映画批評の帝王
戦時中も活発に映画批評を続けた人物として、津村秀夫(1907-1985)があげられる。
津村秀夫は、昭和6年(1931年)に朝日新聞社に入社していらい、映画評を紙上で書き続けていた。昭和17年(1942年)には、雑誌「文学界」で企画された座談会「近代の超克」のメンバーに加わっている。
この座談会で発言した人々は一三人(小林秀雄、西谷啓治、亀井勝一郎、諸井三郎、林房雄、鈴木成高、三好達治、菊池正士、津村秀夫、下村寅太郎、中村光夫、吉満義彦、河上徹太郎)で、繰り返して言えばその中軸は日本浪曼派と『文学界』同人の文学者たち(小林、亀井、林、三好、中村、河上)および京都学派の哲学者、歴史学者たち(西谷、鈴木、下村)である。小林と鈴木を除いた一一人は座談会に先だって、それぞれの分野からする報告論文を提出し、全員がこれに前もって眼を通したことになっている。
大橋良介「『近代の超克』と京都学派の哲学」[1]
「近代の超克」は、「太平洋戦争が単に外面的な政治・経済・軍事上の戦いだというのではなくて、内面的な『精神』の存亡のかかる戦い」だという認識のもとに議論された。竹内好は、この「近代の超克」の定義として小田切秀雄のそれを引用している。
太平洋戦争下に行われた『近代の超克』論議は、軍国主義支配体制の『総力戦』の有機的な一部分たる『思想戦』の一翼をなしつつ、近代的、民主主義的な思想体系や生活的諸要求やの絶滅のために行われた思想的カンパニアであった。当時『思想戦』を呼号していた一層粗暴な軍国主義者たち(文壇のなかにも少なからずいた)の活動にたいして、『文学界』グループを中心としたこの論議は、ヨリ知的なスマートな外見を示していたが、本質的には同じコースを進んでいたものであり、それだけに手のこんだ影響を及ぼしていた。『文明開化』と官僚主義への批判という形で日本浪曼派が行ってきた資本主義文明批判はこの論議によってヨリ広い視野のなかにひきだされ、さらに日本の近代社会とその生活・文明・芸術等においての近代的な側面のいびつな展開とそれの作った弱点がさまざまな角度から論難攻撃され、その結論として軍国主義的な天皇制国家の擁護・理論づけないしそれの戦争体制の容認・服従ということが思想的カンパニアとして行われたのである。
小田切秀雄 [2]の引用
この思想的バックボーンを得た津村は太平洋戦争が終結するまで、極めて好戦的、ファシスト的な内容の映画批評を数多くしたためている。映画政策に関する著述も多く、国策映画製作体制の徹底とアジア侵略による領土拡大に伴う映画製作準備を推し進めるべきという主張を繰り返していた。
例えば、昭和19年(1944年)に出版された「映畫戰」という著書では、「日本の映畫界を思想戰に動員するためには、次の四點の要綱を必須とする」として、以下の五点を挙げている [3]。
(1)は國内戰線と國外戰線とに對する映畫企畫や最高方針を、戰局の進展に伴ひ、逐次立案、審査する中枢的機關を行政組織内に設けるべきこと。……
(2)…… 映畫戰には映畫館及び配給網の整備が基礎的であるだけに、内地の興行面を再編成すると同時に、外地及び共榮圏各國におけるこの方面の施策を強化すべきこと。
(3)映畫戰の更にもう一の重要なる基礎は、映畫科學技術の振興である故に、従来の如く資材及び機材を凡て外國の映畫界に依存していた態勢を打破して、獨力で生き抜き得べき研究を急速に完成せねばならぬこと。……
(4)大陸に對する映畫工作は、國府宣傳部直轄の「中華電影聯合股份有限公司」の誕生を機として、日、滿、華各政府の映畫協力体制を日本を中枢として構成することが要請される。
(5)對外的思想戰に映畫を動員せしめるためには、いまだ調査の至らざる南方各外地及び獨立國のみならず、印度、濠州、西亞各地方の映畫事情及び民族の研究をも恒久的に實践する研究所を創設すべきことが必要である。
津村秀夫「映畫戰」
この四点、あるいは五点は、映画の内容にかかわる話は敢えて言えば(3)くらいしかなく、どれも映画政策の提案に過ぎない。
戦時中の津村の活動として、最も影響力があったのは、朝日新聞に筆名「Q」として掲載していた映画評だろう。全国紙に、文化アジテーターとして、ともすれば彼から見て《安易》な映画を作ろうとする映画人を厳しい筆致で批判した。他愛もない娯楽映画、特にマキノ正博の映画には容赦なく悪言を連ねてその存在価値を否定した。
