鞭、高速度カメラ、ディプロドクス、ホビット、蜜柑

音速を超える鞭の軌跡 (Phys. Rev. Lett., 88, 244301-1, (2002))

2000年代のはじめ頃、アリゾナ大学の数学者アラン・ゴリエリー(Alain Goriely)が、学会に参加するためにハンガリーを訪れていたときのことです。彼はそこで、鞭を使った曲芸を見て、その音に驚かされます。そうです。あのパーンという音です。あれは英語でクラック(crack)と言うのですが、非常に大きな音がします。帰国したゴリエリーは、なぜそんな大きな音がするのか調べようと思い立ちました。

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パウル・フェヨスの数奇な人生(12/12)

晩年のパウル・フェヨス

晩年のパウル・フェヨスは、ヴァイキング財団、のちのヴェナー=グレン財団の理事長として、考古学を主とする科学全般の研究支援をし続けました。1950年代には、考古学や文化人類学が活発になり、財団は以前にも増して創造性のある研究をサポートしています。

パウル・フェヨスは戦前にハンガリーに立ち寄ったのを最後に、祖国の土を踏むことはありませんでした。生涯を通して慕っていた母親にも会うことができず、母親の訃報を聞いて、非常に強いショックを受けたといわれています。彼は1963年4月23日に亡くなりました。

パウル・フェヨスについて、ひとつ言えることは、彼はどこに行ってもそこで才能を開花させていますが、同時に常にアウトサイダーだったことです。ニューヨークにたどり着いたときには、まったく無知な外国人。ハリウッドで一流監督になったときも、いわゆるハリウッド映画監督とは、モチベーションも、目的も、感性もあまりに違う。人類学も、正規の教育を受けておらず、ドキュメンタリー映画と言うからめ手から入ってきた。そういう「亜流の眼」だからこそ、達成できたことも多かったと思います。彼はその分野の人たちが見落としていること、当たり前だと思っていること、をもう一度自分の目で見直すのです。学者としての成功とか、学会での評価などは、さして気にすることなく、むしろ自分のしていることが自分が理想としているレベルよりも低いことに、つねにフラストレーションを感じていたのです。特に彼が文化人類学の研究において、全くの素人にもかかわらず業績を残せたのは、研究の対象としている民族、原住民に対して、対等の人間として接しているからだと思います。これは彼がニューヨークやハリウッドで、底辺で暮らし、そこで人間としての威厳を失うことなく生き抜いてきたからでしょう。彼は決して西欧の科学や知が、優れているとは思っていませんでした。特に西欧人の無知を、自分が無知であることを知らない、その無知を嘆いていました。彼は自分を医者だとは思っていませんでしたが、常に最先端の医学について論文を読み、旅先で医師として治療にあたることもありましたが、こんなことを言っています。

ニューギニアから、パプア人がニューヨークにやってきたとしましょう。彼らは自分たちとさして違わない人々を見て驚くのではないでしょうか。特に科学と言う魔術によって支配されている人々を。医者に行って、レントゲンを撮ってもらう。患者はレントゲンの装置がどう動くのかも、X線についても何も知らない。レントゲン写真を見てもどう診ればいいのかわからない。けれど、呪術を使いこなす医者という人物のいうことを信じて治療を受けるのです。テレビで言っていることの90%は魔術でしょう。なんだか科学的な名称がついていれば、みんな効果があると信じてしまう。

Paul Fejos

インドネシアのスンバワ島で調査していたときのことです。ドドンゴの村の呪術師(医師、シャーマン)は、パウル・フェヨスにとって重要な情報源でもあり、同じ医師同士という友人でした。パウルは、彼の治療法や薬草について教えてもらい、彼が医術についてたずねてきたときには助言をしたりしていました。時にはパウルが持っている薬、-ドイツのバイエル社のものですーを分けてあげることもありました。バイエル社の薬には、トレードマークの円に囲まれた大文字のBが印刷されています。呪術師の彼は、パウルの魔術の力とそのトレードマークが深い関係にあるのだと信じるようになりました(その通りですが)。数ヶ月たった後、その呪術師は、パウルに正式に申し入れをしてきました。彼らは非常に厳しく自分たちを律しています。そのルールに従って、正式に「そのマークを使わせてもらいたい」と申し入れてきたのです。パウルは「バイエル社の承諾なく、倫理的には問題がある行動だったが」、そのトレードマークを使うことを了承します。呪術師は大きな円に囲まれた「B」のトレードマークを胸に刺青し、彼の治癒能力はいっそう高まったのです。

このことは、私たちにもそのまま当てはまります。医学の研究者たちでさえ、効能のメカニズムを完全に把握できていないけれど効果のある薬や治療法を、ましてや一般人の我々は、「有名な医者が言うから」「話題になっているから」「テレビで言っていたから」信じて受け入れています。医術だけではありません。リンゴのマークがついているアップル社の製品だから、品質がいいと思い、旅行先で偽物だってつかまされかねない。東京大学の教授の言うことに間違いはなく、成功したビジネスマンの言っていることは、ためになると思っている。そのことをパウルは見抜いていたし、だからといってそれを愚かなことだとは思っていない。むしろ人間とはそういうものだと思っていたのでしょう。彼は自分たちの文明はそういう迷信や迷妄から解放されていると勘違いすることを諌めていたのだと思います。

