疲労困憊の3D映画(2)

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50年代とは違うシナリオ

2000年代後半から注目され始めたハリウッドの3D映画のビジネスモデル、あるいは普及のシナリオは1950年代とは違うのだとする意見もあります。Thomas Elsaesser の「The ”Return” of 3D」は、その相違として4点を論じています。

(1)長期的な3D映画の目標は、パーソナルな消費(DVD、ゲーム、スマートフォン etc.)である。

(2)3Dの視覚芸術は(ドルビー・サラウンドなどの)3Dの聴覚芸術を補完する性質のものである。
(3)3Dの視覚芸術は歴史的には2Dに先行していた技術でもあった。
(4)デジタルの3Dは、美学的な見地から「見えない」特殊効果を目指している。

実はこれらは、2000年以降、3D映画が議論される際によく目にする論点です。私はこれらの論点こそ、多くの人が指摘する「3D映画の失速」を物語っているのではないかと思っています。
パーソナルな消費、小さなスクリーンでの3D映画、エンターテーメントの可能性、というのは、実際の3Dディバイスに対する市場の冷ややかな反応を見ると、その可能性は著しく萎んでしまっているとしか言えません。「ニンテンドー3DSは『3Dであるにもかかわらず』売れた」とされ、3Dのスマートフォンはほとんど注目されませんでした。そのような現状は、ディバイス、およびそれに対応したソフトウェアの開発への投資を一挙に鈍らせます。私自身、家庭用の3Dディスプレイに必要な材料の研究開発の現場の状況をわずかながら知っていましたが、結局R&Dや商品戦略を考える上で、「量が出ない」というのは大きなネックとなり、「技術的な差異化」「次世代のディバイス」といった切り口は殆ど意味をもちません。特に3Dディスプレイの場合、仮に商品化したとしても、そこから先に伸びていくマーケットが見えにくいのです。そういう、業界全体の投資が減速し始めると、加速度的に縮小し、おそらく現在では「パーソナルな消費」はほぼ壊滅したといってもいいと思います。

(2)の議論は (1) と整合性がありません。パーソナルな消費が仮に存在したとしても、劇場でのサラウンドシステムを再現するわけではなく、ヘッドフォンを使用したステレオ音響にサラウンド的なエフェクトを施しただけです。また、劇場での鑑賞に絞ったとしても、ドルビーサラウンドが「3D」を構築しているとはとても思えません(著者はなぜかドルビー・ノイズ・リダクションが3Dをもたらしたと言っていますが)。ドルビーのATOMOSは、3D的な音像設計を目指していますが、この普及はこれからです。

1860年頃の3Dステレオグラム

ステレオグラムは、19世紀から絵や写真を立体的に鑑賞するものとして普及し人気がありました。しかし、「先行した」技術であることと、それが継続的なエンターテーメントとして機能するかは別問題です。むしろ、ステレオグラムやそれに類するノヴェルティは立ち消えることなく、ずっと映画やTV、ビデオやネット動画と並行して存在し続けていたことを考えると、なぜそのノヴェルティの位置から抜け出せないでいるかを考える必要があります。


Elsaesserは次のように言います。
3-D を、アトラクション映画ではなく、空間の奥のほうから物を投げたり驚かせたりするものではなく、デジタル画像の柔軟性やスケーラビリティや流動性、その曲面性を、音響と視覚の空間に導入し、物語の統合へむけた新しい映画の最先端と考えてみてはどうだろうか。水平線をなくし、消失点を宙に浮かせ、距離を淀みなく変化させ、カメラを解き放ち、観察者を恍惚とさせる - そうすれば、その美的可能性は、スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話以上のものを語れるようになるだろう。
著者の呆れ果てたスノビズムを度外視しても、本当に3D映画が物語り -Narrative- に新しい地平を開くのかどうか、考える必要があります。正確に言うと、3Dがもたらす新しい物語りが、3D によって失われる物語りよりもはるかに魅力的か、ということです。アナロジーで言うなら、サイレントからトーキーに移行したときに失われた物語りと得られた物語りで、トーキーによって得られたものが「美的可能性」の上においても十分魅力のあるものだったが、それと同じことが3Dにも言えるだろうか、という問いです。
私は、この問いに答えるためには、3D映画はまだ十分に可能性が探られていないと考えます。Elsaesserもあげている「Cave of Forgotten Dreams (2011)」などは、その可能性を探索する一歩だとは思いますが、多くの3D映画は、まだその文法を把握することで精一杯だといわざるを得ない。典型的な例が、マイケル・ベイの「Transformer: The Age of Extinction (2014)」でしょう。彼は非常に短いカットをつなぐことで、彼のファンが好むダイナミズムを生み出していたわけですが、3Dではあまりに短いカットでは観客がショットのパースペクティブに慣れることができない。そのため、この映画では彼は5秒以上のショットを重ねるように心がけていたわけです。すなわち、マイケル・ベイは2Dで「魅力的に」使いこなしていた物語りができなくなったのです。その代わりに得たものはどれくらいだったのでしょうか?

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=2THVvshvq0Q]

ここで、マイケル・ベイを美学的な観点で語るのはおかしいだろうという意見もあるかもしれません。しかし、Elsaesserのいうところの「スーパーヒーローやおもちゃやSFファンタジーに飢えた子供たちくらいしか喜ばない馬鹿げた話」でさえ、語り方を模索しているときに、それ以上の語りを模索することをもって3Dの優位性を位置づけるのは、議論として説得力がないと思うのです。
私が強く感じるのは、「どうしたら3D映画は離陸できるのか」ということの筋道が見える前に、経済のダイナミックスで3D映画が消える、あるいは限られた役割しか与えられなくなるのではないかということです。Immersion -没入ー の側面に強く依存していた3D映画の市場開発のシナリオが、次の一手を打つ前に息切れしてしまっていると見えるのです。

(3)に続く

疲労困憊の3D映画(1)

3D映画の伸び悩み
今年はじめからいくつかの記事で「3D映画が観客に飽きられ始めている」ということが言われています。モルガン・スタンリーの分析では、2011年のピークから3D映画の売上げは下がり続け、それにあわせて3Dの公開本数も減少しています。BFIの調査では、劇場で2Dよりも3Dを選ぶ観客の比率がこの数年で減少しており、3D映画への期待が薄れていることを示しています。
この夏はハリウッドにとって8年振りの低調な興行成績に終わってしまいましたが、その原因として、ワールドカップがあったことや、凡庸な結果に終わった話題作があったことなどの他に、3D映画の伸び悩みがあったことも指摘されています。「家族で映画を見に行って、ポップコーンとコーラを買ったら1日分の給料が飛んでいく」というコメントを読んだことがありますが、2時間ほどの体験として3D映画の特別料金を支払うだけの価値を見出せるか、というところに観客の関心が向き始めているようです。

数年前から3D映画は本当に「体験」「興奮」を提供するのだろうか、ということは疑問視されてきました。2011年のアメリカ心理学会の調査で、400人の学生を対象に「不思議の国のアリス」と「クラッシュ・オブ・タイタンズ」の2D版と3D版を見せてアンケートをとったところ、2Dと3Dに「興奮度」「心に残る体験」としての差はほとんど見られない、という結果がありました。
もともと、3D映画の仕組みが不自然であることは否めません。スクリーン上に映し出された像を、特殊なメガネで観賞することで3次元の幻影を見るのですが、両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なります[1]。この不自然さをもって、「3D映画は永遠に普及しない」とウォルター・マーチは豪語しました。この記事は2011年のRoger Ebertのサイトに掲載され、多くの反響を呼びました。コメント欄には、まだ3D映画に対して好意的なものが多く見受けられます。
David Bordwellはゴダールの新作についての評論の中で、近年の3D映画に共通して見られる問題として2つ挙げています。ひとつは「coulisse effect」と呼ばれる、(体積的な3次元ではなく)複数の平面が重なったように見える効果、もうひとつは映画が進むにつれ3D効果が薄れる「慣れ」の問題です。私もこの問題には覚えがありますし、多くの人が体験したことではないでしょうか?

