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『オズの魔法使』とウラン
曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [6]
最後に取り上げるのは、《フィルム・ノワール》が登場してくる背景についての議論である。とくにここでは技術的背景について述べたい。 続きを読む 曖昧な、曖昧な、フィルム・ノワール [6]
フィルム・ノイズとブラスティング
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『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』 左側に見えているのは音声トラック。 Duplex Varaiable Area Recordingが採用されているのがわかる[1]。 |
赤外線フィルムの時代
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Star-Gazette (New York) 1942/1/5 |
第二次世界大戦前後の映像技術や工学をながめていると、この頃から、《見えるもの》と《見えないもの》の境界を曖昧にするテクノロジーが徐々に社会に浸透し始めている様子が見えてくる。可視の外側の現象が、平然と可視の領域に滑り込んで、ヒトは自らの知覚が広がったかのような錯覚に囚われ始める。この錯覚は時としてとても危険なものになりうるのだが、視覚に不自由を感じないヒトはすべての感覚のなかで視覚を無防備に無批判に信望していて、その危なかっしさを見逃しがちである。
このテクノロジーを支える基盤となったひとつが真空技術だ。真空技術の成熟は、水銀灯、CRT、光電子増倍管などの装置の製品化に不可欠だった。また、1910年代に登場したボーアのモデルが、物質と分光を直接的につなげる役割を果たし、例えばその後の写真技術の展開に極めて大きな影響を与えた。《近代的な》分光測定装置が登場し始めたのも1940年代だ。物質をモデルで考察し、そのモデルの検証を測定する方法が広がっていた時代である。そうして、赤外線や紫外線、さらには電子線が身近な ──科学者にとってだけでなく、一般人にとっても── ものになっていった。
赤外線フラッシュ写真
アメリカが第二次世界大戦に参戦し、都市部に消灯令が発令され、闇が街を覆うようになると、当時の新聞カメラマンたちは、それをなんとかして《絵にしよう
visualize》とした。彼らは当時の最先端技術 ──コダックやデュポンが売り出した赤外線に反応するフィルム[1]と赤外線フラッシュ── を駆使して、夜の街に蠢く人々を撮影しはじめた。消灯令下では、まったくの漆黒の闇に包まれてしまって肉眼では見えにくい街の風景を、赤外線フラッシュ写真はあたかも鮮明に見えているかのごとく写し出す。
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Daily News (New York) 1942/3/16 |
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Pittsburgh Press (Pittsburgh) 1942/6/26 |
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Chicago Tribune (Chicago) 1942/8/13 |
赤外線フラッシュ写真に写っているのは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」の暗い街角で遊んでいる人々だ。あの絵に描かれた暗い通りや闇に沈んだ建物の部屋を赤外線で照射すると、笑っている男や、キスしている男女が浮かび上がるのかもしれない。
ウィージーも1940~50年代に赤外線フラッシュ写真が映し出す《闇の中》に興味を持った写真家の一人だ。彼も1942年、消灯令の最中に赤外線フラッシュ撮影をはじめた。ウィージーはその後、映画館や劇場などの暗闇のなかの人々を隠し撮りするようになった。スタンリー・キューブリックも同じようにニューヨークの夜に蠢く人々を隠し撮りしている[2]。闇のなかで、人々が他人の視線を忘れて見せる姿、そういったものをフィルムに映し出す行為は、吉行耕平の『ドキュメント・公園』まで受け継がれていった。近年注目を集めている夜間の動物たちの行動を撮影する「トレイルカム」は、この延長線上にあるのかもしれない。ただ、哺乳類の生態観察として、ヒトが夜中の公園で性行為にふける様子などを覗き見するのは、もう驚きも面白みも失われ、それよりは、自分の庭先に突然現れるタヌキを観察するほうがよほど感動的になったようである。
赤外線フラッシュ写真も、通常の撮影と原理は同じで、フラッシュが発光した光を被写体が反射、反射光がフィルムに届いた部分が感光する。普通の写真と違うのは、発光される光が赤外線で、フィルムが赤外線に反応するという点だ。赤外線フィルムといっても、実際には近赤外の領域のごく一部までしか感度がない。さらにフィルムの製造元各社のあいだで設計がそれぞれ異なっており、最も人気があったコダックのHIE/HISシリーズのネガフィルムは最も広く赤外線領域をカバーして、波長950nmまで感度があった[3]。コダックHIE/HISフィルムは、アンチハレーション層がないために、ハレーションが起きるのが特徴だった。
赤外線が見せる世界は、私達が普段接している可視光の世界と若干違うものが現れる。最も顕著な特徴の一つが、ヒトの眼が黒く大きく見えることだ(例えばこの写真)。ヒトの眼球が赤外線を吸収してしまい、フラッシュの赤外線が反射・散乱されないからだと言われている。一般的に「ヒトの眼球の大部分を構成する水が赤外線を吸収する」と言われるのだが、赤外線フラッシュ写真に関して言えば、眼球が持つ900~1100nmの赤外線吸収が引き起こすのだろう[4]。赤外線写真について著書のあるローリー・クラインは、フラッシュを使用しない赤外線写真で起きる眼の黒化について、眉と眼窩が直射日光を遮るため僅かな明暗の差が生じ、赤外線写真ではそれが拡大されるとしている[5, p.42]。この理論では被写体の正面からフラッシュを浴びせる赤外線フラッシュ写真でも眼の黒化が起きる理由が説明できないが、たしかに眼窩の構造が原因で十分な赤外線量がフィルムまで戻ってこない可能性もあるだろう。
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ヒトの眼球と水の赤外線吸収スペクトラム Gea60 : 眼球([6]に記載されているもの) vitreous : 硝子体 aqueous : 房水 lens : 水晶体 cornea : 角膜 water : 水(参照用) [4]より |
赤外線フラッシュ写真のもう一つの特徴は、赤外線は皮膚の下にかなり潜り込むので、毛根が写るという点だ。ウィージーのこの写真は赤外線の性質をよく表している。この男性はあきらかに頭頂部が禿げており、側頭~後頭部はきれいに剃っているのだが、その側頭~後頭部が暗くくすんでいる。下の図は皮膚のどの深さまで光が潜り込むかを示している。近赤外線が毛根を含めた奥深くまで入り込んでいるのが分かる。可視光にせよ、赤外線にせよ、写真に反映されるのは、潜り込んだ上にさらに反射・散乱されて戻ってきた光である。可視光の写真は皮膚の表面で反射されたものが大部分を占めるのに対して、近赤外線を使った写真では、毛根くらいまで潜り込んだ光がフィルムまで戻ってくる。ウィージー写真に写された男性は、剃ったところの毛根が赤外線を吸収してしまってフィルムまで戻ってこないため、暗くなっているのである。
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光の各成分が皮膚の下どこまで潜り込むかを示した模式図 NIRが近赤外 [7]より |
ちなみに、髪が黒く見えるのは髪に含まれる色素メラニンが可視光を吸収するからだが、メラニンは赤外光もかなり吸収する。
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メラニン、オキシヘモグロビン、水の可視光~近赤外吸収スペクトラム [8]より |
可視光で見た《見た目》など、ごく表面的な情報にすぎない。
新聞カメラマンたちは赤外線フラッシュ写真で夜の人々を撮影したが、1940年代末の一時期、ハリウッドのカメラマンたちは赤外線フィルムを使用して昼の風景を夜に見せかける、“Day for Night” の撮影をしていた[9]。このテクニック自体は1920年代から存在したが、『アパッチ砦(Fort Apache, 1949)』以降、ちょっとした流行になった。特にユニバーサルの製作主任、ジム・プラットがスタジオで撮影される作品に次々と導入していったようである(1)
。ウィリアム・キャッスル監督の”Johnny Stool Pigeon (1949)”
はその一連の作品のうちの一作で、メキシコの国境の町、ノガレスのシーンをほぼすべて赤外線フィルムでロケーション撮影している。
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“Johnny Stool Pigeon (1949)”の赤外線フィルム撮影 d. William Castle dp. Maury Gertsman |
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Johnny Stool Pigeon (1949)“の1シーン Howard Duff Dan Duryea |
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“Johnny Stool Pigeon (1949)” 上のシーンの撮影の様子[10] |
大気中の粒子は波長の短い光を散乱していて、ゆえに空はヒトの眼には青く見える。一方で、波長の長い赤外線領域の光は散乱されにくく、赤外線フィルム撮影では、晴れた空が暗く映る。これが、“Day
for Night”
撮影に赤外線フィルムが使用された最大の理由だ。だが、ここでも赤外線領域でヒトの眼には見えていない物理現象が数多く起きている。最も顕著に違うのは葉緑素を含む植物の葉だ。植物の葉は可視光域の光を極めて効率よく吸収しているが、近赤外線はほとんど反射している。“Johnny
Stool Pigeon” や “Abandoned (1949)”
で林や並木の葉が白く写っているのは、植物のこの性質によるものだ。
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“Johnny Stool Pigeon (1949)” |
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“Abandoned (1949)” d. Joseph H. Newman dp. William H. Daniels |
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植物の典型的な可視光~近赤外~赤外の反射スペクトラム [11]より |
新聞カメラマンたちの赤外線フラッシュ写真は、フラッシュが発する赤外線が対象物に当たって反射される様子を撮影する。《夜》を《夜》として映し出す手法だ。しかし、赤外線フィルムを使った
“Day for Night”
撮影は、太陽光が照らす風景から赤外線だけを抽出している。そのやり方で、監督や撮影監督は《昼》を《夜》だと嘘をつこうとした。空には鮮明に縁取られた雲が浮かび、舗道には並木の蔭が映り、葉は白く浮き上がっている。太陽までもが満月にすり替えられる。この偽ジョルジョ・デ・キリコの世界は、当時の観客に対しては《夜》としての説得力も魅力もなかったのだろう。すぐに廃れていってしまった。
だが、赤外線フィルムで撮影された映像を《夜》の風景だと思う必然性はどこにもない。“Johnny
Stool Pigeon”
のノガレスの町の風景は、ヒトにはふつう見えない世界なのだ。形式的な異化
defamiliarization
によって私たちが慣れ親しんだ可視光の認知を混乱させるやり方だ。この認知の混乱を新しい国家の再定義に利用しようとしたのが『怒りのキューバ(Soy
Cuba,
1964)』である。赤外線フィルムで撮影されたサトウキビの《白》は窓からまかれる革命のビラの《白》と呼応するはずだったが、モスクワは好感を示さなかったと言われている。この作品を発見したのが、アメリカのシネフィルたちという暢気な有閑階級だったのは、彼らが映画を知覚のゲームとしてとらえているからだろう。
ヒトの網膜が知覚しているものは、眼の前にあふれているすべてのエネルギーのなかのわずかな部分でしかない。そう考えると、ヒトの思想や思考なんて誤謬だらけに決まっているではないか。
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“Soy Cuba/I Am Cuba (1964)” d. Mikhail Kalatozov c.Sergey Urusevsky |
Notes
(1)^ この時期のユニバーサルの作品で赤外線フィルムを用いて撮影した作品として、“Sword
in the Desert (1949)”、 “Johnny Stool Pigeon (1949)”、 “Illegal Entry
(1949)”、 “Take One False Step (1949)”, “Abandoned (1949)”が挙げられる。
References
[1] W.
W. Kelley, “Making Modern Night Effects,”
American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 11, Jan.
1941.
[2] A.
A. Finney, “Weegee and Kubrick: The Infrared
Connection.” https://www.infrared100.org/2020/07/weegee-and-kubrick-infrared-connection.html.
[3] R.
Williams and G. Williams, “Reflected Infrared
Photography: Films.” https://medicalphotography.com.au/Article_03/02e.html.
[4] T.
J. Van Den Berg and H. Spekreijse, “Near Infrared Light
Absorption in the Human Eye Media,”
Vision research, vol. 37, no. 2, pp. 249–253, 1997.
[5] L.
Klein, Infrared Photography: Artistic
Techniques for Digital Photographers.
Amherst Media, 2016.
[6] W.
J. Geeraets, R. Williams, G. Chan, W. T. HAM, D. Guerry, and F. Schmidt,
“The Loss of Light Energy in
Retina and Choroid,” Archives of
ophthalmology, vol. 64, no. 4, pp. 606–615, 1960.
[7] C.
Ash, M. Dubec, K. Donne, and T. Bashford, “Effect of
Wavelength and Beam Width on
Penetration in Light-Tissue Interaction Using
Computational Methods,” Lasers Med Sci, vol. 32,
no. 8, pp. 1909–1918, 2017, doi: 10.1007/s10103-017-2317-4.
[8] I.
B. Allemann and J. Kaufman, “Laser
Principles,” in Basics in Dermatological
Laser Applications, vol. 42, Karger Publishers,
2011, pp. 7–23.
[9] “Necsus | Beyond human
vision: Towards an archaeology of infrared images.”
https://necsus-ejms.org/beyond-human-vision-towards-an-archaeology-of-infrared-images/.
[10] L.
Allen, “They Do It with
Infrared,” American Cinematographer, vol.
30, no. 10, p. 360, 1949
[11] M.
