広告に載った九つの映画:心の喜劇 (中篇)

ロベルト・ヘルルト
ワルター・レーリッヒ
 「心の喜劇」で美術を担当しているのは、ロベルト・ヘルルト(1893 – 1962)とワルター・レーリッヒ(1892 – 1945)です。このコンビは映画における「ドイツ表現主義」の風景を作った張本人たちと言っていいのではないでしょうか。
レーリッヒは「カリガリ博士」ですでに美術として参加しています。その後、ヘルルトとコンビを組み、フリッツ・ラングの「死神の谷(1921)」、G・W・パブーストの「財宝(Der Schatz, 1923)」(YouTube)、フォン・ガーラッハの「王城秘史(Der Chronik von Greihuus, 1925)」、ジョー・マイの「アスファルト(1929)」を担当します。何よりも、ムルナウの映画には欠かせない美術監督たちでした。「最後の人」「タルチェフ」「ファウスト」、さらにムルナウのハリウッド作品「四人の悪魔(Four Devils, 1928)」まで美術を担当します。30年代も「会議は踊る(Der Kongress tanzt, 1930)」「紅天夢(Amphitryon, 1935)」などをコンビで担当しています。二人の担当については、文献によってまちまちで、バーデンハウゼンのようにヘルルトは衣装やアクセサリを担当していたと言う人もいれば、ロッテ・アイズナーのようにセット全般を担当していた、という人もいます。
「ファウスト」のセットを準備するヘルルトとレーリッヒ
ヘルルトとレーリッヒの二人で共同監督をした「運のいいハンス(Hans im Glück, 1936)」は、大失敗作でした。もともと1934年にウーファ社内で「金がかかる上につまらない」として却下された脚本でした。グリム童話にも採られているドイツの民話で、いわゆる「わらしべ長者」の正反対の話です。永年の働きの給与として金塊をもらったハンスが、母親に会いに家に戻る間に多くの人間に騙されて、金塊を馬に、馬を牛に、と交換していき、最後には砥石になってしまうのですが、それも川に落としてしまう。「ああ、これでせいせいした」とハンスは意気揚々と家路につく、と言う話です。この話に眼をつけたのが、ウーファに吸収されたデルタという会社でした。ここはナチス党の息のかかった会社で、配給は帝国プロパガンダ局。脚本は党の方針に沿って書き直され、ドイツの農村生活を豊かに描いて「農本主義」をことさらに強調するものになりました。ヘルルトとレーリッヒは、もちろん美術も自分たちで設計し、党のバックアップで湯水のように製作費を使ったのです。ロケーション撮影にはアーノルド・レーター、ジョセフ・ディートリッヒのような党の幹部も顔を出し、宣伝も製作時から豊富に行っています。中世の村のセット ーまるでデューラーの版画のようなー だけで10万帝国マルクもかかっています。1936年の1月に完成したもの、情報省での試写は不評。半年かけて90分あったものを1時間程度まで編集し、7月3日にウーファ・パラスト・アム・ズーでプレミア公開したのですが、上映は嘲笑とブーイングの嵐となり、たった一日で上映は取りやめられました。
「運のいいハンス」
「運のいいハンス」撮影風景
後ろのセットは建設中
「運のいいハンス」
とは言え、この「デューラーの版画のような」幻のようなセットの画像を見ると、それはそれで見てみたいですね。
この後、二人は共同で仕事をしなくなり、レーリッヒはいくつかのプロパガンダ映画の美術を担当、敗戦の年に亡くなります。ヘルルトは戦後も美術監督の仕事を続けました。二人がパートナーをやめた理由として「ナチに傾倒したレーリッヒをヘルルトが嫌悪した」などという記述も見られますが、定かではありません。むしろヘルルト自身が自由に仕事が出来ない状態にあったことが大きな原因かもしれません。彼の妻はユダヤ人で、ナチス統制下では彼自身も二級市民扱いです。ところが、彼の妻は収容所送りになっていないというエピソードがあります(1)。
他にも、レニ・リーフェンシュタールが自分の立場を利用して、危険な立場にいる人間を助けた例がある。自身も1933年に移住を余儀なくされ、レニ・リーフェンシュタールに対しては最も批判的な映画史家、ロッテ・アイズナーの回想記に次のような話がある。ロベルト・ヘルルトの妻はユダヤ人だったが、ゲシュタポによる逮捕を彼女が阻止したと言うのである。ヘルルトは、リーフェンシュタールの「オリンピア」のプロローグのセットを担当していたが、リーフェンシュタールに助けを求め、彼女はすぐに対応して、ヘルルトの妻の安全を確保した。このことは、ヘルルト自身が、アイズナーに戦後語ったことである。ー ユルゲン・トゥリンボーン「レニ・リーフェンシュタール」より
リーフェンシュタールは、使える男がいなくなると困るから動いたのか、それともかわいそうだと思ったのか。ナチに傾倒した人間が嫌になったのか、うまくいかないことがあって付き合わなくなったのか。そのあたりはもうわかりません。

(1)Jurgen Trimborn, “Leni Riefenstahl: A Life”

広告に載った九つの映画:心の喜劇 (前篇)

