パセーイク・テクスタイル・ストライキ

『ザ・トゥルー・コスト~ファストファッション 真の代償(The True Cost, 2015)』は、Zara、H&M、ファーストリテイリングなどのいわゆるファストファッションの擡頭によって、壊滅的な「変革」に曝された繊維・衣料業界についてのドキュメンタリーである。グローバリズムの下に、劣悪な環境で劣悪な賃金・労働条件で労働する人たち(主に女性)の実態をとらえていく。製作者らは(主にアメリカの)消費者が、この生産者たちの状況を知らないことを踏まえ、テーマの一つとして「あなたの服を作っている人を知ろう」という点を挙げている。

今から90年前に、同じ言葉で始まるドキュメンタリー映画がアメリカで製作されている。

『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ(The Passaic Textile Strike, 1926)』は、ニュージャージー州パセーイクで起こった労働争議を、労働者運動の側からとらえた極めて珍しいドキュメンタリーだ。

1890年のマッキンリー関税法、1897年のディングリー関税法によって、外国の経営者によるアメリカ国内での工業生産が加速した。パセーイクはオランダ系移民が作った町で、20世紀のはじめにはアメリカ東部の繊維産業の中心地の1つであった。その大部分は(海外の)ドイツ人によって経営されており、その一方で、労働力の大部分は移民かマイノリティであった。人種、宗教などの違いによって、労働者がコミュニティとして分断されていること(またそうなるように経営者が募集した)を利用して、経営者は労働力のコストを大幅に抑制し続けた。特にそこで働く女性たちの給与は低く、自立はもちろん、生活自体が維持できないレベルであったという。それに加えて、繊維くずによる呼吸系の病気なども多発しており、明らかに死亡率が高くなっていた。パセーイクでは、就労機会への不安を煽ることで、労働者の基本的人権の遵守がなされないという、典型的な雇用の不均衡が起きていた。さらに、第一次世界大戦でのドイツの敗北にもかかわらず戦後もドイツ人による経営が再開され、生産の機械化によって労働者の地位は更に低くなっていった。

1925年10月の経営者による「賃金10%カット」の通告を受けて、パセーイクでの最初のストライキが始まった。その後、労働組合教育連合(Trade Union Educational League)と労働者党(共産党, Worker’s Party)の指導のもと、15000人以上の労働者が1年以上にわたってストライキを行った。結局、労働者側の敗北に終わったこの労働運動は、アメリカ共産党によるはじめての運動であるとともに、その後の労働組合と共産党との関わりに大きな遺恨を残したと言われる。

このストライキを継続するための資金の一部は共産党から出資されていたが、一方で資金を獲得するために、労働者が置かれている状況を宣伝する必要があった。パセーイク繊維労働者統一戦線委員会を率いていたアルバート・ワイスバーグは、資金調達のための宣伝手法として、映画製作を行うことを決定、アルフレッド・ワーゲンネクトが実質的な製作担当として撮影が開始された。

この作品は、長い間「失われた映画」と思われていた。映画史研究家のケビン・ブランロウは、「もうこの映画は見ることができないだろう」とずっと思っていた。ニューヨーク近代美術館を訪問した時、アイリーン・バウザーに「そういえば『ザ・パセーイク・テクスタイル・ストライキ』のプリントが見つかったのよ」と言われて卒倒するほど驚いたらしい。この映画は全7巻であるが、完全な形で現存するのは、第5、7巻を除く5巻である。第5リールはその後、かなり劣化した状態で見つかり、修復されて米国国会図書館に保管されている。

この5巻をNew Jersey Research and Education Networkが運営するNJVID.NETで見ることができる。

最初の30分くらいは、労働者たちによる「実態」の再現ドラマである。経営者(現場レベルのマネージャーのようだが)による(未成年への性的暴行を含む)暴虐と、それによって崩壊していく労働者の家族がメロドラマ的に描かれていく。だが、その再現ドラマから突然、工場前のピケを映した映像に変わって、私たちは1926年のニュージャージーのくすんだ風景に放り込まれる。記念写真撮影のように並んでニコニコと笑う女性たち、ピケをはって練り歩く人の群れ、カメラマンに向かって手回しクランクを回す真似をしてみせる男、大人の群れを見入る子供、カメラの前に並んでいるのに兄弟にちょっかいを出す青年。いずれは離れ離れになってしまったであろうその人々の、少しだけ望みが見えた気がした日々。警棒やガスによって、やがてやって来る不況によって、潰されていった笑顔の撮影記録である。

この映画は、製作途中から、パセーイクの労働者を集めて上映会を開いたりしていた。完成後は、幾度か上映されたようだが、結局コミュニティの外への発信力は極めて低く、資金調達の目的は果たせなかった。その後、映画の上映用プリントは共産党事務局に保管されたまま忘れ去られてしまっていたようである。

