イーグル=ライオンのフィルム・ノワール史 (7)

一見、政府にゴマすりしたセミドキュメンタリー・ノワールのように見えるが、実はかなり悪意のこもったプロダクションである。

財務省捜査官の物語

ジョン・ロッセーリがイーグル=ライオンに勤め始めたとき、アンソニー・マン監督の『T-メン』は撮影の最中だった。

『T-メン』の「T」は「Treasury Department(財務省)」の頭文字の「T」である。これは、1930年代にマフィアの犯罪を捜査していた連邦捜査官の俗称スラング、「G-メン」(Gは「Government(政府)」の頭文字)から派生した呼び名だ。この物語は、連邦財務省の捜査官(T-メン)が、資金洗浄などに使われる偽札の出所を捜査する話であり、映画も財務省の協力のもと製作された。映画が公開される1か月前のニューヨーク・タイムズ紙に、この企画に関わった財務省の元捜査官、エルマー・リンカーン・アイリー(Elmer Lincoln Irey, 1888-1948)のインタビューが掲載されている[1]。エルマー・アイリーは、1920年代から40年代、財務省による脱税捜査の要となった人物で、1931年のアル・カポネの逮捕においても極めて重要な役割を果たしている。1946年の引退後、彼の業績はラジオ番組になったり、新聞・雑誌に取り上げられるなどして注目を浴びるようになり、当然ハリウッドも彼にアプローチした。ニューヨーク・タイムズのインタビューによれば、1947年の春にアル・カポネの逮捕劇を映画化する話が持ち上がり、アイリーは脚本のためにハリウッドに呼ばれたという。しかし、MPAAが映画化に難色を示したため1)
、この映画化は頓挫した。そこで、アイリー自身が関わった別の事件として、偽札事件を映画化するアイディアが浮上してきた。映画の『T-メン』は、実際に起きた複数の事件を組み合わせた架空の事件を骨子として、財務省捜査官たちの様々な捜査手法や捜査体制を描く作品となったと述べている。

マックス・アルヴァレズの「The Crime Films of Anthony Mann」によれば、『T-メン』の企画は、1946年にヴァージニア・ケロッグ(Virginia Kellogg, 1907-1981)が書いたストーリーをもとに、PRCでの製作を視野にヘンリー・ブランクフォート(Henry Blankfort, 1902-1993)が脚本に着手、プロデューサーのエドワード・スモール(Edward Small, 1891- 1977)がプロジェクトを引き継いで始まったという[2]。その後、ジョージ・ブリックナー、ロバート・B・チャーチルらの脚本家の手を経て、ジョン・C・ヒギンズ(John C. Higgins, 1908-1995)が最終稿を仕上げている。エルマー・アイリーはヒギンズと共同で作業し、犯罪捜査の実際を《セミ・ドキュメンタリー》の手法で描くことに協力した。

ところが、イーグル=ライオンが『T-メン』のプロデューサーとして呼んだのがオーブリー・シェンク(Aubrey Schenck, 1908-1999)だった。

エルマー・アイリーは、前述したウィリー・バイオフの労働組合汚職、恐喝事件も捜査している[3 pp.293-312]。彼の捜査班2)はジョセフ・M・シェンクの脱税疑惑を捜査する中でウィリー・バイオフとジョージ・E・ダウンの強請りと着服にたどり着いていた。当然、その後バイオフが寝返って、シカゴ・マフィアの人物たちが逮捕されて刑務所送りになったことも、その中にジョン・ロッセーリがいたことも知っていたはずだ。『T-メン』のプロデューサー、オーブリー・シェンクがジョセフ・M・シェンクの甥3)
であることも衆知の事実である。つまり、この映画の製作に関わっている組織や企業が、自分がかつて告発した罪人たちを取り巻く親族や友人によって構成されているという、やるせない事実をアイリー自身が強く感じていただろうことは想像に難くない。しかし、アイリーは『T-メン』のオープニングで、財務省の調査について、誇らしげに、威厳に満ちた声で語っている。

エルマー・アイリー
『T-メン』の冒頭で財務省による捜査の仕組みについて説明するアイリー。彼はアル・カポネの脱税事件を含む様々な捜査を財務省で指揮してきたが、この映画の製作の前年に退職、以降は担当した事件をもとに映画やラジオ番組が製作される際のコンサルタントとして活躍した。
デスクの上のリンカーンの置物が骸骨のように見えるのは、ただの気のせいか。

