総統のための装置

わたしたちの果てなき切望 (9)

ファシズムは総統の崇拝〔礼拝〕によって大衆を屈服させているが、このように大衆を力ずくでわがものにすることに対応しているのが、礼拝価値を生み出すために役に立つ器械装置を力ずくでわがものとすることなのである。

Walter Benjamin [1]

1.

ナチス・ドイツのプロパガンダ映画を分析したウェルチによれば、ナチス政権下で製作された長編劇映画1097本のうち、直接的に政治的内容を含むものは全体の6分の1程度だという。つまり、残りの6分の5、すなわち900本程度は《非政治的 apolitical》な娯楽映画だということになる。もちろん、この《政治的/非政治的》という区分は明確ではなくて、相当な濃淡グラデーションがあるはずだ。実際にナチス政権下、1933年~1945年までにドイツやその占領地域で製作、公開された娯楽映画を見ていくと、様々なジャンルの、多種多様な物語が映画化されていて、簡単に一括ひとくくりにはできないぞと途方にくれてしまうことになる。

ナチスの映画製作の統制、掌握は、複数の段階と手法を用いて行われていた [2 pp.13-17]。まず、映画の製作資金調達を実質的に政府が独占して、大手映画会社で好ましい題材の映画が製作される場合のみ、国民啓蒙・宣伝省下にある映画信用銀行 Filmkreditbankが出資をおこなった。そして製作者は映画の撮影に入る前に、帝国映画顧問 Reichsfilmdramaturgから、シノプシスと脚本の承認を得なければならない。完成した映画は国民啓蒙・宣伝省検閲局 Prüfstelle の検閲を経た後、同局から推奨 Prädikatを受けて初めて劇場公開が許可される。推奨ランクは以下の11種類に分類されており、それぞれのランクによって税金免除の割合が違う。

① 政治的にも芸術的にも特別の価値がある映画
② 政治的に特別の価値がある映画
③ 芸術的に特別の価値がある映画
④ 政治的に価値がある映画
⑤ 芸術的に価値がある映画
⑥ 文化的に価値がある映画
⑦ 若者たちにとって価値がある映画
⑧ 国家的に価値がある映画
⑨ 国家の映画
⑩ 教育的映画
⑪ 国家的教育映画

例えば、前述の『私は訴える』は「未成年者の鑑賞は禁止、芸術的に特別の価値があり、教育的。休日の上映制限の対象外」というカテゴリーに分類されている [3]

特にウーファやトービスのように、文化政策上、重要な映画会社においては、製作されたほぼすべての映画において、企画、資金調達の段階から、配役、脚本、検閲、承認、推奨、そしてプロモーション、公開後の観客調査にいたるまで、すべて国民啓蒙・宣伝省が把握していた。1936年には、ドイツ全体の劇場用映画の73%が映画信用銀行による出資である。文化統制は、その過程で、何かを排除し、何かを埋め込むために行われるのであって、何も起きていないわけがない。そして、当時のナチスの《非政治的》娯楽映画を見ながら、宣伝省の《意図》とその《実践》を正確に見抜くのは、とても容易なことではない。何かが排除され、制御されているはずなのに、それが見えないことも多い。だから私は「今の我々だからこそ理解できるダグラス・サークの作家性」を「ゲッベルスやその部下どもが見落とした」(Tom Ryan)といった議論を読むと鼻白んでしまう。《ゲッベルス》や《プロパガンダ映画》の通俗的定義から一歩も進まないどころか、ファシスト政権下の国策映画企業での映画製作という、映像作家 auteur として分析するには極めて慎重さを必要とする分野で、ただ作品と映画監督の人生だけを見て、映像分析をするのはいささか傲慢に過ぎないか。

例えば、ハンス・アルバースハインツ・リューマンが主演した『シャーロック・ホームズだった男(Der Mann, der Sherlock Holmes war, 1937)』を何の予備知識もなく見たとき、これがナチス政権下でゲッベルスの承認のもとに製作されたと気づく人がどれだけいるだろうか。物語の舞台は、1910年のブリュッセル国際博覧会、アルバースとルーマンのコメディアンとしての才能が実に活き活きと披露されている。この映画のどこにも支配者としてのドイツ民族だとか、憎むべき共産主義者とか登場してこない。いたって平和なストーリーである。

