フクちゃんと荒姫さま

わたしたちの果てなき切望 (13)

南進政策のなかの横山隆一と決戦下の黒澤明。

フクちゃん

大塚秀志は「大政翼賛会のメディアミックス」のなかで、昭和十五年から展開されたマンガ「翼賛一家」を取りあげ、それがいかにメディアミックス・プロパガンダ、参加型プロパガンダとして機能していたかを論じている [1]。その「翼賛一家」プロジェクトの中心人物のひとりが、横山隆一(1909-2001)だった。

新日本漫画家協会の「会報」では、横山隆一が『週刊朝日』での自らの発言を引用して「国家的な見方で漫画仕事をやっていく心算でなければならない」とこれが国策に呼応した漫画集団である旨を述べている(横山隆一「漫画派の大同団結」『新日本漫画家協会会報』、昭和十五年)。そのなかにあって、「翼賛一家」は、翼賛会にとっても新日本漫画家協会にとっても、発足直後の両者の関係を象徴する企画であった。特に、翼費会宣伝局にとっても当初は、「目玉」の一つであったと思われる

大塚英志「大政翼賛会のメディアミックス」

比較的若手が集まる新日本漫画家協会が発案した「翼賛一家」は、版権を気にすることなく、誰でも「翼賛一家」のキャラクターを利用して作品を発表できる企画だった。

この漫画の顔の販権は漫画家協会から翼賛会に敵納されたが、協会ではこれは誰でも描けるやうに簡単な線のみを用ひ、たとへば爺さん、婆さんは三ケ月で主人夫婦は丸を描けば直ぐ小学生でも描けるやうに仕組んである考案者の一人新日本漫画家協会委員横山隆一氏は語る 『協会員は誰でもこの人物を駆使し得るのですが協会に加入しない方でも版権は宣伝部に敵納してあるので翼費会の誠解を得て使つて戴きたいと思ひます、各人の顔は全く簡単な線描で簡単にできますから子供さんでも描けると思ひます』

『朝日新聞』昭和十五年十二月五日・大阪本社版

横山隆一は、だが、この「翼賛一家」の広がりをみることなく、太平洋戦争が始まってからは報道班として南方に派遣されている。

日本ではじめてできた宣伝部隊ですよ。ここ鎌倉に住んでいたで町田隊長という人が満州にいた大宅壮一氏を呼び、いろいろ相談してつくったんです。絵描きとか新聞記者を集めたわけです。それでまず南方向けに紙芝居をつくろうじゃないかという話になり、小野左世男君が徴用になり、その時の責任者が作家の北原武夫でした。ぼくも紙芝居を手伝うことしとになり、ぼくと小山内龍君と小野左世男君の三人で紙芝居をつくったというわけです。

横山隆一[2 p.298-299]

横山らは、現地の人たちに見せる「日本の宣伝」の紙芝居を作っていた。昭和十五年(1940年)にはじまった日本軍のフランス領インドシナ進出占領のあと、日本は現地での宣撫政策を展開している。宣伝部の任務はまずは「敵戦意の破碎」であり、「資源破壊の防止」「皇軍将兵の士氣鼓舞及び内地への報道」「占領直後の民心の安定」をはかることが期待されていた。紙芝居はそのメディアのひとつだったのである。

文化思想戰部隊の武器としては、電波、フイルム、紙、聲を中核としたものであるが、具体的には、ラジオ、無電機等電波利用のもの。寫眞機、撮影機、映寫機等フイルム利用のもの。擴聲機に依る聲や音盤の利用のものを始め、「紙の彈丸」と呼ばれる幾数十種のポスター、傳單類及びアドバルーンなどがあげられる。

ジャワ年鑑[3]