T. Kuska, J. Behmann, and A.-K. Mahlein, “Potential of
Hyperspectral Imaging to Detect and
Identify the Impact of Chemical Warfare
Compounds on Plant Tissue,” Pure and
Applied Chemistry, vol. 90, no. 10, pp. 1615–1624, 2018.
『市民ケーン』と空間の音響 (Part IV)
Part Iはこちら
Part IIはこちら
Part IIIはこちら
演説の時代
『市民ケーン』のマジソン・スクエア・ガーデンのシーンとオペラのシーンにはある共通項がある。いずれも、広い空間で、マイク/アンプ/PAを使わずに声を発するという演技をしている点だ。
この映画では、ケーンが州知事に立候補したのは1916年の設定になっている。PAシステムが普及する前のことである。マジソン・スクエア・ガーデンの選挙演説のシーンでは、チャールズ・フォスター・ケーン(オーソン・ウェルズ)はマイクを使わずに自らの<肉声>を大ホールに響かせている。1916年といえば、スタンフォード・ホワイトが設計した第2期(1890 – 1924)のマジソン・スクエア・ガーデンにあたる。舞台となったアンフィシアターは床面積6000平方メートルを超える巨大なホールだった。
PAシステムを使わずに演説をするというのは、どんな感じだったのだろうか?
米国第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、20世紀初頭、演説家として名を馳せていた政治家の一人だ。彼の演説シーンはサイレントのニュース映像として残されている。多くの場合、戸外で、おそらく多いときには数百人から千人以上の聴衆を相手に声を張り上げている。特に米国国会図書館所蔵のこのフィルムクリップの1:08~1:20の演説の様子をみていただきたい。手前で演説をしているのがルーズベルトだが、その奥、壇上で聴衆に向かって指示をしているように見える男性がいる。何が起きているのだろうか。
セオドア・ルーズベルトのフィルムクリップ(米国国会図書館) |
セオドア・ルーズベルトの選挙活動を報じる新聞記事を読むと、当時の演説がいかに混沌としていたかがわかる。支持者たちはいつまでたっても拍手をやめないし、中には壇上に上がって煽り始める者もいる。聴衆はすぐに声を合わせてスローガンを繰り返す。ようやくおさまって演説が始まっても常に野次が飛ぶ。おそらくフィルムクリップの男性は、騒がしく声を上げたり演説を妨害している者に注意しているのだろう。当時の新聞記事はルーズベルトの演説内容とともに、それに返された野次も記録している。
セオドア・ルーズベルトの演説の様子を伝える記事[1]。緑下線は聴衆からの発言。 |
つまり、PAシステムが導入される以前は、いくら演説者の声が大きくても聴衆の野次と大して変わるわけではなく、<やりとり>が必然的に存在する仕組みだったのだ。これは、アメリカの二大政党、民主党と共和党の全国大会(National Convention)についての報道を読むとそれがより鮮明に表れている。1904年、PAシステムが登場するはるか以前の共和党全国大会はシカゴ・コロシアムで開催されているが、始まる前から議長がギャベルで叩き続けても一向に静かにならない、各州から選挙人が登場する度に大騒ぎになる、意見が一致せずに割れると収集がつかない、といった具合である[2]。
また、上記のフィルムクリップで2:00~2:08あたりの映像を見てほしい。これは屋外での演説だが、ルーズベルトの声がいくら大きく通る声でも、後ろのほうの聴衆まで聞こえたとは考えにくい。演説者の直ぐそばで野次を飛ばす人たちもいれば、遠くの方から演説の内容はともあれ<イベントに参加した>という人もいたのだろう。当時は翌日の新聞に演説の全文が掲載されることも多く、多くのひとは演説の内容を遅れて知ったのではないか。
だが、PAシステムとラジオの登場によって、その様相が少しずつ変わっていく。
アメリカの政治家でPAシステムを最も有効に使用した最初の人物は、第29代大統領ウォレン・ハーディングである。彼は1921年の大統領宣誓式、第一次世界大戦終戦記念日の演説をPAシステムとラジオを駆使しておこない、好評を博している[3], [4], [5]。これらはどちらも屋外で行われる式典で、PAシステムの効果は絶大だったに違いない。
屋内で開催される大規模な政治集会といえば、前述の共和党、民主党の全国大会である。1920年代の両党の全国大会はベルシステムズが新技術を披露する格好の場所となっていた。まず、前述のハーディングの大統領宣誓式の前年1920年に、共和党全国大会でベル・テレフォン・システムズが大規模政治集会としては初めてPAシステムを設置した[6]。1924年にはやはりベルシステムズが全国大会のラジオ中継の技術を提供、アメリカ全土で両党の全国大会の進行を生放送で聞くことができるようになった。これは今で言う「パブリック・ビューイング」のように、大型の施設を開放、PAシステムを設置してラジオ放送を流すという仕組みだった。
1930年代に入ると、<拡声>技術と政治はより深く結びついていく。トーキー映画の登場はそのひとつだ。また政党がラジオ放送のスポンサーとなり、自分たちの政策や主張をラジオ番組として流すようになったことも挙げられる。1932年のアメリカ大統領選では、ハーバート・フーヴァーとフランクリン・D・ルーズベルトが、PA装置、トーキーのニュース映画、ラジオといったさまざまな<声の拡大装置>を用いて戦った。民主党全国大会のラジオ放送は、NBC、CBSそれぞれがのべ50時間を超える放送を行ない、政情変化をリアルタイムでつたえる一大イベントとなった。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-mqWhDwAFmk&w=560&h=315] |
民主党全国大会(1932年6月) |
このフィルムクリップに写っているNBCのロゴの入ったパラボラは新型のマイクである。また、パラボラの横に天井から吊り下げられたコードがうっすらと見えるが、これはCBSが準備した<ラペルマイク>のケーブルだと思われる。どちらも<フロアにいる人々の声をとらえる>ために準備された。
NBCのパラボラマイク(左)とCBSのラペルマイク(右)。ラペルマイクは右から二人目のベルボーイの襟の下についている円盤状のもの。このマイクのケーブルは会場の天井に架けられていて、ベルボーイはフロアをマイクをつけたまま自由に移動できる。各州の選挙人代表などがこのラペルマイクに向かって話し、その声がコンソールからラジオ放送に送出される[7]。 |
この<会場の声をひろう>マイクは、PAシステムの強力な増幅能力と対になっている。パラボラマイクはフロア(にいる聴衆)の<ノイズ>をとらえるために設置され[8]、ラペルマイクはフロアにいる<重要人物の意見>を集めるために準備された。セオドア・ルーズベルトの時代には、無名の聴衆からあがる<声>は大統領候補の演説とともに記録されるものだったが、PAシステムは、壇上の人物の声を圧倒的に増幅し、フロアにいる人々の声をかき消して<ノイズ>にしてしまったのだ。また、1920年代には演説に使用される技術開発はベルシステムズが担っていたが、1930年代になって、NBC、CBSといったメディアが担うようになっている点も示唆的だ。メディア企業は広告料によって経営がなりたっている。お金を払っている人の声が最大限に増幅され、それを享受している側の声はノイズとして処理されるようになった。
マイクの前に立つ者の声を何万倍にも増幅し、聴衆の発言をかき消す。このような特質を持つPAシステムとファシズムの台頭が軌を一にしているのは偶然ではないのかもしれない1)。ヒトラーの、演説を静かに始め、だんだんと声を張り上げていくという演出が効果を奏したのも、PAシステムのおかげである。
戦前ハリウッド映画に見る演説
フランクリン・D・ルーズベルトが大統領に就任した1933年、MGMは『獨裁大統領(Gabriel over the White House, 1933)』を公開した。このなかで、架空のハモンド大統領がPAを使わずに演説するシーンが登場する。
『獨裁大統領』よりハモンド大統領(ウォルター・ヒューストン)の演説 |
この演説のシーンは2つの点で興味深い。まず、ミディアム・ショットからロング・ショットに切り替わると、声の音響特性が変化する点だ。ミディアム・ショットでは声はダイレクトで反響音が少ないが、ロング・ショットでは声が<遠く>なり、反響音が言葉を聞き取りにくくしている。これはPart Iで紹介した『アギー・アップルビー』の例と同じく、撮影のセットアップ(ミディアム/ロング)に合わせてマイクのセットアップが変わったからだろう。このシーンは、Part IIIで引用したフランクリン・L・ハントの「ショットによっては反響音を加えたほうが自然に聞こえる」という見解を実証的に見ることができる例だ。確かに、各々のショットだけを取り出すと、カメラの位置と音響の性質が合致していて、あたかもそれぞれの場で聞いているかのような錯覚を生み出す。ところが、このショットが編集によって繋げられると、その唐突な変化が目立ってしまう。
もう一つの興味深い点は、前述のPAシステムを使わなかった時代の演説の例のとおり、聴衆が言葉で反応する点だ。聴衆の音は<ノイズ>ではなく、<声>であり、演説の一部なのである。
『獨裁大統領』の公開の2年後、エドワード・スモールが製作、ユナイテッド・アーチスツが配給した『近代脱線娘(Red Salute, 1935)』にも同様にPAシステムを使わない演説のシーンが登場する。ここでもミディアム・ショットとロング・ショットが繋げられているのだが、『獨裁大統領』のような顕著な音響の変化は起きていない。これはリレコーディングのおかげだ。音響の質が撮影のセットアップに制限されず、編集によってなめらかにつながるようになった。
『近代脱線娘』より演説のシーン |
日常的な政治の場に、PAシステムとラジオが平行に介在するようになると、当然それは映画にも登場するようになる。
<拡声の力>を表す2本の映画が1940年と1941年に公開された。
チャールズ・チャップリンの『独裁者(The Great Dictator, 1940)』に登場するヒンケルの演説のシーンは、音響が実に緻密に設計されている。当初、ヒンケルの演説を聞いている私達は、この音声が
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=isLNLpxpndA?start=63&w=560&h=315] |
『独裁者』よりヒンケルの演説(YouTube) |
フランク・キャプラ監督の『群衆(Meet John Doe, 1941)』の雨の中の政治集会のシーンは、まさしくPAシステムによる<拡声の力>をコントロールする者が政治的な力を持ちうるということを強烈に表現している。ノートン(エドワード・アーノルド)がジョン・ドー(ゲーリー・クーパー)の<嘘>をあばき、聴衆の信頼をあっという間に奪ってしまう。PAの音は集会の会場にこだまし、ノートンの大声の非難が響きわたる。ノートンはジョンを失墜させると同時に、PAシステムのケーブルを切断させる。ジョンは自らの弁明を<拡声>する術を失い、セオドア・ルーズベルトの時代に戻されてしまう。彼は聴衆からの野次や怒号に音量で押し黙らされてしまう。ジョンの戸惑う声の音量は、映画のシーンの音量として決して小さいわけではない。
『群衆』より 拡声機能を失うジョン・ドー |
ここまで見てきた演説とPAの歴史をふまえると、『市民ケーン』の選挙演説のシーンは果たして1916年の状況を
『市民ケーン』の音響設計の<革新性>は、エコーを使って空間を表現したことではない。エコーチェンバーを使ってさまざまな空間の音響を表現するテクニックはすでに1930年代から存在し、各スタジオもエコーチェンバーを音響部門に設置してさまざまな場面で使用していた。映像に合わせてリバーブの度合いを変えるというアイディアも、トーキー導入当初から議論の争点だった。『市民ケーン』の音響設計が当時の状況から見て突出している点は、空間の特性についての映像と音響の表現が、単なる場所の描写にとどまらず、観る者をストーリーに引き込むための仕掛けとして機能していることだろう。
Notes
1)^ ヒトラーやゲッベルスは自分たちの声の圧倒的な支配力を誇示したが、ムッソリーニは必ずしも聴衆を一方的に威圧できていたわけではなかったように見える。いつまでたっても静まらない聴衆に手を焼いていたり(リンク)、聴衆からの言葉に思わず反応して笑ってしまったり(リンク)する様子が記録されている。
2)^ 第三期のマジソン・スクエア・ガーデンの音響、特に反響音特性を調査した研究には、もともとスポーツアリーナとして設計された大ホールがいかに音響的に劣っていたかが記されている[11]。話者の肉声ではほとんど聞き取ることができず、それを補うためにPAシステムを導入したが失敗、再度別のPAシステムを導入するものの、それでも結果は決して満足ゆくものでなかったという。『市民ケーン』が想定しているのは第二期のマジソン・スクエア・ガーデンだが、状況は似たようなものだったのではないだろうか。
References
[1]^ “Col Roosevelt Speaking From a Baggage Truck at the Railroad Station in Brockton,” The Boston Globe, Boston, p. 9, Apr. 28, 1912.
[2]^ “Roosevelt, Fairbanks, and a Long Whoop,” The Baltimore Sun, Baltimore, Maryland, p. 1, Jun. 24, 1904.
[3]^ “Inaugural to be Broadcast to All Parts of the Country,” The New York Times, New York, p. 186, Mar. 01, 1925.
[4]^ “Harding Used Loud Speaker,” New Castle Herald.