あるいは『約束しないで!(Versprich mir nichts!, 1937)』はどうだろう?主人公のモニカの夫は完璧主義者の画家で、絶対に自分の絵を売ろうとしない。困窮のどん底で、モニカは生活のために夫の絵を自分のものだと偽ってこっそり画廊に売ったら、そのあと大騒ぎになるという、少し古臭いコメディだ。この映画の監督のウォルフガング・リーベンアイナーがこの4年後に『私は告発する』を監督するとは、にわかには信じがたい。確かに、画面に登場する絵画は、どれもこれも第三帝国スタイルの陳腐な画だが、それはプロパガンダだろうか?

第三帝国期のコメディの名作として、戦後も西ドイツのテレビで頻繁に放映されていたという『フォイヤーツァンゲンボウレ(Die Feuerzangenbowle, 1944)』は、どうだろう。人気作家のハンス・ファイファー(ハインツ・リューマン)が青春を取り戻そうと、ティーンエイジャーに扮して高校に入学する話である。学校教育への悪影響を恐れた検閲局が上映禁止にしようとしたのを、リューマンがヒトラーに直訴して公開、大ヒットした作品と言われている。実際に見てみると、こんな他愛もない物語のどこに危険が潜んでいるのかと思うのは間違いないだろう。

しかし、これらの作品はそれぞれに役割があり、その役割は国民啓蒙・宣伝省によって定義されていたと考えるべきだろう。

2.

Schlußakkord (1936)
監督:デトレフ・ジールク
ベートーベンの交響曲を聞いて、病を乗り越えて子供と再会する決心をするハンナ(マリア・フォン・タスナディ)

山田/蓮實が擁護する『第九交響楽』も、確かに、侵略戦争をドラマ化して正義の闘争に見せかけたり、憎悪を物語に埋め込んで人種政策を正当化したりするような種類の映画ではない。しかし、どこまで行っても焦点を結ぶことができない、不透明さに覆われているように感じないだろうか。デトレフ・ジールクのメロドラマという映画愛好シネフィリアの遡及的解釈のみで見ていると、あの映画が残す何とも言えない薄気味悪さをとらえきれないのではないだろうか。

何かが隠蔽されているように感じる。《非政治的》というカモフラージュを可能にする環境的特質や社会的事象を同時に並置して、朧げに見えてくるものを見つめるしかない。

なぜ『第九交響楽』はアメリカから物語が始まるのか。それは、公開された時期と密接な関係があるように思う。不幸のどん底にあるハンナ(マリア・フォン・タスナディ)は、アメリカで、ベルリンの交響楽団のベルリンからのラジオ生放送を聞く必要があったからではないだろうか。『第九交響楽』が公開されたのは、1936年7月である。ベルリン・オリンピック開催の1か月前だ。今の私たちには到底想像できないが、ベルリン・オリンピックのラジオによる全世界生放送は、ドイツによる・・・・・・前代未聞の科学的業績の体験だった[4]。『第九交響楽』は、その国家的達成を、オリンピックという世界的祭典から切り離して、《祖国》の物語に埋め込んでいる。ドイツの古典芸術の誇りであるベートーベンの交響楽、それを演奏するベルリンの交響楽団、ドイツの近代化の誇りであるラジオ技術、それらをメロドラマとして一体化する映像芸術、それがあの映画の前半のクライマックスだろう。

短波ラジオを利用した、大陸間のスポーツ試合のラジオ実況中継は、1924年からすでに行われていた。その後も単発的に大西洋間でボクシングなどの実況放送が行われている。ベルリン・オリンピックのラジオ実況放送が画期的だったのは、全世界に、同時に中継できる放送設備が整備され、各国のアナウンサーが自国のラジオネットワークに向けて実況できる体制が整えられたことである。ベルリン郊外、ツェーセン Zeesen の巨大な短波ラジオ波送信施設(1931年建設)が全世界をカバーした。日本のスポーツ実況放送史上でも有名な「前畑ガンバレ」は、ドイツの短波放送から日本の国内放送へリレーして行われたオリンピック実況中継のなかで起きたことである。

