津村家の詩人津村信夫
津村秀夫(1907-1985)は、実業家で久原財閥の重鎮、津村秀松(1876-1939)の長男で、母方の祖父は三十四銀行(旧三和銀行/現三菱UFJ銀行の前身)の頭取をつとめた関西金融界のトップ、小山健三(1858-1923)である。津村秀夫の弟は詩人の津村信夫(1909-1944)。信夫には「鴉影」という詩がある。
活火山の麓で時間があまりに私達には明るすぎる。
白樺の椅子に雲が影を、影には昨日がたたずむ。
少女が、少女の跫音が明確に私の心の梯子を降りて行く。
落葉樹に私は鴉影を認めた、(私は語彙を持たない。)
夕映が落葉松の林を染める、私は文字を忘れた。
夕方、それに何の不思議があるものか、私は發熱する。
津村信夫「鴉影」
これは、津村信夫が山岸外史主宰の同人誌「あかでもす」に寄せた一編である。昭和六年(1931年)の作品だ。そして、まさしくこの詩こそ、加藤周一(1919-2008)が「新しき星菫派に就いて」のなかで《ある詩人は「夕方私は發熱する」と云ふ句をテーマとする詩をつくった》と嘲笑した、その詩である。加藤が《新しき星菫派》と呼んだ世代とは若干離れるが、津村信夫は加藤の批判対象と特徴が重なる。
津村信夫は明治四二年一月五日、神戸市葺合区熊内通りに生まれた。その土地は「京都で学問し、大坂で財をなし、神戸に住む」という言葉があるように、関西地方の市民層が最終の願望を寄せる一等地である。
金兒伸欣[1]
父の津村秀松は、法学博士で東京高商の学校長から財界入りした人物だが、文学にも造詣が深く、俳句を愛して句集なども出版している。母はブルジョア家庭に育った女性だった。
歐州戰争前でドイツ人がたくさん住んでゐた。小高い丘の上にあるその異人の家に、西洋菓子を作るお稽古に通つて、ツルゲネフやトルストイの好きだつた母は、三十をこしてからも大きな束髪にマーガレツトの花飾りを插してゐた。シヤボンの匂ひのする裏庭で、私は少し色あせた、マーガレツトを拾つたことがあつた。
津村信夫
「庭の憶ひ」
軽井沢
軽井沢が避暑地、別荘地として認識されはじめたのは、明治19年(1886年)に、イギリス人の宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーが初めてこの地を訪れて、夏を過ごすようになってからだと言われている。その後、大正時代になってから、皇族、華族、そして実業家たちが次々と別荘を建て始め、リゾートとして本格的ににぎわい始めた。また、文化人、特に文学者たちのお気に入りの場所となり、鎌倉と人気を二分するようになる。正宗白鳥、室生犀星、堀辰雄、北原白秋らが集まり、滞在し、なかには家を買って住み始める者もいた。有島武郎と波多野秋子が情死したのも、三笠ホテルそばの有島の別荘、浄月庵でのことだった。堀辰雄が主宰し、立原道造、津村信夫、三好達治らが同人誌「四季」を作り続けていたのも戦前、戦時中の軽井沢である(いわゆる《四季派》)。
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『路上の霊魂(1920)』
村田実監督。大正初期に軽井沢でロケ撮影が行なわれた作品であり、別荘開発が本格的になる前の軽井沢の風景を垣間見ることができる貴重な作品である。ここで全編を見ることができる。
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昭和3年(1928年)、津村一族が、軽井沢ではじめて室生犀星一家を訪ねる。津村家の様子を室生犀星が書いている。
津村信夫の一家、すなわち父君津村秀松博士(法学)一家と私とは、津村全家を挙げて親しくしていたし、私の小家族もこれに合わせて親戚のような、濃いつきあいをしていた。後に映画の方面で情実を排した峻烈な批評家津村秀夫も、もとは詩人であり、私の前に現われた時は、水戸の高等学校在学中であった。彼の紹介でその弟の津村信夫が登場した軽井沢の家では、まだ白面豊頬の青年で慶応の学帽をかむり、いつも濶達に大声で談笑した青年であった。