「心の喜劇」
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心の喜劇
Komödie des Herzens
1924
ロフス・グリーセ 監督
Rochus Gliese
リル・ダゴーヴァー、ナイジェル・バリー、アレクザンダー・ムルスキ 出演
Lil Dagover, Nigel Barrie, Alexander Murski
ソフィー・ホッホスタッター 原作
Sophie Hochstätter
ロフス・グリーセ、F・W・ムルナウ 脚本
Rochus Gliese , F.W. Murnau
テオドル・スパールクール 撮影
Theodor Sparkuhl
ロベルト・ヘルルト、ワルター・レーリッヒ 美術
Robert Herlth, Walter Röhrig
エーリッヒ・ポマー、ユニオン・フィルム 製作
Erich Pommer, Union-Film
ウーファ 配給
Universum Film (UFA)
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有名ダンサーのゲルダはヴィンゼンス男爵と長い間進展の無い関係を続けている。ヴィンゼンス男爵は遠い親戚の城に移り住むことになり、そこに住んでいたインゲという娘と恋に落ちた。その町にゲルダの劇団がやってくる…
これは、「美術監督」が多く関わっている映画です。監督のロフス・グリーセ(1891 – 1978)は、美術監督として有名な人物です。大学で美術史を専攻したのち、ベルリンの舞台で衣装を担当していました。この頃から表現主義(映画の表現主義ではなく、美術界での表現主義です)の影響を強く受け始めました。1913年、「プラハの大学生(Der Student von Prag)」(YouTube)で衣装を担当してから、パウル・ヴェゲナーの映像作品に深く関わるようになります。「ゴーレム」はヴェグナーにより三度映画化されましたが、グリーセはすべてで美術あるいは衣装を担当しています。またその後は、F・W・ムルナウ(この映画でも、脚本に関わっています)の作品でも美術を担当しています。「燃ゆる大地(Der brennende Acker, 1922)」(YouTube)「追放(Die Austreibung, 1923)」「大公の財政(Die Finanzen des Grossherzogs, 1923 )」(YouTube)とムルナウ作品の美術を担当し、1927年には彼と共にハリウッドに渡って「サンライズ(Sunrise, 1927)」の美術・セットを担当します。「サンライズ」がその後のハリウッドに与えた影響は計り知れません。ディープ・フォーカス(パン・フォーカス)を多用した構図、遠近法を強調したセット、セットを縦横無尽に動くカメラ、どれをとっても非常に緻密に計算された作品です。たとえば、街のオープンセットは、カメラの位置から遠くなるほど建物や車を小さくし、遠近法を強調することで広さを表現しています。(遠景では小人症のエキストラを配置しました。この手法はマイケル・カーチスが「カサブランカ(1942)」で使っています。)部屋の内部でさえ、カメラの位置にあわせたパースペクティブで作られています。このときのグリーセのアシスタントにエドガー・G・ウルマーもいます。
「サンライズ(1927)」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)
「サンライズ」
「サンライズ」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)
「サンライズ」のためのスケッチ
(ロフス・グリーセ)
「サンライズ」
ハリウッドからドイツに戻ったのちは、主に舞台美術を担当するようになります。特にナチスが政権を握ってからは、グスタフ・グリュンドゲンス(Gustaf Gründgens)の庇護のもと、ベルリンのヘッセン州立劇場の美術担当となります。グリュンドゲンスは、自身ゲイであることを公にしており、ゲッベルスやヒムラーは今にでも強制収容所送りにしたいと思っていたのですが、ヘルマン・ゲーリングの大のお気に入りの俳優でした。ゲーリングは彼のパトロンとなるばかりでなく、ヘッセン劇場のトップに任命までしました。グリュンドゲンスは、その立場を利用して、彼の元でゲイや旧共産党員などの芸術家をナチスの手が届かないようにかくまっていたと言われています。彼はトーマス・マンの娘エリカ(彼女もゲイでした)と一時期結婚しており、その弟のクラウス・マン(彼もゲイでした)と一緒に暮らしていた時期がありました。このクラウス・マンが、ナチスに屈したグリュンドゲンスを題材にした「メフィスト」をアムステルダムで出版、戦後にドイツ語版が出版され物議を醸しました。
グスタフ・グリュンドゲンス
フリッツ・ラングの「M(1931)」

広告に載った九つの映画:大暴風 (後篇)

「大暴風」
アルウィン・ノイシュ(1879 – 1935)は、ケルン生まれの俳優です。1914年に「バスカビル家の犬」でシャーロック・ホームズを演じて、一躍人気俳優になります。デンマーク、ノルディスクの映画「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1910)」で主演し、ここでは一人二役をこなします。1914年には同じ題材でドイツ・ヴィタスコープ社で主演。デンマーク版はプリントの存在が確認されていないのですが、ドイツ版は不完全ながらもプリントが発見され、修復されました。1920年代からはノイシュの人気も低迷して、出演映画の数も減ってしまいます。1933年にナチスが政権を掌握した後、ナチス党の労働組合であるNSBOに参加しますが、56歳で世を去ります。最後は忘れ去られてしまった俳優ですが、彼が1910年代に演じていたタイプの役柄は、コンラート・ファイトやロン・チェイニーなどの俳優たちが1920年代以降に演じる怪人の原型にもなっていると思います。たとえば、1914年のノイシュ/ドイツ版の「ジキル博士とハイド氏」のメークアップはスチールで見る限りなかなか衝撃的です。1920年のエーリッヒ・ポマー製作/F・W・ムルナウ監督の「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf)」のスチール(これもプリントの存在が確認されていません)に見られるコンラート・ファイトのメークアップは明らかにノイシュの影響が見られます。彼がデンマーク時代に出演した映画に「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」というのがあって、非常に気になります。そういえば、フリッツ・ラングの「スピオーネ(1928)」も日本のスパイが題材でしたね。
「ジキル博士とハイド氏(Ein seltsamer Fall, 1914)」
左がアルウィン・ノイシュ
F・W・ムルナウの「ジキル博士とハイド氏(Der Januskopf, 1920)」
中央がコンラート・ファイト、
右は(ハリウッドでドラキュラになる前の)ベラ・ルゴジ
「東京から来たスパイ(Spionen fra Tokio, 1910)」
撮影のクルト・シュタンケ(1903 – 1978)は、この映画がカメラマンとしてのデビューです。彼は、この後ドキュメンタリー、ショート・プログラムのカメラマンとして一年に数本のスピードで量産していきます。特に彼が1930年代後半にマルティン・リクリ監督の下で撮影した一連の「プロパガンダ科学映画」というのがあります。「太陽、地球、月(Sonne, Erde und Mond, 1938)」「雲の交響楽(Sinfonie der Wolken, 1939)」「ラジウム(Radium, 1941)」「風の問題(Windige Probleme, 1942)」などの作品で、科学のテーマを取り上げながらも、第三帝国の関心事にいかに科学が役立つかという方へ話が向いていくという映画のようです。マルティン・リクリはチューリッヒ生まれの科学者で、写真化学を専門としていましたが、1920年代よりドキュメンタリー映画の製作に深い関心を持つようになりました。1930年代には、ナチスの庇護の下で多くの科学ドキュメンタリー映画を監督しましたが、戦況が悪くなった戦争末期にはスイスに帰国、以前出版した自伝「私は百万の民のために撮影した」も都合よく書き換えてしまいました。一方、クルト・シュタンケは戦後もドキュメンタリーを撮影し続けたようです。
美術のフランツ・シュレーターは、1925年からカール・フレーリッヒ監督と組んで作品を作ることが多くなりました。もともと精力的な仕事人だったようですが、ドイツ国内の多くの美術監督がハリウッドへ移ってしまったり、ナチスの台頭と共に国外へ逃亡する中、仕事が増え続け、最も人気の美術監督となります。「フリードリッヒ・シラー - 天才の勝利(Friedrich Schiller – Der Triumph eines Genies、1940)」(YouTube)や「オーム・クルーガー(Ohm Krüger、1941)」(YouTube)などが代表作です。戦後は自分の製作会社で短編映画を製作したりしていましたが、ピーター・ローレが「ドイツ映画の黄金時代よもう一度」とドイツに帰国して監督・主演した「失われた男(Der Verlorene, 1951)」(YouTube)で美術を担当しました。
ピーター・ローレ監督・主演「失われた男(Der Verlorene, 1951)」
美術:フランツ・シュレーター

