見えない左手

伝説の向こう

1936年、再定住局(Resettlement Administration, RA)の歴史/情報部門のロイ・ストライカーはドロシア・ラングとポール・テイラーをニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアの取材旅行に行かせた。その取材旅行の帰途、1936年3月初頭(一説では2月)、ラングはカリフォルニアのニポモにあるキャンプを訪れ、そこで有名な『移住労働者の母(Migrant Mother)』という写真を撮影する[1 pp.1-5]

Destitute pea pickers in California. Mother of seven children. Age thirty-two. Nipomo, California
“ドロシア・ラング、移住労働者の母(Migrant Mother) 1936年”
ラングがこの写真につけたオリジナルのキャプションは「Destitute pea pickers in California. Mother of seven children. Age thirty-two. Nipomo, California」である。米国国会図書館蔵、(LC-USF34- 009058-C

私たちのコレクションの中で最も衝撃的な写真です。見る者の心を突く、アメリカの象徴アイコンです。

米国国会図書館ディレクター

彼女は人類すべての苦しみをあらわしつつ、一方ですべての忍耐をもあらわしている。

Roy Stryker

3人の子を抱えて激しい肉体労働によってわずかの生活の資を得てキャンプ生活をつづけているこの婦人は、この時代の暗さの象徴といってよいが、現実の苦痛をいつのまにかどこかへ忘れさったような静けさが孤愁の深さになって見る者の心に感動を呼び起こすのである。

「海外の写真家100人」[2 pp.62-63]

この写真は、今ではFSAプロジェクトを代表する作品の一つとして、よく知られている。被写体のひとり、母親の女性(フローレンス・オーウェン・トンプソン)のその後も話題になった。

ラングのほかの多くの作品と違い、この写真は撮影直後から有名になった。トンプソンのこのショットがサンフランシスコ・ニュース紙に掲載されたその日に、米連邦政府は、2万ポンド(約9トン)の食糧をトンプソンと彼女の子どもたちが住んでいたカリフォルニアの出稼ぎ労働者キャンプに送ると発表した。

The New York Times Style Magazine: Japan [3]

この写真のもつパワーのおかげで、政府が動かされ、写真の母親のような苦しみを背負う多くの人が救われた。そういう伝説がある。当時の新聞やラングの回想から出来事を追ってみよう。

カリフォルニア州サン・ルイス・オブピソ郡では、豆の収穫時期になると毎年メキシコ人の労働者が集まり、ニポモの土地でキャンプしていた。しかし、1935~36年のシーズンは、ダストボウルと農業の機械化によって、南部からカリフォルニアに追われてきた農業従事者が豆収穫の労働者募集の広告をみてニポモに集まってきていた。ところが、雨が降り続いて豆の畑は壊滅的な打撃を受け、同時にそれをあてにしていた労働者たちも仕事をなくしてしまった。このキャンプの人々、およそ2,500人は、行く当てもなくこのニポモに留まっていた。

この状況について、サン・ルイス・オブピソ郡は「見て見ぬふり」をしていた。「あのキャンプでは、かつて暴力沙汰があったから」という理由で、救援物資を送らずに無視していたのだという。およそ2,500人の大半は子供たちで、食べるものがなく、移動してきた車のタイヤを売ったり、テントを売ったりして生きのびていたものの、飢餓はもうそこまで来ていた。

ドロシア・ラングは、南部への撮影旅行からカリフォルニア州バークレーの自宅に向かう途中、このキャンプに《よそ者》として、偶然通りがかり、そこにいたフローレンス・オーウェン・トンプソンとその子供たちの写真を撮影した。撮影後、ニポモの惨状を連邦政府は知らないと思ったラングは、このキャンプの存在をワシントンD.C.の再定住局に知らせた。ワシントンから物資管理局(Federal Surplus Commodities Corporation)のカリフォルニア州事務所に連絡が入り、調査の末、物資を送ることになったのである。

この経緯が1936年3月9日のサンフランシスコ・ニュース紙では報道されていた[4]

みすぼらしい、ぼろを身にまとった、飢えに苦しむ人々の居留地は、再定住局の写真家によって偶然発見され、そこから物資管理局の州担当であるW・B・ジェンキンスに報告が届けられた。

