『深夜の告白』の3つのショット

以前紹介したアーヴィング・ピシェル監督『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』は、1943年7月にサンタ・ローザ近辺でロケーション撮影されたが、1943年の後半にロサンゼルスでロケーション撮影された作品がある。ビリ-・ワイルダー監督の『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』である。

今回は『深夜の告白』のオープニングの3つのショットだけを取りあげたい。

『深夜の告白』のオープニング

筆者が「50本のフィルム・ノワールを取り上げるプロジェクト」として取り組んだ「ランダム・ノワール」のほうでも『深夜の告白』は取りあげた。ここでは、この作品のオープニングについて、もう少し見ていきたい。

私はこのオープニングの映像がいつも気になっていた。1940年代のロサンゼルスの夜のダウンタウンを撮影した写真とくらべて、どこか陰鬱で、独特な闇に包まれている印象がある。

1940年代後半のハリウッド通りとヴァイン通りの交差点
Huntington Library Digital Collection
『深夜の告白』の最初のショット
場所は 5th ストリート と オリーヴ・ストリートの交差点

はたして、なにが起きていたのだろうか。

『深夜の告白』の撮影は、1943年の9月27日から11月24日までのほぼ2ヶ月にわたっておこなわれた[1]消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)の記事の最後でも述べたが、灯火管制は1943年11月1日に解除され、その後は夜間の戸外でも照明に制限がなくなっている。つまり、『深夜の告白』の撮影期間のうち、9月27日から10月31日までは、ロケーション撮影は様々な制限を受けるが、管制が解除された11月1日からは、以前の通りの日常の(ノーマルな)夜の風景を、カーボン・アーク灯を何十台も使用して撮影できたはずだ。

だが、『深夜の告白』の最初のショットは、灯火管制下で撮影されたように見える。左に見えるビルはビルトモア・ホテル、その向かいのコカ・コーラの看板が見える店はヴィクトリー・スクエア・ドラッグストア、いずれも地上階の窓に照明があっておかしくないはずだが、暗い闇に沈んでいる。街燈はすべて点灯しているが、これは、灯火管制下でも許可されていた。『深夜の告白』の撮影ロケーションをまとめたジーン・ロートンによれば、この撮影は1943年8月に行われているという[2]

まず、最初のショットには、「Los Angeles Railway Corp. Maintainance Dept.」という標識を掲げた工事の業者が手前に写っている。

全米映画俳優組合は、パラマウント・ピクチャーズ Inc.が、ロサンゼルス市内の5thストリートとオリーヴ・ストリートにあるロサンゼルス・レールウェイ社の鉄道用地において、同社の溶接工とその助手が作業している様子を撮影することについて、(組合との協定事項の遵守する義務を)免除する。ビリー・ワイルダー監督、『深夜の告白』の製作において、1943年8月14日の1日限りである。
この2人が演技、役、スタント、会話などをせず、また、これが免除の前例とならない、ということを両者のあいだで合意している。

全米映画俳優組合からのメモ
Screen Actors Guild, August 14, 1943

すなわち、このショットは8月14日に撮影されたということになる。ここで、「ロサンゼルス・レールウェイの鉄道用地」というのは、具体的には3号線(Line 3)のことである(Wikipedia)。これは、戦時下のロケーション撮影で常に問題になった、エキストラの雇用規定について例外を認める、という全米映画俳優組合の覚書だ。この最初のショットは、ロサンゼルス市内での撮影であり、<300マイル・ルール>が適用される。このルールが適用される場合は、エキストラは全米映画俳優組合の組合員(クラスB)でなければならない。だが、ビリ-・ワイルダーは、実際に溶接工が作業している様子を撮影することにした。それを俳優組合に申し込んだのであろう。

さらに次の2つのショットは、次の製作レポートが鍵となる。

ロサンゼルス、6thストリートとオリーヴ・ストリートの交差点
集合 3:30 AM、カメラ 3AM
リハーサル 4AM- 5:40AM
最初のテイク 5:40 AM - 終了 6 AM
エキストラ8名、車とエキストラ8名
マクマレーのダブルはアラン・ポメロイ
トラック運転手はゴードン・カーヴァス
もしうまくいけば、この早朝の撮影が、完成時には夜のシーンとして使われる
ナイト・フィルター撮影

Paramount Production Memo, 1943/8/4

このメモが少なくとも3つ目のショットを表しているのは、このショットにトラックが登場することから明らかである。どのテイクが使用されたかは分からないが、早朝5時40分から6時のあいだに撮影されていることが分かる。撮影には「ナイト・フィルター」、すなわち赤いフィルターが使用されている。

『深夜の告白』の3番目のショット
場所は 6th Street と Olive Street の交差点

この前日の8月3日のロサンゼルス・タイムズによると、灯火管制は3日の日没時刻(午後7時52分)から翌4日の日の出時刻(午前6時6分)までだ。

ロサンゼルス・タイムズ 1943年8月3日

この撮影は、朝の午前5時40分から6時のあいだまでに行われているから、灯火管制下での撮影である。だが、この時間帯は日の出の6:06直前の<マジック・アワー>と推測される。ワイルダーとサイツは、この時間 ─── 日の出直前で、かつ灯火管制中 ─── は街燈はまだ灯っているが、空は明るくなっていて、照明を利用しなくても「夜のシーンとして」撮影できるともくろんだのではないか。最初のショットとこのショットをよく見ると、背景のビルと空の境界に不自然な輪郭が現れているのが分かる。これはオプティカル・プロセスを施したあとだろう。このオープニングは前述のように日をわたって撮影されているため、空の明暗がショットごとにばらついていた可能性がある。それをオプティカル・プロセスで統一したのではないだろうか。

最初のショットで、フレーム内に配置された多様な光源が作り出す早朝の街の風景は、新鮮なドキュメンタリー性に満ちていて、この後、ハリウッド映画に起きる変化を予言しているようだ。奥行きのある配置の街燈、こちらに向かってくる車のヘッドライト、それを反射する鉄道のレール、手前の溶接作業の光、道に無造作に置かれた迂回路用のオイルランプの炎、どれもが映画のために準備されたものではなく、その風景に最初から存在していたかのようだ。

この最初のショットの街燈に注目したい。

『深夜の告白』のオープニング・シーンに登場する街燈

街燈の上半分が円錐のような形状をしているのが分かるだろうか。1930~1940年代のビルトモア・ホテルの近くの写真を見てみると、これが灯火管制下、街灯の光が上向きに逃げないように施された遮蔽であることが分かる。

ビルトモア・ホテル 1930~40年頃
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが1930~1940年代のビルトモア・ホテルの写真である。写真右奥の坂の上からウォルター・ネフが運転する車が暴走してくる。この電車通りは5thストリートである。

街燈(上の写真の拡大 1930~1940年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

これが、ビルトモア・ホテル付近の街燈の元の姿である。

次に1943年、灯火規制下のビルトモア・ホテル付近を見てみる。

ビルトモア・ホテル 1943年
University of Southern California Libraries Digital Collection

画面左奥から右に向かって伸びているのが、オリーヴ・ストリート、右から左の道は5thストリートである。この街燈には黒い布のようなものが被せられているのが分かる。

街燈(上の写真の拡大 1943年)
University of Southern California Libraries Digital Collection

この黒い布のようなものは、翌年になってもまだ被せられたままだった。これは5th ストリートを坂の上から見下ろした写真である(ウォルター・ネフはこの道を奥に向かって暴走した)が、ここでも街燈に黒いものが被せられているのが分かる。

5thストリートをグラント通りからオリーヴ通りに向かって
Los Angeles Public Library Digital Collections
街燈(上の写真の拡大 1944年)
Los Angeles Public Library Digital Collections

これが、戦争の終わる1945年になると、元の姿に戻る。下の写真は、画面奥から手前にオリーヴ・ストリート、左右に6th ストリートが交差する交差点である。『深夜の告白』の3ショットめで、ウォルターの車とトラックが事故を起こしそうになるのはこの交差点だ。

6th ストリートとオリーヴ・ストリート
Los Angeles Public Library Digital Collections

上の空間に光が届かない戦時下独特の街燈、闇に沈むビルの窓、ストリートは車のヘッドライトだけが見える ─── 『深夜の告白』のオープニングの独特の<暗さ>は、ワイルダーとサイツが、灯火管制が作り出した都市部の闇を、照明を使わずにいかに撮影するかと苦心した末に生み出したものである。この<暗さ>は、戦争が民衆に植え付けた、恐怖、愛国心、パラノイア、非日常の興奮、憎悪の念といった闇の成分が凝集したものだと言ってもよいのではないか。そして、それは灯火管制が解除されてしまうと、二度と都市部に現れることはなかった。フィルム・ノワールの作品が数多くあるとは言え、この<暗さ>をとらえた映像は、この作品のこのオープニングだけではないだろうか。

References

[1]^ E. Robson, “Double Indemnity,” in Film Noir: A Critical Guide To 1940s & 1950s Hollywood Noir, Dutch Tilt Publishing, 2016.

[2]^ J. Laughton, “Double Indemnity: Self-Guided Movie Location Tour.” Los Angeles Conservancy. link

アメリカの朝

二期目の大統領選キャンペーン中のロナルド・レーガン(UCLA Library Digital Collections

このブログでは、今まで幾度か、ロナルド・レーガンが二期目の大統領選のときに繰り広げたキャンペーンで製作されたコマーシャル「Morning in America」について触れてきた。『ノマドランド』に見られる<マジック・アワー>の美学と労働倫理の結託について考える時の、その先駆的な映像としての位置付けや、ソノマ郡という場所がハリウッド映画で果たしてきた役割のなかでの例として言及した。この「Morning in America」について記しておきたい。

アメリカの朝

まず、その「Morning in America」(正式な名称は「Prouder, Stronger, Better」)とはどんな映像なのか。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pUMqic2IcWA]
Morning in America (1984)

ナレーションはレーガン政権の一期目の成果を総括している。

アメリカにまた朝が来た。今日、この国の歴史でも類を見ないほど多くの男性、女性が仕事に向かう。今の利率は、史上最高を記録した1980年の半分になり、今日も2,000の家族が家を購入する。これは過去4年間を通して最高の件数だ。

今日の午後には、6,500の若い男女が結婚する。インフレ率は4年前の半分以下。彼らは将来に確信をもって望むことができる。

アメリカにまた朝が来た。レーガン大統領のリーダシップのもと、私達の国は、より誇り高く、より強く、よりよいものになっている。誰が4年前に戻りたいだろうか?

なぜ、この映像が「アメリカの選挙キャンペーン史上に残る名作(マスターピース)」と呼ばれるのだろうか。New-York Historical Societyが過去の大統領選で製作されたキャンペーン映像のなかでも、最も影響力のあったものを年代順にショーケースしている。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KY1QgFEnijg]
政治メッセージ映像:ベスト9

ここで取りあげられている映像は以下の9本である。

1952   ドワイト・D・アイゼンハワー   「I Like Ike」
1960   ジョン・F・ケネディ 「Kennedy For Me」
1964   リンドン・ジョンソン 「Daisy」
1968   リチャード・ニクソン 「Crime」
1984   ロナルド・レーガン 「Morning in America」
1988   ジョージ・H・W・ブッシュ 「Revolving Door」
1992   ビル・クリントン 「The Man From Hope」
2004   ジョージ・W・ブッシュ 「Windsurfing」
2008   バラク・オバマ 「Yes We Can」

特にレーガンの「Morning in America」以前と以後では、ブッシュ親子以外、まったくアプローチが変わったのが明らかだ。名前を連呼することに終始しているアイゼンハワーとケネディの時代から、ネガティブなイメージで感情を揺さぶろうとする冷戦の時代を経て、レーガンの楽観主義と希望に満ちたメッセージ/スタイルが登場している。もちろん、各候補者は、敵対候補者に対してネガティブ・キャンペーンも同時に行っているが、それらは人々の記憶に残らない。それぞれの大統領が発したメッセージとして、これらのインパクトの大きな映像が人々の記憶に係留しているのだ。この流れを見ると、「Morning in America」が極めて先駆的なゲームチェンジャーだったことがわかる。

いったい、どのような経緯で「Morning in America」の映像ができあがったのだろうか。

Tuesday Team Inc.

