『ブレードランナー』と『アルノルフィーニ』
「ズーム゠エンハンス」のファンタジーが多くの映像作品に登場する契機となったのは、リドリー・スコット監督の『ブレード・ランナー((Blade Runner, 1982))』だろう。
このシーンの核となる装置、アナログとデジタルのハイブリッドである写真分析装置[❖ note]❖エスパー プロダクション・デザイナーのトム・サウスウェルがデザインした[1]。「Esper」のロゴが装置の下部に見える。は、SF的でありつつも、同時に考古学的でもある。過去の遺物である「写真」を微細に調査し、今まで見えていなかったものを発見する。その考古学的側面をより明るく照らし出すのは、円形の鏡の存在である。この鏡は、レプリカントの部屋を反射して、新しい視点を創り出し、新しい世界を投影する。そして、デッカードはこの鏡の中の世界に私たちを連れていく。かつて、そこにあったものを保存する写真、そしてその写真のなかに保存された鏡が、もうひとつの世界を保存する。かつて、ヤン・ファン・エイク(1395?-1441)が描いたアルノルフィーニ夫妻の部屋の鏡のように ─── あの鏡は、その場にいたもう二人の人物の存在を記録し、窓の外の柔らかく切ない光の世界を保存した。そして、600年近く経った今でも、窓の外の世界に私たちを連れていく。
ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫婦像」は、描かれているアルノルフィーニの婚姻契約証明として描かれたとする説がある。壁に描かれた「ヤン・ファン・エイクここにありき。1434年。」という一文、そして鏡のなかにファン・エイク自身が描かれていることなどが、ファン・エイクの証人としての役割を示唆しているという見方である。
17世紀のフランドルの画家、クララ・ペーテルス(1594-1657?)は、静物画の製作において、「これを描いていた私はここにいた」という証明を、静物の表面の反射として残している。興味深いことに、ペーテルスもファン・エイクも、自分の反射像を十分な《解像度》で描かず、ぼんやりとした形体にしている。
絵画の場合、画家本人が反射像を描くことは、それ自体が存在証明という演出であるばかりでなく、反射に映り込んだ世界の創造でもある。この創造物はあえて不十分な《解像度》で描かれ、欠損に満ちている。
写り込んだカメラマン
カメラマンが撮影の際に反射物を通して写り込むことは頻繁にある。いわゆるセルフィーのように意図的に写っている場合もあれば、たまたま写り込んだものもあるだろう。ここでも、写り込んだ撮影者とそれを取り囲む世界は欠損に満ちている。
ここでは、自らを被写体にしたわけではなく、撮影された写真に撮影者自身の姿が写り込んだケースを、FSAのフォトグラファーたちを中心に見ていきたい。
ドロシア・ラング(1895-1965)には、FSAの活動で撮影した写真の中に、自動車のホイールを写した写真がある。なぜ、この自動車のホイールを写そうと思ったのか、は分からないが、このホイールには、三脚とカメラマンが写り込んでいる。
だがよく見ると、ここには二人写り込んでいるように見える。ドロシア・ラングは、1930年代後半に各地の農業地帯の実態をカメラに収めるために長い期間アメリカ南部から西部まで撮影旅行に出ている。この撮影旅行には夫のポール・テイラーも同行していた[❖ note]❖ラングの同行者 ドロシア・ラングはFSAプロジェクトの撮影旅行にポール・テイラーか、テイラーが多忙な場合には、アシスタントのロンダール・パートリッジを同行していた。。このホイールに写り込んでいるのは、ドロシア・ラングとポール・テイラーだろうと思われる[2]。