広告に載った九つの映画:大暴風 (前篇)

「大暴風」
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大暴風
Windstärke 9. Die Geschichte einer reichen Erbin
ラインホルト・シュンツェル 監督
Reinhold Schünzel
マリア・カムラデック、アルウィン・ノイシュ、アルベルト・ベネフェルド 出演
Maria Kamradek, Alwin Neuss, Albert Bennefeld
クルト・シュタンケ 撮影
Kurt Stanke
フランツ・シュレーター 美術
Franz Schroedter
アルゼン・フォン・クセレピィ、クセレピィ・フィルム 製作
Arzén von Cserépy , Cserépy-Film Co. GmbH
ウーファ 配給
Universum Film (UFA)
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この映画も「フレデリック大帝」のクセレピィ・フィルムの製作です。
武器製造会社の大富豪、ジョン・W・サムソンは、娘のマーベルに莫大な遺産を残します。ただし、条件がひとつあって、いとこのフラナガと結婚すること。マーベルには恋人がいるので、遺産を放棄し、オーシャン・ライナーで長い船旅に出ます。遺産をあきらめきれないフラナガは彼女を追って、結婚を迫ります。マーベルは、モーターボートで逃走を図りますが、そこは暴風圏…。
監督のラインホルト・シュンツェル(1888 – 1954)は、1916年に舞台から映画に転向した俳優です。1919年に、恐らく世界で始めてゲイを取り上げた映画「他の男とは違った男(Anders als die Andern)」(YouTube)で、コンラート・ファイト演ずるゲイの青年を恐喝する男の役で一世を風靡します。その後、ナチスがこの映画のプリントの多くを焼却してしまったため、完全な形では現存していません。シュンツェルは、1920年ごろからクセレピィ・フィルムで歴史大作などを監督、あるいは主演しますが、クセレピィがUFAに吸収されると自分の会社を設立します。ここから1927年の「この世の天国(Der Himmel auf Erden)」など数々のヒット作に主演、ドイツ映画界のトップスターとなります。実はこれらの映画では、監督は別人物になっていますが、ほとんどシュンツェル自身が監督したと言われており、「シュンツェル・フィルム(Schünzel-Film)」とまで呼ばれています。エルンスト・ルビッチのような上流階級を舞台とした上品なコメディ(ソフィスティケーテッド・コメディ)で、彼自身の身のこなしやファッションが注目されました。代表作は「カルメン狂想曲(Viktor und Viktoria, 1933)」(YouTube, 一部)、女性が男装して上流社会に紛れ込む「人間違い/性別間違い」コメディです。これは、ブレーク・エドワーズ監督、ジュリー・アンドリューズ主演の「ビクター/ビクトリア(1982)」の原案になった作品ですね。また「紅天夢(Amphitryon, 1935)」(動画一部)のようなギリシャ劇を借りたコメディも監督しています。
「他の男とは違った男(1919)」
ラインホルト・シュンツェルとコンラート・ファイト
「この世の天国(1927)」
女装をしているのがシュンツェル
シュンツェルは、母親がユダヤ人でした。このことが、実はナチスの上層部の頭痛の種でした。彼くらい人気のあるスターをゲットーに押し込めたり、国外に追放したりするのは、あまりに国民の反感を買う。だから、彼は「名誉アーリア人」ということにして、とりあえず「不問」ということにしたのです。ここにもナチスの「使える人間は使う」というご都合主義が反映されています。シュンツェルは、そういうナチスに諧謔的な眼を向けていました。「紅天夢」でも「天から降りてくる神」というくだりがあります。明らかにリーフェンシュタールの「意思の勝利」でヒトラーが飛行機で雲の上から降りてくるシーンを風刺しています。彼がこの映画をベルリンでロケしているときには、あのゲッベルスでさえ覗きに行ったくらいですから、こんな危険な橋を渡っても大丈夫、と思ったのかもしれません。
彼はそれでも1937年にドイツを脱出、ハリウッドに向かいます。フリッツ・ラングの「死刑執行人もまた死す(Hangmen Also Die, 1943)」(YouTube, 予告編)のゲシュタポ、リッター、ヒッチコックの「汚名(Notorious, 1946)」でアンダーソン博士などを演じます。戦後、ドイツに帰国しますが、戦前のような人気を回復することはなかったと言われています。
ヒッチコックの「汚名(1946)」
アンダーソン博士を演じるラインホルト・シュンツェル

広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (後篇)