ここでは、レーガン政権の歴史については割愛したい。ただ、選挙の前年の1983年1月においては、レーガンの支持率は38%にまで下がっていた点を強調しておきたい[1]。その後、支持率は回復したものの、決して楽観視できる状態ではなかった。

レーガン陣営が選挙キャンペーンを開始してまもなく、ホワイトハウスの副主席補佐官だったマイケル・K・ディヴァーが、当時ニューヨークの広告業界で最も注目を集めていたジェリー・デラ・ファミナに接触する。ファミナには、「From Those Wonderful Folks Who Gave You Pearl Harbor: Front-Line Dispatches from the Advertising War」という広告業界の内情を描いた著作があるが、この本がテレビ・シリーズ「マッドメン(Mad Men, 2007 – 2015)」のインスピレーションになった。1960年代にニューヨークのマディソン・アヴェニューで起きた<広告業界の革命>の申し子と言ってもよいだろう。だが、ホワイトハウスとファミナはそりが合わなかった。

そのファミナが推薦したのが、彼の広告代理店のCEOであるジェームス・D・トラヴィスだった[2]。トラヴィスが中心となって、レーガン陣営のキャンペーンのメディア戦略を企画・実行するためだけに<Tuesday Team Inc.>という会社が設立される。選挙とともに解散するこの会社に、普段は競争相手同士で睨み合っている広告マンのエリートが集められた。B. B. D. O.のフィリップ・D・デューゼンベリーという当時のアメリカの広告業界の「巨人」もチームに参加にしている[3]。この<Tuesday Team Inc.>のメンバーの一人が オグルヴィ・アンド・メイザー社サンフランシスコ支店の名コピーライター、ハル・リニー(Hal Riney)だった。

ニューヨーク・タイムズに<センチメンタルの名人>と評されたハル・リニーは、独特のスタイルを持っていた[4]。いわゆる<アメリカーナ>のイメージを基盤にして、アメリカの一般人の皮膚感覚に訴えかけるアプローチが秀逸だった。彼が作り出した有名なキャンペーンには、ヘンリー・ワインハードのプライベート・リザーブ・ビールのシリーズガロの<バートルズ&ジェイムズ>ワインクーラーのシリーズ、後年になってGMのブランド、サターンの一連のコマーシャルなどがある。これらのコマーシャルでは、ハル・リニー自身がナレーションを担当していた。彼の優しく、まろやかな声が、極めて効果的なのだ。出世作となったサンフランシスコのクロッカー銀行のコマーシャル(1970)には、彼の<センチメンタリティ>が実によく現れている。これは、クロッカー銀行が、若い世代に向けたマーケティングを展開しようとしていた時に製作された。このCMを見たカーペンターズのリチャード・カーペンターがこの曲を気に入り、「愛のプレリュード」として録音してヒットさせた話は有名である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=97X9huy7pHQ]

このCMは大成功だった。若いカップルがクロッカー銀行を訪ねてくるようになったのだ。しかし、彼らは投資の資金も、ローンの抵当も何も持っていない。銀行にとってはキャンペーンは失敗だった。失敗に気づいたクロッカー銀行はキャンペーンを打ち切ったという。コマーシャルは成功し、ビジネスが失敗した好例とも言える。

この頃は反体制のピークだった。人々は体制と呼ばれるもの ─── 結婚、真摯な関係、労働 ─── に反抗していた。しかし、60年代の世代だって他の人たちと同じような望みを持っているはずだ。

Hal Riney

彼は、ベビー・ブーマーも結局は<ウェディング>や<二人の家>には弱いと信じていた。それが見事に当たったのだ。

TVコマーシャルを作る時に、ハル・リニーがよく組んでいたのが、監督のジョー・ピトカ(Joe Pytka)である。多くの映画ファンには、ほとんど誰もが凡作と罵しる『のるかそるか(Let It Ride, 1990)』の監督くらいのイメージしかないかもしれないが、ピトカは広告業界ではほとんど神と崇められるほどの存在だ。彼は数多くのTVコマーシャルを担当し、カンヌ・ライオンズでも数多く受賞している。また、ピトカはマイケル・ジャクソンの「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」「ダーティ・ダイアナ」、ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」のMVを担当したことでも知られる。彼のCMのなかでも最も有名なのが、ペプシの「考古学」であろう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Kf1A8Ukk5Us]

ブリトニー・スピアーズを起用したペプシのCMも彼の監督作である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=3Yarv7_iFX4]

そんな彼らの<作品>のなかでも「Morning in America」は出色の出来である。もちろん、ナレーションもハル・リニーによるものである。

内容のないスタイルだけの映像

この映像の与えた衝撃(インパクト)とはどんなものだったのだろうか。

これらのコマーシャルは、それ以前のどの大統領選のものよりも遥かに強烈に、内容よりも情感や好感を強調したという点において、特筆すべきものである。

Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture [5]

レーガンのキャンペーンの戦略は、最初から「問題を議論しない」だった。公職をめぐる選挙戦では、問題をいかにして解決するかを提示するのが、候補者の最低限の役割であろう。しかし、そのアプローチを最初から放棄したのである。

(マイケル・ディーヴァーと)大統領首席補佐官のジェームズ・ベーカーは、この春には(大統領選の戦略として)個々の問題よりも広いテーマを強調し、レーガンの政策の詳細について守りに入るよりも愛国心と豊かさのフィーリングを演出すると決めていた。

James Kelly [6]

しかも、この<演出>が最優先事項となり、テレビでレーガンの集会の様子が放映されても「キャンペーン・コマーシャルなのか、それともニュースの映像なのか」判断がつかない。レーガンが登場する場面は、どんな場合でも、コマーシャルと同じくらい細部にわたり演出されており、コーラやクッキーのコマーシャルにしか使われないようなテクニックが、あらゆる局面で使われていた[6]

「Morning in America」を見てみると、まさしく個々のアジェンダについて、これからの4年間どうするのかということはなにも(・・・)言っていない。4年前に比べると良くなった、という催眠術を有権者にかけているようなCMである。映像にいたっては、ナレーションの内容にかろうじて引っかかっているだけで、実質はホールマークのCMと大差ない。だが、つぶさに見ると、実は極めて精緻に計算されていることが分かる。例えば、ウェディングのシーンは、ハル・リニーがこの14年前に製作したクロッカー銀行のCMと瓜二つである。どちらも花嫁が焦点になっており、その花嫁が母親とハグするというところまでなぞっている。クロッカー銀行のCMが若い世代に「銀行に行けば、なにか良いことがあるかもしれない」と行動を起こさせるほどのインパクトがあったという経験をもとに、若い有権者にも行動を起こさせよう(選挙に行かせよう)としているのは明らかだ。

このハグしている花嫁と母親の白い影がそのままアメリカの国会議事堂の白いシルエットに重ねられる。極めて自然に「親子の慈しみ」から「国政」に移行する。実はこの名作(マスターピース)は、後半の3分の1にわたってアメリカの国旗しか登場しない。延々と国旗が掲揚されて、最後にレーガン大統領のポートレートと国旗につながって終わる。「レーガン大統領のリーダシップのもと」で国旗が掲揚され(音楽も少しトーンを変える)、「より誇り高く(Prouder)」で国旗を見上げる少年を、「より強く(Stronger)」で腕っぷしの強そうな男性を、「よりよい(Better)」で高齢者を映し出す。カーペンターズの感傷に浸ったまま、愛国が語られる。本当に有権者に対して効果があったのかどうかは不明だが、少なくともタカ派の軍備増強計画を綿あめに包んで映像にする方法が確立されたと言えよう。

このノーマン・ロックウェルの80年代版のような世界は、その後しばらくアメリカの映像の想像力を支配していたが、郊外の多様化や産業構造の変化によって、今となってはニューアーバニズムのようなかたちでしか想起できないのではないだろうか。

Prouder, Stronger, Better (Morning in America)

脚本:ハル・リニー
監督:ジョー・ピトカ
ナレーション:ハル・リニー
1984

References

[1]^ “Reagan Popularity Slips in Poll,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 2, Jan. 13, 1983.

[2]^ W. Grimes, “James D. Travis, Whose TV Ad Helped Re-elect Reagan, Dies at 83,” The New York Times, May 12, 2016.

[3]^ D. Clendinen, “Reagan Advertising Team Is Formed,” The New York Times, p. 7, Mar. 30, 1984.

[4]^ A. Kleiner, “Master of the Sentimental Sell,” The New York Times, Dec. 14, 1986.

[5]^ B. Cogan and T. Kelso, Encyclopedia of Politics, the Media, and Popular Culture. ABC-CLIO, 2009.

[6]^ J. Kelly, “Packaging the Presidency: How to coordinate campaigning and commercials,” Times, vol. 124, no. 20, p. 36, Nov. 12, 1984.

模範的な町、サンタ・ローザ

模範的な町

カリフォルニア州の小さな町サンタ・ローザは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』でロケーション撮影に使われて以来、新作映画の企画で<アメリカの片田舎の小さな町>が登場するたびに、ロケーション候補地のトップにその名前が挙がるようになった。19世紀のイタリア風ヴィクトリア朝建築の住宅、広さを感じさせる中央通り(メイン・ストリート)の存在、町の支柱としての時計塔、ひらけた交差点をのぞむ教会、並木に埋もれた住宅街といった要素が、カリフォルニア特有の陽光の風景のなかに適度に薄められたノスタルジアを呼び起こすのだ。この町が果たすべき役割を住民も承知しているかのようだった。

『疑惑の影』の撮影最終日、「The Press Democrat」に掲載された論説が、その<役割>を語っている[1]

この映画の製作のおかげで、サンタ・ローザは国内に広くPRされて好意的な印象をもたれている。今までサンタ・ローザについて何も知らなかったコラムニストや物書きたちが、ここを<模範的な町 Model City>という輝かしい言葉で表現してくれているのだ。

The Press Democrat, Editorial

ここで、サンタ・ローザは【典型的(typical)】や【平均的(average)】ではなく、【模範的(model)】という言葉で形容されている。この言葉の選択は、歴史を遠く隔てた現在の眼でみると、サンタ・ローザ、そしてサンタ・ローザのあるソノマ郡全体がハリウッド映画で果たしてきた役割を的確に表現しているかもしれない。1940年代から1990年代に至るまで、平和な田舎町、穏健な中流階級が眠る町の背景として頻繁に採用されてきた。『みんな我が子(All My Sons, 1948)』では、サンタ・ローザのマクドナルド街に現在も残る白い家が、破綻したモラルが招いた悲劇を迎えるケラー家の住居として使用される。その隣の家が『スクリーム(Scream, 1996)』に登場する印象的な曲線の白い手摺のテイタムの家である。『輝け!ミス・ヤング・アメリカ(Smile!, 1975)』では、ミス・コンテストへの熱狂という、当時の中流階級の閉塞した価値観をうつしだす町として登場する。

サンタ・ローザの20Km南に位置する町、ペタルーマも頻繁にハリウッド映画に登場する。『アメリカン・グラフィティ(American Graffiti, 1974)』はその大部分がペタルーマでロケーション撮影されている。物語は、ジョン、テリー、スティーブ、カート達が気怠い夜を過ごすだけのノスタルジーに満ちたものだが、ケネディ大統領暗殺やベトナム戦争を経験していない<無垢なアメリカ>を象徴する舞台として、この町の風景が切り取られている。4人の男たちのその後を語る字幕は、ポーリーン・ケールが批判したように[2]、物語に登場してきた女性たちの人生を実に都合よく消し去っている。『アメリカン・グラフィティ』で、物語のカタルシスの中に無意識に埋め込まれた、錆びれた差別的遠近法のもたらす想像力の欠如が、『輝け!ミス・ヤング・アメリカ』で描かれる痛ましい文化と同根であるのは明らかだ。<模範的>というのは、そういった遠近法を内在させているものなのだ。『ノマドランド』に関するエントリーでも紹介したが、ロナルド・レーガン陣営が第二期目の大統領選挙で製作したキャンペーン用TVコマーシャル「Morning in America」も、ペタルーマで撮影されている。レーガン陣営の考える<模範的なアメリカ人>が住む町の風景が、カリフォルニア州のこの町なのだ。この映像に登場するのはほぼ白人だけだというのも、保守派陣営の考える<模範>の想像力を端的に表している。

ソノマ郡で撮影された映画については、「The Sonoma County Historical Society」の1994年の会誌(link)、ペタルーマで撮影された映画についてはこのサイトが詳しい。

『スクリーム(Scream, 1996)』に登場するサンタ・ローザの家
824 McDonald Ave., 1958年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

歴史をもどそう。1943年は、<模範>が<愛国>という機能を担い、民衆の行動や精神の統制を要求する時代になっていた。模範市民とは愛国者であり、若い男ならば、自ら率先して志願する。戦場に向かう若い兵士を送り出す家族は、彼が犠牲になっても受容できる心構えができていないといけない。当時のアメリカの新聞や雑誌、映画を見ていると、そういった抑圧のような風潮を感じる。<模範>のドラマが繰り広げられる<模範の町>としてサンタ・ローザは機能した。

『疑惑の影』の直後に、サンタ・ローザを含むソノマ郡でロケーション撮影された二本の映画、『ハッピー・ランド(Happy Land, 1943)』と『戦うサリヴァン兄弟(The Fighting Sullivans, 1944)』は、当時のアメリカが田舎町の中流階級に何を求めているかがはっきりと分かる作品である。

『ハッピー・ランド』の撮影

マッキンレー・カンターの小説を原作とした『ハッピー・ランド』は、20世紀フォックスが戦時情報局(Office of War Information, OWI)の推進するプロパガンダの一環として製作した映画である(マッキンレー・カンターについては『拳銃魔』についてのこの分析で詳細に書いた)。戦争で命を落とした兵士の家族の心をいかに癒やすか ─── その模範的な物語として、『ハッピー・ランド』の製作にOWIは注意をはらっていたと言われている[3, pp. 161–165]。アイオワ州の小さな町、ハートフィールドで薬局を営むリュー・マーシュ(ドン・アメチー)は、一人息子のラスティが太平洋の戦闘で戦死したことを知る。リューは喪失の絶望から立ち直ることができない。そのリューの前に彼を育ててくれた祖父の霊が現れる。祖父の霊は、ラスティが生まれてから歩んできた人生をリューとともに振り返り、息子の人生がいかに豊かなものだったかをリューに悟らせる。マーシュ夫妻がラスティの戦友を家に迎え入れて、新しい人生の章を始めようとするシーンで映画は終わる。

テーマのうえでも、技法的にも、この作品は明らかにソーントン・ワイルダーの戯曲「我らの町」、そしてそれを原作としたサム・ウッド監督の映画『我等の町(Our Town, 1940)』に強い影響を受けている。死んだ者の魂によって呼び起こされるフラッシュバックの技法を使って、<なんでもない日々こそ幸福の日々>というメッセージを、戦争における犠牲の正当化に資するよう物語に埋め込んでいる。ソーントン・ワイルダーが、ヒッチコックに請われて脚本を担当したのが『疑惑の影』である。『ハッピー・ランド』は物語の骨格を『我等の町』から、物語の舞台としてのサンタ・ローザを『疑惑の影』から受け継いだ。

『ハッピー・ランド』のロケーション撮影の様子は、やはり当時の地元新聞によって知ることができる。撮影クルーと出演者たちは、1943年6月14日から7月3日までサンタ・ローザとその近くのヒールズバーグ、ペタルーマで撮影をおこなった [4]。前年の『疑惑の影』の撮影では、アルフレッド・ヒッチコックが地元の少女をスカウトしたが、『ハッピー・ランド』でも監督のアーヴィング・ピシェルが「ソフト・クリームを道に落としてしまう女の子」の役にサンタ・ローザ在住の4歳の少女 ─── のちのナタリー・ウッド ─── を起用する[5, pp. 21–28]。また、実際のサンタ・ローザ市長のE・A・アイマンが、架空の町ハートフィールドの市長を演じた[6]。エキストラも、前回と同じように地元から雇われている[7]。新聞ではサンタ・ローザは「第2のハリウッド」になる、とまで言われている。監督たちもサンタ・ローザの住民たちの不気味なまでに褒めちぎっている。