「インドネシア・ラヤ」
インドネシアの国歌となった「インドネシア・ラヤ」を日本映画社がプロパガンダ映画として製作。だが、この歌をよく思わない日本文化人もいた。芥川賞作家で戦時中ジャワに滞在していた冨澤有爲男は、新聞にこの歌の歌詞が新聞に掲載されたことに腹を立て、インドネシア人たちに向かって「なぜアジア・ラヤとか太平洋・ラヤを作らないのだ」と怒鳴って悦に入っていた [4]

戦後の回想では、横山は宣撫活動に大して力を入れていたわけではないという主張をにじませている。

だが、横山はジャワでそれほど熱心に紙芝居による宣伝宣撫工作を行った様子は見られず、「自動車の屋根の上に乗せて田舎を回りながら宣伝したのですが、インドネシアの子供に説明をやらせたらあとは面倒くさくなったので展覧会をやりました。この方は説明がいりませんから」と述べている。

百瀬侑子「宣撫工作メディアとしての紙芝居」 [5]

横山はジャワにいる間も、朝日新聞に人気漫画「フクちゃん」の原稿を送り続け、 『フクちゃん従軍記』などが日本の読者に届けられていた。「ぼくは日本に帰りたいだけでしたからね。連れていかれたんであって、さっそうとして行ったわけではないんです」という発言をどうとらえるべきか。

毎日放送が1994年に放送した「ある少国民の告発~文化人と戦争」という番組があり、そこで櫻本富雄が横山隆一にインタビューしている。この番組を私は視聴できていない。おそらく、そのインタビューを採録したのが、2009年8月の高知新聞の記事だと思われる[6]

櫻本 この会場には戦時中のフクちゃんがありませんね

横山 みんな無くなりました。いろいろありましたから。しかし、僕は後悔していませんよ。国民としての義務を僕なりに果たしたんですから

櫻本 戦中のマンガも戦意高揚のために描いたのではないんですね

横山 そうです。そんなことは政治の問題です。今でも国家要請があれば同じことをやります

横山隆一は、政治とマンガを完全に切り離して話している。「読者を戦争にかりたてるマンガですね」と聞かれると、彼は、「いや、そんなことは考えていない。今でも考えない。だから後悔していませんよ。自分のやることはやったんです。後は読者の責任ですよ。僕の絵を見て戦争に行った、ということは聞いたことがない」と、戦時中の翼賛マンガを読んだ子供が勇んで戦争に行ったのなら、それはその子供の責任だと主張していた。

『フクちゃんの潜水艦(1944)』
原作:横山隆一 後援:海軍省 脚色:滋野辰彦 動画:前田一 撮影:持永只仁 演出:関屋五十二、横山隆一 唄:古川緑波

荒姫さま

黒澤明(1910-1998)が、戦争中に映画監督デビューして『姿三四郎(1943)』『一番美しく(1944)』『續姿三四郎(1945)』を撮ったことはよく知られている。これらの映画は、効果はどうあれ、戦意昂揚の文脈を下敷きにつくられたのは間違いない。

黒澤は、終戦直前に『荒姫さま』という映画を企画していた。その脚本を植草圭之助(1910-1993)に依頼する。これは、植草の回想録「わが青春の黒沢明」から、黒澤明が植草にその『荒姫さま』の構想をちょっと話すシーンである [7]

「そうか……それじゃ、落着いたら一度、おいでよ。今日は打ち合わせで急ぐから。……そのとき、話したいことがあるんだ、仕事の」

「どんな仕事?」

「簡単に言えばジャンヌ・ダルクみたいな。原作は山本周五郎の『日本婦道記』の中にある中編小説だが、戦国時代、或る山城で籠城中の荒姫がヒロインでね。……味方の軍団ことごとく潰滅して、敵の重囲の中で老人、女、子供ばかりの城を護って戦い抜くって話だ。君の好きな原節ちゃんで、悲壮美を描きたいんだ」