「沈黙の塔」

撮影のギュンター・リッタウ(1893 – 1971)は、もちろん、フリッツ・ラングの「メトロポリス(1927)」をカール・フロインドと担当した有名なカメラマンです。特に「特殊撮影の」リッタウとして有名でした。ドイツ国内でのはじめてのトーキー「心のメロディ(Melodie des Herzens, 1929)」(Youtube, 部分)やジョセフ・フォン・スタンバーグがドイツで監督した「青い天使(Der Blaue Engel, 1930)」(YouTube)の撮影を担当し、1930年代からは自ら監督もこなしました。1940年の「潜水艦よ、西へ!(U-Boote westwärts!, 1941)」(YouTube)は彼が監督した国策映画のヒット作です。戦後は50年代から撮影監督にもどっています。
「沈黙の塔」ゼニア・デズニ
ルディ・フェルド(1897 – 1994)は、ベルリン出身の舞台美術家です。1910年代後半からナイトクラブのポスターなどを手がけ、映画の美術は1920年代から担当しました。1926年にはウーファの宣伝PR担当部長になり、主にウーファ・パラスト劇場の舞台や看板美術を担当します。ウーファ・パラスト・アム・ズー(Ufa Palast am Zoo)はベルリンのブライトシャイトプラッツにあった、ウーファのフラッグシップの劇場です。20世紀のはじめに隣接する動物園のホールから映画館に転換され、1926年に改修されて2000人以上を収容できる最大規模の映画館となりました。
「スピオーネ」公開時のウーファ・パラスト劇場装飾デザイン
フリッツ・ラング監督「月世界の女」公開時の
ウーファ・パラスト劇場内の装飾
(ルディ・フェルド)
パラマウント映画「つばさ」公開時のウーファ・パラスト劇場
(ルディ・フェルド)
ルディ・フェルドは、この映画館で新しい映画がプレミア上映されるたびに、劇場の内外に独創的な装飾美術や仕掛けを創り出していきました。1928年のフリッツ・ラングの「スピオーネ(Spione)」(YouTube, 部分)の公開の際には、入り口のファサードに大きな眼を据えつけて、そこからサーチライトが劇場前を照らす仕掛けで話題になりました。「アスファルト(Asphalt, 1929)」(YouTube)の公開の時には都会の通りが写された透明なシートが貼り出され、その前を点滅する自動車の仕掛けが動いていたと言われています。また映画のプレミア公開の前にライブショーを催すのも、この劇場の特徴だったのですが、この舞台芸術もルディ・フェルドが担当しました。しかし、1933年、ナチスが政権を掌握すると、ユダヤ人である彼はウーファ経営陣から「長い間は雇えないから」と言い渡され、国外へ脱出します。パレスチナでナイトクラブでも経営しようかとしているところへ、弟で俳優のフリッツ・フェルドからの誘いがあり、ハリウッドへ。ハリウッドで主にプログラム・ピクチャーの美術を担当しました。
 
ウーファ・パラスト劇場での
「サム・ウディングとチョコレート・キディズ・オーケストラ」のショー
舞台装飾はルディ・フェルド(1928)
ルディ・フェルドがプロダクション・デザインで関わった
フィルム・ノワールの傑作「ビッグ・コンボ(1955)」

広告に載った九つの映画:沈黙の塔 (前篇)

「沈黙の塔」

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沈黙の塔
Der Turm des Schweigens
1925年
ヨハネス・グウター 監督
Johannes Guter
ゼニア・デズニ、ナイジェル・バリー、フリッツ・デリウス 出演
Xenia Desni, Nigel Barrie, Fritz Delius
クルト・J・ブラウン 脚本
Curt J. Braun
ギュンター・リッタウ 撮影
Gunter Rittau
ルディ・フェルト 美術
Rudi Feld
エーリッヒ・ポマー、デクラ・フィルム、ウーファ 製作
Erich Pommer. Decla-Film-Gesselleschaft Holz & Co., Universum Film (UFA)
デクラ・ライ、ウーファ 配給
Decla-Leih, Univerum Film (UFA)
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飛行機が砂漠で墜落し、二人の男が生死の境をさまよう。そのうちの一人はもう一人を欺いて、自分だけ逃げ、さらに大事な研究成果と恋人をさらってしまう。復讐を誓った男がたどり着いた恐ろしい塔に住んでいた、娘とその父親。その父親はマッド・サイエンティストだった…。
もう、上のスチール写真だけでわくわくするような映画ですね。マッド・サイエンティストが、塔の上であんな格好しているのですから、いい映画に間違いありません。
この映画は「忘れられた名作」として近年注目を浴びている作品です。2006年にプリントの修復が行われ、2007年にベルリン映画祭で記念上映されました(1)。1924年当時、ウーファのスタジオでは4本の作品が製作に入っていたと記録されています。F・W・ムルナウの「最後の人」、フリッツ・ラングの「ニーベルンゲン」、アーサー・フォン・ガーラッハの「王城秘史(Zur Chronik von Grieshuus, 1925)」、そして「沈黙の塔」。なかでも、この「沈黙の塔」の不気味な塔のセットはひときわ目立っていたそうです(2)。
監督のヨハネス・グウター(1882 – 1967)は、ラトビア出身です。彼は、1905年の革命のときに警官を殺害し、ベルリンに逃亡してきました。はい、そうです。彼はいきなり殺人犯です。翌年、理由は定かではないのですが、ラトビアに舞い戻り、そこで逮捕され収監されます。一年間の収監の後、裁判所へ連行される際に再び逃亡、その後はヘルシンキ、コペンハーゲン、そしてウィーンと放浪します。舞台経験をつんだ後、1917年に映画界に転身、1919年には自身の映画会社、センタウア・フィルムを立ち上げます。彼は1920年代、同じラトビア出身の女優、ゼニア・デスニを主演にした作品を何本か監督しています。そのうちのひとつがこの「沈黙の塔」です。彼は、1922年にウーファがデクラを合併したときに移ってきた映画監督たちーフリッツ・ラングやF・W・ムルナウもいますーのひとりです。1930年代半ばまでは、軽い娯楽作品を監督していましたが、その後文化映画を何本か製作した後、公の場から姿を消します。
「支配者(1937)」
脚本のクルト・J・ブラウン(1903 - 1961)は人気の作家、脚本家でした。1920年代から30年代には、週刊誌などにたびたび寄稿し、小説も多く出版しています。ロマンスから何でも担当していましたが、ナチスの台頭後にはプロパガンダ映画の脚本も手がけています。悪名高い「突撃隊員ブラント(S.A.-Mann Brandt, 1933)」(YouTube)の脚本にも参加したようですが、クレジットは外されています。フリッツ・ラングの元妻、テア・フォン・ハルボウと共同で「支配者(Der Herrscher, 1937)」の脚本も担当しました(3)。これはかなりストレートなプロパガンダで、今でも上映制限がかかっています。戦後も特に支障なく書きつづました。
(1)Lathrios Film Festival Database
(2)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”
(3)映画「支配者」については、counter-correntの記事(英語)に詳しく書かれています。

