ノワールの製作者:パイン&トーマス

《Film Noir》タグが2番目に多かったプロデューサーは、ウィリアム・H・パインとウィリアム・C・トーマスのコンビ、「パイン゠トーマス・プロダクションズ」である。

パイン゠トーマス

製作者として、《Film Noir》に関わった数が2番目に多かったのが、二人のプロデューサー、ウィリアム・H・パインとウィリアム・C・トーマスである。彼らは「パイン゠トーマス・プロダクションズ」というコンビを組んで製作にあたっていた。

パイン゠トーマス・プロダクションズは主にパラマウント・ピクチャーズのBユニットとして、1941年から1957年まで、低予算映画を担当していたチームだ。全部で81本製作したが、このうち《Film Noir》とタグが付けられているのは11本である。81本中11本という比率は、流行のスタイルやジャンルを予算の許す限り追いかける、概して総花的な、このチームの製作姿勢が良く表れている。製作費の制御を徹底して、「損した映画はない」というのが自慢の製作チームである。

製作年タイトル原題配給
1942ワイルドキャットWildcatParamount Pictures
1944友情に賭けた命Gambler's ChoiceParamount Pictures
1944Dark MountainParamount Pictures
1946They Made Me a KillerParamount Pictures
1948Waterfront at MidnightParamount Pictures
1949狙われた女ManhandledParamount Pictures
1950暴力の街The LawlessParamount Pictures
1953楽園の決闘Tropic ZoneParamount Pictures
1953炎の館Jamaica RunParamount Pictures
1955悪魔の島Hell's IslandParamount Pictures
1956悪夢の殺人者NightmareUniversal Pictures
パイン゠トーマスが製作したフイルム・ノワール作品
IMDBのデータより

ウィリアム・H・パインも、ウィリアム・C・トーマスもパラマウントで広報担当として働いていたが、1941年に製作会社をおこして、俳優リチャード・アーレン主演の航空映画3本をプロデュースした。それ以降、1年に5本くらいのスピードで製作していた。彼らは低予算映画製作における、ありとあらゆるメソッドを駆使したプロデューサーだった。盛りを過ぎた俳優を安い出演料で交渉し、安い脚本を更に買いたたき、セットを何度も使いまわす、といった常套手段だけでなく、あらかじめ脚本を徹底的に分析し、いかに安く仕上げるかを考えぬき、詳細な指示を準備した。その結果、60~70分程度の添え物映画を極めて短い製作期間と安い製作費でひねり出すことに成功したのである。

パイン゠トーマス・プロダクションズの映画のなかで《Film Noir》とタグ付けされたものでも、戦時中の作品『ワイルドキャット』『友情に賭けた命』『Dark Mountain』などのストーリーはありふれた犯罪アクションもので、《Film Noir》的特色を探すとすれば、ローキー照明主体の撮影スタイルぐらいだろう。これも、戦時中の物資規制が遠因になっているのは間違いない。製作費が絞られているなか、セットは必要最小限のものとなり、照明を巧みに使って低予算であることを隠蔽するやり方はハリウッド全体にひろがっていた。

初期のパイン゠トーマス・プロダクションズの作品で《Film Noir》の要素、特にビジュアル的要素について考察するとすれば、それよりも前に製作された航空映画二作『Power Dive』と『Forced Landing』に注目したい。実はこれらの映画は、《Film Noir》のタグが付けられていないが、アルゼンチンからハリウッドに戻ってきたばかりのジョン・オルトンが撮影監督をつとめており、ハリウッドの《Film Noir》を語るうえで極めて重要な作品なのである。その独創的なビジュアルは、公開時にハリウッドの撮影監督のあいだでは相当話題になった作品だった。

『Power Dive』の総製作費は、他の映画で飛行機を一機レンタルするレンタル料より安いだろう。総製作費は78,000ドルで撮影期間は10日間だったと聞いてる。しかし、この若いプロデューサー達は、製作費に対して十分お釣りのくるものを得られたと言ってよいだろう。『Power Dive』は単なるプログラム・ピクチャー・エンターテイメントではない。撮影監督ジョン・オルトンの芸術性と技術によって、この程度の限られた時間と資金でできるものを遥かにしのぐ作品が出来上がった。確かに早撮りの作品だが、大作に見られるような撮影技術がすべて詰まっている。

American Cinematographer [1]

厳密に映像という観点だけからいえば、『Forced Landing』は研究するに値する映画だ。視覚的には極めて素晴らしい。すべてのシーンが構図の上で平均以上であり、ただ見た目が良いというだけでなく、物語上の役割としても力強い。撮影スタジオで鍛えられた眼からすれば、この映画は、クリエイティブな技術者にかかると、最小限の資源から「製作価値プロダクション・バリュー」をどれだけ絞り出せるかという問いを、深く考えるうえで重要なレッスンになるだろう。