3Dトイ・シアター(フリッツ・カニック
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=TPqxONS3DEg?start=84]
バロック・オペラの舞台装置の模型
“coulisse”という言葉はこの舞台装置から来ています

多くの観客が「頭痛」や「酔い」を起すことも指摘されています。これは全員におきるわけではなく、一部の人におきるように思われます。しかし、グループでの鑑賞の場合(たとえば家族で見に行く)、一人でも頭痛を起こしやすいとなれば、2Dを選択するようになるのは必至です。ネガティブな効果が繰り返し認められてしまうと、やはり「体験」よりも優先されてしまうのは仕方ないでしょう。

現在のハリウッドのビジネスモデルは、劇場でのチケット売上げよりも、フランチャイズやDVD、ブルーレイといった「副次的な」ビジネスでの利益確保が必須です。3D映画を家庭で観賞することを狙ったハードウェア(3DTV、プロジェクター)やソフトが一気に出ましたが、普及は減速しています。TV放送を3D化することで普及が可能かと思われましたが、BBCは3Dによる放送を棚上げし、ESPNは開発プログラム自体をキャンセルしました。ゲームの分野でも3Dへのシフトが期待されたものの、様々なところで開発が鈍化しているようです。

「アバター」が公開された当初は非常に期待された3D映画ですが、現状を見る限り、1950年代の3Dブームがたどった道を多くの人が思い出しているに違いありません。私は「Immersion(没頭、浸かること)」によって得られる「体験」に過度な期待をかけすぎたのではないか、と思います。ひとつには、そういう体験がどれくらい新鮮でありつづけることができるか、さらには、メガネをかけ続ける不自然さを正当化するだけの体験でありうるのか、ということを考えざるを得ません。もっと根本的な疑問として、2次元の次は3次元、そしてバーチャル・リアリティ、という当然のことのように考えられている「進化」が、技術としては進化しているのかもしれないけれど、エンターテーメントとして「進化」しているのか、ということをひたすら考えてしまいます。
(2)に続く

[1] これは、以下の図で見るとわかりやすいと思います。

(左)実空間で物体(緑色の星)を視るとき、眼のレンズを使って焦点を合わせ、両眼の交差(コンバージェンス/輻輳)で距離を合わせますが、その焦点距離と輻輳の距離は一致します。
(右)3D映画で、物体(緑色の星)が手前に飛び出しているとき、コンバージェンスは飛び出してきている位置に距離を合わせますが、焦点はスクリーン上で結びます(映画の像が写っているのはスクリーン上だから)。この焦点距離と輻輳の距離の不一致が3D映画を見るときの特徴です。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(3)

The Destination Moon (1950)のポスター

3部構成の第3部です。第1部はここ、第2部はここ

アンソニー・マンとジョン・オルトン

アンソニー・マンとジョン・オルトンはイーグル・ライオンで3作(「He Walked By
Night」を入れると4作)、MGMで2作、一緒に仕事をしています。この中で、純粋に「フィルム・ノワール」と呼べるのは、イーグル・ライオン時代の
「T-Men」と「Raw
Deal」だけかもしれません。しかし、他の作品もその表現は、ジョン・オルトン独特のカメラワーク(ディープ・フォーカスを多用した構図、最小限の照明
によって得られるコントラストの強い画面、遠近法を強調する直線の利用、仰角、俯角などのアングル、シルエットの多用など)を、アンソニー・マンが演出の中で器用に使いながら、印象的な作品に仕上がっています。面白いことに、イーグル・ライオンでの給料は、監督のアンソニー・マンが週750ドルだったのに対し、撮影監督のジョン・オルトンはフリーランス契約で週1000ドルだったのです。これには、年齢や経験の差、オルトンの交渉などがあったようですが、
それでも、ジョン・オルトンがイーグル・ライオンにとっていかに重要な存在だったかをうかがわせます。スタジオにとっての彼の存在価値は、その作品のクオリティとともに仕事の迅速さだったことは有名です。すなわち、撮影期間を非常に短くすることができる、最大のファクターだったのです。

アーサー・クリム
しかし、いくら彼らが安上がりの評判の良い作品を作っても、実際の配給となると、イーグル・ライオンはメジャー・スタジオの配給独占に阻まれてしまいます。確かに「Raw
Deal」などは評判もよかったのですが、メジャーの映画館チェーンでの2本立て興行に食い込むことさえ非常に難しく、結局は場末の2番館、3番館での興行が主体とならざるを得ませんでした。そういうところでは、定額レンタル料で興行収入がじわじわと入ってくるだけなので、最初の年に作った赤字がなかなか埋まりません。アーサー・クリムは、鉄道王ヤングの信用で借り入れることのできたバンク・オブ・アメリカからの600万ドルの利子を払うのさえ苦労し、固定費を下げるためにスタジオを実質上閉鎖していたようです。資金繰りの悪さに関する噂は、ハリウッドではすぐに広がります。1949年にはかなり資金繰りは悪化していましたが、それでも「Jackie Robinson Story(1950)」、「The Destination
Moon(1950)」など、話題作を製作、配給していました。パブリシティはいいのに、配給できない。つまり、いいものを安く作っても、売ってくれる店がないのです。アーサー・クリムは、「もはや私にできることはなさそうだ」と1949年にはイーグル・ライオンを去ってしまいます。その後を引き継いだウィリアム・マクミランはヤングの意向で会社を再建しようとしますが、もはや手遅れでした。
作品たちの復活

実は、これらの作品をもう一度救うのは、アーサー・クリムです。1950年初頭、彼はもはや大出血を起こして死亡寸前のユナイテッド・アーティスツの経営を任されます。UAは毎週10万ドルを溝に棄てている状態だったのです。クリムと彼のパートナー、ロバート・ベンジャミン(イーグル・ライオンでも一緒でした)は、UAに乗り込んでいったその日のうちに、20世紀フォックスのスパイロス・スクーラスから資金を調達して、とりあえず「輸血」します。そして、様々な手を打って経営の改善に乗り出しますが、そのうちのひとつが、イーグル・ライオンの後継会社を買収して、そのフィルム・ライブラリをUAの財産と
し、それをマティ・フォックスが経営するTV向け映画配給会社に貸し出すことでした(イーグル・ライオンの買収資金はフォックスが調達したようです)。当時、TV放送は始まったばかりで、まだ十分な量のコンテンツがない。そこに目をつけたのがマティ・フォックスの会社でした。ところがハリウッドのメジャー・スタジオは「TVで映画を流すなど、もってのほか」と受け付けません。UAやイーグル・ライオンなど底辺にいた会社は、配給ができないで困っていたのですから、PRC時代からの映画、加えてランクが持ってきたイギリス映画、合わせて300本ほどのライブラリで少しでも固定収入があれば、財務状況がかなり改善されます。よく50年代のハリウッドの凋落はTVのせいだ、と言われますが、一方でUAなどの映画会社がTVへの配給をもとに復活していった経緯もあるのです。アーサー・クリムはUAのトップとして30年近く君臨し、数々の名作を世に送り出すとともに、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の政権に深くかかわります。

左から2人目がアーサー・クリム、一番右がジョンソン大統領

このようにして、TVに配給されたイーグル・ライオンの映画は、深夜枠などで放送されることが多くなり、さらにVHSの登場と共にアメリカ国内での再評価が始まります。1980年代には、フィルム・ノワール批評の文脈のなかで、ジョン・オルトンのコアなファンたちが映画雑誌などで彼の作品の分析を繰り広げ
るようになります。1984年、テルライド映画祭で「ジョン・オルトンは今どこだ?」と題した回顧上映が行われ、彼の業績についての議論が活発に行われました。一部では死亡説まであったオルトンですが、1992年のドキュメンタリー映画「Visions of
Light」をきっかけに、映画祭などに出演するようになりました。80年代に「オルトンのコアなファンは全米で200人くらい」といわれていましたが、
今は全世界に彼のファンがいます。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(2)

He Walked by Night, 1948

(3部構成の第2部です。第1部はここ。)