そういう眼でもう一度彼の映画を見直すと、今までとはもっと違うことを感じるかもしれません。

References

The Several Lives of Paul Fejos, John W. Dodds, The Wenner-Gren Foundation, 1973

”Image” On the Art and Evolution of the Film, Ed. Marshall Deutelbaum, Dover, 1979

Hollywood Destinies, Graham Petrie, Routledge & Kegan Paul, 1985

Lonesome, Bluray, The Criterion Collection, 2012

パウル・フェヨスの数奇な人生(11/12)

ペルーのインカトレイルにある、ウィニャイワイナの遺跡
1940年にパウル・フェヨスの調査隊が発見した。

パールハーバーの攻撃を期にアメリカは正式に第二次世界大戦に参戦します。太平洋、東アジアの地理、民族に明るいパウル・フェヨスは、スタンフォード大学で海軍の兵士を相手に、文化人類学の講義をするよう、要請されます。彼の講義は非常にユニークで、非常に実践的だったようです。彼は若く、まだ何も知らない兵士たちを相手に「シミュレーションによる訓練」をします。

「君たちは、ある島に到着する。君たちは無線基地を設営しなければならない。上陸船は母船に引き返し、君たちは自分たちだけが頼りだ。さあ、どうする?」

生徒たちは、何も事前情報がないまま、その島について探索し、また住民と遭遇したときのコミュニケーションの方法を、手探りで考えていきます。生徒たちの言動をもとに、パウルは情報を与えたり、住民とのやり取りをシミュレーションしたりします。生徒が住民を警戒させるような言動をとれば、住民のふりをしているパウルはもう何も言わなくなってしまいます。こうやって、いかに現地の住民からいかに協力を得るか、そして必要な物資や情報をいかに確保するかを兵士たちに教えていきました。彼はこれをずっとインドネシアやタイで自ら経験してきているので、現地住民とのコミュニケーションの重要性を理解しているのです。兵士たちは、このトレーニングを通して、言語がいかに重要か痛感し、ランチの時間でも中国語やマレー語で会話をしていたそうです。

ヴァイキング財団は、文化人類学や考古学に研究資金を提供することを目的としていました。財団でのパウル・フェヨスの役割は、多くの学者たちとコミュニケーションをとり、学問の発展に寄与すると思われる研究を見極めていくことでした。1945年、第二次大戦が終結し、ようやく軍事から切り離されて研究ができるようになりました。「学際領域」 ーーすなわち専門的な学問同士の間をつなぐ領域ーー は、まだまだ未開拓の時代でしたが、パウルはまさしく専門家たちを引き合わせ、それぞれの領域の関心事をつないでいくことにかけては先駆者だったといえるかもしれません。彼は「自分は考古学について疎い」と常に発言していましたが、彼の「学際領域に敏感な感覚」のおかげで、考古学にとって非常に重要な研究がなされました。

アメリカ自然博物館のラルフ・フォン・ケーニヒヴァルトは、戦時中ジャワ島で日本軍の捕虜になって死んだと伝えられていました。しかし、彼は収容所を生き延び、ジャワ島各地に隠しておいた考古学的資料 ーージャワ島で発見した原始人の頭骸骨ーー を持って帰国したのです。1947年のことです。ケーニヒヴァルトは、避暑のため、コールドスプリングスの研究所で研究していましたが、そこの研究所はまさしく核物理、核化学のメッカでした。ある日、パウルにあった彼は、自分がいかにその研究所で浮いているかを話していました。核物理学者の群れにひとりだけ考古学者なんて!ランチで話しかけてくる研究者たちは、考古学なんて全く知らないのです。だから説明するのも苦労する。つい昨日も、ランチで食堂のテーブルの前に座った男が、話しかけてきたよ、とパウルにこぼします。

「『君は何を研究しているの?』って聞いてくるんだ。だから、僕が最近持ち帰った頭蓋骨と写っている写真を見せて『こういう原始人の研究をしているんですよ。』って答える。するとね、『へぇ。その頭蓋骨は何年位前のものなんだい?』なんて聞いてくる。『だいたい50万年前くらいですかね。』ってこっちが言うと、『そんなに古くなかったら、もっと正確に、何年前、って言えるんだがね。残念だ。』なんていうのさ。」

パウルが、それはどうやるんだって聞くと、「なんでも放射線がどうとかこうとか言っていたなあ」とはっきりしません。パウルはふと、今読んでいる岩石の年代決定法でヘリウム・インデックス(ヘリウムの同位体の比で年代を決定できる)について書かれていることを思い出しました。ひょっとしたら・・・。その男の名前は?ケーニヒヴァルトは、その男の名前も知らないので困ったことになってしまいました。

パウルはコールド・スプリングスの研究所に電話をかけ、食堂の従業員に「昨日、ケーニヒヴァルトとランチを食べていたのは誰かわかるかい?」と聞きました。ハロルド・ユーリーですよ。ノーベル賞学者の。