軽井沢では秀松博士は三笠ホテルに毎夏滞在され、博士も見えられ私も訪ねたが、温顔謹直な紳士であった。信夫は軽井沢では鶴屋旅館に泊ったが、宿泊料はいつも支払わずに立ち去った。後から秀松博士が来沢された折に、支払う習慣になっていて至極暢びりした風景だった。信夫の姉の道子が私の家に現われたのは、昭和四、五年頃だったが、昭和八年に死去された。その間に久子母堂の来訪を受け、これで全家全員と親しいいんねんを続けたわけである。萩原朔太郎の全家の方々とも親しくしていた私は、これで二くみの家庭とゆききするようになったのだ。久子母堂が神戸から上京の折はいつも病弱だから、たいてい一等寝台車だった。私は信夫によくお母さんがお見えになったかどうかと言い、やはり一等寝台かとおそれいったものだ。母親と一等寝台車、そこにもムカシ、ムカシの或る母親のうつくしさがあった。僕も一等寝台で上京して来る母親を持ちたいものだ、それは母親にかぎるものだね、父親は三等でもいいがねと、私は信夫に笑ってそういった。
室生犀星「我が愛する詩人の伝記」
やがて、満州事変、二・二六事件、そして盧溝橋事件と、日本はファシズムと戦争の泥沼に深く沈んでいく。盧溝橋事件のすぐ後、堀辰雄(1904-1953)は雑誌「文藝」の中扉に、短い文章を寄せた。
リルケは大戰當時終始沈默を守つてゐたやうです。やはりさうするのが一番いいのではないかと考へますカロツサは「ルウマニア日記」など書いでゐますが、あれも大戰が終り、それについてあらゆる騒がしい戰争文學が氾濫したあとで、靜に現はされました。本當の文學といふものはさういふ風にしか生まれぬものだと確信いたして居ります。
堀辰雄[2]
[原文ママ]
戦時中の軽井沢は、独特の空間だったと言われる。高い山麓に囲まれているために空襲を受ける危険が低く、それゆえに、皇族、華族、そして文化人らが避難場所として選んで疎開していた。
堀辰雄は、戦時中は軽井沢に引きこもり、「菜穂子」や「大和路・信野路」のように、高原、サナトリウム、王朝文化を題材にした作品を発表し続けた。たしかに「戦局に対し、文学者として完全な沈黙を貫き通し[3]」た、とは言えるだろう。それを《抵抗》と賛美する者もいれば、《無関心》と解釈する者もいる。また、雑誌「四季」の主宰として、そしてその周辺の詩人たちの精神的支柱として、多くの高等文化人の拠り所になった事実も忘れてはならないだろう。
(軽井沢で堀辰雄は)三好達治、津村信夫、丸山薫らを知り、立原道造を愛し、育てるようになるのである。津村は神戸製鋼社長津村秀松博士の次男、丸山薫及び『四季』同人となる阪本越郎は共に高級内務官僚の息子であった。『四季』同人の多くが、当時としては「喰うに困らない」階層の子弟の集まりであったことは事実である。
栗原克丸[4]p.147
雑誌「四季」の第二期に編集も担当した丸山薫(1899-1974)の父は韓国警視総監、島根県知事となった丸山重俊である[5]。阪本越郎(1906-1969)の父は福井県、鹿児島県知事を歴任し、名古屋市長、貴族院議員、枢密顧問官をつとめた阪本釤之助である。阪本越郎は自身も文部省官僚であり、戦時中は教育を通して《少国民》を育成する運動の中枢にいた[4 p.169]。
太平洋戦争が激化してくると、日本政府は在留外国人たちを軽井沢に強制疎開させた。また、鳩山一郎をはじめとする反東條政権の政治家たちも軽井沢に逃避した。在留外国人のなかでもドイツ人でない者たちは、地域住民の差別と無関心、食糧難と物資不足、さらには特高による監視にさらされ、厳しい時代を過ごしたと言われる。遠藤周作の短編小説「箱」は、軽井沢に疎開した在留外国人が困窮と屈辱に苛まれる物語だった。ナチス政権に追われて来日し、NHK交響楽団の礎を築いた指揮者ヨーゼフ・ローゼンシュトック(1895-1985)も、1944年に軽井沢に強制疎開させられ、辛酸をなめた多くの外国人の一人である。彼の回想録は、遠藤周作の小説を裏付けるようなエピソードに満ちている。日本人でさえ食料を入手するのが困難な時代に、彼ら外国人に食料を分けてくれる者など少ない。ローゼンシュトックは農民と交渉し、彼の洋服との物々交換でようやく幾ばくかの食料を手に入れた。薪を入手するのはさらに困難で、冬の生活は悲惨だったという。だが、彼ら外国人の最大の恐怖は特高の存在だった。