昨日のジュニア・カレッジでの撮影中、監督のアーヴィング・ピッチェルはこう語った。「ここの皆さんは実に素晴らしいですね。皆さんの撮影中の協調性といったら、本当に私達全員にとって驚きなんです」彼は、撮影に現れた住民たちの演技力を高く褒め称えている。昨日の撮影では、撮り直しもなかったそうだ。

The Press Democrat [7]

木陰に安らぐマクドナルド通りの住宅街、ジュニア・カレッジの広い陸上トラック、パレードができるほどのゆったりとしたヒールズバーグのメイン・ストリート、通りに面したドラッグストア、アメリカの小さな田舎町にあるべきものが、この土地にはすべて揃っている。サンタ・ローザからさらに北に進んだところにある人口2,500人の小さな町ヒールズバーグは、フラッシュバックで登場する1910年代のアメリカの町として最適だった。町の通りがまだ舗装されていないのだ。ハリウッドのスタッフたちは、この<失われつつある風景>を追加で撮影していったという[8]灯火管制(ディムアウト)のせいで、夜の撮影は不自由だが、この土地に来れば、わざわざセットを組む必要がない。そんな中で、一つだけ気になるシーンがある。夜遅く、リューとラスティの親子がドラッグストアから家に帰る、長いトラッキングショットがある。昼のシーンは、ヒールズバーグに実在した店を利用して撮影されたが、このシーンは、ナイト・フィルターを使って昼間に撮影したか、あるいはロケーション撮影ではなく、スタジオで後日撮影したものかのいずれかだろう。

『ハッピー・ランド』でドン・アメチーが住んでいる家
1127 McDonald Ave., 1953年頃
(Sonoma County Library Digital Collections)

当時、カリフォルニア州内であれば、少し日数がかかるものの、ロケーション先でデイリー(ラッシュ)を見ることができたようである。『誰が為に鐘は鳴る』のようなテクニカラー作品でもロケーション先でデイリーを見ていたと報告されているし、『ハッピー・ランド』でもアーヴィング・ピシェル監督らは1週間ほど遅れてデイリーを見ていた[7]。撮影はのどかに進んでいった。ドン・アメチーとハリー・ケリーが家の前で会話をするシーンを撮影中、二軒先に住む税務署職員のエディー・サリヴァンの家のニワトリが声高く鳴いた(すでにアメリカ国内では食料の配給が始まり、不自由を感じた一般人の多くが「食料」を自宅で育てていた)。ピシェル監督が「このシーンは$1,250かかっているんだぞ!あの毛布みたいな鳥の口を塞いでこい!」と怒鳴って、助手たちがニワトリを暗い鳥小屋に押し込んだが、事態はさらに悪化した。「その後数分間起きたことは、あまりに痛ましく、サンタ・ローザの善良でおとなしい市民の方々が読むこの新聞にはとても書けない」とパーディー記者は書いている[9]。驚いて恐縮したサリヴァンが撮影クルーに「鳥を振る舞った」と報じられたが、サリヴァンは「冗談じゃない、あの鳥は$1,2000ドルするんだ」と否定したという[10]。ハリウッドから来た映画人たちは田舎でも忙しい。出演俳優たちは、撮影のあいだに空いた時間を使って、近くの陸軍航空軍の兵士たちを慰問している[11]。撮影の休息日には、地元の地主が監督、アメチー夫妻、ケリー夫妻を招待して、野豚狩りや鱒釣りに誘った[12]。撮影期間中、子どもたちはポリオの流行でプールが閉鎖されているので、かわりに撮影現場に大挙して現れた。その母親たちは、新聞社にその日はどこで撮影するか毎朝問い合わせをしていた[4]。出演俳優のサインをもらった者たちは、それを交換しあっていた。

『ハッピー・ランド』公開

12月に『ハッピー・ランド』が公開された際、サンタ・ローザの新聞編集長は全国の雑誌や新聞を取り寄せたに違いない。この作品が地元に与えるPR効果を詳細に報告している。雑誌「タイム」は、サンタ・ローザを「Hollywood’s All-American Town」と呼び、「リバティ」誌はサンタ・ローザがもたらした<リアリズム>を高く評価していた[13]

映画界の業界雑誌、Motion Picture Heraldには各号に「What the Picture Did for Me」という項目があった。ここでは、公開された映画について映画館主が送ってきた意見や感想を公開している。他の映画館主がプログラム作成の際に参考にできるように組まれた企画であろうか。現在の私達にとって、当時の観客に近い視点からの作品受容や感覚を知ることができる数少ない資料になっている。1944年の前半に『ハッピー・ランド』について書き送ってきた映画館主は多く、その大部分は好意的だった。特にテキサス州のある映画館主は長文の感想を書き送ってきている。

この映画のタイトルは『アメリカ』とするべきだった。製作、セット、ストーリーのどの面から見ても大作ではない。しかし、この映画はアメリカに住むすべての人にとって共通するものをもっている。私達ひとりひとりの心、手、健康、家に響くものがある。そう、この映画は平均的なアメリカ人の生活に共通する小さな事柄が題材だ。その小さな事柄がこの映画を大きなものにしている。これこそ、プロデューサーたちは立ち止まってよく考えないといけないことだ。広大な風景の映画なんか置いといて、心の琴線に触れるものを作れ。

Lee Guthrie(Rogue Theatre, Wheeler Texas)

前述の「タイム」の「Hollywood’s All-American Town」という表現も、このガスリー氏のような感慨も、決して少なくなかったはずだ。『ハッピー・ランド』の興行収入は$1,500,000だった。『誰が為に鐘は鳴る』の興行収入が$11,000,000だったことを考えると、プロデューサーたちは立ち止まって考えることもなかったかもしれない。

ハッピー・ランド(Happy Land)

監督:アーヴィング・ピシェル

製作:ケネス・マクゴワン

原作:マッキンレー・カンター

脚本:キャスリン・スコラ

脚本:ジュリエン・ジョセフソン

撮影:ジョセフ・ラシェル

編集:ドロシー・スペンサー

音楽:シリル・J・モックリッジ

出演:ドン・アメチー、フランシス・ディー

製作:20世紀フォックス

1943

References

[1]^       “Farewell to Movie Friends,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 12, Aug. 26, 1942.

[2]^       P. Kael, “The Current Cinema: Un-People,” _The New Yorker_, vol. 49, no. 36, p. 153, Oct. 29, 1973.

[3]^       C. R. Koppes, _Hollywood Goes to War: How Politics, Profits, and Propaganda Shaped World War II Movies_. New York : Free Press ; London : Collier Macmillan, 1987.

[4]^       M. R. Pardee, “Movie Company Leaves After Petaluma Shots,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 3, Jul. 04, 1943.

[5]^       S. Finstad, _Natasha: The Biography of Natalie Wood_. New York, N.Y. : Harmony Books, 2001.

[6]^       “Movie Stars to Arrive in S. R. Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 13, 1943.

[7]^       “200 Local ‘Extras’ Used in Scenes for Happy Land Film,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 17, 1943.

[8]^       “Travel Restrictions of Wartime Fail to Bother Location Expert,” _Daily News_, Los Angeles, p. 13, Aug. 02, 1943.

[9]^       M. R. Pardee, “Expensive Rooster Holds Up Production for Movie Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 2, Jun. 23, 1943.

[10]^ M. R. Pardee, “Evening Scenes for ‘Happy Land’ Taken,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 6, Jun. 24, 1943.

[11]^ “‘Happy Land’ Stars Aid in Entertaining Soldiers Here,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 1, Jun. 18, 1943.

[12]^ “Film Folks Will Go Pig Hunting Today,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 4, Jun. 27, 1943.

[13]^ “‘Happy Land’ Brings More Publicity for Santa Rosa,” _The Press Democrat_, Santa Rosa, p. 8, Dec. 14, 1943.

『疑惑の影』の製作

『疑惑の影』
サンタ・ローザでの夜間ロケーション

前の記事のような状況下で、プロデューサーのジャック・スカーボールと監督のアルフレッド・ヒッチコックは『疑惑の影』のロケーション撮影をおこなった。ニュージャージーで序盤のシーンを撮影した後、大部分を北カリフォルニアのサンタ・ローザで撮影した。

サンタ・ローザ

『疑惑の影』の4年前に、<実在の町>を背景にロケーション撮影した作品として注目を集めた作品がある。MGMの『少年の町(Boy’s Town, 1938)』は、ネブラスカ州オマハにあるボーイズ・タウンで全編ロケーション撮影され、実際にボーイズ・タウンの少年たちが映画に出演している。『少年の町』は興行的にも成功しただけでなく、MGM、あるいはMGMスタジオのトップであるルイス・B・メイヤーの哲学を具現化した作品として、その後の保守的、アメリカ製カトリック的物語の精神的鋳型(アーケタイプ)として機能した。<実在の町>を背景(バックドロップ)として、その町の<性格>や<佇まい>を物語のなかで機能させる手法を、再度挑戦したのが『疑惑の影』だと言ってもよいかもしれない。だが、スカーボール/ヒッチコック/ソーントン・ワイルダーは『少年の町』で描かれた保守的なアメリカ神話を逆手にとって、神話の舞台である<アメリカの小さな町>の内部と外部の<悪>が見せる相似を描いた。その神話の舞台として、サンタ・ローザが選ばれたのだ。

この『疑惑の影』が特異的なのは、その製作過程が詳細にメディアに取り上げられている点だ。撮影がおこなわれた8月1日から25日にかけて、サンタ・ローザの地元新聞「The Press Democrat」と「Santa Rosa Republican」が、連日撮影の様子を報道していた。まさしく「ハリウッドが町にやってきた」「この町がスクリーンになる」という興奮と高揚感に満ち溢れた記事が、日本軍のアリューシャン列島攻撃の見出しの横に並んでいる。この記録の存在は貴重だと思う。これらのおかげで、私たちは撮影がどのように進行し、<ハリウッド>がこの小さな町にどのようなインパクトを与えたかを知ることができる。もう一つの大事な報道は映画公開後に雑誌「ライフ」に掲載された「$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets」という製作レポートだ[1]。このレポートは、そのタイトルが示す通り、ヒッチコックがいかに工夫して、WPBの<$5,000のセット材料費上限>ルールをクリアしたかという称賛記事である。後述するようにロケーション撮影とセット撮影の組み合わせによって製作費を抑えたプロセスが具体的に明らかにされている。

この「ライフ」の記事と地元新聞の報道を突き合わせて見ると、非常に興味深いことが見えてくる。「ライフ」の記者とカメラマンは、スカーボールとヒッチコックが撮影に入る前から、彼らに同行して取材を重ねているのだ。サンタ・ローザでのロケーション撮影が発表されたのは1942年6月2日だったが、すでにその時に「ライフ」のカメラマン、ジョージ・アイヤマンがロケーション・ハンティングをするヒッチコックやソーントン・ワイルダーの写真を撮っている、と「The Press Democrat」が報じている[2]。実際、このときの撮影と思われる写真が記事に掲載されている。つまり、この<ロケーション撮影を使って製作材料費を抑える>という物語(ストーリー)を、全国的な雑誌で取り上げて報じるという計画が製作の初期の段階からあったということだ。<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして機能したわけだが、前述のビーゼンの記述を見ると、いかに効果的なプロパガンダだったか(であり続けているか)ということがよく分かる。

『疑惑の影』のロケーション撮影を伝える「ライフ」誌の記事
Google Books Link

これは、開戦直後にハリウッドの戦争協力が限定的だった状況を考えると興味深い。WPBの材料統制がきっかけとなって、ハリウッドが自発的に戦争協力のプロパガンダを編み出すようになっていたのかもしれない。それを、すでに戦争に突入して3年目になるイギリスから来たアルフレッド・ヒッチコックと、ユダヤ教のラビとして20年近くつとめていたジャック・H・スカーボールが率先しておこなったという点は、示唆的であるように思われる。

『疑惑の影』のロケ地として、サンタ・ローザが選ばれた背景には、前述のロケーション撮影の抱える様々な問題を迂回できる要素が整っていたことも挙げられるだろう。この町はサンフランシスコの北、ソノマ郡にあり、ロサンゼルスからは680キロメートル(422マイル)離れている。これは前述の全米映画俳優組合との<300マイル・ルール>が適用されない土地だ。製作発表と同時に、地元での100人程度のエキストラ採用が始まっている[2]。このエキストラには、全米映画俳優組合がプロデューサー達と取り交わした契約が適用されない。どのような待遇だったかは不明だが、組合のレートと同等だったとは考えにくい。結局、1000人もの住人が映画のエキストラとして採用されていた[3]。チャーリー・ニュートン(テレサ・ライト)の妹、アン・ニュートン役に抜擢されたエドナ・メイ・ウォナコットは、サンタ・ローザ在住の10歳の少女で、サンタ・ローザの4番通りとメンドシノ通りの交差点でバスを待っているところを見かけたヒッチコックに<発見>された[4]。ウォナコットの抜擢は地元で当然注目を集め、この「シンデレラ」について新聞は些細な事でも記事にした[5]。映画の出演者、撮影クルーは撮影期間の4週間のあいだ、サンタ・ローザのオキシデンタル・ホテルとサンタ・ローザ・ホテルに宿泊、膨大な量の撮影機材は地元の倉庫で保管、撮影のための移動手段はやはり地元の業者が担当したが、そういったお膳立てはサンタ・ローザの商工会議所が率先しておこなっていた。こういった報道を醒めた目で見ていると、狡猾なハリウッドの映画人たちが、地方の小さな町の人たちの浮かれた気分を手玉にとっているようにしか見えない。まるで、映画のジョセフ・コットンが、映画の中のサンタ・ローザの人たちの無知を利用する様子のパラレルを見ているようだ。