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (後篇)

「フレデリック大帝」
 
「フレデリック大帝」の製作・監督・脚本をしたアルゼン・フォン・クセレピィはもともとハンガリー人です。母親はドイツ人ですが、父親はハンガリー人の画家でした。彼の一生を見ていると、ドイツ人になりたかったのに、ならせてもらえなかった、という印象を受けてしまいます。ブダペストで自動車のエンジニアをしていたのですが、その後ベルリンに移り住み、1912年ごろから映画の製作に関わり始めます。1914年に第一次世界大戦が始まるとオーストリア=ハンガリー軍にパイロットとして従軍します。1918年に「ファウスト」を製作しようとしますが、「非ドイツ人がドイツの古典を手がけるとは何事か」と強烈な反発に会い、あきらめます。そして、この「フレデリック大帝」を手がけた後も自分の製作会社で映画を作り続けるのですが結局うまくいかず、1924年、ウーファに会社を売却してしまいます。翌年にはアメリカに渡って、ハリウッドでの映画製作を試みます。パラマウントにH・G・ウェルズの「世界戦争」の映画化の話を持ちかけますが頓挫、「創生」「ラスプーチン」などの企画もすべて失敗します。1927年にはニューヨークで「クゼレピィ・ムービーズ」を設立するも行き詰ってしまい、翌年ベルリンに戻ります。さらにここでも11月革命の映画の製作で政治志向性の意見が合わず、監督を辞しています。
1930年に、彼はナチス党員になります。
1932年、ゲッベルスに映画「Deutschland über alles」の企画を持ち込みます。また、ベルリン滞在中のエイゼンシュタインについて記事を書いて、母親の旧姓(デーリンゲルというドイツ名)で出版して「ドイツ人になる」ことを誓っています。翌年に再び映画製作会社を設立するのですが、ゲーリングのドイツ空軍がすぐそばに飛行場を作り始めたために、スタジオの建設ができず、やっと作った映画もウーファとの間でいざこざが起き、会社は破産します。
1939年にブダペストに戻った後は、1941年まで数作を監督した後、引退したかのごとくぱったりと音沙汰が無くなり、1958年に亡くなります。
ワイマール期の早い時期に保守的な作品で成功を収めただけでなく、ナチス党員でもあったクセレピィが、ナチス政権下でかんばしい扱いを受けていないのは、彼自身の性格の問題か、それともナチス幹部や同調者たちの問題か、そこはよくわかりません。しかし、あれほどゲッベルスやヒトラーに気に入られ好待遇を受けたレニ・リーフェンシュタールやヴァイト・ハーランがナチス党員でなかったことを考えると、党員 -しかもわりと早い時期に入党していた- であった事実は、何の役にも立たないことがあるのだということですね。

また、彼のように1920年代後半には多くのヨーロッパ映画人がハリウッドを目指しています。しかし、エルンスト・ルビッチやマイケル・カーチスのように成功して名を残したのは一握りで、ヨーロッパに戻ってしまった人も多くいます。クセレピィは一本も作れていないので、かなり極端な例ですが、ヴィクター・シェーストロム、モーリッツ・スティルレル、ヴィクトル・トールジャンスキー、ここでも取り上げたパウル・フェヨス、後で取り上げる予定ですがベンジャミン・クリステンセンなど、数えればきりがありません。F・W・ムルナウも亡くなったときには、ハリウッドに見切りをつけてしまっていました。しかし、このサイレント末期の「宇宙戦争」は実現していれば、面白かったかもしれませんね。

「フレデリック大帝」の脚本に名を連ねているハンス・ベーレントは、ユダヤ人です。ナチスの台頭と共にドイツから脱出し、スペイン、オーストリアと転々としますが、ベルギーで拘束され、1940年にアウシュヴィッツ収容所に送られ、殺されます。同じく名を連ねている、ボビー・E・リュトケは、1928年ごろから反共作品の脚本などを手がけ、ナチスの初期のプロパガンダ映画「ヒトラー青年 クヴェックス」も彼の手によるものとされています(リュトケ自身は、戦時中は自身が書いたと主張、戦後は否定)。彼は戦前の映画出版で最もポピュラーだった「Film Kurier」の創刊にも携わっていました。彼は、戦後の「シュピーゲル」誌のインタビューで、いかに自分がこの「フレデリック大帝」の製作でイニシアチブをとったかを語っていますが、ベーレントの名前を口にすることはありませんでした。
撮影のギイド・ジーベルは、ドイツ映画の黎明期のもっとも重要なカメラマンです。彼が「プラーグの大学生(1913)」で2重写しを用いてドッペルゲンガーを表現したことが、ドイツの撮影技術の方向性に大きな影響を与えたことは間違いありません。カール・フロイント、フリッツ・アルノ・ワーグナー、カール・ホフマンらが師と仰いだカメラマンですが、トーキー以後は仕事が減り、後進のために撮影技術の本を書いたりしていました。
この「フレデリック大帝」4部作は、現在なかなか見ることのできない作品です。私も見ていません。35mmプリントは4部とも現存しているようです。第4部だけはDVD-Rでも流通しているようですが、クオリティはかなり悪いようです。