原節子でというのに、私は心を動かされた。

「だって、こないだも映画に使える馬がいないって嘆いてたじゃないか」

「残念だが大合戦は無し。その代り、荒姫が城中に残っている少年達を鍛錬して、十数騎、夜陰に乗じて、敵陣へ殺到するんだ。綺麗だぜ」

彼はその場面シーン場面シーンを空中に描いている眼になった。

「クランク・インは秋にしたいんだ。一面の芒、“荒城の月”のロマンチシズムも入れてな……いいぜ」

植草圭之助「わが青春の黒沢明」

空襲で成城学園前の東宝の撮影所も閑散としていた昭和20年6月、撮影所に給料の前借りをしにきた植草は、食堂で監督の島津保次郎(1897-1945)、俳優の徳川無声(1894-1971)、脚本家の山形雄策(1908-1991)、プロデューサーの本木荘二郎(1914-1977)と会う。島津と徳川は、亀井文夫が手に入れてきたという薬用アルコールで酔っぱらっていた。そこで、黒澤明の新企画『荒姫』の話になる。

卓に向い合っているいる島津監督がギョロッと、

「ああ、例のジャンヌ・ダルクか、知ってる。あれはあかん・・・よ。意見聞かれたから竹井君に言っといた。会社じゃアメ公の本土上陸に備えての好企画だって熱こんでいるが、そんな!こんなときこそ芸術・・をつくらんけりゃぁ」

植草圭之助「わが青春の黒沢明」

山形雄策は帰りの電車の中で、植草に、オヤジさんこと、島津監督の真意を説明する。

……よーく考えてみるんだな。黒沢はサムライの末裔なんだ、彼自身、英雄なんだ。鷹であり鷲さ。武将やそれに連なる城主側の人間悲劇、その悲壮美はみごとに出すよ。その方へのめりこんでいく。……傑作になるかもしれん。彼自身気づかないうちに、米国上陸に死の突撃させる側の作品に……。それがこわい、オヤジさんそれを言ってるんだと思うよ

植草圭之助「わが青春の黒沢明」

島津保次郎は、この時すでに病に侵されていた。この3か月後の9月に逝去する。

佐藤忠男は、当時の検閲のすさまじさに言及しながら、それでも黒澤の戦時中の作品には戦意昂揚的側面が少ないと主張する。

そういう状況のなかにおいて考えれば、黒沢明にとって、『姿三四郎』の柔道精神などは、あるいは映画をつくるためのひとつの仮面にすぎず、本当のねらいは、その仮面の下で純粋な娯楽映画をつくることだった、ということも充分考えられることである。当時の批評でも、『姿三四郎』は、おおむね達者な娯楽映画として評価されており、柔道の精神といったようなものは深くは描かれていない、と書いているのが多い。原作はもっと、国粋主義的なお喋りの多いものであるが、黒沢明はそういう部分は捨てていた。

佐藤忠男「黒沢明の世界」 [8 p.39]

黒澤明は、残されている資料や記録を見る限り、戦意昂揚的な活動に積極的だったと言わざるを得ないのではないかと思う。彼は「国策映画シナリオ募集」という文字をみると反応して応募する傾向があったようだ。昭和16年度には、日本映画雑誌協会主催、情報局後援の「国策映画脚本懸賞」に応募、「雪」というシナリオで一等を獲得している。それ以前には「国民映画脚本懸賞」でも「静かなり」という作品で入選している。

黒澤明の監督作品で戦争末期に公開された『續姿三四郎(1945)』について、佐藤忠男はこう述べる。

『続姿三四郎』という映画は、天皇制の問題はまったく扱っていないし、はじめのほうにアメリカ人の水兵や西洋人の拳闘選手を投げとばすシーンがあることを除けば、とくに愛国主義的な映画でもなく、軍国主義的な映画でもない。しかし、いまあげたシーン(注:矢野正五郎が徳利を足で転がしながら柔道を論ずるシーン)など実にみごとに、天皇制をその土台で支えている日本人の精神構造と響き合う要素をもっており、その意味においてこそ、まぎれもなく、戦争中の日本人の精神を呼吸していた映画だった。