ウィラード・リビー

シカゴでハロルド・ユーリーに会ったパウル・フェヨスは、早速そのアイディアについて矢継ぎ早に質問します。「実はその研究をしているのは、私じゃなくて、ウィラード・リビーだよ。」同じくシカゴ大学で研究をしているウィラード・リビーはバルチモアの下水から炭素の同位体を検出し、それがどうやら大気を起源とするものらしいと考えていました。同位体の半減期は正確にわかっているので、炭素を含むものなら年代を決定できるのではないかと考えていたのです。それを是非とも考古学のために使いたい、とパウルが突っ走っているのですが、リビーは、まだ手法が確立されていないからと慎重です。パウル・フェヨスは、ヴァイキング財団が研究費を出すから、是非とも考古学に役立てるものにして欲しいと申し出ました。ウィラード・リビーは、放射性炭素年代測定法を開発し、後年ノーベル賞を受賞しました。(ウィラード・リビーによる話でも、パウル・フェヨスが考古学と放射性炭素年代測定を結び付けたことがわかります。)

パウル・フェヨスの数奇な人生(10/12)

パウル・フェヨス、アマゾンで、飛行機不時着後。1940年

マシコ族という研究対象を失ったパウル・フェヨス一行は、リマまで引き返しました。パウルは、そこで山地奥深くにある古い都市の遺跡の話を耳にします。アメリカの探検家、ハイラム・ビンガムによって、1911年にマチュ・ピチュの遺跡が発見されたことは、パウルもよく知っていましたが、それとは別に「古い都市が存在する」という話は根も葉もない噂だろうくらいに思っていました。ある日、フランシスコ派の僧院の図書館で「クズコの輝かしき未来(1848)」という本を見つけます。この本には、ある俗僧が、アマゾンの密林で迷ってしまい、2年間行方不明になったことが記されていました。この男は帰還して数日で死んでしまいますが、ジャングルの奥地で見た古代の都市について話をしています。この話と、先ほどの噂が、地理的にも奇妙なほど符合したので、パウルは興味を持ち始めました。1940年9月、ヴェナー・グレンの了承と資金提供を受けたパウルは、その幻の古代都市の発見を目標にリマを出発します。

この探検に同行したのが、スタンフォード大学のポール・ハンナでした。彼は教育学の教授ですが、ネルソン・ロックフェラーによって、南米に派遣されていました。目的は、ペルー、エクアドル、ボリビアにおけるナチスの活動、特に教育におけるナチズムの浸透を調査することでした。実はこれらの南米の国々では、ナチズムは初等、中等教育の各場面で思ったよりも深く浸透していたのです(戦後、多くのナチス高官が南米に逃れたのも、こういう背景があったからだと推測されます)。ポール・ハンナは、リマの町で物資や助手を探しているヨーロッパの怪しい調査隊がいると聞いて、パウル・フェヨスのグループを監視していました。この調査隊は、ヴェナー・グレン(当時はナチス・ドイツに共感していると考えられていました)のバックアップがある。ますます怪しいと踏んだポール・ハンナは、考古学者のふりをして、パウル・フェヨスの調査隊に同行することを申し出ました。結局、パウルがヒトラーを嫌悪していることや、隊がアンデスの遺跡発掘の学術調査に本気で取り掛かっていることを知ると、ポール・ハンナは自分の正体を明かしたようです。

1940年と1941年に2回の調査を経て、チョケスイスイ、チャチャバンバ、サヤックマルカなどの遺跡を発見し、36平方キロメートルの地域を調査、詳細な地図を作成しました。100kmにも及ぶ補給路を維持し、数百人の経験の浅い人足を監督しながらの調査でした。この調査結果は1944年に出版されています。パウルは、自分には十分な考古学の知識がないとして、遺跡発掘は最小限にとどめ、あくまで遺跡の位置の確認、写真などによる現状記録、そして地理的情報の収集をメインとしました。

パウル・フェヨス ヤグア族と。

また、パウルはこの時期にペルー北部に住むヤグア族の調査もしています。ヤグア族はやはり外部との接触の少ない種族で、言語、文化についてほとんど知られていませんでした。調査隊はヤグア族と接触して、彼らの言語を学び、その生活、習慣を記録することに成功します。言語をフィルムに記録するために、同時録音のできるカメラで住民の話し言葉を撮影しました。さらに、非常に珍しい村落の引越しをフィルムに収めることができ、これはドキュメンタリー映画「ヤグア(1943)」として編集されました。ちなみに、この映画がパウル・フェヨスのフィルモグラフィでは最後の映画となります。

1941年、ヴェナー・グレンはヴァイキング財団を設立します。財団のもとで、パウル・フェヨスはアンデスでの遺跡調査、ヤグア族の人類学研究の成果を発表します。財団はニューヨークにオフィスを構え、パウルは研究部門の指揮を執りました。彼は、もうすっかり商業映画の世界とは決別し、文化人類学、考古学にすべてのエネルギーを注ぎ込んでいました。

パウル・フェヨスの数奇な人生(9/12)

パウル・フェヨスとアクセル・ヴェナー=グレン

この東アジア遠征中に、タイのチェンマイで「一握りの米(原題:En Handful Ris)」という作品を製作します。これは珍しくフィクションのストーリーを盛り込んだ作品です。オープニングは、ストックホルムのアパートで引っ越しの真っ最中の夫婦の話です。引越しの荷物や家具を全部運び出した後、棚の引き出しに残っていた一握りの米を、「ちょっとしかないから」捨てるという場面から始まります。そして、映画はタイの農村に舞台を移します。新婚の夫婦が新しい生活を始め、森を切り開いて耕し、米を栽培するものの、旱魃に襲われて、最後はやっと収穫できたのが一握りの米だったという話です。この映画は、最初のストックホルムの部分を切って、RKOが”The Jungle of Chang”という映画で公開しています。ハリウッド時代から「君と暮らせば」まで、ずっと彼がテーマとしている、容赦ない人生の苦労と生きのびることの大変さが、ここでも描かれています。