American Cinematographer [2]

『Forced Landing』が公開されたときは、《低予算にもかかわらず素晴らしいビジュアル》という点が高く評価され、監督のゴードン・ワイルズ(Gordon Wiles, 1904-1950)[❖ note]❖ ゴードン・ワイルズは、もともと美術監督としてキャリアをスタートした人物で、ウィリアム・キャメロン・メンジーズのもとで研鑽を積んだ。ワイルズが美術を担当した『Translatlantic (1931)』はジェームズ・ウォン・ハウの見事なカメラワークと共に、セットの並外れた独創性が話題を呼んだ作品だ(アカデミー賞受賞)。破産前のフォックスの力を示す作品として再公開が待たれる。の製作過程に関するメモが発表されるほどだった [3]。撮影監督のジェームズ・ウォン・ハウは、戦時中の物資統制に対応する方法について論じた文章で、『市民ケーン』と『Forced Landing』を比較して、製作前の入念な準備でコスト削減しつつも素晴らしいビジュアルを達成できると述べた [4]。「撮影に入る前に徹底的に準備することで、製作費を最大限に抑えることができる」という思想は、この時からパイン゠トーマス・プロダクションズの基礎となったのである。

『Forced Landing』撮影前のデッサンと実際のシーン
デッサンには、カメラのレンズアングルと高さが記入されている。American Cinematographer [3]

しかし、それ以降のパイン゠トーマスのプログラム・ピクチャーは業界の話題になるようなことはなく、入念な準備はもっぱらコスト削減のために行われていた。例えば『狙われた女(Manhandled, 1949)』は、ドロシー・ラムーア、ダン・デュリエという、スターではないが、集客力もある手堅い俳優を揃えたものの、どちらかと言えば古臭いミステリの部類に属する作りで、パラマウントも不満だったようである。彼らの映画としては珍しく、製作費を回収するまでにかなり時間がかかったとも言われている [5]

『暴力の街』は、パイン゠トーマスのフィルモグラフィのなかでも最も異彩を放ち、時を経てその価値が再認識されるようになった映画である。ジョセフ・ロージー監督、ダニエル・メインウェアリング[❖ note]❖ダニエル・メインウェアリング(Daniel Mainwaring, 1902-1977)はジェフリー・ホームズ名義で『過去を逃れて(Out of the Past, 1947)』の原作小説と脚本を書いている。脚本の、人種差別とコミュニティの問題を取り扱った作品だ。ジョセフ・ロージー(Joseph Losey, 1909-1984)はウィリアム・パイン/ウィリアム・トーマスのもとで監督として働くことを次のように表現している。

この題材は自分自身、本気で取り組みたかったものだったのだが、とにかく大変だった。パインとトーマスはパラマウントのB級映画を作っていたコンビだが、こいつらがモンスター、とんでもないモンスターだったんだ。こいつらは、考えられる限り最悪のやり方で邪魔をしてきたんだ。もし私自身にガッツがなかったら、そしてダン・メインウェアリングにガッツがなかったら、100万年かかってもあの映画はできなかっただろうね。

Joseph Losey [6 p.91]

しかし、トーマスとパイン自身も、このプロジェクトを成功させるためにはパラマウントの上層部を説得しなければならず、この説得は決して楽ではなかった。パラマウントのトップ、Y・フランク・フリーマンは『暴力の街』について「どうしていつもの屈強なヤツが出てくるのをやらないんだ」と否定的で、人種差別問題のような厄介なテーマを取り上げて「寝た子を起こすな」と言ったという。しかし、結局パラマウントは、このプロジェクトを了承した。撮影はカリフォルニアのメリーズヴィルで行われ、町民も端役やエキストラで参加している。当時の市長も55ドルの出演料で、架空の町サンタ・マルタの市長として出演している [5 pp.26-27]

ロージーによれば、『暴力の街』の撮影は、ひたすらプロデューサーたちとの喧嘩に明け暮れていたという。ロージーは脚本をトーマスに投げつけたり、製作主任のドク・マーマンと取っ組み合いの喧嘩をしたり、激しい衝突を繰り返した。ロージーによれば、少女がレイプされたと主張するエピソードや、警察のパトカーが事故を起こすシーンは、プロデューサーによって無理矢理入れられたもので、メインウェアリングの脚本にはなかったという。彼はスタッフたちを味方につけて、パイン゠トーマスのモンスターと戦ったようだ。撮影監督のロイ・ハントについては手放しで称賛している [6 pp.91-92]

