第1回目は「殺人者」。
いろんな時代の映画を見ていると、ふと感じることがある。こんな古い映画、誰が見るんだ。もちろん、私はその見ている人の一人だが、それにしても、40年も、60年も、80年も前の映画を見ていて、今の時代につながる何かがあるのか、と思うことがある。
実は、あると思っているのだが、それが上手く伝えられない。
フィルム・ノワールという映画のジャンル/スタイルについて、いろいろと観てきた身としては、やはり多くの映画好きにこういう映画を知ってもらいたいという気持ちはある。だが、いかんせん白黒映画というだけで、観る人が限られてしまう。「何が面白いのか」というのも、一言では説明できないし、ましてや「今の時代に関係あるのか」という話になると、もっと難しい。
どういうふうに紹介するのがよいのか。その試行錯誤の一環として、《フィルム・ノワール》として有名な映画が、リメイクやオマージュや改変を通して、現代にどう繋がっているかを紹介してみたいと思う。
いわゆる「ベスト10」みたいなリストを作っても、白黒映画であることには変わりないし、あまり知らない人には入り口が狭すぎる。もう少し入り口を変えてみようと思ったのだ。
だから、このリストは「名作」とか「ベスト」「必見」といった類のものではないが、興味の入り口はもう少し広げられるのではないかと思っている。
今回は「殺人者」をとりあげたい。
アーネスト・ヘミングウェイの短編「殺し屋(The Killers)」を原作とする最初の映像作品がロバート・シオドマク監督の『殺人者(The Killers, 1946)』だった。《フィルム・ノワール》というと、この映画のオープニングが目に浮かぶ。その後もこの短編小説を下敷きにした映像作品が数多く製作されている。
ヘミングウェイ原作「殺し屋」
短編小説「殺し屋」は、夕方の食堂で起きるわずか数十分の出来事が描かれている。ダイナーを訪れた二人組の男が、実はその町に住むある男を殺しに来た殺し屋だったという話だ。殺し屋たちは、アンダーソンという男を殺しに来たという。アンダーソンはここに毎晩夕食を食べにくる。二人組はこのダイナーで待ち伏せをするつもりだった。しかし、マスターが「今日はもう遅いから彼は来ない」というと、殺し屋たちは、夜の闇の中に消えていく[❖ note]❖実際に起きた事件 この短編小説は、イリノイ州で実際に起きた事件にインスパイアされたと言われているが、実際の事件は殺し屋による一方的な殺害ではなく、酒場での撃ち合いだった。1927年3月31日、キケロの酒場でボクサーのアンドレ・アンダーソンが銃殺された。その後の調査で、アンダーソンが八百長試合に同意せず、対戦相手を第1ラウンドでKOしたことが原因だったと判明した。。
ヘンリーの簡易食堂のドアが開いて、男がふたり、入ってきた。カウンターの前に腰をおろした。
「何にしますか」ジョージがたずねた。
「わからねえや」ひとりが言った。「おい、アル、何を食うかい」
「知らねえよ」とアル。「何を食うかなんて、知らねえよ」
アーネスト・ヘミングウェイ「殺し屋」
佐伯彰一訳
The door of Henry’s lunch-room opened and two men came in. They sat down at the counter.
“What’s yours?” George asked them.
“I don’t know,” one of the men said. “What do you want to eat, Al?”
“I don’t know,” said Al. “I don’t know what I want to eat.”