われわれの士気にもっと悪い影響を及ぼしたものは、われわれ追放者たちが毎日──そして每夜──感じていた身の不安であった。戦争が刻々日本へ迫って来るにつれ、特高は増々神経を尖がらせ、誰も彼もが皆容疑者になってしまった。警察の調査は日増しに厳しくなって行った。ほんのちょっと容疑がかかっても、また敵意ある隣人の底意地悪いあやふやな告げ口があっても逮捕された。そして、一旦特高の尋問を受けるため逮捕された者は、二度と帰って来なかった。
ヨーゼフ・ローゼンシュトック[6 p.92]
戦争末期になると、本土決戦に備えて皇居と大本営を長野市近郊にある松代に設置する案が浮上し、資材と労働力(その大半は朝鮮半島から連れてきた朝鮮人労働者)を大量に投入して建設がすすめられた。
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『光と影(1940)』軽井沢ロケ
島津保次郎監督が松竹から東宝に移籍した直後の作品。大日方伝、原節子出演。
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そして敗戦
1945年8月15日正午、ラジオで玉音放送が流れ、大部分の国民は意味は分からないながらも、戦争に負けたのだと知った。
(長野県旧更級郡では、在郷軍人が中心となり、国土防衛隊の越第31006部隊が編成されていた。8月15日は朝から、校庭で将校の訓示、数班に分かれて校庭や寺の境内などで蛸壺の掘り方や蛸壺の入り方などを訓練していた。)正午の放送の前に壇科中部青年学校体育館に整列、宮城の方に向い正座して待つ、ラジオはガーガーと良く聞こえない、長野連隊区司令部の将校は、陛下が戦争激烈を極めて来たので、朕に続けという放送だと思う、だから天皇陛下万歳をする俺が音頭を取ると、宮城に向かい万歳三唱、近所の人が来て、戦争に負けて万歳するとは何事だ、今の玉音は戦争終結をお告げになったという、将校は長野連隊区司令部に連絡して敗戦を確認し、再び整列し将校は涙を流しながら、とぎれとぎれに細い声で軽挙妄動するななどと話し解散する。
軽井沢、そしてその周辺地域に疎開していた多くの文化人、文学者も玉音放送を聞いた。
8月15日正午、下高井郡種波村角間温泉に間借りして疎開していた林芙美子、放送を聞いて天皇はすぐ退位し小さい皇太子が天皇に立たないか、天皇自身の財物すべてを開放し、昔の歴史に見るような貧しい行在所での暮しを想像して暗然とする、皇族も華族も野に下がってしまい、都大路を行く皇太子の馬車を牧歌的な懐かしさで拝し、同じ民族の中につながる暖かい思いやりの涙ををそこはかとなく感じもえたらとまで空想、終戦と同時にふくいくとした救いのある国柄になりたいという気持ちすら考えていたと。
8月15日正午、上田市の結核療養所奨健寮に疎開している東京帝国大学医学部内科教室で無給副手の加藤周一ら、院長・医者・看護婦・従業員・患者が食堂に集められる、聞きとりにくい玉音放送の後、事務長がこれはどういうことですかと院長に聞く、戦争が終ったということだと院長、土地の若い娘の数十人の看護婦たちは、何ごどともなかったように、いつもの昼食後と少しも変らず、賑やかな笑い声を立てながら、忽ち病室の方に散っていった、戦争は遂にどんな教育や宣伝にかかわらず、娘たちの世界のなかまでは浸みこんでゆかなかった、事務局長や疎開の医局上員の多くは沈鬱な表情、しかし涙を流した者は1人もいなかった、加藤は今や私の世界は明るく光にみちていた、夏の雲も、白樺の葉も、山も、町も、すべてよろこびに溢れ、希望に輝いていた、加藤はその時が来るのを長い間のぞんでいた、しかしまさかそのときが来ることは信じていなかった、すべての美しいものを踏みにじった軍靴、すべての理性を愚弄した権力、すべての自由を圧殺した軍国主義は、突然悪夢のように消え、崩れ去ってしまったと、そのときの加藤は思ったと。