イーグル・ライオン・フィルムズのノワール

最初に手がけられた本格的なフィルム・ノワールは「T-Men(1947)」でしょう。アンソニー・マン監督、エドワード・スモール・プロダクション製作、そしてジョン・オルトンが撮影。これは、1945年頃から流行になり始めた「セミ・ドキュメンタリー・スタイル」の作品 [1] で、財務省の覆面捜査官が偽札マフィアたちを追い詰めるストーリーです。政府の捜査がいかに科学的で進歩的であるかをドキュメンタリーのごとくボイス・オーバーが語るような映画ですが、この作品の最大の特徴は、陰惨で冷酷なマフィアの世界を視覚的に表現しているところでしょう。ジョン・オルトンは、この作品で「好きに撮って良い」と
言われ、ストーリーにマッチした構図、照明を手早く判断して仕事をしたといわれています。いくつかのシーンでは、撮影用の照明を全く使用しなかったとか。この作品は試写の段階でかなりの評判をとりました。けれども、配給には苦労し、公開後ゆっくりと2番館、3番館で繰り返し上映されながら3年ほどかけて300万ドルを売り上げました。

その後、イーグル・ライオンは、この手の「粗い手触りの/gritty」ノワール作品を次々製作します。前年にコロラドで起きた刑務所脱獄をテーマにした
「Canon City(1947)」、脱獄囚の復讐を描いた「Raw Deal(1948)」、やはり実際に起きた連続強盗事件を題材にした「He
Walked By
Night(1948)」などです。これらの作品には、ジョン・オルトンが撮影監督として起用され、まさしくイーグル・ライオンのこの一連の作品は、彼の仕事そのものでした。
Vera Caspary
「ローラ殺人事件」の原作者
イーグル・ライオンに脚本家として雇われていた
しかし、なぜこの時期にイーグル・ライオンはそのようなタイプの映画を製作するようになったのでしょうか?最大の理由は、少ない予算で「A級映画のようなルック」が作れるからです。犯罪者達の世界は、最低限のセットのほうがむしろ現実味があるし、夜のロケ撮影で底辺の世界を描くことができます。それをほとんど時間もかけずにどんどん撮影してくれる監督とカメラマンがいる。俳優達だってむしろ無名のほうが真実味もあるし、自分の役柄がどうのこうのと文句もつけない。製作側としてはかなりやりやすいジャンルです。

もうひとつの理由は、イーグル・ライオン・フィルムズの実質的な製作担当だった、ブライアン・フォイにあるでしょう。彼は、もともとボードビルの出身でしたが、1930年代にハリウッドの映画製作に深くかかわるようになりました。その中で彼が作った「友達」たちが非常に「カラフルな」人たちだったのです。
ジェイク・「散髪屋」・ファクター。シカゴ・マフィアの一員で、ヨーロッパで散々詐欺で儲けた後、最後はラス・べガスの有名な「スターダスト」のオーナーでした。ハリウッドのメイクアップ文化の創始者、マックス・ファクターの義弟です。フランク・「俺が掟だ」・ヘイグ。ニュー・ジャージーのジャージー・シティの市長で、腐敗政治家の代名詞。彼の机には来客側に引き出しがあり、訪れた客はそこに賄賂を入れるようになっていたそうです。エド・ケリー。マフィア
にまみれたシカゴ市長。こういう交友関係の中でも最も有名だったのが、ジョン・「ハンサム・ジョニー」・ロッセーリ、シカゴ・マフィアのハリウッド駐在代表でした。ロッセーリは1920年代末にハリウッドに現れ、組合(IATSE)を抱き込んで、MGMからコロンビアまで、すべてのスタジオを強請っていました。あだ名の通りハンサムな上に、非常に上品で礼儀正しい男だったので、妻だった女優のジューン・ラングは結婚した後もマフィアだと知らなかったと言われています。中でも、コロンビア社長のハリー・コーンとは「兄弟」とまで囁かれるほど仲が良かったのですが、恐喝でロッセーリが逮捕されたときに、コーンは裁判で口を滑らしてしまい、ロッセーリは刑務所に行くことになってしまいます。1945年に、ハリー・トルーマンが大統領選挙の票と引き換えにシカゴ・
マフィアと取引し、その恩恵を受けて10年の懲役を3年で出てきます。出所したロッセーリは、すぐにコーンのところへ。「誰のおかげで刑務所に行かないですんだと思っているんだ」と怒鳴られて、あのハリー・コーンがうろたえて許しを請うたそうです。そんなこともあって、ロッセーリは、コーンの口利きで旧友ブライアン・フォイのいる、イーグル・ライオン・フィルムズにプロデューサーとして参加します。そして、「T-Men」、「Canon
City」、「He Walked By
Night」に製作の立場で関わっているといわれています(クレジットはされていません)。その後、ロッセーリは、ラス・べガス開発、カストロ暗殺計画などに関わっていきます。しかし、1970年代になって、寝返って政府側の参考証人として発言したあと、フロリダの海でドラム缶に詰められた死体となって発見されます。[2]

ジョン・ロッセーリ

そういう筋金入りのマフィアが、製作の立場で関わっていたことが、どのくらい映画の表現に影響したでしょうか。「T-Men」で危険な殺し屋の役をしたチャールズ・マックグローは、この映画の撮影の頃から普段でもマフィアのようなしゃべり方になり、自分の娘に嫌われてしまいます。「He Walked
By
Night」ではロスアンジェルス警察の現職刑事、マーティ・ウィンがアドバイザーとして参加しており、犯罪者側と警察側それぞれにアドバイザーがいたのかもしれないと思うと、奇妙な製作現場を想像してしまいます。少なくとも、腐敗した権力者たちを仲間に持つブライアン・フォイが重役として製作にかかわっ
ていたスタジオですから、その趣向が作品に反映されたとしても不思議ではないでしょう。

ちなみに「He Walked By
Night」に出演していた俳優のジャック・ウェッブは、アドバイザーのマーティ・ウィン刑事と親しくなり、ロスアンジェルス警察に出入りするようになります。そこから警察の日々の様子を描くTV番組「Dragnet」のアイディアを得たのです。「Dragnet」はその後の警察ドラマの原型となり、「Law And Order」や「CSI」といった現在のドラマにもその影響をはっきりと見ることができます。

第3部に続く)

[1] セミ・ドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールは、20世紀フォックス製作、ヘンリー・ハサウェイ監督の「Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)」が最初といわれています。 製作のルイ・ド・ロシュモンは、1930年代からニュース映画(March Of Time)を製作してきていました。スター俳優のいない「Gメン対間諜」はほぼ同時期に公開されたスター俳優の出演している映画よりも興行成績がはるかに良く、当時の製作陣にショックを与えたようです。1940年代後半のフィルム・ノワールに見られる、ドキュメンタリー・スタイルの映像、ロケーション撮影への傾倒は、イタリア・ネオリアリスモの影響よりも、このフォックスの一連の作品が得た高い人気に起因しているところが大きいようです。

[2] このあたりのマフィアとハリウッドの関係については
Tim Adler, “Hollywood and the Mob: Movies, Mafia, Sex and Death”, Bloomsbury Publishing, LLC, 2008
に詳しいです。

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる(1)

J・アーサー・ランク製作「黒水仙(1947)」のオープニング

戦争が終わり、兵士達が帰ってくる


1946年、イギリスの実業家で映画製作者、J・アーサー・ランクと、アメリカの鉄道王、ロバート・R・ヤングが、手を組んで事業に乗り出します。彼らはイーグル・ライオン・フィルムズという映画会社を設立します。そのトップに弁護士のアーサー・クリムをすえ、ワーナー・ブラザーズからブライアン・フォイをプロデューサーとして迎えました。この会社は、映画の未来を見すえようとしていました。しかし、あやふやな基盤と少し早すぎたヴィジョン、何よりも市場の動きを見誤って、4年目には消滅していました。

戦時中、この二人の実業家は、戦争が終わった後のことを考えていました。イギリスのランクは、戦争が終われば、兵士達が帰国し、さらに映画産業が拡大すると予想していました[1]。彼はその機会を逃さず、特に同じ英語圏であるアメリカでの市場を獲得するために、アメリカの映画会社と交渉を重ねます。彼が製作したイギリス映画をアメリカ国内で配給するためです [2]。しかし、MGMやパラマウントといったメジャーには相手にされず、独立系のユナイテッドと交渉を繰り返したものの、メアリー・ピックフォードやチャールズ・チャップリンとのやり取りはひどいありさまでした。結局、彼はさらにその下のランクの映画会社、Poverty Rowと呼ばれるB級映画会社をパートナーとして探すしかなかったのです。

