![]() |
「大暴風」 |
![]() |
「他の男とは違った男(1919)」 ラインホルト・シュンツェルとコンラート・ファイト |
「この世の天国(1927)」 女装をしているのがシュンツェル |
![]() |
ヒッチコックの「汚名(1946)」 アンダーソン博士を演じるラインホルト・シュンツェル |
![]() |
「大暴風」 |
![]() |
「他の男とは違った男(1919)」 ラインホルト・シュンツェルとコンラート・ファイト |
「この世の天国(1927)」 女装をしているのがシュンツェル |
![]() |
ヒッチコックの「汚名(1946)」 アンダーソン博士を演じるラインホルト・シュンツェル |
![]() |
「沈黙の塔」 |
![]() |
「沈黙の塔」ゼニア・デズニ |
![]() |
「スピオーネ」公開時のウーファ・パラスト劇場装飾デザイン |
![]() |
フリッツ・ラング監督「月世界の女」公開時の ウーファ・パラスト劇場内の装飾 (ルディ・フェルド) |
![]() |
パラマウント映画「つばさ」公開時のウーファ・パラスト劇場 (ルディ・フェルド) |
![]() |
ウーファ・パラスト劇場での 「サム・ウディングとチョコレート・キディズ・オーケストラ」のショー 舞台装飾はルディ・フェルド(1928) |
![]() |
ルディ・フェルドがプロダクション・デザインで関わった フィルム・ノワールの傑作「ビッグ・コンボ(1955)」 |
![]() |
「沈黙の塔」 |
![]() |
|
「支配者(1937)」 |
|
フレデリック大帝(1921-22) |
アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy
オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena
ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber
アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge
クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH
UFA 配給
Universum Film (UFA)
これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。
第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)
第二部 父と息子 (Vater und Sohn)
第三部 サンスーシ (Sanssouci)
第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)
この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。
ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。
しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。
この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。
「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、
この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。
Hans Feld
結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。
(1)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”
|
これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。
ウーファという会社の大まかな歴史については、ウィキペディアに譲るとして(笑)、この時期から1945年にいたるまでのドイツ映画界についてちょっと述べておこうと思います。私たちは、どうしても「巨匠」や「名作」の歴史に眼を奪われがちですし、「問題作」や「汚点」に注意がいってしまいます。つまり、ジーグフリード・クラカワーの「カリガリからヒトラーへ」やロッテ・アイズナーの「The Haunted Screen」のような映画史書、批評書が語り続けてきた、ヴェゲナー、ラング、ムルナウといった巨匠やその名作、リーフェンシュタールのような問題人物のプロパガンダ作品が、この時代のドイツ映画を代表していると思いがちになってしまうことです。もちろん、それらは大作であり、ウーファが全面的にバックアップした作品群ではあるのですが、同時にウーファ、あるいはドイツの観客がそういう好みだったと言うわけではないと思うのです。たとえば、ナチス政権下の映画はすべて「意思の勝利」のような、あるいは「ユダヤ人ズース」のようなプロパガンダ映画だったかと言うと、むしろそういう映画は稀で、大部分の映画は現実逃避的なエンターテーメントだったわけです。
ウーファは、特に芸術映画の根城というわけではなく、この時代のドイツに特徴的な一企業だとおもいます。ワイマール時代は、資本家の保守的な性格をもった利益追求型の企業、そしてナチスの台頭後は、政権に吸収されることに抵抗しきれずに「国家」が要求するものを提供しながら利益を追求する、という道をたどります。「国家」と言っても、なんだか分からない連中が相手です。ヒトラーもゲッベルスも映画が好き。不思議なことに二人とも勇ましいプロパガンダ映画は二の次で、ヒトラーは「(大して面白くも無い)センチメンタルな社会派コメディ」がお好みで、ヴァイス・フェルデルという俳優の「二つの封印(Die beiden Seehunde, 1934)」が特にお気に入り(1)。ゲッベルスはもう少し映画の好みが高尚で、一応「ユダヤ・ボルシェヴィキの」エイゼンシュタイン監督の作品には一目おいている。二人に共通するのは、美人女優に眼が無いこと。総統は、レナーテ・ミュラーのことを大いに気に入ってしまい、彼女の映画をもっと作るように命令。問題は、彼女には秘密のユダヤ人富豪の恋人がいたことです。ゲシュタポに嗅ぎつかれて、彼女は謎の死を遂げてしまいます。ジェニー・ユーゴは、ヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングにいたずらをして射殺されなかった唯一の人間です。ヒトラーに「私は総統だ」と叫ぶオウムをプレゼントしたり、ゲーリングの食事にゴムのソーセージを出したり。ジェニーがいない夜は、特別に撮影された彼女の全裸体操フィルムを総統はご覧になっていたようです(2)。リダ・バーロヴァ(「メトロポリス」の主役グスタフ・フレーリッヒの元婚約者)に狂ってしまって、ゲッベルスは自殺未遂をしてしまう始末。1920年代後半から敗戦まで、ドイツ映画は女優の時代と言ってもいいかもしれません。リル・ダゴーヴァー、亡命してしまったマレーネ・ディートリッヒ、レニ・リーフェンシュタール、リリアン・ハーヴェイ、ツァラ・レアンダー、マリカ・レックと挙げるときりがありません。彼女たちが、美しく着飾り、歌い、踊り、愛にうつつを抜かす(多くの場合勇敢な軍人に)、そんな映画が大量生産されました。
|
ジェニー・ユーゴ |
|
リリアン・ハーヴェイの”Ins Blaue Leben (1939)”公開時の ウーファ・パラスト・アム・ズー劇場 |
とは言え、文化政策の一環として、政治色が濃い映画も製作されました。そのためにナチス政権はウーファを国有化し、ゲッベルスの配下においたのです。完全に徹頭徹尾プロパガンダの目的で製作された映画は、本当に数えるほどで、歴史上の人物や出来事に沿って、ナチスのイデオロギーを刷り込んだ内容のものがほとんどです。
1925年の段階では、まだナチスはミュンヘンの田舎に巣くっているゴロツキくらいなものです。しかし、この広告に並んでいる作品に関わった人たちが、その後歩む道を考えると、この広告に凝縮された世界が奇跡にようにも感じられます。
ここに挙げられている映画について、ひとつずつ書いていきます。あらかじめ告白しておきますが、私が見たことがあるのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけです。一般にDVDなどで流通しているのは、この作品だけです。「フレデリック大帝」の第四部が非常に低いクオリティのもので出ています。「沈黙の塔」は最近ヨーロッパでリバイバル上映がされています。その他の作品はプリントがアーカイブに存在していることがわかっているものもありますが、大半が行方不明です。調査には、英語、ドイツ語の文献を参考にしました。
(1) Eric Rentschler, “The Fuhrer’s Fake” in Hitler – Films from Germany: History, Cinema and Politics Since 1945, edited by Karolin Machtans, Martin A. Ruehl
(2) Hitler’s Sex Life, Liberty Magazine