アメリカでも、1950年代までは幹線道路以外はまだ整備されていない地域は多かった。その点サンタ・ローザは、サンフランシスコなどの都市部から離れた町だが、交通の便には恵まれていた。1930年代に、サンタ・ローザを通るUS101号道路はほぼ舗装化されていたし、サンフランシスコ湾も1937年にゴールデン・ゲート・ブリッジが開通して、ソノマ郡とサンフランシスコが直通している。映画の撮影クルーと出演者たちは、撮影開始の前日(7月30日)に鉄道とグレイハウンド・バスを乗り継いで、現地入りしたと伝えられている[3]

『疑惑の影』の夜間撮影

サンタ・ローザは海岸からも離れているため、沿岸部に適用される規制の対象外である。消灯令もなく、夜のロケーション撮影も夜通し可能だった。夜の撮影に使用された照明も当時の新聞[6]や「アメリカン・シネマトグラファー」誌[7]に報告されている。サン・アーク(カーボン・アーク灯)10台、24インチ・サンスポット(カーボン・アーク灯)19台、”シニア”(白熱灯)6台、”ジュニア”(白熱灯)10台、No.4 フラッドランプ 50台、No.2 フラッドランプ 50台、No.1 フラッドランプ 50台、スカイパン(拡散反射板)10台、これらを全部同時に使用して(3,000アンペア)撮影がおこなわれた(通称についての説明は[8]を参考にした)。電力は撮影隊の電源(1,250アンペア ガス発電機、50キロワット変電機)が供給している。オフィスビルの窓にはフラッドライトが使用されたが、家庭用電源でまかなえるのが便利だった(フラッドライトは、1940年代のロケーション撮影の機動性を高める上で極めて重要な役割を担っている)。カメラのフィルム・ストックは、『市民ケーン』でも使用されたコダックの高感度フィルム(Super-XX)が使用されている[7]

ところが、撮影に入って数日後に、西海岸全域での灯火管制(ディムアウト)が発表される。海岸から比較的遠いサンタ・ローザも灯火管制の地域に入っており、灯火管制(ディムアウト)開始の8月20日から夜のロケーション撮影が実質的に不可能になった。前日までに夜間撮影を終えるようにスケジュールが組み直され[9]、13日と14日には徹夜で撮影が行われた。しかし、夜間撮影を期日までに終えることができず、20日には民間防衛局(Office of Civilian Defense)の許可を得て夜の9時まで撮影をおこなっている[10]

サンタ・ローザでのロケーション撮影は8月25日まで続いた。地元新聞は、映画の撮影進行状況を事細かく伝え、小道具担当やグリップなど撮影クルーたちの談話を載せている[11], [12]。25日の最後の撮影は、<チャーリーおじさん>の葬式の場面だった[13]。サンタ・ローザの住民数百人がエキストラとして参加して、もうハリウッドに戻ってしまったジョセフ・コットンの葬式がしめやかにおこなわれた[14]

この後、ハリウッドに戻って追加のセット撮影が行われている。前述の「ライフ」誌の記事によれば、セットはサンタ・ローザでロケーションに使用された家を模して設計され、すでに他のセットで使用された材料を再利用して建設された。総額は$2,927で、WPBの制限額を大きく下回る。ここまで映画製作の内実を公開しているのは、この映画の製作自体を<戦争体制に積極的に協力するハリウッド>というプロパガンダとして利用する意図があったからにほかならない。同時期のハリウッド映画で、ここまで製作の経済的側面をメディアに露出させた作品は一本もない。

『疑惑の影』と同じように灯火管制(ディムアウト)のために夜間撮影のスケジュールの変更を余儀なくされた作品には、『砂漠の歌(The Desert Song, 1943)』、『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』、『カナリヤ姫(Princess O’Rourke, 1943)』などがある。空に向かって逃げる拡散光を出さなければよい、ということであれば、少し工夫をして乗り切った撮影もある。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『肉体と幻想(Flesh and Fantasy, 1943)』はサーカスのテントを張って、その下で夜のシーンの撮影をおこなった。RKOでは、エドワード・ドミトリク監督の『アルカトラズから7マイル(Seven Miles from Alcatraz, 1942)』の灯台のシーンを200フィート四方(60メートル四方)のキャンバスで覆って撮影した[15]

『疑惑の影』のスタジオでの撮影の様子
Google Books Link

参考文献

[1]^ “$5,000 Production: Hitchcock Makes Thriller Under WPB Order on New Sets,” LIFE, vol. 14, no. 4, p. 70, Jan. 25, 1943.

[2]^ “Hollywood Producers To Make Motion Picture Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jun. 03, 1942.

[3]^ “Movie Cast, Aides To Arrive Tonight From Hollywood,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Jul. 29, 1942.

[4]^ “10-Year-Old S.R. Girl Gets Chance at Role in Movies!,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 2, Jul. 28, 1942.

[5]^ “S. R. Child Gets Contract as Work Starts on Movie Here,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 01, 1942.

[6]^ “Even Town’s Clock Stops to Aid Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 11, 1942.

[7]^ Joseph A. Valentine, A. S. C., “Using an Actual Town Instead of Movie Sets,” American Cinematographer, vol. 23, no. 10, p. 440, Oct. 1942.

[8]^ “Report of the Studio Lighting Committee,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXII, p. 44, Jan. 1939.

[9]^ “Santa Rosa’s Name Retained for Movie,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 10, 1942.

[10]^ “Film Company In Twilight Shots Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 5, Aug. 20, 1942.

[11]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Prop’ Man Amazes With His Ingenuity,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 11, Aug. 21, 1942.

[12]^ Byrd Weyler Kellogg, “‘Grip Men’ Busiest Part of Film Crew,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 7, Aug. 22, 1942.

[13]^ “Movie Company to End S. R. Stay With ‘Final Rites’ Today,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 25, 1942.

[14]^ “City Turns Out for ‘Funeral’ in Movies,” The Press Democrat, Santa Rosa, p. 1, Aug. 26, 1942.

[15]^ “Coast Takes Dimout in Stride, Nite Trade Booms as Curious Roam Streets,” Variety, vol. 147, no. 12, p. 5, Aug. 26, 1942.

軍需生産委員会とハリウッド

『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』
アリゾナ州にある陸軍のサンダーバード第1飛行場でロケーション撮影された

真珠湾攻撃から4ヶ月後、政府による物資の統制がハリウッドの映画製作そのものを直撃する。1942年4月に軍需生産委員会(WPB)が、L-41という政令を発表した。これによれば、いかなる建造物(私有、公共関わらず)でも、費用が$5,000を超える場合は許可が必要となった[1]。当初、この<建造物>に映画のセットは含まれないのではないかとハリウッドは期待したようだが[2]、戦争による物資の統制政策は甘くなかった。WPBは映画の種類にかかわらず(・・・・・・・・・・・)、セットの材料費に$5,000の上限を設けたのである。セットに対する材料統制は、ハリウッドの映画スタジオの価値観と大きくずれていた。MGMからリパブリック・ピクチャーズまで、どこのスタジオでも<超大作>と<低予算映画>の両方が製作されているが、同じものではない。こんなコストでは、製作可能な映画のレベルが子供向けの低予算西部劇しかなくなってしまう、と反発する者たちも多かった。物資の民間消費を問題にするのだったら、なぜフィルムそのものを規制しないのか。むしろ二本立てを止めさせて、誰も見ない低予算B級映画そのものをなくしてしまう方が、フィルム材料の節約にもなるだろう、という意見もあった[3]。しかし、WPBはその方針を曲げなかった。

映画史の見直し

従来のハリウッド映画史では、戦時下の映画製作の変化を単純でわかりやすい物語に押し込む傾向がある。例えば、第二次世界大戦中のハリウッドについて「ブラックアウト」などを著しているシェリ・チネン・ビーゼンは、戦前のMGMのテクニカラー大作『北西への道(Northwest Passage, 1940)』に見られたような、潤沢な資金をつぎ込んでロケーション撮影を行うことは、開戦とともに下火になったと述べている[4]。特にテクニカラー作品は、尋常ではない照明を必要とし、生フィルムの使用量も単純に3倍必要になるために少なくなったと主張している。しかし、これは端的に言って間違っている。

テクニカラーの作品は、戦時中に製作本数が増えている。1940年には12本(そのうち1本はパートカラー)、1941年には17本だったが、1942年に13本、1943年に20本、1944年には29本にまで増加する(1942年にいったん減少しているように見えるが、『誰がために鐘は鳴る』や『マーク・トウェインの冒険(The Adventures of Mark Twain, 1944)』のように、この年に製作されたにもかかわらず、公開が先延ばしになった作品が少なからずある)。ウォルター・ラング、アーサー・ルービン、アーヴィン・カミングス、デヴィッド・バトラーといった監督がほぼ毎年テクニカラー作品を担当していた。また、これらの映画はロケーション撮影をふんだんに利用して、広大な景色をカラフルに見せることを主眼としている。例えば、『海の征服者(The Black Swan, 1942)』は、(そんなふうには見えないかもしれないが)ジャマイカ、メキシコ、キューバ、フロリダで、『大空の戦士(Thunder Birds, 1942)』はアリゾナで、『森林警備隊(The Forest Rangers, 1942)』はオレゴン、モンタナで、『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』はユタでロケーション撮影をしている。戦争開始とともに、パラマウント、20世紀フォックス、ワーナー・ブラザーズは、低予算映画の計画を取りやめ、積極的に大作主義に路線を変更していった。テクニカラー作品を含む<大作>、<話題作>は、劇場での上映期間延長(ホールドオーバー)になりやすく、歩合制レンタル料が圧倒的に興行収入を押し上げていった。つまり、政府に言われるまでもなく、低予算B級映画の製作を止めたのである(5大メジャー・スタジオの中で、最終的に二本立て用の低予算映画を作り続けたのはMGMだけだった)。

また、前述のビーゼンは、さらに続けて以下のようにヒッチコックを称賛する。

ヒッチコックはロサンゼルスのスタジオを離れて、北カリフォルニアでロケーション撮影するという、当時としては珍しい、革新的なやり方で『疑惑の影(Shadow of a Doubt, 1942)』を監督した。

シェリ・チネン・ビーゼン Sheri Chinen Biesen[4]

『疑惑の影』をロケーションで撮影した動機のひとつが、前述のWPBが設定した材料費の上限$5,000だったのは間違いないだろう。安いセットで撮影するよりも、サンタ・ローザという実在する町で、実在する家や通り(ストリート)を利用した撮影のほうが効果的だと考えたのだ。しかし、それは『疑惑の影』に限ったことではなかった。後世の私達が映画史を振り返るとき、どうしてもヒッチコックのような象徴的な監督に<革新性>を見出しがちである。『疑惑の影』とほぼ同じ時期に、サム・ウッドやジョージ・マーシャルが監督した『誰がために鐘は鳴る』や『森林警備隊』も<ロサンゼルスを離れて>、ほぼ<ロケーションで撮影>されたことは忘れられ、<普通ではない、革新的なやり方>をしたのはヒッチコックだけだったということにされてしまう。ロケーション撮影は珍しくもなければ、革新的でさえなかった。ヒッチコックが『疑惑の影』を撮影した1942年には、寧ろあまりにロケーション撮影が多くなりすぎて、様々な問題が噴出していたのである。

戦時下のロケーション撮影

ハリウッドは、ロサンゼルス近郊が軍による統制(消灯令、海岸地域の立入禁止、駅や空港などでの撮影禁止、軍用機以外の飛行機の飛行制限など)が厳しくなったために、南カリフォルニアから離れた場所でのロケーション撮影に計画を切り替えていた。1942年4月29日のVariety紙によれば、20世紀フォックスが撮影に入る作品のうち、8作品は「この地域の戦争による統制を避け、ストーリーにあった自然の背景を利用するために」大部分をロケーションで撮影すると報じている[5]

戦時下で、ハリウッドのスタジオがロケーション撮影をしようとする際にまず最初に遭遇する問題が<タイヤ>だった。当時は日本が天然ゴムの原産地であるインドネシアなどの地域を占領していたため、アメリカではゴムの入手が極めて困難になっていた。戦争開始直後から、タイヤの消費を抑制するために、政府はガソリンを配給制にした。さらに輸送に関して様々な規制を設けたために、ハリウッドが自由気ままに車を走らせてロケーションに向かうわけにはいかなくなった。

20世紀フォックスは『大空の戦士』をアリゾナ州のグレンデールにある操縦士訓練施設でロケーション撮影した。ハリウッドから車で一晩ほどの距離だが、<ゴム節約のために>人員、機材、そして録音用車両を鉄道で輸送したという[6]。パラマウントも『森林警備隊』をサンタクルーズでのロケーション撮影には鉄道を使用して移動した[7]。6月には、トラックなどの輸送車が貨物を積まずに走行することに防衛輸送局(Office of Defense Transportation)が難色を示し、ロケーション撮影で使用したトラックがハリウッドに戻って来るときには、野菜であろうが、鉄道のレールであろうが、現地で輸送貨物を積んで戻ってくることになった[8]。映画スタジオの輸送走行距離は全体で35%削減され、従業員用のバスも廃止された[9]

軍が戦略的にクリティカルとみなした地域は映画撮影の許可がさらに厳しくなった。『The Great Northwest Frontier』という題名の映画で、アラスカでのロケーション撮影を計画していたリパブリック・ピクチャーズは、撮影の許可が下りずに苦労している[10]。日本軍の侵攻が続いていた北太平洋に近いアラスカはカリフォルニアよりもさらに軍の統制が厳しかったのである。さらに、西海岸の沿岸地域で撮影する場合には、撮影クルー、出演者含めてすべてアメリカ市民である必要があった[11]。特にヨーロッパからナチスの脅威を逃れてきた映画人にとって、これは厳しい決定だっただろう。

軍の要請だけではない。ハリウッドから300マイル以内でのロケーション撮影の場合、全米映画俳優組合との取り決めでエキストラを現地で雇うことができず、ハリウッドからエキストラを連れていかなければならないことになっていた[7]。戦時下で多くのエキストラがロサンゼルスを離れることができないといった問題もあった。

こういった数々のハードルがロケーション撮影にはつきまとった。しかし、スケールの大きな戦争映画や、テクニカラー作品のミュージカルなどで、ロケーション撮影を敢行して<大作>として公開するメリットは、これらのハードルをはるかに上回ったようだ。

『マイ・フレンド・フリッカ:緑園の名馬(My Friend Flicka, 1943)』

参考文献

[1]^ “Ban Placed on Building,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 6, Apr. 09, 1942.