ドロシア・ラングとポール・テイラーは、カリフォルニアのサンフランシスコ近くに設営された自助キャンプ施設(Unemployed Exchange Association, UXA)[❖ note]❖自助キャンプ アメリカの大恐慌の初期(1930年代前半)には、失業者やホームレスを助けるために、各地に「自助 self-help」のキャンプが設置された。を訪れて、インタビュー、写真撮影をおこなった[3], [2 pp.48-49]。1934年のことである。ポール・テイラーのレポート(この時はラングの写真は使用されていない)は、カリフォルニア州の「救援委員会」に提出され、このレポートがきっかけとなって、州は困窮者のために救援資金(20万ドル)を投入した。同じテキストで、今度はラングの写真付きのレポートがワシントンの再定住局(Resettlement Administration, RA)に送られて、そこでロン・ストライカーの目にとまった。これがきっかけで二人は、再定住局、のちの農業保障局(Farm Security Administration, FSA)の所属となる[4 pp.53-71]。ラングの撮影現場において、ポール・テイラーが被写体にインタビューすることが様々な意味で重要だったことはラングも語っている。1940年に二人は「The American Exodus」という書籍を刊行する。ラングが撮影した写真と、テイラーの文章、そして被写体となった人々や周辺の関係者の証言が主体の書籍である。
FSAプロジェクトでは、ウォーカー・エヴァンス(1903-1975)の写真でも自分が写り込んだと思われる写真がある。
この写真は、FSAプロジェクトに参加した他のカメラマンの写真と比較してみると、圧倒的な解像度を持っていることがわかる。これは、ウォーカーがFSAプロジェクトに参加したときに入手したDeardorffの8×10インチカメラの性能によるところが大きい。
この写真には、もう二人反射が写っているように見える。おそらくエヴァンスの背後にあった家のポーチの手摺に寄りかかっているようにみえる人物がいる。この人物は成人男性のようだ。もう一人は、写真の右端近く、店のドアガラスの反射、ひょっとすると(この写真には写っていない)店の右手のショーウィンドウの側面のガラス反射が、店のドアガラスにさらに反射したものかもしれない。背格好からして少年のように見えるが、もし、複数のガラスを介した反射ならば、しゃがんだエヴァンス本人のもうひとつの反射像の可能性もある。1935年のエヴァンスの撮影旅行には、ピーター・シーカー(Peter Sekaer)というもう一人のカメラマンも同行しており、ポーチの手摺に寄りかかっている人物は彼の可能性もある。
私が、この「写り込んだ撮影者自身」に焦点をあてるのは、ここには「被写体を選び、切り取る、という業(犯罪)をおこなう人物が写り込んでいる」という、秘匿の、後ろめたいような行為の記録が残されているからだ。そこに同時に写り込んでいる人たちは、共犯者か、目撃者ということになる。自我を最大限主張する、いわゆるセルフ・ポートレート、セルフィーなどと違い、写り込んでしまうことが秘匿性を生む。写り込むと言っても、意識的な場合、写り込むことを忘れているか、気づいていない場合など、写真を撮る自分という自意識の演出に濃淡があるだろう。
特にウォーカー・エヴァンスの場合は、《自意識》と《客観性》のあいだのゆらぎという観点で、興味深い。彼は、FSAのドキュメンタリー・カメラマンの中でも、最も《記録性》《客観性》を重視したカメラマンで、RAの仕事を引き受けるときに「政治は抜きで」と明言していたほどである[5 p.111]。そういった彼の徹底した姿勢が、この家庭雑貨の店のショーウィンドウの写真を生んだと言ってもよいだろう。この写真は、1935年のアメリカの家庭用品の極めて詳細でかつ精確な記録であり、私たちは、まるで生活用品カタログの1ページを見るように、多様な物品の数々を観察することができる。その一方で、《客観性》なるものの意図を考えてしまう。この店をどうして撮影しようと思ったのか。なぜこの構図なのか。ガラスのショーウィンドウを写せば、撮影者である自分が反射像として写り込むことは十分に予想できたはずだが、エヴァンスは、それも含めて《ドキュメント》と考えていたのだろうか?