8月15日(北佐久郡小諸町に疎開中の高浜虚子)終戦に際し、秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ、盂蘭盆会其勲を忘れじな、敵というもの今は無し秋の月、黎明を思い軒端の秋簾見る。
8月15日夕方、北佐久郡軽井沢町の国鉄信越線軽井沢駅で、突然に電灯が灯り空襲を恐れた灯火管制が終る、中村真一郎は戦争が終わったと心中で叫ぶ、傍らのコンムュニストの風間道太郎(更級郡稲荷山町出身、父は衆議院議員であった風間礼助)からインターナショナルの曲、中村は新時代の到来に感激。
8月15日、北佐久郡軽井沢町に疎開中の室生犀星、終戦を迎える、小説に戦争の歴史は敗けた方が偉大な執筆者に早変りする、小さい血の気をうしなった軽井沢町から、高貴な人がしずしずと引き上げられ、憲兵隊はいち早く解散したと記す
8月15日正午、北佐久郡軽井沢町追分に疎開して結核療養中の堀辰雄、追分の油屋で放送を追分の村人らと聞き愁眉を開く、多恵子夫人は帰って小豆を洗い大切な砂糖で汁粉を作る
8月15日正午、北佐久郡平根村横根に疎開の佐藤春夫、田舎家のレシイバアの前に襟を正して畏くも玉音を乱す雑音を謹んで拝聴、憎むべくも甚しく状態の悪いラジオから、五体為に裂くなどの言葉で趣旨を辛うじて拝承し聖断の恭さに感激、帰る途中で話をする、本当に平和な趣旨に応え奉る文化国家を建設する力が国民にあるのだろうかと。
8月15日正午、北佐久郡軽井沢町に疎開の正宗白鳥は放送を聞く、ラジオは不完全で明瞭に聞き取れなく理解しかねる、隣家の婦人は戦争はすみましたのですねと、眼差しに心の喜びを洩らして言う、白鳥は天下の形勢に暗く、戦争の経過や真相はよく分かっていなかった、新聞やラジオの報道の信用しがたいことは心得ていた、外国人は戦争が終ることを事前に知っている、日本人は降伏なんてことは有り得べからざる事として、生まれて以来教え込まれて来たと書く。
そして、最初にいなくなったのは特高だった。
翌日も、軽井沢の生活は、いつものように続いた。ただ、特高の姿は一人も見えなかった。それだけが違っていた。
ヨーゼフ・ローゼンシュトック[6 p.96]
8月16日、長野県警察部警務課、警察文書を裾花川畔で焼却する、敵国であった米・英に見られてはならぬと、また米軍が新潟に上陸したという流言に焦燥して警察官の名簿まで焼却、その後の恩給裁定事務に支障する、特別高等警察課関係者の名簿は菰に隠して倉庫の片隅に置き、その後にその関係者の救済に資することになったという。
References
[1]^ 金兒伸欣, “津村信夫論,” 新詩人, vol. 33, no. 387, pp. 14–15, Jul. 1978.
[2]^ 堀辰雄, “[中扉],” 文藝, vol. 5, no. 10, p. 1, Oct. 1937.
[3]^ 杉野要吉, “昭和十年代の堀辰雄 -「沈黙的抵抗」の周辺をめぐって-,” 国文学研究, vol. 29, pp. 117–126, Mar. 1964.
[4]^ 栗原克丸, “日本浪曼派・その周辺 : 文学者の戦争賛美はいかに準備されたか.” 高文研, 1985.
[5]^ 藤本寿彦, “丸山薫と父・重俊―「私の明治」をめぐって,” 昭和文学研究, vol. 25, pp. 44–52, Sep. 1992.
[6]^ ジョセフ・ローゼンストック, “ローゼンストック回想録 : 音楽はわが生命” 日本放送出版協会, 1980.
[7]^ 小林英一, “長野市の地理と歴史 第五部 総合年表 1945(昭和20)年8月の長野.” 小山印刷, 1997.