[2]^ “Studios Wary of Set Building Under WPB Rules, Despite D. C. Assurance,” Variety, vol. 146, no. 9, p. 6, May 06, 1942.

[3]^ Paul Harrison, “Paul Harrison in Hollywood: Moviemakers in Quandry Over WPB Set Restrictions,” Ventura County Star, p. 3, Jul. 07, 1942.

[4]^ S. C. Biesen, “Chapter 2. The Classical Hollywood Studio System, 1928–1945,” in Hollywood on Location: An Industry History, J. Gleich and L. Webb, Eds. Rutgers University Press, 2019.

[5]^ “Wartime Rules Spread 20th-Fox Locations,” Variety, vol. 146, no. 8, p. 6, Apr. 29, 1942.

[6]^ “Casey Jones’ Comeback,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 7, Mar. 11, 1942.

[7]^ “Inside Stuff – Pictures,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 18, Mar. 11, 1942.

[8]^ “Bring-Back-a-Load Dictum to Film Cos. May Mean Radishes or Rail Ties,” Variety, vol. 147, no. 3, p. 3, Jun. 24, 1942.

[9]^ “Studios Cut Mileage 35%,” Variety, vol. 147, no. 5, p. 6, Jul. 08, 1942.

[10]^ “Army Regulations Hobble Rep’s Filming in Alaska,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 27, Mar. 11, 1942.

[11]^ “Studios Must Vouch for Troupes in Zoned Areas,” Variety, vol. 146, no. 1, p. 22, Mar. 11, 1942.

ブラックアウトとハリウッド

『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』の爆撃シーン

前回、真珠湾攻撃とその後に続く伊号潜水艦の攻撃が、アメリカ西海岸に<消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制 (ディムアウト)>をもたらした経緯をみてみた。

では、それらがどのようにハリウッドの映画製作に影響を及ぼしただろうか。

これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない

ハリウッドが最初の<消灯令(ブラックアウト)>を経験したのは1941年12月10日の夜だった。

7:45 p.m. 丘の上の窓から見ていると、町はクリスマスツリーが横たわっているみたいだった。RKOスタジオの貯水タンクの三角のネオンから、ラ・ブレア・アベニューのナイトクラブ街の電気まで、赤、白、緑、青のカーペットがチカチカしていた。サイレンが鳴り響き、電気会社は損失を出しはじめた。15分以内に、何マイルにもわたって街燈が暗くなった。赤い電光表示もほとんど消えてしまった。30分もすると、まったく何も見えなくなった。真っ暗になったが、白熱電球の列が1マイルほど伸びている。あれはハリウッド大通りのサンタクローズ・レーン、マツダ・ランプで飾られたクリスマスツリーの列だ。だが、そのスイッチもようやく見つかったようだ。

フレデリック・C・オスマン[1]

このサンタクローズ・レーンのクリスマスツリーも次の日には撤去されてしまったようだ。

開戦の影響を最初に受けた映画の一つが、サム・ウッド監督の『誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls, 1943)』だった。この作品は、正式な製作開始が1942年夏ということになっているが(よって、イングリッド・バーグマンにとっては『カサブランカ(Casablanca, 1942)』の撮影と重なっていた)、背景のシーンなどの撮影は、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの配役が決定するはるか前の1941年11月に始まっていた。サム・ウッドと撮影クルーは、12月前半にハイ・シエラで爆撃機による攻撃のシーンを、陸軍の爆撃機を使用して撮影する予定だった。ところが、真珠湾攻撃の後、アメリカ全土で航空規制が敷かれ、軍用機の使用はもちろん禁止、民間機の飛行も制限された。パラマウントは軍から特別な許可を得て、近隣住民に「これは映画の撮影で、日本軍による本土爆撃ではない」とあらかじめ通達を出して撮影に臨んだ[2]。撮影にはボーイングの民間機を軍用にカモフラージュした。ところが、飛行の許可が下りたのは、撮影のあいだだけだったようで、撮影後は現地で飛行機を解体し、貨物車で運搬してハリウッドに戻ったという[3]

この爆撃のシーンのために、パラマウントは構造力学のエンジニア、ハロルド・オムステッドをコンサルタントとして呼んでいた。彼はノルウェイでナチスによる爆撃を実際に経験していたからである。オムステッドは爆撃シーンの協力だけでなく、パラマウント・スタジオに近代的な防空壕を作るように助言もした[4]

他の映画の製作も、戦時下の体制に強く左右されていく。

まず、<消灯令(ブラックアウト)>によって、従業員が帰宅できなくなる可能性を考えて、多くのスタジオは標準稼働時間を1時間繰り上げた。それまで午前9時から午後6時までだった勤務を、午前8時から午後5時にした[5]。こうして、大部分の映画撮影がセット内で、昼間に行われることになった。特にオープンセット(バックロット)での夜間撮影は、消灯令のために難しくなり始めていた。突然、サイレンが鳴り始めると撮影を中止しなければならないからだ。

ハリウッドの映画館は「Show Must Go On」を合言葉に、「外の明かりは消していても、中では映画をやっているよ」と強調して、業界が今までと変わらず、安定してエンターテインメントを供給しているとアピールした。

時流に乗るのが早いハリウッド業界人たちは、すぐに戦争をモチーフにした映画の製作(あるいはタイトルだけ)を発表した。それまで製作していた映画でも、敵をナチスから日本に切り替えたり、真珠湾攻撃によって主人公たちが主体的に日本軍をやっつけるという物語に書き換えたり、といったことが行われるものもあった。例えば、MGMの『A Yank on the Burma Road (1942)』では、当初の脚本が真珠湾攻撃後に書き換えられ、主人公のアメリカ人ジョー・トレーシー(バリー・ネルソン)が日本軍と派手に銃撃戦を交わす、高揚的なエンディングになった。

『A Yank on the Burma Road (1942)』のエンディング
日本兵をマシンガンで倒すバリー・ネルソン

カリフォルニアに居住していた日系アメリカ人が戦時中に強制的に収容所に入れられたが、それは当時の白人を主体とするアメリカ社会が彼らを<アメリカ人>と考えずに<ジャップ>と考えていたからにほかならない。ハリウッドのように移民が多い社会でもそれは変わらない。多くのハリウッド映画人が、日系人が追放されると「腕の良い庭師がいなくなる(彼らの大邸宅の庭師の多くが日系人だった)」くらいにしか考えていなかったのもその表れである。

戦争協力への道のり

戦争が始まる2週間ほど前の11月24日、20世紀フォックスはフリッツ・ラング監督を擁して『夜霧の港(Moontide, 1942)』の撮影を開始した。ジャン・ギャバンのハリウッド第一作であり、アイダ・ルピノにとっても重要な作品になるはずだった。だが、撮影に入る前からすでにヨーロッパの戦争が製作を思わしくない方向へ引きずっていた。ロケーション撮影を予定していたサン・ペドロの港は海軍の要塞化が始まり、ラングたちは仕方なくフォックスの敷地内に大型のプールを$45,000で作って、海辺のセットを構えることになった。ラングはこの妥協がきっかけになってやる気をなくしたと言われている(その他、ジャン・ギャバンとの不仲、脚本の変更も原因として挙げられている)。真珠湾攻撃の直後、12月12日を最後にラングは監督を降板し、アーチー・メイヨが残りの監督を引き受ける[6, p. 6463/13753]

開戦後の撮影はすべてフォックスのセットでおこなわれたが、決して順調だったわけではない。アーチー・メイヨは撮影中に上空を通過する陸軍の爆撃機の騒音に悩まされている[7]。この『夜霧の港』は、幻のような霧に包まれた海辺のセット撮影やサルバトール・ダリ原案の酩酊のシーンなど魔術的な映像とともに、前述の大型プールのセットを使った海岸のシーンの、とてもセットとは思えないリアリズムが印象的な作品だ。近年、<プロト・ノワール>として再評価もされている[8], [9]

『夜霧の港(Moontide, 1942)』

ハリウッドの映画人たちも、それぞれの形で戦争に参加しはじめる。応召する者、志願する者、さまざまだ。ハリウッドの監督のなかでいち早く軍に志願したのは、フランク・キャプラとウィリアム・ワイラーだった。こういった環境の変化は、不思議な人間関係も生み出す。『深夜の告白(Double Indemnity, 1944)』、『郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice, 1946)』の原作者のジェームズ・M・ケインは、ハリウッドの消灯指導員に志願した。彼とチームを組んだ消灯指導隊員は映画監督のセシル・B・デミルだった。ケインとデミルは、ヘルメットをかぶり、毎晩ハリウッドの坂道を車で行ったり来たりした。二人は窓から灯りが漏れている家を見つけてはドアを叩いて注意するという仕事を極めて真面目にやっていた[10, p. 320]

ハリウッドは、政府との関係を急速に深めていった。生産管理局(The Office of Production Management)や軍需生産委員会(War Production Board)などの組織が、ハリウッドが有する才能や技術、影響力を駆使して、戦時下における民衆の社会、経済活動を<統制>しようと試みた。そして、その多くは成功したといってよいだろう。『ダンボ(Dumbo, 1941)』を公開したばかりのウォルト・ディズニーは、政府が製作するプロパガンダ映画やトレーニング用映画のアニメーションを受託しはじめた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WC5BAp2xvDc&w=560&h=315]
『Four Methods of Flush Riveting (1942)』
ディズニー・スタジオがロッキード社のために製作したアニメーション
フラッシュリベットの方法を説明している

ハリウッド映画がもつファッションへの影響力は、政府にとって好都合だった。ワシントンは、ハリウッドのファッション・デザイナーたちに戦時下の新しいデザインを依頼したのである。ハッティー・カーネギーは、それまでのプリーツ、バルーン・スリーブといった<余分な布>を必要とするデザインを廃し、布地の使用量を最小限にするスタイルを作り出した。男性用のサスペンダーに使われていたゴム、ベルトに使われていた革も貴重な軍需物資だ。デザイナーのドリー・ツリーは、ジーン・ティアニーの衣装をシルクではなく、コットンで作成した[11]。こういった衣装デザインの変化は戦時中を通じて、より顕著になってゆくが、その原動力はハリウッドのスタジオ・デザイナーたちだった。

だが、戦争開始当初のハリウッドの全体的な状況を俯瞰してみると、戦時体制への協力はごく一部にとどまり、少なくとも数ヶ月のあいだは<エンターテイメントの提供者>として振る舞おうとしているのが分かる。当初は消灯令(ブラックアウト)で従業員が帰宅できなくなることを心配していたスタジオの重役たちも、すぐに従業員のことを忘れ、夜間の撮影を再開した。20世紀フォックスは、真珠湾攻撃の3週間後には『Sundown Jim (1942)』と『To the Shores of Tripoli (1942)』の夜間撮影を再開している[12]。年が明けて、1月にはハリウッド全体で40本もの映画が撮影に入っており、その大半は戦争という現実からの逃避(エスケーピスト)を大衆に提供していた。そればかりではない。「映画を見に来る観客は、戦争を忘れようとしているのだ」と主張して、戦争に関するニュース映画の数さえ減らそうとしていた[13]

ハリウッドは、自分たちはアメリカの基幹産業で特別だ、という奢りがあったようだ。

誰がために鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls)

監督・製作:サム・ウッド
製作総指揮:B・G・デシルヴァ
原作:アーネスト・ヘミングウェイ
脚本:ダドリー・ニコルズ
撮影:レイ・レナハン
編集:シャーマン・トッド、ジョン・F・リンク
音楽:ヴィクター・ヤング
出演:イングリッド・バーグマン、ゲーリー・クーパー
製作:パラマウント
1943

A Yank on the Burma Road

監督:ジョージ・B・サイツ
製作:サミュエル・マルクス
脚本:ヒューゴ・バトラー、デヴィッド・ラング、ゴードン・カーン
撮影:レスター・ホワイト
編集:ジーン・ルジエロ
音楽:レニー・ヘイトン
出演:ロレイン・デイ、バリー・ネルソン
製作:MGM
1942

夜霧の港(Moontide)

監督:アーチー・メイヨ、フリッツ・ラング
製作:マーク・ヘリンジャー
原作:ウィラード・ロバートソン
脚本:ジョン・オハラ
撮影:チャールズ・G・クラーク
編集:ウィリアム・レイノルズ
音楽:デヴィッド・ブトルフ、シリル・J・モックリッジ
出演:ジャン・ギャバン、アイダ・ルピノ
製作:20世紀フォックス
1942

参考文献

[1]^ Frederick C. Othman, “Hollywood Turns ’em Off,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Dec. 11, 1941.

[2]^ Frederick C. Othman, “Behind the Scenes Hollywood,” Santa Rosa Republican, Santa Rosa, p. 16, Dec. 11, 1941.

[3]^ Harrison Carrol, “Behind the Scenes Hollywood,” The Times, San Mateo, p. 6, Dec. 24, 1941.

[4]^ Virginia Wright, “Virginia Wright,” Daily News, Los Angeles, p. 27, Dec. 10, 1941.

[5]^ James Francis Crow, “Theaters Map Plans To Fight Drop in Box Office Business,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 6, Dec. 12, 1941.

[6]^ P. McGilligan, Fritz Lang: The Nature of the Beast. U of Minnesota Press, 2013.

[7]^ E. Johnson, “Desert Sandstorm High Spot in Tour of Hollywood Film Sets,” Daily News, Los Angeles, p. 19, Jan. 14, 1942.

[8]^ M. Bamber, “Moontide (Archie Mayo & Fritz Lang, 1942) – Senses of Cinema.” (Link).

[9]^ “The Making of Moontide — a Noir Fairy Tale,” Let Yourself Go … To Old Hollywood. (Link).

[10]^ R. Hoopes, Cain: The Biography of James M. Cain. Carbondale : Southern Illinois University Press, 1987.