Earnest Hemingway ”The Killers”
冒頭、殺し屋たちが食堂のマスターに絡んで因縁をつけ始めるところで、読者の偏桃体がすでに信号を放ち始める。この二人は何かヘンだ。そう思う間もなく、殺し屋たちが正体を現して、その恐怖が一気にエスカレートしていく。最後、殺し屋たちの所業も、アンダーソンの結末も、はっきりとは書かれていない。なぜ殺し屋が、この眠たげな、小さな町にまで来て、その男を殺す必要があったのか。アンダーソンは何者なのか。すべては読者の想像力にかかっている。
ヘミングウェイが、この短編と他に二編をわずか一日で書き上げた、という逸話が残っている。「殺し屋」は「スクリヴナーズ・マガジン」の1927年3月号に掲載され、10月には短編集「男だけの世界(Men Without Women)」の中の一篇として出版された。
殺し屋が放つ言葉の破壊力の精確無比な表現と、想像力の跳躍板を思いっきり曲げ溜めて終わる結末が、この短編の最大の魅力であり、多くのファンを生んだのも、うなずける。だが、映像化するには物足りない。必然的にここからストーリーを膨らませていく必要がある。第二次世界大戦直後に製作された『殺人者』は、ヘミングウェイの短編を冒頭に配し、その後は「なぜアンダーソンは殺されなければならなかったのか」をめぐる複雑に入り組んだ物語となる。
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アーネスト・ヘミングウェイ「殺し屋」挿絵
初出のScrivner’s Magazine 1927年3月号より
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日本語翻訳には、新潮社版(翻訳:高見浩)、岩波文庫版(翻訳:谷口陸男)、集英社版(翻訳:佐伯彰一)などがある。
英語原作は、すでにパブリック・ドメインになっており、Wikisource、Gutenberg、Internet Archiveなどで読むことができる。
殺人者(1946)
原題:The Killers
監督:ロバート・シオドマク、脚本:アンソニー・ヴェイラー、ジョン・ヒューストン、リチャード・ブルックス、出演:バート・ランカスター、エヴァ・ガードナー、エドモンド・オブライエン
1946年、ユニヴァーサル・インターナショナル製作・配給(米)
白黒、1時間17分
ドイツから亡命してきたロバート・シオドマク監督による映像化。
冒頭の10分ほどは、ヘミングウェイの原作をほぼ忠実に映像化している。だが、その後の映画の大半は、ジョン・ヒューストン、リチャード・ブルックス、アンソニー・ヴェイラーによるオリジナルの脚本だ。殺されたアンダーソンの過去を探って、保険会社の調査員が殺人の真相を追究していく。アンダーソンを知っていた人々、ひとりひとりの過去へのフラッシュバックが積み重ねられ、謎の全貌が少しずつ姿を現してくる。複数の人物のフラッシュバックによる構成は、オーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン(Citizen Kane, 1941)』の影響が強く見られる。見どころは、やはりオープニングのダイナーのシーン、そして強盗のシーンだろう。殺し屋を演じたウィリアム・コンラッドとチャールズ・マクグローの声と視線を経験してしまうと、ヘミングウェイの原作を読み返すたびに、二人の演技が脳内で再生されてしまう。ヘミングウェイ本人もこの映画化が最も優れていると評価していた。
この映画の詳細については、ランダム・ノワールの記事も参考にしていただきたい。
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『殺人者(The Killers, 1946)』
ヘミングウェイの原作を忠実に再現した冒頭と複数のフラッシュバックからなる物語。
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この映画の日本語字幕バージョンはU-Next、Amazon Primeなどで観ることができる。しかし、これらの国内の配信サービスやディスクの映像は、はっきり言ってかなり悪い。海外の配信サービス、ディスクと比較すると、歴然とした映像品質の差が分かる。1960年代以前のハリウッド映画についていえば、日本国内で流通している日本語字幕版の映像の質の悪さのせいで、初めて挑戦してみようという人は簡単に興味を失ってしまうのではないかと危惧している。白黒映像の凄みもこの映画の重要な一部である以上、画質の良い映像で鑑賞してほしいというのが本音だ。海外盤は入手可能なので、DVDBeaverなどで、画質の傾向やリージョンなどを確認していただけるとよいかもしれない。
殺し屋(1956)
原題:Убийцы
監督:マレイカ・ベイク、アレクサンドル・ゴルドン、アンドレイ・タルコフスキー、脚本:アレクサンドル・ゴルドン、アンドレイ・タルコフスキー、出演:ユーリー・ファイト、アレクサンドル・ゴルドン、ヴァレンチン・ヴィノグラードフ、ヴァジーム・ノヴィコフ
1956年、全ロシア映画大学(ソ連)
白黒、19分