[5]^ “Big Amplifier Armistice Day,” Chehalis Bee Nugget, Chehalis, Washington, Nov. 11, 1921.
[6]^ “At the National Conventions,” The Manmouth Inquirer, Freehold, New Jersey, p. 4, Aug. 12, 1920.
[7]^ M. Codel, “Radio ‘Scoops’ World at Chicago Stadium,” Broadcasting, vol. 3, no. 2, p. 7, Jul. 1932.
[8]^ M. Codel, “Political Campaigns to Boom Broadcasting,” Broadcasting, vol. 2, no. 12, p. 13, Jun. 1932.
[9]^ J. McBride, Frank Capra: The Catastrophe of Success, Illustrated edition. Jackson: Univ Pr of Mississippi, 2011.
[10]^ L. T. Goldsmith, “Re-recording Sound Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 39, no. 11, pp. 277–283, 1942.
[11]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.
『市民ケーン』と空間の音響 (Part III)
Part Iはこちら
Part IIはこちら
戦前ハリウッドにおける<反響音>
ラジオ放送や映画製作で、エコーチェンバーの利用が拡大していく経緯を追っていると、リバーブがほしいときには空室に音を響かせてミックスしていた、という単純なシナリオのように見えてしまうかもしれない。だが、実際には極めて科学的な議論のもとに開発が進められていた。特にハリウッドにおける映画製作の場合、リバーブの問題は多くの要素が複雑に絡み合っていた。
トーキーが導入された直後に、ジェネラル・エレクトリックのエドワード・W・ケロッグが発表したリバーブに関する考察が、1930年代初頭のハリウッドが直面していた音響技術の問題をよくあらわしている[1]。ケロッグが問題にしたのは、撮影・録音がおこなわれる部屋の反響特性が、全体的な再生音量や言葉の聞き取りやすさに与える影響だった。
セリフの場合の好ましい反響音とは、音の増幅効果と音の重なり合いのあいだでどこに妥協点を見出すかという問題である。
エドワード・W・ケロッグ
ケロッグはセリフの録音においては、十分な音量をドライ(直接音)で確保して、ウェット(反響音)はできるだけ抑制するべきだと提案している。なぜなら、反響音はセリフの聞き取りにとって悪影響しか及ぼさないからだ。当時は撮影時に録音したセリフがそのまま完成フィルムのサウンドトラックに使用されていた。撮影セットは音響面において最適化されていないし、マイクはカメラに映り込まないように離して設置する必要がある。ラジオのように基本的にデッド(反響音に乏しい)なスタジオでマイクのそばで発話するのとは、状況が大きく異なるのだ。当時のマイクは指向性に乏しく、周囲のアンビエント音をピックアップしてしまう。セリフを聞き取りにくくする反響音が問題視されたのはそういう背景があった。
だが、ほぼ同時期に反響音の不在は不自然だという意見もあった。
トーキー映画の録音では、マイクロフォンを話している人物の数フィート以内に設置すると最も聞き取りやすいというのが一般的な意見だ。だが、このようにして得られた音声の質は、中程度からロングのショットで使われた時に何かが欠けているように思われている。この不自然さはセットの壁から反射された音が存在しないために起こるもので、話し手の声そのものにこの反射音を加えると、通常の聴衆条件下、普通の部屋で音質を模倣することができる。
フランクリン・L・ハント[2]
注目したいのは、シーンが話者とどのような距離関係にあるか(クローズアップ/ミドルショット/ロングショット)と反響音の程度に関連性を見出している点だ。ロングショットで反響音がないと<不自然>だと指摘している。
だが、<聞き取りやすさ>とか<不自然>という概念は曖昧としている。それを技術で解決するためには、少なくとも明確な、測定可能なものをお互いに共有する必要がある。当時、他国の映画産業と比べて、ハリウッドが特異だった点の一つに、技術の標準化に極めて熱心だったということが挙げられる。スタジオ間の競争は非常に熾烈だったにもかかわらず、エンジニアたちが同じ言語を話し、同じものさしを持てるようにアカデミーや学会が積極的に活動した。音響の分野も例外ではない。米国商務省規格基準局の研究者たちによる反響音の標準測定法の提案[3]、マジソン・スクエア・ガーデンの反響音の周波数特性の測定結果の報告[4]、材料の音吸収特性を測定するためのチェンバーの開発[5]、小型反響音測定装置[6]と1930年代から40年代を通じて技術開発の重心が<測定>や<標準化>におかれているのがよく分かる。
音吸収特性測定用チェンバー[5] |
また、実践をとおして理論の検証が継続的におこなわれているのも特徴的だ。例えば、1938年に建設されたリパブリック・ピクチャーズのダビング/スコアリング・スタジオは、当時もっとも音響的に優れたスタジオとして有名になったが、この設計は当時の音響理論を積極的に取り入れ、検証しつつおこなわれている[7]。当時、すでにウォレス・セイビンの理論式が不十分であることが指摘されており、この設計検証には数年前にドイツで発表されたストラットの理論も応用されている。もともと、ウォレス・セイビンの理論が、原始的ではあったものの極めて入念で精微な実験を通して立てられたものであるだけに[8]、音響エンジニアリングの分野では理論と実験の両立が常に求められていたのかもしれない。
もう一点忘れてはいけないのが、映画館の音響特性である。サイレントからトーキーに移行した際、それまでの映画館が<無声映画上映時の音楽演奏>に照準を合わせて設計されていたことが、トーキーでの音設計をさらに複雑にした。すなわち、残響が意外に長い劇場が多いのである。だからこそ、もともとの録音に残響が含まれていると、より聞き取りにくくなる、と懸念された。また、スピーカーを設置する位置や、スピーカーそのものの特性、音量設定の標準化(録音フォーマットの混在、スタジオ間の録音レベルの差などに合わせて劇場側が音量を調節する必要があった)についても試行錯誤がくりかえされていく。
このような環境が、ハリウッド映画の音響の可能性をひろげるのに非常に貢献したのは間違いない。1930年には、話し言葉とオーケストラで反響音の扱いは違うべきか否かという論争を繰り広げていたのだが、わずか9年で30Hzから7KHzまでの広帯域にわたって残響をほぼフラットに抑制するスタジオを設計・建設し、それを測定して業界に共有するところまで進歩したのである。
しかし、これらの研究は学術的関心によるものではないし、進歩は人類の知の地平を広げるために推し進められたわけではない。ハリウッドの映画産業でのテクノロジーの存在理由は「物語を語る」ためにある。
その存在理由を非常によくあらわしているエピソードがある。<Part I>で紹介した『市民ケーン』のなかのマジソン・スクエア・ガーデンでの演説のシーンのリレコーディングのときの話だ。サウンド・エンジニアのジェームズ・G・スチュワートは、オーソン・ウェルズとの仕事の<自由さ>に感化され、このシーンでの残響音の設計に夢中になってしまった[9]。空間の大きさを強調しすぎてしまったのだ。このテストを聞いたオーソン・ウェルズはスチュワートの方を振り向いてこう冗談を言った。
君は僕より大根役者だね!
オーソン・ウェルズ
これは、音の設計が<演技>をしているという意味だ。スチュワートは「音は演技の邪魔をするものであってはならない、よりよくするものであるべきだ」と語っている。
『市民ケーン』で、リバーブが重要な役割を果たしているシーンをもうひとつ挙げよう。ケーンの二人目の妻、スーザンが主役をつとめるオペラのオープニングだ。このシーンはリーランドの回想とスーザン本人による回想で2回登場する。リーランドの回想のほうは『市民ケーン』の批評で必ずとりあげられる有名な移動ショットである。上昇するカメラがとらえる舞台の上の空間は、実は美術と特殊プロセスのアマルガムによって見事に作り出されたものなのだ。音響設計においても、リレコーディングによって生み出された空間の錯覚が効果的である。スーザンが歌い始める瞬間にはほぼダイレクトなドライ音であるが、カメラが上昇するにつれてリバーブ音の比率が大きくなり、最後はほぼウェットなリバーブ音だけになっていく。あたかもカメラの位置で音を聞いているかのような錯覚が生み出される。スーザンの回想のほうもカメラの位置と音が深く関係している。幕が上がるとき、映像はスーザンをステージ後方からとらえているが、彼女の歌声はほぼウェットなリバーブ音だけだ。PAを使用しないステージに立った方はおわかりになると思うが、舞台から客席に向けて発せられた音(直接音)は舞台後方には届かない。カメラの位置では反響音だけが聞こえるだろう。作曲のバーナード・ハーマンは、このオペラのオープニングが、物語上非常に重要だったと強調している。ポーリーン・ケールの「オペラ『タイス』の使用料を払えなかった」という記述を一蹴しながら、このオペラは「ウェルズが求めたんじゃない、『ケーン』が求めたんだ」と述べている。スーザンのオペラ歌手としての決定的な実力不足をわずか1分足らずで見せなければならない。
このオペラのシークエンスはつぶさに見てほしい。なぜならこれは音楽が映画のために作曲されなければならなかったケースだからだ。私はこれ以外の方法でこの問題を解決できたとは思えない。例えば「サロメ」のラストをもってきても似たような効果が得られたかもしれないが、それではスーザンがオペラを
歌い始める 様子を描けない(「サロメ」のオープニングは誰でも歌える)。問題は「スーザンは出だしを切り抜けられるか?」だ。それが映画が私に仕掛けてきた問いだった。バーナード・ハーマン[10]
この「スーザンの決定的な歌唱力不足」は、物語の流れにそって段階的に明らかになっていく1)。最初のリーランドの回想では、映画を見ている私達がスーザンの歌をじっくりと聞くことができる前にリバーブ音になってしまう。だが、上昇していったカメラがとらえるのは舞台の裏方が鼻をつまむ様子だ。次のスーザンの回想では、最初はやはりリバーブ音から始まるのだが、明らかに退屈したリーランドの様子や観客の嘲笑的な私語によって、スーザンの力のない歌声がかき消されていく。そしてフィナーレではカメラが正面からスーザンをとらえ、ダイレクトな音響によって、スーザンの細く共鳴の少ない声質が
『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(リーランドの回想) |
『市民ケーン』より オペラの開幕シーン(スーザンの回想) |
このように反響音が物語を操作し、起伏を作ることに積極的に関わるように仕向けたのはオーソン・ウェルズであるのは間違いないだろう。ウォルター・マーチが「反響の要素を繊細に使いこなして、物語を語る」と述べたのはこういうことだったのである。
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Notes
1)^ このオペラ「Salaambo」で実際の歌声を提供したのは、カリフォルニア出身のジーン・フォーワードである。バーナード・ハーマンは「スーザンが苦労するのは、彼女が歌えないからでは
References
[1]^ E. W. Kellogg, “Some New Aspects of Reverberation,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 14, no. 1, p. 96, Jan. 1930.
[2]^ F. L. Hunt, “Sound Pictures: Fundamental Principles and Some Factors Which Affect Their Quality,” The Journal of the Acoustical Society of America, vol. 2, no. 4, pp. 476–484, 1931.
[3]^ V. L. Chrisler and W. F. Snyder, “Measurements with a Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 479–487, 1932.
[4]^ S. K. Wolf, “The Acoustics of Large Auditoriums,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 18, no. 4, pp. 517–525, 1932.
[5]^ V. O. Knudsen, “Recent Progress in Acoustics,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXIX, no. 3, p. 233, Sep. 1937.
[6]^ E. S. Seeley, “A Compact Direct-Reading Reverberation Meter,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 37, no. 12, pp. 557–568, 1941.
[7]^ C. L. Lootens, D. J. Bloomberg, and M. Rettinger, “A Motion Picture Dubbing and Scoring Stage,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 32, no. 4, pp. 357–380, Apr. 1939, doi: 10.5594/J16557.
[8]^ W. C. Sabine, Collected Papers on Acoustics. Cambridge: Harvard University Press, 1922.
[9]^ J. G. Stewart, “The Evolution of Cinematic Sound: A Personal Report,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.
[10]^ B. Herrmann, “Bernard Herrmann, Composer,” in Sound and the Cinema: The Coming of Sound to American Film, E. W. Cameron, Ed. Pleasantville, N.Y. : Redgrave Pub. Co., 1980.