広告に載った九つの映画:フレデリック大帝 (前篇)

フレデリック大帝(1921-22)
フレデリック大帝
Fridericus Rex

アルゼン・フォン・クセレピィ 監督
Arzen von Cserépy

オットー・ゲビュール、アルベルト・シュタインリュック、エルナ・モレナ 出演
Otto Gebühr, Albert Steinrück, Erna Morena

ギード・ジーベル 撮影
Guido Seeber

アルゼン・フォン・クセレピィ、ハンス・ベーレント、ボビー・E・リュトケ 脚本
Arzen von Cserépy, Hans Behrendt, Bobby E. Lüthge

クセレピィ・フィルム 製作
Cserepy Film Co. GmbH

UFA 配給
Universum Film (UFA)

これは、1921年から1922年にかけて製作された4部作です。全290分。

第一部 疾風怒濤 (Sturm und Drang)

第二部 父と息子 (Vater und Sohn)

第三部 サンスーシ (Sanssouci)

第四部 運命のいたずら (Schicksalswende)

この映画は、ウーファ史上初めて「政治的問題作」として話題になった作品です。1922年の3月にベルリンのウーファ・パラスト劇場で第一部「疾風怒濤」が公開されたとき、ウーファは、プロシア軍人の服装をさせた男たちをパレードさせるなどかなり過激な宣伝を行いました。この映画の国粋主義的な香りとウーファ設立のいきさつが相俟って、国内の左翼陣営を刺激することになったのです。

ウーファはもともと第一次世界大戦中の1917年、プロパガンダ映画製作を主な目的として、ドイツ銀行が主体となって設立された国策会社です。それが大戦後の1921年に民営化され、ウーファは「共和国的な」 ーすなわち大衆の好みに迎合的なー 性格を帯びるようになります。この時期の有名な作品として、フリッツ・ラングの「ドクトル・マブゼ(1922)」ディミトリ・ブコウスキーの「ダントン(1921)」などがありますが、暗い世相を反映した犯罪者や、歴史スペクタクル、室内劇、社会派ドラマなど、広いテーマを扱っていました。当時のドイツ国内は、その後のヒンデンブルグなどに代表される「帝国派」と社会民主党などに代表される「人民派」に大きく二分されていました。そのどちらに与するともなく、大衆娯楽を提供するのがウーファだと思われていました。ところが、「フレデリック大帝」は、かつてのプロイセン帝国の栄光を賛美し、フリードリッヒ二世を英雄として描いていたのです。明らかに「帝国派」 ーかつてのドイツの栄光を取り戻すー のスタンスの映画です。リベラルの「ベルリナー・ターゲブラット」紙は検閲による上映中止を求め、社会民主党系の「フォアヴェルツ」紙は映画のボイコットを呼びかけました。

しかし、この映画は大ヒットし、皮肉にもその後「プロイセン映画」と呼ばれる一連のジャンル映画を作ることにもなったのです。この映画を含めたプロイセン映画のほとんどで、オットー・ゲビュールが大帝を演じています。最も有名なのは1933年の「Der Choral von Leuthen」です。もともと、プロイセン映画が描いていた保守性と、ナチスの思想は必ずしも相容れなかったのですが、愛国精神の鼓舞という点で非常に使いやすい道具であったのは間違いありません。

この映画の製作したクセレピィ・フィルムは、歴史映画を得意としており、舞台俳優から映画監督に転身したラインホールド・シュンツェルが「マグダラのマリア(1919)」「キャサリン大帝(1920)」などのヒット作を作っていました。「フレデリック大帝」は、アルゼン・フォン・クセレピィ自身が監督した大作です。時代考証が重んじられ、フリードリッヒ・ジーブルグ博士なる人物を呼んで、帝国軍の制服からサンスーシの内装にいたるまで正確に復元されたようです。原作はヴァルター・フォン・モロ、「野卑で、下品な国粋主義者ばかりが出てくる作品」と一部ではけなされていましたが、その後も多くのプロイセン映画が下敷きにしています。

「フレデリック大帝」の上映は、政治闘争の舞台となります。社会民主党や共産党は、「このゴミを上映する映画館は反動的だ」と非難し、上映する映画館は警察の警護を必要としました。しかし、民衆の大多数はこの大作を歓迎し、ベルリンのウーファ・パラストは定員2000人の2倍、3倍の超満員の上映が続きました。映画評論家ハンス・フェルドによれば(1)、

この大衆の熱狂的な人気に(左派が)まともに闘っても勝ち目はなかった。この少数反対派ができることと言えば、歴史的知識に乏しい観衆を混乱させることくらいであったが、これはベルリンなどの大都市のプレミア上映では効果があった。必要なのは(18世紀の)軍服の知識とすばやい反応神経だけ。オーストリア軍、ロシア軍、フランス軍が、スクリーンに登場したら、すぐに拍手大喝采をするのだ。知識に乏しいほかの観客はつられて喝采する。敵に攻め込まれてプロシア兵が退却しているのを拍手して喜んでいたと愚か者たちが気づくのは、字幕が出てきてからだ。

Hans Feld

結局、ウーファにとっては「売れるもの」であれば、それが帝国派の反動的な映画であっても、インドの神秘的な伝説であっても、犯罪地下組織のアクションであっても、なんだってかまわなかったのが本当のところです。

Reference

(1)Klaus Kreimeier, “UFA Story: A History of Germany’s Greatest Film Company, 1918 – 1945”

広告に載った九つの映画 (序)