[11]^ Sara Hamilton, “Films to Aid War Clothes Style Drive,” San Francisco Examiner, San Francisco, p. 25, Apr. 05, 1942.

[12]^ James Francis Crow, “Jane Wyman Teamed With Kay Kyser In RKO-Radio Film,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 4, Dec. 29, 1941.

[13]^ Sidney Skolsky, “The Week in Review,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 5, Jan. 10, 1942.

ブラックアウトとディムアウト

「バトル・オブ・ロサンゼルス」(1942年2月26日未明)で、ブラックアウト発令下、敵機を探すサーチライト(Los Angeles Public Library Photo Collection

第二次世界大戦期のハリウッド映画製作について調べていると、<blackouts and dimouts>という表現に頻繁に遭遇する。どちらも<灯火管制>のことだろうと思い、最初は余り気にしていなかったのだが、どうもはっきりしないことが積み上がっていった。調べていくと、<blackouts>と<dimouts>は、それぞれ違う規制を意味していて、それらがハリウッドに与えた影響も異なっていた。ここでは、その成り立ちの違いを見てみる。

ブラックアウト

ハワイのオアフ島現地時間で1941年12月7日午前8時前、日本軍がアメリカの太平洋艦隊に対して攻撃をおこなった。真珠湾攻撃である。この日を境に、アメリカ国民は戦場において血を流し、命を失う覚悟を決めなければならなくなった。国民の生活も、それまで想像もしなかった方向へ大きく変化する。ハワイは本土から遠く離れた太平洋の島とはいえ、アメリカの国土である。その自分たちの土地に地球の裏側に住んでいる民族が攻めてきたのである。

アメリカ国民はその日のうちに反応した。

真珠湾が攻撃された夜、ハリウッド北方のバーバンクにあるロッキード空港(現ボブ・ホープ空港)が完全に闇に沈んだ [1]全部の灯火を消灯 (ブラックアウト)したのである。なぜ消灯したのか尋ねても空港側は回答しなかったが、噂では敵機が来襲したと判断したからだという。翌日8日の深夜、シアトルでは3,000人もの人たちが街の中心部に繰り出し暴徒と化した。前日に軍が発令した<消灯令(ブラックアウト)>に従わず、明かりをともしている店舗のショーウィンドウやネオンサインを破壊し続けたのだ [2]。警察は暴徒のリーダーの1人、19歳のエセル・チェルスヴィグを勾留した。海軍兵士の妻であるチェルスヴィグは「消灯しないのは裏切り、戦争が始まったんだ」と堂々と答えた [3]

こうやって、アメリカ本土でも、戦争がはじまった。カリフォルニア州からオレゴン、ワシントン州にかけての西海岸では、ほぼ毎晩消灯令(ブラックアウト)が発令されていた。変調のかかったサイレンが2分間鳴り響く。これが消灯を命ずる警報である。消灯令が発令されると、屋外の照明をすべて消し、屋内の光が外部に漏れないように窓を遮蔽する必要がある。車の運転中であれば、すべてのライトを消して停車しなければならない。行動は制限され、外出は極力してはならない [4]。街のなかを<消灯指導員>が巡回している。光が漏れている家があれば、ただちに注意を受けてしまう。場合によっては違反者は逮捕される。

1941年12月12日のシアトルの夜の写真がある。一枚の写真は<消灯令>に定められた消灯時間前のシアトル市内の様子、そしてもう一枚の写真は消灯した後の様子である。

消灯令発令直前のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI
消灯令発令直後のシアトル 1941年12月12日(SeattlePI

ネオンサインやビルボードだけでなく、室内灯や街燈も消されている。誰も住んでいない街のように街路が漆黒に包まれ、数時間前の夜の喧騒が嘘のように消え去っている。

スティーブン・スピルバーグ監督の『1941』に登場するロサンゼルスは、ビルボードやネオンサインが煌々と輝いていたが、戦時下のロサンゼルスの夜はひたすら暗く、一度屋外に出てしまうと極めて危険な状況になることさえあった。

伊号潜水艦の攻撃と灯火管制(ディムアウト)

真珠湾攻撃の影響もあったのだろう、アメリカ西海岸は当初、空爆に備えた防空体制をとっていた。消灯令もその一環だ。だが、すぐに別のかたちの脅威が襲ってきた。

真珠湾攻撃から2週間も経たない12月20日、日本の潜水艦伊17が、サンフランシスコから北200kmほどにあるメンドシノ岬沖でタンカーのエミディオ号を砲撃して破壊した [5]。12月23日には、潜水艦伊21がカリフォルニア州カンブリア沖でタンカーのモンテベロ号を撃沈、伊17がユーリカ沖でラリー・ドヘニー号を攻撃するなど西海岸付近での攻撃が続いた [6]

年が明けて1942年の2月23日、伊17がカリフォルニア州サンタ・バーバラにあるエルウッド精油所に向けて攻撃をおこなった [7]。第二次世界大戦に参戦したアメリカにとって、はじめての本土攻撃だった。断続的に太平洋からやってくる敵の影にカリフォルニアは怯え、パラノイアがロサンゼルスの街を覆った。翌24日の深夜から25日の未明にかけて、海軍情報局は<敵機襲来>の警報を発令して消灯令を敷く。上空に<敵機襲来>を見た第37沿岸砲撃隊が高射砲を撃ち始め、計1440発の対空射撃をおこなった [8]。この夜、消灯令下でロサンゼルス市民に5人の死者が出ている。うち3人は交通事故、2人は心臓発作だった。犠牲者の一人、ズーラ・クラインは夫の運転する車がトラックと衝突した事故で亡くなった。どちらの車も消灯令下、ヘッドライトを消して運転していた。その他にも暗闇で転倒した人などが病院に担ぎ込まれた。この「バトル・オブ・ロサンゼルス」は、気象気球を「日本かドイツの飛行船だ」と言い張った若い将校が砲撃を命令、その後はパラノイアが連鎖的に広がったと当時から報告されていた [9]

伊17がサンタ・バーバラの沿岸を攻撃したことを伝えるデイリー・ニュース紙(ロサンゼルス) 1942年2月24日

さらに同年の6月には潜水艦伊25がバンクーバー(エステヴァン・ポイント) [10]、オレゴン州のシーサイド(フォート・スティーヴンス) [11]を攻撃している。

伊号潜水艦による本土への攻撃は、確かにアメリカ国民への心理的な効果は大きかったが、物理的な被害そのものは大したものではなかった。一方で、潜水艦による船舶への攻撃の被害はあきらかに甚大だった。沿岸警備の考え方として、危険を察知して警報を鳴らして全てを完全に消灯する<消灯令(ブラックアウト)>に効果がどれだけあるのか疑問視する声が上がり始める [12]。ロサンゼルスを含む西海岸の都市部の灯りは、海上150マイル(約241キロメートル)からでも見ることができるという。これらの灯りは、夜間に海洋を航行する船舶そのものを照らさなくても、そのシルエットを浮き上がらせる。むしろ、この都市部の灯りを総合的に統制する仕組みのほうが効果的だとエンジニアたちが言いはじめた。この助言を受けて、まず5月に沿岸部に<灯火管制(ディムアウト)>が敷かれ [13]、その後、8月20日にメキシコからカナダまで、メキシコからカナダまでの太平洋岸全域に<灯火管制(ディムアウト)>の規則が適用された [14]。灯火管制下では、夜間のスポーツ試合の禁止、劇場などの広告照明の禁止、戸外の照明(例えばガソリンスタンド)は1フートキャンドル(約10ルクス)以下、信号や街燈は上向きの光を遮蔽すること、海上から視認できる窓はすべてカーテンなどで遮蔽すること、車のヘッドライトはわずか250ビーム・キャンドルパワーまで、と決められた。そしてこれが毎晩日没から日の出まで行われる。各新聞は毎日第一面にその日の<灯火管制>開始時間と終了時間を掲載していた。

消灯令(ブラックアウト)>と<灯火管制(ディムアウト)>の違いを説明する広告 Los Angeles Times 1942/5/23 II p.6

すなわち、伊号潜水艦の攻撃が引き金となって、アメリカの西海岸の人々は毎夜、灯火管制の独特の暗さのなかで過ごすことになったのである。

灯火管制(ディムアウト)>下のロサンゼルス(1943年)UCLA Library Digital Collections

この管制下では、毎日のように灯火管制規則違反で逮捕されたり拘束されたりした人々のニュースが報道されている。イースト・ロサンゼルスのハリー・トリガーは、経営するクリーニング屋の窓のカーテンをせずに屋内の光を漏らしていたという違反で逮捕された。ダウニーのカフェのオーナー、マニュエル・ガルシアは、ネオンサインを点けたままにしていたので、やはり逮捕された [15]。宝石店を営むナタリー・シェルドンは、やはり灯火管制の時間帯に店の灯りを煌々と点けていて警察に違反を指摘された。彼女は裁判で、灯火管制の開始時間を忘れないようにセットしていた時計のアラームが鳴らなかったからだと主張したが、判事は$15の罰金を課した [16]。交通事故も極めて多い。ヘッドライトを暗くしているために、間違ったレーンを走っていたり、対向車が見えなかったり、歩行者が見えないという事態が頻発し、正面衝突、ひき逃げ、ひき逃げされた後にさらに別の車に轢かれるというケースも多かった。マインズ・フィールドの部隊の軍警察官クリストファー・スピンドラーは、マンハッタン・ビーチのそばのセプルヴェダ大通りで、轢き逃げされたあと、さらに別の2台の車に轢かれて死亡した [17]。こういった事故は日常茶飯事だった。

消灯令(ブラックアウト)>下のロサンゼルス、カクテル・ラウンジの<トミーズ・ジョイント Tommy’s Joynt>
「中は消灯してないぜ!」とサインを出しているが、店の前で躊躇する客たち
(サンタ・クルーズ・センチネル紙、1942年1月3日)

消灯令(ブラックアウト)灯火管制(ディムアウト)も、レストランやナイトクラブのビジネスにはうれしくないルールだった。西海岸は自動車が移動手段として定着していたため、ヘッドライトを点灯できなかったり、暗くしたりしなければならないのは、夜の外出には不自由極まりない。タイヤの消耗を防ぐためのガソリン価格の規制も手伝って、一般人は夜の移動を控えざるを得なかった。

消灯令(ブラックアウト)>で、信号の光が拡散しないように覆いをかぶせている。(1941年)UCLA Library Digital Collections

もちろん、それでも夜の町に繰り出したい人たちはいる。女性たちのための「ブラックアウト・ファッション」や「ディムアウト・ファッション」も登場した。ブラックアウト・バッグは、普通の女性用ハンドバッグにブラックアウトに便利な小物が入った少し大きめのバッグだ。非常用に懐中電灯、暗闇で怪我をしたときのファーストエイド・キットなどが入っている。懐中電灯が装備されて足元を照らす靴、帽子も蛍光塗料で処理してあって、暗闇で歩行者だと視認できるようになっている [18]。フレドリック・モセルがデザインしたブローチは、ハリウッドの街燈をかたどっているが、暗闇でも光る [19]

家の照明が外に漏れないように、黒くて分厚い布の<ブラックアウト・カーテン>や<ディムアウト・カーテン>はすぐに売り出された。だが、カリフォルニアの夏の気候では黒いカーテンで窓を覆うと過ごしにくい。そこでベネチアン・ブラインドが流行した。これならブラインドを開ける方向さえ気をつければ、窓を開けたまま灯火管制のルールに従うことができる。

ネオンサインや照明広告はご法度だが、自分で発光しなければ問題ないだろう、と考えた人たちがいた。これはニューヨークのブロードウェイだが、<フレックスグラス>という材料を使って、灯火管制下でも周囲の少しの光を反射して広告の文字が光る、という巨大看板が劇場に使われた。

ニューヨーク・ブロードウェイ、アスター劇場の<フレックスグラス>を使った巨大看板
Better Theaters 1942年9月19日号

こうやって、人々は<非常事態下>でも、生活を続け、商売を編み出し、楽しみを作り出していた。やがて、この灯火管制は、日本軍の前線の後退とともに不要になっていく。1943年10月12日にゾーンの見直しがあった後 [20]、同年11月1日に撤廃された [21]

References

[1]^ “City’s Airfields Blacked Out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. E, Dec. 08, 1941.

[2]^ “Rioters Smash in Pike St. Windows,” The Seattle Star, p. 1, Dec. 09, 1941.

[3]^ “Rioters Enforce Seattle Black-out,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Dec. 10, 1941.

[4]^ “L. A. Blackout Regulations,” Daily News, Los Angeles, p. 2, Feb. 26, 1942.

[5]^ “Jap Subs Raid California Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 21, 1941.

[6]^ “Jap Sub Sinks L. A. Tanker,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Dec. 24, 1941.

[7]^ “Submarine Shells Southland Oil Field,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Feb. 24, 1942.

[8]^ “California in World War II: The Battle of Los Angeles.” http://www.militarymuseum.org/BattleofLA.html (accessed Apr. 23, 2022).

[9]^ Col. John G. Murphy, “Activities of the Ninth Army AAA,” Antiaircraft Journal, vol. LXXXXII, no. 3, p. 2, Jun. 1949.

[10]^ “Japanese Craft Shell B.C. And Oregon Coasts; Navy, RCAF Hunt Enemy,” Vancouver Sun, Vancouver, p. 1, Jun. 22, 1942.

[11]^ “Oregon Fort Undamaged in Sub Attack,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Jun. 23, 1942.

[12]^ “No Blackouts Till Necessary,” The Spokesman-Review, Spokane, p. 5, Jan. 27, 1942.

[13]^ “Move Designed to Protect Ships,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, May 23, 1942.

[14]^ “Drastic Dimout Ordered for Coast, Inland Areas,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Aug. 05, 1942.

[15]^ “Dupities Seize Two on Dimout Charges,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 9, Nov. 09, 1942.

[16]^ “Clock Blamed for Lights,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 5, Jan. 01, 1943.

[17]^ “Traffic Takes Lives of Two Adults and Baby,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Mar. 15, 1934.

