広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (後篇)

「フレデリック大帝」
 
「フレデリック大帝」の製作・監督・脚本をしたアルゼン・フォン・クセレピィはもともとハンガリー人です。母親はドイツ人ですが、父親はハンガリー人の画家でした。彼の一生を見ていると、ドイツ人になりたかったのに、ならせてもらえなかった、という印象を受けてしまいます。ブダペストで自動車のエンジニアをしていたのですが、その後ベルリンに移り住み、1912年ごろから映画の製作に関わり始めます。1914年に第一次世界大戦が始まるとオーストリア=ハンガリー軍にパイロットとして従軍します。1918年に「ファウスト」を製作しようとしますが、「非ドイツ人がドイツの古典を手がけるとは何事か」と強烈な反発に会い、あきらめます。そして、この「フレデリック大帝」を手がけた後も自分の製作会社で映画を作り続けるのですが結局うまくいかず、1924年、ウーファに会社を売却してしまいます。翌年にはアメリカに渡って、ハリウッドでの映画製作を試みます。パラマウントにH・G・ウェルズの「世界戦争」の映画化の話を持ちかけますが頓挫、「創生」「ラスプーチン」などの企画もすべて失敗します。1927年にはニューヨークで「クゼレピィ・ムービーズ」を設立するも行き詰ってしまい、翌年ベルリンに戻ります。さらにここでも11月革命の映画の製作で政治志向性の意見が合わず、監督を辞しています。
1930年に、彼はナチス党員になります。
1932年、ゲッベルスに映画「Deutschland über alles」の企画を持ち込みます。また、ベルリン滞在中のエイゼンシュタインについて記事を書いて、母親の旧姓(デーリンゲルというドイツ名)で出版して「ドイツ人になる」ことを誓っています。翌年に再び映画製作会社を設立するのですが、ゲーリングのドイツ空軍がすぐそばに飛行場を作り始めたために、スタジオの建設ができず、やっと作った映画もウーファとの間でいざこざが起き、会社は破産します。
1939年にブダペストに戻った後は、1941年まで数作を監督した後、引退したかのごとくぱったりと音沙汰が無くなり、1958年に亡くなります。
ワイマール期の早い時期に保守的な作品で成功を収めただけでなく、ナチス党員でもあったクセレピィが、ナチス政権下でかんばしい扱いを受けていないのは、彼自身の性格の問題か、それともナチス幹部や同調者たちの問題か、そこはよくわかりません。しかし、あれほどゲッベルスやヒトラーに気に入られ好待遇を受けたレニ・リーフェンシュタールやヴァイト・ハーランがナチス党員でなかったことを考えると、党員 -しかもわりと早い時期に入党していた- であった事実は、何の役にも立たないことがあるのだということですね。

また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。

「フレデリック大帝」の脚本に名を連ねているハンス・ベーレントは、ユダヤ人です。ナチスの台頭と共にドイツから脱出し、スペイン、オーストリアと転々としますが、ベルギーで拘束され、1940年にアウシュヴィッツ収容所に送られ、殺されます。同じく名を連ねている、ボビー・E・リュトケは、1928年ごろから反共作品の脚本などを手がけ、ナチスの初期のプロパガンダ映画「ヒトラー青年 クヴェックス」も彼の手によるものとされています(リュトケ自身は、戦時中は自身が書いたと主張、戦後は否定)。彼は戦前の映画出版で最もポピュラーだった「Film Kurier」の創刊にも携わっていました。彼は、戦後の「シュピーゲル」誌のインタビューで、いかに自分がこの「フレデリック大帝」の製作でイニシアチブをとったかを語っていますが、ベーレントの名前を口にすることはありませんでした。
撮影のギイド・ジーベルは、ドイツ映画の黎明期のもっとも重要なカメラマンです。彼が「プラーグの大学生(1913)」で2重写しを用いてドッペルゲンガーを表現したことが、ドイツの撮影技術の方向性に大きな影響を与えたことは間違いありません。カール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナー、カール・ホフマンらが師と仰いだカメラマンですが、トーキー以後は仕事が減り、後進のために撮影技術の本を書いたりしていました。
この「フレデリック大帝」4部作は、現在なかなか見ることのできない作品です。私も見ていません。35mmプリントは4部とも現存しているようです。第4部だけはDVD-Rでも流通しているようですが、クオリティはかなり悪いようです。

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (前篇)

フレデリック大帝(1921-22)
フレデリック大帝
Fridericus Rex

アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy

オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena

ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber

アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge

クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH

UFA 配給
Universum Film (UFA)

これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。

第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)

第二部 父と息子 (Vater und Sohn)

第三部 サンスーシ (Sanssouci)

第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)

この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。

ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。

しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。

この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。

「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、

この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。

Hans Feld

結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。

Reference

(1)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”