パウルとその一行は「コモドドラゴンを撮影したら面白いな」と話し合い、ボートで島に乗り付けて、撮影することにしました。ところが、このボートが珊瑚礁に座礁して、ばらばらになってしまい、一行は遭難します。一行はコモド島に流れ着くのですが、集落などどこにもなく、その上、乾季の最中で飲み水がない。3日間、飲み水なく、いよいよ死ぬかと思われた夜に沖を航行する船を見つけ、高い木の上から懐中電灯でS.O.S.を発信して、無事見つけ出してもらって救助されます。その後、パウルはこの島をもう一度(今度はココナッツの実を大量に持って)訪れます。実はこの島は無人島ではなく、彼らが遭難した島の反対側には集落がありました。コメディーでそういう設定がよくありますが、それを地でいったわけです。この訪問で、パウルは、コモドドラゴンを2頭捕獲します。1頭はストックホルムへ、もう1頭はコペンハーゲンの動物園へ送られ、それぞれの国の最初のコモドドラゴンとなります。

パウル・フェヨスが捕獲したコモド・ドラゴンの剥製 コペンハーゲン

もうひとつ、この旅では非常に重要な人物と出会います。スウェーデンの実業家、アクセル・ヴェナー=グレンです。彼は、スウェーデンのエレクトロラックス社を掃除機や冷蔵庫の有名ブランドにし、一大財閥を作り上げた人物です。ナチス・ドイツのヘルマン・ゲーリングと親交があると噂され、ナチス幹部に太いコネクションがあると信じられていました。しかし、実際には彼は、まったくそんなものを持っておらず、ドイツにおいては何の影響力もありませんでした。

1938年に、ストックホルムに戻ってきたパウル・フェヨスはスプルー/熱帯性下痢に罹患しており、非常に弱っていましたが、1939年には次の遠征に出発します。ヴェナー=グレンは、ペルーに鉱山を保有しており、ペルーの先住民についての情報を必要としていました。パウルは、ペルー先住民のマシコ族と接触して、彼らの生活・文化について調査することを依頼されます。この部族は19世紀の終わりにカルロス・フィッツカラルド(ヴェルナー・ヘルツォークの「フィッツカラルド」のモデルですね)の部下によって大部分が虐殺され、それ以来、アマゾンの奥深くに住んで外部との接触を一切断ってきました。パウルはこの部族と接触するのですが、様々な不運と無知が重なって、途中であきらめざるを得なくなりました。ペルー政府は、パウルたち一行に、ペルー軍の兵士を連れて行くよう要求したのですが、これが仇となってしまったのです。銃を持っているがゆえにマシコ族の部族間の争いに巻き込まれ、兵士の一人が住民の一人を射殺してしまったのです。もうこうなっては、部族と接触することはできず、引き上げざるを得なくなりました。

ちなみにこのマシコ族は、今現在も外部との接触がほとんどなく、アマゾン流域の未踏の地で暮らしています。今はむしろ彼らを守るために、ペルーの一般市民や人類学の研究者などが彼らと接触しないよう、呼びかけられています。現在までずっと孤立していたので、様々な病気、特に20世紀以降に現れた疾病に対して耐性がないと考えられているためです。ところが、この数年、彼らの食糧事情が悪化したようで、マシコ族のほうから食料を求めて姿を現すことが多くなり、今年に入ってからビデオに撮影されるような事態にまでなりました

パウル・フェヨスの数奇な人生(8/12)

パウル・フェヨス マダガスカル

マダガスカルは、この時代には、まだヨーロッパの文化人類学の研究がそれほど進んでいない土地でした。事前の調査や文献探索をしても得られるものは少ないまま、パウル・フェヨスは1936年にボルドーから貨物船に乗ってマダガスカルに向かいます。彼は「未開」と呼ばれたマダガスカル南部の、いまだ政府の管轄の届いていない地域に入っていきます。途中、フランス植民地軍の砦で、「あんなところに行ったら、首を刎ねられて食われるぞ」と脅かされましたが、かまわず進んでいきました。そこで、撮影隊一行はタノシ族とバラ族に遭遇し、彼らの生活をフィルムに収めます。パウルは、「生まれて初めて出会った原住民」に強い感銘を受けます。彼らは理路整然と考え、アメリカ人なんかよりもはるかに理にかなった生き方をしている。彼らは非常に理知に富んでいて、文明国の誰よりも賢い。ここで撮影されたドキュメンタリーには「エジラのダンスコンテスト」「ビロ」などがあります。