『市民ケーン』と空間の音響 (Part II)
Part Iはこちら
ラジオドラマの時代
オーソン・ウェルズが、デビュー当初、演劇とともにラジオドラマで注目を浴びるようになったのはよく知られている。特に1938年のハロウィンに放送された「宇宙戦争」の際のメディアの狂乱ぶりは有名だ。この「宇宙戦争」は、「マーキュリー放送劇場(Mercury Theatre on the Air, 1938)」というラジオドラマ番組枠で放送されたエピソードのひとつである。だが、この「宇宙戦争」は実際に聞いてみると、当時のラジオドラマの質と比較して特に秀でているとは言い難い。物語の導入部と終盤をモノローグで縁取るという構成はオーソン・ウェルズらしいアプローチだが、本編にあたる部分のインパクトをかなり弱めているのは否めない。ポール・スチュアートが効果音の制作(大砲の音や群衆の声など)を担当しているが、例えば当時人気だったホラードラマ番組「ライツ・アウト(Lights Out)」などと比べると独創性はあまり感じられない。「宇宙戦争」が極めて特殊なのは(そして、制作に関与していたジョン・ハウスマン、オーソン・ウェルズ、ポール・スチュアートらもリハーサルのあとで痛感していたことだが[1 p.393])<ニュース速報>というフォーマットで物語が駆動されるという点だ。それは、<ニュース速報>そのものだけでなく、<ニュース速報>が通常の番組に割り込むというダイナミクスや、<ニュース速報>のあとの空白の時間にショパンやドビュッシーのピアノ曲が流されるという不可抗力の不穏さも含む、駆動力である。マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言明を先取りして実践していたと言ってもよいだろう。
オーソン・ウェルズは、自ら率いるマーキュリー劇団のこの番組をCBSで担当する前から、ラジオドラマの人気俳優だった。タイム誌が製作した「ザ・マーチ・オブ・タイム(The March of Time, 1936 – 1938の期間出演)」のナレーションや、ミステリー番組の「ザ・シャドウ(The Shadow, 1937 – 1938)」の主人公ラモント・クランストン役などCBSラジオの人気番組を受け持っていた。
そのCBSは1930年代初頭から、実験的なラジオ番組を手掛けており、30年近くにわたって音の可能性に挑戦する演出家、脚本家、俳優、作曲家などを数多く輩出してきた[2]。
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 1 | 1931 |
The Columbia Experimental Dramatic Laboratory, Season 2 | 1932 |
Columbia Workshop | 1936-1947 |
CBS Forecast | 1940-1941 |
26 By Corwin | 1941 |
An American In England | 1942 |
Columbia Presents Corwin | 1944-1944 |
Once Upon A Tune | 1947 |
CBS Radio Workshop | 1956-1957 |
このなかでも1936年からはじまった「コロンビア・ワークショップ(Columbia Workshop)」は、その革新的な実験性で最も成功したシリーズである。このシリーズを創り出したのは演出家のアーヴィング・ライス(1906 – 1953)だ。これ以前の「The Columbia Experimental Dramatic Laboratory」の録音は現存しないようだが、「コロンビア・ワークショップ」の録音は現存しているエピソードもあり、そのなかに1937年4月11日に放送された「都市の没落(The Fall of the City)」がある1)。アーチボルド・マクリーシュ原作の詩劇で、ハウス・ジェイムソン、オーソン・ウェルズ、バージェス・メレディスらが出演、アーヴィング・ライスが製作・主監督、バーナード・ハーマンが音楽を作曲、指揮している。この「都市の没落」がウェルズに多大な影響を与えたという指摘は多い[3][4 p.196][5 p.32]。
「都市の没落」はマクリーシュによる民主主義喪失の寓話である。これは当時ヨーロッパを覆い始めていたファシズムに対する警鐘として書かれた作品だ。<どこにでもある都市>の広場からのラジオの実況中継(オーソン・ウェルズがアナウンサー)という形式をとっている。物語は、<死から蘇った女性>の言葉を聞こうと広場に1万人もの市民が集まっているところから始まる。<死から蘇った女性>が現れ、言葉を発する。
支配者のいない者たちの都市に支配者が現れるだろう!
この<死から蘇った女性>が消えたあとも、市民たちの混乱と熱狂は止まない。そこへ<メッセンジャー>が到着する。<メッセンジャー>は<征服者>がこの都市に襲来すると告げ、「征服者にすでに征服された人々は恐怖におののいている」と警告する。次に預言者が現れ「征服者を平和的に受け入れよ」と告げる。市民たちはこの<征服者>の到来を待ち望んでいる。2人目の<メッセンジャー>が到着し、「征服された者たちは征服者を歓迎している」と告げる。やがて<征服者>が都市に入城し、市民たちは顔を覆い屈み込む。ラジオのアナウンサーだけが<征服者>が覆面を上げるところを目撃し、「覆面と鎧の下には何もない」と報告する。だが、もうすでにこの都市は<征服者>の手に落ちたのである。
このラジオドラマの制作は、当時としてはかなり大掛かりなものだった[5 p.30]。200人以上の出演者を擁して広場に集まる市民たちの声を再現した。この出演者の大部分はニュージャージーの高校やニューヨーク州立大学の演劇部の学生たちやアマチュアの俳優たちで、学生はボランティア、俳優には最低限のギャラが支払われたという。市の広場に集まった群衆の<音>を作り出すために、演出のアーヴィング・ライスはマンハッタンにある第7連隊武器庫(現在のパーク・アベニュー・アーモリー)のドリル・ホール(5000平方メートル)を貸し切り、その巨大な空間の音響を利用した。さらに、この学生たちが作り出す<群衆の声>を4枚のアセテート盤に録音、それぞれを武器庫内で異なる場所に配置して、生放送実演時に少し遅らせて再生した。このようにして、巨大な広場に1万人が集まっているという音の効果を編み出した[6]。
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「都市の没落」より 広場に集まった人々とラジオアナウンサー(オーソン・ウェルズ) |
最初のメッセンジャーを演じたのはバージェス・メレディスだが、彼の声は武器庫のドリルホールによく響いていて、十分な残響がある。この残響のおかげでメレディスが広い広場の市民に向かって発言しているように聞こえる。この「都市の没落」にみられるように、ラジオドラマでは、反響音を人工的に操作して、場所の大きさを想像させる手法がすでに確立していた。
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「都市の没落」より メッセンジャー(バージェス・メレディス) |
「都市の没落」第7連隊武器庫での収録の様子(Billy Rose Theatre Collection) |
「コロンビア・ワークショップ」を取材した「ポピュラー・メカニクス」誌の記事では、アーヴィング・ライスが<エコーチェンバー>を用いて他のエピソードも演出していることが記されている。エコーチェンバーは広い何もない部屋で、一方の端にスピーカー、もう一方の端にマイクを設置して、スピーカーから発せられた音が部屋の中で反射する様子をマイクで拾う仕組みである。元の音にこの反響音をミックスして、聴取者がセリフの内容を容易に判別しつつ、音の発生している場を容易に想像できるような音設計がなされていた。
「コロンビア・ワークショップ」で使用されていたエコーチェンバー[6] |
エコーチェンバーとリバーブの歴史
多くの文献や記事で、リバーブを人工的に作り出した最初の例として挙げられるのが、1947年にリリースされたハーモニキャッツの「ペグ・オ・マイ・ハート(Peg ‘o My Heart)」という曲だ(YouTube)。これは、ビル・パットナムのユニバーサル・スタジオで録音された。スタジオのトイレにスピーカーとマイクを設置してリバーブの効果を作り出したと言われている。だが、この曲の場合、リバーブは<自然な音響>を模倣するためではなく、明らかに<人工的な音響>を作り出す目的で使用されている[7 p.143]。<自然な音響>を模倣するという目的が達せられたかどうかは別にしても、リバーブを人工的に作り出すことはすでに1930年代にはおこなわれていた。前述のようにラジオ業界では、1930年代にすでにエコーチェンバーを用いてリバーブの効果を得るのはすでに一般的になっており、楽曲の録音でさえ、リバーブを人工的に作り出した例は、1937年にさかのぼることができる。ジャズ・バンドのレイモンド・スコットがやはりスタジオのトイレを使ってリバーブ効果を作り出している[8]。レイモンド・スコット・クインテットの1937年発表作「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部と終盤のピアノはこの方法で録音されたものだろう2)。
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レイモンド・スコット「Reckless Night on Board an Ocean Liner」の導入部 |
お気づきの方もいるだろうが、<リバーブ>と<エコー>は現代の音響工学においては違う現象を指している。だが、20世紀前半にはエンジニアのあいだでも<リバーブ(reverberation)>と<エコー(echo)>は相互互換的に使用されていて区別されていない。ここでは現在使用されている<エコー(音が反射によって遅延して戻ってくること)>の意味ではなく、<リバーブ(音が構造物などによって反射を繰り返し、連続的な遅延時間と減衰をともなって響くこと)>として記述していく。そのため、ドライ(原音)とウェット(効果音)という用語も、リバーブのそれを指していると思ってほしい。
では、空間をもちいて人工的にリバーブを作り出す方法、エコーチェンバーはいつ頃から登場したのだろうか。
私が調査した限り、ラジオ放送におけるエコーチェンバーの使用に関する最も古い記述は、1926年9月にロンドンのイブニング・スタンダード紙に掲載されたBBCに関する記事だ。
数ヶ月前、スタジオの音響実験の実施中にある発見があった。それまで不可能と思われていたことの多くが、新スタジオの隣に設置された「エコーチェンバー」によって可能になったのである。さらに、この<エコー>の具合はエコーチェンバーの大きさによって制御できる。場合によっては元の音よりも大きくすることもできるのだ。
イブニング・スタンダード紙 1926年9月21日[9]
この記事からおよそ4年後にマンチェスター・ガーディアン紙がより詳細に報じている[10]。この記事によれば、リアリズムを達成するために<エコー>の長さを音楽の種類によって調整しなければならないという。例えば、楽器独奏や室内楽の場合は1秒から1秒半ほどの<エコー>をかけて、大きな部屋で演奏しているような錯覚を作り出すことができる。交響楽の場合には、同様の効果を得るためには2秒から3秒が必要で、もし大聖堂で演奏しているような効果を必要とする場合には5秒から6秒が必要になるという。BBCでは放送時にエコーチェンバーを用いてこのようなリバーブを作り出していた。「もちろん大ホールの音響効果を複製することはできないが、この模倣は錯覚を作り出し聴取者をだますには十分だ」とくくっている。
このBBCの技術がアメリカに輸入されたのは1931年から32年のことである。
きっかけは、ラジオ番組の国際化だった。コロンビア・ネットワーク(CBS)のトップ、ウィリアム・S・パーレーが、大西洋を超えたラジオ番組放送網を準備するためにヨーロッパ各国のラジオ放送局を訪問した。イギリス、フランス、オーストリア、ハンガリー、ドイツ、イタリアの各国から番組を輸入する一方で、アメリカのラジオ番組もヨーロッパで放送されるようになるとAPが報道している[11]。この段階では生放送ではなく、「再放送」が計画されていたようだ。この訪問のなかで、イギリスとドイツのエコーチェンバー技術が紹介されている。
翌年の1932年、ニューヨーク・ワールド=テレグラムのラジオ制作編集担当、ジャック・フォスターがロンドンのBBCを訪問、BBCラジオの番組制作状況を報告している[12]。BBCでは、ラジオドラマ制作の際に、4つの別々のスタジオを用いて、俳優の演技、オーケストラの生演奏、効果音、アセテート盤による追加音再生がそれぞれ同時におこなわれ、エンジニアがその4つの音源をコンソールでミキシングして放送に送出していた。この際にエコーチェンバーも利用され、コンソールからリバーブ効果を制御できるようになっていたという。フォスターは、演技者、効果音、音楽の生演奏がすべて一つのスタジオでおこなわれているニューヨークの放送局との違いに驚いている。
1933年にニューヨークのラジオ・シティが完成するが、それに先立って、NBCのエンジニア達がエコーチェンバーを開発したことが報じられている[13]。これは1932年の新技術として、リボンマイク、パラボラマイクとともに紹介されている。このエコーチェンバーは、ラジオ・シティに移る前の旧スタジオに設置されたものだろう。ブロードキャスティング誌によれば、12平方フィートのエコーチェンバーにスピーカーとマイクが設置され、リバーブ効果を施すことができるようになっていたようだ[14]。
このNBCの旧スタジオでのエコーチェンバーによるものと思われる録音が残っている。当時、NBCラジオの人気番組だった「ターザン(Tarzan of the Apes, 1932 – 1934)」の第52話である3)。「ターザン」は当時最も人気のある番組のひとつで、NBCのネットワークはアメリカ全土の提携局に生放送ではなく、アセテート盤による録音(electrical transcription)で配給していた。背景には、各地方で番組のスポンサーが異なり、そのスポンサーのニーズに合わせて放送時間帯を選択できるようにする、という事情があった[15]。問題の第52話は、ターザンたちが洞窟のなかに逃げ込んだシーンである(1932年11月22日放送)。洞窟の音響を再現するためにエコーチェンバーが使用された。現存する録音は針飛びが激しく、聞き取りにくいが、リバーブの効果はよく分かると思う。
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エコーチェンバーによるリバーブ(「ターザン」第52話から抜粋) |
もちろん、新しいラジオ・シティにもエコーチェンバーが設置された。しかも3部屋も設置されたようだ。エコーチェンバーへの音の供給はマイクではなく、ダクトによっておこなわれていたと報道されているのは興味深い[16]。
この後、ラジオの業界ではエコーチェンバーは必須の設備となっていく。1940年に出版された「Radio Directing」にはエコーチェンバーについての記述がある[17 p.17]。
エコーチェンバーはトンネルのような構造をしており、90フィートの長さにわたって湾曲や捻りが加えられた迷路のような形状をしている。その一方にはスピーカー、もう一方にはマイクロフォンが設置されている。声はスタジオからエコーチェンバーのスピーカーに供給され、そこから迷路の湾曲や捻りを通過しながらだんだんとリバーブを強めていく。それがマイクロフォンに到達して、エンジニアのところに戻され、進行中の番組の音声にミックスされる。マイクロフォンの位置を変化させ(すなわち、スピーカーからの距離を近くしたり、遠くしたりして)、マイクとスピーカーのあいだの時間の遅延を変えてエコー効果の大小を調整することができる。
Radio Directing
1930年代から1940年代をとおして、エコーチェンバーは巨大化していく。クリーブランドのNBC系列放送局WTAMでは、スタジオがあるビル内の使われなくなった排気シャフトをエコーチェンバーに改造している[18]。6平方フィートの広さで16階分の高さ(200フィート、60メートル)のシャフトを使ったエコーチェンバーがどのように使用されたのか興味深い。
ラジオ放送でのエコーチェンバーのプロセス[19 p.64] |
このエコーチェンバーの技術は、もちろんハリウッドにも到達している。MGMではリレコーディングで<エコーパイプ>を使ってリバーブを導入していたこともあるようだ[20]。これは90メートルもあるパイプで、一方の端にスピーカーを設置、パイプの途中いくつかの箇所にマイクを仕込んで、リバーブのレートを選べるようになっていたと報告されている。前述の1938年の「Motion Picture Sound Engineering」にもエコーチェンバーに関する記載がある[21 p.173]。ワーナー・ブラザーズのレオン・ベッカーは「物語にリアルに、劇的に語るためのもの」として音響係の<エコーチェンバー>を挙げている[22]。リパブリック・ピクチャーズはダビング/スコアリング/リレコーディングのためのスタジオに2つのエコーチェンバーを設けていた[23]。また『市民ケーン』の4年後に、おそらくRKOのものと思われるエコーチェンバーについてRCAのエンジニアが報告している4)[24]。ロバート・ミクリティッチの「Siren City」には、RKOのエコーチェンバーが『3階の見知らぬ男(Stranger on the Third Floor, 1941)』などのフィルム・ノワールの音響効果に寄与したと記されており、当時の映画製作において広範に使用されていたと推測される[25 p.33]。
Part IIIへ >>>
Notes
1)^ 現存している「コロンビア・ワークショップ」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)。
2)^ 全曲はarchive.orgで聞くことができる(link)
3)^ 現存している「ターザン」のエピソードはarchive.orgで聞くことができる(link)
4)^ これは1945年5月に開催された「Hollywood Technical Conference」で発表された論文だが、その際のプログラムではRKOのジェームズ・スチュワートとの共同発表となっている。
References
[1]^ J. Houseman, Run-Through: A Memoir. Simon and Schuster, 1972.