そしてラストはさらに居心地の悪いものになる。使用されている楽曲はゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス Judas Maccabaeus HWV 63」からの「見よ勇者は帰る See the conquering hero comes」である。「ユダス・マカベウス」なんて、旧約聖書に出てくるユダヤ人の英雄の話ではないか、それを取りあげるとは、やはりデトレフ・ジールクはナチスの人種政策に抵抗していたのではないか、と思うのは少し待った方が良い。ナチスの音楽文化政策のなかで極めて大きな矛盾を孕んでいたものの一つに、ドイツの伝統として誇るべき楽曲のなかに、ユダヤ人が作曲、作詞したものや、ユダヤ人の物語を題材にとったものが数多くある、という事実があった。なかでも、ヘンデルが残したユダヤ人を題材に扱った作品、特に「ユダス・マカベウス」をいかに歴史修正してアーリア化するかはナチス文化政策の課題のひとつだった。ナチのイデオローグとして当時発言力をもっていたアルフレート・ローゼンベルクは、早い段階で、ヘンデルのオラトリオは原型で演奏するわけにはいかないと主張していた。それに対し、ローゼンベルグと党内で敵対関係にあったゲッベルスは、1934年に「ヘンデルのオラトリオの台本は書き換えてはならない」という通達を出したのである [5]。驚くべきことに、彼は自ら「ユダス・マカベウス」の台本を研究し、なんら問題がないことを確認したというのだ。宣伝省大臣のこの《お墨付き》があったからこそ、「見よ勇者は帰る」が「母性の勝利」を象徴するシーンに誇らしげに使われているのである。

確かに、この「見よ勇者は帰る」の演奏については、まだ分析が必要だと思う。ここで使用されているドイツ語歌詞は、長いあいだ使用されていた(そして、ゲッベルスが研究したと主張していると思われる)Friedrich Chrysander のドイツ語テキストではないようだ。実際、前述のゲッベルスの通達は、ナチスのイデオローグのあいだでは厳格には順守されていなかった。通達後も、Fritz Stein、Hermann Brute、Hermann Stephaniらは、ヘンデルのオラトリオを改変して発表し、演奏もしている [6]。これらのイデオローグ達は、ヘンデルを含む過去のドイツ/オーストリア人作品の《アーリア化》に努め、オペラや宗教曲の台本を改変していった。『第九交響楽』で使用されている歌詞の由来についてはもう少し調査が必要だろう。

『第九交響楽』は「芸術的に価値がある」という推奨を受け、ベネチア映画祭にも出品された(最優秀音楽映画賞)。

3.

すべての女性が夫をもてるわけではないが、すべての女性は母親になれる

Getrud Sholtz-Klink
ナチ女性団 団長

政治による細部への介入は、物語の説く倫理にも影を落としている。『第九交響楽』の場合、それは「母性」への姿勢として表れている。ナチスのメロドラマ映画を分析したLaura Heinsは、家族、そして母性に関するナチスのイデオロギーの特徴として、 キリスト教の影響下のブルジョア階級でひろがった核家族の解体を進めつつ、母親のみによる育児を理想とする家族観を挙げている [7 Chapter 3]。ヒトラーは、婚前交渉を前提として、結婚時にはすでに妊娠していることが望ましいと考えていたとも言われる(そうすることで、子供のいない夫婦が存在しなくなる)。ゲッベルスは「女性は子供を産むことで戦争に参加する」とも言った。言い換えれば、子供を産めない(産まない)女性は《好ましくない》と考えていたのである。この思想を支持する映画の一つとして、Heinsはやはりデトレフ・ジールク監督の『沼の家の娘(Das Mädchen vom Moorhof, 1935)』を挙げている。この視点から立てば、『第九交響楽』も同じくこのフォーミュラに沿っていると言えるだろう。子供を産まなかった主人公の妻がモルヒネの過剰摂取で死ぬ一方で、すでに子供を産んでいた女性がヘンデルの音楽のもと勝利を宣言するのだ。

女性は結婚よりも、まず出産を優先するべきという思想は、前述の『私は訴える』にも登場する。ブルクハルト博士は女性の立場から「出産は分かるけど、結婚ってどうなのかしら」と発言して、結婚が女性のキャリアにとって好ましくないものだという姿勢を明確にしつつ、出産を必要なものとして描写している。多発性硬化症に罹患したハンナに関しても、彼女はもう子供が産めない、という点が強調される。

