少年が抱えている新聞の日付
わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。
コリント人への第二の手紙
第二次世界大戦後のハリウッド映画でセミドキュメンタリー・スタイルが流行した経緯を整理しながら、ヘンリー・ハサウェイ監督の『出獄(Call Northside 777, 1948)』を再見した [1]。
この映画は、1932年に実際に起きた冤罪事件(ジョセフ・マチェックとセオドア・マーチンキウィッツの冤罪事件[Wikipedia EN ])がもとになっている。1932年の暮れ、シカゴの食肉産業の中心地「ユニオン・ストック・ヤード」の裏手、アッシュランド・アヴェニューの食料品店で、二人組の強盗がウィリアム・ルンディ巡査を殺害した。この事件の容疑者として逮捕されたマチェックとマーチンキウィッツの二人は、たった一人の目撃者証言によって有罪とされ、懲役99年の刑に服していた。マチェックの母親は、息子の無実を信じ、無実の証明につながる証人を探していた。彼女は掃除婦などの仕事をしながら12年もかかって5,000ドルという大金を準備し、それを報奨金として「犯人の情報求む」の新聞広告を出したのである。
この新聞広告を見た、シカゴ・タイムズの記者ジェームズ・マクガイアらが、興味を抱き、12年前の事件の証人の聞き取りや警察による捜査記録の再調査をおこなった[2] pp.194-205。マチェックの無罪が決定的になったのは、事件の唯一の目撃者の証言にまつわる杜撰な手続きが発覚してからである1) 。マチェックによれば、この目撃者は警察での面通しで初めて彼を見たときには「この男ではない」とはっきり否定していた。しかし、次の日には「この男に間違いない」と言い始めたのだという。マクガイアらが調査した結果、警察は逮捕記録を書きかえて、最初の面通しの事実を隠ぺいしていたことが明らかになった。さらにいくつもの不可解な点が浮き上がってきた。マチェックの弁護士は公判のあいだじゅう泥酔状態で、マチェックの無罪を十分に証明できる証人や証拠を法廷に提出しなかった。控訴のための書類はめちゃくちゃで、当然棄却された。シカゴ・タイムズはイリノイ州議員のウォーカー・バトラーを中心に、正当な法の手付きを受けられなかったマチェックの無罪放免を州知事に求めるキャンペーンを展開した。そして、1945年8月15日、ドワイト・H・グリーン州知事は、マチェックを無罪放免とした。冤罪のもう一人の被害者、マーチキウィッツは1950年まで釈放されなかった。
以上は、実際の事件の経緯だが、映画『出獄』で描かれる事件の解決は若干違う。映画では、証拠写真一枚で重要目撃者のウソがばれて「一発逆転」というクライマックスになっている。その「証拠写真」とは、警察署の前で、目撃証言をした証人がマチェックと一緒に写っている写真なのだ。これが、いつ撮影された写真なのか、それが焦点になる。もし、公式の記録に残っている面通しの日(1932年12月23日)以前だったら、警察が目撃者の証言を誘導したことを意味している。そして、10年以上前に新聞に掲載されたこの写真を極限まで引き伸ばし(拡大)して、背景に写り込んでいる新聞売りの少年の抱える新聞の日付を明らかにするという離れ業をやってのけるのだ。
偶然写り込んだものに真実を解く鍵がある。極めて魅力的な話だ。
しかし、これはどう考えても現実的ではない。
一般的に、銀塩写真はものすごい解像度を持っていて、デジタル写真よりもはるかに精細なディテール再現力があると言われる。これは確かにその通りだが、やはり限界はある。写真技術の歴史の文脈に、この写真をおいてみると、どのくらいの解像度が期待できるのだろうか。
写真フィルムの解像度、特に解像度の歴史的推移についての研究は少ない。そのなかでも最も網羅的なものはティム・ヴィターレの研究だろう[3]。ここではヴィターレのデータを参照にしながら考えてみたい。
20世紀前半のアメリカの報道カメラマンのカメラといえば、スピード・グラフィックが定番だった。多くのカメラマンは、5インチ×4インチの大判サイズのフィルムで現場のスナップショットを撮っていた。現代の大判のネガは、条件さえそろえば、極めて《シャープな》写真に仕上がるが、映画『出獄』で証拠写真となるのは、1930年代初頭に撮影された報道写真で、フィルムの粒状性や感度は、現代のものと比較するとかなり劣る。しかも、映画ではネガではなく傷んだプリントを使って引き伸ばしをする。問題の新聞売りの少年が写っているのが、写真の端のほうだというのも、レンズ収差を受けやすい大判フィルムカメラでは不利になる。