[2]^ “The DefinitiveThe Columbia Workshop Radio Log with Georgia Backus. William N. Robson and Norman Corwin,” The Digital Deli Too, Nov. 08, 2014. (link)
[3]^ C. O’Dell, “‘The Fall of the City’ (‘Columbia Workshop’) (April 11, 1937); Essay [Added to National Registry: 2005],” Library of Congress, 2005.
[4]^ J. Naremore, Orson Welles’s Citizen Kane: A Casebook. Oxford University Press, 2010.
[5]^ P. Heyer, The Medium and the Magician: Orson Welles, the Radio Years, 1934-1952. Rowman & Littlefield Publishers, 2005.
[6]^ “Broadcast Gives ‘Sight’ to the Ears,” Popular Mechanics, vol. 69, no. 1, pp. 90–92, 128A, 1938.
[7]^ P. Doyle, Echo and Reverb: Fabricating Space in Popular Music Recording, 1900-1960. Middletown, Conn. : Wesleyan University Press, 2005.
[8]^ I. Chusid, Reckless Nights and Turkish Twilights (CD): Liner Notes. Columbia (CK65672), 1992.
[9]^ “Listening to a Fountain,” Evening Standard, London, p. 14, Sep. 21, 1926.
[10]^ “Inserting the Echo,” The Manchester Guardian, Manchester, p. 10, Aug. 09, 1930.
[11]^ “Radio’s Exchange of Programs to Link Continents,” AP, New York, Aug. 13, 1931.
[12]^ “Writer Marvels at B.B.C. Centre: Finest Broadcasting Headquarters in the World is His Opinion,” The Montreal Daily Star, Montreal, p. 26, Sep. 26, 1932.
[13]^ “Completion of Radio City Crowns Achievements of Microphone World in ’32,” Quad-City Times, Davenport, Iowa, p. 19, Jan. 01, 1933.
[14]^ “NBC Uses Echo Room to Make Voice Sound Hollow in Radio Drama,” Broadcasting, vol. 4, no. 1, p. 26, Jan. 01, 1933.
[15]^ B. A. Stebbins, “‘Tarzan’: A Modern Radio Success Story,” Broadcasting, vol. 4, no. 2, p. 7, Jan. 15, 1933.
[16]^ Z. Palmer, “ON THE AIR,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Sep. 06, 1934.
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[18]^ “Echo Chamber 16 Stories High Utilized by WTAM,” NBC Transmitter, vol. 10, no. 1, p. 4, Oct. 1944.
[19]^ K. S. Tyler, Modern Radio. Harcourt, Brace, 1944.
[20]^ “Progress in the Motion Picture Industry: Report of the Progress Committee for the Year 1938,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 23, p. 119, Aug. 1939.
[21]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938. Accessed: Dec. 21, 2021.
[22]^ L. S. Becker, “Technology in the Art of Producing Motion Pictures,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. XXXIX, p. 109, Aug. 1942.
[23]^ D. J. Bloomberg, W. O. Watson, and M. Rettinger, “A Combination Scoring, Recording, and Preview Studio,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 49, no. 1, p. 3, Jul. 1947.
[24]^ M. Rettinger, “Reverberation Chambers for Rerecording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 45, no. 5, p. 350, Nov. 1945.
[25]^ R. Miklitsch, Siren City: Sound and Source Music in Classic American Noir. Rutgers University Press, 2011.
『市民ケーン』と空間の音響 (Part I)
RCA設計のエコーチェンバー(Reverberation Chamber) |
前回、「市民ケーンとマッカーサー」という記事で、『市民ケーン』の革新性について言われていることのうち、コートレンズの革新性について考えてみた。当時のアメリカの光学技術をめぐる状況を見渡してみると、見えてきたのは軍事研究の重要な一分野だったレンズコーティング技術が、スピンオフしてハリウッドに恩恵をもたらしていったという事実だった。そしてハリウッドのメジャースタジオの撮影部門は、おしなべてコーティングレンズの開発に積極的であり、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドもそのなかの一人だったということだ。
今回も『市民ケーン』の革新性について、分析してみたい。今回取り上げるのは<音>である。その中でも<音と空間>のテクニックについて考えてみたい。
マジソン・スクエア・ガーデンの演説シーン
映画の音響技術についてのドキュメンタリー『ようこそ映画音響の世界へ(Making Waves: The Art of Cinematic Sound, 2019)』で、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の音響設計がいかに当時画期的だったかという話が出てくる[1]。『地獄の黙示録』などの編集で知られるウォルター・マーチは「(ウェルズは)『市民ケーン』でラジオの技術を映画に転用した」と述べている。そしてそのラジオから転用された<技術>として、空間における音の残響・反響(リバーブ, reverberation)の設計を上げている。
『市民ケーン』において、オーソン・ウェルズは音についての技術をラジオから映画に持ち込みました。カメラの焦点深度の場合と同じように、音の空間性についても挑戦したのです。空間はそれぞれ異なった音の反響特性をもっており、反響(reverberation)の要素を繊細に使いこなして、物語を語ることができるということを示したのです。
ウォルター・マーチ[1]
このマーチの発言とともに、オーソン・ウェルズが演出、主演したラジオ・ドラマ「宇宙戦争」が引用され、『市民ケーン』のいくつかのシーンがさらに引用されている。『市民ケーン』で引用されているのは、いずれも広い空間で音が反響しているシーンだ。例えば、ケーンの巨大な邸宅ザナドゥで暇を持て余したスーザンとチャーリー・ケーンの会話、選挙演説会場でのチャーリー・ケーンの演説、それにサッチャー・ライブラリでの会話のシーンだ。
なぜ『市民ケーン』のこれらのシーンが<画期的>だったと言われているのだろうか。実はマーチの発言は要約されすぎている。広い空間を音が伝搬すれば、壁や天井、床で反射して、その空間特有の反響がもたらされる。広い大会堂で演説すれば、声が反響して聞こえるだろう。その様子を撮影し、同時に適切に録音すれば、広い空間であることはおのずとわかるはずだ。それはたいして驚くことではない。『市民ケーン』が<画期的>だと言われたのは、これらのシーンは特に広くないスタジオで撮影され、声の反響はあとから
『市民ケーン』より チャールズ・フォスター・ケーンの選挙演説のシーン |
この点において、マジソン・スクエア・ガーデンでの演説シーンは特に注目に値する。実際に撮影に使われた空間よりもはるかに大きく、また聴衆で会場が埋まっている錯覚を作り出すために視覚的な効果が工夫された。
マジソン・スクエア・ガーデンのシーンの聴衆側から見たショットでは、演説者のステージだけがセットとして作られた。巨大なホールと観客はすべて書割である。書割に小さな穴が開けられており、そこから光がチラチラ見えるのは、観客が持っているプログラムがヒラヒラしている様子を模している。カメラの動きは、あたかも巨大なアリーナでカメラが高みから降りていくような印象を与える。観客をとらえるリバース・ショットは全体を捉えずに細かいディテールだけに限定している。来賓席のエミリーと息子、ホールの観客席のリーランドたちといった具合だ。
ロバート・L・キャリンガー[2 p.87]
これに対応して、音の設計が施されている。
音に関しては、特殊効果の問題と同じ問題を抱えていた。(演説会場のような)イベントの感覚と感触をいかに人工的に作り出すかということだ。・・・録音コンソールでは、ウェルズの声の反響速度(reverberation rate)を操作してエコー・チャンバー効果を作り出した。リアリズムをさらに加味するために、もとの録音のコピー、しかもそれぞれ音質が異なるものがいくつも作られ、無音部分にその様々な断片が挿入された。よく聞くと、演説の文句やフレーズのあいだに挿入された声がエコーのように聞こえるのが分かるだろう。エコー効果も極めて繊細に調整されている。話者にカメラが近いときにはエコーは短く目立たないが、聴衆が映し出されるショットでは、遅延が大きく、かつ反響音が大きくなっている。
ロバート・L・キャリンガー[2 p.105]
今の録音技術を知っている人からみれば、あまりに原始的で、いったい何が困難だったのか、とても理解できないかもしれない。だが、この時代の技術を用いて、現代の私達が聞いてもさほど違和感を覚えない音響効果を達成できていることじたいが驚きなのだ。
1940年のオーディオ技術
1940年当時のさまざまなメディア製作環境でのオーディオ技術(録音・再生)はどのようなものだったのだろうか。
当時のラジオ放送はほぼすべて生放送である。だが、番組制作においては、効果音や政治家の演説などの音源としてあらかじめ録音されたものが使用されることもあった。
このような場合の録音媒体の主流は、アセテート盤(ウィキペディア)であった。これはラジオの放送局や、映画スタジオなどでも、比較的手軽に録音・再生ができるため、頻繁に利用されていた。これをラジオ放送そのものに使用することもできるように思われるが、たいていの場合、敬遠された。音質がよくなかったのである。日本でも1945年8月15日の昭和天皇の玉音放送はアセテート盤に録音されたものが放送されたが、音質は決して良くなかった。
一方、映画で使用されていた録音・再生技術はオプティカル・サウンド(ウィキペディア)である。これは、オーディオ信号をフィルムに記録する手法で、記録されたサウンドトラックに光を照射すると透過光量で音の強弱が読み取れる。1926年に導入されて以来、ノイズ低減とダイナミックレンジの向上に業界をあげて取り組み、音質に関しては優れていたが、フィルムの現像やプリントに手間がかかる。録音したその場で再生して確認するのが困難なのだ。
ドイツでは、これらに加えて磁気テープによる録音・再生がおこなわれていた。1935年にAEGがマグネトフォンを発表している1)。磁気記録では鋼線に録音するスチール・レコーディング(ウィキペディア)があるが、これはイギリスでBBCが番組制作や記録に利用していた。磁気記録は録音再生が比較的容易であるが、鋼線記録はノイズの問題を克服できなかった。
ハリウッドでは、ほぼすべての録音・再生はオプティカル・フィルムを使用しておこなわれ、補助的にアセテート盤を使用する、というのが一般的だった。例えば、PRCの西部劇『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(The Hawk of Powder River, 1948)』で主人公の<歌うカウボーイ>エディ・ディーンが馬に乗って歌うシーンをみてみよう。バスター・クラッベやエディ・ディーンの映画で録音技師の助手をしていたジャック・ソロモンによると、こういったシーンはあらかじめ曲が録音されたアセテート盤にあわせて俳優が歌う演技をするのをオプティカル・フィルムに録音していくのだそうだ[3 p.5]。ポータブル・プレーヤーがカメラのドリーに載せられているが、針が飛ばないように時速8キロくらいで進まないといけない。それでも地面に何かあると針が飛ぶ。<歌うカウボーイ>のジーン・オートリーやロイ・ロジャーズは全速力で悪人を追跡しているときに歌うわけにはいかず、なみあしの馬上でのんびり歌うしかないのである。
『ザ・ホーク・オブ・パウダー・リバー(1948)』 |