San Francisco News, March 9, 1936

次の日の同紙は、ドロシア・ラングの写真とともに“Ragged, Hungry, Broke, Harvest Workers Live in Squallor”というタイトルで、ニポモの移住労働者たちの状況を伝えている[5]。この記事が、ドロシア・ラングのニポモでの写真が《公表》された最初である。しかし、使われているのは、有名な『移動労働者の母親』の写真ではなく、別の写真2枚である。

ドロシア・ラングは、フローレンス・オーウェン・トンプソンと子供たちの写真を全部で6枚撮影している[❖ note]“Migrant Mother” カリフォルニア・オークランド美術館には、この6枚とは別にもう一枚の写真が保管されている(A67.137.96897)。。実際の撮影の順序はラングの撮影記録が残っていないため不明だが、構図の変化からロングショットからポートレートへと順に撮影されていったと推測されている。サンフランシスコ・ニュース紙に掲載されたのは、このうち2番目と5番目に撮影されたと推測されている2枚である。有名な『移動労働者の母』の写真は最後に撮影されたと考えられている。

San Francisco News 1936.03.10
サンフランシスコ・ニュース紙、1936年3月10日
ドロシア・ラングの写真が2枚掲載されているが、有名な『移住労働者の母』の写真ではない。

サンフランシスコ・ニュース紙はさらに次の日、3月11日にもう一度、ニポモの現状を伝える社説を掲載する[6]。この時に初めて、有名な『移動労働者の母』の写真が公表された。

The San Francisco News, March 11, 1936
サンフランシスコ・ニュース紙、1936年3月11日
ラングの有名な『移住労働者の母』の写真が使用された記事。

社説はカリフォルニア州の政策を批判するものだった。

この素晴らしい写真は、カリフォルニアという土地が、古くから抱える最も深刻な問題の人間的側面の縮図である。すなわち、農作物の収穫にあわせて谷から谷へ移動し、みすぼらしい仮住まいで暮らしながら、この土地の農業を支える労働力となる、20万人の男、女、子供たちの苦しい境遇の問題である。

(….)

恥ずべきことに、カリフォルニアはこの問題に取り組まないばかりでなく、この人々がもう少し安全でもう少し良い暮らしができるようにしようという建設的な取り組みを、最も裕福で最も責任ある地位ある市民を利用して、妨害しようとしているのである。

San Francisco News, March 11, 1936

ニポモのキャンプに20,000ポンドの食料を送ったのは、連邦政府だった。ルーズヴェルト政権下でニューディール政策を推し進めていた連邦政府に対して、各州の自治体はむしろ反動的な姿勢を示していたのが分かる。これは、州住民の《部外者》、そして《困窮者》への差別的感情が根本にある。

カリフォルニアには仕事はない

仕事をさがしているのなら、来るな

求人1つに6人が争っている

州外の人間を、州の金で救済はしない

カリフォルニアのハイウェイに立てられた看板 [7 p.8]

カリフォルニアの住民のなかには、流入してくる人々を「オーキー」「ヒルビリー」と呼んでバカにし、犯罪者扱いする者もいた。ロサンジェルス警察は、州境にパトロールを立てて、州に入ってくる人間を追い返した。あるいは、なけなしの金を彼らから巻き上げていた。

行き場を失った人々のキャンプを、ドロシア・ラングが《発見》したのも、ラングが連邦政府の再定住局の仕事をしていたからであり、この数か月南部の農業が壊滅的な打撃をうけているのを目にしたからである。近隣の住民たちは目を背けていたに過ぎない。きっと、ラングの写真をみて不快に思った人たちも少なからずいただろう。

だが、『移住労働者の母』を見て、強い感銘を受けた人たちも、本当は、そこに何を見ていたのだろうか。

苦しみの表現

ラングは、ニポモの一連の写真についての詳細な記録を残していなかった。彼女自身も、写真の母親についてはほとんど何も知らないことを認めており、「彼女には名前も経歴も聞かなかった」「近くの畑の凍った野菜と子供たちの捕まえてくる鳥で飢えをしのいでいると言っていた」「食べ物を買うためにタイヤを売ったと言っていた」と撮影の経験を回想していた[8]