「レーベンスボルン」計画は、ナチスの優生思想のもとにアーリア民族なるものの繁栄を半強制的に進めるものだった。そこでも婚姻関係よりも、出産が優先された。もっと民衆的なレベルでも、この思想の展開が繰り広げられていた。出産することは「総統に子供を贈る」と表現されていた。ある訓練キャンプの女性所長は、ある母親にあてて喜ばしげに、彼女の娘とそのほか5人がまもまく「総統に子供を贈る」だろうと書き送ったという。別の労働奉仕キャンプに参加した娘は親に「私が赤ん坊をつれかえってもぶたないでください。さもないとあなたたちを告発します!」と手紙を書いた。1936年、ニュールンベルグで行われた党大会で、1000人以上のBDMの未婚女性が妊娠したと言われている [8 p.84]。ナチス首脳の男たちの野望は、アーリア人男性の重婚を認めることだった。1943年5月にヒムラーは彼のマッサージ師に、総統は戦争が終わりしだい重婚を認めることに決めたとご機嫌で告げたという [9]

ナチスの政策における家庭観や女性観を物語として語っているのだから、一種のプロパガンダと言ってよいはずだ。主人公のエーリッヒ・ガルフェンブルクとハンナ・ミュラーは退廃と人工から解放され、健康と母性に向かい、その二人の物語に、当時のドイツの誇りだった科学技術や音楽文化の上澄みが積極的に埋め込まれている。重要な点は、このメロドラマの製作が国民啓蒙・宣伝省の統制、検閲のもとで行われていることだ。だからこそ、娯楽映画もプロパガンダ映画になり得るのである。ドイツ国内の《大衆》が、この映画を見たときに、《国民》として誇りを持てるように《意図》されている。観客が、家族を顧みない女性に嫌悪感を抱き、子供のためにすべてを犠牲にする女性を聖なるものとして感じるように《意図》されている。そして、ドイツ国外の観客が、この映画を見たときに、ドイツ文化の魅力を十分堪能して、この登場人物たちに親近感を感じるように《意図》されている。

ナチス政権下の娯楽映画についていえば、「大衆が喜んでいただけ」というのは、《意図》についての議論ではなく、《効果》の議論に過ぎない。しかも、「大衆が喜んでいただけ」という議論の多くは、実際の観客の反応についての文献や記録を確認もせずに、論者自身の映画に対する評価をそのままスライドさせているに過ぎないものばかりだ。そればかりでなく「優れた映画作家たちは自らの芸術的感性を、そういった娯楽映画のなかに忍び込ませていた」などと述べるのは(これをAesthetic Resistanceと呼ぶ [10])、当時のナチスの官僚機構の暴力性を棚上げにして、論者自身が見たいものだけを見る、批評とは程遠い姿勢である。一見、無邪気に見える映画も、ひも解いてみると、底にナチスのイデオロギーが流れていることがある。むしろ、そのような娯楽映画が氾濫していたからこそ、娯楽映画のイディオムを縦横無尽に使いながら虐殺への道すじを探った『私は訴える』のような映画が可能だったのだ。

こういうことを言うと、「じゃあ、デトレフ・ジールク/ダグラス・サークはナチだったというのか」と言い出す人が出てくるかもしれない。もちろん、デトレフ・ジールク/ダグラス・サークはナチではなかった。政策に同調してさえもいなかった。彼がのちにアメリカに亡命・移住することになったのも、彼の妻がユダヤ人だったことに加えて、彼の政治信条が政権のそれと相いれなかったからにほかならない。まさしく、彼がナチではなかった・・・・・・・・・・、という点が、最大の問題点なのだ。文化人のなかでファシズムのプロパガンダ活動に関わってしまった者は数知れない。イデオロギーに同調して積極的に加担した者もいる。しかし、政治信条や宗教信仰という側面において、個人的には同意していなくても、政治が創り出した構造的抑圧や経済的圧力、そして最終的には身体に及ぶ危険から、体制の欺瞞的言説に加担する事態に陥ってしまうことはあり得るのだ。いわゆる《転向》を経ていなくても、私人としては反対していても、状況がそれを許さない場合もある。特に映画のように、共同作業によって製作されるものの場合、個人の信念や事情を最終作品からどう読み取るかは、慎重にならないといけない。

