動くカメラ (7)

カメラを動かすこと自体は映画の黎明期から行われていたのですが、ハリウッドでそれがより自由度を増すのは1920年代の後半になってからです。その最大の理由が「モーター」でした。今まで紹介してきた様々な動くカメラのシーンの撮影においても、大部分がモーターでカメラの駆動しています。
まず前提として、サイレント期においては、カメラは手でクランクして撮影をしていたということ、そして映写も映写技師が手でクランクして映写していた、ということを確認しておかなければいけません。これは手でクランクするのですから、常に速度が一定とは限らない、ということです。ということは、撮影時の物理的な(絶対的な)時間の進み具合に対して、撮影されたフィルムに写っているものは、カメラマンのクランクの具合によって伸び縮みするものだ、ということです。さらに、その写ったネガから起こされたプリントの映写では、映写技師のクランクの具合によって、また伸び縮みする、ということです。よく「サイレント映画の映写スピードは16fps(フレーム/秒)」という記述を見かけますが、これは決して絶対的な規範として当時の業界に流通していたわけではありません。むしろ、この伸び縮みを自由に利用して、例えば、アクションシーンでアンダークランクで(遅く回して)撮影する、ということは日常的に行われていました。映写時にそれを普通にクランクすれば、他のシーンに比べてアクションが加速されて映し出される、という仕組みです。1923年のTSMPE誌に掲載された「撮影時と映写時のスピードを同期させる重要性 [1]」という論文は当時のそういった慣習に対して疑問を投げかけたものですが、その論文に付記された「議論」でのM・W・パーマー(映画製作会社『フェーマス・プレイヤーズ・ラスキー』所属)の反論がすさまじいのです。
私はリチャードソン氏のこの問題に対する姿勢に同意しない。スクリーンで映し出されるものは、カメラの前で起きたことを複製しなくてもよい、と私は考えている。これは芸術的な上映であり、必ずしも機械的に正確である必要などない。撮影時のスピードについて言えば、監督が気にしていることは、そこで伝えようとしている思いに対して、動きが添っていればよいのだ。例えば、リチャードソン氏が挙げた死の床のシーンを考えてみよう。ここで監督は、映画館ではどうせ速いスピードでクランクされるであろうと予想して、カメラマンに速いスピードでクランクさせて撮影するだろう。そうすれば、上映時にはそのシーンだけは前のシーンに比べて遅く写るだろうし、それだけが監督の気にしていることだ。
一方で、リチャードソン氏はその論文の中で「カメラマンは自分のクランクの速度が一定であることを強硬に主張する」とも述べています。ややこしいですが、現実には撮影時のクランク速度はシーンに合わせて変化していたけれども、建前としては一定速度だったと主張していた、ということのように見えます(注)。

ベル&ハウエルのモーター駆動カメラ
左側の下に向かってコードが出ているのがモーター
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1923年

 
そのような背景のなかで、カメラにモーターが搭載されたという経緯があるのです。

ハーバート・C・マッケイの『映画撮影ハンドブック(1927) [2]』には、手でクランクするカメラはプロフェッショナル用だが、「三脚で固定できること」が必須条件だと述べています。この状態でカメラを動かすためには三脚とカメラマンごとドリーや自動車に乗って動く必要があります。そして、それが長い間、カメラの動きを制約していました。
『つばさ』撮影時、ベル&ハウエルを飛行機に搭載
矢印はモーターを示している
ベル&ハウエルの広告から
『アメリカン・シネマトグラファー』誌 1927年
カール・ルイス・グレゴリーによる記事(1921年)[3]に、ベル&ハウエルの映画用カメラのモーターに関しての記載があります。110ボルトの電源で速度可変(4 fpsから24 fpsまで)、逆回しも可能のメカニズムでした。これらはケーブルでリモートコントロールが可能です。モーターによる駆動の理由の一つとして挙げられているのが、「危ない(hazardous)シーン」での撮影があります。ただし、この場合、110ボルトの電源ケーブルが届く範囲でしか動かすことができません。おのずとスタジオ内での撮影が主なものになり、これでは特に「危ないシーン」を撮影する機会はありません。カメラは電源ケーブルからも開放される必要があったのです。1923年の『アメリカン・シネマトグラファー』誌 [4]に、ゴールドウィン・ピクチャーズがカメラ会社と協力して「自動車上で安定した電源をカメラのモーターに供給できるシステムを考案した」とあります。さらに、コスモポリタン・ピクチャーズ製作の『Unseeing Eyes』の撮影では、飛行機にカメラマンなしでモーター駆動カメラが搭載され、飛行機に乗った俳優がその操作をした様子が記載されています。まさしく危ないシーンをカメラだけで自動駆動で撮影するようになったのです。
カメラをハンドクランクすること自体は撮影のメカニズムの一部だったわけですが、そのことを考えると、カメラをモーター駆動にしたのは人間のためではなくて、カメラのためだったのではないでしょうか。カメラを人間から解放して、人物を追跡させ、飛行機に載せ、人間が危なくて行けないところ、人間の目でファインダーを覗けないところへ送り込む。モーターのケーブルからも解放し、バッテリーで駆動するようにしていく。そうしないとカメラは動けなかったのです。
『サンライズ』撮影中の様子
一番右がF・W・ムルナウ、その左がカール・シュトラス
カメラにはモーターが搭載されているのが見える
[1] F. H. Richardson, “Importance of Synchronizing Taking and Camera Speeds”, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 17, p.117 (1923)