当然、この写真を見た者たちは、自分の見たいものをそこに見るようになった。『移住労働者の母親』の女性は「南部のダストボウルから逃れてカリフォルニアに流れついてニポモのキャンプで子供たちと飢えに苦しんでいる、北欧系移民の一人」と思われてきた[9]

『移住労働者の母』の「母親」の名前と素性が明らかになったのは1970年代になってからである。

「母親」のフローレンス・オーウェン・トンプソンは、チェロキー族の出身で、このときカリフォルニアにはすでに1年以上住んでいた。確かに貧しい農業労働従事者だったが、ニポモのキャンプにいたわけではない。この日偶然ニポモのキャンプの前で車が故障し、その修理のためにキャンプに立ち寄っただけである。彼らは、このあとパハロ・ヴァレーのレタス畑に仕事を探しに行った。もちろん、タイヤを売るなどありえない話だった。

トンプソンとその家族は、この写真に決して良い感情を抱いてはいなかったという[10]。名前も出身も聞かれずに写真を撮られたこと、写真によって得られた収益[❖ note]写真の収益 『移動労働者の母』はRA/FSAの政府事業の一環として行われた写真制作のため、当初からパブリック・ドメインの著作物だった。だが、実際にはラングの写真のプリントは売買されていた。が1セントもトンプソンには送られてこなかったこと、そしてラングの話がおおかたでっち上げか、思い違いだったこと、など、誰が経験しても決して気持ちの良いものではない経験だった。

特に、人種の問題は根深い。ニューヨーク近代美術館(MoMA)のサラ・マイスターはこう述べる。

この国は、人種に関して偏見がなかったとは言えません。彼女がチェロキー族の出身だとみんな知っていたら、この写真に対する反応は同じだったでしょうか。そうだと言えるとよいのですが、そんなことはなかったと思います。

Sarah Meister [9]

実は、この写真は日本語で『移民の母』と呼ばれることが多い。原題「Migrant Mother」の直訳だが、国境を超えることを含意する「移民」という言葉をここにあてるのは流石に適切ではないように思う。おそらく原題は、南部からカリフォルニアに「移住(Migrate)した」人々という意味の向こうに、もともとはヨーロッパからの移民(Migrant)という遠景を重ねたのではないかと思われる。だが、その英語原題も、トンプソンがネイティブ・アメリカンだとわかっている現在において、適切なのだろうか。

サンフランシスコ・ニュース紙が最初に掲載した2枚の写真も米国国会図書館に所蔵されている。

Migrant agricultural worker's family. Seven children without food. Mother aged thirty-two. Father is a native Californian. Nipomo, California
Migrant agricultural worker's family. Seven children without food. Mother aged thirty-two. Father is a native Californian. Nipomo, California
“ドロシア・ラング、ニポモの農業従事者家族、1936年”
サンフランシスコ・ニュース紙に掲載されていた写真のオリジナル。新聞ではクロップされていることが分かるだろう。(上)米国国会図書館蔵(LC-USF34- 009095-C)(下)米国国会図書館蔵(LC-USF34- 009098

サンフランシスコ・ニュース紙がこれらの写真を掲載したとき、どちらの写真も切り抜き(クロップ)をおこなっていた。特に記事で左側に掲載された写真は、写り込んだランプを取り除き、貧しい親子の前景に何も載っていない皿、遠景に何もない荒涼とした大地を配置する構図になっている。極めて明確に「貧しく食べるものがない母と幼子が荒野に放り出されている」というヴィジュアル・ストーリーテリングがおこなわれている。

トンプソンの娘の一人、ノーマ・リドルゥスキは「大恐慌は確かに私達家族にとって厳しい時代でしたが、苦しみばかりだったわけではありません」と語っている。

ママもパパも、私たち子どもを映画によく連れて行ってくれました。町にカーニヴァルが来ると必ず連れて行ってくれました。そういうことがたくさんありました。ラジオもよく聞きました。ちょっとでもお金があるときには、 私たち子どもにアイスクリームを買ってくれました。シャフターに住んでいた時には、友達や親戚も家に遊びに来ましたよ。楽しいこともあったのです。