一方でヤングは、戦争が終われば旅行産業がブームになるだろうと考えていました。戦時中はアメリカ国内での旅行が制限されていたため、観光産業は縮小していたのです。戦後の旅行ブームのときにぼやぼやしていると、市場を航空産業に取られてしまう。そう考えた彼は、長距離鉄道事業への投資を始めます。その事業展開のひとつに、長い旅行の間のアトラクションとして映画上映を考えていたようです。そして映画プリントを扱う会社 ーパテ現像所ー を買収します。ところが、取引先のある映画スタジオが現像代を払えなくなり、そのままスタジオごとヤングが買い上げることになります。他のPoverty Rowの会社からさえ「腐ったゴミ」と呼ばれたPoverty Rowの最下層、PRCです [3]。

ランクとヤングは、英国産映画をアメリカ国内で配給する会社としてイーグル・ライオン・フィルムズを興します。一方でPRCの設備を使って映画製作をすることにも乗り出したのです。

PRC製作「The Black Raven (1943)」のオープニング

典型的なPRC作品「ナボンガ(Nabonga, 1943)」
メジャーの独占はいつ終わるのか

イーグル・ライオンのトップに就任したアーサー・クリムは、もともとは映画スタジオをクライアントに持つ有名な弁護士事務所のパートナーでした。彼は当時のハリウッドが独占禁止法に抵触したビジネスをしていることを、長い経験から知っていました。また、ハリウッドの金の流れにも通じており、ビジネスの側面については裏まで知り尽くしていた男です。独占禁止法違反として、1940年にメジャー5社に対して出された判決は、他の中小のスタジオが公平な配給を受けられるようになる道筋となるはずでした。しかし、メジャーはのらりくらりとして、判決に従いません。1945年に更なる独占禁止法違反でハリウッド映画会社8社が訴えられます。クリムはまさにこのタイミングで映画スタジオと配給の会社を任されるのです。彼は、国の判決でメジャー8社が映画館チェーンを切り離さざるを得なくなれば、独立系の製作会社にも有利な配給ができるようになると思っていました。

1946年から製作に着手したイーグル・ライオンでは、ヤングが準備した1200万ドルを元手に6作品を手がけます。そのどれも100万ドル以上の製作費をかけて、メジャーの配給チェーン、すなわち封切りの一番館に配給できるように狙っていました。映画のクオリティを引き上げれば、必ずチャンスはあると考えていたのです。

イーグル・ライオン・フィルムズ製作「虚しき勝利(1948)」のオープニング

うまくいかないビジネス

イーグル・ライオンが当てにしていた目論見は外れるばかりでした。戦後、アメリカ国内での映画の興行成績は無残な状態に陥ったのです。兵士達は帰還しました。しかし、彼らは家庭を持ち、子供が産まれ、夜に映画を行くよりも、家でラジオを聴くようになっていたのです。また、GIビルという制度で、多くの帰還兵は大学に入学、出費を抑えるためにも、映画館から足は遠のいてしまったのです。

映画の配給も、メジャー各社は心を入れ替えようとはしません。実質的なブロック・ブッキングは続き、「クオリティが低い」とPoverty Rowの作品は買い叩かれるか、2番館、3番館でしか興行できない状態が続きます。おまけにメジャー各社がBユニットで2本立て興行の添え物も製作する体制が出来上がり、ハリウッド全体が完全な供給過剰に陥っていたのです。1946-47年のシーズンは、イーグル・ライオンは大幅な赤字に転落、戦略の転換を余儀なくされます。自社での製作はやめ、独立プロデューサーに資金の一部を調達、その配給権を得るというビジネスにするのです。このシステムで、ブライアン・フォイ、エドワード・スモール、ウォルター・ワンガーといった、メジャーから独立したプロデューサーたちがイーグル・ライオンで映画製作をすることになります。そして、大幅に削減された予算のもとで、一連のフィルム・ノワールの作品が誕生します。

第2部につづく)

<注>
[1]J・アーサー・ランクは1944年にイーグル・ライオン配給会社を設立し、世界中に配給網を拡大することに乗り出します。そして、戦時中にもかかわらず、デンマーク、 オランダ、フィンランド、スェーデン、チェコスロバキア、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア、シリア、パレスチナ、アビッシニア、インド、シンガポールなどに支社を設立しました。(Geoffry Macnab, “J. Arthur Rank and the British Film Industry”, p.80 [1993] )


[2] J・アーサー・ランクが製作した主要作品リスト
老兵は死なず(The Life and Death of Colonel Blimp, 1943)
ヘンリー五世(Henry V, 1944)
天国への階段(The Matter of Life and Death, 1945)
黒水仙(Black Narcissus, 1947)
赤い靴(The Red Shoes, 1948)

[3] PRCが製作した主要作品リスト
The Devil Bat, 1940
コレヒドール(Cooregidor, 1943)
Nabonga, 1943
まわり道(Detour, 1945)