このストライキの時に共産党員だったマーサ・アッシャーは、1980年代にパターソン・コミュニティ・カレッジでこの映画を上映した。学生の中にはパセーイク出身の黒人のティーンエイジャー達もいた。彼らは、(普段見慣れていないサイレント映画にもかかわらず)スクリーンをじっと見つめ、メモを取りながら見たという。「こんなことが自分たちの町で起きたなんて信じられなかったみたいね」とアッシャーはインタビューで語っている。

Reference

Kevin Brownlow, “Behind the Mask of Innocense”, University of California Press, 1990

ルドローの虐殺

D・W・グリフィスの大作『イントレランス(Intolerance, 1916)』の「現代篇」は、経営者による賃金カットに反発した工場労働者のストライキ、そしてその悲劇的な結末で幕を開ける。なかでも、ストライキ鎮圧のために武装した部隊が投入され、ピケを張っている労働者の一群に機関銃掃射を撃ちこむシーンは、過剰な暴力のあまりの呆気なさに唖然としてしてしまう。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-kKLLBWsECQ]

このシーンは、『イントレランス』の公開数年前にコロラド州の南部で起きた実際の事件を元にしている。コロラド州のトリニダードは、ニューメキシコ州との州境に近い、小さな町である。この町を中心とした地域は、20世紀初頭に炭鉱で栄えた。地域で最大の規模を誇ったのは、コロラド・フュエル・アンド・アイアン・カンパニー(Colorado Fuel & Iron Company, CF&I)、当時7000人を超える炭鉱労働者を雇い、ロッキー山脈以東では最大の生産量を誇った。しかし、労働環境は劣悪で、当時の標準から考えても事故による死亡、労働環境の悪さによる病気や疲弊が多い、問題のある企業であった。経営者はロックフェラー一族。ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアがニューヨークのブロードウェイにあるオフィスから指揮を執っていた。だが、もともとこの分野は競争が激しく、CF&Iは規模の割には経営状態が芳しくなかったようである。

CF&Iでは、炭鉱労働者を会社が用意した家に住まわせ、医療や学校なども提供した。そう聞くと、随分とよい福利厚生のように聞こえるが、実際には「それしか」選択肢が無かったのである。会社が用意した閉鎖コミュニティに密集した酷い状態の家をあてがわれ、買い物も会社が経営する食料品店しかなく、給料もそこでの買い物券が配布されるだけである。コミュニティの入り口には、ゴロツキと変わらない「守衛」がマシンガンを持って立っており、夜には頻繁に戒厳令がひかれる。もちろん、労働者たちは組合を組織する権利は与えられていない。そして、ロックフェラー一族のように資本と権力に極度に執着している経営者には、そのような問題は些末事でしかなかった。

ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア  

度重なる爆発事故や、改善されない労働条件に業を煮やした炭鉱労働者は、炭鉱労働者組合(UMWA)のもと1913年9月にロックフェラーに7つの要求を突き付けて、ストライキに入った。組合を認めること、実質的な賃金値上げだけでなく、「付随の労働(伐採など)にも賃金を」「買い物をする店を自由に選ぶ権利」など、ごく当たり前の要求をしている。だが、ロックフェラーはこれを無視し、全労働者の90%にもあたるスト労働者を追い出した。彼らは、最大の炭鉱地、ルドロー(Ludlow)にテント村を設営して、ストライキを継続した。会社は、私兵や探偵社(ボールドウィン&フェルツ)を使って、ストライキの対応(脅迫、情報収集、スト破り、など)を行った。脅迫にはマシンガンを搭載した装甲車で町を走り、ランダムに撃つ、というのも含まれている。10月にはコロラド州の州兵が現地に派遣され、寒い冬の間、散発的な銃撃戦、度重なる暴力の応酬、が繰り返された。1914年の春に至っては、経営者側は十分な労働者(スト破り)を確保していたようである。ところが州の方は、これだけの州兵を長期間現場に派遣し続けるのは財政的に大打撃であった。1914年4月にはその大部分が散開し、2部隊だけになっていた。

経営者側が使用した装甲車(”Death Special”)
Colorado Coal Field War Projectより)

1914年の4月20日、州兵とスト労働者の間で銃撃戦が始まり、州兵がテント村に放火、スト指導者を射殺した。放火されたテントの焼け跡から数多くの母親と子供の死体が発見された。25人が殺され、うち10人は子供であった。これが「ルドローの虐殺(Ludlow Massacre)」である。

テントに住むスト労働者達
Colorado Coal Field War Projectより)