映画フィルムを用いた録音技術は、録音、ダビング、編集、ミキシングすべてを現像をともなうフィルムで行う、という気の遠くなるようなプロセスを必要とした。もちろん、アナログ信号技術であり、フィルムそのものがもつノイズや、真空管アンプ回路内のすべての歪みやノイズがダビングのたびに重ねられていく。1938年に映画芸術科学アカデミーから発行された「Motion Picture Sound Engineering」では、映画製作のプロセスについて以下のように記述されている。
現在の映画のための録音は、音としての状態は2つ、機械的状態としては6つ、電気的状態としては3つ、光学的状態としては6つ、化学的状態としては4つの状態を通過し、これらの状態同士、そして状態内での24回の変化のうち、少なくとも12回は機械的運動が重畳していることを忘れてはならない。
ケネス・ランバート[4 p.71]
そして、トータルとして2~3%程度の歪みが許容範囲だという。当時の装置やフィルムの性状について調べると分かるが、これは並大抵の技術力では達成できない。
リレコーディング
オーディオ・エフェクトとしての「リバーブ/反響(reverberation)」の議論に入るまえにもうひとつ取り上げておきたいことがある。映画のサウンドトラック製作におけるリレコーディング(rerecording)の工程だ。
トーキー映画が導入された当時、1927年頃から1930年代初頭までは、オーディオの記録再生のダイナミックレンジも帯域も限られており、さらにはフィルムのもつノイズや録音時のノイズが無視できないレベルだったため、撮影現場で録音されたトラックを音質劣化させずに手を加えるのは非常に困難だった。コピーを重ねるとノイズが無視できないほど大きくなってしまうのだ。1930年代初頭の映画を見ていると、ショットが変わるとバックグランドのノイズ(たとえばハム)が変わるのが露わになるケースに頻繁に遭遇する。例えば、この『アギー・アップルビー(Aggie Appleby, Maker of Men, 1932)』からのシーンでは、フィルムがカットされショットが切り返されるたびにバックグランドのノイズの特性が変わるのが分かるだろう。さらにザス・ピッツ(声の高い、チェックのブラウスを着た女優)のほうは、高い声で音が歪んでしまっているのが明らかだ。つまり、ザス・ピッツのセリフを撮影・録音したカメラ、マイクのセットアップ(A)と、もう一人の女優、ウィン・ギブソンのセリフを撮影したセットアップ(B)はそれぞれ異なっていたのだろうと推測できる。注意して聞くと、このビデオクリップで1分38秒から1分41秒あたりで、同じショット内でノイズが変わり、他のザス・ピッツのショットと同じノイズ特性になっている。1分38秒からのザス・ピッツのセリフはセットアップ(A)で録音されたものが挿入されたのであろう。
『アギー・アップルビー(1932)』 バックグランド・ノイズの例 |
初期のトーキー映画は、このようにショットごと、あるいはセットアップごとに音のダイナミックレンジ、歪み、ノイズ特性が変わるばかりか、ショットとショットをつなぐ部分に「ブリップ」と呼ばれる雑音が存在することも少なくなかった。これは、セリフ、効果音、音楽などの音の要素を映像とともにアドホックに編集していたからである。
1930年代には、映画サウンドトラックのノイズ低減のためにさまざまな手段が講じられた。粒状ノイズを低減したネガフィルム、音量に合わせて記録再生を最適化するプッシュプル方式などが登場し、ダイナミックレンジも広がった。そして上記のような「シーンごとに音の特性が変化する」問題を解決し、かつ、映画全体にわたって音響設計───セリフ、効果音、音楽などの音の要素をストーリーに合わせて操作すること───をおこなうために、<リレコーディング(Rerecording)>という工程が導入された。編集、ミックスダウン、マスタリングすべてを総合した工程といっても良いかもしれない。
前掲の「Motion Picture Sound Engineering」の「リレコーディング」の章を参照すると、1938年にはハリウッドのほぼすべての映画製作においてリレコーディングがおこなわれていたようだ[4 p.71]。『アギー・アップルビー』を1932年に製作したRKOは、1936年頃にダビング用コンソールを開発して全製作作品に用いている[5]。例えば、RKOがダビング・コンソールを用いてリレコーディングの工程を導入した後の作品、『美人は人殺しがお好き(The Mad Miss Manton, 1938)』を見てみると、リレコーディングの効果は明らかである。バックグランドのフィルムノイズは全くといっていいほど気にならないし、ショットが変わってもノイズの特性、レベルは変わらない。スタンリー・リッジスの殺人の告白の途中、非常に小さな音量で効果音楽が入ってくる。この音楽の表情は、リッジスのセリフの内容にあわせて変化しながら、次第に音量を上げてくる。このような繊細な制御を必要とするミキシングが可能になったのも、フィルムや撮影、編集時のノイズ混入が最小限に抑えられているからだ。だが、スタンリー・リッジスの囁くような声で話しているときには聞きやすいのだが、少し大きな声で話すと低域側が歪んでしまう。ダイナミックレンジの問題はまだ完全に解決できたわけではなかった2)。
『美人は人殺しがお好き(1938)』 ノイズ低減とリレコーディングの効果 |
トーキー登場時の<セリフや音楽がシンクロしている映像>という物珍しさから、<映像と音で物語を語る>というシステムにわずか10年ほどで移行したのである。
では、このような技術環境のもとで、いかに<反響を使用した空間表現>が生まれたかを考えてみたい。
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Notes
1)^ 磁気テープによる録音・再生技術はナチスドイツの国家機密だったといわれることが多いが、フリードリッヒ・K・エンゲルによれば、戦時中でもドイツ国外でAEGの磁気テープ技術に関する情報を入手するのは比較的容易だったという。1937年にAEGはマグネトフォンをアメリカのGE社に送り、アメリカでの事業展開を打診している[6 p.60]。
2)^ もちろん、現存しているプリントの状態、デュープ(コピー)作成時の問題、あるいはキネスコープやデジタル化でのマスタリングの問題などでサウンドトラックが歪んでしまう場合もある。RKOの場合はオプティカル・サウンドトラックに可変領域方式を採用していたため、プリント作成、デュープ作成での歪みは起きにくいと思われるが、デジタル化などの段階で発生するダイナミックレンジ圧縮や符号化による圧縮で音質が劣化することは頻繁に起きているようだ。
[追記 2022/8/8]1936~38年ごろまで、可変領域方式には独自の問題(ブラスティング blasting)があった。これは、セリフなどのごく一部(一単語、あるいは一音節のみ)が突然ひずんでしまう現象で、RKOとRCAのエンジニアたちを悩ませた。RKOの『美人は人殺しがお好き』のこの問題も、ブラスティングが完全に除去できていないのかもしれない。ブラスティングについてはこの記事で詳細に論じた。
References
[1]^ M. Costin, G. Rydstrom, S. Spielberg, and T. Eckton, Making Waves: The Art of Cinematic Sound, (Oct. 25, 2019).
[2]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Revised edition. 1996.
[3]^ V. LoBrutto, Sound-on-film: Interviews with Creators of Film Sound. Greenwood Publishing Group, 1994.
[4]^ Research Council of the Academy of Motion Picture Arts and Sciences, Ed., Motion Picture Sound Engineering. D. Van Nostrand Company, Inc., New York, 1938.
[5]^ J. O. Aalberg and J. G. Stewart, “Application of Non-Linear Volume Characteristics to Dialog Recording,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 31, no. 3, pp. 248–255, 1938.
[6]^ E. D. Daniel, C. D. Mee, and M. H. Clark, Eds., Magnetic Recording: The First 100 Years, 1st edition. New York: Wiley-IEEE Press, 1998.
市民ケーンと将軍マッカーサー
『市民ケーン(1941)』 |
「映画史上偉大な映画100」とか「批評家が選ぶ映画100本」とかのランキングの上位に必ず入っているが、一般の映画評価サイトにいくとそれほど星の数が多くない映画がある。たいてい古い映画だ。オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』は、映画評論家たちのあいだでは極めて評価が高いのだが、FilmarksやYahoo映画あたりにいくと「Mank見るので予習のために」「古臭い」「当時はすごかったのかもしれないけれど」ということで、平均で星4つに到達しない。まあ、仕方がないことだろう。
誰かに「あの映画のどこがすごいんですか?」なんて聞かれようものなら、私達シネフィルくずれは、腕をまくって、フラッシュバックだの、ディープフォーカスだの、話したくなってしまうのだが、結局「当時はすごかったのかもしれないけれど」を抜け出すことができるわけではない。
実際のところ、あの映画は当時すごかったのだろうか?
ここでは、『市民ケーン』について言われている数多くの革新性のなかから、ある一つの革新的な技術について考えてみる。その結果『市民ケーン』が優れているとか、そんなことはない、とかいった結論には至らない。なぜなら、物事はそう単純ではないからだ。あくまで、曖昧に「革新的」と呼ばれている事柄のひとつをもう少し紐解いて見ようというそれだけである。
『市民ケーン』の革新性───レンズ・コーティング
ここで問題にするのは、レンズ・コーティングである。具体的には、反射防止コーティングである。
監督のオーソン・ウェルズと撮影監督のグレッグ・トーランドは『市民ケーン』で、感度の高いフィルムを使い、コート・レンズと広角レンズを使って様々な映像の革命を起こした。そう一般的に言われている。
なぜ、反射防止コーティングが画期的だったのか。それまではカメラのレンズの表面はなんの処理もされていなかった。そのためにレンズの表面(レンズと空気の界面)でレンズを透過する光の一部が反射してしまう。つまり、レンズを通すと光が減少してしまうのだ。必然的に被写体を明るくしないといけなくなる。暗いシーンや奥行きのあるシーンは撮りづらくなってしまう。さらにカメラのレンズは複数枚がセットになっているので、すべてのレンズの表面で反射が起きる。反射した光はレンズのあいだで散乱してしまう。結果的に写る像が全体的にぼんやりと白くなってしまう。
この問題を解決するためにレンズの表面に「反射防止コーティング」を施すのだ。どれほど効果があるのだろうか。
ウィリアム・C・ミラーの論文[1]にその効果が実例とともに紹介されている。これを見るとコーティングのもたらす効果が一目瞭然だろう。まず、設計図を撮影した写真を見てみよう。左がコーティングなし、右がコーティングされたレンズで撮影された写真だ。コーティングによってコントラストが改良されているのがわかるだろう。左の写真では斜線が薄くなって見えにくくなってしまっている。これは、レンズのあいだで反射して散乱してしまった光が全体の白のレベルを上げてしまっているからだ。
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レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より |
太陽を直接撮影した写真では、レンズ・コーティングがないといわゆるフレアがいくつも発生している。これはレンズ同士の光の反射でいくつも像ができてしまうからである。実際にモデルの女性を撮影した写真は、同じ光量、同じ感度のフィルム、同じ絞りで撮影してある。わざと照明を不足気味にしているのだが、コーティングによってフィルムに届く光量が増加したのは一目瞭然だ。
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レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より |
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レンズの反射防止コーティングの効果 (左)コーティングなし (右)コーティングあり [1]より |
『市民ケーン』ではこのレンズ・コーティングの効果はどこに現れているのだろうか。ローキーの映像や、少なめの光量でもディープフォーカスで撮影しているシーン等、さまざまなシーンがあるが、レンズ・コーティングの効果として映画公開当時から話題になっていたのは、スーザンが主演をつとめるオペラのオープニングのシーンだ[2]。舞台照明の光源にレンズを向けて直接撮影しているがフレアが起きず、乾いたステージの上にたつスーザンの孤独を際立たせる効果をもたらしている(このページの一番上を参照)。
では、このレンズ・コーティングの技術はどのようにして『市民ケーン』にもたらされたのか。三浦哲哉氏の「サスペンス映画史」にある、『市民ケーン』の撮影監督グレッグ・トーランドに関する記述を見てみよう[3]。
トーランドはたんなる撮影監督であっただけではなく、自らキャメラとフィルムの改良に携わる技術者でもあった。彼は一九三〇年代末に開発された高感度フィルム、光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した。驚くべき鮮明さで画面の手前から奥までの広範囲に焦点をあてるディープーフォーカスの技術もその一つだった。高感度フィルムとレンズの改良によって、照明を大胆に節約することができるようになり、有名な極度の早撮りが可能になった。
三浦哲哉
トーランドが「光の透過率を格段に向上させるレンズのコーティング理論をいち早く取り入れ、そこから新たな撮影の可能性を引き出した」とは、具体的にはどういうことなのだろうか?これを読むと、トーランドが「キャメラとフィルムの改良に携わる技術者」だったのだとすると、レンズのコーティングを自ら発明したのだろうか?三浦氏はロバート・L・キャリンジャーの研究を参照しているので、そこを見てみよう[4]。