これは、1925(大14)年9月21日号のキネマ旬報に掲載された広告です。右から読むので読みにくいですが「おゝうるはしの ウフア映画」とあります。ドイツ映画を輸入していた会社の広告で、とくにウーファ(Ufa)社の映画を扱っていたようです。ここにはこの会社が輸入した(あるいは輸入する予定の)9本の映画が宣伝されています。私はウーファの映画、ドイツ表現主義の映画についてはかなり好きでよく見ているつもりだったのですが、これらの映画の中で知っていたのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけでした。1925年ごろと言えば、古典ドイツ映画が頂点を迎える時期です。フリッツ・ラングが「ニーベルンゲン」2部作を完成し、F・W・ムルナウが「最後の人」を撮った時期です。これから「メトロポリス」や「嘆きの天使」が出てくる時です。ウーファが映画史にそれこそ「燦然と輝く」時代です。ですが、ここに挙げられた映画を、私は聞いたこともありませんでした。ここに並んでいる、監督や俳優の名前もあまり耳にしたことがありません。そこで、それをタイトルごとに調べてみました。そこから見えてきた色んなことがあまりに面白いので、ここに書きとめておこうと思います。

ウーファという会社の大まかな歴史については、ウィキペディアに譲るとして(笑)、この時期から1945年にいたるまでのドイツ映画界についてちょっと述べておこうと思います。私たちは、どうしても「巨匠」や「名作」の歴史に眼を奪われがちですし、「問題作」や「汚点」に注意がいってしまいます。つまり、ジーグフリード・クラカワーの「カリガリからヒトラーへ」やロッテ・アイズナーの「The Haunted Screen」のような映画史書、批評書が語り続けてきた、ヴェゲナー、ラング、ムルナウといった巨匠やその名作、リーフェンシュタールのような問題人物のプロパガンダ作品が、この時代のドイツ映画を代表していると思いがちになってしまうことです。もちろん、それらは大作であり、ウーファが全面的にバックアップした作品群ではあるのですが、同時にウーファ、あるいはドイツの観客がそういう好みだったと言うわけではないと思うのです。たとえば、ナチス政権下の映画はすべて「意思の勝利」のような、あるいは「ユダヤ人ズース」のようなプロパガンダ映画だったかと言うと、むしろそういう映画は稀で、大部分の映画は現実逃避的なエンターテーメントだったわけです。

ウーファは、特に芸術映画の根城というわけではなく、この時代のドイツに特徴的な一企業だとおもいます。ワイマール時代は、資本家の保守的な性格をもった利益追求型の企業、そしてナチスの台頭後は、政権に吸収されることに抵抗しきれずに「国家」が要求するものを提供しながら利益を追求する、という道をたどります。「国家」と言っても、なんだか分からない連中が相手です。ヒトラーもゲッベルスも映画が好き。不思議なことに二人とも勇ましいプロパガンダ映画は二の次で、ヒトラーは「(大して面白くも無い)センチメンタルな社会派コメディ」がお好みで、ヴァイス・フェルデルという俳優の「二つの封印(Die beiden Seehunde, 1934)」が特にお気に入り(1)。ゲッベルスはもう少し映画の好みが高尚で、一応「ユダヤ・ボルシェヴィキの」エイゼンシュタイン監督の作品には一目おいている。二人に共通するのは、美人女優に眼が無いこと。総統は、レナーテ・ミュラーのことを大いに気に入ってしまい、彼女の映画をもっと作るように命令。問題は、彼女には秘密のユダヤ人富豪の恋人がいたことです。ゲシュタポに嗅ぎつかれて、彼女は謎の死を遂げてしまいます。ジェニー・ユーゴは、ヒトラー、ゲッベルス、ゲーリングにいたずらをして射殺されなかった唯一の人間です。ヒトラーに「私は総統だ」と叫ぶオウムをプレゼントしたり、ゲーリングの食事にゴムのソーセージを出したり。ジェニーがいない夜は、特別に撮影された彼女の全裸体操フィルムを総統はご覧になっていたようです(2)。リダ・バーロヴァ(「メトロポリス」の主役グスタフ・フレーリッヒの元婚約者)に狂ってしまって、ゲッベルスは自殺未遂をしてしまう始末。1920年代後半から敗戦まで、ドイツ映画は女優の時代と言ってもいいかもしれません。リル・ダゴーヴァー、亡命してしまったマレーネ・ディートリッヒ、レニ・リーフェンシュタール、リリアン・ハーヴェイ、ツァラ・レアンダー、マリカ・レックと挙げるときりがありません。彼女たちが、美しく着飾り、歌い、踊り、愛にうつつを抜かす(多くの場合勇敢な軍人に)、そんな映画が大量生産されました。

ジェニー・ユーゴ
リリアン・ハーヴェイの”Ins Blaue Leben (1939)”公開時の
ウーファ・パラスト・アム・ズー劇場

とは言え、文化政策の一環として、政治色が濃い映画も製作されました。そのためにナチス政権はウーファを国有化し、ゲッベルスの配下においたのです。完全に徹頭徹尾プロパガンダの目的で製作された映画は、本当に数えるほどで、歴史上の人物や出来事に沿って、ナチスのイデオロギーを刷り込んだ内容のものがほとんどです。

1925年の段階では、まだナチスはミュンヘンの田舎に巣くっているゴロツキくらいなものです。しかし、この広告に並んでいる作品に関わった人たちが、その後歩む道を考えると、この広告に凝縮された世界が奇跡にようにも感じられます。

ここに挙げられている映画について、ひとつずつ書いていきます。あらかじめ告白しておきますが、私が見たことがあるのはカール・Th・ドライヤーの「ミカエル」だけです。一般にDVDなどで流通しているのは、この作品だけです。「フレデリック大帝」の第四部が非常に低いクオリティのもので出ています。「沈黙の塔」は最近ヨーロッパでリバイバル上映がされています。その他の作品はプリントがアーカイブに存在していることがわかっているものもありますが、大半が行方不明です。調査には、英語、ドイツ語の文献を参考にしました。

References

(1) Eric Rentschler, “The Fuhrer’s Fake” in Hitler – Films from Germany: History, Cinema and Politics Since 1945edited by Karolin Machtans, Martin A. Ruehl