エヴァンスが写した反射像は、ファン・アイクの反射像の世界のように、はかなく、脆弱である。木立の朧げな輪郭や。ポーチに佇む見知らぬ男の曖昧な表情は、私たち写真を見る者の想像を刺激するだろう。やはり、この世界も永遠に失われた欠損なのである。
ドロシア・ラングはFSAプロジェクトの後、1942年に日系アメリカ人強制収容のドキュメント写真も撮影している。
メディア・アーティストの藤幡正樹は、ドロシア・ラングがこの時撮影したある一枚の写真に感銘を受けて、「BeHere /1942:日系アメリカ人強制収容についての新たな視点」というプロジェクトをたちあげた。
本展覧会では、そうした写真の中でもドロシア・ラングとラッセル・リーによるあまり知られていない写真を慎重にキュレーションし、いくつかを超拡大したり、ビデオ映像として再構成し、存在することすら知られていなかったものを歴史的写真資料の中に浮かび上がらせます。また最先端の拡張現実(AR)技術を使い、来館者に歴史的瞬間を切り取った写真家となり、その場所にいる経験をしていただきます。
JANM 展覧会概要 [6]
この展覧会の焦点は、拡張現実の手法(Augmented Reality, AR)を用いて1942年に起きた日系米国人の強制収容の現場を体験する、というものだ。この構想のきっかけとなったのが、ドロシア・ラングの写真に写された、これから収容所に送られる少女の写真である。藤幡は、その少女の瞳を拡大し、そこに複数の人間が反射して写っていることを確認する。一人はカメラマンのラングだろう。他の者は、ラングの写真撮影を監視し、管理している政府の役人たちではないだろうか、と言う。そこから、人びとが強制収容所に送られる、まさにその場所を再現し、現在の21世紀にARでそれを体験するという構想を得たのだった。
メディア・アートとして、場所に埋め込まれた時間を経験することを、現在の私たちに提供するという試みは、ベンヤミンの「私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないか」という言葉の歴史的実践だと言っていいだろう。我々人間の所業がすべて「罪」であるとするならば(そして日系米国人の隔離と収容は、実に罪深い)、藤幡の試みは、写真家の「撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命」を果たす行為に違いない。だが、この少女の瞳に写っているのは、輪郭のぼやけた像でしかなく、それがラングであることも、ましてや政府の役人であることも、推測に過ぎない。「政府の役人たちだったのではないか」が「だった」に変わってしまう瞬間に、私は慎重にならざるを得ない。そこにアメリカ政府から派遣された人物たちがいたことは事実であるとしても、少女の瞳に写った人影が本当にそうだったのかは、永遠に失われた欠損である。そこに写り込んでいながら、写り損ねたものである。写真という器械の生み出す欠損に、私たちは想像を埋め込んでいく。私はその瞬間に慎重になってしまう。
写り込んだ映画監督
劇映画の世界では、監督自らがカメオ出演するというケースは少なくない。有名なのはアルフレッド・ヒッチコックやクエンティン・タランティーノだが、他にもM・ナイト・シャマラン、ウディ・アレン、マーティン・スコセッシなど数多くの監督が自らの映画作品に出演している。
一般的に言って、劇映画として配給される映画で「意図せず撮影者が映り込んだフィルム」が存在するケースは比較的少ない。それは映画製作が複数のスタッフによる共同作業であることが最大の理由だ。撮影現場でも、編集室でも、数多くのスタッフによって、「カメラの後ろ」にいるべき人たちがフィルム上に(映像データに)残されないように細心の注意が払われている。だが、実際にはカメラマンや撮影クルーが、反射などを通じて写り込んでしまうことがある。撮り直しの労力やコストを考慮して、気づいていてもそのまま残して公開しているケースもあるだろう。
ジュールズ・ダッシン監督の『裸の町(The Naked City, 1948)』は、映画監督自身がフィルムに映り込んでしまった稀有な例である。
第二次世界大戦後のハリウッドで流行したセミ・ドキュメンタリー・スタイルの映画群は、監督や撮影監督、美術監督たちが、ハリウッドの劇映画の規則のなかで達成可能なリアリズムを探索した結果である。今の常識から考えれば無謀で無計画なロケーション撮影によって、当時のアメリカの環境が生々しく《記録》されたという側面もある。もちろん、FSAのフォトグラファーたちに比べれば、《記録》の基盤となる思想や技術を駆使するには、圧倒的に不利な状況だが、それでも残された映像に《借りてきたようなリアリズム》《仮構の記録》以上の生々しさが宿っていることがる。
特に『裸の町』のニューヨークでのロケーション撮影の無謀さは、そのリアリズムの力と表裏一体と言ってよいだろう。
『裸の街』では、その大部分(ユニヴァーサルの広報によれば全編)が、ニューヨーク市内でのロケーション撮影である。市内の100カ所以上で撮影が行なわれたという。当時、ニューヨーク、その近辺で撮影された作品は実はいくつかある(『ジェニーの肖像(Portrait of Jenny, 1948)』、『失われた週末(The Lost Weekend, 1945)』等)のだが、ここまで徹底して街を撮ったハリウッド映画は『裸の町』だけだった。