ブライアン・フォイやジョニー・ロッセーリたちが、連邦財務省の捜査員たちの成功譚を映画にしたがったのはなぜか。

情報源T-Lによれば、イーグル=ライオン・フィルムズは、財務省の秘密捜査課をもとにしたドキュメンタリー映画「T-メン」を製作したが、ブライアン・フォイたちは、政府の機関が映画製作に協力して、犯罪者を捕まえるために司法が使う捜査方法を明かしてくれることを、喜んでいたという。さらにT-Lが述べるところによると、ブライアン・フォイの最終的な目的は、将来的にFBIの技術協力と了解を得て、FBIのドキュメンタリー映画を製作することだという。「ヤクザ好き」として知られているばかりでなく、実際に犯罪者と近しい関係にある人物に、FBIの活動をもとにした映画を製作させるのは、健全なことではないというのが、情報源T-Lの意見だ。

FBI [4]

確かに、客観的に見ても、マフィアの一員だと分かっている人物とマフィアと深い関係がある人物たちによって構成されている映画製作会社で、政府がマフィアをいかに追い詰めたかという犯罪捜査ドキュメンタリー映画を政府の捜査機関の協力のもと、製作するというのは、かなりまずい。だが、実際に『T-メン』や『夜歩く男』はそのようにして製作されたのである。

ジョセフ・I・ブリーン・ジュニア

イーグル=ライオン・フィルムズには、もう一人驚くべき人物が雇われていた。ジョセフ・I・ブリーン・ジュニアである。

プロダクション・コード(ヘイズ・コード)に基づいたハリウッド映画の自主検閲を一任されていたのが、プロダクション・コード・アドミニストレーション(Prodiction Code Administration, PCA)であるが、そのトップに君臨していたのが、ジョセフ・I・ブリーンだ。彼はいわば、ハリウッドの《道徳の鑑》であり、彼が首を縦に振らない限り、いかなるセリフも、シーンも、全米の映画館で上映されることはなかった。ハリウッドのスタジオのボスたちにとって、ニューヨークのビジネス・ユニットのボスたちも煩わしい存在だが、ジョセフ・I・ブリーンも何かと文句をつけてくる、極めて厄介な存在だった。

そのジョセフ・I・ブリーンには二人の息子がいた。ジョセフ・I・ブリーン・ジュニア(Joseph I. Breen Jr., 1918 – 1984)とトーマス・E・ブリーン(Thomas E. Breen, 1924 – 2000)だ。彼らは二人とも第二次世界大戦に従軍し、ジョセフは頭部を負傷、トーマスは脚を失った。ジョセフは帰還後、イーグル・ライオン・フィルムズの脚本部に雇用され、トーマスは俳優になった。トーマスの最も有名な役は、ジャン・ルノワール監督の『河(The River, 1951)』のジョン大尉だろう。そう、あの片足を戦争で失った男である。

ブリーン家は、典型的なカトリック=アイルランド系の一家で、保守的な倫理観、個人主義的な政治志向を両方を兼ね備えた家庭環境だった。1934年に父のジョセフがPCAのトップに任命されてから、一家はハリウッドの映画人と交流するようになるが、そのなかの一人がジョン・ロッセーリだった。ロッセーリらマフィアがオフィスとして使っていたハリウッド&ウェスタン・ビルディングにPCAのオフィスもあったのが縁だ。ロッセーリはブリーン一家と親しくなり、日曜日のディナーに頻繁に呼ばれていたという。そして特に息子のブリーン・ジュニアと親密な関係になった。ブリーン家の者がどこまでロッセーリの素性を知っていたかは定かではないが、決して騙されていたわけではないだろう。ロッセーリの逮捕、投獄後も交流が途絶えるどころか、息子のブリーン・ジュニアは夫婦でロッセーリと親しく付き合い続けていた。

ジョセフ・I・ブリーン・ジュニア(1957年)

ブリーン・ジュニアは、イーグル=ライオンにとって切り札のような存在だった。マフィアや犯罪組織の活動をアクションに盛り込んだ映画で、PCAの承認を得るためには、《工夫》が必要だった。PCAは政治的な便宜や賄賂などがほとんど効かない組織で、そこを打ち破るには、脚本家やプロデューサーのしたたかさと粘り、そして狡猾さが必要だった。イーグル=ライオンは、そのなかでも最もしたたかで狡猾な方法を発明したのである。たとえジョセフ・ブリーンの石頭が鋼鉄のように固いといえども、息子の「任してください、お父さん、私が見張ってます」の一言には勝てないだろうと踏んでいた。そして、この息子は、映画化予定の脚本を抱えて父親と会議をし、それを言い続けたのである。実際、彼のおかげで、多くの映画がPCAからひどい反対を受けることもなく映画化にのせられた。一方で、連邦政府の元捜査官の協力を得ながら、あたかも政府のプロパガンダ映画製作のように振舞い、もう一方で、PCAのトップを親族贔屓の罠にかけて無力にしてしまう。そして、実際のところは裏社会を魅力的なものに見せることに成功してしまう。『T-メン』『キャノン・シティ』『夜歩く男』などのイーグル=ライオン・フィルムズのフィルム・ノワールには、そういった極めてアイロニカルで露悪的な側面がある。