製作費は435,000ドル [5 pp.148-152]、公開時にはタイム誌に「セシル・B・デミルが貧民街スラムのドキュメンタリーを撮ったようなもの」とからかわれた。

『暴力の街』
集団ヒステリアの餌食となるヒスパニック系の少年(ラロ・リオス)。

パイン゠トーマスの製作作品で、もう一作(あるいは二作)注目しておきたい作品は、『Fear in the Night (1947)』とそのリメイク『悪夢の殺人者』である。IMDBでは『Fear in the Night』に《Film Noir》のタグが付けられていないためにリストされていないが、リメイクの『悪夢の殺人者』にはタグが付けられている。原作となった「Nightmare」はコーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ名義)の短編小説だ。ウールリッチは、ミステリ作家の中でも特にノワール的感性に満ちた作品を多く書いていると評価されている人物である。彼の作品には、ミステリ/サスペンスのプロットの中で、超常現象やオカルト的な題材を扱ったものが少なくなく、「Nightmare」も催眠術が殺人事件のカギとなっている。この二作はいずれもマックスウェル・シェーンが脚本、監督を担当しているが、若干設定やプロットに相違がある。全体的に1947年版の方がプロット構成や配役や登場人物の設定において、説得力がある。準主役のデフォレスト・ケリー[❖ note]❖ デフォレスト・ケリーはオリジナルのスタートレック『宇宙大作戦』シリーズでマッコイを演じたことで一躍有名になった。の演技もよい。

『Fear in the Night』
この映画では、催眠下での混乱した心内イメージを表現するために、オプティカル・プロセスショット(特殊撮影)が比較的多く使われている。撮影監督はジャック・グリーンハル(Jack Greenhalgh, 1904-1971)。彼はこの後、ウィリアム・バークの映画でも撮影監督として参加している。

パイン゠トーマス・プロダクションズは、確かに《Film Noir》に分類されてもよい映画を数多く製作している。しかし、映画製作の環境や取り組む姿勢は、ジェリー・ウォルドと大きく異なる。ウォルドはワーナー・ブラザーズの強大な製作能力、資源にアクセスができ、そのなかでトップ女優達の主演映画を確実にヒットさせようと様々な試みに臨んでいた。そんななかで生まれたのが、一連のジョーン・クロフォードの《暗い》映画だった。いっぽう、ウィリアム・パインとウィリアム・トーマスのコンビは、パラマウントでB級映画を量産する立場にあった。B級映画は基本的には「儲かる商品」ではない。ごくまれに当たる映画もあるが、大部分は映画館のスクリーンの時間を占有してブロックブッキングを維持するための方策として存在している。だから、赤字を出さないマネージメントが求められた。そしてパイン゠トーマスは「どの映画も赤字になったことがない」と豪語するほどの敏腕プロデューサー達だった。彼らがスタイルとして《Film Noir》的なものを取り入れたのは、経済的な理由が大きく、物語のテーマとしての目新しさはない。だから、パイン゠トーマス・プロダクションズの映画は、その大部分が時とともに古臭くなり、繰り返し視聴にはとても耐えられるタイプのものではなくなっていった。そんななかで、ジョセフ・ロージーが『暴力の街』で、マックスウェル・シェーンが『Fear in the Night』で、予算が許す限り挑戦を試みようとしたのである。それを可能にしたのも、このプロデューサーのコンビだった。この二作品だけでも、このプロデューサー・コンビはもっと高く評価されるべきだ。監督だけの視点、例えばジョセフ・ロージーの視点からみると、ウィリアム・パインとウィリアム・トーマスは邪魔者でしかない。だが、もともと『暴力の街』の製作に意欲的だったのは、この二人のプロデューサーだった。当時、いくつか製作された人種問題を扱った映画のうちでも、『暴力の街』の生々しさ、いや《生臭さ》は群を抜いている。この映画を、1950年に、ジョセフ・ロージーに監督させたという、たった一点だけだってあっても、このプロデューサー・コンビは評価されるべきである。

References

[1]^ “Power Dive”, American Cinematographer, vol. 22, no. 5, p. 223, May 1941.

[2]^ “Forced Landing”, American Cinematographer, vol. 22, no. 8, p. 390, Aug. 1941.

[3]^ G. Wiles, “Let’s Design Pictures for the Camera,” American Cinematographer, vol. 22, no. 8, p. 366, Aug. 1941.

[4]^ J. W. Howe, “Visual Suggestion Can Enhance ‘Rationed’ Sets,” American Cinematographer, vol. 23, no. 6, p. 246, Jun. 1942.

[5]^ D. C. Tucker, “Pine-Thomas Productions: A History and Filmography.” McFarland, 2019.

[6]^ J. Losey, “Conversations with Losey.” London ; New York : Methuen, 1985.

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