[2] Herbert C. McCay, “Handbook of Motion Picture Photography”, Falk Publishing Company, 1927

[3] Carl Louis Gregory, “Motion Picture Cameras”, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 12, p.73 (1921)

[4] “Motor-Driven Cameras Given Practical Usage”, American Cinematographer, 4, p.22 (1923)

追記注(2015.6.21)

(注)映写も1920年代に入ってからは多くがモーター駆動になっていきます。特に都市部の大型映画館は大部分がモーター駆動の映写機を使用するようになってきていました。

動くカメラ (6)

サイレント映画の長回しはなぜ短いのか

街の天使 Street Angel (1928) フランク・ボゼージ監督

ムルナウの『サンライズ(Sunrise, 1927)』が当時のハリウッドの関係者、特にフォックスにいた監督やカメラマンに与えた影響は非常に大きかったと言われています。特にフランク・ボゼージとジョン・フォードは、その影響が非常に如実に映像に表れています。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=jSEUGn4YGpI]

このショットの撮影の様子
カメラが原始的なクレーンに載せられている

これは『街の天使』のオープニングのショットです。人物と一緒にトラッキングしていたカメラが突然浮き上がり、広場の全景をパンしながらとらえていきます。すると階段に現れた男女にフレームが固定され、今度はそこへ寄っていき・・・と様々に用意された演出にカメラが焦点を合わせながら浮遊し続け、最後にストーリーの焦点となる家の前に集まる人々を映し出します。この1分弱の長回しが、ストーリーの導入部となっています。

ジョン・フォードの『四人の息子(Four Sons, 1928)』では、『サンライズ』のセットを多く使っているだけでなく、カメラの動きも強い影響下にあることがうかがえます。たとえば、『サンライズ』の夜の沼のシーンの対ともいえる、霧の戦場のシーン。ここではカメラはムルナウの時ほど複雑な動きはしませんが、それでも霧の戦場を彷徨うカメラは、都会の女に会いに行く男を追跡するカメラを髣髴とさせます。


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=xd2jJ3UPff8]

先ほど「1分弱の長回し」と書きましたが、今の私たちの感覚からすると、1分程度ではとても長回しとは言わないだろうと思います。サイレント映画では、基本的にショットは短く収めてきていました。トーキーのように、役者たちの長セリフをカットなしで撮影する、というようなことがサイレントにはできないからです。しかし、カメラが動くようになり、その動きがより複雑に浮遊するようになると、ショット長は長くなっていきました。
ところが、3分を超える長回しは存在していません。なぜでしょうか。理由はカメラネガの現像にありました。
当時、カメラネガの現像はフィルムをラックに架けて現像液のタンクに入れる方法がとられていました。このラックに架けることのできるフィルムの最大長が200フィートで、16フレーム/秒(サイレント期の平均的な撮影スピード)で換算するとおよそ3分です。いくらカメラのマガジンを大きくしようが、結局現像で200フィートに切られてしまうので、最長でも3分の長回ししかできないのです [1]。

映画初期の現像の様子(1899)[3]

現像用ラック(1935)[3]
このタンク&ラック式の現像方法は多くの問題を抱えていました。フィルムが現像液につかって収縮したり延伸したりすることで、フィルムがラックから外れたり、ラックに接触している部分の現像がムラになったり(プリントを上映すると、ラックの長さで周期的にムラが出てきたりする)と、生産性が決して高い方法ではなかったのです。それでもこのタンク&ラック式が使用され続けたのは、機械によって大事なカメラ・ネガに傷がついてしまうことを恐れたのと、撮影時の露出不足や過露出を現像で救える、とされていたからでした。ユニバーサルの写真部主任、C・ロイ・ハンターはこう述べています [2]。

 

 