[18]^ Dorothy Roe, “Blackout Styles,” Metropolitan Pasadena Star News, Pasadena, p. 10, Feb. 24, 1942.

[19]^ “Luminous Coat Doo-dads Very Chic,” San Fernando Valley Times, p. 10, Feb. 20, 1942.

[20]^ “Angelenos Study New Lighting Regulations,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 12, 1943.

[21]^ “Dimout Darkness Ends Tomorrow,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 1, Oct. 31, 1943.

ハイパーノーマリゼーション

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

ソ連では、国家の重要人物が亡くなったときには、「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」されてきた。これは、1946年に亡くなった、元ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Z-89a-ASaZo]

これは1968年に亡くなった、宇宙飛行士ミハイル・ガガーリンの葬儀の様子である。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=8jW4vtjQ6Ig]

カリーニンの葬儀では棺が土中に埋葬されているが、ガガーリンの場合は遺灰を入れた骨壷が壁の中に収められているのが分かる。もともと、ソ連に重要な貢献をした人物はクレムリンの壁の下に埋葬されていたのだが、第二次世界大戦後から徐々にクレムリンの壁付近に場所が確保できなくなってきており、遂に1960年代には、火葬して灰の骨壷を壁の中に収めるようになった。にもかかわらず、この葬儀は公式に「赤の広場、クレムリンの壁(の下)に埋葬」と表現されていた。

1960年代に、ソ連科学アカデミーのロシア語研究所の15人の教授が「この表現は現実と合わない」と中央執行部に示唆した。すなわち、亡骸を「埋めていない」のだから「埋葬」ではないだろう、と正確な表現に変更するように申し入れたのだ。数週間後、共産党中央執行部から表現を変えるつもりはない、との連絡がロシア語研究所に入った。理由は明らかにされなかった。ソ連の国民は、ニュース映像で骨壷が壁に収められる様子を目の当たりにするにも関わらず、「埋葬される」という表現で表される状況に慣れていき、それが奇異な表現だとは思わなくなった。

これはアレクセイ・ユルチャックが<ハイパーノーマリゼーション>と呼ぶ状況の一例である[1]。ユルチャックの定義では、ハイパーノーマリゼーションは「単に言語的、テキスト的、及びナラティブの構造のすべてのレベルにおいて影響を及ぼすだけでなく、それ自体が目的化してしまった、(言説の)正規化(ノーマリゼーション)のプロセス」であり、「述定的な意味のレベルで(ほとんど)解釈ができない、凝り固まって厄介な言語の形態」のことを指す。ユルチャックは、ソ連の統治の時代の終盤では、このハイパーノーマリゼーションがあらゆるレベルで観察され、政府権力はその凝り固まった言説によって、実際に起きていること(骨壷の収容)に対する、何も変化せずに連続している虚構の世界(埋葬)を維持し続けた。ソ連の国民は、共産主義システムの機能不全を目の当たりにしながらも、政府権力が描く、変化していない連続している世界を「見続けた」という。

BBCのiPlayerで公開された『ハイパーノーマリゼーション(HyperNormalisation, アダム・カーティス監督, 2016)』は、そのタイトルを直接ユルチャックの議論から借用している。アダム・カーティスはここで「社会システムが破綻して機能不全に陥っているにも関わらず、そして人々はそのことに気づいているにも関わらず、他の選択肢がないために、あたかも全て上手くいっているように振る舞っている」状態のことをハイパーノーマリゼーションと呼んでいる。ここで言うシステムの破綻とは、中東の国土が次々と瓦礫の山になり、過激派の凶悪な暴力が周辺国へさらに拡大し続け、一方でかつて先進国と呼ばれた国が急激な経済格差の進行に苛まれている事態であり、インターネットにより人々がよりセクト化し、憎悪と偏見がとめどなく増幅されていく凋落の様相を指している。

カーティスは、ハイパーノーマリゼーションの起源を1970年代中盤に起きた2つの政治の退廃的現象に求めている。一つは国家間の信頼という切り札を反故にした、アメリカのヘンリー・キッシンジャーの中東外交であり、もう一つはニューヨーク市の財政破綻と金融システムによる政治の乗っ取りである。

ヘンリー・キッシンジャーは<権力のバランス>による世界の支配を実践しようとする。イスラエルとの緊張が高まる中東では、特にデリケートな権力均衡を保つことによって、アメリカにとって都合のいい状態を作り出そうとしていた。パレスチナの独立こそアラブの平和に不可欠と考えるシリアのハーフィズ・アル=アサド大統領、そのアサドを、キッシンジャーは、独自の<建設的な曖昧さ(Constructive Ambiguity)>戦術によって欺き、エジプトとイスラエルの停戦協定を進めてしまう。この時のアサド大統領の失望が、その後の過激なイスラム原理主義とテロリズム、特に自爆テロの蔓延に結びついていく、とカーティスは語る。

さらに複雑に入り組んだ、そしてアメリカ政府自身にも非がある外交上の難題を、アメリカ政府とメディアは単純に善玉/悪玉のナラティブに落とし込み、そのサンドバッグとしてガダフィ大佐を30年にわたって容赦なく利用し続けてきた経緯を辿っていく。

一方で、リベラル/ラディカルのアーティストや運動家が政治運動から距離をおき、自分達の安全な繭のなかで、自分自身を表現する(express yourself)というモットーを掲げて自らの充足や幸福を追求する姿を映し出す。この繭の中の自己表現者達として、『キッチンの記号論(Semiotics of the Kitchen, 1975)』のマーサ・ロスラー、ニューヨークのアンダーグランド・シーンから登場したパティ・スミス、反戦運動からエクササイズ・ビデオに移行したジェーン・フォンダなどが挙げられる。

「繭の中のラディカリズム」の表現者たちとして、カーティスが主にフェミニスト達を挙げているのは興味深い。彼自身のミソジニーの無意識がそのような選択をさせたのか、それとも見る側の反応を秤にかけて、最も情動的な効果を得られるように選んだのだろうか。インタービューのなかでカーティスは、「パティ・スミスは、グループ運動に身を投じるのではなく、ラディカリズムを個人のアートで表現することを始めた、最初の人物だ」と言っている。そして「そのアートを通してラディカルな思考を広めようとしたのだが、成功したかどうか疑問だ」と言う。

「この自己表現者達を見て、現代の資本主義は『君たちの自己表現を手伝ってあげよう』と、様々な自己表現の手段を売り物にした」とカーティスは指摘する。「いかに自分がラディカルであるかを表現すること」は現代資本主義の最大の市場になった。

いま、最もラディカルな態度は、何も表現しないことだ

アダム・カーティス

カーティスはBBCの映像ライブラリの膨大なフッテージから、衝撃的で、オフビートで、時に残酷で、時に笑ってしまうような、極めて印象的な映像のマッシュアップを作ることを続けてきた。この作品も、その点において2時間40分という長さを全く感じさせない、壮大な映像の海を渡る作品だ。だが一方で、彼の作品はその巧妙な恣意性を指摘されることが多い。おそらく誰でも、彼の作品を見はじめて数分でいくつもの問題点を指摘できるだろうと思う。ある1つの事件からみえる問題を、20世紀終盤の歴史全体に敷衍して提起するようなロジックは大丈夫なのか。いま映っている映像は、カーティスが暗示しているような解釈をしてよいものなのか。「単純な話に落とし込んだ」政権側を批判しながらも、カーティス自身も単純な構図を提示しているのではないのか。そういう疑問はすぐに湧き上がってくる。そして、おそらく1時間も見た頃には、辟易する人も多いだろう。

カーティスの手法は、例えばフレデリック・ワイズマンのそれとは対極にある。カーティスの<ドキュメンタリー>には、彼自身が撮影した映像はひとつもない。過去に撮影された材料をコンテクストから剥ぎ取り、つなぎ合わせる。それに彼自身のナレーションを途切れることなくかぶせていく。鑑賞者はただカーティスの持論を延々と聞かされるだけだ。これでは、飲み屋で延々と<自分が考える東アジア地域の安全保障>について語っている初老の男性となんら変わらない。しかし、この<ドキュメンタリー>は、彼の持論に細かく反論したり、同意できないといって投げ出してしまうという真面目な見方をするものでもないだろう。まるでTwitterのタイムラインを見ているかのごとく、短いスニペットの映像が脈絡もなく流れていき、カーティスは様々な驚くべき出来事を滔々と喋っている。音楽はナイン・インチ・ネイルズが流れたかと思えば、ショスタコーヴィッチが襲ってくる。むしろ、見ている側が、自分が興味を抱いた事柄を取り出して、自らその周辺の事情を掘り出していけばよいのだ。そして、自分の持論を組み立てていけば良い。

カーティスの取りあげる事件は、奇矯だが決してデマや都市伝説の類ではない。例えば、「ブレア首相とブッシュ大統領がとにかくサダム・フセインを悪者にすることに躍起になってしまい、事実とフィクションの区別ができなくなった」出来事の例として、MI6が化学兵器の証拠を掴んだときの出来事を挙げている。カーティスは、マイケル・ベイ監督の映画『ザ・ロック(The Rock, 1996)』の映像を使いながら、こんな話をする。

(MI6がブレア首相に語ったところによれば)イラクが開発している神経ガスは、数珠つなぎになったガラスの球に収められているという。その話を聞いていた別のMI6のメンバーが、その詳細が1996年の映画『ザ・ロック』とそっくりであることに気がついた。

アダム・カーティス

カーティスは、ニコラス・ケイジが数珠つなぎになった緑のガラス球をケースから取り出すシーンの直後に、ブレア首相が「サダム・フセインが大量破壊兵器を持っているということは疑いの余地がない」と宣言している記者会見の映像をつなげる。英国情報部は、イラクにいる情報源がハリウッド映画の場面をそのまま描写したものをトップ・シークレットして鵜呑みにしていたのである。このにわかには信じがたい話は、2016年に発表されたチルコット報告書[2]に記載されている事実が元になっている1)

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

カーティスは自己表現の繭の中を様々なかたちで批判しているが、彼自身がそのカルチャーのなかで育ってきたことに自覚的だ。さらにジョセフ・ヒースらの批判が資本主義の枠組みのなかにとどまっていたのとは対照的に、ソ連でも若者の間で「繭の中」が存在していた点も見逃していない。カーティスは「繭の中」が生まれてきた背景に冷戦後期の政治の退廃があると見ており、資本による自己表現の市場化はその結果だと考えている。

モスクワの感化院の少女たちが矯正官の質問に気怠く答える映像に、シベリア・パンクの中心的存在だったヤンカ(Yanka Dyagileva)の「My Sorrow is Luminous(Печаль моя светла)」がつながっていく。カーティスはその歌詞を字幕で見せる2)

I say it tem times over and once again

No one knows how fucking shitty I feel

And the TV hangs off the ceiling

And no one knows how fucking shitty I feel

This has got so fucking annoying

That I want start all over again

This verse is sad, such that I say again

How fucking shitty I feel

Yanka “My Sorrow is Luminous”

受話器のない公衆電話が映し出される。これほど示唆に富んだフッテージを膨大な映像アーカイブの中から見つけてくるという点で、アダム・カーティスのなかには映像への底知れない畏怖と唾棄が共存しているのかもしれない。

HyperNormalisation (2016) [BBC]

 

Notes

1)^ 報告書の第4巻第3章「Iraq’s WMD assessments, October 2002 to March 2003」に以下の記載がある。

SISのレポートによれば、VX、サリン、ソマンがアル=ヤルムクで製造されており、<数珠つなぎになった中空のガラス球>を含む、様々な<容器>に入れられているという。

チルコット報告書

そして、当時からそのSISのレポートは疑問視されていた。

化学兵器には通常ガラスの容器は使用されない。人気の映画(ザ・ロック)は神経ガスがガラスのビーズ又は容器に収納されている様子を描写しているが、それは正確ではない。

チルコット報告書

『ザ・ロック』の脚本を担当したデヴィッド・ワイスバーグによれば、映画に登場する緑のガラス球は「完全なでっち上げ」「見た目がぱっとしないテクノロジーだから、視覚的に(観客を)驚かせようとしたもの」に過ぎないという[3]。ワイスバーグは、義理の父親ジェフリー・ケンプ(ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュの政権で安全保障部門のアドバイザーをしていた)に頼んで、化学兵器の専門家に取材している。だが、その面白みのない武器を危険で魅力あるものにするために「数珠つなぎのガラス玉」を発案した。

2)^ アダム・カーティスはこの曲がかなり気に入っているようだ。彼がマッシヴ・アタックと企画したコンサートで、エリザベス・フレイザーがこの曲をカバーしている(YouTube)。

References

[1]^ A. Yurchak, Everything Was Forever, Until It Was No More: The Last Soviet Generation. Princeton University Press, 2013.

[2]^ “[ARCHIVED CONTENT] Iraq Inquiry – Home.” (Link)

[3]^ C. Shoard, “‘It was such obvious bullshit’: The Rock writer shocked film may have inspired false WMD intelligence,” The Guardian, Jul. 08, 2016. (Link).