カメラが多すぎる

イントゥ・ザ・ストーム(Into the Strom, 2014)」を観たのだが、何かがしっくりこない。いや、別に期待していたわけではない。これはアメリカ国内では頻繁に起きるトルネードを題材にした、パニック映画だ。それ以上の期待はしていなかった。むしろ、そこそこのプログラム・ピクチャー、アクションとイメージが売り物のハリウッド製品、90分で楽しんだら、次の週には題名も覚えているか怪しいような、それで構わない映画を期待していた。しかし、もう一週間以上経とうかと言うのに、題名どころか色んなものが引っかかったまま、残ってしまった。「ファウンド・フッテージ」ものとして始まったはずなのに、途中でカメラのPOVに統一性がなくなって、サウンドトラックもNon-Diegeticになるような破綻が見られるから、そのいい加減さに呆れたのか?そういう部分もあるが、それよりももっと痛々しい感じがしたのだ。人物造形があまりに単純で薄っぺらいからだろうか?この映画並みか、それ以下の人物造形の映画はざらにある。ご都合主義の脚本も、科学的に怪しいあれもこれも、そんなのは承知のうえだった。この映画が、そういう問題を抱えることになった、もっと奥底の理由があるような気がする。
この映画の撮影自体は2012年に完了している。映画の企画自体はもう少し前からあっただろう。この映画の企画が進められる背景には、2012年以前に「ストーム・チェーサー」というリアリティTV番組がそこそこ人気があった事が大きく影響しているはずだ(日本では「追跡!竜巻突入チーム」という題名で放映されていたらしい)。これは、実際にアメリカの各地で発生するトルネードの映像を撮ろうとする「命知らずの追っかけ屋(ストーム・チェーサー)」に密着して、「科学調査」の名の下に行われる、彼らの勇敢/無謀な行動をTV番組に仕立てたものだ。映画に出てくるトルネード撮影用特殊装甲車「タイタス」も、この番組内で登場する装甲車がモデルになっているのは一目瞭然である。だが、この番組も人気が下降して、2012年に終了してしまう。「イントゥ・ザ・ストーム」の撮影が進んでいる頃だ。
SRV Dominator
ディスカバリーチャンネルの「Storm Chaser」にも登場した装甲車
Wikipediaより)
翌年の2013年5月には超弩級(EF5という)のトルネードが二つもオクラホマを襲った。そのうちのひとつ、エル・リノの街を襲ったトルネードは、史上最大のサイズとされ、小学校を跡形もなく吹き飛ばし、10トンもあるガスタンクを900mも吹き上げて小学校に叩きつけた。ムーアの町を襲ったトルネードは24人もの犠牲者を出している。こういった実被害が「イントゥ・ザ・ストーム」製作側にどういう影響を与えたかは分からない。しかし、そもそもトルネードのパニック映画を製作する時点で、そういったことは予想していたはずだ。撮影前の2011年に158人もの犠牲者を出したミズーリのトルネードもあるし、そんなことを言ったら、トルネードの被害は毎年ある。トルネード被害者に対して無神経にならないような最低限の工夫は、脚本や演出の上でももちろん施されていた。しかし、このエル・リノのトルネードでティム・サマラスをはじめとする3人のストーム・チェーサーが事故死したことは、製作者側をことさらに敏感にしたかもしれない。ティム・サマラスは「ストーム・チェーサーというよりは気象研究者」という評価が高かっただけに、「イントゥ・ザ・ストーム」の中でのキャラクター達の扱いは再検討されたとしてもおかしくない。
このオクラホマのトルネードの際に一般人が撮影したビデオがいくつかYouTubeにあるのだが、この動画を以前見た記憶があって、「イントゥ・ザ・ストーム」を見た後にふと思い出した。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Q7X3fyId2U0]
これが印象に残ったのは、今思うとその映像もさることながら「”Loaded Gun” Warning」という言葉だったかもしれない。『弾が込められた銃』警報。気象状況を武器に見立て、いつ殺戮を起してもおかしくないことを、このように表現したのだ。たった3つの単語だが、トルネードが襲う土地が染み付いた言葉だ。オクラホマという、南部の州、銃所持を支持する層が多く、銃規制もゆるい。そして、それが言葉に滲み出して、気象現象に南部のアクセントが聞こえる。
さらにこの映像では、パニックを起した女性が登場する。私がなぜか忘れられないのは、彼女が手にしているコーラのボトルとタバコだった。
あるいは「Ugly」と言う言葉。トルネードを表す形容詞として、「Ugly」が幾度も発せられる。ひとは、突然の危険や事故に遭遇すると、同じ言葉を幾度も幾度も繰り返すことがある。まるで念仏か祈りの言葉のように繰り返す。その言葉を発することで浄化しているかのように。
トルネードが道の向こうでゆっくりと町を破壊している、その強烈な映像よりも、そんな些細なことのほうが引っかかって残ってしまった。このYouTubeのページで右の「おすすめ」を見ればわかるようにトルネードの強烈な映像はもっと他にもたくさんある。多くの人が手にカメラを、スマートフォンを持って、自分の住んでいる場所の向こうを通り過ぎる「弾が込められた銃」を撮影している。
カメラが多すぎるのだ。
何も誰かが手に持っているカメラだけではない。むしろ、全世界で最も大量の映像を撮影しながら、その大部分は人間に見られることなく削除されているカメラの一群がある。セキュリティ・カメラ、CCTVだ。
このオクラホマのトルネードでも、小学校のCCTVに撮影された映像が残されていて、YouTubeで閲覧することができる。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=bJPGuMfnty4]
トルネードを撮影するために設置されたわけではない。だから、クリーンな映像ではないし、アングルも光量も「トルネードの破壊力を見る」にはベストではない。けれども私達はその前提を理解しているがゆえに、そのすさまじさを思考の中で増幅してしまう。
実は「イントゥ・ザ・ストーム」は、映像を取り巻くこういった環境について非常に意識的だ。卒業式で、ほぼ全ての卒業生達がスマートフォンで校長のスピーチを撮影している。センセーショナルな動画を撮影して、YouTubeでのヒット数を稼ぐことだけに人生を費やしている二人組の男。高校にトルネードが押し寄せるときには、CCTVの映像が挿入され、主人公の兄弟は、タイム・カプセルに入れるためのビデオを撮影している。この兄弟やストーム・チェーサーのビデオが折り重なるようにして、ストーリーが展開するのだが、どこか優柔不断なままつなげられていく。手持ちカメラはいつもほぼ完璧なフレーミングだ。素人のカメラワークのような、撮影者の靴が何分も写っていたり、天井が写されたまま会話が進行したり、指が画面の半分を覆ったままトルネードが写っていたりするようなことはない。本人達がカメラの存在を忘れてしまっているであろう場面でも、カメラはちゃんとフレーム内にアクションを捉えている。CCTVもトルネードの破壊力を見せ付けるべく特等席に設置されている。迫り来るトルネードを撮影したビデオでも、会話はちゃんと聞こえ、マイクを襲う強風のノイズは聞こえない。登場人物たちも「逃げろ!」と叫ぶ。「下がれ、下がれ、下がれ、下がれ・・・・下がれ、下がれ、下がれ、下がれ!」ではない。トルネードを撮影するためにTV局はヘリコプターを飛ばし、「警報が発令されました」と報道するが、「弾が込められた銃警報」とは言わない。
そうするしかなかったのだろう。靴が映ったまま3分も会話が流れるような映像にするわけにもいかないし、「撮影範囲の廊下の角を曲がったところが吹き飛ばされたので、特に何も写っていないCCTV」設定にはできない。ハリウッドの映画に求められているのは、そんなことではなくて「プロフェッショナルな」エンターテーメントだ。カメラは特等席でなければならない。あるいはハリウッドはそういうものを観客は求めていると思っている。しかし、この氾濫するカメラとそれがとらえ続けている映像について意識すればするほど、プロフェッショナルであること、特等席のカメラは弱点になっていってしまう。結局、見所をつくるとすれば、飛行機が巻き上げられるとか、炎の竜巻とか、あるいは「オズの魔法使(Wizard of Oz, 1939)」みたいにトルネードに巻き上げられて「別世界」を見てくるとか、そんなところになってしまう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WhQySxqSANU]

この映画はアメリカではすこぶる評判が悪い(Rotten TomatoのTomatometerは21%)。理解できる。彼らにとっては、トルネードの驚異/脅威はわざわざVFXで見直さないといけないものではない。ましてリアリティTVやYouTubeに氾濫する映像の「不完全さ」が、それを真似しきれないハリウッド映画をあざ笑っているように思える。

フィルムに写った空は曇っていた

(UNKNOWN HOLLYWOOD第2回、「南海映画の系譜」プログラムから)

