

  アレキサンダー・ハミッドはIMDBによれば本名アレキサンドル・ジーグフリード・ゲオルグ・シュマエル(Alexander Siegfried Georg Smahel)、オーストリア・ハンガリー帝国のリンツに1907年に生まれた。1930年代にチェコスロバキアの前衛映像運動の旗手として注目され、「あてなき彷徨」のほかにも「プラハの城(Na Prazském hrade, 1931)」を監督・撮影している。これはぜひとも見たい作品の一つだ。この頃はアレキサンドル・ハッケンシュミードという名で活動している。この作品の製作はラディスラフ・コルダ。戦前のチェコ映画界における重要な役割を果たした人で、ヘルミーナ・ティールロヴァーなどの作家を支持し、チェコ人形アニメの基礎を築いたと言われている。

プラハの城(1931)

  靴のブランドで有名なバタ(Bata)の経営者、ヤン・アントニン・バタが、1930年代に映画撮影所バタ・フィルム・スタジオを設立する。そのスタジオは若い映像作家達を呼んで様々な作品を製作させたが、ハミッドはその中心的人物だった。そのスタジオの作品はコマーシャルも多く、その作品のひとつにアレキサンダー・ハミッドと若きエルマール・クロスが監督したタイヤのコマーシャル「ハイウェイは歌う(Silnice zpivá, 1937)」がある。

ハイウェイは歌う(1937)
  さらにナチスのズデーテン地方の分割から存亡の危機に陥ったチェコスロバキア政府が製作した「危機(Krize, 1939)」の共同監督もつとめた。この後、ナチスのチェコ併合とともにハミッドはアメリカへ亡命、マヤ・デレンと出会うのだ。
  実は、UNKNOWN HOLLYWOODの第3回「封印されたプロパガンダ」のトークの際に使用した資料映像のひとつ、「国家の賛歌(Hymn of Nations, 1944)」はアレキサンダー・ハミッドが監督だった。すっかり見落としていた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=_O-7j9kHWrc]

  彼はその後もドキュメンタリーの分野で活躍し続ける。1960年代に「トゥ・ビー・アライブ!(To Be Alive!, 1964)」という同時に3画面に映写する作品を監督、さらに1976年にIMAXフォーマットのドキュメンタリー「トゥ・フライ!(To Fly!, 1976)」の編集も担当している。

  しかし、この映画作家達の有機的なつながりはなんだろう。IMAXからチェコアニメまで。その中心にアレキサンダー・ハミッドはいる。

Alexander Hammid“, MUBI
Modernity and Tradition; Film in Interwar Central Europe“, A film program offered in association with the exhibition Foto: Modernity in Central Europe, 1918 – 1945, at the National Gallery of Art, Washington, 2007
Ladislav Kolda“, fbz.cz
The Birth of IMAX“, Diane Disse

列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。
この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。

厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。
特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。
ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。

【参考】
“Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand”、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号 

オスカー・フィッシンガーの徒歩の旅

UNKNOWN HOLLYWOODの第1回に来ていただいた方は、この短篇フィルムを覚えていらっしゃるだろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJDb-cj1YLA]
これは、ラッキー・ストライクのコマーシャル(1948)だ。実は、これはオスカー・フィッシンガー(Oskar Fischinger, 1900 – 1967)が戦前1930年代にドイツで製作したタバコのコマーシャルの真似だということを知った。ムラッティというブランドのタバコのコマーシャルが1934年と1935年に製作されている。これは実は以前日本でレーザーディスクで発売されていたようだ。

オスカー・フィッシンガーは抽象映像芸術の先駆者であり、その後のヴィジュアル・アーツに大きな影響を与えたと言われている。1920年代から、ヴァルター・ルットマンと交流があり、お互いを刺激する関係にあった。フィッシンガーの仕事で有名なのはフリッツ・ラングの「月世界の女(Frau im Mond, 1929)」の特殊効果である。月面や宇宙空間、そしてロケットなどのヴィジュアルを提供した。その頃、彼自身はスタディーズと呼ばれる、紙に炭で描いたアニメーションを製作している。これらは音楽と同期させて鑑賞することを目的としており、映像史上初のMTVとも言えるかもしれない。


フィッシンガーが1920年代に発明した装置に「ワックス・スライシング・マシーン」がある。これはワックスで作成されたオブジェをスライスしてその断面を1フレームずつ撮影していくものである。これで製作された作品が「ワックス・エクスペリメンツ(Wax Experiments)」と呼ばれている。

彼の作品をもっと知りたいと思うが、なかなか見る機会はなさそうだ。特に彼の作品を管理している、フィッシンガー・トラストが多くの作品を再リリースしていない現状では致し方ない(特に彼が製作したコマーシャルなどは、フィッシンガー自身の遺志によるところも大きいようだ)。そんななかで現在全編見ることが出来て、なおかつ非常に興味深いのが「ミュンヘンからベルリンまで徒歩の旅(Munchen-Berlin Wanderung, 1927)」である。家賃が払えなくなってベルリンに逃避行したときの徒歩の旅程で得られた映像を映画にしたものである。これは見る機会があればぜひ見てみたい。

この抜粋を見て思い出したのが、2002年ごろから数年間、マイクロソフトが研究開発していた「マイライフビッツ(MyLifeBits)」で導入されたセンスカム(SenseCam)である。 マイライフビッツは、自分の人生をすべて記録して保存するシステムを提供しようというプロジェクトで、ゴードン・ベルが自身でそれを実践していたのだが、そのときに首からぶら下げてタイムラプス映像を取り続けるカメラがセンスカムである。これがその例である。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=V0iqj27LKGA]
最近は自撮り棒で自分のビデオを撮るのが流行っているが、以前は外界を撮ることに熱中していた時期があった。このセンスカムとそのアイディアは、実はアルツハイマー病や記憶喪失などの記憶障害の患者のために利用されている。その日一日の行動を記録したものを後で見直すことで、記憶の復帰を刺激することができるとされている。

「ミュンヘンからベルリンまで」を記録した、そのときの記憶の持ち主はもういないのだが、その映像は私達に別の経験を与えてくれる。それはどういうことなのだろうか。私は「他人が撮った映像」「自分が撮った映像」を見るという行為のはじまりについて、もう一度最初から考え直さないといけないようだ。