映画フィルムのカメラネガを機械で現像するというのはここ数年検討されてきているが、カメラネガは非常に高価なものであり、その扱いには極度の慎重さが要求されるため実用化が敬遠されてきた。

また、(撮影上の)問題があるネガでも現像工程で救済できる、あるいは少なくとも改善できると言う間違った考えのために、機械による現像が困難になっていた。

「カメラネガが高価である」というのは、その撮影のために多くの資金(セット、役者、監督 etc.)が費やされ、たった1度きりの機会を撮影したものなので、傷めてしまうと取り返しがつかない、と言う意味です。そういう観点では、映写用のプリントの現像はもう既に何年も前から機械化されていたのです。またハンター氏は「現像によって下手な撮影を救済する」という考え方を間違っていると一蹴しています。
ユニバーサルでは、映写プリント用の自動現像機のSpoor-Thompsonに、カメラネガを傷つけないように様々な改良を加えてテストを開始します。そして、『笑う男(The Man Who Laughs, 1928)』ではじめて連続式現像装置を導入しました。『笑う男』は6ヶ月にわたる撮影でしたが、その長い撮影期間にもかかわらず現像してみるとバラツキがみられませんでした。従来のタンク&ラック式では、季節による温度変化のため、現像の出来が冬と夏では違う、といったことが起きていましたが、その心配がなくなったのです。

ユニバーサルが導入したSpoor-Thompson現像機 [3]

現像機の処理能力は1時間当たり4000フィート以上で、どんな長さのネガでも切らずに現像できる。これはタンク&ラック式の現像法では望めない。シーンを切ることはシーンの連続性(コンティニュイティ)にとって非常に有害だ。最近の映画製作では、一つのショットでロングショット、セミロングショット、クローズアップを途中止めることなく一続きで見せるようなアプローチショットが多い。機械式現像機のこの特徴は、最近の映画製作にとって、非常に大きな力になるに違いない。

ハンター氏は述べていないのですが、この後、トーキーの到来と共に、この機械は光学式のサウンドトラックの現像においては非常に重要な役割を担うことになります。サウンドトラックは、常に同じ条件で現像される必要があるからです。

[1] An Evening’s Entertainment: The Age of the Silent Feature Picture, 1915-1928, R. Koszarski, University of California Press, 1994, p.174

[2] “A Negative Developing Machine”, C. Roy Hunter, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers; April 1928; 12:(33) 195-204
[3] A Technological History of Motion Pictures and Television, R. Fielding, University of California Press, 1967

動くカメラ (5)

本当にカメラは解き放たれたのか

 

サンライズ Sunrise (1927) F・W・ムルナウ監督

“Fluid Camera”

F・
W・ムルナウはドイツで『最後の人(Der Letze Mann,
1924)』を監督しました。この作品で、カール・フロイント(撮影)とともに非常に独創的なカメラ・ムーブメントに挑戦し、それは “die
entfesselt Kamera(飛ぶカメラ)”と呼ばれていました。
ウィリアム・フォックスがドイツからムルナウを招聘し、白紙委任で監督させた作品が『サンライズ(Sunrise,
1927)』です。強調遠近法を利用したオープンセット、ディープ・フォーカスを使用した構図、少ない光源をうまく利用した夜のシーンなど、当時のハリ
ウッド映画の常識を大きく覆した演出を盛り込んだ作品です。そのなかでも、湖からゆっくりと街に走る「路面電車の移動」と、この「夜の沼での密会」は、その後のハリウッドの映像文法を考える上でも重要なシーンです。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=EQvPVWkvpyY]