透明で無形な媒介

アメリカの美術史家、ジョナサン・クレーリーは、19世紀にフォトグラフ(写真)が社会に認知されていく経緯を「(カメラが)観察者と世界の間の透明で無形な媒介として偽装した」と記述しています(「観察者の技術(Techniques of the Observer, 1988)」)。しかし、フォトグラフが「透明で無形な媒介」に偽装したと言うのは、進化したフォトグラフに飼いならされた私達の感覚のせいで「昔からそうだったに違いない」と思っている部分が多分にあります。初期のフォトグラフが白黒写真だった時点で、「透明で無形な媒介」であるわけがなく、後から後から「偽装」させるために様々なトリックを導入してきたに過ぎません。デジタルや3Dも含めた進化は、人間が「透明で無形な媒介」を欲しがっている今も続く長い歴史です。そして、観察者の不信をぬぐうべくヴァーチャル・リアリティやホログラフィまで進んできています。
そういうふうに進化してしまった「偽装」を享受してしまっている私達が、20世紀前半の白黒のフォトグラフ/シネマにおける「偽装」について考えるというのは、実は非常に困難なことかもしれません。
たとえば、白黒映画における「ブロンド」というのは、どういうことなのでしょうか。「生きるべきか死ぬべきか(1942)」のキャロル・ロンバードを見て、ブロンドだと分かる(あるいは感じる)のはなぜなのでしょうか。彼女の髪としてフィルムに映っているのは、グレースケール上の薄い色です。ブロンドの髪と呼ばれるバリエーションの色ではありません。でも、なぜか我々はブロンドだと思っているのです。我々は、あるいは当時の人々は、白黒のイメージを頭の中でカラーに変換している(していた)のでしょうか?
サイレント期に最も人気のあった女優の一人、メアリー・ピックフォードについてこんな話があります。彼女の(白黒)映画を観ていたファンの中には、彼女は「ブロンドで青い眼」と思っている人も大勢いました。彼女の髪はダーティー・ブロンドという、茶色に近い色です。しかし、彼女の出演作品では金髪の少女の役柄が多いため、撮影のときに髪の毛の向こうから強いライトを当てて白く飛ばしてしまって、「ブロンド」の錯覚を起させる手法をとっていたのでした。1920年代に入ってからは明るいブロンドに染めていたようです。一方で眼の色は「ヘーゼル(栗色)」だと彼女自身もインタビューで答えています。状況をややこしくしたのは、彼女が出演した2-ストリップ・テクニカラーの映画「ダグラスの海賊(1926)」です。彼女が現役時代に唯一出演したカラー映画ですが、この映画で彼女の眼は緑色に見えるのです。そして今でも「2-ストリップ・テクニカラーは色が正確に反映されないから、青い眼が緑色にシフトした」と言われるのです。彼女が1976年にオスカーを特別受賞した際の映像では、彼女の眼は濃いヘーゼルに見えます。さあ、彼女の眼の色は何色だったのでしょうか。
パンクロマティック・フィルムと南海映画
初期の(白黒)写真感光層は、可視光のスペクトルの中で、青い側には反応しやすいのですが、赤いほうは感度が悪いという欠点がありました。このようなフィルムを「オルトクロマティック(Orthochromatic)」と呼びます。このフィルムで撮影すると、青い眼は白く飛んでしまい、赤い唇は黒く写ってしまい、空は白く写って雲と見分けがつきません。不思議なことにカラーをグレースケールに変換するという経験が大してあるわけではないのに、この特性を人々は異様ととらえました。初期の映画はこのフィルムの特性に苦労しています。クローズアップが映画で重要な役割を果たすようになると、スクリーンに映った顔が異様でないように見せるメークアップが必要となります。ブロンドの髪は暗く映ってしまうので、強力なバックライトで白く飛ばすしかありません。一方で黒い髪を美しく表現する為に、ヘンナで褐色に染める場合もあったようです。そういったメークアップや染色を考案したのがマックス・ファクターでした。役者達の顔はメークアップで調整できますが、空だけは調整できません。いつまでも空は曇った(Overcast)ままでした。
1920年代に市場に現れたパンクロマティック(panchromatic)フィルムは、赤い側の可視光に対して感度を向上させたものです。空の雲がはっきり写るフィルムですが、高価だったこともあり、なかなかハリウッドの中では浸透していきませんでした。
このパンクロマティック・フィルムの普及に重要な役割を果たしたのが、「南海映画」、南太平洋を舞台とした映画です。ロバート・フラーハティーが南太平洋サモアで監督した「モアナ(1925)」は全編パンクロマティック・フィルムで撮影された作品です。この作品で主役となるのは、サモアの人々であり、その背景の青い空に浮かぶ雲です。水平線の向こうに浮かぶ雲がここまでヴィヴィッドに映し出された作品はそれまでほとんどなかったのです。「モアナ」のビジュアルは当時話題となり、南海映画はどれもパンクロマティック・フィルムを使うようになりました。「Aloma of the South Seas(1926)」はやはり南太平洋を舞台とした娯楽作品ですが、1920年代の歴代興行成績4位という人気を得ます。この作品も(プエルトリコやバミューダでロケしていましたが)水平線の向こうの美しい雲を映し出していたと言われます(プリントは現存しません)。それらの中でも、最も美しい映像として評価されたのが、「White Shadows in the South Seas (南海の白い影)」です。この映画は第2回アカデミー賞撮影賞を受賞しました(撮影監督:Clyde De Vinna)。
肌の色、髪の色
ロバート・フラーハティーの妻、フランシスによると「初期の段階でオルトクロマティック・フィルムを試したが、現地の人の肌がニグロのように真っ黒になってしまい不快であった。パンクロマティック・フィルムによって彼らの薄い褐色の肌を美しく見せることに成功した」と書いています。フラーハティー夫妻は民俗学的映画の専門家と当時見られていたのですが、この人種観は非常に示唆的です。「南海の白い影」撮影時に、W・S・ヴァン・ダイク監督が危惧したことのひとつが、ヒロインのフェイアウェイの役を演じたラケル・トレスの肌の色でした。ヴァン・ダイク監督は、このメキシコードイツ系アメリカ人の肌の色が白すぎるので、日焼けをするように指示を出していたのですが、彼女は言うことを聞きませんでした。現地で彼女の肌を暗くメークアップしてタヒチの島民と肌の色が大きく食い違わないようにごまかす必要があったのです。このパンクロマティック・フィルムによって生まれた「褐色の肌」への執着の一方で、肌の色が薄い「黒人」は敬遠され、30年代のハリウッド映画では肌の黒い「黒人」のみが描かれています。肌の色による「分類/区別/差別」が存在しながら、肌は褐色でも白人の顔立ちをしたヒロインへの憧憬がドライブになる、という倒錯した人種/性の観点が、南海映画と言う混濁したファンタジーの基盤でもあるのです。
パンクロマティック・フィルムは主にロケーション撮影で威力を発揮しましたが、そのうち、マックス・ファクターがパンクロマティック用のメークアップを開発して売り出したあたりからスタジオでも使われるようになります。トーキーの導入と共に、パンクロマティック・フィルム、白熱電球の組み合わせが標準となり1930年代のハリウッド黄金期を迎えるのです。「ブロンド女優」への執着もこの頃から始まり、ブロンドを売りにした若い女優がハリウッドに集まってきます。さらには髪を脱色したメイ・ウエストやジーン・ハーローがプラチナ・ブロンドと呼ばれて一世を風靡します。このようなブロンドの「分類/区別/差別」にもパンクロマティック・フィルムが大きく貢献しているのです。
今、私達が見ている最新のハリウッド映画で、ブロンドの女性が出てきたとき、褐色の肌の色の俳優が出てきたとき、その色はどうやって出てきたのでしょうか?カメラのCMOSセンサーが決めたのでしょうか?後にカラー補正の担当が決めたのでしょうか?なぜその色になったのでしょうか?それは、あなたの眼が見た「本当の」色でしょうか?

彼らの名前はもうわからないが、それはそれでかまわない

フィルム・ノワールに関する評論や映画史に関しての記述や書籍を読むと、そのビジュアルの分析においてオーソン・ウェルズの「市民ケーン(1941)」の影響はほぼ必ず言及されます。そして、「市民ケーン」の撮影監督であったグレッグ・トーランドの高い技術力と芸術性が重要な要素であることも同時に語られます。さらにその技術についての記述でフィルムの感度向上とレンズの高スピード化などが、大抵3行ほど述べられます。たとえば、

映画のヴィジュアルに影響を与えた別の要因は、1930年代後半のカメラと照明の技術開発であった。より感度の高いフィルム、(光の透過率を非常に向上させた)コート・レンズ、そしてより強力な照明である。

– ‘Film Noir, Introduction’, Michael Walker, in “The Book of Film Noir”, edited by Ian Cameron, The Continuum Publishing Company, 1992

撮影監督グレッグ・トーランドが(中略)使用してきた高感度フィルム、広角レンズ、ディープ・フォーカス、天井が映り込むセットなどをすべてこの一作に注ぎ込む「大規模な実験の機会」であり、同時代ハリウッドの規範への侵犯ととらえていたことは、1941年にトーランド自身が書いた記事の題名「いかに私は『市民ケーン』でルールを破ったか」にも現れている。

吉田広明「B級ノワール論」p.49、注20

他にも、フィルム・ノワールに関する本にはこれくらいの記述が必ず出てくるでしょう。そしてこの数行をやりすごすと、そこから大々的に「フィルム・ノワール」について分析が繰り広げられるわけです。しかし、この「高感度フィルム」や新しい「レンズ」「強力な照明」とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ひとつ前提として考えておかなければいけないのは、撮影監督の役割です。彼らは、カメラで映像を撮影する際に、監督が要求している映像が間違いなく記録されるかどうかを、まず技術的に保証する役割を担っています。そのために、照明やフォーカス、発色など撮影の光学的な側面については絶対的な責任を負わされています。特にフィルム撮影の時代においては、現像してラッシュ(編集前のプリント)が見られるまでに時間がかかりますし、コストもかかります。ラッシュの段階で「露出が足りなかった」「色が間違っていた」という光学的なミスがあれば、それは撮影監督の責任です。必然的に撮影監督はより安全なほう、リスクの少ないほうにシフトするとしてもやむを得ません。それでも多くの優秀な撮影監督は、大胆な照明やアングル、移動撮影を可能にしてきたわけです。ただ、1930年代においては技術的な選択肢が少なく、またスタジオシステムの分業制の制約もあり、撮影監督の間では、「濃いネガ(明るい照明)」が好まれ、露出不足を避けたのも事実です。