ヴィターレの研究を参照すると、1930年代のフィルムに関しては解像力の実データがないものの、歴史的なトレンドから推測すれば、1ミリあたり50~70ラインペア[❖ note]❖ラインペア 解像度をあらわす方法として、黒と白のラインのペアを単位長さ当たり何ペアまで分離可能かという表現が用いられる(Link)。ただし、このラインペアの数はコントラストに依存する。くらいが平均値だっただろうと推測できる。フィルムの能力、レンズを含む光学系の精度(特に少年が写っているのがレンズ収差を受けやすい端のほうだという点は不利になる)、撮影条件、そして古いプリントだったことを総合すると、良くて1ミリあたり20ラインペア、実際には10ラインペアあたりが妥当な解像力ではないかと推測される。元の写真(プリント)で新聞売りの少年が抱えている新聞は5ミリ×7ミリくらいのサイズである。日付の数字は大きく見積もっても50ミクロンくらいの大きさしかない。日付の数字を判別できるだけの解像度があったとは思えない2) 。
映画『出獄』の証拠写真のめぐる物語は、たしかに夢想的な作り話だ。だが、この「写真を拡大して真実を突き止める(ズーム゠エンハンス[“Zoom and Enhance”])」という夢想は、今の犯罪ドラマやスパイ映画でも繰り返し登場する。防犯カメラの映像に映ったクルマの一部を拡大して、認識可能なはずのないナンバープレートの数字を高解像度で再現したり、写真に写った被害者の目の反射を拡大して、容疑者の顔を割り出したりすることは、科学捜査ドラマでは日常茶飯事だ。私たちは、《写真を見る》という行為において、取るに足らない細部にドラマを見出したいという欲望をずっと持ち続けているのかもしれない。
トーマス・ムーニー事件
『出獄』の証拠写真のエピソードは創作とはいえ、実はマチェックの事件とは別の事件をモデルにしている。1939年に無罪が確定した冤罪事件「トーマス・ムーニー事件[Wikipedia 日本語、Wikipedia EN]」だ。
これは実際に「写真に偶然写り込んだもの」が「真実」を明らかにした、稀な例である。
トーマス・ムーニー事件は、アメリカの司法史、労働運動史においてきわめて重要な事件のひとつであると同時に、「証拠写真」がアリバイ成立につながる重要なカギとなった、まるで刑事ドラマのような事件である。1916年7月にサンフランシスコで起きた爆弾テロ事件[❖ note]❖サンフランシスコ爆弾テロ事件 1916年7月22日、サンフランシスコで行われていた、第一次世界大戦への参戦を呼び掛ける「プリペアードネス・デー(軍備強化の日)」のデモ・パレードの最中に時限爆弾が爆発、10人が死亡、40人がけがをした。当時、軍備の強化とヨーロッパへの派兵を呼び掛ける「軍備強化派」と、孤立主義、平和主義の立場をとる社会主義者たちのあいだで激しい対立があった。の犯人として、労働運動指導者だったトーマス・ムーニーが逮捕された。そして、虚偽の証言や検察の証拠隠匿によって、無実のムーニーは20年もサン・クエンティン刑務所に収監されていたのである。
この事件で、検察側が隠そうとした証拠のひとつに、爆破テロ現場から1マイル離れたところで撮影された写真がある。それは、あるアマチュアカメラマンが、マーケット・ストリートのパレードの様子を撮影したものであるが、ビルの屋上からパレードの様子を眺めているトーマス・ムーニーとその妻リナが偶然写り込んでいたのだ。それだけではない。その写真にはマーケット・ストリートの宝石屋の街頭時計も写り込んでいた。この時計が指し示していたのが2時1分、爆弾爆発の5分前の時刻だった。つまり、ムーニーがテロの現場にはいなかったというアリバイを立証する写真だった。検察側は、この写真を何度も繰り返し焼き重ねて意図的にボケさせたものを証拠として提出していたという[4] pp.178-179。一方、弁護側は、連邦政府の写真専門家セオドア・キッカ(Theodore Kytka)に分析を依頼し、オリジナルのネガを200倍にまで拡大して、時計の時刻を同定した。
しかし、当時の司法は労働運動を先導するトーマス・ムーニーのような人物を、公衆の脅威としてつるし上げることを選んだ。そして、まったく信憑性のない、法廷内でさえ矛盾だらけだった目撃者証言を決定的証拠として採用した。