アンタンドロイ族のダンサー/治療者
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

当時の文化人類学あるいは文化人類学者は大半が差別的で、研究の対象とする民族に対して理解を深めるという態度で臨んでいるとはお世辞にもいえない時代でした。とくに文化人類学と啓蒙的な文化政策が交差する場合には、その醜い差別感情が露わになります。1931年にフランスで「植民地展覧会(L’exposition coloniale)」なるものが開催されますが、そこでニューカレドニアの住民がパリに連れてこられ、動物園の動物のように展示されていたのです。マダガスカルにも全く調査が入っていなかったわけではありません。事実、1910年代からフランスのパテ社がいくつかマダガスカルで撮影したフィルムを公開しています。ただ、「北極の怪異(1922、ロバート・J・フラーティー監督、原題:Nanook of the North)」に始まる、「西欧人でない民族に、ジャズを聞かせて反応を見る」といったことを繰り返しやっていたのです。

博士号をもった文化人類学者でも、(調査対象である)原住民の狩りに同行して、平気で獲物を撃ってしまう者がいるのだ。獲物は自分のものではないということ、銃を撃てば、住民の狩りの対象が一帯から姿を消してしまって、彼らの経済を破壊するということがわかっていないのだ。


Paul Fejos

私が調べた限り、「エジラのダンスコンテスト」と「ビロ」はニューヨークのMoMAがプリントを所有しているようです。ほとんど上映されることはないようですが、記録によると、「ビロ(The Bilo)」は族長の葬式の様子を収めた貴重な資料のようです。族長の息子によって催された音楽と踊り、そして埋葬時の儀式として、族長の牛800頭を生贄をささげる様子などが記録されているようです。

バラ族のダンサー
(パウル・フェヨス撮影、1936年)
(via デンマーク国立博物館

マダガスカルには1年近くいましたが、その後、ヨーロッパの帰途にセイシェル諸島に寄港し、そこでも撮影をします。デンマークに帰国したのち、撮影した作品をデンマーク王立地理学会で発表し、一躍デンマークの文化人類学界で注目の人物となります。マダガスカルの文化については詳細な調査がされていなかったこと、デンマークの王立博物館にもマダガスカルに関する資料がなく、パウルが持ち帰った様々な事物が、貴重なコレクションとなりました。この時点で、パウルは文化人類学に強い興味を抱くようになります。1937年、今度はスウェーデンの映画会社が彼に同様の映画を依頼します。

パウルは少し濁した話し方をしているのですが、彼はアメリカに戻りたいと思い始めていたようです。ヨーロッパに戦争が近づいていること、特にナチス・ドイツと各国の関係が不安定な状態が続いていたこと、スウェーデンの立場はその中でももっとも微妙だったこと、などから、彼は「アメリカに戻れなくなるのではないか」と、オファーを躊躇していたようですが、待遇があまりに良かった。そして、東インドに向けて長い旅に出ます。目的地はインドネシアでしたが、横浜、神戸にも立ち寄っています。

パウル・フェヨスの数奇な人生(7/12)

春の驟雨 撮影セットで
中央 パウル・フェヨス、右から二人目 アナベラ
(via filmkultura.hu

ヨーロッパに戻ったパウル・フェヨスは、フランスを訪れ、そこで「ファントマ(原題:Fantômas)」を監督します。例の「謎のファントマ」ものです。そして1932年にハンガリーに舞い戻って「春の驟雨(原題:Tavaszi zápor)」を監督します。これは、パウル・フェヨスの最高傑作とする人も多く、私もこの映画がもっとも好きです。若い女性が過ちを犯し、妊娠し、子供を生みますが、子供は取り上げられ、彼女は失意のうちに亡くなります。天国に上った彼女は、自分の娘が大きくなって、同じ過ちを犯そうとしているところを見て、雨を天から降らせて娘を守るというお話です。この映画では、主人公のマリー(アナベラ)が未婚で妊娠したために、村で、そして都会で疎外されていく過程が、実に辛辣に冷酷に描かれています。特に子供を取り上げられて、村に舞い戻り、道端で子供たちにまでさげすまれて、汚れ、朽ち果てた彼女が、世を恨み、神を恨むさまは、この時代の作品には類を見ない強烈な印象を残します。そのため、この映画はハンガリーで「共同体と神を冒涜した」とされて上映禁止になり、ニューヨークでも上映禁止になります。

美術監督 ハインツ・フェンチェルと。
「君と暮らせば」のセットで
(via davidkultur.at

1933年にはウィーンで「君と暮らせば(原題: Sonnenstrahl)」を監督します。これもシンプルなストーリーで、貧乏のどん底にいる若い二人が様々な苦難を乗り越えていく話です。結婚式の場面は、ムルナウの「サンライズ」そのままですし、随所に影響を見ることができます。私は、フランク・キャプラはこの映画から「素晴らしき哉、人生(1946, 原題:It’s a Wonderful Life)」のヒントを得たのではないかと思っています。貧乏に耐えかねた主人公が飛び込み自殺をしようとしているときに、別の人間が飛び込み自殺をして、それを助けてしまうというオープニング。そして、お金に困って、もうどうにもならない、と言うときに、みんなが少しずつ出し合って、窮地から救われるというエンディング。それにしても、パウル・フェヨスは貧乏のどん底で暮らす人々を描くことにかけては、実に真摯で、かつ容赦ありません。表面は砂糖でコーティングしているのですが、その奥底には、実際に経験した人間だからこそ表現できる、冷徹さがあると思います。