高感度フィルム

1940年代のハリウッドでは、フィルム・ストックはコダックとデュポンが独占していました。この2社がほぼ同時に1938年に新製品を導入します。コダックは「Plus-X」と「Super-XX」、デュポンは「DuPont II」と呼ばれるネガフィルムです。たとえば、サイレント末期に導入され、1930年代の中心的なネガフィルムだった、コダックの「Super Sensitive Panchromatic」の感度は25 Weston(ASA 32)でした。感度を向上させた「Plus-X」は40 Weston (ASA 50)、「Super-XX」は80 Weston(ASA 100)です。80年代、90年代の最後のフィルム全盛期に使用されていたのが、ASA100、200、400くらいであったことを考えると、まだまだ非常に不利な条件で撮影が行われていたことがわかると思います。しかし、当時この高感度化は画期的であり、1940年には「Plus-X」が標準のネガ・ストックになります。

当時のハリウッドの撮影監督の撮影状況については、1940年7月の「American Cinematographer」誌に掲載されたウィリアム・スタル A.S.C.の記事が良い手がかりになるでしょう。この記事でスタルは各メジャースタジオの撮影監督の撮影条件を調査しています。撮影監督ごとに、照度(Footcandlesという単位ですが10倍すればルクスになります)、フィルム・ストック、f値が記録され、表にまとめられています。データはその年の5月から6月の間のスナップショットであって、決して絶対的なものではありません。そのときのシーン、ロケかスタジオか、映画の種類によって、これらの値は大きく左右されます。しかし、全体的な傾向や、スタジオごとの特徴を知るには非常に参考になります。たとえば、MGMの撮影監督達の照度は一様に高く、非常に明るい画面が求められていることがわかります。それはこの時期のMGMの作品に如実に現れているといえるでしょう。一方、ワーナー・ブラザーズの撮影監督達は二ケタ台の照度を採用しているケースが多く、ジェームズ・ウォン・ハウは、極端なローキーで撮影しています。二十世紀フォックスは「スタジオとしての条件管理システム」があり、それに則ったスタジオ測定値平均が記されています。そして1940年には、撮影監督達は「Plus-X」か「DuPont II」のネガストックを使用していることが分かります。

グレッグ・トーランドは「市民ケーン」で「Super-XX」のネガストックを使用することで、f8、f16といったストップまで絞ることができ、ディープ・フォーカスを達成したと述べています。1940年代に、「Super-XX」の使用がどこまで普及したかははっきりとは分かりませんが、メジャーのスタジオでローキー/ディープフォーカスの画面を達成する際には選択肢として存在していたわけです。

ハイスピード・レンズ

1930年代における光工学の分野での重要な進展のひとつに光学膜の開発があります。反射膜、反射防止膜が開発・商品化されたおかげでミラーやレンズの性能が一気に向上しました。

特に1938年に、ドイツのツァイスとアメリカのカリフォルニア工科大で独立に開発された反射防止膜は、それまでのレンズの欠点を緩和し、写真、映画の表現の幅を広げる重要な役割を果たします。これは、真空蒸着法という方法でフッ化物(MgFなど)の極薄膜(200ナノメートル以下)をレンズ表面に形成することで、レンズと空気の界面で起こる反射を抑制するものです。当時は「Treated Lens」と呼ばれており、上記「American Cinematographer」の記事にもセオドア・スパークール、ウィリアム・オコネルが使用していると述べられています。

反射防止膜の効果を分かりやすく解説している記事が「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌、1940年7月号に掲載されています。挙げられている効果として、「透過率の向上」「コントラストの向上」「分解能の向上」「フレアの低減」などが挙げられています。カメラのレンズは複数のレンズが組み合わさったものです。入射した光の一部がレンズ表面で反射されると別のレンズの表面に到達し、さらにその一部が反射され、と、ピンポンのように光が反射され続けます。そのようにして光がフィルム上に到達するときには、複数回反射した迷光が画面全体に現れてしまい、灰色のバックグラウンドとなってしまいます。ゆえにコントラストが失われ、細い線のなどもバックグラウンドに埋もれてしまい(分解能が失われ)ます。反射防止膜のおかげで、灰色のバックグランドは著しく低減され、コントラストが上昇するとともに、フォーカスも合わせやすくなりました。また、光源がフレーム内に入っているとき、レンズ間の反射が原因で「フレア」という現象が起きます。反射防止膜はこれらのフレアを抑制する効果もあります。

上は反射防止膜なしのレンズ、下は反射防止膜付のレンズで撮影
コントラスト、細い線の再現性に差が現れている
左は反射防止膜付のレンズ、右は反射防止膜なしのレンズによる撮影。
光源からのフレアが左のレンズでは抑制されている
左が反射防止膜なしのレンズ、右が反射防止膜付のレンズによる撮影 照明条件は同一。

フィルム・ノワールの「キアロスクロ(Chiaroscuro)」と呼ばれるコントラストの強い映像には、このハイスピードレンズの果たした役割は大きいと思われます。また、ジョン・オルトンなどの撮影監督が好んで強い光源をフレーム内に配置したりしましたが、フレアを起こしにくいレンズであれば安心して構図が作れたでしょう。

強力な照明

スタジオでの撮影の場合は、照明装置、電源、照明の設置方法について特に困ることはありませんが、ロケーション撮影となると、照明は手軽でかつ十分な光量を一般の電源で確保しなければならなくなります。1930年代に「フォトフラッド(Photoflood)」と呼ばれる電球が導入され、明るい照明を120V電源で確保できるようになります。これはロケーション撮影などでも強力な照明を可能にしたのですが、第二次世界大戦への参入で国内の電球配給は軍事用が最優先となり、ハリウッドでもフォトフラッドを入手するのが困難になります。戦後、供給制限が解かれると一気に撮影現場での使用が増えるのです。

科学、技術そして標準化

上記「American Cinematographer」の記事に、メーター(露出計)使用の広がりについて記述があります。34人の撮影監督のうち、22人は必ず使用しており、5人は使用したことがない、ということでした。調査時にメーターを使用していない撮影監督には、ジェームズ・ウォン・ハウとスタンリー・コルテズがいます。ハウはサイレント初期からカメラを覗き込んでいたベテランですから、メーターよりも膨大な経験に基づいて判断していたのでしょう。しかし、スタジオとしては、あるいは撮影監督協会としては、そのようなベテランの経験知に依存した撮影現場から脱却する必要があり、メーターの使用は重要な要素でした。撮影監督のヴィクター・ミルナーなどがメーターの使用が必須になっていると声を上げているところへ、1938年にGEがメーターの新製品を発表し、業界全体に使用が広まっていきます。ミルナーの意見は非常に示唆的です。「録音技師や現像所も科学の力を借り始めている。だからと言って、彼らの個性が失われたかと言うとそんなことはない・・・科学は彼らの仕事をより簡単で正確なものにしたが、凡庸な仕事になったわけではない。」室内での撮影でも、高感度フィルムを使い始めてからは、全体的に明るくする照明法よりも、キー照明を主体とした機能的な照明に変わってきており、メーターによる確認は重要だと言っています。しかも、A級作品だけでなく、「クィッキー(B級映画)」でも、撮影監督の役割は重大になってきている、と述べ、ビジュアルがハリウッドの製品において占める位置がいかに大きくなってきているかを物語っています。

ここから見えてくるのは、旧態然とした撮影監督の慣わしに対して、科学技術的な仕組みを取り入れて、品質を守りつつ、個性的な仕事をできるようにしようという流れが1930年代の後半に出てきていることです。そしてその科学技術が、まさしく市場に製品と言う形で現れ始めていたということです。