プーチンの証言者たち

 

前回ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations』を紹介したが、今回は『Putin’s Witnesses (Свидетели Путина, 2018)』を紹介したい。この作品も、dafilmsのストリーミング・サービスで鑑賞可能だ(英語字幕のみ)。

時は1999年12月31日。ロシアの大統領ボリス・エリツィンが、突然退任を発表して後任の大統領代行にウラジーミル・プーチン首相(当時)を指名した。プーチンは3ヶ月後の選挙で正式に大統領に就任する。監督のマンスキーはロシア国営TVのドキュメンタリー部門に属しており、選挙までの3ヶ月間、プーチン大統領代行の選挙活動を取材していた。国営TVの番組とは実質的には政府のプロパガンダであり、マンスキーが関わっていたのはプーチンの応援番組の制作である。マンスキーは2015年にロシアから<亡命>したが、この作品は、この3ヶ月間に撮影したフッテージをもとに2018年に編集したものである。マンスキーの意図は、その後の政治的転回によって明らかになるプーチンの独裁的性格や強硬保守主義が、すでにこのフッテージの中に現れていることをあぶり出そうとする点にある。

2018年の今では、プーチンは存在しない。彼はもはや血肉でできた人間ではない。彼はドラゴンだ。プーチン自身でも倒せない。

ヴィタリー・マンスキー

この作品では、確かにカメラはまだ若々しい大統領代行のそばを離れることなく追跡している。だからといって「ウラジーミル・プーチンの素顔」のようなものを期待しても無駄だ。映像には常に<政治家>が記号的に映っているだけで、それは普段ニュースや報道番組で見ている<ウラジーミル・プーチン>と何ら変わらない。それは彼が幼い頃の学校の先生を訪問するシーンでもそうだ。私達はプーチンがなにか<人間的な>側面を見せるのではないかと期待するのだが、それは期待はずれに終わる。

プーチンはTVのコマーシャルや討論番組に出演することなく、選挙運動をすすめた。つまり「私の仕事を見ろ」というメッセージである。その彼の<仕事>のひとつがチェチェン勢力の弾圧であったが、なかでも高層アパート爆破事件[Wikipedia]はプーチン政権にとって大きな転換点であった。プーチンが事件の現場を訪れるシーンがある。彼自身の個人的な関与があったかどうかは不明だが、この事件をきっかけにチェチェン勢力への弾圧が理由を得たのは事実だ。その後の報道で、事件はFSBによる自作自演だったことや、内幕を暴露しようとしたリトビネンコの暗殺などの後知恵をもってしまった私達には、事件現場に立つ2000年のプーチンの姿を見るのはやはり奇異で諧謔的な感じが強く残る。

一方、映画は選挙の行方を見守るボリス・エリツィンのプライベートな姿も追いかけている。エリツィンは、後継のプーチンは最適な人物だと確信しており、そのプーチンを選んだ自分の鑑識眼を自画自賛している。だが、その彼自身の思惑とプーチンの政策がすでにずれ始めている様子もとらえられている。特にソ連国歌を、歌詞を変えてロシア国歌に制定したプーチンの決定については、エリツィンは時代を逆行していると感じたようだ。

その国歌を録音するシーンが挿入される。歌詞を任せられたセルゲイ・ミハルコフとその息子ニキータ・ミハルコフが録音に参加している。まさしくソ連時代と同じように、新しい体制に迎合した歌詞をつくって、国歌が制定される伝統が続いている。それにしてもこの録音時にミハルコフ親子が目を光らせているのはなんとも異様だ。

ここには、いまロシアがウクライナに侵略している事態の萌芽はこのときにすでにあるのだ。当時気づいていなかったが、ここに映っているプーチンの延長線上に今がある。

Links

Variety誌のGuy Lodgeによる評は、マンスキーのナレーションとその視座を「not sutble」としながらも、現在はファシズムに反対の声をあげるのに躊躇している場合ではない、という主張には説得力があると評価している。[Link]

Current Timeがヴィタリー・マンスキーへのインタビューを掲載している。[Link]

Putin’s Witnesses (原題:Свидетели Путина)

監督 Vitaly Mansky
編集 Gunta Ikere
音楽 Karlis Auzans
音響 Anrijs Krenbergs
製作 Golden Egg Production
2018 Latvia, Switzerland, Czech Republic

遠い親類と遠い物語

 

『Close Relations (2016)』[Studio Vertov]

引き続きdafilmsのウクライナ特集からの作品を紹介する。今回は、ヴィタリー・マンスキー監督の『Close Relations (2016)』というドキュメンタリーをとりあげたい。原題は『Рідні』、ウクライナ語で「親類たち」という意味だ。

マンスキー監督というと、日本では、北朝鮮での<一般人の生活>を撮影した『太陽の下で ─真実の北朝鮮─(В лучах Солнца, 2015)』という作品をご存知の方も多いかもしれない。これは、撮影時に政府当局からの干渉が著しかったため、その様子を隠し撮りした作品だ。『Close Relations』は、『太陽の下で』の直後の作品に当たる。マンスキー監督は、今度も一国の政治のあり方を<一般人>の姿を描くことで立ち上がらせる手法をとっている。その国とはウクライナだが、この作品ではその<一般人>が、自分の家族、親類縁者である点が特異なのだ。

ヴィタリー・マンスキーは、1963年ウクライナのリヴィウの生まれ。ソ連時代の1982年に有名な全ロシア映画大学(VGIK)に入学、1989年から通算30作以上の映画を監督している。この『Close Relations』までロシアを中心に活動していた。

『Close Relations』の冒頭で、マンスキーは「この映画を作るつもりはなかった」と宣言する。その真意は測りかねるが、映画を見終わった時、たしかにこの映画を作ったあとには、彼はもとの生活、もとの関係に戻ることは不可能だろう、と感じた。事実、マンスキーはこの映画発表ののち、ロシアを離れている。

映画は、生まれ故郷のリヴィウの町に住む、彼の母親を訪ねるところから始まる。2014年の大統領選挙の最中だ。母親はウクライナの現状を嘆き(「ドンバスでの戦いでどうして西ウクライナの人間が死ななければならないの」)、今回は選挙に行くと宣言する。彼女は自分の家系はウクライナ人だというのだが、息子のヴィタリーが「僕の曾祖母はリトアニア系ポーランド人じゃないか、僕の祖母はどうやってウクライナ人になったんだ?」と問い詰める。母親は「彼女のパスポートではウクライナ人だった」と言い、息子はもちろんそれでは納得しない。結局、母親と息子の会話は平行線をたどったままだ。

マンスキー監督は、この母親との会話を起点に、オデッサに住む妹一家、リヴィウに住む伯母のリュダとタマラ、ロシアに<併合>されたクリミアに住む伯母のナターシャ、分離独立派が戦闘を繰り広げるドネツクに住む祖父のミーシャ、とウクライナを横断してゆく。

キッチンやリビングルームといった近接した空間、親近さが約束された場所で撮影は行われ、伯母やその家族が、親戚同士の会話としてウクライナの現状と自分を語っている。リュダは、ソ連の崩壊後に共産政権の嘘と詐欺がだんだんと見えてきて、かつて好きだったソ連のTVドラマ(『春の十七の瞬間(Семнадцать мгновений весны, 1973)』)、そしてニキータ・ミハルコフが嫌いになったという。タマラは、リヴィウに「純血」などおらず、都市そのものがオーストリアやポーランド、ロシアなど様々な国に占領され建設されたのだと話す。タマラの義理の母は、戦後に現れたポーランド人たちがいかに貧しかったかを語る。

エスニシティの問題なんかじゃない。誰と一緒に暮らしたいかだよ。

タマラ

そういった、大文字の<政治>と一般人の感性の距離のようなものが、彼女らの言葉にはある。冒頭で、選挙に行くんだと息巻いていたマンスキーの母親は、投票所を間違えてしまって、バスに乗って停留所2つ先に行かないといけないとわかると、突然行く気をなくしてしまう。カメラを回しているマンスキーに「行かなきゃダメ?そこ撮りたい?」と聞く始末である。

だが、ウクライナを横断して東部に行くほど、その距離感がおかしくなっていく。ナターシャは、クリミアがロシアに併合されて幸せだと言い、プーチンの新年の挨拶をロシアの旗を振りながら喜んで見ている。年老いて自由が効かないミーシャはウクライナ人が野蛮な殺人鬼(バンデラ Banderivtsi)だと主張する1)。彼が見ているTVには、偶然なのか、マンスキーの仕業なのか、『春の十七の瞬間』が映っている。二人とも<ウクライナ>に対する憎悪をむき出しにしてはばからない。

マンスキーは、完全な観察者というわけでもないが、一貫した主張やステートメントを提示しているわけでもない。母親と話しているときには、ウクライナのアイデンティティについて懐疑的な質問を投げかけているが、後半のクリミアやドネツクのシーンでは、プーチン政権の影響力、ロシアメディアの存在などを、分析的な視点でとらえ、否定こそしないが、共感を拒否する姿勢がうかがえる。

『Close Relations』に対する批評を読むと、このマンスキーの<態度>が失敗とみなされたのがわかる。East European Film BulletinのKonstanty Kuzmaは、作品を通して維持されるべき客観性が失われ、マンスキーの主観が入り込むことに苛立ちを隠さない [Link]。Pat MullenがTIFFに寄せた文章では、マイルドには評価しているものの、「出てくる人物にカリスマがないこと」が欠点だとコメントしている [Link]。Daria Badyorは、マンスキーが、客観性の影に隠れて、政治的にも人道的にもポジションを明らかにしなかったことを非難している [Link]。

映画批評家が、作品になんらかの一貫性を求めるのは当然だろう。特にポリティカルなテーマをもった作品においては、監督の姿勢が定まらないのは問題かもしれない。私も『Close Relations』は、ひとつの映画作品としては失敗だろうと感じた。親戚たちが語る話は、文脈をつかみにくい部外者にとっては、大部分が意味が分からないまま流れていってしまう。特に、クリミアやドネツクのシーンは、表面だけをなぞっているような印象を受けてしまった。

だが、今現在、ウクライナがロシアに侵攻されている事態を踏まえると、この映像はまったく違う意味を持ち始めていると思う。私達は、紛争と言うと、鎌と槌のシンボルの旗を抱えたドンバスの分離独立派の兵士や、キエフでウクライナ国旗を振っているウクライナ予備役軍人たちの話ばかりを思い起こすが、<政治>というものは深く長いグラデーションでできている。投票所の場所を間違えただけですっかり投票する気がなくなってしまう女性や、クリミアのサッカー・クラブがどこの国にも所属しなくなって応援できないことを嘆いている男性や、パスポートが電子チップ式になってかっこいいと話している若い女性たちの<政治>も、そのグラデーションの中に存在する。この<政治>との様々な距離が国家の基盤を作っている。ウクライナとロシアの事態は、もはや後戻りができなくなってしまっているが、この映画はその以前の段階の、ウクライナのなかにあった様々なグラデーションを見事に切り取った映像だ。その点で、ドキュメントとして極めて貴重である。

ロシアのウクライナ侵略、それに対するウクライナの抵抗が報じられるなか、ユヴァル・ノア・ハラリは英ガーディアン紙に寄稿し、「国家は物語の上に築かれる」と述べた2)。その物語とは、ウクライナの勇敢な抵抗の物語であり、この物語には戦車でも勝てないという。だが、こういった<物語>は、西側諸国のインテリ達が気持ちよくなるだけで、こんなものばかりを紡いでいても仕方ないのではないか。インテリ達が<民主主義>と<自由>の表明という自己満足をただ漫然と繰り返してきたから、この事態になるまで放置していたのではないか。

ドネツクに住むミーシャは、年老いてしまい、風呂から出られなくなっても助けを呼ぶことができないほど弱っている。美しい桜が咲く下で猫とともに暮らしている。その彼は、ウクライナ人がきらいだ。第二次世界大戦中の1943年にウクライナ人(バンデラ)達がやってきて、人々を虐殺したという。人々を吊るして焼き殺した、女の目の前でその夫をのこぎりでバラバラにした、そんな都市伝説をあたかも自分が見た事実のように語る(ミーシャがソ連の貧しい町ヴォロネジからドンバスに送られてきたのは1948年である)。インテリたちは、この老人はメディア・リテラシーがないためにプロパガンダを信じてしまったのだ、というだろう。メディア・リテラシーも何も、老人はTVしか持っていないし、バンデラ達の伝説は何十年も囁かれてきたものだ。人はTVやネットで聞いたり見たりして、突然陰謀論を信じたり、荒唐無稽な話を信じるようになるのではない。メディアは、もともと個人の中にある偏見や差別を強化するだけだ。では、なぜミーシャはそんな偏見を持つようになったのか。娘たちの話では、かつてミーシャが若かった頃、ソ連時代には、ドンバスは重要な工業拠点で、食料や物資が豊富にあったという。つまり、ミーシャにとってモスクワは庇護者なのだ。かつて隣人たちを残酷に殺したウクライナ人はモスクワからの救世主によって追い払われ、ソ連崩壊後、ウクライナ人が領土を主張している今でもロシアが食料を届けてくれる。これがミーシャの<物語>なのだ。

私達は、このミーシャの<物語>について真剣に考える必要があるだろう。その歴史的正確さについてではなく、人間がいかにそのような<物語>を自分の中で育むかについて。

マンスキーは、リヴィウに住む甥の一人がウクライナ国軍に徴兵にとられる様子を撮影している。そのサウンドトラックに『春の十七の瞬間』のテーマ曲が使われている。オリジナルのドラマは、渡り鳥が編隊を組んで飛ぶ映像にこのテーマ曲が重なる、極めて印象的なオープニングで物語がはじまる。だが、果たしてこの選曲が『Close Relations』の締めくくりに相応しいかと言われると、少し首をかしげてしまう。『春の十七の瞬間』の作り出した神話的な世界とウクライナの青年の応召の場面とは、いかなる相似も、衝突も、意味の多層化もない。ミカエル・タリヴェルディエフの曲ならば、クリミアの少年たちが兵隊になる『グッド・バイ・ボーイズ(До свидания, мальчики!, 1966)』のオープニング曲のほうがあっていたかもしれないが、だが、それではあまりに不吉だ。『Close Relations』に描かれているそれぞれの話は、<映画的な>オマージュとか、引用をはねつけてしまうほど、物語的映像の世界とは相容れないものなのかもしれない。

Close Relations (原題:Рідні)

監督:Vitaly Mansky
脚本:Vitaly Mansky
撮影:Alexandra Ivanova
編集:Peteris Kimelis, Gunta Ikere
音楽:Music Harmo Kallaste, Mikael Tariverdiev
音響:Harmo Kallaste
製作:Studio Vertov
2016 ラトビア、ドイツ、エストニア、ウクライナ

1)^ 「バンデラ Banderivtsi」については、第二次世界大戦中のウクライナの極右政治活動としてのBanderivtsiと、そこから派生したウクライナ人の俗称としてのBanderivtsiがあるという [Link]。

2)^ 日本語翻訳はいくつかウェブ上に提供されているが、ここではWeb河出のページをリンクしておく[Link]。