Norma Rydlewski [10]

もし、トンプソン一家をとらえた写真が、そういった「楽しいこと」をとらえたものも含んでいたら、「20世紀アメリカの象徴アイコン」と呼ばれていただろうか。

消されたもの

現在、一般に知られている『移住労働者の母』(一番上に掲載したもの)は、いわゆる「レタッチ」がほどこされている。現代風に言うなら「フォトショップされ」ている。右下に写っていた、柱を握る親指(母親の左手の親指)が消されているのだ。米国図書館に所蔵されている、「レタッチ」前のバージョン(おそらく1936年3月11日の新聞に掲載されたのと同じもの)を下に掲載しておく。

Destitute pea pickers in California. Mother of seven children. Age thirty-two. Nipomo, California BEFORE RETOUCH
“ドロシア・ラング、移住労働者の母(Migrant Mother) 1936年”
親指が消されていないプリント。米国国会図書館蔵

この「親指が消されていないバージョン」が、サンフランシスコ・ニュース紙には掲載されていた。サラ・マイスターによれば、1939年に、ラングがアシスタントに命じて親指を消したのだという[9]。当時、ラングはまだFSAの雇用下にあり、FSAのロン・ストライカーは、この親指の消去に対して「真正性を損なう」という理由で反対していた。

この親指を消去したからと言って、この写真のもつパワーは変わらない ─── そういう意見もあるだろう。この写り込んだ親指なんて、この写真のテーマとなんら関係ないし、むしろ目障りなんだから、消したからといって何の問題もない。「ただのミスだ。[11 p.43]」ラング自身もそう考えたから、消去を命じたに違いない。

だが、本当にそうなのだろうか。

写真は編集によって、ストーリーが強化されてしまう、という側面がある。

上に挙げた2枚の写真が新聞に掲載された際には「切り抜き(クロップ)」によってストーリーテリングが行われていた。『移動労働者の母親』の場合は、なぜ切り抜きではなく、消去だったのだろうか。親指と一緒に前景のぼやけた柱そのものをクロップで取り除けばいいのかもしれないが、そうすると子供、特に赤ん坊が切れてしまう。ラングにとって、赤ん坊が写っていることが極めて重要だったのだ。

ラングが「親指を消すこと」で、どこまで意図的に《写真の感動》を操作しようとしたかは分からない。だが、結果的には・・・・・、親指の消去によって見る者の認知が変わることは間違いない。

きっと多くの人は、母親の右手が、不安にかられて頬にそえられている一方で、左手は赤ん坊をしっかりと抱いていることを期待するだろう。だが、今、この写真では左手は支柱を握っている。親指を消せば、母親の左手は「どこにあるかわからない」。そして見る者の大部分は、「母親は赤子を左手で抱いている」と見る・・だろう。大事なのは、見る者が「考える前に見る・・・・・・・」ことだ。左手は写っていないが赤子を抱いていると見える・・・ ─── 「思う」「考える」「仮定する」のはるか前、思考の紐に引っかかる前に、見えていないのに「そこに左手があって赤子を優しく抱いている」と脳のなかを通り過ぎていく[❖ note]構図 『移動労働者の母』はレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』と対比されることが多いが、構図の観点からすれば、ボッカチオやラファエロの聖母子像に近いのではないだろうか。。ラングがそれを意図したかどうかはわからないが、結果的にはそうなった。

もし、親指が残っていたら、見る者は「この親指はいったい誰のだろう」と必ず思考し始める。そして見る者の思考は、この写真から受ける衝撃を圧倒的に鈍化させる。「親指を消去したからと言って、この写真のもつパワーは変わらない」という者は、写真をいったん言語化した後の話をしている。親指を消すと、言語化される前の写真のもつパワーは大きく変わったのだ。