まったく、状況が反転している場合もある。『誓ひの休暇(Urlaub auf Ehrenwort, 1938)』は、党員番号5ケタ、ヴィンテージ・ナチのカール・リッター Karl Ritter によって監督された映画だが、シーンによってはまるで山田洋次が監督したのかと思うような、人間主義に満ちた爽やかなシーンがあったりする。あの渡辺一夫が東和の試写会で見て「真の健全さ」を備えた「盟邦ドイツの名作」と絶賛し、(戦時中とはいえ、あるいは戦時中であったにもかかわらず)カット無しで上映するように強く主張して、検閲を牽制したほどの作品だ [11]

『誓ひの休暇』は渡辺が危惧したような検閲によるカットどころか、日本では上映じたいに許可が下りなかった。第一次世界大戦に従軍したドイツ軍の一部隊の《休暇》を描く物語だが、そのなかで下士官が上官の命令に従わないという設定があり、それを日本の検閲官は問題視したようであった。上記の渡辺の文章はかなり辛辣に検閲を批判していたが、かえって逆効果だったようである。内務省から各映画会社に対して試写会の実施について注意があったといい、菊池寛はどういう注意があったかは聞いていないと言いつつ、「觀た者は、いろんな形で感想や意見を云つて、それが新聞や雑誌にも載るから」「検閲官の考へとは違つた輿論を作つてしまふような場合は、検閲官に取つて、有難くないだらう」と述べている [12]

もちろん、為政者が政治的意図にもとづいた抑圧を作品に埋め込んで社会的に波及効果が表れることを狙っても、実際にその効果と影響を定量的に、定性的にでさえも、把握するのは非常に困難である。そして、『第九交響楽』や、その他のナチス政権下の娯楽映画については、その把握はさらに一層困難である。なぜなら、批評は禁止されていたからだ。

Schlußakkord (1936)
監督:デトレフ・ジールク

References

[1]^ ヴァルター・ベンヤミン, 山口裕之(翻訳), “ベンヤミン・アンソロジー.” 河出書房新社, 2011.

[2]^ D. Welch, “Propaganda and the German Cinema, 1933-1945,” Revised edition. London ; New York : New York: I.B. Tauris, 2001.

[3]^ I. Winter, “Ich klage an – Analyse des NS-Propagandafilms : Filmschaffende – Gesetz – Gnadentod,” Diplomarbeit, University of Vienna, Vienna, 2018. Available: https://phaidra.univie.ac.at/detail/o:1341980

[4]^ M. J. Socolow, “Six Minutes in Berlin: Broadcast Spectacle and Rowing Gold at the Nazi Olympics.” Urbana, Illinois Chicago, [Illinois] Springfield, [Colorado]: University of Illinois Press, 2016.

[5]^ T. E. F. Mahling, “Handel und Dcutfchland.”
Zeitschrift fuer Musik, no. 6, p. 676, Jun. 1935.

[6]^ E. Levi, “The Aryanization of Music in Nazi Germany,” The Musical Times, vol. 131, no. 1763, pp. 19–23, 1990.

[7]^ L. Heins, “Nazi Film Melodrama,” First Edition. Urbana: University of Illinois Press, 2013.

[8]^ A. LeBor and R. Boyes, “Seduced by Hitler: The Choices of a Nation and the Ethics of Survival.” Sourcebooks, Inc., 2001.

[9]^ H. P. Bleuel, “Das saubere Reich: Theorie und Praxis des sittlichen Lebens im Dritten Reich.” Scherz, 1972. Available: https://books.google.com?id=FhS8AAAAIAAJ

[10]^ L. Schulte-Sasse, “Douglas Sirk’s Schlußakkord and the Question of Aesthetic Resistance,” The Germanic Review: Literature, Culture, Theory, vol. 73, no. 1, pp. 2–31, 1998.

[11]^ 渡邊一夫, “「誓ひの休暇」を觀て,”
日本映画, vol. 6, no. 6, pp. 32–35, Jun. 1941.

[12]^ 菊池寛, “思ひつくまゝ,” 日本映画, vol. 6, no. 7, pp. 114–115, Jul. 1941.

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