| 1928年頃のワルター・スレザック |
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| ベンジャミン・クリステンセン監督 「魔女(Haxän, 1922)」 |
| ベンジャミン・クリステンセン監督 悪魔への七つの足跡(Seven Footprints to Satan, 1929) |
| 1928年頃のワルター・スレザック |
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| ベンジャミン・クリステンセン監督 「魔女(Haxän, 1922)」 |
| ベンジャミン・クリステンセン監督 悪魔への七つの足跡(Seven Footprints to Satan, 1929) |
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| 天国へのエスカレーター アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「天国への階段(1946)」 |
| 崖っぷちのクライマックス アルフレッド・ユンゲが美術を担当した「黒水仙(1947)」 |
オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフは、ウィーンで美術を学んでいたのですが、1913年にヨーゼフスタットの劇場で美術を担当するようになります。第一次大戦後、映画界に転身、ラインホルト・シュンツェルの映画で美術を担当していましたが、1925年にE・A・デュポンの「ヴァリエテ(Variete, 1925)」を担当してから、ユンゲとともにE・A・デュポンの下で仕事をすることが多くなります。トーキーへの移行時期にイギリスへ移住、彼もアルフレッド・ヒッチコックの「三十九夜(The 39 Steps, 1935)」、「間諜最後の日(The Secret
Agent, 1936)」、「サボタージュ(Sabotage, 1936)」で美術を担当しますが、戦争が始まる前に亡くなってしまいます。
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| 「間諜最後の日(1936)」のチョコレート工場 美術:オスカー・フリードリッヒ・ヴェルンドルフ |
| ハンス・シュタインホフ |
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| 「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」の撮影風景(filmprotal.de) この吊ってあるカーボン・アーク灯が落ちて事故になったという記述があります。 |
カメラマンのカール・ホフマン(1885 – 1947)は、10代の頃から映画業界に入って、現像技師、映写技師などを経験し、1916年にデクラ社のカメラマンとなります(1)。そこで彼は、エーリッヒ・ポマーのもと、オットー・リッペルト監督の「ホムンクルス」6部作やアルウィン・ノイシュのメロドラマの撮影を担当します。1920年にフリーランスのカメラマンになり、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(Dr. Mabuse, dir Spieler, 1922)」、「ニーベルンゲン(Die
Niebenlungen, 1924)」、F・W・ムルナウの「ファウスト(Faust, 1925)」などの作品に参加します。20年代の末には自ら監督もするようになりました。彼はトーキー導入によってカメラが静止してしまうのを嫌い、「トーキー技術を導入してもカメラは自由に動かせるべきだ」と考えて実践しています。「會議は踊る(Der Kongress danzt, 1931)」は、リリアン・ハーヴェイ主演のヒット作として有名ですが、カメラは実に自由に動き回っています。「麦藁帽子(Der Florentiner Hut, 1938)」は、ウーファの製作責任者だったウォルフガング・リーベンアイナーが監督し、カール・ホフマンが撮影を担当した、当時としては実験的な映画です。まず、導入部にタイトルや出演者・スタッフの字幕が無く、それらはすべて大道芸人が歌っている歌詞のなかで紹介されます。そして、映画の中では「一人称のカメラ(subjective camera, POVショット)」が頻繁に使用されます。これは主役のハインツ・リューマンの視点から見えることを移しているのですが、婚約者や訪問客とキスをするシーンなど生々しいんですね。さらにプロットを推し進めるのに、ハインツ・リューマンが映画の観客に話しかける(第4の壁を破る)のです。
「一人称のカメラ」は、劇映画では時折挿入されることはあっても、ずっと長回しで使われることはあまりありません。有名な例として、ロバート・モンゴメリーが監督(および主演)した「湖中の女(Lady in the Lake, 1947)」で、これは全編「一人称のカメラ」でフィリップ・マーロウの世界を表現しようとしたのですが、実験的すぎたようです。「麦藁帽子」では、ハインツ・リューマンのコメディということもあって、むしろ良い効果を挙げているかもしれません。
カール・ホフマンは戦争末期にアグファカラーの「すばらしい日(Ein toller
Tag, 1945)」にも参加しますが、それが最後の仕事となりました。
美術を担当したハンス・ヤコビー(1904 – 1963)は、むしろ脚本家として有名です。1933年にナチスが政権をとったときにはスペインに亡命、そこで内戦が勃発すると、ローマからパリへと向かいます。しかし、ここもナチス・ドイツによって占領されるわけで、逃げる先々にファシストたちがやってきてしまう。なんとかアメリカに亡命してユニバーサルにもぐりこみます。ここで彼は「オペラ座の怪人(Phantom of the Opera, 1943)」そしてターザンシリーズの脚本を共同執筆します。ハンフリー・ボガートのサンタナ・ピクチャーズの「モロッコ慕情(Sirocco, 1951)」も彼の脚本です。50年代にドイツに帰国し、ハインツ・リューマンのヒット作を書きました。
(1)Hans-Michael Bock, Tim Bergfelder ed., “The Concise Cinegraph: Encyclopedia of German Cinema”
| ゲルハルト・ランプレヒト監督 (「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」の撮影中、filmportal.de) |
