無名(2023)

上海を舞台にした歴史ファンタジーと、寡作の映画作家チェン・アル監督の偏愛するプロット構造について

私たちの時間は線形的ですが、記憶は非線形です。回想や夢も飛び跳ねるものです。私たちが逃れられない線形の時間からの脱出、または解放として、非線形の物語に強い魅力を感じています。

チェン・アル 許耳 [1]

『無名 (2023)』は、日中戦争時代の上海を舞台にした諜報とテロルのファンタジー映画である。大日本帝国の傀儡である汪兆銘政権の政治保衛部で、諜報活動に従事するフー(トニー・レオン)、イエ(ワン・イーボー)を軸に、諦観に蝕まれつつも征服者としてふるまう日本軍将校(森博之)や、地下運動を続ける共産党のゲリラやスパイ(ジョウ・シュン、チャン・ジンイー、ホアン・レイ)、機会主義者の協力者(ダーポン)たちの戦争が描かれていく。横光利一は、小説「上海」のなかで、この土地の株式仲買人の馬車の蒙古馬こそが「ニューヨークとロンドンの為替相場を動かしている」と書いているが、《租界》というカオスが世界、中国大陸をめぐる覇権争いの中心に位置していたという幻想が今も蠱惑的なのはなぜだろうか。監督のチェン・アルは長いあいだ上海に居住して映画製作を続けていて、前作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海(罗曼蒂克消亡史, 2016)』も1930年代の上海を舞台にしている。彼はインタビューのなかで中国の近代史の書籍を読み漁っていると述べているが、紅腐乳入りの酔蝦の色のような、上海の血の歴史が彼の想像力を刺激して、二作連続してこの蠱惑的な舞台で繰り広げられる幻想劇を作り出したのだろう[1]

監督のチェン・アル(許耳[en], 1976-)は、この映画を含め長編映画は4作しか発表していない。それらはすべて執拗なまでに視覚情報の細部の制御と編集技術の駆使の上に設計された《非線形の語り口 nonlinear narrative》で作られている。彼はすべての監督作品で編集と脚本も担当しているので、これは彼独自のスタイルであり、ためらうことなく《映画作家》と呼べる映画監督だ。

彼の《非線形の語り口》に特徴的な技法は、全体の時系列では中盤から後半にあたるシーンを冒頭に配置するという点である。彼自身、物語を真ん中から書き始めると述べている。『無名』でも、フー(トニー・レオン)が一面をガラス窓に覆われた大きな寒々しい場所で黙考しているシーン、チェン(ジョウ・シュン)がカフェで謎の紳士からコーヒーを贈られるシーン、イエ(ワン・イーボー)が洗面室の鏡の前でネクタイを締めて確かめるシーン、と続き、イエが眼鏡の男、ワン(エリック・ワン)と食堂で朝食をとっているシーンへと続いていく。その後も浜辺での死体の調査、電話を受ける男、さらにはホテルでフーと共産党のスパイと名乗る男(ホアン・レイ)との面談と続く。観客は予備知識をもっていないので、それらのシーンがそれぞれどのような関係にあるのか、いったいいつの話なのか、わからないまま、映像に身を任せることになる。そして、映画が進むにしたがって、出所不明だったシーンが《パズルのピースのように》物語のなかにピッタリと篏合していくさまを愉しむように設計されていることを発見する。