(2) Hitler’s Sex Life, Liberty Magazine

西部戦線一九一八

また、G. W. パブストの映画について書こうと思います。

1930年には、第一次世界大戦のドイツ軍の悲惨な戦いを描いた映画が2本公開されました。有名なのは、ユニヴァーサルが製作した、ルイス・マイルストン監督の“All Quiet on the Western Front”[邦題:西部戦線異状なし]ですね。この作品は、アカデミー賞を受賞したことも手伝って、今でも「古くならない反戦映画」という評価もちらほら見ることがありますし、廉価版のDVDでどこに行っても売っています。しかし、もうひとつの映画、G. W. パブストの“Westfront 1918″[邦題:西部戦線一九一八]は公開当時こそ反響が大きかったのですが、今はあまり見る機会がありません。IMDBでも、ルイス・マイルストンの「西部戦線異常なし」は36000人以上が点数をつけているのに、パブストのほうは500人くらいしかつけていません。たいした映画ではなかったのかというと、そうではありません。公開後、この映画をナチス政権が否定したことで、ドイツ国内で忘れ去られてしまったことや、映画そのものの救いのなさが手伝って、いわゆる名作としては思い出されなかったのではないかと推測します。
ルイス・マイルストンの作品は「メインとなるプロットはほとんどないといってよく、ただ塹壕の中で戦うエピソードが次から次へと描かれるだけだ」とも言われますが、それでも主人公のポールの視点からみた戦争の世界という一貫性があります。パブストの映画はもう「視点の一貫性」さえもあやふやで、最初から最後まで継続した「物語」というものは放棄しています。前半は「学生」と呼ばれる青年兵と戦地の村の娘との恋に若干焦点が当たっているのですが、「学生」は戦死してしまい、後半は同じ部隊のカールに関心が移ります。「西部戦線異状なし」のような、ポールとそれを取り巻く戦友、というドラマやエピソードは、「一九一八」にはないのです。唯一ドラマらしくなりそうなポイントといえば、休暇をもらったカールが家に戻ってみると、妻が別の男と寝ているというエピソード。しかし、パブストはそれさえもドラマチックに描くことをせず、むしろ恐ろしいまでの無気力で画面を覆います。カールは怒りもしないし、悩みもしない、だからと言って許しもしない、もう、自分の妻が食料欲しさに誰と寝たということさえも、どうでもいい。また戦場に向かうカールと彼の妻が、階段で別れるシーンは、唖然とするくらい、見る者を拒むのです。これを見たときは、私は自分自身がいかにメロドラマ的な展開を期待してしまっているか、思い知らされました。
これは、戦闘シーンにも言えることです。マイルストンの「西部戦線異状なし」には、有名な機銃掃射のトラッキングショットがあります。突撃してくる敵兵がばたばたと斃れる様子を、機関銃の音と共に見せるのです。カメラが機関銃のように人を撃ち殺していく、そういう錯覚に襲われます。しかし、パブストの戦闘シーンは、固定されたカメラによる長まわしで、そのような編集技術を駆使したものにはなっていません。敵が攻めてくるのを塹壕からライフルでなんとか撃っている、そういう兵士の視点なのでしょうか。ここでも、ドラマチックな「闘い」の描写を徹底的に避け、なにか不気味に突き放した映像になっています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ciq9ts02ci4?rel=0]
「西部戦線異状なし」の戦闘シーン
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=1OcGTMyFJPE?rel=0]
「西部戦線1918」の戦闘シーン

パブストの「西部戦線一九一八」が衝撃的なもうひとつの要因は、映画のはじめとおわりに出てくる戦闘で、いずれも自軍の攻撃によって兵士が斃れていく様子を描いていることだと思います。映画のはじめのほうでは、味方の後方からの砲撃が距離が短く、最前線の塹壕に落ちてきて苦しめられる様子が描かれます。トンネルが崩れ、トンネルの下敷きになりそうな戦友たちのうえに、味方の砲弾が容赦なく着弾します。映画がはじまっていきなり全くやるせない話なのです。そして映画の終わりのほうのクライマックスでは、味方によって自分たちの塹壕に毒ガスが撒かれるのです。敵は戦車を従えて容赦なくカールたちの塹壕を襲ってきます。カールの部隊の多くは負傷し、敵が累々と積み重なる戦友の死体を踏みつけて前進していきます。このときに、塹壕の中で味方によって毒ガスが撒かれ、防毒マスクを装着したドイツ軍兵士たちが後方から現れて、敵を押し戻していくのです。
この映画は「国を防衛するとか皇帝のためにとかではなく、ただ目の前にいる愛する人を守る」という考えも、甘ったるいメロドラマだと静かに言い切っているのです。「家族を守る」「愛する人を守る」と言っても、家族は貧困にあえぎ、出征した夫のことなど忘れてしまっている。「友を守る」なんて言っても、上官は戦果をあげるためなら、自分の部隊の塹壕に毒ガスを撒くこともいとわない。「自分が誰かを守る」なんてすべてまやかしで、戦争に巻き込まれてしまえば、自分はただの肉片に過ぎず、なんの力も持ち合わせていないということを、淡々と描ききっているのです。この映画では、そういうことを誰一人演説をぶつわけではありません。ただ惨めな状況に黙って死んでいくだけです。
でも、本当に黙っているか言うと、そうではない。
「西部戦線一九一八」は、パブストの初めてのトーキーです。この映画の音で最も心に刻まれる「音」は、正気を失った大尉の絶叫でしょう。全編を通してこの大尉は非常に冷静な人物として描かれていますが、後半の戦闘の場面で、上官から毒ガスを自陣に撒くように命令され、その命令を遂行したものの、彼自身は正気を失うのです。聞く者の鼓膜を切り裂くような意味不明の叫びに続いて、野戦病院にこだまする数々の悲鳴が聞こえてきます。そのすべてが、自分の何かを失ったことへの叫びです。目を失った者、両足を失った者の、「あるべきものがない」ことへの慟哭です。その悲鳴とうめきの中で、カールがボソッと言うのは「仕方なかった、自分のせいではない、とみんな言ってきた。でも、これはみんなのせいなんだ。」こういうメッセージを、それまで淡々と撮っていたカメラが捉えるのは違和感を覚えるのですが、それ以上に、この映画の後にナチスが政権を掌握して戦争と虐殺を繰り返すことを考えると、このメッセージが、何かを予見していたようにも思われます。