この沼でのシーンのようなカメラの動きを、ムルナウは好んで「解き放たれたカメラ(Unchained Camera)」と呼びました。これは、例えば『つばさ』のトラッキング・ショットのような直線的な動き、あるいは飛行機に固定されたカメラのように、運動する物体からみた景色の動き、さらには手持ちカメラといった、動くものにくくりつけられた(Chained)カメラの映像とは一線を画しています。カメラは自由に浮遊し、人物を追跡するだけでなく、柵を超え、葦の茂みを分け入って進み、カメラ自体に意思があるようにさえ感じられるのです。様々な動きの多重化、多層化を見事に捕捉して、「カメラが動く」ということ -フレームが動き、動くものがフレームに収められるということー をトラッキングや手持ちといった制約から解き放ったように見えます。
この「夜の沼」のシーンの撮影の様子は、スチル写真などで見たことがありません。ジョン・ベイリー(撮影監督。『恋はデジャ・ヴ(Groundhog Day, 1994)』『キャット・ピープル(Cat People, 1982)』)によれば、カール・シュトラスが天井から吊るされたドリーに乗って、モーターで動くベル・ハウエルで撮影したようです。よく観察すると、ドリーはほぼ直線上を動いています(追記注)。にも関わらず、カメラがその直線から解き放たれたように見えるのは、ドリー上でカメラが左右にパンしつつ、カメラの向いている方向がドリーの進行方向と一致していないこと、ドリーの移動速度が変化すること、そして(おそらく)最初に出てくる月と最後に出てくる月は別のプロップ(道具)なので、観ている者の空間把握を狂わせるからだと思われます。
このショットのNGテイクのプリントも残っているのですが、そこでは、動きが突然速くなって、ドリーが上下に揺れてしまっているのが、画面の揺れとなって現れています。実は人物の動きとの同期がずれてしまって、ドリーが速く動かされたのです。そこから考えると、このカメラの動きは実は「解き放たれ」てはおらず、別のものにくくりつけられたのではないでしょうか。今度は何にくくりつけられたのか。それは「動きの同期」です。人物の動きの軌跡とカメラの軌跡はあらかじめ決められていて、その同期が図られることで初めてフレームの中に求められていた動きが現れる。そして、動かすメカニズムがばれてはいけない。ドリーの振動や移動速度の急激な変化など、カメラが設置されているメカニズムの特性がフレームに現出してはいけないのです。
この「動きの同期」と「メカニズムの透明化」が重要なのは、その後のクレーンの登場や長回しの演出という、ハリウッド映画において重要な位置を占める技法の基盤になるからです。

(追記注)  2015.6.20
カール・シュトラスは、これは天井からつるされた「パーアンビュレーター(乳母車、この場合はドリーのようなもの)」で逆S字の動きをした、と発言しています。(TSMPE, 12, p.318 (1928))

動くカメラ (4)

帝国ホテル Hotel Imperial (1927) モーリッツ・スティルレル監督

手持ちカメラ

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rsYpSR0DOiY]

これは「帝国ホテル」ではなく、「明眸罪あり(The Temptress, 1926)」の撮影現場
左はモーリッツ・スティルレル監督
右でタンゴを踊っているのがグレタ・ガルボとアントニオ・モレノ
カメラ(手持ちカメラのEyemo)を構えているのがトニー・ガウディオ
モーリッツ・スティルレルはこの映画の撮影に入って10日ほどで降ろされ、
代わりにフレッド・ニブロが監督をつとめる

「帝国ホテル」のダンスのショットも手持ちカメラ(Eyemo)で撮影されたものでしょう。Eyemoとは1925年から市場に導入されたベル&ハウエル社の手持ち35mmカメラ(Hand-held Camera)。1970年代まで使用されていました。ニュース用、あるいはドキュメンタリー用として主に活躍していましたが、このように劇映画でも多く使用されています。無声映画の当時は、撮影は手のクランクしていましたが、Eyemoはゼンマイ駆動なので、握っているだけで撮影できました。このおかげで機動性が格段によくなりました。

American Cinematographer誌に掲載されたEyemoの広告(1927)
Eyemoを握っているのはセシル・B・デミル
「キング・オブ・キングス(The King of Kings, 1927)」で使用
他にも、1920年代後半に手持ちカメラが市場に登場しています。1910年代からニュース映画用として使用されていたAkeleyよりも、より機動性のあるDeVry、Cine-Kodakなどが盛んに広告を出しています。
DeVryカメラの使い方の例
特別なクランプで様々な場所に固定できる
これを思い出しました
ニード・フォー・スピード(Need for Speed, 2014)の撮影現場
GoPro3を設置しています
(via. hurlburvisuals.com)
これはシドニー・フランクリン監督が「クオリティ街(Quality Street, 1927)」撮影中に、ローラースケートを履いてEyemoで撮影している様子です。
 
 このような撮影手法もサイレント後期の1926年以降にはかなり頻繁に現れるようになります。

動くカメラ (3)

クオリティ街 Quality Street (1927) シドニー・フランクリン監督

ダンスのショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=30n8GKVhgvU]

上のシーンの撮影の様子
右手に吊り下げられたカメラ
照明も一緒に回転するようになっている

群集 The Crowd (1928) キング・ヴィダー監督

滑り台のショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=s3puV5Q-zF0]
撮影はベル・ハウエルにモーターを搭載している
撮影はヘンリー・シャープ(のちに『我輩はカモである (1933)』や『恐怖省 (1944)』を担当)

動くカメラ (2)

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

ブランコのショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=F79916-mdRg]

撮影の様子
カメラの三脚にもたれているのが
ウィリアム・ウェルマン監督

飛行機からの攻撃

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=zL-cC-VlRC4]
カメラ設置の様子
モーターで動かすための配線が見える

動くカメラ (1)