パウルは、1934年にコペンハーゲンのノルディスク・フィルムと契約します。ここで、3作品ほど監督するのですが、彼はこの前後から「フィクション」の映画を作り続けることに限界を感じ始めます。何も「新しいこと」が生まれてこない焦燥が日増しに強くなっていました。しかし、彼はヨーロッパでは「一流監督」として認められていて、ノルディスクは彼に様々な ーー興行的にも、芸術的にもーー 期待をかけています。ある日、焦燥の頂点に達したパウルは、ノルディスクの重役会議にひとり乗り込んでいきます。

「私は、もう辞めたい。契約を破棄したい。」

実は契約はまだ2年残っていて、重役たちはそんな申し入れは当然拒否しました。

「拒否するならすればいい。私は病気だ。私は働けない。」

「君の好きにしていいから、映画を作り続けてくれないか。会社はどんなことでもしよう。」

「ここでは、映画は作れない。こんなところでは無理だ。」

「じゃあ、どこなら作れるのだ?パリか。ロンドンか?」

とにかく辞めたい一心で、彼は会議室の壁に貼ってあった世界地図の上で、自分の指の届くところにあったマダガスカルを指差して言ったのです。

「ここでなら。」

パウルは、マダガスカルのことなんかなんにも知りません。そんな島があることさえ。

「どうして、マダガスカル?」

「どうしてって、そこには原住民がいて、私は原住民と仕事をしたい。」

「マダガスカルか、よろしい。カメラマンは誰がいい?」

パウル・フェヨスのノルディスク時代の作品
「黄金の笑顔(原題:Det Gyldne Smil)」

彼が本当に「原住民と仕事をしたかった」のかどうか、あるいはこの重役会議の話が彼の「脚色」なのかは、定かではありません(この話は後年になって彼自身が口述したものから採られています)。ある側面では、この方向転換はそれほど異様なものではないと思います。1930年代に、とくにヨーロッパでは「文化映画」と呼ばれる、「学術性の高い」ドキュメンタリー映画の製作が盛んになるからです。この「学術性」に括弧がついてしまうのは、啓蒙的な側面が多分に強いのと、これらの映画のかなりの部分がプロパガンダ性の高いものも多かったからです。

パウル・フェヨスの数奇な人生(6/12)

ブロードウェイ 1929年

「ブロードウェイ(原題:Broadway)」はパウル・フェヨスが「自分の人生でもっとも惨めな作品」と呼び、撮影監督ハル・モーアが「もっとも楽しんだ作品」と呼んだ映画です。もともとのストーリーは大したものでもないのに、ユニバーサルは、映画化の権利だけで100万ドルも払ってしまっていました。そこで、さらに500万ドルをかけて、大作にしようと打って出たのです。パウル・フェヨスはどうすればいいのかわかりません。世界のどこにも存在しないような巨大で派手なステージで歌って踊っている主人公が、「こんなうらぶれたところを出て、いつかビッグになってやる」と言っている、というとんちんかんな話ですから、そりゃ厄介です。今、この映画を見るとすれば、まさしくそのカメラワークを楽しむのでしょう。この映画のために、巨大なカメラ・クレーンを建造しました。クレーン長50フィート(約15m)、重量28トン、6輪の自走式で、クレーンは360度回転、180度スイング(すなわち半球すべて)し、クレーンに搭載したカメラ用ステージはさらに360度回転するという代物です。作ったのはいいのですが、ユニバーサルのステージに入らないし、フロアも沈んでしまうので、ユニバーサルは新しくステージを建設、コンクリートで固めたフロアに、この代物がぐるぐる動いても大丈夫なスペースと天井で、「ブロードウェイ・ステージ」と呼ばれました。「ブロードウェイ」の中で、目の回るような映像を見ることができます。実はそんな大きなセットだし、ぐるぐる回るクレーンでは、十分な照明を得られないことが明らかになります。そこで、天井には絹を張って、その向こうに白熱灯をたくさん配置しました。これは「星のように」みえるはずです。これでも十分ではなく、ハル・モーアはコダックに頼んで、特別に感度の高いフィルム(タイプAのパンクロマチックに特別な処理をしてもらったもの)を準備してもらいます。これが、すぐに劣化してしまうので、毎日、ロチェスターから冷蔵空輸して送ってもらっていたそうです。

ブロードウェイ 1929年
頭の上に摩天楼をかぶった踊り子たち
「ブロードウェイ」の撮影に使われたクレーン
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-n02-HF8-R8]
『ブロードウェイ』

この頃から、パウル・フェヨスとユニバーサルの関係は悪化していきます。パウルは人気ジャズバンドのリーダー、ポール・ホワイトマンの映画を監督するように言われます。まず、ストーリーがない。そこでユニバーサルの脚本部30人全員で考えるのですが、ろくなアイディアは出てきません。カール・レムリ Jr.は「だったら、アメリカの有名作家全員に聞いてみよう」と言い出す。「ポール・ホワイトマンの映画を作ります。すばらしいストーリーを100語でお願いします。」とありとあらゆる有名作家に送ったんです。セオドア・ドライサーは「No、Never」と50回書いて送ってきた。できた映画は「キング・オブ・ジャズ(原題:King of Jazz)」ですが、パウル・フェヨスはクレジットされていません。今では、ニルヴァーナのカート・コベインのおじいさんが出演しているので有名な映画です。

左からカール・レムリ Jr.、ポール・ホワイトマン、カール・レムリ Sr.、パウル・フェヨス
MGM映画「ビッグ・ハウス」の外国語版撮影現場で。
アルバート・アインシュタイン(中央)、パウル・フェヨス(右端)