現像においても、科学技術の導入がこの時期に盛んになります。やはり1940年の「Journal of Society of Motion Picture Engineers」誌に、ワーナー・ブラザーズの新しい現像所の記事があります。これは公開用プリントの現像所ではなく、カメラネガと「デイリー(ラッシュ)」のための現像所です。この現像所の設計には、度肝を抜かれます。塵埃制御のために入り口を3ヶ所しか設けない、からはじまって、ありとあらゆる当時の最新技術が導入されているのです。当時、大光量のランプは温度が高すぎてフィルムを変形させてしまう欠点があったのですが、そのために真空冷却装置を導入して大光量ランプを導入したり、現像時の停電に備えて、5秒で起動して電源供給する非常用電源を備えたり、と、本当に工学的に理にかなった設備です。そして化学者を常駐させて、現像液の化学的組成の検査を常時行えるようにしているのです。現像液は繰り返しの使用により、その成分が変化しますが、それまではそういう変化も含めて「現像工程」のクオリティだとされてきていたのを、改善したわけです。現像工程のばらつきを抑えれば、その前の撮影の段階でできることが広がるのです。たとえば、現像工程がばらついていると、プリントで失敗することを懸念して、極端に暗い夜のロケ撮影で、照明をひとつふたつ増やしてしまうかもしれません。しかし、現像工程の品質管理が常時きちんとされていれば、メーターを使いながら、思い切りローキーで撮影することも挑戦できます。ワーナー・ブラザーズのスプレイ氏はこう述べています。

書類に記載されている(現像液の)処方が大事なのではなく、使用中ずっとその濃度を維持することが大事なのです。言い換えれば、あれが何グラム、これが何グラムといったことではなく、標準化の問題なのです。

フィルム・ノワールの代表的な撮影監督、ジョン・オルトンが1949年に出版した「Painting With Light」の現像の項には、次のように記されています。

近代的な現像所には化学者がおり、そして彼らが科学をもたらした。こんにちの写真は科学に基づいている。

1930年代の後半に、新しい技術が導入されるとともに科学的なアプローチが製作に組み込まれていきました。その環境のおかげで、監督、撮影監督、照明、音響技師などが「凡庸な仕事」に絡めとられず、さらに表現の幅を広げることができたのです。1940年代に現れた「フィルム・ノワール」のビジュアルが革新的な試みとして成立したのも、まずハリウッド自体がそのような「試み」を、十分な品質の製品として出荷できる下地を作っていたからに他ならないのです。「夜の人々」は、ニコラス・レイの監督作品だし、「スカーレット・ストリート」はフリッツ・ラングの監督作品だし、「拳銃魔」はジョセフ・H・ルイスの仕事です。私達は、オーソン・ウェルズ、アンソニー・マン、アルフレッド・ヒッチコック、ロバート・シオドマクという名前を振り回しながら、映画を語り、評論し、分析しています。もちろん、それはそれでいいのです。けれども、その仕事を可能にしたまわりの世界があったことを忘れると、歪んだパースペクティブで裏返しの世界を語り始めることになりかねません。まわりの世界には、産業を支えた技術者や科学者たち、品質管理のシステムを作っていた人たちがいました。その中には非常に重要な役割を演じたにもかかわらず、忘れられた人たちも大勢いるでしょう。そういう人たちの名前は、もうわかりません。「忘れられたB級映画監督」の名前は、本当は忘れられず、また再び語ることもできますが、語られない名前もあるのです。そして、それはそれでかまわないのです。語られない名前がある、ということが忘れられなければ。

ペリー・メイスン、サンフランシスコ、エロール・フリン

「ペリー・メイスン:奇妙な花嫁(1935)」のオープニング

久しぶりにこのサイトを再開しようと思います。

ペリー・メイスン:奇妙な花嫁(THE CASE OF THE CURIOUS BRIDE, 1935)」は、ワーナー・ブラザースが1934年から1937年にかけて製作した「ペリー・メイスン」シリーズの2作目です。ウォーレン・ウィリアムが、かの有名な弁護士を演じ、秘書デラをクレア・ドッド、スパッジーをアレン・ジェンキンズが演じています(1作目の「吠える犬」では、アレン・ジェンキンズは刑事だったのですが)。舞台はサンフランシスコ、ペリー・メイスンは中国に遠征にいく途中という設定です(そして、事件に巻き込まれ、結局行けません)。この映画のオープニングを見ていて、あれっと思ったのです。

これはサンフランシスコのフェリー・ビルディングを俯瞰で撮っています。まず、フェリー・ビルディングの前にひしめくケーブルカー。マーケット・ストリートの突き当たりなんですが、現在はこんな感じではないはず。そして、少しカメラがパンすると、オークランド・ベイ・ブリッジが見えるのですが、どう見ても建設中のようなのです。
「ペリー・メイスン:奇妙な花嫁(1935)」オープニング。 右奥に見えるのが建設中のオークランド・ベイ・ブリッジ。
このフェリー・ビルディングは、A.・ペイジ・ブラウンという建築家が「ボザール様式」というスタイルで設計し、1898年にオープンした建物です。1930年代にゴールデン・ゲート・ブリッジとオークランド・ベイ・ブリッジが完成するまで、サンフランシスコ湾を横断するにはフェリーが唯一の手段でした。フェリー・ビルディングは、まさにそのフェリー運航の窓口であり、当時世界でも最大級の運輸量を誇っていました。一方で、坂の多いサンフランシスコではケーブルカーは欠かせない乗り物で、必然的にケーブルカーの路線はフェリー・ビルディングに集中することになりました。乗客の乗降を効率的に行うために、集中した路線はフェリー・ビルディングの前で周回することになったのです。この「ループ・トラック」は20世紀前半のサンフランシスコの成長を象徴する光景だったのです。 

ループ・トラック(1920年代?)
一方で、運輸をフェリーに頼っていてはまずいのでは、とも思われていました。大陸横断鉄道は、対岸のオークランドに着いてしまい、輸送の拠点を対岸に持っていかれて経済的に取り残されてしまうのではないかという危惧が常にあったのです。そこで、橋の建設は幾度も議論され、1930年代についにオークランド・ベイ・ブリッジ(1936年完成)、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(1937年完成)とサンフランシスコの動脈となる2つの橋が完成しました。これによって、フェリーの利用はがた落ちし、フェリー・ビルディングも寂れていきます。1950年代には、かつて「ループ・トラック」があった場所にハイウェイが建設されます(そして1989年の地震を期に取り壊されます)。
ですから、この映画が撮影された1935年には、フェリー・ビルディングの利用は最盛期だったのと同時に、その向こうに建設中のオークランド・ベイ・ブリッジが見えたのです。この写真はまさしく同じころに撮影された建設中のオークランド・ベイ・ブリッジ、オークランド側から撮影されています。
建設中のオークランド・ベイ・ブリッジ(Wikipedia)

これは、ちょっと前に有名になったサンフランシスコ大地震(1906)直前のフィルム。マーケット・ストリートを直進していくケーブルカーから1906年4月15日に撮影されたものです。ずっと先にフェリー・ビルディングの時計塔が見えますね。これは本当にすばらしいフィルムです。まるで、1906年のサンフランシスコにタイム・トリップしたような気分になります。路面電車上の定点にカメラを置いてじっと撮るだけで、こんなにも様々な風景や人に触れることができるなんてすごいことです。いろんなことを想像してしまいます。あのエプロンをかけた若い男は、何を急いでいたんだろう?子供たちは、ああやって自動車の後ろにぶら下がって移動していたんだな。馬車がこんなにも走っていたら、馬の「落し物」でとても臭っていたし、歩くと汚れたんだろうな。新聞を抱えた売り子の少年は、どんな大人になったんだろう?第一次大戦に行ったのだろうか?そして、マーケット・ストリートの終点、フェリー・ビルディング(「1896年建立」の文字が見えますね)で、ターンテーブルで方向を変えるところで終わります。そうです。このときにはまだ「ループ・トラック」ではなかったのです。
気づいた方も多いかもしれませんが、冒頭のオープニングの画像で「Errol Flynn」とありますね。そうです。ロビン・フッドの映画で有名になったエロール・フリンです。オーストラリア生まれの彼は、これが、ハリウッド映画デビューです。

「ペリー・メイスン:奇妙な花嫁(1935)」のエロール・フリン