先日のUNKNOWN HOLLYWOOD第6回のトーク内で「動くカメラ」についてお話をしましたが、そのいくつかについて、実際の撮影の様子を紹介します。

『つばさ』 Wings (1927) ウィリアム・A・ウェルマン監督

トラッキングショット

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=d1H699088FI]


このトラッキングショットの撮影の様子
天井から吊るされたドリーに乗っているのは
監督のウィリアム・ウェルマン
カメラがドリーの前方に固定されている
照明の設置に注目

『第七天国』 Seventh Heaven (1927) フランク・ボゼージ監督

トラッキング+エレベーターショット


[youtube https://www.youtube.com/watch?v=PdCuX85yEMk]

撮影の様子
2階でポケットに右手を入れて上を見上げているのが
フランク・ボセージ監督


まだ起きていない犯罪

「スナイパー(1952)」
  「スナイパー(1952)」の主人公エディーについては、直接モデルとなった連続殺人犯はいないようだ。しかし、この映画が製作されるときに、製作や監督の意識にあったであろう殺人事件があった。ハワード・ウンルー(Howard Unruh, 1921 – 2009)が1949年に起こした大量殺人事件である。ニュー・ジャージー州のカムデンという小さな町で、ある朝、彼は町の通りを歩きながら、わずか12分のうちに13人を射殺した。町の人たちをターゲットとしてはいたが、計画的ではなく、ほぼランダムに、手当たり次第にドイツ製ルガーで撃っていった。彼はすぐに逮捕された。
  ウンルーは、結局精神異常と診断される。彼が最後に残した言葉は「弾さえあれば千人だって殺した」だった。

逮捕されたハワード・ウンルー(中央)
警官たちの表情と犯罪者の表情の対比
  このウンルーは、第二次世界大戦でヨーロッパ戦線に従軍したが、非常に腕の立つスナイパーだったらしい。しかし、すでに彼の異常性はこの時から明らかだった。

彼の日記は、奇怪としか言いようがないー戦争中に射殺したドイツ兵について一人一人、いつ、どこで、どのような状況で撃ったか、そしてその兵士の死んでいくときの顔の表情を、克明に記録しているのだ。
-Bad Blood, An Illustrated Guide to Psycho Cinema, Christian Fuchs, 1996

  この「死んでいくときの顔を表情を記録している」というのが、実に衝撃的だ。撃ったときのリコイルの問題も考えると、どこまで本当にウンルーがスコープを通して見たことなのか、彼の幻想も混じってはいないだろうか、と思ってしまう。
 
  現在のスナイパーのトレーニングでは、しとめる相手の頭部はなるべく狙わず、身体の重心位置、すなわち胸部を狙うらしい。ターゲットとして広くて狙いやすいから、ということのほかに、撃つ相手の表情を見るとスナイパーといえども一瞬ひるむことがあるからだそうである。ウンルーはひるむこともなく、じっと観察していたことになるのだろうか。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KeqoVE5HHwU]
  「スナイパー」では、精神科医のケント(リチャード・カイリー)が自説を披露するシーンがある。エディーのような無差別殺人を起こす犯人は、過去にすでに暴力行為で警察の世話になっているはずだ、最初は殴ったりするような小さな犯罪だったのが、だんだんエスカレートして、最後には歯止めが効かなくなる。その最初の、小さな犯罪の時点で見つけ出して精神病院に収容すべきだ、というものである。この「予防措置」的な考えは、21世紀になってまさに起きていることである。ガンタナモ収容所は、「テロを起こすかもしれない」可能性のある人物を強制的に収容している。その人権を無視した扱いも含めてUNやアメリカ国内のリベラルのみならず、右派からさえも批判のある一方で、「あのおかげでテロが未然に防げているのだ」という意見もある。
  P.K.ディックの小説「少数報告(The Minority Report)」とその映画化作品も、犯罪を起こす人間を未然に逮捕するという設定だが、実際に起こした犯罪ではなく、「これから起こすかもしれない犯罪」に対してアクションがとられるという点において、ケント医師の発言はディックの描いた居心地の悪い未来への入り口とも言えよう。

「スナイパー」-フィルム・ノワールから新しい時代への入り口

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=VaLlsjuZ0AE]
「スナイパー(1952)」UNKNOWN HOLLYWOODオリジナル予告編

  次回の「知られざるハリウッド映画」で上映予定のエドワード・ドミトリク監督「スナイパー(The Sniper, 1952)」は、サンフランシスコを舞台としたフィルム・ノワールの佳作だ。この作品は、調査した限り日本で公開された形跡がみられず、現在でも日本国内でDVD等で見ることができない作品である。