「西部戦線異状なし」の映画権を買ったと聞かされていたにもかかわらず、パウル・フェヨスはそれを作らせてもらえない。どれもこれもつまらないストーリーばかり。彼は一方的にユニバーサルを辞めてしまいます。それからしばらくして、MGMに雇われますが、ここはもっとつまらない。最後は脚本部で脚本を読んでいたのですが、あまりにアホらしく、馬鹿馬鹿しい。ある日、回ってきたメモを見たとたん、パウルは立ち上がってオフィスを出て行き、そのままシカゴ行きの「チーフ号」に乗って、ハリウッドを去りました。彼自身の言葉を借りれば、「ハリウッドとの恋愛が終わった」のです。1931年のことでした。

パウル・フェヨスの数奇な人生(5/12)

都会の哀愁 1928年

こうなると、ハリウッドのどのスタジオも大きな扉を開けて、パウル・フェヨスを迎え入れようとします。結局、彼はユニバーサルと契約を結びます。その頃のユニバーサルは、MGMとパラマウントに大きく水をあけられていたものの、
着実に作品の質を上げていました。1930年代には、後に「ユニバーサル・ホラー」と呼ばれる、ホラー映画のスタイルを確立していきます。ユニバーサル・
ホラーの原型となる、パウル・レニ監督の「猫とカナリア(原題:The Cat and the Canary)」「笑う男(原題:The Man Who Laughs
)」が、このころ製作されています。創業者の息子のカール・レムリ
Jr.がこのころ製作の指揮をとるようになり、方向性を変えていったのですね。パウル・フェヨスは「好きな題材で撮っていい」と言われたものの、ユニバーサルが映画権をもつものには、ろくなストーリーがなくて苦労します。彼がやっと見つけたのは、短編映画用の3ページほどの「Lonesome」という作品でした。ニューヨークの街。せっかくの日曜日なのに、友達もいない、恋人もいない、家族もいない。そんな若い男と女が、遊園地で偶然知り合い、恋に落ちます。二人ははじめての楽しい時間を過ごし、幼い子供のように他愛のない遊びに喜びます。しかし、ちょっとしたことで、遊園地の人ごみにお互いを見失ってしまいます。観覧車から、ジェットコースターへ、探し回りますが、見つかりません。お互い名前も知らないまま、ニューヨークの人の海に呑み込まれてしまって、もう二度と会うこともないだろう、つまらない孤独に逆戻り。それぞれ、みすぼらしいアパートの部屋に帰っていきます。気づいたら、二人はそのアパートで隣人同士だったのです。ハリウッドのサイレント末期には、数多く傑作が残されていますが、これはそのなかでも、もっとも素敵な作品でしょう。

「都会の哀愁(原題:Lonesome)」は、長い間アメリカでも見る機会の少ない、「幻の名作」と呼ばれてきた作品です。時折、海外の映画祭で上映されることがあり、それを見た人たちが絶賛するのを読むことができるくらいでした。数年前にイタリアのテレビから録画されたDVD-Rが市場に出始め、私もそれを取り寄せてみたのが最初です。もとのプリントが何代も経たデュープで、輪郭も朧なものでしたが、それが唯一でした。去年になって、クライテリオンがついに
BluRayで、比較的状態のいいシネマテーク・フランセーズのプリントを修復したものを発売しました。この映画には、サウンドトラックがあり、一部トー
キーですが、トーキーの部分は付け足した感じがすごくします。あきらかにF.W.ムルナウの「サンライズ(1927、原題:Sunrise: A Song of Two Humans)」とキング・ヴィダーの「群集(原題:The Crowd)」の強い影響が見られます。特に「サンライズ」には深い感銘を受けたようで、パウル・フェヨスのヨーロッパでの作品にも強くその色を残しています。私は「都会の哀愁」の前半の部分が特に好きです。男性のほうは工場で、女性は電話交換台で働いているのですが、このそれぞれの職場のリズミカルなモンタージュは面白いですね。それから、街の風景がとても自然で、この「都市」の感覚は同時代のハリウッド映画にはあまり見られないと思います。パウル・フェヨス自身の言葉です。

On the reasons I selected the story was that it reminded me of New York. I wanted to put in a picture New York with its terrible pulsebeat, everybody rushing; where even when you have time, you run down the subway, get the express and then change over to a local, and all these
things; this terrific pressure which is on people, the multitude in which you are always moving but you are still alone, you don’t know who is your next neighbor.