『待ってゐた男(1942)』マキノ正博監督
東宝の恥辱のみならず、日本映画界の恥辱であらう。(1942.4.23)
『誓ひの港(1942)』大庭秀雄監督
全く屁のやうな作品(1942.8.7)
『愉しき哉人生(1944)』成瀬巳喜男監督
作つた人々の精神状態を疑ふ(1944.1.30)
Q
批評家やそのファンの中には、罵倒芸を好む人たちが一定数いる。そして、津村秀夫は朝日新聞という全国紙上で、《近代の超克》のイデオロギー(あるいはその後光)を盾に、罵倒芸を繰り広げた人物だった。
植草圭之助によれば、島津保次郎監督と彼は映画『母の地図』公開のときに、Qに攻撃されたという。
私が初めて書いたシナリオ『母の地図』は東宝の島津保次郎の演出で映画化され、興行成績は最高だったが、朝日新聞の映画欄で当時、自ら情報局の旗振りをもって任じ映画批評の権威、帝王的存在を誇っていた津村秀夫(ペンネーム=Q)から批判をうけた。
作品のクライマックスである、母親役の杉村春子と末娘の原節子が、出征する次男役の大日方伝を見送るシーンがあまりにリアリズムで暗すぎること、原節子と恋人役の森雅之との恋愛が生々しく悲劇的であり過ぎるという二点を挙げ、この種の映画をつくる監督も作者も非国民である、今後、心を改め国策の線に即した作品づくりに挺身すべきであるときめつけられていたのだ。
植草圭之助「わが青春の黒沢明」
全国紙の紙上で津村秀夫に「非国民」と呼ばれた植草圭之助は、それ以来おびえてしまったようだ。島津保次郎には「くさることはないさ」と励まされたが、やはりこの一件は決して見過ごせるものではなかった。山形雄策は『荒姫さま』の脚本執筆の危険性を植草にこう告げる [4]。
いや、君たちが狙った本来の作品が出来た場合、情報局で叩かれる。黒沢は実績があるからまだ救われる。君は前のとき、“非国民”呼ばわりされたんだから、こんどは“亡国者”扱いだぜ。
植草圭之助「わが青春の黒沢明」
植草はこの回想を戦後25年以上経ってから書いている。実際にQこと津村秀夫が朝日新聞に載せた『母の地図』の映画評は、映画監督と脚本家を非国民呼ばわりするような、そんな物騒なものだったのだろうか。
島津監督は新人植草圭之助の脚本「生活の河」によつて「母の地図」を作つたが、昨今のゴミのような劇映畫の駄作氾濫の中では、撮影効果も良好で、マシな方だが、要するに島津保次郎も混迷に陥ちてゐる。
Q [5]
これを見る限り、他の映画(「昨今のゴミのような劇映畫の駄作」)と較べれば、比較的好意的に位置づけられてはいる。そして、映画のあらすじと出演者たちを一通り論難(と言っても全く深刻なものではない)したあと、こう結ぶ。
都會生活の物質的困苦の流れにのみ眼を奪はれて、これと戰ふ精神的愉悅の中に美を求められなかつた失敗は、作者の現代に生きる意志が未だ熟してゐないからである。
Q [5]
津村の罵倒芸のなかでも、『母の地図』評はそれほど深刻なものではない。「非国民」などという物騒な言葉も印刷されていない。むしろ、植草圭之助や山形雄策が、映画評の実際のテキスト以上に、津村秀夫からの評価を気に病んでいたという事実に目を向けるべきかもしれない。島津保次郎が「なにが帝王だ」と言ったということは、実際に映画界で「帝王」として恐れられていたことを示唆している。今村太平が戦後何十年にもわたって、津村秀夫の権威主義的性格を非難し続けてきた事実は、今村の性格を勘案しても、無視しきれないだろう。戦時中から、他の同業者、映画批評家たちが、異口同音に津村の言動を問題視していながらも批判を展開できず、そして戦後に至っては戦争協力者として徹底的に糾弾できなかったのは、どういうことなのだろう。
アッツ島玉砕、山本五十六元帥の戦死など、戦況が悪化していくなかで映画に対する風当たりも強くなっていた。1943年6月に起きた東宝の『若き日の歓び』と大映の『戦陣に咲く』の2作品の検閲で起きた問題は深刻だった。
明十日封切を予定されていた東宝の「若き日の歓び」(紅系)大映の「戦陣に咲く」(白系)は両方とも内務省の検閲に引懸り「若き日の歓び」は大カットの末漸く通検、「戦陣に咲く」は遂に保留され急拠東宝映画の「男」につき替へることゝなつたが、山本元帥の壮烈な戦死、アツツ島山崎部隊の玉砕と相次ぐ厳粛な事態に直面し、思想戦に於けるフイルムの弾丸と言はれる映画の在り方が改めて問題になつたことの端的な現れである。