1939年に、研究者たちはレンズ・コーティングの原理を発表した。レンズの表面を弗化マグネシウムの超薄膜の層でコーティングすることによって、光の透過率を向上させたのだ。
ロバート・L・キャリンジャー
この「研究者たち」とは誰で、どうしてそれがグレッグ・トーランドにつながったのだろうか?これは、トーランド自身に答えてもらおう[5]。
カリフォルニア工科大学で開発されたヴァード(Vard)のオプティコート・システムは私達の照明の問題解決に役立ったもののひとつだ。オプティコートは屈折(refraction)を除去し、光を散乱させずに透過させる。このおかげでレンズ・スピードをストップいっぱいまで向上させることができる。光源にカメラを直接向けると、今までは必ず酷い絵になっていたが、このコーティングを施したレンズのおかげでそれが起きなくなったのだ。
グレッグ・トーランド
撮影監督たちの挑戦
レンズの表面に処理を施して反射を抑えようというアイディアは以前からあった。それが、1940年頃に革新的な変化を遂げたのである。
もともとレンズの反射を抑える方法は熱心な写真好きの個人たちによって探求されていた。1892年にイギリスのハロルド・デニス・テイラーが、使い古して変色してしまったレンズのほうが実は光の透過量が多いということを偶然発見し、同様の<侵食>を再現するためにレンズ表面をアンモニアと硫化水素で処理する方法を提案した。これはレンズガラスの侵食された部分がガラスと空気の中間の屈折率をもつからで、他の光学研究者やレンズ設計者たちもさまざまな薬品でレンズ表面を処理しようと試みた。だが、この方法はレンズの仕上げの状態やレンズ材質、処理(エッチング)の条件に強く左右されるために安定した品質が得られなかった[6]。
それが1935年にほぼ同時に新しい手法がアメリカとドイツで発明されたのである[7]。これは真空蒸着と呼ばれる方法で、真空下でコーティングの材料を蒸発させてレンズの表面に薄く付着させる方法である。この手法がねらったのは、レンズ表面に屈折率の低い材料を薄く(光の波長の4分の1に相当する厚み、2000Å)付着させて光を反射させない、というものである。カリフォルニア工科大学のジョン・D・ストロングが、屈折率の低いフッ化カルシウムの薄膜をレンズに蒸着して光の反射を抑制する方法を考案する。一方、ドイツではカール=ツァイスのアレクサンダー・スマクラがやはりフッ化カルシウムの薄膜を蒸着する手法の特許を申請している。
ストロングの発表のあと、アメリカではすぐに材料の探索がはじまり、フッ化マグネシウムが有望だといわれるようになった。この真空蒸着によるコーティングは、レンズガラスの性質や組成に影響を受けにくい。1939年を境に数多くの企業がこの分野の研究開発に乗り出した。グレッグ・トーランドが記している「ヴァード・メカニカル・ラボラトリー(Vard Mechanical Laboratory)」はカリフォルニアのパサデナにあった民間企業で、このレンズ・コーティングを請け負っていた。1940年の4月には「American Cinematographer」誌にレンズコーティングを請け負うという広告を出している。ヴァード社はこれを「オプティコート(Opticote)」と呼び、「あなたが今使っているレンズや光学システムにオプティコートを施すことができます」と宣伝している。グレッグ・トーランドは自分が使っているレンズをこのヴァード社に出してコーティングさせたのである。彼はこのレンズを使って、1940年の6月の第1週から『市民ケーン』の撮影に入った。
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ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの広告 American Cinematographer 1940年4月号 |
その3ヶ月前の1940年3月に発行された「American Cinematographer」誌にウィリアム・スタルがパラマウント・スタジオでのコート・レンズの導入について論じている[8]。それによれば、ストロング博士の新技術をパラマウントの光学技術者やカメラマンは数ヶ月前から注目し、さまざまなテストを繰りかえしていた。指紋がついたものを洗浄してもコーティングは剥がれないか、コーティングによって他の光学特性に影響が出ていないか、コーティングの化学特性はレンズに影響を及ばさないか、といったことを調査していたという。通常はガラスー空気界面で5.22%の光が反射で失われるため、アナスチグマートの「アストロ・パン=タッカー」レンズのように4枚レンズ、計8つのガラス=空気界面があると41%も光が反射で失われてしまうが、その表面すべてにこのコーティングを施すと、光量損失はほとんど無視できるようになる、と述べている。ストロング博士の研究がほぼ完成したと見たパラマウントでは、実製作でこのレンズを使い始めた。最初に使用したのはジョージ・マーシャル監督、チャールズ・ラング撮影、ボブ・ホープ、ポーレット・ゴダード主演の『ゴースト・ブレイカーズ(Ghost Breakers, 1940)』である。これは「猫とカナリア」系の幽霊屋敷コメディで、幽霊屋敷の暗い内部が舞台となっている。たしかにローキーでもコントラストがはっきりとあり、蝋燭などの光源がフレーム内にあっても反射によるフレアや白曇りがない。
1940年7月に同じく「American Cinematographer」誌[9]に発表されたスタルの調査(5月18日から6月16日にかけて実施)では、コート・レンズを使用していた撮影監督は、パラマウントのセオドア・スパークルとワーナー・ブラザーズのL・ウィリアム・オコネルの2人だった。翌年の1月の同誌記事「昨年の進歩」[10]のなかで、ヴァードで従来のレンズにコーティングをしてもらうことに加え、新品のコート・レンズをクック、ボシュロムなどから入手できるようになったと記載がある。20世紀フォックスは自社開発のカメラすべてにボシュロムのコートレンズを搭載している。同年4月の同誌[2]では20世紀フォックスの撮影監督チャールズ・G・クラークがコート・レンズの現状を報告、そこではコート・レンズを使用して撮影された映画として、アーネスト・パルマーが撮影した『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』、レオン・シャムロイが撮影した『ティン・パン・アレイ(Tin Pan Alley, 1940)』とともに『市民ケーン』が挙げられている。『トール・ダーク・ハンサム』はシーザー・ロメロ主演のコメディの要素の強いギャング映画、『ティン・パン・アレイ』はアリス・フェイ主演のミュージカル映画だが、いずれの作品もコート・レンズの効果が発揮できるような場面は特にない。
つまり、グレッグ・トーランドは一人だけ最先端を突っ走っていたわけではなく、レンズのコーティングの効果についてハリウッドのカメラマンたちが確信を持ち始めた頃に『市民ケーン』で使用した、ということになる。だが、トーランドはアマチュア向けの写真雑誌を含め数々の媒体に寄稿し、『市民ケーン』における自らの功績を喧伝しているように見える。他のカメラマンたちはコート・レンズをつかっていても、とりたてて宣伝するようなことはしていない。これはトーランドがほぼフリーランスで働くカメラマンだったこととも関係しているだろう。当時、トーランドは、ジョン・フォードやウィリアム・ワイラーら、ハリウッドの有名監督のあいだで、新しい映画を撮るときにリストのトップに載っていた撮影監督だ。彼は低予算の「プログラムピクチャー」など撮る必要はなく、常に話題作を撮っている。フリーランスのように働いている以上、宣伝は重要だ。<異端児>オーソン・ウェルズと型破りな話題作『市民ケーン』を撮ったのだから、「私はハリウッドの掟をどうやって破ったか」という宣伝もして当然だし、実際それが彼の名声につながっている。
むしろ興味深いのは、レンズ・コーティングの技術を使いこなすために、パラマウントなどのスタジオが大学の研究と並行でテストを繰り返し、実際の製作に活かしていく基盤にしていることである。そして、ヴァードのような会社が存在してハリウッドの技術革新に貢献していたという点である。
だが、実はそれは「映画」の視点からしか見ていない。ヴァード・メカニカル・ラボラトリーの重要顧客はバーバンクにあった映画スタジオではなかった。バーバンクにあったもう一つの大企業、ロッキードだったのである。
拡散ポンプ
1943年の10月、ニューヨークのブルックリンである会議が行われた。この会議はフランクフォード兵器廠が中心となり、ボシュロム、ベル&ハウエル、イーストマン・コダックなどの企業、160社が参加した[11]。会議は「光学素子への金属フッ化物反射減衰膜の応用」という、極めて狭い分野を扱っていた。つまり、反射防止のレンズコーティングについての会議なのだが、これだけ大規模な産業になっていたのである。
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フランクフォード兵器廠 1934年(National Archives Photo) |
この会議は、真空ポンプ、手入れ法、原材料、不良品解析、オペレーターの教育など、真空蒸着によって反射防止コーティングを作るためのすべての実務的問題をカバーして議論している。例をあげれば、原料のフッ化マグネシウムの純度をいかにあげるかのマニュアルを、名前と住所を書いておけば後で送ってもらえるといった具合だ。この会議に参加し資料をもらって帰った技術者たちは、日々自分たちが困っている問題を解決する方法の緒を得られたに違いない。
この会議の議事録に、真空蒸着によるレンズコーティング技術が数年で発展してきた様子が述べられている。フランクフォード兵器廠のウェルチ大佐がいかのような興味深い経緯を語っている。
第一次世界大戦までは研究室の領域を出なかったと思うのですが、その頃からここにも出席していらっしゃる企業の方々が光学素子の性能向上をねらって反射防止の技術を試し始めていました。フレッド・ライトも戦争中この膜について研究していました。たしか彼はボシュロムにいましたよね。・・・(中略)・・・1939年、K&E社がフランクフォード兵器廠に高度測定追跡型望遠鏡を見せてくれたのです。この望遠鏡は反射防止コーティングがされていて、当時フランクフォードで設計部にいて今はワシントンの兵器省にいるウェルズ将軍が、軍事利用の可能性を見出したわけです。すぐに性能と耐久性の調査を始めました。1940年に兵器廠の研究所はこの計画をすすめるよう報告書を提出しました。そのなかで耐久性についてまだ疑問があり、推薦するには至りませんでした。
G・B・ウェルチ大佐(フランクフォード兵器廠)
兵器の開発で当時最も必要とされていた分野の一つに、光学装置の性能向上があった。望遠鏡でより遠くを精確にみる。レンジファイダーでより正確に距離を割り出す。夜や霧の状態でも視認性を改良する。そういったことが求められていた。彼によれば、1941年に海軍が反射防止コーティングの普及のために大掛かりなテストを始めたという。翌1942年の暮れ頃から戦車などのスコープに応用することが検討され、RCAが大量生産を始めた。
ボシュロムのピーターソンは真空蒸着法がなぜ工業的に利用できるようになったか端的に説明している。
真空技術の利用は大学の「珍しいもの」から抜け出しました。大学にあった設備はだいたい小さく、真空に到達するまで非常に時間がかかったのです。しかし高速の油拡散ポンプの登場ですべてが変わりました。
スタンリー・ピーターソン(ボシュロム)
拡散ポンプは1915年にヴォルフガング・ゲーデによって発明されたとなっているが、これが「珍しいもの」だったのである。当時は水銀を使用しており、極めて扱いにくいものだった。それを一般的な低蒸気圧合成油で使用できるようにしたのが、イギリスのセシル・レジナルド・バーチだった。1928年のことである。イーストマン・コダックの研究者がこのアイディアをイギリスから持ち帰り、自社で油拡散ポンプの開発を始めた[12]。1930年代にRCAとコダックが油拡散ポンプの開発に注力し、これが工業的利用につながっていった。イーストマン・コダックの子会社ディスティレーション・プロダクツ・インクはビタミンを製造していたが、拡散ポンプの製造も始めるようになった。
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イーストマン・コダックの特許 ガラス用非反射コーティング 米国特許 第2,260,471号 |
前述のヴァード・メカニカル・ラボラトリーズもロッキード用に部品や器具を開発、製造していた。社長で創業者のヴァード・ウォレスは南アメリカで宣教活動をしていたが、1930年代にカリフォルニアに移ってきて、航空業界向けに工作技術の開発を始めた。1940年には98人の従業員を抱え、設備をさらに拡充している[13]。ヨーロッパの戦争もあり、顧客のロッキードが増産にはいったからだ。そんななかで、飛行機に搭載するスコープの性能向上、すなわちレンズのコーティングもロッキードを顧客として開始したようである。ハリウッドの映画スタジオにレンズ・コーティングの機会も見つけ出してきたのだろう。ヴァードのビジネスはあくまで既存のレンズへのコーティングだったが、ボシュロムはコーティングした新品のレンズの販売をおこなっていた。前述の会議でもボシュロムは中心的な存在であり、当時の主なビジネスはやはり軍事向けだった。
見方を変えると、オーソン・ウェルズがハリウッドに行くのが1年早かったら、レンズ・コーティングの技術はまだできておらず、『市民ケーン』のいくつかのシーンはあそこまで印象的なものにはなり得なかったのである。偶然ではあるが、1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まってしまい、それを機にアメリカ国内の産業が軍事に舵を切っていたときだった。その<おこぼれ>をハリウッドは頂戴していたとも言える。
アヴィエーター
この記事のタイトルには「将軍マッカーサー」とある。勘の良い方ならお気づきだろう。ダグラス・マッカーサーのトレードマークのサングラスのレイバンは、ボシュロムのブランドだった。
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ダグラス・マッカーサー 1944年 レイテ島 (National Archives Photo) |
もともとサングラスの開発は、飛行機操縦士と密接に関係がある。陸軍のパイロット、ジョン・マクレディが1920年代におこなった最高度到達記録挑戦のさい、ゴーグルが太陽光を直接透過してしまうため、眼を痛めそうになってしまった。彼はボシュロムに相談して新しい操縦者用の新しいメガネの開発をうながした。それが有名なレイバン3025「アヴィエーター」というサングラスとして結実した。1938年のことである。その後、海軍で飛行中の操縦士が視界の上方の太陽によって敵機の視認が悪くなることへの対策として、レンズの上半分をインコネル(クロム=ニッケル合金)の薄膜でコーティングする技術を開発した[14]。特許は1944年にボシュロムから出願されている[15]。マッカーサーは、屋外ではこのアヴィエーターのサングラスをかけていることが多かった。
