おぞましい野蛮が飛び出すとき

《保守派》と《リベラル》のあいだの溝が、SNSによって近年さらに広く、深くなっているという指摘は多い。私は、本当にそうなんだろうか、という疑問を抱いている。文化をめぐる政治が二極化したのは、Facebookや旧Twitterのせいなのだろうか。むしろ、もともとの議論がそのように設計されていたのではないだろうか。ポリティカル・コレクトネスの議論が湧き上がってくる最も初期の1980年代後半から90年代のニュース映像を見ていて、その設計について考えるようになった。

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ポリティカル・コレクトネスのポリティクス

最近、Fox NewsやCNNの映像を見ていて気になったことがあって、1970~90年代のアメリカのTVニュース映像を見直していた。そういったものを見ながら、いかにマスメディアが、現在のさまざまな議論(ディスコース)
のあり方に影響を与えてしまったかという点を考え直している。そのことを書き記す前に、まずは背景となった1990年代初頭のアメリカのキャンパスの風景から見直していこうと思う。

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スティーブ・バノン地獄で君臨することを夢見る男

ダニエル・デフォーは「神が祈りの家を建てると、かならずそこに悪魔が礼拝堂を建てる」と言った。そして、その礼拝堂のほうに人が集まるのだという。
礼拝堂になぜ人が集まるのかは、悪魔の説教を聞いてみないとわからないだろう。もちろん、悪魔の説教だから嘘や悪言や虚言にまみれているだろうし、それを聞き分けるのは相当の注意力を要する。だが、この説教には人々の迷いや怒り、憎しみ、絶望、悲しみ、不安といったものを捧げさせるだけの説得力があるに違いない。自分がそういったものを乗り越えられていると勝手に信じているからと言って、その説教の誘惑に魅せられている同胞をあざ笑っているわけにはいかない。

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曖昧な、曖昧な、 フィルム・ノワール [5]

《フィルム・ノワール》の総論的分析には、ドイツとの関係が常につきまとう。ひとつは《フィルム・ノワール》の視覚的(ヴィジュアル)スタイルは《ドイツ表現主義》の影響を受けたとする議論である。もうひとつは、ハリウッドでの《フィルム・ノワール》形成には、ナチスから逃れたユダヤ系ドイツ人が重要な役割を果たした、というものである。

総論のなかで何の躊躇もなく述べられるこれらの議論は、それぞれをつぶさに見ていく各論のレベルのなかでは、あきらかに齟齬を起こしている。1970年代にはだれも疑うことのなかった総論を支えていたはず基礎がほころび始めている。その状況をみてみたい。

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曖昧な、曖昧な、 フィルム・ノワール  [4]

フィルム・ノワールはフランス語だ

《フィルム・ノワール film noir》という言葉の語源に、ことさら深い意味があるのかどうか、正直なところわからない。だが、フランス映画批評を起源とするこの名詞は、様々な意味を持たされて時代を通過してきた。そして、これからもその意味を変えていくのではないだろうか。

この語の起源がフランスにあるという点が長いあいだ注目されていたのは、1946年から20年以上のあいだ、当のアメリカ人たちが《フィルム・ノワール》なるものを全く認知していなかった、という文化のあや(・・)のようなものを象徴しているからだろう。特にハリウッド映画という、本国では非耐久消費財とみなされていたものが、シリアスな批評に値する可能性を具体化してみせたのが《フィルム・ノワール》だった。

この言葉のその怪しげな出自と、その出自がその後の批評に与えたインパクトを見てみたい。

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曖昧な、曖昧な、 フィルム・ノワール [3]

フィルム・ノワール批評の広がり

1970年代後半から、一気に多くの映画批評家がフィルム・ノワールについて活発に語るようになる。「実存主義」というキーワードからフィルム・ノワールを読み解こうとする試み(ロバート・G・ポーフィリオ[1])、フィルム・ノワールをジャンルとして再定義しようとする論考(ジェームズ・ダミコ[2])といったものは、それまでの批評の延長と見てよいだろう。ジャック・シャドイアンの“Dreams and Dead Ends: the American Gangster/Crime Film (1977)”は、ハリウッドの犯罪映画史を展望する力作だが、フィルム・ノワールはあくまでギャング・犯罪映画ジャンル史のなかに登場する分類として位置付けられた。一方で、当時登場し始めた新しい映画批評の潮流と合流するように、新しいパースペクティブから論じられたものもある。映画の産業史的見地から、いわゆる《B級映画》とフィルム・ノワールの関係について見通す批評・研究(マッカーシー&フリン[3]、ポール・カー[4])、同時期に隆興しはじめたジェンダー映画批評(リチャード・ダイアー[5]、E・アン・キャプラン[6]等)などが挙げられる。

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