ブリーン・ジュニアとジョン・ロッセーリは、イーグル=ライオン・フィルムズが消滅した後も、固い友情で結ばれていた。皮肉な話だが、こればかりはどうも真実らしい。1966年にハワード・ヒューズがラス・ベガスのデザート・イン・ホテルに「移動」する手配も、ジョン・ロッセーリがおこなったが、この時にブリーン・ジュニアとロッセーリは二人でヒューズに会いに行っている [5]。ラスベガスの店舗もブリーン・ジュニアとロッセーリの共同経営だった [6]。ロッセーリが、殺害される数か月前にハリウッドを訪れたときも、ブリーンが彼を連れまわっていた。

ブライアン・フォイ、ジョン・ロッセーリ、そしてジョセフ・I・ブリーン・ジュニア。こういった人物の果たした役割を視野に入れて、イーグル=ライオン・フィルムズの歴史を紐解く必要がある。

1)^ Max Alvarezの”The Crime Films of Anthony Mann”ではこのニューヨーク・タイムズの記事を引用しながら「ハリウッドの検閲機関(censorship office)がアル・カポネの映画製作を却下した」と記述しているが、当該記事では「But the Johnston Office vetoed it」とあり、ハリウッドの検閲機関(Producetion Code Administration, 別名Hays Office)ではなく、その母体であるアメリカ映画協会(Motion Picture Association of America, MPAA; 当時の会長エリック・ジョンストンの名前をとってジョンストン・オフィスと呼ばれていた)がアイディアを却下したことになっている。

2)^ 捜査班の中にはエルマー・アイリーの弟、ヒュー・C・アイリーもいた[7]

3)^ シェンク家については、まとまった資料がないので、いったいどういう血縁関係にあるのかわかりにくいが、ここで整理しておきたい。ロシアのリビンスクでハイーム・シャインカー(Heim Scheincker)とエリザベート・ジプロヴィッチ(Elizabeth Ziprovitch)の夫妻は5男2女の7人の子をもうける。その一番下の二人、四男がジョセフ、五男がニコラスである。一家は1892年にアメリカに移住した。その際に姓をシェンク Schenck に変えている。長女の娘婿がアーサー・ステビンス、三男ジョージの息子がオーブリー・シェンク、次女の息子がニコラス・ネイファックである。これらが全員、ジョセフとニコラスの「甥」となる。ちなみにリビンスクは、帝政時代からソ連を経て現在に至るまでロシア語圏で文化的影響力をもつミハルコフ一家(セルゲイ・ミハルコフ、ニキータ・ミハルコフ、アンドレイ・ミハルコフ・コンチャロフスキー)の地元でもある。

シェンク一族の家系図(一部)
オレンジ色で示した人物がハリウッドで映画業界に深くかかわった。ジョセフ・M・シェンクは20世紀フォックスの会長、ニコラス・シェンクはロウズ・インクの会長、オーブリー・シェンクはイーグル・ライオン・フィルムズのプロデューサー、ニコラス・ネイファックは『禁断の惑星(Forbidden Planet, 1958)』などのプロデューサーとして活躍した。この家系図には記載しなかったが、オーブリー・シェンクの息子のジョージ・シェンクも映画/TVプロデューサーである。
『トラップ(Trapped, 1949)』
監督:リチャード・フライシャー 製作:ブライアン・フォイ 撮影:ガイ・ロー
イーグル=ライオン・フィルムズ末期のフィルム・ノワール

References

[1]^ C. L. Heymann, “Now It’s T-Men,” The New York Times, p. 247, Oct. 26, 1947. Available: https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1947/10/26/99277065.html

[2]^ M. Alvarez, “The Crime Films of Anthony Mann.” Univ. Press of Mississippi, 2013. Available: https://books.google.com?id=afcaBwAAQBAJ

[3]^ R. G. Folsom, “The Money Trail: How Elmer Irey and His T-Men Brought Down America’s Criminal Elite,” Illustrated edition. Washington, D.C: POTOMAC BOOKS, 2010.

[4]^ F. E. Roderick, “Louis Campagna, was, et al.”
Federal Bureaau of Investigation, Apr. 02, 1948.

[5]^ L. Server, “Handsome Johnny: The Life and Death of Johnny Rosselli: Gentleman Gangster, Hollywood Producer, CIA Assassin.” Macmillan, 2018. Available: https://books.google.com?id=KEEviakaYcUC

[6]^ R. LaBrecque, “Could Rosselli Have Linked Castro Plot to JFK Death?” The Miami Herald, Miami, Florida, p. 1, Sep. 19, 1976.

[7]^ “Hugh C. Irey Appointed to Police Board,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 3, Oct. 15, 1951.

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