監督のジュールズ・ダッシンと撮影監督のウィリアム・H・ダニエルズは、1947年5月20日にニューヨーク入りして、ロケハンを始めた。撮影は6月2日から8月19日まで2ヶ月以上にわたって行われ、25万フィートのネガが使用された [7]。
都市部のロケーション撮影において最も問題になるのが、撮影を見ようと集まってくる群衆の問題だ。『裸の町』では撮影そのものに影響が出るほど、群衆の問題に頭を悩まされることになる。特にユダヤ人が多く集まるローワー・イースト・サイドでの撮影は困難を極めた。見物人があまりに多く集まったため、撮影クルーは身動きが取れなくなってしまった。大道芸人を雇って野次馬たちの注意をそらし、離れたところでゲリラ撮影したり、ハーフミラーを使ったトラックで隠し撮りをするなどした [7]。
この隠し撮りのトラックが、通りに面したショーウィンドウに反射して映り込んでいる。
ハーフミラーを使った隠し撮りという、撮影者を見えなくする行為が、かえって可視化されてしまったという、アイロニカルなシーンである。
そして、撮影の最中に、カメラのフレーム内に監督のジュールズ・ダッシン自身が入ってしまったシーンがある。
カメラが右にパンした時に右下に映り込んでいるのがジュールズ・ダッシン監督である。この表情や目線を見ると、ダッシン自身は自分がカメラのフレーム内に入り込んでいることに気づいていないようである。彼はそばにいるスタッフに話しかけているように見える。カメラがパンする前から、このテイクは使えないと思って気を許してしまったような、そんな表情にも見える。なぜ、こんなにも派手に監督が映り込んだテイクが最終的に採用されたのかは分からない。観客は、誰も監督の顔など知らないから、エクストラの一人くらいに見えるだろうという判断で、そのままにしておいたのか。ダッシンによれば、『裸の町』は公開直前になって、プロデューサーのマーク・ヘリンジャーが逝去したために、ユニヴァーサルの経営陣がフィルムをとりあげて勝手に編集したという。そのせいで本来なら不採用のテイクが採用されてしまったのか。
私には、この「映り込んでしまったジュールズ・ダッシン監督」のほうが、ヒッチコックのカメオ出演やタランティーノのモノローグよりもはるかにスリリングに感じられる。『裸の町』じたいが、カメラを直視する野次馬や、フレームを出たり入ったりする通りがかりの人間や、俳優たちと一緒になってはしゃいでいるティーンエイジャーに満ちていて、そういった細部に注意を払って見ていると、「『裸の町』という映画の撮影の様子をとらえたドキュメンタリー」のようにも見えてくるのだ。そうなれば、当然、映画監督自身も出演しなければならないだろう。カメラマンも、編集も、そして監督自身も、制御していない空白の瞬間に、監督自身が映り込む。カメラじたいが、意思や意図から一瞬だけ逃走して、製作者/犯人の証拠を記録する。このショットは、そういったおかしな奇跡に満ちているように思う。
Reference
[1]^ R. Strunk, “Esper,” Speculative Identities, May 27, 2026. https://speculativeidentities.com/research/esper
[2]^ E. Partridge, “Restless Spirit: The Life and Work of Dorothea Lange.” New York : Viking, 1998.
[3]^ “Dorothea Lange – OMCA UXA (Unemployed Exchange Association),” June 20, 2025. https://web.archive.org/web/20250620182200/https://dorothealange.museumca.org/image/uxa-unemployed-exchange-association/A67.137.34052.3/
[4]^ P. Dixon, “Photographers of the Farm Security Administration: An Annotated Bibliography, 1930-1980.” New York : Garland, 1983.
[5]^ B. Rathbone and W. Evans, “Walker Evans: A Biography.” Boston: Houghton Mifflin, 1995.
[6]^ “BeHere / 1942 | Japanese American National Museum,” Japanese American National Museum, 2022. https://www.janm.org/ja/exhibits/behere1942
[7]^ “Uncovering The Naked City,” (2020).
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