佐藤忠男「黒沢明の世界」 [8 p.50]

佐藤は、『續姿三四郎』に描かれた師匠ー弟子の関係から、日本人と天皇の関係、そして特攻隊のように国のために命を落とす若者の心情に広げて論じている。映画評論家としては、アメリカ人の水兵やボクシングのシーンのような、あからさまに敵愾心は煽るシーンは取りあげたくないのかもしれないが、公開当時の日本の映画を取り巻く言論をみていると、決して無視してはならない側面のような気がする。

昭和19年7月、サイパン島が陥落した。これによって関東地方は、アメリカ軍による空襲圏内に入り、「本土決戦」が現実味を帯びてきた。東條内閣は総辞職し、新たに組閣された小磯内閣は戦争貫徹を唱えるものの、戦況は悪化の一途をたどっていた。情報局の統制の問題として、特にサイパン島での民間人の《玉砕》が、政府からの発表ではなく、アメリカのタイム紙の報道を引用する形で国内の新聞社によって報じられた点は、問題視された。9月に開催された帝国議会衆議院で、安藤正純が言論政策と戦意昂揚の問題を取り上げた。

最近ノ言論政策ハ一體何處ニ目的ガアツタノカ、唯國民ノ耳目ヲ掩ヒ、國民ノ口ヲ封殺シテ、而シテ我ガ事成レリト自己陶醉ニ耽ツテ居ツタバカリデアリマス

安藤正純
帝国議会衆議院 予算委員会 昭和19年9月8日

これに呼応するかのように、雑誌「映画評論」の10月号に、映画批評の「帝王」津村秀夫が4ページにわたる檄文「低迷する映畫界を論ず」を寄せる。

今や大戰果は揚がり、近き將來に驕慢無禮なる敵に體あたりの一大痛撃を喰らはし、戰勢を一變せしむべき機會は迫りつつある。だが、國民の誰もが決意する如くこの「次期決戰」には攻撃力と共に防備の充實せるものなかるべからず、決して容易なことではない。各方面における空襲對策もまたその備へである。さてその情勢に照して今日わが映畫界の動きを見るに、依然として眠れるが如く、ヨダレを垂れたるが如くである

津村秀夫 [9]

津村は、日本映画界は敵愾心昂揚の努力が足りないと強い筆致で書きなぐり、敵兵の死体や空襲で亡くなった同胞の死体をスクリーンに映せと主張する。

私はこれからのニュース映畫や戦争記録映畫などでは、米兵の死骸位は當然見せるべきで、さもないと強烈な敵愾心の昂揚はできないと考へる。この危急の段階に入つては、全日本の老幼男女の一人々々までがアメリカ人と見れば一人残らず刺殺し、撲殺する位の氣慨と勇猛心を持ちたい。……しかるに獨り日本映畫のみは何んとまた綺麗事で、御上品であり、時代遅れであることであらうか。

津村秀夫 [9]

これは、大映の『奴隷船(1943)』『国際密輸団(1944)』といった探偵アクション映画が敵愾心昂揚の名を借りた娯楽映画だったことを念頭に置いた批判であろう。戦時中の津村は、娯楽作品や恋愛映画を徹底的にこき下ろし続けていた。黒澤が雑誌「新映画」に寄稿した「敵愾心昂揚について」という文章はあきらかにこれに反応して書かれたものだ。黒澤は「これまでの、所謂、敵愾心昂揚映画の方向は消極的でいかんと思ふ」と宣言したうえで、こう述べる。

だから、敵愾心昂揚映画とは、すべからく米英をとことんまでやつつけて見せる映画でなければならぬと僕は思ふのである。

黒澤明 [10]