Paul Fejos

続いて、コンラート・ファイト主演の「最後の演技(原題:The Last Performance)」を監督します。パウル自身によれば「ハリウッドに染まった」作品なのですが、ある意味それだけ、ストーリーの緊張・緩和といったメリハリがついたものにはなってはいます。カメラワーク・編集は独創的ですし、ちょっとした演出がはっとさせられるところもあって、面白い作品です。こ
の作品では、手品師であるコンラート・ファイトが嫉妬に駆られて、恋敵であるアシスタントを、ステージ上の演技の最中に殺す(箱の中にいるアシスタントを抜け出せなくして、そこに刀を刺す)シーンがあります。パウルは、その刀を差し込んでいる間は、ステージはるか遠く客席からロングショットで撮り、いざ箱を開ける瞬間に、客席のはるか遠くから一気にズームで箱の中のクロースアップになる、ということを考えました。撮影監督のハル・モーアと考えたのは、天井から4本のロープでつるした椅子に手持ちカメラを持ったモーアが乗り、それを後部客席の一番高いところから、一気に振り子のように落とすというものです。
実際には、モーアが宙吊りになってしまったりしてうまく行きませんでした。次に監督したのは「Captain of the
Guard」という作品ですが、撮影中に30フィートの高さのセットから落ちて怪我をしてしまい、降板してしまいます(その後、ジョン・ステュアート・ロ
バートソン監督が引き継ぎ、公開は1930年)。ここまでは、サイレント(サウンドトラック付)でしたが、次回作はトーキー、しかも流行のミュージカルでした。

最後の演技 1928年
左から コンラート・ファイト、メアリー・フィブリン、
ルース・マリア・ヤニングス(エミール・ヤニングスの娘)、パウル・フェヨス

パウル・フェヨスの数奇な人生(4/12)

ラスト・モーメント 1928年

では、彼はどうして他人のセットで映画を撮れると思ったのでしょうか?彼のアイディアはこうです。

人は死ぬ前に走馬灯のように自分の人生を思い出す。ほんの一瞬のうちに自分の人生のいろんな出来事がフラッシュのように想起される。その瞬間を映画にするのです。主人公は入水自殺を図ろうとする。その最後の一瞬に、彼の人生の様々な出来事がフラッシュバックで語られる。他人のセットでもいいのは、そのセットに合わせた「過去の物語」を作っていくことができるからです。だれかが、モンテ・カルロのセットを立てている。すると、主人公がモンテ・カルロで破産する話を作って、そのセットを借りて撮影する。他のプロダクションが病院のセットを建てている。すると、主人公は戦争で負傷して、病院で看護婦のジョージア・ヘールと出会うことになる。

ジョージア・ヘールの撮影も大変でした。彼女は出演することに同意したとはいえ、「空いている時間だけ」という約束です。ですから、ほとんど撮影に時間を割くことができません。ダブル(姿が似ている別の俳優)を使っても、できることは限られています。ここでもパウルのアイディアが活かされます。オーソン・ウェルズは「市民ケーン」で冷え行く夫婦関係をモンタージュで表現したと有名になりましたが、ここで彼は婚約から離婚までを全部モンタージュで表現します。公園のベンチのふたり、キス、指輪、教会の鐘、仲の良い二羽の鳩が、いがみあう二羽のカラスに変わり、ベッドで枕を取り上げる夫、キッチンの流しに積み重なった汚れた食器、といった具合に流れ、最後は判事の槌で終わります。

映画のタイトルは「ラスト・モーメント(原題:The Last Moment)」といいます。

3ヶ月ほどで作品は完成しましたが、今度はどうやって公開するか、という問題になります。そうです。誰一人として配給については約束していません。パウルは、ハリウッドでもっとも辛らつで厳しい映画批評家に電話をします。ウェルフォード・ビートン(フィルム・スペクテーター紙)とテーマー・レーン(フィルム・マーキュリー紙)の二人です。映画を作ったので、見て欲しい。「なぜ、私なんだ?」このあたりであなたが一番厳しい批評家で、本当に僕の映画がいいか悪いか知りたいんです。

ラスト・モーメント 1928年

レオン・シャムロイが映写技師となり、ファイン・アーツ・スタジオの映写室で試写が行われました。映画が終わった後、ビートンがパウル・フェヨスに聞きました。

「これは誰が監督したんだね?」

「私です。」

「これは、私が今まで見た映画の中で最高の作品です。」

パウルは、それが嫌味や皮肉ではなくて、本気なんだと気づくのに時間がかかったようです。

3日後、スペクテーター紙もマーキュリー紙も「ラスト・モーメント」を絶賛する記事を囲みで掲載しました。町中に彼らのことを絶賛する新聞があふれているのに、レオン・シャムロイもパウル・フェヨスも夕食のお金すら持っていなかったのです。ファイン・アーツ・スタジオのセットのベッドで寝泊りしていたパウル・フェヨスは、夜中にビートンからの電話でたたき起こされます。

「すぐに、君のフィルムをチャップリン邸に持ってきてくれないか?チャーリー・チャップリンが見たいと言っているんだよ。」

「ラスト・モーメント」は、チャップリンが代表をつとめるユナイテッド・アーチスツから配給され、ロスアンジェルスで1927年11月、ニューヨークで1928年3月に公開されました。ニューヨーク批評家協会は「1928年の最も優れた10作品」に「ラスト・モーメント」を選びました。水底に沈みゆく主人公、気泡の映像が、突然、フラッシュのように連続する人の顔や様々なオブジェのカット(おそらく数コマずつのラピッド・カットでしょう)に変わり、そしてそのカットのスピードがゆっくりとなって、最初の話につながっていく。そして終盤にまたこのフラッシュのようなシークエンスが出てきて、水に沈んでいく主人公に戻っていく。「こんな映画はいままで存在したことがなかった」「映画という媒体が、はじめて映画として息づいた」「パウル・フェヨスは、たとえこの1作品しか残さなかったとしても、映画史に残るであろう。」

この映画のプリントは現存していません。