  舞台は第二次世界大戦後のサンフランシスコ。ブルネット(黒髪)の女性を狙った無差別殺人が次々と起こる。犯人はビルの屋上や物陰からスコープ搭載のライフルで狙い撃ちをしているのだ。サンフランシスコ市警は、次々と起こる殺人を前に市民の批判を浴びはじめる・・・。
  エドワード・ドミトリク(1908 – 1999)は「ケイン号の叛乱(The Caine Mutiny, 1954)」、「山(The Mountain, 1956)」といった大作も有名だが、私としては「ブロンドの殺人者(Murder, My Sweet, 1944)」や「影を追う男(Cornered, 1945)」などのスタイリッシュなフィルム・ノワールの作品が特に印象深い。「ブロンドの殺人者」はそれまでロマンチック・コメディーやミュージカルの甘い役が多かったディック・パウエルを、ハードボイルドのシンボル、フィリップ・マーロウに仕立て上げるという離れ業をやってのけた演出力が見事だ。「十字砲火(Crossfire, 1947)」は、人種差別問題を扱った、当時としてはセンセーショナルなスリラーとして歴史的にも重要な作品である。ロバート・ライアン演ずるモントゴメリーの正体が少しずつ暴かれていく様子は血も凍る。

  一見順調に見えたドミトリクのキャリアだったが、1940年代後半の赤狩りのさなか、共産党に一時期在籍していたことが非アメリカ的活動を行っていたと糾弾され、「ハリウッド・テン」の一人として投獄されてしまう。1951年4月に「転向」を表明、HUACの公聴会で、他の共産党メンバーの名前を挙げた。転向後、ハリウッド映画界に復帰して最初に監督した作品が「スナイパー」である。「スナイパー」で警部役として登場するアドルフ・マンジュー(1890 – 1963)は赤狩りで最も強硬だった右派の俳優。率先して公聴会で証言し「共産党員は全員ソ連に行け」と言い放ったりとしたのだが、その彼が「元共産党員」のドミトリクの作品に登場しているのもなかなか味わい深い。撮影中は特に大きな衝突もなかったようだ。
  「スナイパー」はその大部分がサンフランシスコでロケーション撮影されている。しかし、1940年代に20世紀フォックスで製作されたセミ・ドキュメンタリー風の「ブーメラン(Boomerang!, 1947)」「出獄(Call Northside 777, 1948)」あるいは「裸の町(The Naked City, 1948)」とも異なる風景の切り取り方をしているように感じる。撮影監督はバーネット・ガフィー(1905 – 1983)。「地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)」「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde, 1967)」で二度アカデミー賞を受賞しているハリウッドを代表する撮影監督だ。ガフィーの白黒映画における独特のアプローチ -弱いコントラスト、全体にグレーを基調とした画面ー は有名で、この作品でもその美学が遺憾なく発揮されている。フィルム・ノワールというと、ジョン・オルトンやジーン・ネグレスコに代表される陰影の強い照明(キアロスクーロ)とディープ・フォーカスを要素とした映像を思い浮かべがちだが、ガフィーの映像はその対極にある。砂を噛んだような(gritty)灰色に荒された世界。ファム・ファタルの妖艶な輝きや裏切りのナイフのような鋭い影 -まさしくハリウッドによってグラマライズされた世界ー とは無縁の、普通の人間が孤独に日々を過ごす灰色の都会を写し取るこのような映像こそ、その後のハリウッド映画に別次元のリアリズムを与えることになった。「スナイパー」を見ていただければ分かるが、装飾が失われて大衆化していく都会の風景が容赦なく切り取られている。そのスタイルは、1952年と言うよりは60年代を髣髴させる。

  サンフランシスコは坂の多い土地だ。この土地が持つ高低差に加え、連続殺人犯が獲物を狙う高低差、ビルの屋上からの眺望、観覧車の高さ、といった「高/低」に支配された構図が随所に現れてくる。不思議なことに高さからくる開放感よりも、高いものに阻まれたクローストロフォビック(閉所恐怖症)な強迫や、地に足が着いていない不安定な浮遊感を感じてしまう。背景に高い建造物のシルエットを配置する広めの奥行きのある構図とともに、視野をぐっと絞ったタイトな構図もある。広角と長めのレンズを縦横無尽に使いながらサンフランシスコの町が実に多彩な角度から切り取られていく。同じくサンフランシスコを舞台とした「ブリット(Bullitt, 1968)」や「めまい(Vertigo, 1958)」と比較しても面白いだろう。