1917年にムーニーに下された判決は有罪、絞首刑に処すというものだった。
それから20年にわたるムーニーの事件の変遷は、政治的な思惑によって《真実》はいかにも変形し得るということを白日のもとにさらした。ニューヨーク・タイムズの論調が典型的だ。死刑判決が言い渡された後の1918年に再調査をうながす報告書が提出された際、ニューヨーク・タイムズは極めて批判的なサクラメント・ビー紙の論説をそのまま掲載した。ここでムーニーは「プロフェッショナルの爆弾犯」で「絞首台にすでにつるされていなければならないはず」と記されている。
労働運動家たち ──この国の者だけでなく、ヨーロッパでさえも── は、トーマス・ルーニーは、権利獲得にむけて戦っている労働者を代表する存在であるがために、無実にもかかわらず死刑を宣告されたのだと信じ込まされている。資本家の共同体は、彼をターゲットとして選び出して、悪名高い労働者の条件に声を上げる者がどんな目に合うか見せているのだと信じこまされている。
New York Times [5]
だが、第一次世界大戦も終わり、メディアの反共的な姿勢もいったん影をひそめると、ニューヨーク・タイムズも、この事件が冤罪であることを強調し始めた。事件から16年経った1932年の記事では、「偽証によって有罪に」と見出しで宣言し、ムーニー事件の歴史的経緯がまとめられた。柔和な微笑をたたえたムーニーの写真が添えられているばかりでなく、彼の無実を信じた母親が昨年亡くなった、という人情噺まで丁寧に挿入されている [6]。
結局、歴代のカリフォルニア州知事は、ムーニーは冤罪の犠牲者だと確信しつつも、労働運動の隆盛に《悩まされ続け》ていた資本家たち、企業オーナーたちの顔色をうかがって無罪放免にできなかった。ムーニーが釈放されたのは、ニューディール政策が浸透し、格差を是正する手段として労働運動が前景化してきたなかで、民主党のカルバート・オルソンが州知事に就任してからのことだった。
この事件も、マチェック事件と同様、世俗的な政治や経済論理の天秤が別の方向に傾いたからこそ冤罪が認められたのであって、科学的(論理的)アプローチが無罪を勝ち取ったわけではなかった。
現実の司法では効力を持たない《写真の威力》を、フィクションのなかだけでは信じていたい。特に「偶然写り込む真実」という、テキストや絵画にはない、写真がもつ特殊な属性が、私たち人間の愚かさを凌駕してほしい ─── そういった願いが、映画『出獄』や『CSI:科学捜査班』シリーズには反映されている。
犯行現場
ヴァルター・ベンヤミンはウジェーヌ・アジェの写真「台所の片隅(メトロポリタン美術館所蔵)」が、犯行現場の写真に譬えられたことをひいて、「(写真家は)撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか」と述べた[7], [8]。防犯カメラやドライブレコーダーが「罪を発見し、誰に罪があるかを示す」装置として氾濫する現代では、ベンヤミンのことばは字義通りの意味を持ちうる。
興味深いのは、ベンヤミンが、写真家は「犯罪行為の写った写真を撮影する」ではなく「そのイメージ(einen Bildern)に罪(die Schuld)を発見する/露わにする(aufzudecken)」と記述していることだ。これは、カメラマンが、そこが犯行現場だからという理由で撮影するという意図を問題にしたのではなく、
写真を撮る行為ではなく、写真を見る行為への焦点のシフトは、ロラン・バルトの写真論にも明確にあらわれている。バルトの言うストゥディウムもプンクトゥムも、撮影者の意図の有無ではなく、見る者の写真との関係によって立ち現れるものである。
私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。
ヴァルター・ベンヤミン
ここにウジェーヌ・アジェの写真と、パリ警視庁のアルフォンス・ベルティヨンの犯行現を写真がある。ほぼ同じ時期の、同じ都市の風景を撮影しているのだから、この写真のあいだの類似性は当然のことなのかもしれない。だが、この二枚の写真が、どのような脈絡を外部ともっているかという点については、写真そのものは何も指示しない。殺人事件の現場として撮影されたものなのか、ただの街角として撮影されたものなのか、はわからない。見る者にゆだねられるのは、パリの町の表面的な形相だけである。だから、写真を見るという行為は、その欠落した何かを追い求める行為 ──そのイメージに罪を発見する行為── になっていく。「偶然写り込んだもの」「写っていないもの」を発見しようとすることが、写真を見る快楽の一部であることは間違いない。