ソ連映画史を代表する映画監督、アンドレイ・タルコフスキーが全ロシア映画大学(VGIK)在籍中に同級生たちと制作した短編映画。脚本は、ヘミングウェイの原作に比較的忠実にそっている。タルコフスキー自身も客の一人として出演している。
もちろん、学生映画ということもあり、製作費はないにも等しく、俳優もプロフェッショナルではないので、独立した一つの作品として観るのは厳しいかもしれない。しかし、沈黙を巧みに利用した編集や、奥の深い構図などは、ヘミングウェイを題材にした習作として、このリストにある他の作品と比較するのもよいだろう。
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『殺し屋(Убийцы, 1956)』
映画学校時代のアンドレイ・タルコフスキーが監督と脚本で参加した短編映画
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私が知るかぎり、この短編映画の日本語字幕版は、ディスクでも配信でも存在しないように思う。動画サイトやInternet Archiveで、英語字幕版を見ることは可能だ。
殺人者たち(1964)
原題:The Killers
監督:ドン・シーゲル、脚本:ジーン・L・クーン、出演:リー・マービン、アンジー・ディキンソン・ジョン・カサヴェテス、ロナルド・レーガン
1964年、ユニヴァーサル・ピクチャーズ配給(米)
カラー、1時間33分
これは、ヘミングウェイの短編を原作にした映画というよりは、1946年版のロバート・シオドマク監督作品のリメイクとして見た方が良いだろう。だが、重要な要素はかなり変えられている。冒頭の殺人は、盲学校に舞台が移され、その後の殺人の真相解明も殺し屋たちが自ら行うという設定になっている。いかにもドン・シーゲルらしい、リズムの心地よい編集と、俯瞰や望遠を多用した撮影が、アクションシーンのパワーを増幅している。カーレースのシーンが、バックプロジェクション(スクリーン・プロセス)になってしまうのは、この時代のいわば約束事なので、今の観客は違和感を感じてしまうかもしれない。あまり魅力のない悪者を演じているロナルド・レーガンは、この15年後にアメリカ大統領になった。
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『殺人者たち(The Killers, 1964)』
ドン・シーゲルによる1946年版のリメイク。© Universal Pictures
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日本語字幕版はFODで配信している(2026年2月)。ブルーレイはキングレコードから発売されていたが、在庫切れ。
ダイナーの殺し屋たち(2021)
ルパン三世 PART6 第4話
演出:そえたかずひろ、脚本:押井守、絵コンテ: 長沼範裕、作画監督:敷島博英、美術監督:松宮由美
2021年、 トムス・エンタテインメント、ルパン三世PART6製作委員会 (日)
カラー、22分
押井守は、大のヘミングウェイ好き、しかもこの「殺し屋」を愛読していることで知られる。押井が脚本を担当した『ルパン三世 PART6(2021)』の第4話「ダイナーの殺し屋たち」は、ヘミングウェイの原作短編を下敷きにしつつ、まったく違う次元の想像力を注入した物語になっている。二人の殺し屋のセリフのなかでヘミングウェイ作品の題名が数多く引用され、また「殺し屋」が執筆されたいきさつなども盛り込まれている。平山夢明の「ダイナー」などにもインスパイアされたのだろうか。後半は、やはり「なぜアンドレ・アンダーソンは命を狙われているのか」という部分に焦点が当たる。
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『ダイナーの殺し屋たち(2021)』
『ルパン三世 PART6(2021)』第4話 ©モンキー・パンチ/TMS・NTV
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『ルパン三世 PART6』は複数の動画配信プラットフォームで配信されている。
他の映像化
上記以外にも、「殺し屋」は映像化が試みられてきた。
1959年に米TVネットワークのCBSの番組「ビュイック゠エレクトラ・プレイハウス」でドラマ化されている。監督はジョン・フランケンハイマー。やはり90分のドラマ番組として、物語を膨らませたようだが、現在フィルム/ビデオが現存するか不明。
イタリアではアルベルト・デ・マルチーノ監督が映画化した『Gli Insaziabili (1969)』という作品がある。物語はかなり脚色されているらしい。ジャッロと呼ばれているが、まだ確認できていない。
ノート
どの映像化が優れているかというのは、観る人によって意見が分かれるだろうし、感じ方も違うだろう。ここでは二つの点について考えてみたい。
ひとつは、ヘミングウェイの原作がどのように映像に反映されているかという点である。