  主人公を演じるアーサー・フランツ(1920 – 2006)は、特にTVドラマの手堅い性格俳優として重宝された。「ペリー・メイスン」「ローハイド」などに出演している。メアリー・ウィンザー(1919 – 2000)は大きな眠そうな瞳と175cmという大柄な体躯が印象的な女優。フィルム・ノワールにも多く出演している。注目したいのはジェラルド・モー(1914 – 1968)、この作品ではアドルフ・マンジューの部下で少し皮肉屋の刑事を演じている。彼は1930年代から50年代にかけて、実に500以上のラジオ番組に出演しており、多くのリスナーにとって、彼こそフィリップ・マーロウ、ネロ・ウルフ、ホイッスラーといったハードボイルドの「声」だった。「スナイパー」では、その風貌も手伝ってか「ハンフリー・ボガートの真似をしている」といわれることもあるが、どうだろう。彼もその後TVドラマで活躍するが54歳の若さで亡くなってしまう。

アーサー・フランツ
メアリー・ウィンザー

アドルフ・マンジュー
ジェラルド・モー
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=kG83E4GL5yg]
ジェラルド・モー主演の「フィリップ・マーロウの冒険」ラジオ番組  

  「スナイパー」の中でTVが話題になったり、プロットのカギとなったりするシーンがいくつかある。今回字幕を制作するうえで、当時のTV放送の状況を知る必要があって調査したのだが、1952年当時すでにアメリカではTVが大衆文化の一端として浸透しつつあった。なかでもスポーツの放送は非常に人気が高かったが、それは当時のTV放送においては録画放送のハードルが高かったことも一因だ。とはいえ、放送用のビデオテープシステムの開発が進み、テレビドラマが人気を博するようになるまであと数年。この映画は、TVそのもの、そしてTVが象徴するような、都会に生きる人間の新しい孤独の風景を切り取って見せている。この四半世紀後、トラヴィス・ビックルがTVをけり倒す、その入り口が見えている。

第5回「映画がアメリカンサイコを作った」
2015.4.5. Sun. 17:00開場 17:30開演
原宿 千駄ヶ谷 映画24区スタジオ(Webサイト)
短編映画併映
オリジナル日本語字幕付
上映後「映画がアメリカンサイコを作った」トーク
MC:角田亮、Murderous Ink

疲労困憊の3D映画(3)

3D映画を観ると疲れる

Bernard Mendiburuの”3D Movie Making: Stereoscopic Digital Cinema from Script to Screen”(2009 Elsevier)には詳細に3D映画の原理とプロセスが書かれています。そこにも「両目の焦点(Focus)と輻輳(Convergence)の関係が、実際の3次元の空間を見る場合とは異なること」についても、もちろん言及されています(p.20)。

実空間での焦点/輻輳の関係(左)と3D映画での焦点/輻輳の関係(右)

Mendiburuは

この焦点/輻輳の非同期は、多くの人が難なくしていることであり、そうでなければ3D映画は存在しない。
This focus/convergence de-synchronization is something most of us do without trouble, or 3D cinema would just not exist.
と言っています。しかし、この根拠は示されていません。本当に「難なくしていること」なのでしょうか?
この本が出てから4年後に発表された、Angelo G. Soliminiの論文(“Are There Side Effects to Watching 3D Movies? A Prospective Crossover Observational Study on Visually Induced Motion Sickness “, PLOS, Published: February 13, 2013, DOI: 10.1371/journal.pone.0056160)には、とても「多くの人が難なくしていること」とは思えない状況が述べられています。
ヴァーチャル・システムや操縦シミュレーター、3Dディスプレイを見ることで、視覚疲労(visual fatigue)や「乗り物」酔い(motion sickness)が起きることが報告されています。特に動画を見ることで起きる酔いはVIMS(visually induced motion sickness)と呼ばれています。
視覚疲労の症状としては、眼の不快感、疲れ、痛み、乾き目、涙目、頭痛、さらには、視界がかすんだりや二重に見えたり、焦点を合わせるのが困難になったりします。まさしく、焦点/輻輳の非同期が、この視覚疲労を引き起こしていると主張の研究もあります。一方でそれは原因ではなく、関連がみられるというだけではないか、という意見もあります。もともと潜在的に両眼視に問題を持っている人も多く(本人も気づいていない)、その場合は視覚疲労が発生する率はさらに高いと考えられます。
VIMSは、視覚で得られている動きの情報と、実際に身体が知覚する動きの情報が矛盾していることで発生すると考えられています。たとえば、ジェットコースター上で撮影された映像をじっと座って見ている場合、観客の視覚は高速で激しい動きの情報を送っているのに、体はまったく静止したままであるため、その矛盾を解決できずに「酔い」という症状になってあらわれるようです。このとき、「身体が知覚する動きの情報」というのは、実に複雑で、三半規管からの情報だけではなく、関節にかかる力、肌に触れる空気の流れ、などありとあらゆる情報を総合しているといわれています。動きの方向、速度、加速度だけでなく、環境からの刺激や、その変化なども、動きの情報として加わっているのです。
 