私たちは、写真を見るとき、そこに写っていないものを見ようとしているのかもしれない。あるいは、写っていないものを見てしまうのかもしれない。
映画『出獄』をはじめとする《ズーム゠エンハンス》のファンタジーは、「写るはずのないもの=写っていないもの」を写り込ませて、過去を再構成し、時間を取り戻そうとする試みとも言える。
1957年9月16日、ロサンジェルスのラ・ブレア・アヴェニューのアパートで、一人の女性の死体が発見された。サイレント映画スターだったリア・《ジンジャー》・ミッチェルが絞殺されていた。遺体発見時に、ロサンジェルス・タイムズのカメラマンが撮影した写真がある。
鏡に映る、カメラマンとその強烈なフラッシュ、その横で口をおさえている男。臭いがひどいのだろうか(発見までにほぼ1日が経っている)。しかし、遺体の横にひざまづく巡査部長は、平然とした顔で被害者の首に巻かれたガウンの紐をつまんで見せている。彼の髪は丁寧になでつけられ、ボタンを留めたスーツの中にネクタイはたくしこまれている。胸のポケットには白いハンカチーフが丁寧にたたまれている。そのなかはケースにはいったメガネだろうか。彼の横顔は、まるでハードボイルドの演技をしているかのような、ある種の無関心さに覆われている。ハリウッドで起きる事件の写真は、なぜかハリウッド映画のような、ドラマチックな情景を創り出してしまうようだ。
ロラン・バルトは、プンクトゥムとしての「時間」についての記述の中で、死刑囚ルイス・ペインの写真に潜む「this has been and this will be/cela sera et cela a été」という二重の時制、すでに過去のものとなってしまった未来の死、という驚異について述べている [9], [10]。このハリウッドのアパートの一室の写真に潜んでいるのは、「this has been and this had been/cela a été et cela avait été」という二重の時制である。亡くなってしまった者が生きていた過去、それが、強く焚かれたフラッシュで浮き上がっている。
この一見、殺風景なドレッシング・ルームには、リア・ミッチェルが生きていた時間、1957年9月15日より前の時間が流れていた。テーブル右手に置かれた、球体を二本の足で支えた物体は、Google Image Searchによれば、Globe Clock Companyが1939年のニューヨーク万国博覧会で売り出した「Baseball Clock」だという。このテーブルには左手にも、電源コードがやかましい時計(Google Image SearchによればGeneral Electricの電気置時計Acornに似ている)が置かれている。このテーブルには時計が2台も置かれていたことになる。なぜだろうか。左側のチェストの上にガラス器具、しかもリービッヒ管のようなものが見える。顔のマッサージに使用していた吸引器具なのだろうか。だが、最も目を惹くのは、電源コードがやかましい時計の向こうにある写真立てだ。時計の影に隠れて上の一部しか見えないが、その写真に写っているのは犬、ボストンテリアのように見える。ドレッサーの上に置いてあるということは、ミッチェルがかつて飼っていた犬だろうか。だが、十分な解像度がなく、時計に邪魔されているために、「写っていない」部分は永遠に欠損したままである。
そして、欠損しているがゆえに、私たちはその記憶の謎に魅了され続けるのである。
Notes
1)^ シカゴ警察の腐敗 よく知られるように、1930年代初頭のシカゴはマフィアと犯罪の町だった。ルンディ巡査の殺害事件が起きた1932年12月9日の1週間だけでも6件の殺人が起きていたが、シカゴ市警は、それらの事件の犯人を一人も逮捕できていなかった。翌年5月にはシカゴ万国博覧会が控えており、市の指導者たちは街のイメージを少しでも明るくするために犯罪の検挙率を上げることに躍起になっていた。マチェック事件の目撃者となった ヴェラ・ワルシュという女性は、実は違法酒場(スピークイージー)の経営者で、警察はマチェックを犯人だと証言しないと店を潰すと脅したと言われている。