確かに、『移住労働者の母』の写真は、多くの人に恐慌期の失業者たちの存在を知らしめ、記憶として残っていった。

だが、見る者は、そこに写っていないものを見ていたのかもしれない。南部から逃れてきてキャンプで飢えていると思われていた親子は、(確かに貧しかったが)パハロ・ヴァレーのレタス畑に仕事を探しに行く途中にクルマの故障でキャンプに立ち寄っていただけだった。「タイヤを売って飢えをしのいでいた」と書かれたこの家族は「タイヤなんか売るわけがない、仕事に行けないじゃないか」と言う。多くの人が「もとは北欧移民」だと思っていた女性は、チェロキー族の人だった。「将来への不安」をあらわすかのように頬に添えられた右手は「ラングに指示されたポーズ[❖ note]ラングの被写体のポーズ ドロシア・ラングはもともとポートレート写真のスタジオを経営していた。そのためか、人物を撮影するときには、ポーズをとるように指示していたようである。ドキュメント性が要求されたRA/FSAのプロジェクトにおいても、多くの写真で、被写体にポーズをとるように指示したと言われている。」で、それがゆえに体のバランスが悪くなって「左手で支柱を握った」のかもしれない[11 p.42]。後になって、ラングは支柱を握った親指を消すはめになってしまったのかもしれない。

見る者は、彼女に見たいものを見てしまう。

Roy Stryker

Pea picker's home. The condition of these people warrant resettlement camps for migrant agricultural workers. Nipomo, California
“ドロシア・ラング、豆収穫労働者の家 1936年”
米国国会図書館の記録では、この写真は1936年2月にカリフォルニア州ニポモで撮影されたことになっている。ラングが、南部での撮影旅行から戻ってきたときにニポモのキャンプを通りかかって『移住労働者の母』を撮影したのが3月初めとされている点から考えるとつじつまが合わない。この写真に写っている女性は、トンプソンではなく、またテントも違う。写っている車のナンバープレートは1935年のオクラホマ州のものであり、右後ろのタイヤがない。ラングがトンプソンたちについて語った「車のタイヤを売って飢えをしのいでいる」という描写に合致する。ラングは、『移住労働者の母』を撮影した時に、この写真も撮影していたということはないだろうか。そして、この写真の女性とトンプソンを混同しているということはないだろうか。米国国会図書館蔵(LC-USF34- 001811-C)[この写真を拡大したいときはここ

Reference

[1]^ E. Partridge, “Restless Spirit: The Life and Work of Dorothea Lange.” New York : Viking, 1998.

[2]^ 田中雅夫 and 川上四郎, “海外の写真家100人.” ダヴィッド社, 1975.

[3]^ A. Gregory, H. Haru, Trans., “20世紀アメリカの“真実”を写した 報道写真家ドロシア・ラングの生涯,” T JAPAN : The New York Times Style Magazine 公式サイト, Mar. 17, 2020. https://www.tjapan.jp/art/17348666

[4]^ “2500 Rescued From Hunger by SRA Action,” The San Francisco News, San Francisco, California, p. 1, Mar. 9, 1936.

[5]^ “Ragged, Hungry, Broke, Harvest Workers Live in Squallor,” The San Francisco News, San Francisco, California, p. 3, Mar. 10, 1939.

[6]^ “What Does the ‘New Deal’ Mean To This Mother and Her Children?,” The San Francisco News, San Francisco, California, p. 3, Mar. 11, 1936.

[7]^ M. L. Cooper, “Dust to Eat: Drought and Depression in the 1930’s.” New York : Clarion Books, 2004.

[8]^ D. Lange, “The Assignment I’ll Never Forget: Migrant Mother,” Popular Photography, p. 42, Feb.1960.

[9]^ J. Estrin, “Unraveling the Mysteries of Dorothea Lange’s ‘Migrant Mother’,” The New York Times, Nov. 28, 2018. [Online]. Available: https://www.nytimes.com/2018/11/28/lens/dorothea-lange-migrant-mother.html

[10]^ G. Dunn, “Photographic License,” New Times, June 02, 2002. https://web.archive.org/web/20020602103656/https://www.newtimes-slo.com/archives/cov_stories_2002/cov_01172002.html

[11]^ D. Nardo, “Migrant Mother: How a Photograph Defined the Great Depression.” Mankato, MN : Compass Point Books, 2011.


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