東京新聞 昭和18年(1943年)6月9日
[6 p.246]
『若き日の歓び』『戦陣に咲く』両映画ともに事前の脚本検閲を通過していた。当時の報道によれば、それが「作品の出来上がりと脚本が甚だしく相違しているため」保留になったという。
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『若き日の歓び』広告
公開前に雑誌「新映画」昭和18年(1943年)5月号に掲載された広告
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『若き日の歓び』に関しては「米英思想の残滓」があると指摘されて、全8巻のうち3巻分が削除されてわずか5巻で公開された。一方の『戦陣に咲く』は、吉川英治の「函館病院」を原作とする戊辰戦争の物語である。主人公の高松凌雲は、五稜郭の戦いで、幕臣派の医師として戦傷者の治療に当たったが、彼は敵味方分け隔てなく治療を施した。高松は日本赤十字の祖と言われており、それが時局にそわないと判断されたのだった。
非道の敵の作戦を目前にして、果たして赤十字精神をああいう角度から描く映画企画が、適切であろうか。むしろ今日の時代は敵愾心昂揚の目的で企画すべきで、いかに国内戦争に材を取った企画でも、敵味方を超越して医療に従う科学者としての姿を理想化するような作品は、いまだ消極的ばかりでなく、且つ国民への微妙な影響をも考慮せねばならぬ。
津村秀夫
「日本映画界に檄す!」[7 p.427]
「帝国の銀幕」の著者、ピーター・B・ハーイはこの2作品の検閲問題は、情報局の権威の失墜とみている。情報局はすでに汚職の嫌疑で課長2人が左遷されており、外部から強い圧力をかけられていたという。ハーイによれば、その圧力の張本人は津村秀夫ではないかという。
当時情報局にかかった外部の圧力の源を探ると、津村秀夫自身が、有力な候補として浮かび上がる。まだ比較的若かった津村(1943年に36歳)が文化政策に及ぼした影響は、他のいかなる批評家とも比較にならないほどで菊池寛をもしのいでいた。次々と書き下ろす映画批評で、津村は政治の政策の論理を説明する報道官のような調子であったが、この時期の著作にいたっては、タイトル自体が、自分が権力の中枢部にいることを誇るかのような印象を与える。『映画政策論(1943)』と『映画戰(1944)』がその著作であり、後者は占領地での 映画政策を詳述するものだった。
ピーター・B・ハーイ [7 p.426]
津村秀夫がどのようにして政治的圧力をかけたのか、「帝国の銀幕」は具体的な資料を提示していないので、真相はわからない。当時、津村が所属していた朝日新聞は、社長の村山長挙と編集主筆、緒方竹虎の抗争、さらに当時の東条英機との確執による政局抗争の渦中にあった。数か月後には東條内閣批判を書いた中野正剛が特高により拘束され、その後自殺する事件も起きている。これらの騒動のなかで津村がどう動いたか、そしてそれが効果があったのか、は不明である。しかし、彼が戦争末期の物資欠乏の時期に著書を2冊も出版できたこと、その2冊が文化政策に関する急先鋒の意見であったこと、新聞紙上や雑誌紙上での彼の発言が当時の検閲の事態と時期的にほぼ同期し、内容的に合致していること、などから考え合わせても、少なくとも映画批評界において、津村秀夫は、極めて大きな《声》だったのは間違いないのではないだろうか。
映画『戦陣に咲く』の上映禁止事件から4か月後の1943年10月、雑誌「日本映画」が「映畫批評の機能と權威」という特集を組んだ[3]。飯島正、今村太平、内田岐三雄、澤村勉、清水千代太、南部圭之助ら15人がそれぞれ寄稿し、映画批評の現状の問題点を論ずるという企画である。特集には、津村秀夫の特殊な位置があからさまに表れている。他の論者はすべて3ページのスペースの中で、映画批評の問題点を具体的に論じているのに対し、津村ひとりが7ページを割いて、架空の「客」と「主人」の会話を通して映画批評を語らせるという高踏的な文章を書いている。他の論者のなかには、津村を間接的に、あるいは「Q」としてほぼ直接的に批判している者もいるが、そんなものどこ吹く風といわんばかりの余裕である。
戦争中は、情報局にまで圧力をかけるような《力》を持っていた津村秀夫だったが、戦争が終わるとその態度は一変した。