ケビン・ブランロウ著『純潔の仮面の向こう(Behind the Mask of Innocence)』に、この「ルドローの虐殺」についての記述がある。このなかで、パテ映画社のカメラマン、ビクター・ミラーについての話がある。

ミラーは、パテ映画社のカメラを抱えて、1913年の秋にトリニダードに着いた。そこでこのストライキのニュース映画を撮影するためである。ところがトリニダードの町はすっかり「経営者」にとりこまれていた。ホテルに保安官が現れ、ミラーを脅迫する。「健康でいたかったら、カメラを持ってホテルを出るな、そして明日には町から立ち去れ。」夜、町のバーでスト労働者達と偶然会い、彼らの手伝いでホテルからカメラを持ち出し、ルドローへ。「そこはまさしく戦場だった・・・労働者たちは完全に武装していた。」

その闘争の現場をミラーは撮影する。州兵からの攻撃を受けながら、である。地元の新聞、デンバー・ポストによると「パテ映画社のカメラマン、ミラーは飛んでくる弾丸をもろともせずにカメラのクランクを回し続けた」らしい(もちろん、かなり誇張されているようだが)。撮影した彼は、銃をもった男たちに追い回され、車で逃げたが、「あの時のモデル-Tがもう少し遅かったら、私は今頃トリニダードに埋まっているだろう」と語っている。

私は、このニュース映画は、多分失われたのだろうと思っていた。その後、コロラド各地で上映され、大好評だったが、ロックフェラーたちに押収され、その後の裁判で労働者に不利な証拠として使われたようである。しかし、たまたま、このニュース映画を見て、そこにまさしく、このビクター・ミラーが撮影した、ルドローのスト労働者達の姿を見つけた。

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rdJ7n8VqOiw?start=148]

州兵たちのフッテージは誰が撮影したものかは、不明である。この1分にも満たないフィルムが、その後のアメリカの労働組合運動を大きく変えたと言われる、ルドローのストライキの唯一の映像だと思う。

ルドローでのビクター・ミラー
(Moving Picture World 1913年12月6日号)

ちなみに、カメラマンのビクター・ミラーはその後、ビクター・ミルナーと名乗ってハリウッドの撮影監督となった。そう、『極楽特急(Trouble in Paradise, 1932)』、『生活の設計(Design for Living, 1933)』、『レディ・イヴ(Lady Eve, 1941)』の撮影を担当したビクター・ミルナーである。

映写技師の問題

以下は「映写技師の問題」と題された1926年の論文からの抜粋(翻訳:筆者)です。著者はルイス・M・タウンゼント、イーストマン劇場の映写部長です。当時、イーストマン劇場と言えば、アメリカ国内でもトップと呼ばれたクオリティの高い映画館でした。その映画館の映写技師のグループを束ねていた人物による、その当時の問題意識です。

今の私の最大の問題は、1000フィートの週替りプログラム、2000フィートのコメディ、8000フィートの長編映画を2時間のプログラムに詰め込まないといけないと言うことだ。この2時間には、この他に8分か10分の序曲の演奏と、5分か10分くらい別のショーがある。これを映写速度を上げずにやらないといけない。イーストマン劇場では、これだけのプログラムを組まないと十分に楽しいものにならないと考えている。では、どうするか?標準スピードの1分当たり80フィート(約21fps)ではなく、1分当たり90から100フィート(24fpsから約27fps)で映写する。全部で120分しかない。しかも10分は演奏、10分はショーにとられ、映画には100分しかない。これだと9000フィートしか見せられない。そこで、コメディを1200フィートくらいにまで減らし、長編映画からは1000フィート分を減らす。これらはおおよその目安だが、プログラム全体では9000フィートを超えるわけにはいかないのだ。これをどうするかと言えば、--切るのである。これは易しい仕事ではない。私たちはこうしている。まず、支配人、音楽監督、そして私で最初に試写をする。その後、何を削れるか議論をする。この段階で、私は長さにしてどれくらい削れるか見当をつける。そして映写スピードと長さが決められる。そこでこの情報を記したメモを作って保存しておく。上映の段階になってプリントを受け取ると、もう一度上映して必要な編集(カット)をする。これは大体6時間から7時間かかる。製作者や配給(film exchange)は映画を切られるのを嫌がる。だが、彼らが長編映画を7000フィート以上で出してきたり、1000フィートにしたほうが面白いコメディを2000フィートで出してきたりする以上、こちらは切り続ける。もちろん、私たちは、映画のある部分をごっそり1000フィートも2000フィートも切ってしまうわけではない。リールごとに見ていって、ストーリーに直接関係無いような事柄や不必要なディテールや尺あわせをカットするのだが、これが結構たくさんあるのだ。

