戦時中の小津安二郎作品の削除シーン

わたしたちの果てなき切望 (14)  ─── 小津安二郎が戦時中に監督した2作品を読む

『戸田家の兄妹』と『父ありき』

日中戦争が激化してきた1937年9月に陸軍近衛歩兵第2連隊に33歳という高齢で招集された小津安二郎は、それから約2年間、日中戦争の主要な戦地を次々と転戦したのち、1939年に招集解除となった。この時期の小津の一兵士としての行動や心理については、田中眞澄の「小津安二郎周游」が詳しく論じている [1]

松竹に戻ってきた彼が最初に監督したのは『戸田家の兄妹(1941)』だった。彼が帰国第一作として準備していた『お茶漬の味』の脚本が内務省の検閲を通らず、方針転換したのちに作られた映画である。さらにその後、戦時下映画興行の再編成により、すべての劇映画の配給が白系/紅系と分類され、その白系の最初の作品として『父ありき(1942)』が公開された。戦時中に、小津安二郎が監督した映画はこの二作のみである。

問題は、この二本の映画は戦時中に公開されたときと、現存しているプリントでは内容が若干異なるという点である。戦後の占領期に、いわゆるGHQが戦意高揚に関わるシーンを削除したのだ。『戸田家の兄妹』の現存するプリントは公開時と比べて約1分ほど、『父ありき』の現存プリントの場合は公開時と比べて7分ほど短くなっている。

公開時国立フィルムアーカイブ
#1#2
上映時間(分)106105104
フィルムフォーマット353516
フィルム長(フィート)950194113743(9440)
『戸田家の兄妹』の上映プリントデータ
16㎜プリントの括弧内の数字は35㎜プリントに換算した時の推定プリント長
公開時国立フィルムアーカイブ
#1#2#3
上映時間(分)94727287
フィルムフォーマット35353516
フィルム長(フィート)8490649865053123(7800)
『父ありき』の上映プリントデータ
16㎜プリントの括弧内の数字は35㎜プリントに換算した時の推定プリント長

これらの2作品、特に『父ありき』を見て「反戦的」あるいは少なくとも「厭戦的」という感想を残している人も多いが、戦意高揚に関わる部分を削除されているのだから、致し方ないことなのかもしれない。この削除された部分を考慮すると、「小津は、これらの映画に反戦のメッセージを忍び込ませた」といった見方は、いったん保留しなければならないのが分かるだろう。

『父ありき』脚本執筆中のスナップ
池田忠雄と小津安二郎、茅ヶ崎の海岸にて 「新映画」昭和16年9月号

『父ありき』に関しては、ソ連崩壊後、ロシアのゴスフィルモフォンドでプリントが発見され、日本に返還されたが(上記、フィルム・アーカイブ保有している35㎜フィルムのうちの1本)、これにGHQが削除したシーンが残っていた。おそらく、満州などに送られて上映されていたプリントが、侵攻してきたソ連軍によって没収されて持ち帰られたのだろう。このあたりの経緯は、新しく4K修復版を作った国立映画アーカイブの大澤浄氏のインタビューに詳しく書かれている。このフィルムとGHQ検閲版を比べると、GHQによって削除されたのは、どれも出征に関するシーンだったことがわかるという。まず、息子の佐野周二が、父親の笠智衆に会った際、兵役検査に行くことや、甲種合格したことを伝えるセリフの部分がカットされている。徴兵されたことはだいたい雰囲気でわかるのだから「大した話ではない」と思われるかもしれないが、戦時中は、戦争に関わるディテールが極めて重要なのだ。朝日新聞のQこと津村秀夫が批判するように、ディテールの扱いを間違えると、映画全体の評価に影響するのである。

……現代の「甲種合格」の持つ意味が如何に重大であるかと想へばたとひ遺言とはいへ、このやうな曖昧さで通過するのは問題で、特に國民映画としては後半が大きなきずであらう。

「父ありき」評 Q
朝日新聞「新映画評」

また、同窓会の場面で、笠智衆が詩吟を披露する部分はGHQによって丸ごとカットされた。これは、藤田東湖とうこの「正気歌せいきのうた」で、皇国の尊さを讃え、天皇に身を捧げるという内容のものだ。

生きてはまさ君冤くんえんそそぎ、綱維こうゐを張るを見るべし。

死しては忠義の鬼となり、極天きょくてん皇基こうきまもらん。

藤田東湖「正気歌」より

同窓会に出席した者たちの多くは出征するという。そこで笠智衆がこの歌を手向けるのだ。私は旧フィルムセンターでゴスフィルモフォンド版プリントの上映でこのシーンを見たとき、あまりに長くて集中力が切れてしまったのを覚えている。

また、映画のラスト、東北に去ってゆく列車の姿のカットに「海ゆかば」合唱が重なっていた1)

これら削除されたシーンは、当時どのような意味を持っていたのだろうか。もうすでにこの時代から遠く離れてしまった私たちには、「天地正大の氣、粋然すいぜんとして神州にあつまる」と聞いて背筋が伸びる思いもしないし、「死して忠義の鬼となり」に実感もわかない。だが、学徒出陣という悲壮感にみちた儀式で、この「正気歌」と「海ゆかば」が登場すると聞くと、今の私達でも少しはその言葉の魔力が分かるかもしれない。『父ありき』公開の1年半後、学徒出陣壮行会が代々木で行われたとき、東条英機は訓示で「正気歌」を引用し、壮行会の最後には「海行かば」を出陣学生たちが斉唱したのだった。また、日本文学報国会は「正気歌」を「天長節(天皇誕生日)に朗詠するに最もふさわしい」としている [2]。国威発揚、戦意昂揚の点では、十分に機能する引用要素だったのだ。