『無名』は、中国で金鶏奨で3部門(監督、編集、主演男優)受賞したが、中国語圏の外では決して高い評価を得ていない。まず、「中国政府のプロパガンダ映画だ」という指摘が圧倒的に多い。現在の中国の検閲の状況を考えたとき、これだけ大きな製作額の映画であれば、政府が内容や演出に深く介入し、また製作者たちがみずから政府の意向を勘案して削除や修正をくりかえしたのは容易に想像できる。検閲のために政治的な妥協がされただろうという(おそらくはそれほど外れてはいないだろう)推測で評価が停まってしまっているものを多く見かけた。だが、この映画に対する批評の中には、それ以前の問題として、歴史的な背景を理解していないために、混み入った非線形の語りについていけず、映画に描かれている状況を理解できていないものも少なくない。Simon Abrams(rogerebert.com)の評に至っては、日中戦争・大東亜戦争の基本的な事実も押さえずに「満州の汪傀儡政権」などという奇々怪々なことを書きつつ、「空っぽなスパイスリラー」と評価を下すような、いかにも《西洋的》な態度をさらけだしている。Aja Romano(vox.com)は、さすがにその貧しい映画批評のありさまに業を煮やして「何人もの批評家が出演者を見分けることが出来ておらず、なかにはプロットが理解できていないか間違って書いている者もいる」と痛烈に批判した。日本ではさすがにもう少し理解があるものの、それでも「中国政府の宣撫作品」という認識に引っかかってそこから進めない批評が少なくない。

本国中国では、興行成績は2023年の春節に公開された映画の中でトップだったが、評価は大きく二分された。その《非線形の語り口》や各ショットにおける構図と色彩を高く評価する者たちと、それを「無意味に芸術的」と批判する者たちに分かれたという[2]。さらに「観客は尊重されるべきだ、過小評価してはならない」という監督のコメントの揚げ足を取る者が現れ、「この映画がいいと思えない人間は趣味が悪いという意味か」と曲解して流布されたことも、この映画の評判を落とす要因となった[3]。豆瓣ではコメント欄に「観客の意見が大きく分かれているので短いレビューがランダムに表示されるようになっています」と注意書きが表示されるほどだったという。

つまり、「あんな順番で物語を語る必要があったのか」という疑問が、本国でも評価に影響を与えたようなのだ。

チェン・アル監督は、『無名』の製作中、「またアート映画か」と言われることに対抗するために、『無名』は「超级商业片(超商業映画)」だと言い始めた。こういった妙に諧謔的な姿勢も、中国国内での人気を微妙なものにした理由の一つかもしれない。

チェン・アルは極めて寡作の映画作家だ。現段階で卒業制作を含めて5作しかない。

原題 邦題/英題 公開年 出演
犯罪分子 /
Criminal
1999 徐峥、黄奕
第三个人 /
Unfinished Girl
2007 徐峥、高圆圆、陶虹
边境风云 /
Lethal Hostage
2012 孙红雷、王珞丹、杨坤
罗曼蒂克消亡史 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海 /
The Wasted Time
2016 葛优、章子怡、浅野忠信
无名 無名 /
No Name
2023 梁朝伟、王一博、周迅
チェン・アル監督作品

『犯罪分子(1999)』は、30分あまりの短編で、チェン・アルが北京電影学院の卒業制作として監督、脚本、編集した作品である。現在も「歴代の北京電影学院の卒業制作のなかでも最も優れた作品」として絶賛されており、教科書として使用されているとも言われている[4]。しかし、この短編映画は永らく実質的に門外不出の状態になっていて(フィルムで撮影されていたこと、そしてエンディングが表現倫理的に問題があったことが原因とされる)、教授と学生しか見たことがない《伝説の映画》だった。それが2020年ごろにオンラインにリークされ、現在は私たちも英語字幕付きで見ることができる。この『犯罪分子』も《非線形の語り口》で進むが、ストーリー自体は比較的シンプルで古典的なもので、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』や『無名』のように観客が混乱したり誤解をしたりすることもない。ただ、気を付けて見ていても初めて鑑賞するときには《だまされてしまう》箇所があり、編集によって日常/非日常の亀裂を際立たせる、実に巧妙なアプローチを見ることができる。主演のシュウ・チェン(徐峥)とホアン・イー(黄奕)はこの後中国映画界のなかで注目されるようになった。