この論文の後に、映画技術者協会のトップたちとタウンゼント氏による議論があります。これはほぼ全部掲載します。

議論

ヒル氏(陸軍)・・・イーストマン劇場が、他でよくやられているように映写速度を極端に速くするようなことをせず、編集をして短くするという大変な思いをしているのだと聞いて嬉しく思う。2時間の映画を無理やり速くして1時間半で見せるような映画館は、観客をだましていると思う。13オンスのバターを1ポンドだと言って売っている八百屋のようなものだ。

クック会長:私は、13オンスを1ポンドだと言って売っている八百屋だとは思わない。客は1ポンド受け取っているが、消化できるよりも速く喉に押し込まれているんだと思う。

パーマー氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』):タウンゼントさんにそのカットについて聞きたいのだが・・・、自分たちでやる代わりに配給にカットしてほしいと頼んだことはないんですか?業界で製作側にいる人間としては、映写技師や映写部長なんかよりも配給のほうがそういうことはまともにできる気がするんだが・・・

タウンゼント氏:私たちは一度配給にカットを頼んだことがあります。あまりに酷かったのでそれ以降はもう頼まないことにしました。配給はただ映画の一部分を500フィートまるごとカットして、ストーリーが一部分なくなってしまったんです。見た人はみんな気づきました。我々は判断しながらカットします。ある映画から500フィート分をカットしたいのなら、私は非常に気を使いながら、リールごとに少しずつ切り出します。私は試写の時に一度見て、その後もう一度リールごとに見ます。記憶に頼って、長編映画を作業したりしません。ストーリーを一部分まるごとカットしたり、ストーリーにとって重要な出来事をカットしたりしないようにしています。脇の演技とか明らかに尺を埋めようとしたところとかを削除するんです

デニソン氏(映画製作会社『フェーマス・プレヤーズ・ラスキー』映写担当):私は劇場側で映画をカットする権利などないと思う。映画はスタジオで適切に編集され、完璧な形なのだ。映写技師に映画を再度カットする資格などない。配給でさえ、検閲にかかったところをカットする以外には何もしない。劇場で映画をカットしないように過去にも何度も言ってきた。もし映画が長すぎたり、尺あわせをしているようだったら、製作側に話をもってくるべきだ。劇場で訳も判らない切り方をされては、映画のストーリーの価値がなくなってしまう。

リチャードソン氏(映画雑誌『モーション・ピクチャー・ワールド』編集):私は、切らないでそのままのほうがいい映画など見たことがない。尺あわせみたいなことをするせいで、時事ものや長編やコメディを限られた時間で上映しないといけない多くの劇場が困っている。上映時間は支配人が詰め込みたいプログラムにはとても入りきらない。私は言い続けてきたし、またここでも言うが、有能な映写技師の最も重要な仕事の一つが、映画をみて、もうどの映画にもくっついている要らない部分を切り落として、映写スピード上げずに時間内に上映することだと思っている。

出典
Lewis M. Townsend, “Problems of a Projectnist”, Transactions of the Society of Motion Picture Engineers, 10, p.7 (1926)

列国の愉楽(1929)

1929年にヨーロッパの芸術映画サークルでちょっとした話題になったアマチュア作品がある。”The Gaiety of Nations”という題名だが、ここでは「列国の愉楽」と呼ぼう。
この作品は第一次世界大戦を挟んだ欧米の歴史を表現した11分程度のものである。A・H・アーン(A. H. Ahern)とジョージ・H・シューエル(George H. Sewell)の二人によって作られた作品なのだが、冒頭の字幕にあるように「15フィート×11フィートの部屋の中ですべて撮影(一つのショットを除いては)」されたという。8畳ちょっとのサイズの部屋だ。

厚紙を切り抜いて作った街並み、新聞や株取引の黒板といった小道具を用いて、巧みにストーリーを展開していく。シルエットやキアロスクーロに比重を置いた照明、極端なクローズアップ、手持ちカメラ、数フレームまでそぎ落とした編集など、サイレント末期当時の映画テクニックをふんだんに盛り込んでいる。
特に戦争の場面は「厚紙で作った」ことが誰の眼にも明らかだが、なにか禍々しい衝撃を残していく。戦車が現れるシーンなどは構図として隙無く嵌っていて、「物語り」のクリシェをなぞることで逆に我々の想像力を刺激している。
ジョージ・H・シューエルはアマチュア映画のパイオニアとして知られているようだ。シューエルとアーンが1924年に製作した「Smoke」という短篇(35mm)は、どんでん返しのエンディングがその後のアマチュア映画に影響を与えたといわれている。

【参考】
“Small-Gauge Storytelling: Discovering the Amateur Fiction Film, Ryan Shand”、Ian Craven (2013)

Close Up、1929年 10月号