戦時中なのだから、これくらいのことを書かないといけなかったのではないか、と思われるかもしれない。同じ題材で稲垣浩が雑誌「新映画」に寄せた文章をみてみよう。

敵愾心昂揚映画といふ事に成ると、どうしても米英人の出ない譯には行かぬ。それが、齋藤達雄だの上山草人だの鈴木傳明なぞといふ、お馴染みの顔が、時代とは言い乍ら氣の毒な役廻りで出演してゐるのを觀ると、眞實氣の毒といふ氣持が先だつて、敵愾心など更に沸き立たない。

稲垣浩 [11]

稲垣はいくつか「空想」といいながら、外人俳優(特に黒人)を起用することや、日本人をまったく登場させない、といったアイディアを披露し、「以上、たゞ問はるゝ儘に」私感を述べたと結ぶ。黒澤の文章は、極めて好戦的で、自らの『續姿三四郎』のアプローチを正当化するものだ。戦時中の映画界を見渡しても、彼は明らかに時局におもねっていた。

企画と撮影準備だけで、完成することのなかった『荒姫さま』も、溝口健二の『名刀美女丸』と同じく、銃後の女性の心得、すなわち米国と槍を持って戦えと鼓舞する意図をもっていたと推測される。山本周五郎の原作『笄掘』じたいが、「日本婦道記」という、戦時中の婦女の持つべき精神にもとづいた、連載娯楽小説のひとつである。

黒澤の『荒姫さま』は、もし完成していれば、国粋主義的な部分は削ぎ落され、それこそ、戦後の『隠し砦の三悪人(1958)』のような娯楽作品になりえたのだろうか。山形雄策、そして結局脚本執筆を断った植草圭之助は、国威発揚と敵愾心昂揚を掲げるかぎり、そうならない・・・・・・可能性を非常に危惧していたのだった。

『馬』撮影スナップ
山本嘉次郎監督の『馬(1941)』は、高峰秀子や堀川弘道によればほとんど黒澤明が作った映画、実質的な初監督作品だという。貧しい東北の農家が、貧しさゆえに、娘(高峰秀子)が可愛がっていた馬を日中戦争の戦場に送られる軍馬として手放す物語である。東宝が映画化に難色を示したため、陸軍省の協力を仰いで製作にこぎつけた。このように山本嘉次郎、黒澤明には、軍を手玉に取って利用しようという意図が垣間見えることがある。ただ、軍は手玉には取れない。黒澤がこだわったラストシーンは陸軍報道部からの横槍でカットせざるを得なくなった。

References

[1]^ 大塚英志, “大政翼賛会のメディアミックス:「翼賛一家」と参加するファシズム” 平凡社, 2018.

[2]^ 山本哲士, “超領域の思考へ : 現代プラチック論.” 日本エディタースクール出版部, 1988.

[3]^ “ジャワ年鑑 昭和19年.” ビブリオ, 1973.

[4]^ 冨澤有爲男, “ジャワ文化戰” 日本文林社, 1943.

[5]^ 百瀬侑子, “[研究ノート]宣撫工作メディアとしての紙芝居 ー日本占領下インドネシア(1942-45年)を中心にー” 東南アジア ー歴史と文化ー, no. 31, pp. 97–112, 2002.

[6]^ 櫻本富雄, “『戦争だ、戦争だ! 高知の文化人の足跡』(7-終) 国家要請あれば、今も” 高知新聞, p. 16, Aug. 21, 2009.

[7]^ 植草圭之助, “けれど夜明けに:わが青春の黒澤明.” 文芸春秋, 1978.

[8]^ 佐藤忠男, “黒澤明の世界” 朝日新聞出版, 1986.

[9]^ 津村秀夫, “低迷する映畫界を論ず” 映画評論, p. 4, Oct. 1944.

[10]^ 黒澤明, “敵愾心昂揚について” 新映画, vol. 1, no. 11, p. 33, Nov. 1944.

[11]^ 稲垣浩, “敵愾心昂揚映画の私感” 新映画, vol. 2, no. 1, p. 23, Jan. 1945.

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