つづく『第三个人 (2007)』『边境风云 (2012)』も決して大作ではないが、ノンリニア・ナラティブを追及する姿勢は崩していない。また、モノローグをクロースアップでの長回し、静置した正面の構図、キャラクターのあいだで断ち切られて分離した会話の構図といった、彼のスタイルもほとんど確立されている。『边境风云』は複数のチャプターに分割されつつも、その相互でプロットが交錯するなど、タランティーノの影響が強く感じられる、かなり野心的な作品だ。彼の脚本はノンリニアであること以外に、二つの特徴がある。まず、物語に関わる情報は映像で示される場合が多いという点である。もう一つは饒舌なキャラクターと寡黙なキャラクターが対置されるところだ。饒舌なキャラクターには長いモノローグが用意されるが、それとは対照的に短いセリフが意味ありげに配置されているキャラクターもいる。『第三个人』は主要なキャラクター二人が動機をかなり長いモノローグで話す場面があるが、このような手法はその後影を潜めているようにみえる。

边境风云(Lethal Hostage, 2012)
監督:チェン・アル © Seasonal Film Corporation

この悦びはピースがカチッとはまるという、あの悦びだ。アーティスティックな形式の悦び、見事な仕掛けの仕組みについて、目が覚めるような発見をした観客の悦びだ。

David Bordwell [5]

確かに、『無名』の《非線形の語り口 non-linear narrative》が、《パズル的》でしかない・・・・・という批評を招いてしまうのは、致し方ないだろう。なぜ物語を非線形に語る必要があるのか?なぜ時系列にストーリーを進めないのか?物語が非線形であるためにはそこに納得できる理由がないといけないと多くの人が考える。

1990年代以降、非線形の語り口の映画が流行するきっかけを作ったのは、間違いなくクエンティン・タランティーノだ。『ヘイトフルエイト』や『キル・ビル』に見られるノンリニア・プロットは「サスペンスを高揚し、キャラクターや状況が比較できるようにし、そして(物語の)秘密をクライマックスまで隠匿する」ための仕掛けである[5 Chapter 12]。しかし、錯綜するフラッシュバック(例えば『渡洋爆撃隊(Passage to Marseille, 1944)』)や時系列ではないプロット構成(『現金に体を張れ(The Killing, 1956)』)は決して目新しいものではなく、ミステリやサスペンスでは、この種の並べ替えは特筆することではない。タランティーノの作品群でも極めて特殊なのが『パルプ・フィクション』だろう。冒頭のパンプキンとハニーバニーの強盗シーンが、もう一度繰り返されるとき、私たちは「物語世界の謎についての驚き」ではなく、「語り方そのものに対する驚き」を経験する。つまり「あいつがここで実はこんなことをしてたのか」といったミステリの謎解きではなく、「え、あのシーンってここのことだったの?」という物語の作り方そのものの発見があるのだ。ボードウェルの言葉を借りれば「aha」ではなく「ahhh」という感嘆詞である。

『パルプ・フィクション』の、冒頭にパンプキンとハニーバニーのシーンを持ってくる語り方に何か必然性はあるだろうか?おそらくこじつければ、いくらでも理由をでっちあげられるだろうが、実はたいして必然性などないのではないか。おそらくあるとすれば「かっこいいから」だろう。パンプキンとハニーバニーが、ダイナーのソファ席でいきなり拳銃を抜いて強盗を始めるシーンをフリーズフレームにして、「ミシルルー」とタイトルでぶち切ってしまう、いかにも20世紀末アメリカ的な「カッコよさ Coolness」は、タランティーノ自身でさえもはや再現できない。

チェン・アルは、今までのすべての監督作品で、この「語り方そのものについての驚き」と「物語世界のなかの謎や隠された秘密が明らかになる驚き」の両方をいかに同時に達成するかを追及しているように見える。彼の作品では、終盤になって秘匿されていた事実が明らかになり、それまでのストーリーをもう一度読み直す・・・・必要が出てくるように組まれている。一方で、冒頭に配置されたシーンは、後から全体の語りの中での位置が発見されるようになっている。つまり、「トニー・レオンとワン・イーボーは実は・・・だった」という秘密の解明とともに明らかになる、様々なシーンに隠された意味(あるいは秘密を知る前と後での意味の変化)をたどるという行為の悦びと、「ワン・イーボーがネクタイを締めるシーンは、あの格闘の前だったのか」という発見、カチッという音を愉しむ悦びとを両方達成するナラティブを目指しているように見える。