問題は、小津が演出としてこれらの要素をどう扱ったか、ということになるだろう。分析はまだこれから、かもしれない。

『戸田家の兄妹』製作中のスナップ
出演者、スタッフが小道具、衣装をデパートで探索する様子。手前に三宅邦子、奥に小津監督と吉川満子の姿が見える。「新映画」昭和15年12月号

一方、『戸田家の兄妹』はカットされたフィルム長は短いものの、GHQによって極めて衝撃的なシーンが削除されている。それはクライマックスの法事のあとのシーン、昌二郎(佐分利信)が兄姉たちの母と妹に対する不義理を糾弾する場面で起きる。昌二郎は長男夫婦、長女を問い詰めて批判したあと、二女の綾子(坪内美子)とその夫(近衛敏明)も叱責する。そして綾子に「こっちにこい」と言う。残存しているプリントでは、ここで編集にジャンプがあり、昌二郎のまえに座った不本意そうな綾子のカットに突然移ってしまう。実は、ここで昌二郎は綾子のことを「平手打ち」していたのだ。この一瞬のフィルムがカットされた。兄による妹への、あからさまな暴力のシーンは、戦後の民主主義的家庭観にそぐわないと判断されたのだろう。

この短いフィルムがあるか、ないかでは、フィルム全体のもつ意味合いが大きく変わってしまうのではないだろうか。脚本では、雨宮夫妻両方を殴ることになっている。

雨 宮 いや……でも……

昌二郎 何がでもだ!はっきり云いたまえ。君は何時も口先だけだ!問題は誠意のあるなしだ!口先なんてどうだっていいんだ

雨 宮 そんな失礼な……

昌二郎 何が失礼だ!(いきなり雨宮の頬に平手打ちが飛ぶ)……君は帰ってよろしい!

雨 宮 しかし……

昌二郎 しかし帰ってよろしい!……綾子一寸此処へ来い

綾子、来て坐りかける。いきなり頬を打ち、

昌二郎 よし、お前も一緒に帰れ!

雨宮、不貞腐れて立ち上り、綾子も続いて共に帰りかける。

「戸田家の兄妹」シナリオ

雑誌「新映画」誌上に掲載された対談(里見弴、小津安二郎、池田忠雄、溝口健二、内田吐夢、津村秀夫、南部圭之助)でも、このシーンについて討議が交わされている。座談会の中の会話から察するに、映画では次女を平手打ちするだけになっていたようだ。

南部 最後は全部殴りたいのですか?

小津 始めの豫定ではもう一人、雨宮を殴る積りでした。

戸田家の兄妹・検討 [3]

ずいぶんと乱暴な展開である。果たして、この「頬を打ち」はどのように演出されたのか。実際にフィルムが発見されることを願う。

私が、今回《プロパガンダ》について考えていくうえで、小津の以下の発言にひどく感銘を受けた。彼が戦場で里見弴の作品とどのように関わっていたかを話すところである。

小津 「鶴龜」は支那で拝見しました。文藝春秋からあの頁だけはずして別に、表紙をつけて、背嚢の中に入れて、戰争中持つて歩いてゐました。南昌攻撃の修水渡河戰の日、修水のほとりで「サンデー每日」を拾つたのです。それに「三平の一生」が出てゐたのです。その日の午後から總攻撃なのですが、それまでの間、ひよいとすると、今日は死ぬかもしれないと思ひながら、大變いゝ氣持でこれを讀ましていたゞいたことを覺えてゐます。

戸田家の兄妹・検討 [3]

戦場で祖国の雑誌を拾い、そこに自分が好きな小説家の文章を見つけて読む2)。今日、死ぬかもしれないと思いながら。なんという切なさだろう。

だが、その日、彼の部隊は敵の中国兵に向けて毒ガスをまいたのも事実である。

雨。今日ハ菜の花も蓮華畑も杏のさかりも雨の中にある。修水河総攻撃の日だ。……十九時二十五分、特殊筒放射の命令だ。三十分、渡河の開始。……この歴史的の敵前渡河も十八分で成功する

小津安二郎
昭和14年(1939年)3月21日の日記より
[4 p.372]

『戸田家の兄妹』撮影中の小津安二郎
小津は『戸田家の兄妹』からディゾルブやフェードを使わなくなり、ダイレクトにカットでフィルムをつなげるようになった。「新映画」昭和15年12月号

Notes

1)^ 『父ありき』のラストにおける、「海ゆかば」の挿入は、現存プリントではかなり唐突な印象を受ける。なにかさらに欠損しているのではないかと推測されるのだが、一方で、公開当時の津村秀夫の上記評でも「最後の『海ゆかば』の曲も唐突で不可解」とあり、公開時からこの編集だった可能性も考えられる。

2)^ 南昌作戦が展開されるのは1939年3月である。「三平の一生」は昭和14年(1939年)1月の「週刊朝日」に掲載、後に「やぶれ太鼓」と改題される。同じ月の「サンデー毎日」には「悪日好日」が掲載されていた。小津はどちらも1939年の3月に戦地で読んているようである。「鶴亀」が「文芸春秋」に発表されたのは1938年暮れ発行の新年号だった。

References

[1]^ 田中眞澄, “小津安二郎周游” 岩波書店, 2013.

[2]^ 高須芳次郎, “四月二十九日 天長節,” in 定本国民座右銘, 朝日新聞社, 1944. Available: https://dl.ndl.go.jp/pid/1039842/1/81

[3]^ 里見弴, 溝口健二, 内田吐夢, 小津安二郎, 池田忠雄, 津村秀夫, 南部圭之助, “戸田家の兄妹・檢討,” 新映画, pp. 48–57, Apr. 1941.

[4]^ 佐藤忠男, “完本小津安二郎の芸術” 朝日新聞出版, 2000.

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