このインコネルのコーティングは、飛び抜けた耐久性が求められた。レンズの反射防止のフッ化マグネシウムのコーティングは、いくら実地とはいえ、それでも光学器械として丁寧に扱われる対象だったが、サングラスは日常で遭遇するありとあらゆる衝撃、擦過、温度変化などに耐えなければならない。幸い、インコネルの薄膜は極めて強い薄膜だった。
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米国特許 第2,409,356号 ゴーグル |
前述のように、真空蒸着の技術をレンズコーティングに応用したのは、カリフォルニア工科大学のジョン・ストロングだったが、彼が最初に試験したのは実はレンズではなく、ミラーだった。反射型天体望遠鏡に必要な大口径のミラーを製作する方法として、アルミの蒸着を検討し、1933年に18インチのミラーの表面にアルミニウムの薄膜を蒸着した[16]。
いま、あなたが食べているそのポテトチップスの袋の内側には、このアルミ蒸着が施されている。このアルミ蒸着膜は、酸素、水分の透過を防ぎ、光も遮断する。ポテトチップスがおいしいのは、ジョン・D・ストロング博士が始めた研究が発端である。
何がすごかったのか
『市民ケーン』の話にもどそう。アンドレ・バザンは「奥行きの深い画面」についてこう述べている[17]。
だからこそ、ウェルズはグレッグ・トーランドにこの難題を解決するように求めたのだ。実際、周知のように、少なくとも人工照明を使った撮影の場合、非常に深い被写界深度[profondeur de champ]を得るのはほとんど不可能だ。レンズの絞りを陽光の下で撮るときよりも大きく開かなければならないのと、柔らかくて作り込まれた照明をたびたび追求する必要があることが、技術面でのその主要な理由である(1920年以来の光学的な探求が、まったく別の写真的特質に促されて進んできたことも、おそらく付け加えておくべきだろう)。理論的には、この問題を解決するのは、アマチュア写真家にとって同じくらい簡単だ。十分にレンズを絞ればよいだけなのだから。だが、実際には、この操作は照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄するように仕向ける。この技法に内在するリスクを受け入れるには、グレッグ・トーランド級の撮影技師が必要だった。というのも、奥行きの深い画面がフィルムの感度とレンズの絞りの問題にすぎないと考えるとしたら、それはあまりにも単純だからである。
アンドレ・バザン
ここで、バザンがいう「奥行きの深い画面」は、写真技術で言われる「ディープ・フォーカス」とは若干違うことがわかるだろう。なぜなら、「十分にレンズを絞るだけ」ではなく、照明の技法全体を転覆させて、「柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄」することが必要だと言っているからだ。これはトーランド自身が言っている「ハリウッドのルールを破った」ということとほぼ同じことだろう。つまり、MGMのグレタ・ガルボの映画や、パラマウントのマレーネ・ディートリッヒの映画に見られるような、ソフト・フォーカス、「ガーゼのかかったような画面」のスタイル、つまり「ハリウッドのルール」を破って、新しいスタイルに挑戦したということだ。それは、まあそうかもしれないな、と言ったところだろうか。
だが、ウェルズやトーランドの前に「ルール」を転覆させようとした演出や撮影が皆無だったわけもなく、また同時代に彼らだけがその挑戦をしていたわけでもない。ハル・モーアが苦労してクレーンを使った長回しを1929年に挑戦し、ジェームズ・ウォン・ハウが、シーンが必要とすれば、ひたすらローキーでディープ・フォーカスに挑んでいたことも、トーランド自身が30年代にもずっと三次元的な造形を意識した撮影を試みてはそれほど注目を浴びなかったことも、忘れてはいけないだろう。
トーランドが長いあいだ「弟子」としてついていた撮影監督のジョージ・バーンズについて、『悪の力(Force of Evil, 1948)』を監督したエイブラハム・ポロンスキーがこういっている。少し長くなるが引用する[18]。
カメラマンはジョージ・バーンズだった。知っているだろうけど、この町にいるカメラマンで最も優秀なうちの一人だ。彼は、ウェルズとトーランドがやるずっと前にディープフォーカスをやってたしね。バーンズはちょっと年齢の高い女優を若く美しく見せるような撮影をずっとやっていた。どうやっていたかは皆さんご存知だろう。
(『悪の力』の撮影を)何日かテストをして、ラッシュを見たら、全部美しくてぼんやりしているんだ。つまり、彼がずっとやっていた普通のロマンティックな写真になっていたんだね。だけど、この映画で僕たちがやろうとしていたことの正反対なんだ。『ボディ・アンド・ソウル』を撮ったジミー・ハウ(注:ジェームズ・ウォン・ハウ)はあんな撮り方をしなかった。ハウはクリアに、正確に、反ロマンティックに撮ったんだ。僕はそれに慣れてしまっていたんだね。『ボディ・アンド・ソウル』の現場にずっといてハウの仕事を見ていたからね。
なんとかジョージに自分が探していることを伝えようとしたんだけど、うまく言うことができなかったんだ。なんと言えば良いのか分からなかった。外に行って、(エドワード・)ホッパーの画集を買ってきた。三番街、カフェテリア、バックライト、誰もいない通り───。そこに人間がいても、見えない。なぜかまわりの風景が人間を呑み込んでいる。僕はバーンズのところに行って「これがほしいんだ」と言った。「なんだ、それか!」すぐにバーンズは「それ」がわかったんだ。そして「それ」で映画を全部やってくれた。一度、僕がほしいトーンがわかったら、彼はブレることはなかった。
エイブラハム・ポロンスキー
バザンのいう「グレッグ・トーランド級」の撮影監督は、当時のハリウッドには数多くいた。このポロンスキーの言葉からもわかるように、バーンズは「それ」を知っていたし、「それ」をどうやれば撮れるかも知っていたし、「それ」を全編ブレないで撮る技術をもっていた。バーンズは「綿のようにぼかしたままにしておく」撮影ばかりしていたが、いざとなれば「照明の技法全体を転覆させ、柔らかな光のスタイルとあまねく実施されている明暗法を放棄する」ことなど造作なかったのだ。彼が1930年代に撮った映画のなかでも「これはいったいどうやって撮ったんだろう」と思うものもすくなくない。だが映画そのものが他愛もない作品が多く、題材として、いまの私達の鑑賞に耐えうるものではないものがほとんどだ。時代の流行を追っていたり、当時の文化状況に深く埋め込まれた題材(よくハイ・コンテクストとも呼ばれる)だと、いったんコンテクストが取り除かれると(古くなると)、もはや「何が良かったのか、さっぱり見当がつかない」ことになりかねない。バーンズがヒッチコックの下で撮った作品も、スターの撮影が優先されているために「綿のような」シーンが目立つかもしれない(実際にはそんなことはないのだが)。そういう作品ばかりだと、革新的な技術をもっていたカメラマンとしての評価を受けにくいということにもなるだろう。
いまや、スマートフォンのカメラのレンズでさえ何重ものコーティングがされており、センサーは極めて感度が高く、暗いところでも平気で撮れてしまう。そういった時代に「これは当時すごかったんだ」ということだけを言い続けていても、先人たちの仕事について評価を再検討していくのはもう難しくなっているのだろう。『市民ケーン』でさえそうなのだから、なかなか難しい。
一つ言えるとすれば、映画みたいなメディアを考えるときに、「天才オーソン・ウェルズ」とか「グレッグ・トーランド級」といった言説から離れて、あるいは「ルールを破った」とか「初めて挑戦した」といった具合の考え方から距離を置く必要があるだろうということだ。トーランドが、『市民ケーン』でヴァードのオプティコートを使えたのは、(少なくとも)パラマウントの技術者達がストロング博士と共同で、何ヶ月にもわたって基礎的な実験やテストを繰り返したことが背景にある。ボシュロムがほぼ同時期に技術を導入できているところを見ると、20世紀フォックスでもテストや実験が行われていた可能性は高い。つまり、ハリウッドの産業全体が底上げを図っていた、その小さな小さな一例なのだ。そして見てきたように、その底上げの小さな一例は、悲しいことながら、戦争が背景にあったのだ。そのなかで、多くの、今となっては名前もわからない人々の仕事の総体として、映画作品のある側面が形成されている。そういった距離で、一つ一つのシーンを分析し、全体の流れを再度把握し、<テクノロジー>と<テクニック>を出来得る限り分解してみたときに、『市民ケーン』なり『トール・ダーク・ハンサム』なり『ゴースト・ブレイカーズ』なりの作品としての位置づけが少しなりともわかってくるのではないだろうか。
コーエン兄弟の『ミラーズ・クロッシング(Miller’s Crossing, 1990)』の<森の中で処刑したふりをする>のアイディアは、『トール・ダーク・ハンサム(Tall, Dark and Handsome, 1941)』にヒントを得たものである。
ポン・ジュノ監督は『パラサイト・半地下の家族(기생충, 2019)』で、雨の中、階段を降りていくシーンは『悪の力』へのオマージュだと語っている。
ジョージ・バーンズが1930年代に撮影したミュージカルは、あまりに荒唐無稽なためにシュールな映像になっているものがある。”Dames(1934)”からのこのシーンや”Golddiggers of 1935″からのこのシーンなどはその例である。
参考文献
[1]^ W. C. Miller, “Speed Up Your Lens Systems,” Journal of the Society of Motion Picture Engineers, vol. 35, no. 7, p. 3, Jul. 1940.
[2]^ C. G. Clarke, “Are We Afraid of Coated Lenses?,” American Cinematographer, vol. 22, no. 4, p. 161, Apr. 1941.
[3]^ 三浦哲哉, サスペンス映画史. 東京: みすず書房, 2012.
[4]^ R. L. Carringer, The Making of Citizen Kane, Reprint版. Berkeley: Univ of California Pr, 1996.
[5]^ G. Toland, “How I Broke the Rules in Citizen Kane,” Popular Photograph Magazine, p. 55, Jun. 1941.
[6]^ U. S. N. D. B. of Ordnance, Optics Filming. U.S. Government Printing Office, 1946.
[7]^ “AVS Thin Films History.” http://www2.avs.org/historybook/links/tfexh96.htm (accessed Sep. 12, 2021).
[8]^ W. Stull, “Non-Glare Coating Makes Lenses One Stop Faster,” American Cinematographer, vol. 21, no. 3, p. 108, Mar. 1940.
[9]^ W. Stull, “Surveying Major Studio Light Levels,” American Cinematographer, vol. 21, no. 7, p. 294, Jul. 1940.
[10]^ “Technical Progress in 1940,” American Cinematographer, vol. 22, no. 1, p. 6, Jan. 1941.
[11]^ “The Application of Metallic Fluoride Reflection Reduction Films to Optical Elements,” Frankfird Arsenal, Oct. 1943.
[12]^ P. A. Redhead, Vacuum Science and Technology: Pioneers of the 20th Century. Springer Science & Business Media, 1997.
[13]^ C. King, “Pasadena Factory Making Essential Airplane Parts,” The Pasadena Post, p. 5, Oct. 04, 1940.
[14]^ J. L. Matthews, “Physiological Effects of Reflective, Colored, and Polarizing Ophthalmic Filters: Basic Consideratinos in the Selection of Sunglasses for Flying Personel,” USAF School of Aviation Medicine, Randolph Field, Texas, Project No. 21-02-040, Report No. 1, Aug. 1949.
[15]^ C. F. Hutcings, “Goggle,” US2409356A, Oct. 15, 1946 [Online]. Available: https://patents.google.com/patent/US2409356A/en?oq=US2409356
[16]^ J. Strong, “The Evaporation Process and Its Application to the Aluminizing of Large Telescope Mirrors,” The Astrophysical Journal, vol. 83, p. 401, 1936.
[17]^ アンドレ・バザン, 堀潤之訳, オーソン・ウェルズ, 四六変型版. 東京: インスクリプト, 2015.
[18]^ A. Dickos, Ed., Abraham Polonsky: Interviews. Jackson: University Press of Mississippi, 2012.
本文中の引用における翻訳は、アンドレ・バザンの「オーソン・ウェルズ」は堀潤之訳、それ以外は拙訳である。