VIMSについて産業技術総合研究所の渡邊洋氏らが研究した結果は非常に興味深いものです。観客に2D、3D、そして「不適切な」3D映像を見せ、視覚疲労や自律神経系の反応を調査しました。ここで「不適切な」3D映像とは、左目と右目が見る像を上下にずらしたり、入れ替えたり、色味を変えたりして、通常の3D画像として認識できなくしたものをいいます。結果的には、「不適切な」3D映像を見た場合に疲労やVIMSを感じる観客は多いのですが、実は交感神経系の反応は3D映像をみるだけで上昇し、適切であるか不適切であるかは関係がないという結果になりました。

しかし、イギリスのローボロー大学のピーター・A・ホワースは、このような一連の実験から「3D映画の害悪」を安易に導き出すことは注意しなければいけないとも言っています(ちなみに上記の論文ではそのような結論を述べてはいません)。3D映画と2D映画を被験者に見せて効果を観察するという実験方法について、以下のように述べています。

このような(実験)アプローチの問題は、立体視(ステレオプシス)は他の要素 ーこの場合はVIMS刺激の強度だがー を仲介して、立体視3Dイメージとの関連はあるが、決して原因ではない条件に差ができてしまうかもしれない、という点である。
The problem with this approach is that the stereopsis could mediate other factors – in this case the strength of the VIMS stimulus – leading to differences between the conditions which are associated with the stereoscopic 3-D images, but not necessarily caused by them.

別の言い方をすれば、実験で3D映画を観ることによるVIMSが増加することが事実だとしても、それがどのような仕組みで起こるのかは簡単には明らかにならないだろう、ということです。

被験者に静止した球(上段)と3D映画(下段)をVRDで見せた場合の体の重心の動き
左は両足を閉じて、右は開いて。
(Stabiliogram-Diffusion Analysisを用いた解析)
Computer Technology and Application 3159-168 (2012)

では、1950年代に3D映画がアナグリフ方式ポラロイド方式で普及したときには、このような身体的な不快感や変化は報告されなかったのでしょうか?学術誌や業界紙にはあまり報告はないのですが、やはり頭痛を起こす人たちはいたようです。人気TV番組「アイ・ラブ・ルーシー」のプロデューサーで、TV番組制作のパイオニアでもある、ジェス・オッペンハイマー(1913 – 1988)は、1950年代の3D映画のブームの際にある発明をします。「3D映画を2Dでみるメガネ」だそうです。これは、彼が奥さんと3D映画を観にいったとき、観客の中に3Dメガネの上から片手で片方を隠している人たちがいて、不思議に思ったことが発端です。それが両目で(3Dで)観ると頭痛がするからだ、と知って、そのような人たちのためにメガネを作ったのです。このメガネが売り出されたのか、効果があったのかはわかりません。

ジェス・オッペンハイマーの3D→2Dメガネ
Popular Mechanics, January 1955

3D映画を鑑賞することで身体に不快感を感じている人は明らかにいます。しかし、それがどのようなメカニズムで発生しているのかは、まだ研究段階で、安易な結論は避けなければなりません。ここ数年でも、VIMS専門の学会が2回、専門誌による特集号も何回も発行されています。3D映画のどのような部分が、視覚疲労につながるのか、VIMSにつながるのか、また疲労が出やすい人とそうでない人には相違があるのか、など科学的に解明されなければ、明らかな因果関係があるとは言い切れないでしょう。

問題は、この3D映画の問題は、エンターテーメント業界が商業的に作り出してきたものだという点です。彼らが3D映画に商業的な価値が見出せない、となると研究し続けること自体に意味がなくなっていきます。それがヴァーチャル・リアリティにスライドしたとして、多くの部分は流用できるにせよ、もう一度問題の定義をしなおし、データを蓄積していく必要があるかもしれません。

「アバター」に端を発した3D映画への期待と投資は、明らかに岐路に差し掛かっています。ジェームズ・キャメロンがなかば強迫的に3D映画への転換を迫ったことで、配給と上映のデジタル化が進んだことは事実です。しかし、常に「新しい体験」という言葉を持ち出して、 次のものを売ろうとしても、前のものが「大したことなかった」と思われていれば、自然に投資が鈍るとも限りません。この「新しい体験」を十分な映画表現、エンターテーメントのツールとしての把握と制御ができるものにするまで、まだ時間がかかるように思われます。

(4)に続く