戦争が終わった翌月の「映画評論」9月号に津村秀夫は「日本映畫の運命 夜更けの映畫論─」という題で文章を寄せている。このなかで、津村は架空の「映画批評家」と「青年」に対話させ、敗戦によって変貌した映画界が作る必要がある映画は八月十五日についての映画であると主張する。
映画批評家 ─ すでに解放されたわが言論界は堂々とこの敗戦の責任者を追窮し大戦の直接の責任をある種の軍閥に歸して論じてゐるではないか。東條軍閥が重大な過誤を犯したことは明白であり、これ以前にも滿洲事變、支那事變に點火した軍閥は心ある國民から批判され、攻撃されてゐるではないか。だからこれは決して矛盾なく描き得る映畫であり、われらは決して同胞兵士に向つて刃を向ける必要は些かもないだらう。
津村秀夫 [8]
この文章で、津村は、架空の「映画批評家」に終始語らせている。戦時中の「過誤」をすべて軍閥の責任と位置付け、それゆえにこの架空の「映画批評家」の言う八月十五日の映画は、「矛盾なく描き得る」と結論付けている。
戦時中、黙っていた同業者たちは、戦後になって津村に対する批判を始めた。しかし、それは津村の戦争責任を追及するものではなく、権威を笠に着た俗人ぶりを嘲笑するものが大半だった。戦時体制への加担について批判すれば、当然彼ら自身の戦時中の姿勢も問題にされるからである。
R 津村は前に「映画批評は男子一生の仕事に非ず」と大見得を切つたが、あれはけつきよく文学にたいする映画批評家の劣等感を表明したものだね。
映画ヂアナリズムを語る
匿名座談會 [9]
(津村氏の映画批評は)……どこか田舎役者が檜舞台で大見得きってフンぞりかえっているさまを思わせるものがある。(津村)氏がこの事実に気づいていないのはもちろんであるが、映画雑誌の編集者もどうやら気づいてはいないようである。
今村太平 [10 p.229]
自らの力ではなくて、そのうしろにある権威のみが津村氏を映画批評家にしてしまった。
井沢淳 [11]
M しかし誰も彼に映画批評の筆をとらせた背後の人の功績は認めてない。それが僕にははなはだ片手落だと思うね。津村秀夫の自分には至極大甘な性格とか、その映画批評にふさわしい鑑賞力とかを、朝日の道具に使つて、日本映画を思いきり叩かせた人選だね。津村よりも彼にこの仕事をあたえた蔭の人物こそ烟眼の士だと思うよ。批評家としての津村は一つのグロテスクに過ぎない。
映画ヂアナリズムを語る
匿名座談會 [9]
戦後、津村は《戦争責任》あるいはそれに類する言葉を、自らに対して使ったことはないのではないだろうか1)。戦時中、「日本の映畫界を思想戰に動員する」と息巻いていたのだが、初老になってから発表したエッセイでは、みずからを「サラリーマン」と定義し、大記者になる夢も持たず、頭も悪く、学問をする自信もなかった人間だと述懐している。
私が大学を出て朝日新聞東京本社(当時は東京朝日と言った)へ入社したのは、昭和六年春、満州事変勃発の年である。前年からもう政治的暗殺事件は始っていたから、正に疾風怒濤の時代に新聞に飛びこんだわけだ。
別に大記者になる夢を持っていたわけでもなく、それほど敏しょうな人間でもない。頭も悪く、学問をするには自信がなかったから、やむを得ず新聞社を志望した。新聞こそいい迷惑である。
ところが六年に入社してから三十七年の定年(五十五歳)まで、とうとう石の上に居すわった。忍耐強かったわけでもなく、「石の橋をたたいて渡る」ほど用心深かったわけでもない。
津村秀夫
「石の上にも三年(朝日を去らざるの記)」
[12]
だが、彼を知る者は、謙遜よりも不遜を感じていた。
よく、罵倒芸を披露する映画批評家は、映画会社に阿らず、独立した視点から批評をしていると考える人がいるが、そんなことはない。津村秀夫は鎌倉の自宅に近いこともあって、彼が散々こき下ろしてきた松竹の撮影所にしょっちゅう顔を出していた。 松竹の営業マンが当時を振り返る。
気に食わないことの第一は、ある朝ふいに現れて宣伝部の応接ソファに見るからに不遜なポーズで坐り込み、足を横柄に組んで、所長以下、所内のエライ人を呼び付けることである。所長と所次長、それに宣伝課長の三人の誰もが居ない時には、決まって見るみるうちに不愉快さを態度と口に出す。そして、「どういうことだね、これは。え、○○君!」とわれわれの誰彼に向かって吐き捨てるように言う。……(略)……