ドン・シーゲルの1964年版以外、どのバージョンもヘミングウェイの原作のセリフを反映させた作りになっている。もちろん、アメリカ英語の色彩を最も忠実に写し取ったのは1946年版である。ウィリアム・コンラッドとチャールズ・マクグローの声の質、ピッチ、イントネーション、発音、そういったものが見事にアメリカ的な、ハリウッド的な、ドラマを作り上げている。アメリカのヴァーナキュラーをヘミングウェイの言葉を通じてフィルムに残したこのシーンは圧倒的な存在感をいまだに持っていると思う。
タルコフスキーらが製作した短編は、どうだろう。ロシア語が本来的にもつ音質やピッチ、イントネーションが、そして、この出演者たちの演技が、どこまでヘミングウェイの描いたアメリカの片田舎のダイナーの空気と呼応しているのだろうか。ロシア語の専門家にうかがいたいところだ。だが、そもそも、呼応している必要があるのだろうか。むしろ、この作品の存在そのもの、ヘミングウェイの短編小説を比較的忠実に映像化するという姿勢そのものに焦点をあてるべきなのかもしれない。当時のソ連で支配的だった社会主義リアリズムへのアンチテーゼと見るべきか、それともアメリカかぶれの若者の反抗と見るべきか── その両方が混合したものなのだろうか。また、この短編映画に、──あくまで複数の共同監督による作品である── その後のタルコフスキーの物語の萌芽をどこまで見つけるべきなのだろうか。
押井守の脚本は、まったく違った視点が必要だ。彼は、ヘミングウェイの原作翻訳の言葉を、忠実になぞりながらも、異形に変容した物語を創り出した。ヘミングウェイの原作を様々な文脈から解放し、解体し、最終的には意味まで漂白する、押井の大胆な(あるいは傍若無人な)試みとみるべきなのだろうか。あるいは、日本語に翻訳された言葉自体が、すでに文脈を喪失していたとみるべきなのだろうか。
ドン・シーゲルは、実は1946年版の監督の候補だったという。それを考えたとき、1964年版がヘミングウェイの原作をほぼ完全に放棄しつつ、1946年版のプロット構造をほぼそのまま利用しているというのは、ハリウッドの価値観のありかを示唆しているようで興味深い。
もう一点、私が面白いと思うのは、アンダーソンの命の「価値」の描かれ方の違いである。
非常にわかりやすいのは、押井守の『ダイナーの殺し屋たち』で、アンダーソンは「非常に価値のあるもの」と関わっているから狙われている。依頼人が、殺し屋たちに高い報酬を払ってでもアンダーソンを殺したい、それほどアンダーソンの命には「価値」がある。
1964年版の『殺人者たち』になると、その価値はアンダーソンその人ではなく、殺しの依頼人にある。殺し屋たちは「あんなどうでもいい男をあんな高い報酬で殺すなんて、なんか裏があるに違いない」と思って、謎を追究していく。確かにアンダーソンの命には「金銭的な価値」はないが、謎を追う者たちは、別のところにある「金」を嗅ぎつけていく。
こういった意味で、1946年版の『殺人者』が最も異質である。アンダーソン殺害の謎を追究するのが保険調査員だからだ。保険調査員の役割は、アンダーソンの生命保険金を支払わないで済むように調査することである。つまり、アンダーソンの命の値段をなんとかして値切ろうとしているのだ。そして、殺人自体の安っぽささえも話題になる[❖ note]❖two-for-a-nickel-shooting アンダーソンの殺人を凡庸さを表現するのに使われている比喩表現。「2人殺して5セントの殺人」。アンダーソンは偽名を使っていた犯罪者なので、保険金は支払われないだろう。保険会社の上司の「来年の掛け金がこれで0.1セント下がるね」というセリフが、映画の幕引きのパンチラインである。どれだけ、命の値段を安くしようとしているのか。
この1946年版の『殺人者』は、第二次世界大戦直後に製作、公開されている。当時、アメリカでは数多くの帰還兵が社会復帰しようとしていた。彼らの多くは、つい最近までヨーロッパや太平洋で、自分や戦友の命はまったく価値のないものだということをいやというほど思い知らされてきた人たちだ。ところが帰ってくると、職もないのに「家族を作って生命保険に入ろう」という広告ばかりが目に入る。戦後のフィルム・ノワールに潜む異様さは、《当時の世相を反映していた》といった茫洋とした概念より、戦争を経験した者たちのシニカルな死生観に直結していると考えてもよいのではないか。
ふと、思い出すのが成瀬巳喜男だ。彼の映画では、「人間の価値」「人の命」「人間の生活」が「金銭」にすり替わる瞬間が頻繁に描かれる。現存する最も古い成瀬作品『腰弁頑張れ(1931)』は、生命保険を売って歩く保険会社のサラリーマンを描いた哀しいコメディだった。
誰の目にもとまらない、世界の片隅の汚れた部屋で生きている人間でも、実は世界を揺るがすような価値を持っているかもしれない、という話。一方で、生きる目的も失った人間は、殺された後も、その命の値段を値切られるという話。同じ短編小説が原作でも、想像力の向かう方向には違いがある。
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アーネスト・ヘミングウェイ「殺し屋」
初出のScrivner’s Magazine 1927年3月号より
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