ただ、このカチッという音を愉しむ観客は、それほど多くないのではないか。やはり謎解き的、伏線回収的な仕掛けのほうが観客の満足度は高いのではないか。カチッという音の美学が支持を得るためには、もう一つ、タランティーノの「Coolness」に匹敵する何かが必要なのかもしれない。

チェン・アル監督が、クエンティン・タランティーノやデヴィッド・リンチに影響を受けたのではないかと感じるのはそれほど的外れではないと思われるが、彼と同時代の《映画作家》がクリストファー・ノーランだというのも興味深い。ノーランのほうが8歳も年上だが、デビューがほぼ同時期(ノーランは『フォロウイング(Following, 1998)』が実質的なデビューで、チェン・アルは卒業制作『犯罪分子(1999)』)で注目を集めた)、ノーランもチェン・アルもノンリニア・プロットを駆使した作品を発表し続けている。ただ、チェン・アルのほうが圧倒的に寡作なのと、中国という巨大でありつつも限定された市場が本場であるということが、海外ではあまり認知されてこなかった理由なのではないか推測する。

私は、この「カチッという悦び」には、それほど魅力を感じないのだが、一方でチェン・アル監督の妙に偏って肥大した映像意識が気にはなる。例えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』で浅野忠信が車の中で2人射殺し、その後車内の血を拭き取るシーンがある。『パルプ・フィクション』の車のクリーニングのシーンへのオマージュというにはあまりにかけ離れすぎている。浅野忠信がハンカチでちょこっと拭いているだけという荒唐無稽さをよそに、構図も色彩も編集も思い切りもったいぶっている。「脳みそや頭蓋骨の欠片も一つ残らず集める」という、タランティーノ独特のディテールを拡大する手法とは全く正反対だ。監督は、奇怪なまでに様式化された画面を絶対に崩さない。まあ、ベルトリッチをデジタルで真似していると言えば、それまでかもしれないが。

この監督にはもっと歪んでいってほしいと密かに思う。もっと偏っていってほしいと思う。『边境风云』のような、あまりに色あせていて、あまりにコントロールしすぎていて、あまりにコントロールしすぎて画面が疲れ果てていて、いったいどの国で撮ったロケーション撮影なのかわからないような、そういう歪み方をもっと見たい気がする。それが、今の中国の映画製作の現場でできるのかどうかは、わからないが。

『無名(Hidden Blade, 2023)』
© Bona Film Group Company Limited All Rights Reserved
無名(无名, Hidden Balde, 2023)
Directed by チェン・アル 許耳
Written by: チェン・アル 許耳
Produced by: ユー・ドン 于冬
Cinematography by: ツァイ・タオ 廖拟
Edited by: チェン・アル 許耳
Starring: トニー・レオン 梁朝偉、ワン・イーボー 王一博、ジョウ・シュン 周迅、森博之
Production companies: 上海博納文化伝媒有限公司
Distributed by: 上海博納文化伝媒有限公司

References

[1]^ 余雅琴, “专访程耳:我心目中的好电影,就是能够深入浅出的电影,” Feb. 13, 2023. https://www.infzm.com/contents/243594

[2]^ 腾讯网, “金鸡奖8中3,《无名》的优秀,叫不醒装睡的人,” Nov. 10, 2023. https://news.qq.com/rain/a/20231110A08GR100

[3]^ 外滩君, “程耳的《无名》,可惜了,” Feb. 02, 2023. https://baike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=a2db9e0ac45c8cf4efb77750&bk_fr=planet&fromModule=issue-list_issue-list

[4]^ 喂了官人, “20年后终于解禁,这部短片依然是北电最牛的毕业作品.” https://baike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=bbf9b41cdc1512f9d4856779

[5]^ D. Bordwell, “Perplexing Plots: Popular Storytelling and the Poetics of Murder.” New York: Columbia University Press, 2023.

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