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誘惑
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| 「第五階級(Der Verrufennen, 1925)」から 無職の男達 |
トーキーへの転換時期にエーリッヒ・ケストナー原作、ビリー・ワイルダー脚本の「少年探偵団」を撮りましたが、これは爆撃で失われる前のベルリンの街 ―エーリッヒ・ケストナーが描いた街― を写し取った佳作です。30年代もいくつかのヒット作を監督、ナチスが政権を奪取した後も、彼は特に政治的な作風に陥ることはなかったようです。1945年に敗戦した直後、彼はソビエト赤軍管轄下にいてフィルムアクティフ(Filmaktiv)というグループの一員となり、1946年、東ドイツ初の映画スタジオDEFAに参加します。そこで当時のドイツ映画としては珍しい、廃墟のベルリンを舞台とした「ベルリンのどこかで(Irgendwo in Berlin, 1946)」を監督します。1949年には西ドイツに、そこで数作を監督しますが、このころから彼の関心事は映画史のほうへ移っていきます。彼が若いころに映写技師として働いていたときから収集し始めた膨大な映画のコレクションをもとに1962年にドイツ・シネマテークが設立されました。
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| 「吸血鬼(Vampyr, 1931)」カール・Th.・ドライヤー監督 ルドルフ・マテ撮影 |
| 「都会の牙(D.O.A.,1950)」 ルドルフ・マテ監督、アーネスト・ラズロ撮影 |
1940年代後半から監督に転向します。「都会の牙(D.O.A., 1950)」は最もよく知られたフィルム・ノワールの作品のひとつです。最大の理由はアメリカでパブリック・ドメインに落ちていて、安価でひどい画質のVHSが出回っていたからですが、それでも、この時期に(撮影は1949年)サンフランシスコとロスアンジェルスのロケで、ここまで印象的な映像を見せてくれる作品は稀少です。この映画は賛否両論分かれる作品で、荒唐無稽なプロットとやりきれないセリフで「ノワールの代表作とはとても言えない」という人もいます。しかし、撮影に精通したルドルフ・マテと撮影監督アーネスト・ラズロのとらえた、魔のような夜のロスの風景は飛びぬけてすばらしいと思います。ラストのブラッドベリー・ビルディングは、「ブレードランナー(Bladerunner, 1980)」「アーティスト(The Artist, 2011)」などでもロケーションに使用されました。
(1)RUDOLPH MATÉ: Great Cinematographers, http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mate.htm
(2)Issak Thorsen, Lars Gustaf: “Historical Dictionary of Scandinavian Cinema”
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| アルビン・グラウ |
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| 戦く影(1923) |
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| アウド・エギデ゠ニッセン(左)とパウル・リヒター 「海賊ピエトロ」 |
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| 「メトロポリス」撮影セットでのクライン゠ロッゲ |
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| ウィリアム・ウェルマン監督「また会う日まで」 左がセオドア・スパールクール |
「心の喜劇」の話に戻って、撮影監督のセオドア・スパールクール(1894 – 1946)は、ハノーバー生まれ。映写機のセールスマンをしていたところへ、ニュース映画のカメラマンとしての仕事で雇われ、第一次大戦中はロシアから中東まで題材をもとめて飛び回っていました。1916年から、エルンスト・ルビッチの(ほぼ)専属カメラマンとなり、ルビッチがアメリカにわたるまで彼の作品を担当します。1928年のG・W・パブーストの「邪道(Abwege)」を最後にドイツを離れ、イギリス、そしてフランスで仕事をします。ジャン・ルノワールの「坊やに下剤を(On purge bébé, 1931)」「牝犬(La Chienne, 1932)」などでも仕事をしています。その後渡米、1940年代には「ガラスの鍵(The Glass Key, 1942)」などフィルム・ノワールのさきがけになる作品を担当しています。
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| ロベルト・ヘルルト |
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| ワルター・レーリッヒ |
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| 「ファウスト」のセットを準備するヘルルトとレーリッヒ |
| 「運のいいハンス」 |
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| 「運のいいハンス」撮影風景 後ろのセットは建設中 |
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| 「運のいいハンス」 |
他にも、レニ・リーフェンシュタールが自分の立場を利用して、危険な立場にいる人間を助けた例がある。自身も1933年に移住を余儀なくされ、レニ・リーフェンシュタールに対しては最も批判的な映画史家、ロッテ・アイズナーの回想記に次のような話がある。ロベルト・ヘルルトの妻はユダヤ人だったが、ゲシュタポによる逮捕を彼女が阻止したと言うのである。ヘルルトは、リーフェンシュタールの「オリンピア」のプロローグのセットを担当していたが、リーフェンシュタールに助けを求め、彼女はすぐに対応して、ヘルルトの妻の安全を確保した。このことは、ヘルルト自身が、アイズナーに戦後語ったことである。ー ユルゲン・トゥリンボーン「レニ・リーフェンシュタール」より
(1)Jurgen Trimborn, “Leni Riefenstahl: A Life”