2)^ 写真の文字の判読 条件さえ整えば、古い写真でも、偶然写り込んだ小さな文字を判読することが可能である。撮影条件が良ければ、フィルムの粒状性が支配的になる。“Honza Hubička’s Blog”では、19世紀の写真湿版(11㎝×13㎝)を5588dpiでスキャンして、その細部を観察している。チェコの都市、ターボルのジシュカ広場を写した写真で、広場に面した建物の壁に貼られた《カレンダー》(ポスター)の文字を解読するという試みをしている。概算では、《カレンダー》の文字の実サイズは0.1㎜位である。このブログの著者Hubičkaは、レンズを含めた実際の能力は40lp/mmと見積もっており、実際に《カレンダー》のなかで最大の文字は確認できている。撮影条件とフィルム、レンズがどのように影響するかは状況によるので一概には言えないが、Honza Hubička’s Blogの推測はおおよそ間違っていないと思われる。
References
[1]^ Murderous Ink, “出獄 (1948),” Random Noir, Oct. 11, 2017. https://www.random-noir.net/call-northside-777-1948/
[2]^ J. J. McPhaul, “Deadlines & Monkeyshines; the Fabled World of Chicago Journalism.” West Port, Connecticut: Greenwood Press, 1973.
[3]^ T. Vitale, “Estimating the Resolution of Historic Film Images: Using the Resolving Power Equation (RPE) and Estimates of Lens Quality.” VideoPreservation Website, 2009. [Online]. Available: https://cool.culturalheritage.org/videopreservation/library/
[4]^ C. Gentry, “Frame-up; the Incredible Case of Tom Mooney and Warren Billings.” New York, Norton, 1967.
[5]^ “‘Downright Lying’ in Mooney Case,” The New York Times, p. 24, Feb. 10, 1918. [Online]. Available: https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1918/02/10/102667191.html
[6]^ “History of Fight to Free Mooney,” The New York Times, p. 4, Nov. 13, 1934. [Online]. Available: https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1934/11/13/93651028.html
[7]^ W. Benjamin, “Kleine Geschichte der Photographie,” textlog.de ❘ Historische Texte & Wörterbücher. https://www.textlog.de/benjamin/essays/literarische/kleine-geschichte-der-photographie
[8]^ ヴァルターベンヤミン, 久保哲司, Trans., “図説写真小史.” 筑摩書房.
[9]^ R. Barthes, “La chambre claire: note sur la photographie.” Gallimard, 1980.
[10]^ ロランバルト, 花輪光, Trans., “明るい部屋―写真についての覚書.” みすず書房.
KINOMACHINAをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。