なお許せないことには、われわれが常々尊敬の思いで接している小津監督以下の、当社の誇る監督たちにたいして、独特の横柄な語調で、「オッチャン」「木下君」と呼ぶことだった。
鈴木和年「いつか来る定年の日」
[13 pp.140-141]
津村は自分のお気に入りの女性を、松竹に女優として売り込もうとしたこともあった。
志賀直哉は、里見弴の家で幾度か津村秀夫と会っただけだが、彼の思い上がりに辟易した一人である。
「いつか朝日新聞社に行った時だがね。津村君に会った。そしたら大勢いる前でね。『よう』とか何とかいって人の肩をポンと叩くんだよ」。志賀さんの顔は忽ち不愉快そうになり、「まるでこっちを友だちか何ぞのようにね」と吐き出すようにつけ加えた。
今村太平『志賀直哉論』[13 p.257]
津村秀夫は、テキストや記録で残ってはいない形で、権威を投影することができた。それは戦時でも、戦後でも変わらなかったようである。
日中戦争時から終戦までの津村秀夫の言動を見渡していくと、批評を駆使して、創作物(映画)がプロパガンダとして機能するように、創作者たち(映画監督、脚本家、映画会社、俳優など)を威圧していく人物の姿が浮き上がってくる。だが、彼の批評のテキストそれ自体がそのような力をもっていたわけではない。彼の《批評の駆使》には多分に政治的(党派的)な圧力が関係している。残された彼のテキストは確かにファシスト的、帝国主義的な論調に満ちているが、彼の言説が果たした効果の源泉、圧力の発生源を、そのテキスト自体に読み取ることは難しい。彼自身が、情報局に属していたわけでもなければ、政治家だったわけでもない。彼の批評が生み出す、その圧力の発生源は、言葉としては残らない、あるいは形としては記録されない、ある種の《メカニズム》によって生み出されたものだろう。
言葉として残らない、形として記録されない種類の《メカニズム》は、いつでもまた起動する惧れがある。なぜなら、その《メカニズム》を記憶していた世代は、その《メカニズム》の見取り図も、それに抵抗するマニュアルも残してくれなかったからだ。
Note
1)^ ピーター・B・ハーイは著書「帝国の銀幕」のエピローグで、津村秀夫の戦後に触れ、津村が「自分の戦時中の活動を一種の『精神病』と見なした」と述べている。しかし、ハーイがその根拠として引用している文章は、戦後の「映画と批評」に所収されたものの[14]、元は昭和15年(1940年)に書かれた単行本に収められたものである [15]。戦後の発言とは言い難い。
References
[1]^ 大橋良介, “「近代の超克」と京都学派の哲学” 岩波講座現代思想, vol. 15, 岩波書店, 1994.
[2]^ 竹内好, “近代の超克,” in 竹内好評論集, vol. 3, 筑摩書房, 1966, pp. 141–203.
[3]^ “特輯・映画批評の機能と權威” 日本映画, vol. 8, no. 10, pp. 12–65, Oct. 1943.
[4]^ 植草圭之助, “けれど夜明けに:わが青春の黒澤明” 文芸春秋, 1978.
[5]^ Q, “新映画評:’母の地圖’ 東宝映畫” 朝日新聞(東京版), p. 4, Sep. 02, 1942.
[6]^ “新聞集成昭和史の証言” vol. 17. 本邦書籍, 1987.
[7]^ ピーター・B・ハーイ, “帝国の銀幕―十五年戦争と日本映画―” 名古屋大学出版会, 1995.
[8]^ 津村秀夫, “日本映畫の運命(夜明けの映畫論─)” 映画評論, vol. 2, no. 3, pp. 7–10, Sep. 1945.
[9]^ “映画ヂアナリズムを語る 匿名座談會” 映画文化, vol. 3, pp. 6–18, Nov. 1950.
[10]^ 今村太平, “映画理論入門” 板垣書店, 1952.
[11]^ 井沢淳, “津村秀夫論” 現代日本映画論体系1(戦後映画の出発), 冬樹社, 1971, pp. 256–259.
[12]^ 津村秀夫, “遠くの島から来た手紙” 勁草書房, 1984.
[13]^ 鈴木和年, “いつか来る定年の日” 朝日新聞社, 1986.
[14]^ 津村秀夫, “映画と批評 第3部(日本扁).” 角川書店, 1943.
[15]^ 津村秀夫, “映画と批評 続” 小山書店, 1940.